二河白道

2018年12月 5日 (水)

教学的にはほぼ完璧と称賛する『教行信証講義』をパクった高森顕徹会長の白道釈

質問が来ましたので、それに答える形でエントリーを書きます。

親鸞会が白道を信前自力の意味とする最大の根拠が『散善義』にある

「人道の上を行きてただちに西に向かふ」といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。

です。

もろもろの行業を回しては諸善を回向してだから、自力で求道していく意味だ

というのです。実は、これは高森顕徹会長オリジナルの解釈ではなく、そのように解釈してきた学者がいるので、それを使っているのは間違いないです。
実際、親鸞会を辞めようとする人が高森会長の説明する二河白道の譬え話に矛盾があることを指摘すると、最近よく出してくるのが山辺習学・ 赤沼智善共著の『教行信証講義』です。この『教行信証講義』は親鸞会で、教学的にはほぼ完璧とされている書です。ここでは内容は紹介しませんが、高森会長が『教行信証講義』をパクってこのように言っていることは、間違いないでしょう。

回して」は「翻して」という意味と「回向して」の意味もあり、両方とも善導大師は著書の中で使われていますので、文字通りの読み方をすれば、『教行信証講義』や高森会長の説明も一理はあるように思えます。

しかしここでの「回して」は、「翻して」の意味にしかなりません。

いつも言うように、親鸞会が出している根拠の前後を見れば、それが間違いだとすぐに判るのです。

人道の上を行きてただちに西に向かふ」ですが、これは譬え話の中にそのまま書かれてはいません。該当部分を抽出すると、

三定死に続けて行者が語った言葉の

一種として死を勉れずは、われむしろこの道を尋ねて前に向かひて去かん。

とその後実際に白道を進んだ

決定して道を尋ねてただちに進みて

一心にただちに進みて道を念じて行けば

です。この3つ共、悪知識の言うことに逆らって進んでいるのです。悪知識の言っていることが、「諸善をせよ」ですから、それを実行していたら悪知識に信順して東の岸にいることになります。しかも「ただちに西に向かふ」のですから、回り道をしていない、つまり他力の道です。

もっと言うならば、阿弥陀仏の喚び声である「一心正念にしてただちに来れ」に対応して「ただちに西に向かふ」のです。阿弥陀仏が「ただちに来なさい」と喚ばれて、それに信順して「ただちに向かいます」です。

ですから、「もろもろの行業を回して」は、「悪知識の勧める諸善を捨てて」になるのです。

以上は善導大師の仰った内容で説明しています。親鸞聖人は、他力の信心についての説明をしている中でこれを出されていますので、尚更です。

三願転入にしてもそうですが、学者は今までになかった新しい解釈をしてそれを発表することで名声を得ようとするので、信心とは関係ないところで机上の空論が展開される傾向にあります。

覚如上人、蓮如上人が取り上げることすらされなかった三願転入を大々的に議論するのが学者の仕事です。その学者の説を鵜呑みにすることはやめた方が宜しいでしょう。

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2018年11月30日 (金)

高森顕徹会長の、その場凌ぎの思い付き行き当たりばったり教義など、聖教をまともに読んだら誰でも簡単に論破できます

二河白道の譬え話について、善導大師が何を白道で譬えられたのかとの質問がありましたので、少し解説します。

二河白道の譬えを一から説明すると長くなるので、前提として、
・三定死は白道に乗る前の東の岸にいるとき
・西の岸の人の喚び声を聞くのは東の岸にいるとき

を最低限判っていることとします。

以下、善導大師の著わされた『散善義』から

まず東の岸で行者が白道に乗るかどうか迷って三定死になった後

この念をなす時、東の岸にたちまち人の勧むる声を聞く。
「なんぢ、ただ決定してこの道を尋ねて行け、かならず死の難なからん。 もし住まらば、すなはち死せん>」と。
また西の岸の上に人ありて喚ばひていはく、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と。

東の岸の人は、「ただ決定してこの道を尋ねて行け
西の岸の人は、「一心正念にしてただちに来れ

そして行者は

この人すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづから身心を正当にして、決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず。

となります。「決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず」です。
なお、「疑怯退心」とは、「疑ったり、恐れたりして、しりごみする心」です。

そして進んで行った結果は

一心にただちに進みて道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。

です。「一心にただちに進みて道を念じて行けば」「西の岸に到りて」です。

決定して」「一心に」「疑怯退心を生ぜず」はどんな信心か考えてみてください。

以上が譬え話の内容から、白道に乗る心を抽出したものです。

次に、譬えを善導大師がどう解説されているかについてみてみます。

「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。

西の岸の人の喚び声は、「弥陀の願意」です。もちろん18願意のことであって、19願意ではありません。

白道を進むことについて

仰ぎて釈迦発遣して指して西方に向かはしめたまふことを蒙り、また弥陀悲心をもつて招喚したまふによりて、いま二尊の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得て

