疑情

2020年5月 6日 (水)

「まことにこのたび往生をとげんとおもはんひとは、かならず一向専修の念仏を行ずべき」です。「念仏のちからをあやぶむ」人は残念です。

存覚上人は『持名鈔』という書も著わされていますが、内容は題名の通りで、執持名号、つまり念仏を称えることを勧められた書です。少し紹介すると

ここに念仏往生の一門は末代相応の要法、決定往生の正因なり。この門にとりて、また専修・雑修の二門あり。専修といふは、ただ弥陀一仏の悲願に帰し、ひとすぢに称名念仏の一行をつとめて他事をまじへざるなり。雑修といふは、おなじく念仏を申せども、かねて他の仏・菩薩をも念じ、また余の一切の行業をもくはふるなり。このふたつのなかには、専修をもつて決定往生の業とす。

とありますが、念仏一行を専ら修する「専修」が「決定往生の業」だと仰っています。「雑修」は念仏に加えて諸善を修することです。親鸞会では念仏を疎かにして、諸善を修することばかり言っていますので、「雑修」ではなく「雑行」そのものでしょう。

ここで、「専修」の説明が「ただ弥陀一仏の悲願に帰し、ひとすぢに称名念仏の一行をつとめて他事をまじへざるなり」となっているところから、
信心を獲た後の報謝の念仏一行のこと
と勘違いする人も出て来そうですので、そのような意味でないことは、この後を見ると判ります。

おほよそ「一向専念無量寿仏」といへるは、『大経』の誠説なり。諸行をまじふべからずとみえたり。「一向専称弥陀仏名」(散善義)と判ずるは、和尚(善導)の解釈なり。念仏をつとむべしときこえたり。このゆゑに源空聖人このむねををしへ、親鸞聖人そのおもむきをすすめたまふ。 一流の宗義さらにわたくしなし。まことにこのたび往生をとげんとおもはんひとは、かならず一向専修の念仏を行ずべきなり。

最後の文の「まことにこのたび往生をとげんとおもはんひと」がどうすべきかについて、「かならず一向専修の念仏を行ずべきなり」ですので、信前の人に対して往生したいと願うのならば、念仏一行を行じなさいと言われているのです。これは存覚上人の勝手な解釈ではなく、釈尊も善導大師も、法然上人も親鸞聖人も「念仏をつとむべし」という「そのおもむきをすすめたまふ」なのです。信前の人に対して念仏を称えることだけを勧められている、ということです。

真宗の教えとはこれ以外にはないのです。
この次に念仏と信心との関係に言及されています。

しかるにうるはしく一向専修になるひとはきはめてまれなり。「難きがなかに難し」といへるは、『経』(大経)の文なれば、まことにことわりなるべし。 そのゆゑを案ずるに、いづれの行にても、もとよりつとめきたれる行をすてがたくおもひ、日ごろ功をいれつる仏・菩薩をさしおきがたくおもふなり。 これすなはち、念仏を行ずれば諸善はそのなかにあることをしらず、弥陀に帰すれば諸仏の御こころにかなふといふことを信ぜずして、如来の功徳を疑ひ、念仏のちからをあやぶむがゆゑなり。

信心を獲た人というのは、「うるはしく一向専修になるひと」のことです。ところが「うるはしく一向専修になるひと」が「きはめてまれ」なのです。それを「難きがなかに難し」とされて、その理由の結論が最後の文で、「念仏を行ずれば諸善はそのなかにあることをしらず、弥陀に帰すれば諸仏の御こころにかなふといふことを信ぜずして、如来の功徳を疑ひ、念仏のちからをあやぶむがゆゑなり」なのです。諸善に心が掛かっているのは、「如来の功徳を疑ひ、念仏のちからをあやぶむ」からです。疑情、自力のこころとは、まさに「念仏のちからをあやぶむ」ことです。念仏は信後の報謝に限るのであれば、「念仏のちからをあやぶむ」という言い方をされることはあり得ません。
信心とは、「念仏のちから」を信じていることなのですが、それが判らない人が多いので、「難きがなかに難し」なのです。

