二河白道

2020年6月19日 (金)

善導大師の仰る「弥陀の願意」と転教口称の念仏

阿弥陀仏の喚び声について善導大師は譬えで

また西の岸の上に人ありて喚ばひていはく、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と。

と仰り、その意図は

「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。

とされています。「弥陀の願意」ですから、当然18願意のことになります。
『散善義』では、下品上生のところで「願意」についてこう仰っています。

しかるに仏の願意に望むれば、ただ勧めて正念に名を称せしむ。往生の義、疾きこと雑散の業に同じからず。

阿弥陀仏の願意は、「正念に名を称せしむ」だけを勧められたのであり、「雑散の業に同じからず」と雑行とは違うと釘までさしておられます。
善導大師が二河白道で諸善を勧められた、信前の求道について教えられたという妄想は、ここでも簡単に打ち砕くことができます。

なお、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」は、18願の言い換えになりますが、善導大師は他所でも、18願の言い換えをされています。
『往生礼讃』には、

もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ

『観念法門』には、

もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、 わが願力に乗じて、もし生ぜずは、正覚を取らじ

18願ですから善が無いのは言うまでもないのですが、往生のために「わが名号を称すること下十声に至るまで」「わが名字を称すること、下十声に至るまで」と念仏が強調されています。

要するに往生のために念仏を称えることを誓われているのが、阿弥陀仏の「願意」だということになります。

ここで着目したいのが、『往生礼讃』における18願の言い換えには信心に関する言及がありません。善導大師は信心よりも念仏に重きをおかれていたように思われます。

その証拠に、『散善義』の下品下生のところでは、

四に「如此愚人」より下「生死之罪」に至るこのかたは、まさしく法を聞き仏を念じて、現益を蒙ることを得ることを明かす。

すなはちその十あり。
一にはかさねて造悪の人を牒することを明かす。
二には命延久しからざることを明かす。
三には臨終に善知識に遇ふことを明かす。
四には善人安慰して教へて仏を念ぜしむることを明かす。
五には罪人死苦来り逼めて、仏名を念ずることを得るに由なきことを明かす。
六には善友苦しみて失念すと知りて、教を転じて口に弥陀の名号を称せしむることを明かす。
七には念数の多少、声々間なきことを明かす。
八には罪を除くこと多劫なることを明かす。
九には臨終正念にしてすなはち金華来応することあることを明かす。
十には去時の遅疾、ただちに所帰の国に到ることを明かす。

(現代語訳)

四つに、 「かくの如き愚人」 より 「生死の罪」 までは、 まさしく法を聞き仏を念じて、 現に利益を蒙ることを得ることを明かす。 その中に十ある。
一つには、 重ねて造悪の人であることを明かす。
二つには、 寿命があと長くないことを明かす。
三つには、 臨終に善知識にあうことを明かす。
四つには、 善知識が慰め教えて、 仏の徳を念ぜさせることを明かす。
五つには、 罪人は死の苦が逼せまって、 仏の名号のいわれを心に念ずることができないことを明かす。
六つには、 善知識は、 行者が苦のために念ずることができないのを知って、 教えを転じて、 口に弥陀の名号を称えさせることを明かす。
七つには、 称名の数の多少と、 その声がたえまのないことを明かす。
八つには、 多劫の罪を除くことを明かす。
九つには、 臨終に心乱れず、 そこで金蓮華が来たり迎えることを明かす。
十には、 往生に要する時の遅速を明かす。


とあります。
善導大師は、6番目の「教を転じて口に弥陀の名号を称せしむる」のいわゆる転教口称の念仏と教えられています。「罪人死苦来り逼めて、仏名を念ずることを得るに由なき」とあるように、臨終の苦しみから「仏名を念ずること」もできない状態で、善知識が勧められたことが、転教口称の念仏です。阿弥陀仏のことを念ずることも、名号のいわれを念ずることも、善知識から聞いた教えを思い出すことができなくても、口で「南無阿弥陀仏」と称えることで往生できることを教えられた箇所です。