とあります。「二尊の意に信順して」です。釈尊の意についてはこの譬え話では明確に仰っていませんが、阿弥陀仏の意に関しては、18願意です。18願意に「信順して」です。更には「かの願力の道に乗じて」ですから、18願力の道に乗ったことです。その結果、浄土に生まれることができた、という内容です。

ここまでくれば説明は不要でしょうから、次の質問に容易に答えられると思います。ただし、思考力が微かでも残っていれば。

問 善導大師は信前の求道心・聞法心を白道で譬えられたのか18願の真実信心を白道で譬えられたのか、どちらでしょうか?

高森顕徹会長の、その場凌ぎの思い付き行き当たりばったり教義など、聖教をまともに読んだら誰でも簡単に論破できます。

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2018年11月25日 (日)

創作二河白道の譬え話で、苦境に陥っていることが判る高森顕徹会長率いる親鸞会

本日の高森顕徹会長の話は、二河白道の譬え話を使っての、「欲と怒りと戦って命がけで聞かなければならない」という求道の強調でした。

「白道」は、求道心、聞法心だとのこれまで通りの説明です。以前に、

親鸞聖人は「白道」を他力で教えられているが、善導大師は自力で教えられていて、善導大師の教えられ方でワシは話をしているのだ

との大ボケの珍説を披露したこともなかったこととして、金集め人集めの正当化に必死になっている様子です。
「白道」が、他力の信心であることは、これまで耳にタコができるほど言ってきましたし、一時的にせよ、高森会長も親鸞聖人に限定して、それを認めていたわけですから、今更説明するまでもないことです。
今回は少し違う角度から高森会長の創作教義の嘘を暴いていきます。

蓮如上人が、名人の解釈だから、その解釈には無条件に従うとまで大絶賛されている存覚上人の書かれた『持名鈔』には、このようにあります。

されば仏法を行ずるには、家をもすて欲をもすてて修行すべきに、世をもそむかず名利にもまつはれながら、めでたき無上の仏法をききて、ながく輪廻の故郷をはなれんことは、ひとへにはからざるさいはひなり。

釈尊などの聖道門での求道の実例を挙げられた後にこのように続いていますので、

聖道門では「家をもすて欲をもすてて修行すべき」求道であるのに対して、浄土門では、「世をもそむかず名利にもまつはれながら、めでたき無上の仏法をききて、ながく輪廻の故郷をはなれんこと」だと教えられています。世間の流れに逆らうこともなく、名利の欲にまみれたまま、無上の阿弥陀仏の18願を聞いて、出離するのだということです。

もう一度、高森会長の説明は

欲と怒りと戦って命がけで聞かなければならない

これが存覚上人と同じだと思うなら完全に思考停止でしょう。

念のため、蓮如上人のお言葉、『御一代聞書』

一 前々住上人(蓮如)、南殿にて、存覚御作分の聖教ちと不審なる所の候ふを、いかがとて、兼縁、前々住上人へ御目にかけられ候へば、仰せられ候ふ。名人のせられ候ふ物をばそのままにて置くことなり。これが名誉なりと仰せられ候ふなり。

(現代語訳)

蓮悟さまが、蓮如上人のおられる南殿へおうかがいし、存覚上人の著わされたお聖教に少し疑問に思うところがあるのを書き出して「どういうことでしょうか」と、上人にお見せしました。
すると上人は、「名人がお書きになったものは、そのままにしておきなさい。
こちらの考えが及ばない深い思し召しのあるところが、名人の名人たるすぐれたところなのである」と仰せになりました。

如何でしょうか。存覚上人の「世をもそむかず名利にもまつはれながら、めでたき無上の仏法をききて、ながく輪廻の故郷をはなれんこと」は蓮如上人のお考えとも一致しています。

では親鸞聖人はどうでしょうか。親鸞聖人のお言葉はいくつもありますが、最も判りやすいのが『教行信証』信巻にある阿闍世の獲信物語です。

阿闍世の獲信後の言葉は

世尊、われ世間を見るに、伊蘭子より伊蘭樹を生ず。伊蘭より栴檀樹を生ずるをば見ず。われいまはじめて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る。伊蘭子はわが身これなり。栴檀樹はすなはちこれわが心、無根の信なり。無根とは、われはじめて如来を恭敬せんことを知らず、法僧を信ぜず、これを無根と名づく。

(現代語訳)

世尊、世間では、伊蘭の種からは悪臭を放つ伊蘭の樹が生えます。伊蘭の種から芳香を放つ栴檀の樹が生えるのを見たことはありません。わたしは今はじめて伊蘭の種から栴檀の樹が生えるのを見ました。伊蘭の種とはわたしのことであり、栴檀の樹とはわたしの心におこった無根の信であります。無根とは、わたしは今まで如来をあつく敬うこともなく、法宝や僧宝を信じたこともなかったので、これを無根というのであります。