なお、「難きがなかに難し」についての説明を親鸞聖人は『教行信証』信巻でされています。

律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』(大経)に〈易往而無人〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」と。

(現代語訳)

律宗の用欽がいっている。
「阿弥陀仏の教えを信じることが難しいと説くのは、まことにこの教えは、凡夫を転じて仏とすることが、ちょど手のひらを返すようだからである。きわめてたやすいから、かえって浅はかな衆生は多くの疑いを生じる。そこで『無量寿経』には、<浄土は往生しやすいにもかかわらず、往生する人がまれである>と説かれている。このようなわけで信じることが難しいと知られる」

この法」とは、念仏を称えて往生するという教えです。念仏を称えるという手のひらを反すように極めて容易い行で往生できると聞くと、そんな容易い行で往生できるかという疑いが浅はかな衆生には生じるから「難信」なのです。
一応、国語の問題ですが、信心を信じることが難しいのではありません。念仏を信じることが難しいのです。信心を信じる信心では日本語にならないのです。念仏を信じる信心です。
この当たり前のことが判らないと、親鸞会のように、

念仏で助かるのではない、信心一つで助かるのだ!

と判っているのかいないのか判らない説明になってしまうのです。

くどいようですが信心とは「念仏の信心」です。別の言い方をすれば、「念仏のちから」を信じることです。

本気で往生したい人は「かならず一向専修の念仏を行ずべき」で、それを疑いなく信じてください。

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2019年8月14日 (水)

阿弥陀仏の救いを根本から疑う高森顕徹流”真実信心”

親鸞会の教義は10年も前から破綻が顕在化していましたが、組織は問題がありながらも存続してきました。ところが昨年から組織の破綻も顕著になってきて、たとえば講師部員はバラバラで、士気が下がりまくり、離脱も出ています。

適当教義と方針行き当たりばったりの高森顕徹会長ですから、因果の道理を深信すればこうなることは、だれでも予想できるでしょう。

さて、親鸞会会員が妄想している真実信心と、親鸞聖人が仰る真実信心とは、天地ほどの違いがあります。会員が自力の信心だからではなく、高森会長の言っている真実信心の説明が出鱈目だからです。

親鸞聖人は、真実信心について様々な説明をなされていまして、高森会長の説明と悉く違っていますが、今回は以下のところからそれを見てみたいと思います。

『教行信証』信巻にこうあります。

元照律師のいはく、「他のなすことあたはざるがゆゑに甚難なり。世挙つていまだ見たてまつらざるがゆゑに希有なり」と。
またいはく、「念仏法門は、愚智豪賤を簡ばず、久近善悪を論ぜず、ただ決誓猛信を取れば臨終悪相なれども、十念に往生す。これすなはち具縛の凡愚、屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり。世間甚難信といふべきなり」と。
またいはく、「この悪世にして修行成仏するを難とするなり。もろもろの衆生のために、この法門を説くを二つの難とするなり。前の二難を承けて、すなはち諸仏所讃の虚しからざる意を彰す。衆生聞きて信受せしめよとなり」と。{以上}

(現代語訳)

元照律師が『阿弥陀経義疏』にいっている。
 「『阿弥陀経』には、釈尊がこの五濁の世に出られて仏となり、阿弥陀仏の教えを説かれたことを<甚難希有>と示されているが、他の仏がたのできないことであるから甚難であり、この世で今までになかったことであるから希有である」
また次のようにいっている(阿弥陀経義疏)。
「念仏の教えは、愚者と智者、富めるものと貧しいもののへだてなく、修行期間の長短や行の善し悪しを論じることなく、ただ決定の信心さえ得れば、臨終に悪相をあらわしても、たとえば十声念仏して往生をとげる。これこそは、煩悩に縛られた愚かな凡夫でも、また、生きものを殺し、酒を売って生活し、賤しいとされるものであっても、たちどころにすべてを跳び超えて仏になる教えである。まことに世間の常識を超えた信じがたい尊い教えというべきである」
また次のようにいっている(阿弥陀経義疏)。
「この五濁の世で修行して仏になるということは難しい。多くの衆生のために阿弥陀仏の教えを説くことも難しい。この二つの難事をあげて、仏がたが釈尊をほめたたえられることが無意味でないことを明らかにされている。これは衆生に教えを聞かせて信を得させるためである」

