「まことにこのたび往生をとげんとおもはんひとは、かならず一向専修の念仏を行ずべき」です。「念仏のちからをあやぶむ」人は残念です。
存覚上人は『持名鈔』という書も著わされていますが、内容は題名の通りで、執持名号、つまり念仏を称えることを勧められた書です。少し紹介すると
ここに念仏往生の一門は末代相応の要法、決定往生の正因なり。この門にとりて、また専修・雑修の二門あり。専修といふは、ただ弥陀一仏の悲願に帰し、ひとすぢに称名念仏の一行をつとめて他事をまじへざるなり。雑修といふは、おなじく念仏を申せども、かねて他の仏・菩薩をも念じ、また余の一切の行業をもくはふるなり。このふたつのなかには、専修をもつて決定往生の業とす。
とありますが、念仏一行を専ら修する「専修」が「決定往生の業」だと仰っています。「雑修」は念仏に加えて諸善を修することです。親鸞会では念仏を疎かにして、諸善を修することばかり言っていますので、「雑修」ではなく「雑行」そのものでしょう。
ここで、「専修」の説明が「ただ弥陀一仏の悲願に帰し、ひとすぢに称名念仏の一行をつとめて他事をまじへざるなり」となっているところから、
信心を獲た後の報謝の念仏一行のこと
と勘違いする人も出て来そうですので、そのような意味でないことは、この後を見ると判ります。
おほよそ「一向専念無量寿仏」といへるは、『大経』の誠説なり。諸行をまじふべからずとみえたり。「一向専称弥陀仏名」(散善義)と判ずるは、和尚(善導)の解釈なり。念仏をつとむべしときこえたり。このゆゑに源空聖人このむねををしへ、親鸞聖人そのおもむきをすすめたまふ。 一流の宗義さらにわたくしなし。まことにこのたび往生をとげんとおもはんひとは、かならず一向専修の念仏を行ずべきなり。
最後の文の「まことにこのたび往生をとげんとおもはんひと」がどうすべきかについて、「かならず一向専修の念仏を行ずべきなり」ですので、信前の人に対して往生したいと願うのならば、念仏一行を行じなさいと言われているのです。これは存覚上人の勝手な解釈ではなく、釈尊も善導大師も、法然上人も親鸞聖人も「念仏をつとむべし」という「そのおもむきをすすめたまふ」なのです。信前の人に対して念仏を称えることだけを勧められている、ということです。
真宗の教えとはこれ以外にはないのです。
この次に念仏と信心との関係に言及されています。
しかるにうるはしく一向専修になるひとはきはめてまれなり。「難きがなかに難し」といへるは、『経』(大経)の文なれば、まことにことわりなるべし。 そのゆゑを案ずるに、いづれの行にても、もとよりつとめきたれる行をすてがたくおもひ、日ごろ功をいれつる仏・菩薩をさしおきがたくおもふなり。 これすなはち、念仏を行ずれば諸善はそのなかにあることをしらず、弥陀に帰すれば諸仏の御こころにかなふといふことを信ぜずして、如来の功徳を疑ひ、念仏のちからをあやぶむがゆゑなり。
信心を獲た人というのは、「うるはしく一向専修になるひと」のことです。ところが「うるはしく一向専修になるひと」が「きはめてまれ」なのです。それを「難きがなかに難し」とされて、その理由の結論が最後の文で、「念仏を行ずれば諸善はそのなかにあることをしらず、弥陀に帰すれば諸仏の御こころにかなふといふことを信ぜずして、如来の功徳を疑ひ、念仏のちからをあやぶむがゆゑなり」なのです。諸善に心が掛かっているのは、「如来の功徳を疑ひ、念仏のちからをあやぶむ」からです。疑情、自力のこころとは、まさに「念仏のちからをあやぶむ」ことです。念仏は信後の報謝に限るのであれば、「念仏のちからをあやぶむ」という言い方をされることはあり得ません。
信心とは、「念仏のちから」を信じていることなのですが、それが判らない人が多いので、「難きがなかに難し」なのです。
なお、「難きがなかに難し」についての説明を親鸞聖人は『教行信証』信巻でされています。
律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』(大経)に〈易往而無人〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」と。
(現代語訳)
律宗の用欽がいっている。
「阿弥陀仏の教えを信じることが難しいと説くのは、まことにこの教えは、凡夫を転じて仏とすることが、ちょど手のひらを返すようだからである。きわめてたやすいから、かえって浅はかな衆生は多くの疑いを生じる。そこで『無量寿経』には、<浄土は往生しやすいにもかかわらず、往生する人がまれである>と説かれている。このようなわけで信じることが難しいと知られる」
「この法」とは、念仏を称えて往生するという教えです。念仏を称えるという手のひらを反すように極めて容易い行で往生できると聞くと、そんな容易い行で往生できるかという疑いが浅はかな衆生には生じるから「難信」なのです。
一応、国語の問題ですが、信心を信じることが難しいのではありません。念仏を信じることが難しいのです。信心を信じる信心では日本語にならないのです。念仏を信じる信心です。
この当たり前のことが判らないと、親鸞会のように、
念仏で助かるのではない、信心一つで助かるのだ!
と判っているのかいないのか判らない説明になってしまうのです。
くどいようですが信心とは「念仏の信心」です。別の言い方をすれば、「念仏のちから」を信じることです。
本気で往生したい人は「かならず一向専修の念仏を行ずべき」で、それを疑いなく信じてください。
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