です。阿闍世には、命がけの求道も聞法もなかったとの告白で、それを親鸞聖人が紹介されているのです。なお、阿闍世の獲信物語は、『教行信証』全体の約1割を占めていますので、代表的”求道”を親鸞聖人が紹介されたということです。

三願転入の復活と会費の値上げ、そして命がけの求道の捏造と続いていることから判るのは、親鸞会の苦悩の表面化です。この傾向は、ますます顕著になってくるでしょう。

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2018年9月16日 (日)

国語の問題よりもさらに深刻な人間性に問題のある高森顕徹会長と愉快な仲間達

本日の高森顕徹会長の話は、意地になっての二河白道の譬えを入れてきました。二河白道の譬えを話することができない、と煽ったので、反応した、といういつも私が言っている通りの展開です。高森会長の単純な性格が皆さんにも判られたと思います。

内容については、修正があるどころか、開き直りで、いつもの創作ヘンテコ話でした。

白道は仏教を聞こうと思う弱い聞法心

としたり、

見えない彼岸
仏教を聞くということは、白道を見えない西に向かって進むことだ

と言ったり、親鸞聖人の教えを正しく伝えようとか、間違えて伝えたら腹を切るとか、そんな気の更々ない無責任極まりない、会員を騙す気満々です。

今更ですが、

白道=他力信心

は揺るぎないし、高森会長自身が、

親鸞聖人は白道を他力で教えられている

と言っていたことも、ワシはそんなこと言ってない、で済ますのでしょう。

これが高森顕徹と言う人物の実相です。

白道については、散々説明してきましたので、今回は彼岸、西の岸が見えないのかどうかについて説明します。

『教行信証』信巻でも、元の『散善義』でも

この道東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩

この河、南北に辺畔を見ず、中間に一つの白道を見る、きはめてこれ狭少なり。二つの岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべき。

となっています。東と西の岸との距離は「百歩」「二つの岸あひ去ること近し」です。

これをどう読んだら、西の岸、彼岸が見えないとなるのでしょうか。ここまでくると国語の問題ではありません、人間性の問題です。

これでも高森会長を擁護する会員は、同類で人間性に問題があるのです。

ついでに、本日の高森会長の話で、親鸞聖人が善導大師のことを「大心海化現の善導」と仰っているとありました。それが間違いと言いたいのではなく、親鸞聖人は、遭われたこともない他人である善導大師のことを仏の化身だと断言されていることです。

『高僧和讃』に

大心海より化してこそ
 善導和尚とおはしけれ
 末代濁世のためにとて
 十方諸仏に証をこふ

とあります。善導大師だけではありません。他の高僧方も仏や勢至菩薩の化身と親鸞聖人は断言されていますし、当然ながら七高僧方が往生されたことも断言されています。
親鸞聖人の体験でこのように知らされたのかと言えば、前回のエントリーで紹介したW氏の日本語講座で、

他人の体験は自覚できない

と教えてくだされた通りです。それなのに親鸞聖人は断言されています。
親鸞聖人の断言、「まことに知んぬ」が何を意味しているかは、基礎学力があれば簡単にわかる話です。

会員も国語の能力を一般人並みにするように勉強し直してみてはいかがでしょう。その前の人間性に問題がある会員は、高森会長と同じ所へ行ってください。

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2018年8月 5日 (日)

創価学会の真似をして人集めに血眼になっている高森顕徹会長

本日は追悼法要という名目で、大大的に宣伝をし、高森顕徹会長の動画を一般に公開してまで必死の人集めの結果、人数だけは昨年の報恩講並であったようです。
それだけを見ると親鸞会は息を吹き返したのかと思われるかもしれませんが、かなり無理していることは、様々なところで表面に現われています。その1つが、御供物でしょう。一般の行事と変わりません。最も気を遣い、お金を使ってきたところへ回すお金が不足しているのです。かなり、切羽詰まっているところまで追い込まれているようです。