『阿弥陀経』について解釈された元照律師の『阿弥陀経義疏』を引かれている箇所です。『阿弥陀経』ですので、当然、念仏についての内容になるのですが、念仏を称えることによって往生する、もしくは仏になる、という教えが「甚難信」だと親鸞聖人もみられていたことが判ります。
この次に

律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』に〈易往而無人〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」と。

(現代語訳)

律宗の用欽がいっている。
「阿弥陀仏の教えを信じることが難しいと説くのは、まことにこの教えは、凡夫を転じて仏とすることが、ちょど手のひらを返すようだからである。きわめてたやすいから、かえって浅はかな衆生は多くの疑いを生じる。そこで『無量寿経』には、<浄土は往生しやすいにもかかわらず、往生する人がまれである>と説かれている。このようなわけで信じることが難しいと知られる」

ここでは、なぜ「難信」なのかについての解説となっています。阿弥陀仏の救いとは、凡夫が仏になることは、手のひらを表から裏へ返すのと同じくらい極めて容易いことであるから、そんな簡単なはずがないと疑うのだということです。信心を獲ることが難しいのではなく、その前の、阿弥陀仏の救い自体に大きな疑惑がおきて、それを拭い去ることができないから、「難信」になるのです。
現代的な言い方をするならば、

念仏を称えたくらいで仏になれる、そんなうまい話があるか

という疑いです。これは聖道門を信じている人たちの当然な疑問ですが、阿弥陀仏の救いを”正しく”聞いているはずの親鸞会会員の心でもあります。阿弥陀仏に救われたはずの高森会長の心でもあります。

逆の言い方をしますと、真実信心とは

念仏を称えただけで仏になれる、そんなうまい話が阿弥陀仏の救いだった

と疑いなく信じたことをいうのです。これを真っ向から批判する高森会長と会員に対して、「易往而無人」と説かれているのです。

教義も組織も破綻した親鸞会に留まって、

易往而無人」だから信心が獲られなくても当然だ、死んだら必堕無間でしかたがない

と思い続けたいのなら、どうぞ好きにしてください。

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2019年4月21日 (日)

高齢者による事故が問題になっていますが、高森顕徹会長の話も重大な事故です

本日の高森顕徹会長の話は、迷いに陥った内容です。
たとえば、

阿弥陀仏の本願は、「死んだらどうなるか判らぬ心を無くす」お約束

だとか、

苦しみの根源が、「死んだらどうなるか判らぬ心」

さらには、

日々煩悩で苦しんでいるが、それは葉や花のことで、苦しみの根幹でない

とか言っていましたが、一体どこの宗教の話をしているのかと言わざるを得ません。
超高齢でまともでない高森会長とその信者のために、仏教と真宗のイロハの話をしておきます。

親鸞聖人は曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』を『教行信証』真仏土巻に引かれて

われ無始より三界に循りて、虚妄輪のために回転せらる。
一念一時に造るところの業、足六道に繋がれ三塗に滞まる。

(現代語訳)

わたしははかり知れない昔から迷いの世界にあって、生れ変り死に変りし続けている。
わたしの行いはすべて、わたしの足を迷いの世界につなぎとめ、苦しみの世界にとどまらせる。

と仰っています。死んだらどうなるか、という問いに対して

足六道に繋がれ三塗に滞まる

その苦しみの根源は、

一念一時に造るところの業

です。

次に、親鸞会でも知っているであろう『教行信証』信巻の

しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。
一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。

(現代語訳)

