絶対の幸福

2017年6月 4日 (日)

”絶対の幸福”は還相回向の話であることも当然知らない高森顕徹会長

本日も高森顕徹会長は、毎度毎度の創価学会亜流の話をしていたそうです。絶対の幸福の連呼です。
高森会長は、自らの無知を曝し続けていることが判らないほど呆けているのか。あるいは親鸞会の存亡がかかっているため恥など気にしておれないのか。いずれにしても親鸞聖人の教えとはかけ離れた話です。

高森会長は知る由もないでしょうから、親鸞聖人が3種の楽しみについて教えておられることを少し紹介しておきます。

『教行信証』証巻に『浄土論註』を引かれてこうあります。

楽に三種あり。一つには外楽、いはく五識所生の楽なり。二つには内楽、いはく初禅・二禅・三禅の意識所生の楽なり。三つには法楽楽、いはく智慧所生の楽なり。この智慧所生の楽は、仏の功徳を愛するより起れり。これは遠離我心と遠離無安衆生心と遠離自供養心と、この三種の心、清浄に増進して、略して妙楽勝真心とす。妙の言はそれ好なり。この楽は仏を縁じて生ずるをもつてのゆゑに。勝の言は三界のうちの楽に勝出せり。真の言は虚偽ならず、顛倒せざるなり。

(現代語訳)

<楽>に三種がある。一つには外楽、すなわち五識による楽しみである。二つには内楽、すなわち禅・第二禅・第三禅の禅定の意識による楽しみである。三つには法楽楽、すなわちさとりの智慧による楽しみである。この智慧による楽しみは、阿弥陀仏の功徳を願い求めることからおこるのである。自分自身に執着する心を遠く離れ、衆生を安らかにすることのない心を遠く離れ、自分自身を供養し敬愛する心を遠く離れるという、この三つが清らかに進展して一つの妙楽勝真心となる。妙とは、よいという意味である。この楽は阿弥陀仏を縁としておこるからである。勝とは、迷いの世界の楽しみに超えすぐれていることである。真とは、いつわりでなく真実にかなっていることをいうのである。

外楽」とは、五識を喜ばせる楽しみで、高森会長が言う相対の幸福と言ってもよいでしょう。
内楽」とは、精神的な楽しみですが、未だ迷いの楽しみですから、これも相対の幸福と言っていいかもしれません。
最後の「法楽楽」は、「智慧所生」とあり、無漏の智慧より生ずる楽で、説法等の音声を聞く楽しみのことです。

これが絶対の幸福だ

ともし言うのであれば、これは無漏の智慧ですから、獲信したといっても有漏の智慧しか持ち合わせていない凡夫がなれる境地ではありません。
その証拠に
遠離我心と遠離無安衆生心と遠離自供養心と、この三種の心、清浄に増進して、略して妙楽勝真心とす
と教えられています。
自分の執着心を遠く離れ、他人のことに無頓着でどうでもいいという心を遠く離れ、自分のため自分のためという心を遠く離れた楽のことです。またここは、親鸞聖人が還相回向について説明されているところで引かれていますので、浄土往生後に仏となってからの話です。

要するに、「法楽楽」とは浄土往生する前のことではありませんので、当ブログをパクって、

親鸞聖人が外楽・内楽と教えられていることを相対の幸福、法楽楽と教えられていることを絶対の幸福と言い換えただけだ

と高森会長が突如言い始めたとしても、その”絶対の幸福”は浄土往生の前にはなれないことを親鸞聖人が教えられたのですから、高森会長の間違いを証明する根拠になります。

私の予想では、それほど遠くない時期に、外楽・内楽・法楽楽の話が出ると思います。その際には、今回のエントリーを参照して、高森会長のパクリ根性を皆で指摘してあげてください。

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2017年5月21日 (日)

「念仏は無碍の一道なり」が判らず否定する高森顕徹会長

本日の講師部講義で、高森顕徹会長はまたまた面白い説明をしていました。

18願を「十方衆生を相手に信楽の身にしてみせる」とするいつもの解釈の説明として、今回は銀行の融資に譬えて、

全ての日本人に対して1億円の融資

と言っていたそうです。
頓珍漢というか、無茶苦茶な譬えです。

まず、なぜ融資なのか。融資とは借金です。当然返済しなければなりません。阿弥陀仏の救いを報恩で返済しろと言いたいのでしょうか。
次に、融資が誰にでも無条件で受けられることはあり得ない話で、どうしてもそう譬えたいのなら、19願の「十方衆生」とは切り離した譬えとすべきです。親鸞聖人の『尊号真像銘文』のお言葉からすると、18願は「五逆誹謗正法」という債務超過に陥っている人にも融資をするが、19願には「五逆誹謗正法」がないので、債務超過の人は融資対象から除かれているとしなければならないからです。
それに、以前の譬えは選挙公約の税金の話だった筈です。もし当選したら税金を撤廃する、あるいは税金を還付する、という公約で譬えていたのですが、これも19願の「十方衆生」との関連で、税金(特に所得税)は払っている人には関係があるが、元々払っていない人には関係ないと私が言ったことで、こっそり修正したつもりなのでしょう。