次回、御供物が増えたら、皆さんで笑ってあげてください。

さて、本日もはっきりしない話をだらだらしていましたが、絶対の幸福という創価学会の真似が主で、その説明に仏凡一体という言葉を使っていました。

真実信心を知らない高森会長ではこの程度の説明で誤魔化すしかないのでしょうが、真実信心と仏凡一体は、二河白道の譬えで説明できます。

先月のエントリー

白道は凡夫自力の迷心でも凡夫我執の心でもない、この当たり前の事実が理解できない高森顕徹会長と愉快な仲間達

でも紹介しました存覚上人の『浄土真要鈔』がそのことについて詳しいです。
上記のエントリーでは

この一念帰命の信心は、凡夫自力の迷心にあらず、如来清浄本願の智心なり。
しかれば、二河の譬喩のなかにも、中間の白道をもつて、一処には如来の願力にたとへ、一処には行者の信心にたとへたり。「如来の願力にたとふ」といふは、「念々無遺乗彼願力之道」といへるこれなり。こころは、「貪瞋の煩悩にかかはらず、弥陀如来の願力の白道に乗ぜよ」となり。「行者の信心にたとふ」といふは、「衆生貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心」といへるこれなり。こころは、「貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ず」となり。されば、「水火の二河」 は衆生の貪瞋なり。これ不清浄の心なり。「中間の白道」は、あるときは行者の信心といはれ、あるときは如来の願力の道と釈せらる。これすなはち行者のおこすところの信心と、如来の願心とひとつなることをあらはすなり。したがひて、清浄の心といへるも如来の智心なりとあらはすこころなり。もし凡夫我執の心ならば、清浄の心とは釈すべからず。

で、「白道」は、「如来の願力」と「行者の信心」の二通りで譬えられることを仰った後、「行者の信心」は、行者の「不清浄の心」に「如来の智心」である「清浄の心」がおきるのだと説明しました。
そしてこの後に存覚上人はこう続けられています。

このゆゑに『経』には、「令諸衆生功徳成就」といへり。こころは、「弥陀如来、因位のむかし、もろもろの衆生をして功徳成就せしめたまふ」となり。それ阿弥陀如来は三世の諸仏に念ぜられたまふ覚体なれば、久遠実成の古仏なれども、十劫以来の成道をとなへたまひしは果後の方便なり。これすなはち「衆生往生すべくはわれも正覚を取らん」と誓ひて、衆生の往生を決定せんがためなり。しかるに衆生の往生定まりしかば、仏の正覚も成りたまひき。その正覚いまだ成りたまはざりしいにしへ、法蔵比丘として難行苦行・積功累徳したまひしとき、未来の衆生の浄土に往生すべきたねをばことごとく成就したまひき。そのことわりをききて、一念解了の心おこれば、仏心と凡心とまつたくひとつになるなり。

難しい語はありませんので、概ねお判りになられると思いますが、最後の

法蔵比丘として難行苦行・積功累徳したまひしとき、未来の衆生の浄土に往生すべきたねをばことごとく成就したまひき。そのことわりをききて、一念解了の心おこれば、仏心と凡心とまつたくひとつになるなり。

で仏凡一体について説明されています。
法蔵菩薩の「難行苦行・積功累徳」によって「未来の衆生の浄土に往生すべきたね」を成就された、そのことを聞いて、それをそのまま聞いたことを「仏心と凡心とまつたくひとつになる」と仰っています。
もっと簡潔に言うなら、法蔵菩薩が我らが往生する因を法蔵菩薩が御修行によって用意されて、その通りと聞いたことを真実信心と言い、仏凡一体と言われるのです。

したがいまして、衆生の側で、何かをしなければならないことはないのです。
善をしなかれば、三願転入しなければ、宿善を厚くしなければ、
というのは間違いであるどころか、その通りと聞く妨げになるのです。
何かをする必要があると考えるのは、法蔵菩薩の「難行苦行・積功累徳」ではまだ不足だという考えであり、「そのことわりをききて、一念解了の心」が起きないからです。

そう聞くのは一念でも、それまでは何かをしなければ…

が間違いです。法蔵菩薩の「難行苦行・積功累徳」にケチをつけている心です。

二河白道の譬えでいうなら、阿弥陀仏の「浄土までいく白道に乗りなさい」との喚び声に、「はい」と白道に乗るだけです。白道に乗るために何かが必要だとはどこにも教えられていないのです。

そして白道の乗ったことを仏凡一体というのですが、白道に乗ったら、何かが変わったかと言えば、何も変わっていません。
白道の幅も長さも、水の河も火の河も、西の岸の様子も見え方も、東の岸の群賊悪獣悪知識も、何も変化していません。

ですから、真実信心を獲ても、表面上は何も変わりませんし、ましてや絶対の幸福なる空想の境地に出ることも絶対にありません。

信前信後の水際も変化も、仏凡一体も、全て二河白道の譬えで顕わされているのです。

この程度の簡単な説明もできない高森会長の話を聞いて、得られる物は、貧と恥のみです。

人集めには、創価学会の真似が手っ取り早いと考えている高森会長の浅はかさに、会員も早く気付くベきです。

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2018年7月29日 (日)

二河白道の譬えを曲げに曲げ続けた結果、簡単な話が判らなくなった高森顕徹会長と愉快な講師部員

自称退会者を論破さんからコメントを頂きました。

コメントを載せることができなくなった時点で、完全敗北宣言と同じです。過去同じことを何十回も繰り返してきたのに、それらの教訓が何も活かされていない全く学習能力のない講師部員だとよく判ります。

