人間の実相

2019年9月28日 (土)

親鸞聖人の仰る実機とは2

前回紹介した『教行信証』化土巻に引かれた源信僧都の『往生要集』のお言葉

ここに知んぬ、雑修のものは執心不牢の人とす。ゆゑに懈慢国に生ず。もし雑修せずして、もつぱらこの業を行ぜば、これすなはち執心牢固にして、さだめて極楽国に生ぜん。{乃至}また報の浄土に生ずるものはきはめて少なし。化の浄土のなかに生ずるものは少なからず。

この直後に、親鸞聖人は19願に対するご自身の解釈を仰っています。

しかれば、それ楞厳の和尚の解義を案ずるに、念仏証拠門のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

(現代語訳)

以上のようなことから、源信和尚の解釈をうかがうと、『往生要集』の念仏証拠門の中に、第十八願について、四十八願の中の特別な願であるとあらわされている。また『観無量寿経』に説かれる定善・散善を修めるものについて、きわめて罪が重い悪人はただ念仏すべきであるとお勧めになっているのである。五濁の世のものは、出家のものも在家のものも、よく自分の能力を考えよということである。よく知るがよい。

化土に往生する人は「定散の諸機」ですが、「定散の諸機」と「極重悪人」が並べてあるということは、「極重悪人」以外に化土往生の「定散の諸機」がいることを親鸞聖人が御自身のお言葉で示されている根拠です。
全人類が
1つの善もできない極重の悪人
という発想は親鸞聖人には全くなかったのです。

実は「『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。」は、『往生要集』にあるお言葉を使って、親鸞聖人独自の文に変えられたものです。元は行巻にもあります、

『観経』には「極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得」

です。
見比べてみますと、元は「極重の悪人」だけであったところに、親鸞聖人は「定散の諸機」を加えられ、元有った「他の方便なし」を親鸞聖人は削られています。これは『観無量寿経』を読んでみれば判りますが、「定散の諸機」には諸善という方便が勧められていますが、「極重の悪人」を含む悪人には諸善の勧めは全くなく、「ただ弥陀を称せよ」というお勧めしかありません。

したがいまして、「定散の諸機」を加えたら「他の方便」ありですが、「定散の諸機」なしの「極重の悪人」だけなら「他の方便なし」になります。

何が言いたいかというと、親鸞聖人の

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。

のお言葉は、「定散の諸機」も「極重悪人」という実機だという意味ではなく、「定散の諸機」も「極重悪人」同様に、「ただ弥陀を称せよ」が『観無量寿経』の結論なんだという親鸞聖人の断言なのです。

今回のエントリーをまとめると、

親鸞聖人は
1.「極重の悪人」以外に「定散の諸機」という人がいることを当然のことと認められていた。
2.「極重の悪人」には諸善は勧められていない、つまり諸善は不要と解釈されていた。
3.極楽に生まれるために全人類に勧められているのは、「ただ弥陀を称せよ」と結論付けられていた。

何のことはなく、高森顕徹会長の言っていることの正反対なことを親鸞聖人は教えられた方だということです。

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2019年9月19日 (木)

親鸞聖人の仰る実機とは1

ご要望がありましたので、親鸞聖人の教えを、親鸞聖人のお言葉を通して明らかにしていきますが、比較のために高森顕徹会長のヘンテコ教義も取り上げます。

全人類の実機は、

1つの善もできない極悪人

という考えは、大沼法竜師や華光会でも言われて、そのパクリの高森会長も言っていますが、親鸞聖人はそのように仰った箇所はありません。

信心の内容を顕わすのに、真宗ではよく二種深信を使いますが、その機の深信で見てみます。

善導大師は『散善義』に

一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。

とありまして、親鸞会でもよく知られた御文ですが、善導大師は『往生礼讃』でも機の深信について表現を変えられて、

自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。

と仰っています。
親鸞聖人は上記の2つ共、『教行信証』に引かれていますので、親鸞聖人も同じ領解であったということになります。
この2つは、同じ内容を仰っていなければ、信心に矛盾があることになりますので、比較してみますと、

罪悪生死の凡夫」=「煩悩を具足せる凡夫
曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して」=「善根薄少にして三界に流転して
出離の縁あることなし」=「火宅を出でず