親鸞会では全く受け入れられない教えですが、善導大師は究極的にはただ口に称えるだけで往生できると誓われたのが18願だと解釈されたのです。

参考までに親鸞聖人は『唯信鈔文意』で『観無量寿経』下品下生を

「汝若不能念」といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。

と解釈されています。「称名を本願と誓ひたまへる」です。

善導大師が仰る「弥陀の願意」も知らなければ、転教口称の念仏も完全否定する高森顕徹会長が、善導大師の二河白道の譬喩について正しく説明できるはずもありません。

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2020年6月12日 (金)

国語の問題である「もろもろの行業を回して」の意味

二河白道の譬喩で、親鸞会が以前から「白道」を信前の求道とした解釈の根拠が、

「人道の上を行きてただちに西に向かふ」といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。

です。これは善導大師の『散善義』でも親鸞聖人が引かれた『教行信証』信巻でも同じです。「もろもろの行業を回して」だから、諸善を回向しての意味だ、という理屈です。

しかし、親鸞聖人は、白道を信後の信心の意味でしか仰っていないことを、その場凌ぎの詭弁とは言え高森顕徹会長が認めたという前提で考えるなら、少なくとも親鸞聖人は「もろもろの行業を回して」を諸善を回向して、つまり諸善をして、という解釈をなされていないのは高森会長も認めていることになります。他力信心の道を進んでいる人が、諸善に拘ることはあり得ないからです。

では善導大師は諸善をしてという意味で仰ったのかという話ですが、善導大師も二河白道の譬喩は、「信心守護」の譬えであり、「白道」は「清浄願往生心」ですから、他力の信心で「白道」を「西に向かう」のならば、「もろもろの行業を回して」は、諸善を回向してではなく、諸善を捨てての意味にしかなりません。

なお、この譬え話の中で「」という字が使われているところを挙げますと、

まさしく到り回らんと欲すれば
われいま回らばまた死せん
なんぢ、回り来れ
この人喚ばふ声を聞くといへどもまた回顧せず
あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚ばひ回す

ですが、これらすべて「転回する」「戻る」という意味です。
このことを考えても、「もろもろの行業を回して」は諸善に拘っていた心を転回して、つまり諸善を捨てて、と理解することは自然な解釈です。

また譬え話の流れから言ってでもそれ以外の解釈は成り立ちません。

行者は東の岸で三定死を迎え、東の岸にいる時に西の岸の人の喚び声を聞いて、「人道の上を行きてただちに西に向かふ」のですから、信後の他力信心を獲た後の話です。

『散善義』の譬えの部分では

この念をなす時、東の岸にたちまち人の勧むる声を聞く。
「なんぢ、ただ決定してこの道を尋ねて行け、かならず死の難なからん。 もし住まらば、すなはち死せん>」と。
また西の岸の上に人ありて喚ばひていはく、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と。
この人すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづから身心を正当にして、決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず。

です。東の岸の人(釈尊)と西の岸の人(阿弥陀仏)の勧めに順って、「すなはちみづから身心を正当にして、決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず」を譬えの解説では「人道の上を行きてただちに西に向かふ」と仰っているのです。

行者の心は、「身心を正当にして」「決定して」「疑怯退心を生ぜず」ですから、信心を獲たことの表現以外の何物でもありません。「身心を正当にして」「決定して」「疑怯退心を生ぜず」の心で、「もろもろの行業を回して」です。

問い

「もろもろの行業を回して」とはどんな意味か。

国語の問題としては、良問と言えますが、答えは1つしかありません。

答え

諸善を捨てて

もしこれ以外の解釈が成立するというのであれば、国語は無視という姿勢か国語の能力が著しく劣っているかのどちらかですので、一般の人とは話が通じない人なのでしょう。

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2020年6月 6日 (土)

