信心正因称名報恩

2020年7月14日 (火)

念仏往生の願成就文と信心正因称名報恩

法然上人が18願のことを「念仏往生の願」と初めて仰ったことを親鸞聖人もそのまま受け継がれて「念仏往生の願」と頻繁に使われていることは前回述べた通りです。信心正因称名報恩を強調された覚如上人も「念仏往生の願」と使われています。

『改邪鈔』には

かの心行を獲得せんこと、念仏往生の願成就の「信心歓喜乃至一念」と等の文をもつて依憑とす。このほかいまだきかず。

これは親鸞会でも有名です。親鸞会では18願成就文の「信心歓喜乃至一念」が18願よりも重要である、つまり阿弥陀仏の救いは念仏ではなく信心一つである根拠として使っています。

この18願成就文のことを覚如上人は「念仏往生の願成就」と敢えて仰っているところに注目すべきです。
法然上人は18願成就文の「乃至一念」を念仏と解釈されていました。なぜなら「念仏往生の願成就文」だからです。
ところが親鸞聖人は『教行信証』ではこの「乃至一念」を信心と解釈されています。
こうなると、親鸞聖人は法然上人の解釈を否定されたのかと疑問が起きますが、そうではありません。
『教行信証』をまとめたとされる『浄土文類聚鈔』と、『三経往生文類』では、行の説明の中で18願成就文を根拠として挙げられています。
つまり、親鸞聖人は「乃至一念」を念仏と信心の両義あるとみられていたと言えます。理屈の上でも当たり前のことで、念仏往生の願の成就文に念仏の義が無かったらおかしなことになります。したがって、親鸞聖人は法然上人の「乃至一念」の解釈に信心の義を追加されたのであって、否定されたのではないことになります。

ここまでくればお判りかと思いますが、覚如上人もそのことを踏まえられていますので、「念仏往生の願成就」という表現をされたのだと思われます。信心を強調されたいのであれば、親鸞聖人が18願の別名で仰った「至心信楽の願」を採用されて、

かの心行を獲得せんこと、至心信楽の願成就の「信心歓喜乃至一念」と等の文をもつて依憑とす。

の方が信心で統一されてより判りやすくなるでしょうが、そうされていない意図を考える必要があります。

『口伝鈔』の「体失・不体失の往生の事」にある法然上人のお言葉

善恵房の体失して往生するよしのぶるは、諸行往生の機なればなり。善信房の体失せずして往生するよし申さるるは、念仏往生の機なればなり。「如来教法元無二」なれども、「正為衆生機不同」なれば、わが根機にまかせて領解する条、宿善の厚薄によるなり。念仏往生は仏の本願なり、諸行往生は本願にあらず。念仏往生には臨終の善悪を沙汰せず、至心信楽の帰命の一心、他力より定まるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ、この穢体亡失せずといへども、業事成弁すれば体失せずして往生すといはるるか。本願の文あきらかなり、かれをみるべし。

には、18願を「念仏往生」と度々仰っています。法然上人のお言葉だから当然だ、ではなく、法然上人のお言葉を正統として覚如上人が著わされたのですから、覚如上人のお言葉でもあります。「念仏往生」と「至心信楽」とが並列になっていますので、念仏と信心とが対立する関係ではなく、逆に深い関係であることが判ります。
覚如上人には「念仏の信心」という直接的な言葉はありませんが、参考までに存覚上人の『浄土真要鈔』には、

それ一向専修の念仏は、決定往生の肝心なり。これすなはち『大経』のなかに弥陀如来の四十八願を説くなかに、第十八の願に念仏の信心をすすめて諸行を説かず、「乃至十念の行者かならず往生を得べし」と説けるゆゑなり。

と「念仏の信心」が出てきます。

結局のところ、覚如上人においてでも信心とは「念仏の信心」つまり「念仏を称えて往生すると深信したこと」であるのです。

信心正因称名報恩という言葉から、信心と念仏とは対立する関係のように思われがちですが、信心正因の信心が「念仏の信心」ですから、正確には
《念仏の》信心正因《信後の》称名報恩
なのです。

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