さて、本日の高森顕徹会長の話は、無碍の一道についてでした。

「碍」は煩悩のことで、その煩悩が無くなるのではなく障りとならなくなる世界。

と説明していました。
この後「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」を出して補足していました。

無碍」の定義からするとこの説明は間違っているのですが、意図することは間違いではありません。

ただし、これを言いたいのであれば、二河白道の譬えを使えば良いのです。

白道が、信後の他力信心を譬えられていることは、これまでくどいほど述べてきた通りですが、それが理解できている前提で以下話をします。

『教行信証』信巻に

一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし、南北辺なし。まさしく水火の中間に一つの白道あり、闊さ四五寸ばかりなるべし。この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿す。その火焔(焔、けむりあるなり、炎、けむりなきほのほなり)また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなけん。

とありますが、これは白道に乗る前の描写です。しかし、白道に乗った後も、二河が変化したとはありませんので、この通りだということになります。
それが『一念多念証文』の

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。

になります。
つまり、白道である他力の信心は、「その水の波浪交はり過ぎて道を湿す」「その火焔また来りて道を焼く」という状態であるのに、途切れることもなく障りとならないのだと、善導大師、親鸞聖人が教えられているということです。

譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」を二河白道の譬えで説明するなら、

たとえれば白道が水火の波に覆はれていても、水火で白道が途切れることなく細くても確実に西の岸に続いているようなものだ。

ということです。白道が変化するわけでも西の岸が近くなるわけでもありません。

水と火の波が全く障りとならない白道、と説明すれば合格ですが、いつまで経っても0点が続く高森会長と愉快な講師部員でした。

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2018年7月22日 (日)

よく知りもしない『観無量寿経』の内容を知ったかぶりで話をする高森顕徹会長と愉快な仲間達

本日の高森顕徹会長の講義では、二河白道の譬えについての話がありました。というと、詳しく話があったのかと思われるかもしれませんが、かなり省略した話で結論として、

二河は煩悩を表わし、その間の細い白道が聞法心だ。
聞く一本道だ。

というものでした。

間違いを指摘されていることを誤魔化しながら、過去に高森会長が話をしてきたこととの整合性をはかるには、極力話を削ることだと判断したのでしょう。

もちろん真宗において、白道を自力の聞法心とすることなどあり得ません。

ただ概ね想定通りの展開で、高森会長が退会者からの指摘に怯えきっていることが良く判ります。

ところで今回も韋提希が「実凡の人」だと善導大師お一人が明らかにされたことを、くどくどと説明していました。

どうせ知らないでしょうから、親鸞聖人が韋提希のことをどう仰っているかについて、教えて差し上げます。

『教行信証』化土巻で、前回の隠顕釈について仰っている中で、『観無量寿経』の御文を13文挙げられて以下のように解釈しておられます。

ここをもつて『経』(観経)には、「教我観於清浄業処」といへり。
「清浄業処」といふは、すなはちこれ本願成就の報土なり。
「教我思惟」といふは、すなはち方便なり。
「教我正受」といふは、すなはち金剛の真心なり。
「諦観彼国浄業成者」といへり、本願成就の尽十方無碍光如来を観知すべしとなり。
「広説衆譬」といへり、すなはち十三観これなり。
「汝是凡夫心想羸劣」といへり、すなはちこれ悪人往生の機たることを彰すなり。
「諸仏如来有異方便」といへり、すなはちこれ定散諸善は方便の教たることを顕すなり。
「以仏力故見彼国土」といへり、これすなはち他力の意を顕すなり。
「若仏滅後諸衆生等」といへり、すなはちこれ未来の衆生、往生の正機たることを顕すなり。
「若有合者名為粗想」といへり、これ定観成じがたきことを顕すなり。
「於現身中得念仏三昧」といへり、すなはちこれ定観成就の益は、念仏三昧を獲るをもつて観の益とすることを顕す。すなはち観門をもつて方便の教とせるなり。
「発三種心即便往生」といへり。
また「復有三種衆生当得往生」といへり。これらの文によるに、三輩について三種の三心あり、また二種の往生あり。
 まことに知んぬ、これいましこの『経』(観経)に顕彰隠密の義あることを。

19願の内容と18願の内容が『観無量寿経』の中で混在していることを親鸞聖人が示された箇所ですが、この中の

「汝是凡夫心想羸劣」といへり、すなはちこれ悪人往生の機たることを彰すなり。

が韋提希のところです。
釈尊が韋提希に対して「なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣なり」と仰った真意は、18願は、悪人往生だということを示されたものだと親鸞聖人は、解釈なされたということです。
もちろん定散二善の19願は善人往生ですから、「なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣なり」の文を以って、19願の教えが大半の中で、18願の教えを釈尊が顕かになされたと親鸞聖人は教えられているのです。