ところで、はかり知れない昔から、すべての衆生はみな煩悩を離れることなく迷いの世界に輪廻し、多くの苦しみに縛られて、清らかな信楽がない。本来まことの信楽がないのである。このようなわけであるから、この上ない功徳に遇うことができず、すぐれた信心を得ることができないのである。
すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに修めた自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。

です。死んだらどうなるかについて

無明海に流転し、諸有輪に沈迷し

で、苦しみの根源は、

愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く

と仰っています。

他にもたくさんありますが、結論としては、

死んだら迷いの世界を流転輪廻すると教えられてそれを信じていることを前提として、阿弥陀仏の本願を求めているのですから、今更、それ以上判る必要もありませんし、救われたらそれがハッキリするとも教えられていません。そして、流転輪廻している原因は、煩悩だと教えられているのが、仏教であり、親鸞聖人だということです。

ただし、別の言い方として、阿弥陀仏の本願を深信すれば迷いの世界を出ることができるので、流転輪廻の原因を阿弥陀仏の本願を疑っていることだとも言える訳です。

いずれにしても、「死んだらどうなるか判らぬ心」が苦しみの根源とか、意味不明の妄想以外の何物でもありません。

高森会長の年齢も年齢ですから、エビデンスを期待する方が無理なのでしょう。

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2019年4月13日 (土)

基本的な言葉である「自力」さえ親鸞聖人の定義とは、無関係の高森顕徹会長

今日と明日は、高森顕徹会長の話の少ない親鸞会の降誕会です。本日も、高森会長は何教なのか判らない話をしていました。
特に、自力についての説明が

親鸞聖人の仰る自力とは、死んだらどうなるか判らない心

と言っていました。親鸞会の会員はこれで納得しているのでしょうが、親鸞聖人がそのようなことを仰った箇所は皆無です。

親鸞聖人の自力の説明を、9年前のmixiでの三願転入の法論で退会者から明示されているにも関わらず、妄想で創りあげた高森定義を改めずにいます。改める以前の問題として、高森会長には親鸞聖人の自力の定義を理解できないのだと思います。
思考力がある人向けに親鸞聖人のお言葉を列記しておきます。

『唯信鈔文意』

自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。

(現代語訳)
自力の心を捨てるということは、大乗・小乗の聖人、善人・悪人すべての凡夫、そのような色々な人々、さまざまなものたちが、自分自身を是とする思いあがった心を捨て、わが身をたよりとせず、こざかしく自分の悪い心を顧みたりしないことである。それは具縛の凡愚・屠沽の下類も、ただひとすじに、思いはかることのできない無礙光仏の本願と、その広く大いなる智慧の名号を信じれば、煩悩を身にそなえたまま、必ずこの上なくすぐれた仏のさとりに至るということである。

『一念多念証文』

自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。

(現代語訳)
自力というのは、わが身をたのみとし、わが心をたのみとすることであり、自分の力を頼って行にはげみ、自分がつくるさまざまな善を頼りにする人のことである。

『末灯鈔』

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。

(現代語訳)
まず自力ということは、行者がそれぞれの縁にしたがって、阿弥陀仏以外の仏の名号を称え、あるいは念仏以外の善を修めて、自身をたのみとし、自らのはからい心で、身・口・意の三業の乱れをとりつくろい、立派に振舞って浄土に往生しようと思うことを自力というのです。

『教行信証』化土巻

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。

(現代語訳)
定善の専心・散善の専心とは、罪を恐れ自分の善をあてにする心で本願力を願い求めるのであり、これを自力の専心というのである。

以上をまとめると親鸞聖人の言い方は

・みづからが身をよしとおもふこころ
・わが身をたのむ
・わが心をたのむ
・あしきこころをかへりみる
・余の仏号を称念する
・余の善根を修行する
・身・口・意の三業の乱れをとりつくろう
・めでたうしなす
・罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す

