疑情

2018年8月21日 (火)

謗法と疑情、地獄と化土の違いも全く理解できない無知な高森顕徹会長と愉快な仲間達

前回のエントリーで疑心について述べましたが、親鸞会会員は謗法と疑情との区別もつかないほどの無知です。高森顕徹会長が無知ですから、当然なことです。

『往生要集』でも明らかですが、親鸞聖人のお言葉で説明しておきます。

まず、謗法の定義は『浄土論註』を引かれて『教行信証』信巻に

問うていはく、なんらの相か、これ誹謗正法なるやと。
答へていはく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。

(現代語訳)

問うていう。正しい法を謗るとは、どのようなことをいうのか。
答えていう。仏もなく仏の教えもなく、菩薩もなく菩薩の教えもないというような考えを、自分自身でおこしたり、他の人に教えられて、その通りと心に定めることを、みな正しい法を謗るというのである。

これを読んでも、

全人類は謗法の者だ

というようなら、義務教育からやり直してください。
この謗法の者の死後はどうなるかについては、この前に

問うていはく、たとひ一人は五逆罪を具して正法を誹謗せざれば、経に得生を許す。また一人ありてただ正法を誹謗して、五逆もろもろの罪なきもの往生を願ぜば、生を得るやいなやと。
答へていはく、ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ。なにをもつてこれをいふとならば、『経』にいはく、〈五逆の罪人、阿鼻大地獄のなかに堕して、つぶさに一劫の重罪を受く。誹謗正法の人は阿鼻大地獄のなかに堕して、この劫もし尽くれば、また転じて他方の阿鼻大地獄のなかに至る。かくのごとく展転して百千の阿鼻大地獄を経〉と。仏、出づることを得る時節を記したまはず。誹謗正法の罪、極重なるをもつてのゆゑなり。また正法はすなはちこれ仏法なり。この愚痴の人、すでに誹謗を生ず、いづくんぞ仏土に願生するの理あらんや。たとひただかの安楽に 生ぜんことを貪じて生を願ぜんは、また水にあらざるの氷、煙なきの火を求めんがごとし。あに得る理あらんやと。

(現代語訳)

問うていう。経には、ある人がたとえ五逆の罪を犯しても、正しい法を謗らないなら往生することができるとある。では、ただ正しい法を謗るだけで、五逆などの罪を犯さないものが浄土の往生を願うなら、往生することができるのであろうか。
答えていう。ただ正しい法を謗るだけで、他に罪は何一つなくても、決して往生することはできない。なぜかといえば、経に、<五逆の罪を犯した人は無間地獄に堕ちて、一劫の間その重い罪の報いを受ける。正しい法を謗った人は無間地獄に堕ちて、一劫が尽きると、また続いて他の無間地獄に堕ちる。このようにして次々と、数多くの無間地獄をめぐるのである>と説かれていて、仏はこの人がいつ地獄から出ることができるのかを明らかにされていない。それは、正しい法を謗る罪がもっとも重いからである。また正しい法というのは、すなわち仏法である。この愚かな人は、すでに仏法を謗っているのであるから、どうして仏の浄土の往生を願うはずがあろうか。たとえ、浄土は安楽なところだから生れたいという貪りの心で往生を願っても、その願いは、水でない氷や煙の出ない火を求めるのと同じであって、往生することができるはずはないのである。

謗法の者は「ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ。」と、絶対に往生できないと教えられています。その理由は、「この愚痴の人、すでに誹謗を生ず、いづくんぞ仏土に願生するの理あらんや。」です。

謗法の者は、浄土を願っていないから往生できる道理がないという、単純明快な理屈です。

では浄土を願っている謗法でない人はどうなるのかについて、親鸞聖人は『浄土和讃』でこう仰ってます。

安楽浄土をねがひつつ
 他力の信をえぬひとは
 仏智不思議をうたがひて
 辺地・懈慢にとまるなり

他力の信心は獲ていないが、浄土を願っている人は化土往生になる、ということです。
前回の『往生要集』と同じことですが、親鸞会の会員は、これが全く信じられないと思います。高森会長から、嘘八百を教え込まれていてそれを信じているからです。