仏教の基本である「清浄」の意味を知っていれば、高森顕徹会長の主張の間違いが簡単に判ります

親鸞聖人は、『教行信証』信巻に二河白道の譬喩を引いておられますが、それは善導大師の『散善義』にある原文とは若干の読み替えが見られます。意味が変わるような読み替えではないのですが、高森顕徹会長はそれを自力と他力の違いと適当なことを言っているのです。

親鸞聖人が関東の同行に対して二河白道の譬喩を書いて送られたことは、前回紹介したお手紙で判りますが、その二河白道の譬喩が、信巻にある内容なのか善導大師の原文なのかまでは判別できませんので、親鸞会に揚げ足を取られないように、原文の方でこの後解説していきます。

二河白道の譬喩は『散善義』の上品上生にある回向発願心釈で善導大師が創作せられた譬喩です。まず最初に

また一切の往生人等にまうさく、いまさらに行者のために一の譬喩を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。何者かこれなるや。

と仰っています。この譬喩は、「信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん」ですので、信心についての譬喩だということです。もちろん、他力真実信心についての譬喩です。

この時点で高森会長の主張が間違いであることが証明されてしまいました。これで終わりです。

しかし、それではつまらないので、譬喩の中身も見ていきます。

前提は、聖道門の信心とは煩悩との戦いで煩悩に打ち勝っていくというものですが、他力の信心はそれとは全く違うので、それを聖道門から非難されるということです。それで「外邪異見の難を防がん」なのです。

その信心の直接的な譬えと解説が

「中間の白道四五寸」といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ。すなはち貪瞋強きによるがゆゑに、すなはち水火のごとしと喩ふ。善心微なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ。

です。煩悩と戦って打ち勝っていく信心ではなく、煩悩の中に生ずる「清浄の願往生心」です。通仏教の定義として「清浄」とは不浄の煩悩の無いことですから、煩悩があるままで「清浄」の心を自力で起こすことは不可能です。

『教行信証』真仏土巻に『涅槃経』を引かれて

四つには心清浄のゆゑに。心もし有漏なるを名づけて不浄といふ。

とある通りです。

なお、親鸞聖人は、善導大師の「すなはち貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ。」を

すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。

と読み替えられたので、この「生ずる」と「生ぜしむる」の違いが自力と他力との違いだと高森会長はこじつけたのですが、「清浄」の意味を知っているなら、そんな解釈は成り立ちません。

ついでですから煩悩しかない凡夫に「清浄願往生心」が「生じる」あるいは「生ぜしむる」ことがあるのかについて親鸞聖人は、証巻で『浄土論註』を引かれてこう教えられてます。

問うていはく、衆生清浄といへるは、すなはちこれ仏と菩薩となり。かのもろもろの人・天、この清浄の数に入ることを得んや、いなやと。
答へていはく、清浄と名づくることを得るは、実の清浄にあらず。たとへば出家の聖人は、煩悩の賊を殺すをもつてのゆゑに名づけて比丘とす、凡夫の出家のものをまた比丘と名づくるがごとし。また灌頂王子初生のとき、三十二相を具して、すなはち七宝のために属せらる。いまだ転輪王の事をなすことあたはずといへども、また転輪王と名づくるがごとし。それかならず転輪王たるべきをもつてのゆゑに。かのもろもろの人・天もまたまたかくのごとし。みな大乗正定の聚に入りて、畢竟じてまさに清浄法身を得べし。まさに得べきをもつてのゆゑに、清浄と名づくることを得るなりと。

(現代語訳)