今までの話を修正するのは結構なことですが、より悪い方向に変えているようでは、話にもなりません。これが、会員に無二の善知識と呼ばせている高森会長の実態です。

さて、今回も絶対の幸福の強調をしていましたが、無碍の一道についてもう少し説明しておきます。

元々は『浄土論註』のお言葉ですが、それを親鸞聖人は『教行信証』行巻に引かれています。

いま〈速得阿耨多羅三藐三菩提〉といへるは、これはやく仏になることを得たまへるなり。〈阿〉をば無に名づく、〈耨多羅〉をば上に名づく、〈三藐〉をば正に名づく、〈三〉をば遍に名づく〈菩提〉をば道に名づく、統ねてこれを訳して、名づけて無上正遍道とす。
(中略)
道は無碍道なり。『経』(華厳経)にいはく、〈十方の無碍人、一道より生死を出でたまへり〉と。〈一道〉は、一無碍道なり。無碍は、いはく、生死すなはちこれ涅槃なりと知るなり。

(現代語訳)

いま<速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得られた>といっているのは、法蔵菩薩が速やかに阿弥陀仏になられたことをいう。<阿>は無と訳し、<耨多羅>は上と訳し、<三藐>は正と訳し、<三>は遍と訳し、<菩提>は道と訳す。まとめてこれを訳すと無上正遍道という。
(中略)
<道>とは、無礙道である。『華厳経』に<すべての世界の無礙人である仏がたは、ただ一つの道によって迷いを出られた>と説かれている。<ただ一つの道>とは、ただ一つの無礙の道のことである。<無礙>とは、迷いとさとりとが本来別なものではないとさとることである。

結論を言うと、無碍人である仏方は、ただ一つの道である念仏によって迷いを出られ仏になられたことを、無碍の一道と親鸞聖人は仰っているのです。

したがいまして、『歎異抄』第7条の

念仏者は無碍の一道なり

は本来の意味では

念仏は無碍の一道なり

であったのを、親鸞聖人が「念仏者は」と敢えて仰ったのか、それとも『歎異抄』の著者が「念仏は」を「念仏者は」と書き間違えたのか、或いは『歎異抄』の原本が残っていないので、書写される過程で間違ったのか、そこは明確にはなっておりません。

いずれにしましても、絶対の幸福なる意味が全くないどころか、高森会長が必死で否定する「ただ念仏」、つまり獲信も往生も成仏にも善が全く不要である根拠にしかならないのです。

高森会長も教えを修正するなら、まずは善の否定からでしょうが、それは教団存続のためには絶対にしないでしょう。そんな高森会長の強欲に振り回されて、同朋の里に映画館まで建てさせられる会員は、哀れとしか言い様がありません。

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2017年5月14日 (日)

無碍の一道と絶対の幸福の違い

昨日と今日の降誕会では、「白骨の章」の話だったそうですが、無常観という真実の自己がハッキリと知らされないと救われないとか高森顕徹会長は言って、当ブログへの反論を試みたようです。もちろん、そんな根拠はありません。
また『なぜ生きる』を「平成の教行信証」と呼ばせて、高森顕徹会長は御満悦な様子で、良くできた落語のようです。

さて相変わらず、絶対の幸福の連呼をしていますが、絶対の幸福は「無碍の一道」の言い換えと妄想を膨らませているとしか言いようがありません。

まずは『歎異抄』第7条

念仏者は無碍の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなりと[云々]。

ここの「信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなき」ですが、これは二河白道の譬えの白道に乗った後の話と同じ内容です。

”親鸞聖人の教えられた”二河白道の譬えでは、

この人、すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに、東の岸の群賊等喚ばひていはく、〈きみ回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。かならず死せんこと疑はず。われらすべて悪心あつてあひ向かふことなし〉と。この人、喚ばふ声を聞くといへども、またかへりみず、一心にただちに進んで道を念じて行けば、

(現代語訳)

この人は、もはや、こちらの岸から<行け>と勧められ、向こうの岸から<来るがよい>と喚ばれるのを聞いた以上、その通りに受けとめ、少しも疑ったり恐れたり、またしりごみしたりもしないで、ためらうことなく、道をたどってまっすぐ西へ進んだ。そして少し行った時、東の岸から、盗賊などが、<おい、戻ってこい。その道は危険だ。とても向こうの岸までは行けない。間違いなく死んでしまうだろう。俺たちは何もお前を殺そうとしているわけではない>と呼ぶ。しかしこの人は、その呼び声を聞いてもふり返らず、わき目もふらずにその道を信じて進み、

