2017年11月30日 (木)

願成就文の「聞」についても当然知らない高森顕徹会長

高森顕徹会長は本願寺批判を繰り返しながら、必死になって、正しい信心を獲て理解している類希なる希少価値の極めて高い善知識を演じていますが、マインドコントロールのよく効いている会員以外からは、冷ややかな目で見られています。高森会長の演技も嘘も、全く通用しないからです。

さて、高森会長が最近拘って多用している18願成就文の「」ですが、そのことについて親鸞聖人は以下のように解説なされています。

『教行信証』信巻

しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。

『一念多念証文』

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。

」とは信心を指しているのであり、言い換えると「」とは信じることです。
もちろんここでの信じるは、深信であり、前回紹介した『末灯鈔』の

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

のことです。
要するに、「」を勧めることを、「信心を頂きなさい」=「信じなさい」と表現するのです。それを否定するのは、他力の信心が判っていないからです。

また『教行信証』行巻と信巻の二か所に引かれている法の深信

いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。

も同じです。「」で信心を表現されています。

更には存覚上人は18願成就文について更に詳しく解説なされています。『浄土真要鈔』に

しかのみならず、おなじき第十八の願成就の文にいはく、「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」といへり。この文のこころは、「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜し、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す」となり。こころは、「一切の衆生、無礙光如来の名をきき得て、生死出離の強縁ひとへに念仏往生の一道にあるべしと、よろこびおもふこころの一念おこるとき往生は定まるなり。これすなはち弥陀如来、因位のむかし、至心に回向したまへりしゆゑなり」となり。

とあります。どう「聞」するかについて「無礙光如来の名をきき得て、生死出離の強縁ひとへに念仏往生の一道にあるべしと」だと説明されています。『末灯鈔』の御言葉と同じ事です。

つまり、

=他力の信心
=阿弥陀仏の本願を信じること
=「弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じ」ること
=「いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし
=「無礙光如来の名をきき得て、生死出離の強縁ひとへに念仏往生の一道にあるべしと」信じること

です。

」とは、類希なる希少価値の極めて高いワシにか理解できない特別な意味があるのだ、と思わせたいのでしょうが、完全に失敗です。

高森会長が説法しなくなる日まで、或いは亡くなる日まで無理して親鸞会に残ることはないと思います。思考力の残っている会員は直ちに退会しましょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)