問うていう。衆生世間清浄といったのは仏と菩薩についてである。浄土に往生する人間や神々もこの清浄の衆生の中に入るのであろうか。
答えていう。清浄ということはできるが、本当の清浄ではない。たとえば、出家した聖者は煩悩を滅しているから比丘といわれるが、まだ煩悩を滅していない凡夫が出家しても比丘といわれるようなものである。また転輪聖王の王子は、生れた時に三十二相をそなえ七宝を持っている。まだ転輪聖王の仕事をすることはできないが、転輪聖王といわれるようなものである。それは必ず転輪聖王となるからである。浄土に往生する人間や神々もその通りであって、みな大乗の正定聚に入ってついには清浄法身を得ることができる。だから清浄ということができるのである。

他力の真実信心を頂いたからといっても、「清浄」の心や身が凡夫の中に存在しているのではなく、死後に「清浄」の浄土に往生して「清浄」の心と身を得られることを「衆生清浄」と仰ったものだということです。したがって、「清浄願往生心」を頂いても絶対の幸福というような特別な境地になることはありません。だから、「四五寸」の「善心微なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ」なのです。

今回は、仏教の基本である「清浄」の意味を知っていれば難しい内容ではないと思いますが、仏教の基本である「清浄」の意味さえ知らない親鸞会の会員ではチンプンカンプンの内容だったと思います。

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2020年6月 3日 (水)

びっくり仰天解釈の後は、何事もなかったかのように元に戻った二河白道の説明

高森顕徹会長は雲隠れしたままですが、高森会長が親鸞聖人の教えを正しく伝えようという気がないのは、その態度からも明らかです。

親鸞聖人が同行に最も伝えられたかったことは何か、ということを知る手掛かりは、親鸞聖人が関東の同行に出されたお手紙にあります。『末灯鈔』に

ちからを尽して『唯信鈔』・『後世物語』・『自力他力の文』のこころども、二河の譬喩なんど書きて、かたがたへ、ひとびとにくだして候ふ

(現代語訳)

力を尽して『唯信鈔』や『後世物語聞書』や『自力他力事』の内容や、 二河の譬えなどを書いて、 各地の人々にお送りしました

とあります。親鸞聖人が大変に尊敬されていた聖覚法印と隆寛律師の著書と、二河白道の譬喩について、特に力を尽くされて書き写されて送られたと仰っています。
聖覚法印と隆寛律師は、法然上人の教えそのままに念仏一行を勧められた方々です。親鸞聖人が念仏一行を同行に教えられていたことは、疑う余地のないことになります。それと共に二河白道の譬喩を親鸞聖人が教えられていたこともまた、疑う余地がありません。

この二河白道の譬喩について今回は述べたいと思います。

根本的な話として、白道は信前の自力の求道か、信後他力の念仏の道なのかという問題があります。高森会長は前者だと言い続けていたので、それは完全な間違いで後者だとして私はこう表現してきました。

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

8年以上前に、親鸞会に叩き付けた親鸞聖人の仰せと高森会長の主張との違い10項目の1つです。

これに対してそのうち反論があるものと期待していたところ、平成24年12月に行われた講師部講義(特専部も参加)で突如このようなことを言ったので驚きました。平成25年2月号の『顕真』にこう書かせています。

「白道」は自力か、他力か

 講師部・特専部への昨年12月のご講義で、高森先生は、本誌10月号の「ひと口問答」を詳しくご解説くださった。
「白道」を自力の心というのは間違いだ、と非難してくるのは、本願寺でもかなりの学者と見られる。それを、どう破られているのだろうか。

私が非難しているのですから、この私のことを指して「本願寺でもかなりの学者と見られる」としたのです。本願寺からこのような非難はありませんし、私は本願寺の学者でもありません。私の

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

この非難を、「本願寺でもかなりの学者と見られる」と言わざるを得なかったのは、高森会長がどんな詭弁を使ってでも誤魔化せず、しかもかつての弟子に見下されたことを認めたくなかった悔しさの表われでしょう。

高森会長が私の非難に対して言ったことを、受講者からの手紙で語らせています。

 善導大師が、二河白道の譬えで「自力」だと教えられた「白道」を、親鸞聖人は「他力」と読まれたことを教えて頂きました。
 また、高森先生は、「白道」とは「他力」ではないかという非難が来ることをとっくの昔に予測され、相手に打ち込ませるようにご説法なされていたことにも驚きました。