他に明確なところでは

「清浄業処」といふは、すなはちこれ本願成就の報土なり。
「教我正受」といふは、すなはち金剛の真心なり。
「以仏力故見彼国土」といへり、これすなはち他力の意を顕すなり。

などは、『観無量寿経』の中に18願の教えが顕わされていることを親鸞聖人が明示されている箇所です。

考え違いをしているかわいそうな人がいますが、『観無量寿経』の表面部分に18願の教えが少しではあってもあることを親鸞聖人が明示されることで、表面上は少ない18願の教えが、釈尊の本意、真意であると解釈なされたのが、隠顕釈です。

もう一度いうと、『観無量寿経』の表面に18願の教えは少ないですがあるのです。『観無量寿経』の表面上が全て19願の教えだったら、18願が隠されているというより、無い18願をでっち上げたことになります。そんな強引な解釈をされたのではないのですが、それが判らずに『観無量寿経』には18願はないと珍釈を書き連ねている講師が親鸞会に存在していることをみると、親鸞会ももう終わりだと思われます。
話を省略して誤魔化そうとしている高森会長の方が、まだましです。

トップがトップですから、その下はなお酷くなるのも当然ではありますが。

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2018年7月19日 (木)

聖道門の真似をしながら、「これこそが親鸞聖人の教え」と間抜けなことを平気で言い続ける高森顕徹会長と愉快な仲間達

浄土門は言うまでもなく聖道門にしても、阿弥陀仏の18願の救いを象徴しているのが、『観無量寿経』にある下品下生の往生だということを認めているのです。この当たり前の事実を知らないのが、高森顕徹会長と愉快な仲間達です。下品下生については

仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。 この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。
命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。蓮華のなかにして十二大劫を満てて、蓮華まさに開く。観世音・大勢至、大悲の音声をもつて、それがために広く諸法実相・罪を除滅するの法を説く。聞きをはりて歓喜し、時に応じてすなはち菩提の心を発さん。これを下品下生のものと名づく。」

(現代語訳)

 続いて釈尊は阿難と韋提希に仰せになった。
「 次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。
この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。
そこで善知識はさらに、<もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい>と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。
そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。
 その蓮の花に包まれて十二大劫が過ぎると、はじめてその花が開く。そのとき観世音・大勢至の二菩薩は慈しみにあふれた声で、その人のためにひろくすべてのもののまことのすがたと、罪を除き去る教えをお説きになる。その人はこれを聞いて喜び、ただちにさとりを求める心を起すのである。これを下品下生のものと名づける。」

とあります。
簡単に言うと、

十悪に加えて五逆罪を造ってきて、平生に仏法を聞かず善をしてきたことのない極重の悪人が、臨終になって初めて仏法を聞こうと思って、善知識から勧められたことは、「兎に角、念仏を称えよ」ということで、その通りに10回の念仏を称えて極楽に往生した。

こういうことです。
更には、この後に『観無量寿経』の結論として

仏、阿難に告げたまはく、「なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」と。仏、この語を説きたまふとき、尊者目犍連・阿難および韋提希等、仏の所説を聞きてみな大きに歓喜す。

 (現代語訳)

釈尊は阿難に仰せになった。
「そなたはこのことをしっかりと心にとどめるがよい。このことを心にとどめよというのは、すなわち無量寿仏の名を心にとどめよということである 」
釈尊がこのようにお説きになったとき、目連や阿難および韋提希たちは釈尊のこの教えを聞いて、みな大いに喜んだのである。

とあることに注目されたのが善導大師で、念仏を称えることによって極楽に往生できるのだと強調された訳です。

源信僧都は『往生要集』で下品下生を

四つに『観経』には「極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得」

と仰って、これを親鸞聖人は『教行信証』行巻に引かれて、『正信偈』にも

極重の悪人はただ仏を称すべし。

とまで教えられている通りです。

18願には善の勧めはなく、念仏だけが勧められていてその念仏で極楽に往生できる、これが『観無量寿経』の仏意だと明らかになされたのが、善導大師以降の善知識方です。

この基礎の基礎も知らないで、聖道門が浄土門を非難している「念仏称えて極楽に往生できる教えは方便だ」という主張だけを真似して、

念仏称えて極楽に往生できる教えは間違いだ、と教えられたのが親鸞聖人だ

と間抜けなことを言っている高森会長と愉快な仲間達に、真宗界が白眼視しているのも当然の当然です。

愚か者たちのために何度でも繰り返し言っておきますが、親鸞聖人が仰る真実の信心(=白道)とは、

念仏称えて極楽に往生できると深く信じた心

これで報土往生になるのです。ちなみに

念仏称えて極楽に往生できると浅く信じた心

は化土往生です。

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2018年7月14日 (土)