です。
譬えの解説部分では、

〈あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚び回す〉といふは、すなはち別解・別行・悪見の人等、みだりに見解をもつてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失すと説くに喩ふるなり。

(現代語訳)

<少し行くと盗賊などが呼ぶ>というのは、本願他力の教えと異なる道を歩む人や、間違った考えの人々が、<念仏の行者は勝手な考えでお互いに惑わしあい、また自分自身で罪をつくって、さとりの道からはずれ、その利益を失うであろう>とみだりに説くことをたとえたのである。

です。
絶対の幸福と言えるような特別な境地の幸福感が獲られるのではなく、親鸞会的に言うなら、信心が金剛の心になったということを例えられただけです。
その証拠にこの二河白道の譬えの前に

この心、深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。

(現代語訳)

この心は金剛のようにかたい信であるから、本願他力の教えと異なるどのような人々によっても、乱されたり砕かれたりすることはない。

とありように、信心が「動乱破壊」されないことを説明する譬えなのです。重要なのは「信心が」です。「信心以外のことが」「動乱破壊せられず」ではありません。

話を戻しますと「無碍の一道」に出た人の説明だと高森会長が言っている「信心の行者」とは、要するに、「深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。」のことであって、大安心大満足というような、特殊な幸福感とは異質のものだと言うことです。

信心の内容が理解できないでいる高森会長にはチンプンカンプンで、会員には頭が混乱する内容かもしれませんので、まとめると、

『歎異抄』第7条の「何物も障りとならない」とは信心についてのことであって、他のことについては障りだらけで、信のない人と何も変わらない

ということです。

引用の根拠が殆どない『なぜ生きる』を、膨大な引文で埋め尽くされた『教行信証』と同列に考えるようなオカルトチックな感覚では、根拠を多用する当ブログ自体を理解できなくて当然でしょうが、信後の境地とはこういうことです。

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2017年5月 9日 (火)

”親鸞聖人の教えられた二河白道の譬え”から見る絶対の幸福

最近の親鸞会は、やたらと絶対の幸福を強調しています。大学の新入生を含めた非会員を意識しているのでしょうが、創価学会からのパクリ用語を未だに平気で使っているのですから、そのぶれない信念は尊敬に値します。
その絶対の幸福は、信後の境地として高森顕徹会長は説明していますが、親鸞聖人が信後の境地について教えられた話は、二河白道の譬えです。正確には善導大師の創られた譬え話ですが、5年前の講師部講義で、高森会長は突然に奇想天外な珍説を披露しました。

善導大師が、二河白道の譬えで「自力」だと教えられた「白道」を、親鸞聖人は「他力」と読まれた

その内容は、平成25年2月号の『顕真』にも紹介されています。
善導大師と親鸞聖人の教えられ方が違うと説明していることが間違いであることは、言うまでもありませんが、注目すべきは、

「白道」は、親鸞聖人が他力として教えられていることを高森会長が認めた

という事実です。
つまり、信後どのような境地になるのかを親鸞聖人が説明されたのが、二河白道の譬えだということになります。

したがいまして、二河白道の譬えを読めば、信後の境地である絶対の幸福なるものの本質が判る筈です。

”親鸞聖人の教えられた二河白道の譬え”では、水の河と火の河に挟まれ、二河の波のために細い細い白道が隠されて、旅人がなかなか進めない状態です。

念のため、『教行信証』信巻では

一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし、南北辺なし。まさしく水火の中間に一つの白道あり、闊さ四五寸ばかりなるべし。この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿す。その火焔(焔、けむりあるなり、炎、けむりなきほのほなり)また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなけん。

(現代語訳)

一つは火の河で南にあり、もう一つは水の河で北にある。その二つの河はそれぞれ幅が百歩で、どちらも深くて底がなく、果てしなく南北に続いている。その水の河と火の河の間に一すじの白い道がある。その幅はわずか四、五寸ほどである。水の河は道に激しく波を打ち寄せ、火の河は炎をあげて道を焼く。水と火とがかわるがわる道に襲いかかり、少しも止むことがない。

です。
ここは白道に乗る前の表現ですが、白道に乗った後も、この状態は変わっていませんので、親鸞聖人は『一念多念証文』で親鸞会でも有名な次の説明をされています。

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。
かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず安楽浄土へいたれば

白道に乗って白道を歩んでいる人のことを「無明煩悩われらが身にみちみちて…」と仰り、これが信後の境地と親鸞聖人が教えられている明確な根拠です。

では、高森会長の言う絶対の幸福とは、煩悩が身にみちみちて悩み煩い苦しんでいることをいうのなら辻褄があいますが、そんなつもりは毛頭ないでしょう。
要するに、絶対の幸福なんてものは、親鸞聖人の教えにはあり得ないものなのです。

次回は無碍の一道について、述べますので、高森会長も講師も会員も焦らず、まずはじっくり”親鸞聖人が他力で教えられた”二河白道の譬えを読んでみましょう。

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