要するに、

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

この非難はその通りであるが、

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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善導大師 自力
高森会長 自力

だから、善導大師の教えられ方で親鸞聖人の教えを伝えているのだ、というびっくり反論でした。

結局は、親鸞聖人の教えでは白道は他力だと認めたのですが、高森会長は未だに白道を自力で教え続けているのですから、会員の頭の中は”高森先生の深い御心”と思考停止するしかありません。もちろん、善導大師も親鸞聖人と同じで、白道を信後の道で仰っていますので、びっくり詭弁も通用しません。

次回以降、詳しく解説していきます。

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2018年12月 5日 (水)

教学的にはほぼ完璧と称賛する『教行信証講義』をパクった高森顕徹会長の白道釈

質問が来ましたので、それに答える形でエントリーを書きます。

親鸞会が白道を信前自力の意味とする最大の根拠が『散善義』にある

「人道の上を行きてただちに西に向かふ」といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。

です。

もろもろの行業を回しては諸善を回向してだから、自力で求道していく意味だ

というのです。実は、これは高森顕徹会長オリジナルの解釈ではなく、そのように解釈してきた学者がいるので、それを使っているのは間違いないです。
実際、親鸞会を辞めようとする人が高森会長の説明する二河白道の譬え話に矛盾があることを指摘すると、最近よく出してくるのが山辺習学・ 赤沼智善共著の『教行信証講義』です。この『教行信証講義』は親鸞会で、教学的にはほぼ完璧とされている書です。ここでは内容は紹介しませんが、高森会長が『教行信証講義』をパクってこのように言っていることは、間違いないでしょう。

回して」は「翻して」という意味と「回向して」の意味もあり、両方とも善導大師は著書の中で使われていますので、文字通りの読み方をすれば、『教行信証講義』や高森会長の説明も一理はあるように思えます。

しかしここでの「回して」は、「翻して」の意味にしかなりません。

いつも言うように、親鸞会が出している根拠の前後を見れば、それが間違いだとすぐに判るのです。

人道の上を行きてただちに西に向かふ」ですが、これは譬え話の中にそのまま書かれてはいません。該当部分を抽出すると、

三定死に続けて行者が語った言葉の

一種として死を勉れずは、われむしろこの道を尋ねて前に向かひて去かん。

とその後実際に白道を進んだ

決定して道を尋ねてただちに進みて

一心にただちに進みて道を念じて行けば

です。この3つ共、悪知識の言うことに逆らって進んでいるのです。悪知識の言っていることが、「諸善をせよ」ですから、それを実行していたら悪知識に信順して東の岸にいることになります。しかも「ただちに西に向かふ」のですから、回り道をしていない、つまり他力の道です。

もっと言うならば、阿弥陀仏の喚び声である「一心正念にしてただちに来れ」に対応して「ただちに西に向かふ」のです。阿弥陀仏が「ただちに来なさい」と喚ばれて、それに信順して「ただちに向かいます」です。

ですから、「もろもろの行業を回して」は、「悪知識の勧める諸善を捨てて」になるのです。

以上は善導大師の仰った内容で説明しています。親鸞聖人は、他力の信心についての説明をしている中でこれを出されていますので、尚更です。

三願転入にしてもそうですが、学者は今までになかった新しい解釈をしてそれを発表することで名声を得ようとするので、信心とは関係ないところで机上の空論が展開される傾向にあります。

覚如上人、蓮如上人が取り上げることすらされなかった三願転入を大々的に議論するのが学者の仕事です。その学者の説を鵜呑みにすることはやめた方が宜しいでしょう。

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2018年11月30日 (金)