となります。かなり具体的に説明されてされていて、ほとんどが、親鸞会の教えと真っ向から対立するものです。

以上のどこに、

死んだらどうなるか判らない心

というようなお言葉があるでしょうか。近いニュアンスさえありません。
明日の座談会でも、更に迷走するでしょうが、とりあえず今日はこのくらいで。

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2018年8月21日 (火)

謗法と疑情、地獄と化土の違いも全く理解できない無知な高森顕徹会長と愉快な仲間達

前回のエントリーで疑心について述べましたが、親鸞会会員は謗法と疑情との区別もつかないほどの無知です。高森顕徹会長が無知ですから、当然なことです。

『往生要集』でも明らかですが、親鸞聖人のお言葉で説明しておきます。

まず、謗法の定義は『浄土論註』を引かれて『教行信証』信巻に

問うていはく、なんらの相か、これ誹謗正法なるやと。
答へていはく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。

(現代語訳)

問うていう。正しい法を謗るとは、どのようなことをいうのか。
答えていう。仏もなく仏の教えもなく、菩薩もなく菩薩の教えもないというような考えを、自分自身でおこしたり、他の人に教えられて、その通りと心に定めることを、みな正しい法を謗るというのである。

これを読んでも、

全人類は謗法の者だ

というようなら、義務教育からやり直してください。
この謗法の者の死後はどうなるかについては、この前に

問うていはく、たとひ一人は五逆罪を具して正法を誹謗せざれば、経に得生を許す。また一人ありてただ正法を誹謗して、五逆もろもろの罪なきもの往生を願ぜば、生を得るやいなやと。
答へていはく、ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ。なにをもつてこれをいふとならば、『経』にいはく、〈五逆の罪人、阿鼻大地獄のなかに堕して、つぶさに一劫の重罪を受く。誹謗正法の人は阿鼻大地獄のなかに堕して、この劫もし尽くれば、また転じて他方の阿鼻大地獄のなかに至る。かくのごとく展転して百千の阿鼻大地獄を経〉と。仏、出づることを得る時節を記したまはず。誹謗正法の罪、極重なるをもつてのゆゑなり。また正法はすなはちこれ仏法なり。この愚痴の人、すでに誹謗を生ず、いづくんぞ仏土に願生するの理あらんや。たとひただかの安楽に 生ぜんことを貪じて生を願ぜんは、また水にあらざるの氷、煙なきの火を求めんがごとし。あに得る理あらんやと。

(現代語訳)

問うていう。経には、ある人がたとえ五逆の罪を犯しても、正しい法を謗らないなら往生することができるとある。では、ただ正しい法を謗るだけで、五逆などの罪を犯さないものが浄土の往生を願うなら、往生することができるのであろうか。
答えていう。ただ正しい法を謗るだけで、他に罪は何一つなくても、決して往生することはできない。なぜかといえば、経に、<五逆の罪を犯した人は無間地獄に堕ちて、一劫の間その重い罪の報いを受ける。正しい法を謗った人は無間地獄に堕ちて、一劫が尽きると、また続いて他の無間地獄に堕ちる。このようにして次々と、数多くの無間地獄をめぐるのである>と説かれていて、仏はこの人がいつ地獄から出ることができるのかを明らかにされていない。それは、正しい法を謗る罪がもっとも重いからである。また正しい法というのは、すなわち仏法である。この愚かな人は、すでに仏法を謗っているのであるから、どうして仏の浄土の往生を願うはずがあろうか。たとえ、浄土は安楽なところだから生れたいという貪りの心で往生を願っても、その願いは、水でない氷や煙の出ない火を求めるのと同じであって、往生することができるはずはないのである。

謗法の者は「ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ。」と、絶対に往生できないと教えられています。その理由は、「この愚痴の人、すでに誹謗を生ず、いづくんぞ仏土に願生するの理あらんや。」です。

謗法の者は、浄土を願っていないから往生できる道理がないという、単純明快な理屈です。

では浄土を願っている謗法でない人はどうなるのかについて、親鸞聖人は『浄土和讃』でこう仰ってます。

安楽浄土をねがひつつ
 他力の信をえぬひとは
 仏智不思議をうたがひて
 辺地・懈慢にとまるなり

他力の信心は獲ていないが、浄土を願っている人は化土往生になる、ということです。
前回の『往生要集』と同じことですが、親鸞会の会員は、これが全く信じられないと思います。高森会長から、嘘八百を教え込まれていてそれを信じているからです。