白道は凡夫自力の迷心でも凡夫我執の心でもない、この当たり前の事実が理解できない高森顕徹会長と愉快な仲間達

白道」が自力か他力かなど、議論する余地がないのですが、小学生でも理解できる単純明快な理屈を理解できないお粗末思考力の持ち主が、親鸞会の会員です。

これまで善導大師、親鸞聖人のお言葉をたくさん紹介しましたので、他の根拠を出しておきます。
ただし高森顕徹会長と愉快な仲間達の思考力では、本日のエントリーは理解できないと思いますので、思考力が並以下の人は読まない方が良いかもしれません。

蓮如上人が、釈迦の化身、勢至菩薩の化身とまで絶賛された存覚上人の『浄土真要鈔』に白道についてこうあります。

この一念帰命の信心は、凡夫自力の迷心にあらず、如来清浄本願の智心なり。
しかれば、二河の譬喩のなかにも、中間の白道をもつて、一処には如来の願力にたとへ、一処には行者の信心にたとへたり。「如来の願力にたとふ」といふは、「念々無遺乗彼願力之道」といへるこれなり。こころは、「貪瞋の煩悩にかかはらず、弥陀如来の願力の白道に乗ぜよ」となり。「行者の信心にたとふ」といふは、「衆生貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心」といへるこれなり。こころは、「貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ず」となり。されば、「水火の二河」 は衆生の貪瞋なり。これ不清浄の心なり。「中間の白道」は、あるときは行者の信心といはれ、あるときは如来の願力の道と釈せらる。これすなはち行者のおこすところの信心と、如来の願心とひとつなることをあらはすなり。したがひて、清浄の心といへるも如来の智心なりとあらはすこころなり。もし凡夫我執の心ならば、清浄の心とは釈すべからず。

判り易い言葉ですので、意味は概ねお判りかと思いますが、真実の他力の信心を、二河白道の譬喩の「白道」で存覚上人は説明されている箇所です。

この時点ですでに、「白道」は他力です。

一応説明すると、「白道」は、「如来の願力」と「行者の信心」の二通りで譬えられることを仰った後、「行者の信心」は、行者の「不清浄の心」に「如来の智心」である「清浄の心」がおきると説明されています。駄目押しで、「清浄の心」とは、「凡夫我執の心」ではない、最初の「凡夫自力の迷心」でもないとあります。
並の思考力が有るなら判ると思いますが、

行者の信心」=「清浄の心」≠「凡夫我執の心」「凡夫自力の迷心

です。

行者が信心を発す前は「如来の願力」の意味しかない「白道」ですが、阿弥陀仏の喚び声に随って行者が「白道」に乗った時に、「清浄の心」である「行者の信心」が発るのです。

以上のように存覚上人の懇切丁寧な説明で、「白道」に自力が混じることなどありえないのです。

次に、親鸞聖人が関東の同行に読むように勧められた『後世物語聞書』には、

善導の御こころによるに、「釈迦のをしへにしたがひ、弥陀の願力をたのみなば、愛欲・瞋恚のおこりまじはるといふとも、さらにかへりみることなかれ」といへり。まことに本願の白道、あに愛欲のなみにけがされんや。他力の功徳、むしろ瞋恚のほむらに焼くべけんや。

とあります。釈尊の教えに随って阿弥陀仏の願力をたのんで信心を獲たなら、欲と怒りに信心は影響されないことを書かれています。

本願の白道」ですから、「白道」は18願他力のことで、その後では「他力の功徳」と言い換えられています。

説明するのがアホらしくなるのですが、

白道」を自力とする解釈など、親鸞聖人の教えにおいてはあり得ないのです。

本日の内容は、思考力のある方向けの内容ですので、高森会長と愉快な仲間達は到底理解できないでしょう。そして、

善導大師は「白道」を自力で教えられた
親鸞聖人は「白道」を自力で教えられた
真宗の学者は「白道」は自力だと言っている

と言い続けて恥を何百何千と重ねれば良いでしょう。麻原教祖と麻原信者以下の思考力ではこの程度でしょう。

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2018年7月 7日 (土)

麻原教祖を未だに信じているアレフの信者より幼稚な高森顕徹会長信者

二河白道の譬えの中にある阿弥陀仏の喚び声が18願の言い換えであることは、あの高森顕徹会長でさえ認めていることです。阿弥陀仏の喚び声である18願を聞いてそれに順ったことが、白道に乗ることですから、白道は信後の他力以外には考えられないのです。