同じく『浄土和讃』には

誓願不思議をうたがひて
 御名を称する往生は
 宮殿のうちに五百歳
 むなしくすぐとぞときたまふ

とも仰っています。他にも同じ内容のことを、繰り返し繰り返し親鸞聖人は仰っています。

つまり、疑情とは、「安楽浄土をねがひつつ」その上で、「仏智不思議をうたがひて」「誓願不思議をうたがひて」ということです。

謗法と疑情とは、まったく違うのですが、この基本的な仏語さえも知らないで偉そうな顔をしている厚顔無恥が、高森会長と愉快な仲間達です。

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2018年1月 6日 (土)

正しい解釈を全くできないで恥を曝し続ける高森顕徹会長

親鸞会と退会者の間で、この10年の間に、百回を越える法論をしてきました。結果は、親鸞会の全敗、退会者の全勝です。別に驚く結果でも何でもありません。当然の結果です。

昔、親鸞会では討論会というものをよく行っていました。あるテーマに対して、2つの主張の側に分かれて、討論をして勝者を決めるというものです。高森顕徹会長の考えでは、真実開顕には討論術が必要だということでした。かつて親鸞会が勝ち続けてきた法論と言われるものは、討論術、詭弁と呆れさせにより、勝ちを演出してきただけでした。

ところが今では、如何なる討論術、詭弁を弄しても、退会者には全く手も足も出ません。討論術、詭弁のレベルが低いからではありません。理由は、聖教を読んでいない、そして知っている僅かな聖教上の御文の解釈も破滅的であるからです。

親鸞会が法論で負けを決定的にする要因の多くが、親鸞会が自信満々に出してきた聖教上の根拠の解釈を退会者によってひっくり返されることです。

退会者はこのことを知っていますから、親鸞会に法論で勝つことは赤子の手を捻るほど容易いのです。退会者がちょっと隙を見せて親鸞会に突っ込ませると、見事に術中にはまり上から目線で根拠を出してきて墓穴を掘ってすぐに終わりです。

さて、先日の高森会長の話では、『正信偈』の

譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇

を出して、恥を曝しています。「」が晴れたのを絶対の幸福と高森会長は説明していますが、「」の意味が良く判っていないのです。高森会長は、「」とは、「後生暗い心」「死に向かったら真っ暗になる心」と信じているようですが、違います。

まずは蓮如上人の『正信偈大意』を見てみましょう。

「摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」といふは、弥陀如来、念仏の衆生を摂取したまふひかりはつねに照らしたまひて、すでによく無明の闇を破すといへども、貪欲と瞋恚と、雲・霧のごとくして真実信心の天に覆へること、日光のあきらかなるを、雲・霧の覆ふによりてかくすといへども、そのしたはあきらかなるがごとしといへり。

光(日光)」「雲霧」「闇(無明の闇)」の3つで構成された話ですが、
」=阿弥陀仏の光明
雲霧」=煩悩
ですので、
」=阿弥陀仏の救いを疑う心
となります。難しい話ではありませんので、思考停止の会員でも理解できると思います。
ただし、この阿弥陀仏の救いを疑う心が何かを会員は知りませんし、高森会長自身も判っていませんので、

無明の闇(阿弥陀仏の救いを疑う心)=後生暗い心=死に向かったら真っ暗になる心

という破滅的な勘違いをするのです。

無明の闇=疑情=仏智不思議を疑う罪

ですが、これを親鸞聖人は『正像末和讃』で、

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

自力称名のひとはみな
 如来の本願信ぜねば
 うたがふつみのふかきゆゑ
 七宝の獄にぞいましむる

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

仏智不思議をうたがひて
 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば
 胎生のものとときたまふ

などとありますように、

罪福信ずる」「自力称名」「自力諸善」が「仏智不思議を疑う」(=無明の闇)です。
自力称名」も「自力諸善」も根本にあるのは阿弥陀仏の救いに対する「罪福信ずる心」(=自力)ですから、

