親鸞聖人の仰る実機とは2
前回紹介した『教行信証』化土巻に引かれた源信僧都の『往生要集』のお言葉
ここに知んぬ、雑修のものは執心不牢の人とす。ゆゑに懈慢国に生ず。もし雑修せずして、もつぱらこの業を行ぜば、これすなはち執心牢固にして、さだめて極楽国に生ぜん。{乃至}また報の浄土に生ずるものはきはめて少なし。化の浄土のなかに生ずるものは少なからず。
この直後に、親鸞聖人は19願に対するご自身の解釈を仰っています。
しかれば、それ楞厳の和尚の解義を案ずるに、念仏証拠門のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。
(現代語訳)
以上のようなことから、源信和尚の解釈をうかがうと、『往生要集』の念仏証拠門の中に、第十八願について、四十八願の中の特別な願であるとあらわされている。また『観無量寿経』に説かれる定善・散善を修めるものについて、きわめて罪が重い悪人はただ念仏すべきであるとお勧めになっているのである。五濁の世のものは、出家のものも在家のものも、よく自分の能力を考えよということである。よく知るがよい。
化土に往生する人は「定散の諸機」ですが、「定散の諸機」と「極重悪人」が並べてあるということは、「極重悪人」以外に化土往生の「定散の諸機」がいることを親鸞聖人が御自身のお言葉で示されている根拠です。
全人類が
1つの善もできない極重の悪人
という発想は親鸞聖人には全くなかったのです。
実は「『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。」は、『往生要集』にあるお言葉を使って、親鸞聖人独自の文に変えられたものです。元は行巻にもあります、
『観経』には「極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得」
です。
見比べてみますと、元は「極重の悪人」だけであったところに、親鸞聖人は「定散の諸機」を加えられ、元有った「他の方便なし」を親鸞聖人は削られています。これは『観無量寿経』を読んでみれば判りますが、「定散の諸機」には諸善という方便が勧められていますが、「極重の悪人」を含む悪人には諸善の勧めは全くなく、「ただ弥陀を称せよ」というお勧めしかありません。
したがいまして、「定散の諸機」を加えたら「他の方便」ありですが、「定散の諸機」なしの「極重の悪人」だけなら「他の方便なし」になります。
何が言いたいかというと、親鸞聖人の
『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。
のお言葉は、「定散の諸機」も「極重悪人」という実機だという意味ではなく、「定散の諸機」も「極重悪人」同様に、「ただ弥陀を称せよ」が『観無量寿経』の結論なんだという親鸞聖人の断言なのです。
今回のエントリーをまとめると、
親鸞聖人は
1.「極重の悪人」以外に「定散の諸機」という人がいることを当然のことと認められていた。
2.「極重の悪人」には諸善は勧められていない、つまり諸善は不要と解釈されていた。
3.極楽に生まれるために全人類に勧められているのは、「ただ弥陀を称せよ」と結論付けられていた。
何のことはなく、高森顕徹会長の言っていることの正反対なことを親鸞聖人は教えられた方だということです。
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