同じく『浄土和讃』には

誓願不思議をうたがひて
 御名を称する往生は
 宮殿のうちに五百歳
 むなしくすぐとぞときたまふ

とも仰っています。他にも同じ内容のことを、繰り返し繰り返し親鸞聖人は仰っています。

つまり、疑情とは、「安楽浄土をねがひつつ」その上で、「仏智不思議をうたがひて」「誓願不思議をうたがひて」ということです。

謗法と疑情とは、まったく違うのですが、この基本的な仏語さえも知らないで偉そうな顔をしている厚顔無恥が、高森会長と愉快な仲間達です。

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2018年1月 6日 (土)

正しい解釈を全くできないで恥を曝し続ける高森顕徹会長

親鸞会と退会者の間で、この10年の間に、百回を越える法論をしてきました。結果は、親鸞会の全敗、退会者の全勝です。別に驚く結果でも何でもありません。当然の結果です。

昔、親鸞会では討論会というものをよく行っていました。あるテーマに対して、2つの主張の側に分かれて、討論をして勝者を決めるというものです。高森顕徹会長の考えでは、真実開顕には討論術が必要だということでした。かつて親鸞会が勝ち続けてきた法論と言われるものは、討論術、詭弁と呆れさせにより、勝ちを演出してきただけでした。

ところが今では、如何なる討論術、詭弁を弄しても、退会者には全く手も足も出ません。討論術、詭弁のレベルが低いからではありません。理由は、聖教を読んでいない、そして知っている僅かな聖教上の御文の解釈も破滅的であるからです。

親鸞会が法論で負けを決定的にする要因の多くが、親鸞会が自信満々に出してきた聖教上の根拠の解釈を退会者によってひっくり返されることです。

退会者はこのことを知っていますから、親鸞会に法論で勝つことは赤子の手を捻るほど容易いのです。退会者がちょっと隙を見せて親鸞会に突っ込ませると、見事に術中にはまり上から目線で根拠を出してきて墓穴を掘ってすぐに終わりです。

さて、先日の高森会長の話では、『正信偈』の

譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇

を出して、恥を曝しています。「」が晴れたのを絶対の幸福と高森会長は説明していますが、「」の意味が良く判っていないのです。高森会長は、「」とは、「後生暗い心」「死に向かったら真っ暗になる心」と信じているようですが、違います。

まずは蓮如上人の『正信偈大意』を見てみましょう。

「摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」といふは、弥陀如来、念仏の衆生を摂取したまふひかりはつねに照らしたまひて、すでによく無明の闇を破すといへども、貪欲と瞋恚と、雲・霧のごとくして真実信心の天に覆へること、日光のあきらかなるを、雲・霧の覆ふによりてかくすといへども、そのしたはあきらかなるがごとしといへり。

光(日光)」「雲霧」「闇(無明の闇)」の3つで構成された話ですが、
」=阿弥陀仏の光明
雲霧」=煩悩
ですので、
」=阿弥陀仏の救いを疑う心
となります。難しい話ではありませんので、思考停止の会員でも理解できると思います。
ただし、この阿弥陀仏の救いを疑う心が何かを会員は知りませんし、高森会長自身も判っていませんので、

無明の闇(阿弥陀仏の救いを疑う心)=後生暗い心=死に向かったら真っ暗になる心

という破滅的な勘違いをするのです。

無明の闇=疑情=仏智不思議を疑う罪

ですが、これを親鸞聖人は『正像末和讃』で、

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

自力称名のひとはみな
 如来の本願信ぜねば
 うたがふつみのふかきゆゑ
 七宝の獄にぞいましむる

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

仏智不思議をうたがひて
 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば
 胎生のものとときたまふ

などとありますように、

罪福信ずる」「自力称名」「自力諸善」が「仏智不思議を疑う」(=無明の闇)です。
自力称名」も「自力諸善」も根本にあるのは阿弥陀仏の救いに対する「罪福信ずる心」(=自力)ですから、