となります。
このように比較するとより判りやすくなると思いますが、

1つの善もできない極悪人

という意味合いは全くありません。出離できるだけの善ができない、という意味であって善ができないのではありません。出離に対しての善が薄く少ないのですから、無善ではありません。

これを裏付けるのが、『散善義』の善導大師の告白です。

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。 他はことごとく身命を惜しまず。 道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。 しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。 煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

(現代語訳)

わが身は、 無始よりこのかた、 他のものと同時に、 発願し、 悪を断ち、 菩薩の道を行じたのに、 他のものはことごとく身命を惜しまず、 修行して位を進め、 因が円満し、 果が成就して、 聖者の位を証した。その数は、 大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、 われら凡夫は過去より今日に至るまで、 いたずらに流転して、 煩悩の悪障が次第にますます多くなり、 福徳智慧のきわめて少ないことは、 重昏をもって明鏡に望むがようである。 今このことを考えると、 どうして心驚き悲しまずにおられようか。

出離した法友がたくさんある中で、善導大師も同じように修行されたが出離には至らなかった、つまり落ちこぼれであった、ということですが、善導大師は善はできたのです。

親鸞聖人のお言葉でそのことを証明するなら、『教行信証』化土巻の要門釈に源信僧都の『往生要集』を引かれて

ここに知んぬ、雑修のものは執心不牢の人とす。ゆゑに懈慢国に生ず。もし雑修せずして、もつぱらこの業を行ぜば、これすなはち執心牢固にして、さだめて極楽国に生ぜん。{乃至}また報の浄土に生ずるものはきはめて少なし。化の浄土のなかに生ずるものは少なからず。

と仰っています。19願の善を修すると「懈慢国に生ず」とあるように化土往生ですが、化土往生する19願の善のできた人は「化の浄土のなかに生ずるものは少なからず」です。善のできる人は少なくないのです。
これを『高僧和讃』源信讃では、

報の浄土の往生は
 おほからずとぞあらはせる
 化土にうまるる衆生をば
 すくなからずとをしへたり

と親鸞聖人はご自身のお言葉で言い換えられています。

以上の親鸞聖人のお言葉から導き出される全人類の実機とは、

出離できるだけの善ができない凡夫

と言えそうですが、揚げ足を取りたいだけのおめでたい会員のために丁寧に言うなら、出離された菩薩方を親鸞聖人は認められていますので、そいういう特別な方を除いて、と但し書きを加えておきましょう。

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2019年3月10日 (日)

本日も「オカシナ話」をし続ける高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話も、人間の実相でした。『仏説譬喩経』とは異なる「オカシナ話」を、釈尊の創られた譬えとしているところが、厚顔無恥の至極と言ったところでしょうか。

さて、(『仏説譬喩経』にはない)「底なしの海」を地獄に譬えられた、と説明していましたが、カルト教団定番の地獄脅しが復活したようです。釈尊が、すべての人の死後は皆地獄だ、と説かれたことなどあり得ないのですが、カルトではそう言い切ります。恐怖で信者を繋ぎとめ、服従させるためです。親鸞会でも、長らくこの手法を用いてきましたが、一時封印した時期もあります。しかし、カルトは正体を隠してもカルトなのです。

一応言っておきますが、釈尊も、七高僧方も、親鸞聖人も、覚如上人も、蓮如上人も、すべての人の死後が地獄だなどというカルト教義を伝えられたことはありません。限定的な人に対して、地獄に堕ちる、という言い方はされていますが、一般の人が地獄に堕ちるという説明も理屈もありません。それを裏付ける最も顕著な根拠は、『教行信証』信巻に長々と引かれている『涅槃経』にある阿闍世に対する釈尊の御説法です。「阿闍世は地獄に堕ちない」、と釈尊が連呼されていることは、『教行信証』を一度でも読んだことがあれば知っているでしょう。