小学生でも判る単純明快な理屈です。

その阿弥陀仏の喚び声の内容について、少し説明しておきます。

阿弥陀仏の喚び声についての解説は、『浄土文類聚鈔』と『愚禿鈔』にあります。

まず『浄土文類聚鈔』では

これによりて師釈を披きたるにいはく、「西の岸の上に人ありて喚ばひてのたまはく、〈なんぢ、一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉」と。また〈中間の白道〉といふは、すなはち、貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。仰いで釈迦の発遣を蒙り、また弥陀の招喚したまふによりて、水火二河を顧みず、かの願力の道に乗ず」と。{略出}
ここに知んぬ、「能生清浄願心」は、これ凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なるがゆゑに清浄願心とのたまへり。しかれば、「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり。(後略)

(現代語訳)

そこで、 善導大師の 『観経疏』をひらくと、 次のようにいわれている 。
「西の岸に人がいて、 〈そなたは一心に正念してまっすぐに来るがよい。 わたしがそなたを護ろう。 水の河や火の河に落ちるのではないかと恐れるな〉と喚ぶ声がする」
また次のようにいわれている。
「〈水の河と火の河の間にある白い道〉というのは、 貪りや怒りの心の中に、 往生を願う清らかな信心がおこることをたとえたのである。 浄土へ往生せよという釈尊のお勧めと、 浄土へ来たれと招き喚ぶ阿弥陀仏の仰せにしたがって、 貪りや怒りの水と火の河を気にもかけず、 阿弥陀仏の本願のはたらきに身をまかせるのである」
これによって知ることができた。 「清らかな信心が起こる」 とは、 凡夫が自力で起す心ではない。 大いなる慈悲により回向された心であるから、 清らかな信心といわれているのである。 そして 「一心に正念して」 というのは、 「正念」 とはすなわち称名である。 称名はすなわち念仏である。 「一心」 とは深い心、 すなわち深心である。 (後略)

とあります。

一心」=深心真実の信心
正念」=称名念仏

真実の信心(他力の信心)で念仏して(西の岸)に来なさい=白道を歩みなさい

です。
凡夫自力の心にあらず」の真実の信心(他力の信心)になって白道を歩むのですから、信後の他力の道が白道です。

何の矛盾もないです。

次に『愚禿鈔』

「また、西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく、〈汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん〉」といふは、

「西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく」といふは、阿弥陀如来の誓願なり。

「汝」の言は行者なり、これすなはち必定の菩薩と名づく。龍樹大士『十住毘婆沙論』にいはく、「即時入必定」となり。曇鸞菩薩の『論』には、「入正定聚之数」といへり。善導和尚は、「希有人なり、最勝人なり、妙好人なり、好人なり、上上人なり、真仏弟子なり」といへり。「一心」の言は、真実の信心なり。「正念」の言は、選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり。

「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。

「来」の言は、去に対し往に対するなり。また報土に還来せしめんと欲してなり。

「我」の言は、尽十方無礙光如来なり、不可思議光仏なり。「能」の言は、不堪に対するなり、疑心の人なり。「護」の言は、阿弥陀仏果成の正意を顕すなり、また摂取不捨を形すの貌なり、すなはちこれ現生護念なり。「念道」の言は、他力白道を念ぜよとなり。

ここで

一心」=真実の信心
正念」=選択摂取の本願、第一希有の行、金剛不壊の心

ということですから、『浄土文類聚鈔』とほとんど同じ内容です。
『浄土文類聚鈔』に無かった解説として

」=回に対し迂に対する、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰する、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲して
」=去に対し往に対する、報土に還来せしめんと欲して

とあります。

したがいまして、諸善、19願の寄り道をするな、躊躇することなく直ちに18願の他力に帰しなさい、ということですから、そのお言葉に順って乗った白道に方便仮門、自力の意味は皆無になります。

そして「」が18願文の「若不生者」の「」に当たりますので、
」=報土に還来せしめん浄土に生まれさせる
となり、信楽に生まれさせるという意味でないことも明白になります。

ついでに白道を進んでいる旅人に対して群賊等が戻ってこいと叫んでいてもそれに惑わされないことを二河白道の譬えでは

一心にただちに進んで道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。

とあり、この「道を念じて

念道」=他力白道を念ぜよ

と親鸞聖人は仰っています。自力の意味はここでも完全否定されています。

親鸞聖人が白道には自力の心ではない真実の信心で乗りなさい、19願の寄り道をするなと解説もされ、直接「他力白道」とまで明言されているので、白道=他力をどうしたら間違えるのか不思議不思議です。
あの高森会長でさえ、親鸞聖人は白道を他力と教えられていると認めざるをえなくなったのになお、未だに白道が自力だと言っている会員がいることには、憐みの気持ちしか起きてきません。

麻原教祖を未だに信じているアレフの信者と同じレベルかと思っていましたが、アレフの信者よりも幼稚な知能なのでしょう。

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