無明の闇=疑情=仏智不思議を疑う罪=罪福信ずる心

つまり

無明の闇が晴れる=(阿弥陀仏の救いに対して)罪福信ずる心が無くなる

です。

要するに、阿弥陀仏の光明によって、阿弥陀仏の救いは因果の道理に順じていると思う闇の心を破られて、阿弥陀仏の救いは因果の道理に反していると明らかになったことを「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」と仰っているのです。
煩悩に覆われている我らの心が明るくなるのではなく、因果の道理に支配された闇の心が破られるのです。もちろん、死後のことについて明るくなることもありませんし、絶対の幸福という創価学会の信心も得られません。

なお『教行信証』行巻には、

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。

また

しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵ふなり、知るべしと。

と親鸞聖人は仰っています。後の御文も行巻という真実の行である念仏についての説明の結論として仰っていますので、念仏によって「無明の闇を破し」とも親鸞聖人は仰っています。

そんなことも知らないで、善がどうのこうの、聞法善が大事だの、寝惚けたことを言って、念仏を謗り続けている高森会長と愉快な仲間達に、無明の闇が破れることはありません。まさに「知るべし」です。

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2017年7月 9日 (日)

高森顕徹邪義を信じることを自力の心、疑情という

本日の高森顕徹会長の話は、いつもの話でした。と何度も言ってきたために、今回は少し変えてきたつもりでしょうが、やはりいつもの間が抜けた頓珍漢な話でした。

本日強調していたことは、

苦しみの原因は、自力の心、疑情である

です。これ自体は間違ってはいませんが、自力の心、疑情とは、高森会長の邪義を信じることだということに全く気が付いていないところが、お目出度いです。

自力の心、疑情とは、仏智不思議を疑う心とも言われ、阿弥陀仏のお力を疑う心、阿弥陀仏の本願を疑う心のことです。

高森先生もそう教えている

と会員は反論するでしょうが、それは阿弥陀仏のお力、阿弥陀仏の本願(18願)を知らないからです。

阿弥陀仏のお力、18願とは、善が不要、私たちが何かをすることを全く必要としないで浄土に往生させることができることです。

つまりは、往生・獲信のために、善をしなければならないとか、過去にどれだけ善をしてきたかとか、19願・20願を必ず通るか通らなければならないとか、因果の道理を信じなければならない、などと信じていることを、自力の心、疑情というのです。

このことについて最も判りやすい根拠が『正像末和讃』誡疑讃23首です。
代表的なものを紹介すると、

仏智の不思議をうたがひて
 自力の称念このむゆゑ
 辺地懈慢にとどまりて
 仏恩報ずるこころなし

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

自力称名のひとはみな
 如来の本願信ぜねば
 うたがふつみのふかきゆゑ
 七宝の獄にぞいましむる

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

罪福ふかく信じつつ
 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆゑに
 方便化土にとまるなり

仏智不思議をうたがひて
 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば
 胎生のものとときたまふ

自力の心をむねとして
 不思議の仏智をたのまねば
 胎宮にうまれて五百歳
 三宝の慈悲にはなれたり

仏智不思議を疑う心とは、

自力諸善
自力の称念
罪福信じる
自力の心

であり、

19願を信じる心
20願を信じる心
因果の道理を信じる心

です。

要するに、高森会長が教え勧めていることが、自力の心、疑情そのものですから、高森会長の言っていることが間違いと信じない限りは、苦しみの原因である自力の心、疑情は無くならないのです。

別に難しい話でも何でもないのです。高森会長の教えていることは、ほとんどすべてが間違い。単にそれだけのことです。高森会長が批判を交わすために、小手先で何か変えたところで、元が間違っていますから、何を言っても間違いなのです。

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