つまり、地獄と脅しているカルト教団の親玉は、『教行信証』を一度も読んだことがないのです。

ところで、今回は高森会長に少し進歩がありました。
『浄土和讃』の

若不生者のちかひゆゑ
 信楽まことにときいたり
 一念慶喜するひとは
 往生かならずさだまりぬ

を用いた説明で定番であった

若不生者と誓っておられるから、まことに信楽に生まれるときがあるのだ

というようなことを言いませんでした。こちらは封印したのかもしれません。
こちらも念のため説明しておきますと、

この和讃の前と併せて

十方諸有の衆生は
 阿弥陀至徳の御名をきき
 真実信心いたりなば
 おほきに所聞を慶喜せん

若不生者のちかひゆゑ
 信楽まことにときいたり
 一念慶喜するひとは
 往生かならずさだまりぬ

18願文を言い換えられたものです。正確に言えば、18願文を曇鸞大師が『讃阿弥陀仏偈』で言い換えられたものを、親鸞聖人が更に言い換えられたものです。

『讃阿弥陀仏偈』

あらゆるもの、阿弥陀の徳号を聞きて、信心歓喜して聞くところを慶び、
すなはち一念に曁ぶまで心を至すもの、回向して生ぜんと願ずればみな生ずることを得。
ただ五逆と謗正法とを除く。

したがいまして、この和讃の意味は

若不生者の誓いであるから、信楽がまことにとき至って一念慶喜する人は、往生が必ず定まるのだ

ということで、
信心を獲た人は往生が必ず定まるのだ
ということです。

ここから思い出すのは、『尊号真像銘文』の

「若不生者不取正覚」といふは、(略)このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。

です。
若不生者」の「」は、「浄土に生まれる」としか親鸞聖人は仰っていないことを高森会長も判っているのです。

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2019年2月17日 (日)

トルストイよりも仏教を知らない高森顕徹会長

本日は、高森顕徹会長が久しぶりに座談会で話をしました。座談会の質問は

蓮如上人が映画『なぜ生きる』の中で「オカシナ話」と言われているのは、どんな話でしょうか

というオカシナ質問で、それに対するオカシナ回答をしただけの、とてつもなく中途半端な内容でした。

高森会長のシナリオによる「オカシナ話」とは、

100%死ななければならないのにどう生きるかしか考えていない、死んだらどうなるかを考えていない

ことだそうです。一日かけてその話をして終わりです。「オカシナ話」だから阿弥陀仏の本願を求めましょう、ということすら言わないのです。自分が書いたシナリオを単に解説するだけの、どーでもよい話を聞いて、それで会員が満足したとしたら思考は完全停止しているのでしょう。

午後からは「オカシナ話」をまともに見せかけるために高森会長創作の「人間の実相」の話をしたのですが、この「人間の実相」の話が「オカシナ話」です。

御存知の方も多いでしょうが、一応、説明しておきます。
この元は『仏説譬喩経』の内容だとして今まで話をしてきたのですが、それは大嘘です。実際に見てみると

佛説譬喩經
大唐三藏法師義淨譯
如是我聞。一時薄伽梵。在室羅伐城逝多
林給孤獨園。爾時世尊於大衆中。告勝光王
曰。大王。我今爲王略説譬喩。諸有生死味
著過患。王今諦聽。善思念之。乃往過去。於
無量劫。時有一人。遊於曠野爲惡象所逐。怖
走無依。見一空井。傍有樹根。即尋根下。潜
身井中。有黒白二鼠。互齧樹根。於井四邊
有四毒蛇。欲螫其人。下有毒龍。心畏龍蛇
恐樹根斷。樹根蜂蜜。五滴墮口。樹搖蜂散。
下螫斯人。野火復來。燒然此樹。王曰。是人
云何。受無量苦。貪彼少味。爾時世尊告言。
大王。曠野者喩於無明長夜曠遠。言彼人者。
喩於異生。象喩無常。井喩生死。險岸樹根
喩命。黒白二鼠以喩晝夜。齧樹根者。喩念
念滅。其四毒蛇。喩於四大。蜜喩五欲。蜂喩
邪思。火喩老病。毒龍喩死。是故大王。當知
生老病死。甚可怖畏。常應思念。勿被五欲
之所呑迫。爾時世尊重説頌曰
    曠野無明路 人走喩凡夫
    大象比無常 井喩生死岸
    樹根喩於命 二鼠晝夜同
    齧根念念衰 四蛇同四大
    蜜滴喩五欲 蜂螫比邪思
    火同於老病 毒龍方死苦
    智者觀斯事 象可厭生津
    五欲心無著 方名解脱人
    鎭處無明海 常爲死王驅
    寧知戀聲色 不樂離凡夫
爾時勝光大王聞佛爲説生死過患。得未曾
有。深生厭離。合掌恭敬。一心瞻仰。白佛言。
世尊。如來大慈。爲説如是微妙法義。我今
頂戴。佛言。善哉善哉。大王。當如説行。勿
爲放逸。時勝光王及諸大衆。皆悉歡喜。信
受奉行
佛説譬喩經