無明の闇=疑情=仏智不思議を疑う罪=罪福信ずる心

つまり

無明の闇が晴れる=(阿弥陀仏の救いに対して)罪福信ずる心が無くなる

です。

要するに、阿弥陀仏の光明によって、阿弥陀仏の救いは因果の道理に順じていると思う闇の心を破られて、阿弥陀仏の救いは因果の道理に反していると明らかになったことを「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」と仰っているのです。
煩悩に覆われている我らの心が明るくなるのではなく、因果の道理に支配された闇の心が破られるのです。もちろん、死後のことについて明るくなることもありませんし、絶対の幸福という創価学会の信心も得られません。

なお『教行信証』行巻には、

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。

また

しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵ふなり、知るべしと。

と親鸞聖人は仰っています。後の御文も行巻という真実の行である念仏についての説明の結論として仰っていますので、念仏によって「無明の闇を破し」とも親鸞聖人は仰っています。

そんなことも知らないで、善がどうのこうの、聞法善が大事だの、寝惚けたことを言って、念仏を謗り続けている高森会長と愉快な仲間達に、無明の闇が破れることはありません。まさに「知るべし」です。

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2017年7月 9日 (日)

高森顕徹邪義を信じることを自力の心、疑情という

本日の高森顕徹会長の話は、いつもの話でした。と何度も言ってきたために、今回は少し変えてきたつもりでしょうが、やはりいつもの間が抜けた頓珍漢な話でした。

本日強調していたことは、

苦しみの原因は、自力の心、疑情である

です。これ自体は間違ってはいませんが、自力の心、疑情とは、高森会長の邪義を信じることだということに全く気が付いていないところが、お目出度いです。

自力の心、疑情とは、仏智不思議を疑う心とも言われ、阿弥陀仏のお力を疑う心、阿弥陀仏の本願を疑う心のことです。

高森先生もそう教えている

と会員は反論するでしょうが、それは阿弥陀仏のお力、阿弥陀仏の本願(18願)を知らないからです。

阿弥陀仏のお力、18願とは、善が不要、私たちが何かをすることを全く必要としないで浄土に往生させることができることです。

つまりは、往生・獲信のために、善をしなければならないとか、過去にどれだけ善をしてきたかとか、19願・20願を必ず通るか通らなければならないとか、因果の道理を信じなければならない、などと信じていることを、自力の心、疑情というのです。

このことについて最も判りやすい根拠が『正像末和讃』誡疑讃23首です。
代表的なものを紹介すると、

仏智の不思議をうたがひて
 自力の称念このむゆゑ
 辺地懈慢にとどまりて
 仏恩報ずるこころなし

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

自力称名のひとはみな
 如来の本願信ぜねば
 うたがふつみのふかきゆゑ
 七宝の獄にぞいましむる

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

罪福ふかく信じつつ
 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆゑに
 方便化土にとまるなり

仏智不思議をうたがひて
 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば
 胎生のものとときたまふ

自力の心をむねとして
 不思議の仏智をたのまねば
 胎宮にうまれて五百歳
 三宝の慈悲にはなれたり

仏智不思議を疑う心とは、

自力諸善
自力の称念
罪福信じる
自力の心

であり、

19願を信じる心
20願を信じる心
因果の道理を信じる心

です。

要するに、高森会長が教え勧めていることが、自力の心、疑情そのものですから、高森会長の言っていることが間違いと信じない限りは、苦しみの原因である自力の心、疑情は無くならないのです。

別に難しい話でも何でもないのです。高森会長の教えていることは、ほとんどすべてが間違い。単にそれだけのことです。高森会長が批判を交わすために、小手先で何か変えたところで、元が間違っていますから、何を言っても間違いなのです。

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