漢文ですので、判りにくいかもしれませんが、明確に違うところがたくさんあります。参考までに『浄土真宗本願寺派総合研究所』にある「甘い蜜(黒白二鼠の譬え)」を転載しておきます。

昔、一人の旅人が広い野を歩いていると、後ろから悪ゾウが追いかけてきました。
周りを見まわしても、身を隠すところがありません。
木の根が垂れている、から井戸があるのを見つけました。
その木の根をつたってから井戸の中に身を潜めました。
ほっとするのも束の間、目の前に黒と白の二匹の鼠が出てきて、かわりがわりに木の根をかじっています。
下を見れば古井戸の底で、一匹の大きな毒龍が口をこちらに向けており、四匹の毒ヘビが井戸の四辺にいて、男の落ちてくるのを待ち受けているではないですか。このままでは確実に細い根はちぎれて、龍や蛇に食べられてしまいます。
男は恐怖に身を震わせていました。
木の根にはミツバチの巣がありました。その巣から甘い蜜が五滴、口のなかに堕ちてきました。そのなんとも言えない蜜の甘さに心が奪われ、もっと甘い蜜をなめたいと思って、いまにも切れそうな木の根をゆさゆさと揺すっています。その上さらに、野火がこの木を焼こうとしています。

ここに出てくる広い野とは私たちの永い迷いを喩えています。
ゾウとは無常、井戸は人生、木の根はいのちを喩えています。
黒白の二匹の鼠は昼と夜を喩え、私のいのちが徐々に終わりに近づいていることを示しています。
井戸の周りの四匹の蛇は地・水・火・風の四大を、五滴の蜜は色・声・香・味・所触の五欲を喩えています。
蜂はよこしまな思いを喩え、火は老病を喩えています。
そして龍は死を喩えています。
私たちは、このように知って、世間の楽に心奪われることなく、人生の無常に思いをいたして、苦悩の解決を求めていかなければならないのです。

経典に忠実なのは、高森会長でしょうか本願寺派でしょうか。
言うまでもないことです。

もう一つ参考までにトルストイ著『わが懺悔』(米川正夫訳)

 古い東方の寓話にも、曠野の中で怒り狂う猛獣に襲われた旅人のことが語られている。猛獣をのがれようと思って、旅人は水のない古井戸へ飛び込んだ。ところが、見るとその井戸の底には一疋の龍が、たゞ一呑みと大きな口をあけて待っている。そこでこの不幸な旅人は、怒り狂える猛獣のために命を落としたくなかったが、外へ匍い出ることもできないし、それかといって、龍に食われたくもないので、井戸の底へ飛びこむこともできず、せんかたなく、中途の隙間に生えている野生の灌木の枝につかまって、宙に身を支えていた。そのうちに手が次第に弱ってきた。で、彼は間もなく、前後に自分を待っている死の手に身を委ねなければならぬと感じたが、それでも、宙にぶらさがっていた。そこへ、黒と白と二疋の鼠が現われて、彼のぶらさがっている灌木の幹の周囲を、ちょろちょろと同じ速度で廻りながら、じりじりと噛み耗らすのに気がついた。もう今にも灌木はぶつりと切れてたおれかゝり、彼は龍の口へ落ちてしまうにちがいない。旅人はそれを見て、我が滅亡の避け難いのを知った。しかも、彼はそこにぶらさがっている間、自分の周囲を物色して、灌木の葉に蜜の雫がついているのを発見すると、そこまで舌をのばして、嘗め味わうのであった。

仏教を知らずに、伝聞で知ったトルストイの方が経典の内容に近いです。

高森会長の仏教の知識は、トルストイ以下だということが明白になりました。

思考停止の会員で反論があるなら、いつでもどうぞ。ただし、仏教の経典の根拠で示してくださいね。高森教の経典を出されても困りますよ。

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