高森顕徹会長の、その場凌ぎの思い付き行き当たりばったり教義など、聖教をまともに読んだら誰でも簡単に論破できます

二河白道の譬え話について、善導大師が何を白道で譬えられたのかとの質問がありましたので、少し解説します。

二河白道の譬えを一から説明すると長くなるので、前提として、
・三定死は白道に乗る前の東の岸にいるとき
・西の岸の人の喚び声を聞くのは東の岸にいるとき

を最低限判っていることとします。

以下、善導大師の著わされた『散善義』から

まず東の岸で行者が白道に乗るかどうか迷って三定死になった後

この念をなす時、東の岸にたちまち人の勧むる声を聞く。
「なんぢ、ただ決定してこの道を尋ねて行け、かならず死の難なからん。 もし住まらば、すなはち死せん>」と。
また西の岸の上に人ありて喚ばひていはく、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と。

東の岸の人は、「ただ決定してこの道を尋ねて行け
西の岸の人は、「一心正念にしてただちに来れ

そして行者は

この人すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづから身心を正当にして、決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず。

となります。「決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず」です。
なお、「疑怯退心」とは、「疑ったり、恐れたりして、しりごみする心」です。

そして進んで行った結果は

一心にただちに進みて道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。

です。「一心にただちに進みて道を念じて行けば」「西の岸に到りて」です。

決定して」「一心に」「疑怯退心を生ぜず」はどんな信心か考えてみてください。

以上が譬え話の内容から、白道に乗る心を抽出したものです。

次に、譬えを善導大師がどう解説されているかについてみてみます。

「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。

西の岸の人の喚び声は、「弥陀の願意」です。もちろん18願意のことであって、19願意ではありません。

白道を進むことについて

仰ぎて釈迦発遣して指して西方に向かはしめたまふことを蒙り、また弥陀悲心をもつて招喚したまふによりて、いま二尊の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得て

とあります。「二尊の意に信順して」です。釈尊の意についてはこの譬え話では明確に仰っていませんが、阿弥陀仏の意に関しては、18願意です。18願意に「信順して」です。更には「かの願力の道に乗じて」ですから、18願力の道に乗ったことです。その結果、浄土に生まれることができた、という内容です。

ここまでくれば説明は不要でしょうから、次の質問に容易に答えられると思います。ただし、思考力が微かでも残っていれば。

問 善導大師は信前の求道心・聞法心を白道で譬えられたのか18願の真実信心を白道で譬えられたのか、どちらでしょうか?

高森顕徹会長の、その場凌ぎの思い付き行き当たりばったり教義など、聖教をまともに読んだら誰でも簡単に論破できます。

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2018年11月25日 (日)

創作二河白道の譬え話で、苦境に陥っていることが判る高森顕徹会長率いる親鸞会

本日の高森顕徹会長の話は、二河白道の譬え話を使っての、「欲と怒りと戦って命がけで聞かなければならない」という求道の強調でした。

「白道」は、求道心、聞法心だとのこれまで通りの説明です。以前に、

親鸞聖人は「白道」を他力で教えられているが、善導大師は自力で教えられていて、善導大師の教えられ方でワシは話をしているのだ

との大ボケの珍説を披露したこともなかったこととして、金集め人集めの正当化に必死になっている様子です。
「白道」が、他力の信心であることは、これまで耳にタコができるほど言ってきましたし、一時的にせよ、高森会長も親鸞聖人に限定して、それを認めていたわけですから、今更説明するまでもないことです。
今回は少し違う角度から高森会長の創作教義の嘘を暴いていきます。

蓮如上人が、名人の解釈だから、その解釈には無条件に従うとまで大絶賛されている存覚上人の書かれた『持名鈔』には、このようにあります。

されば仏法を行ずるには、家をもすて欲をもすてて修行すべきに、世をもそむかず名利にもまつはれながら、めでたき無上の仏法をききて、ながく輪廻の故郷をはなれんことは、ひとへにはからざるさいはひなり。

釈尊などの聖道門での求道の実例を挙げられた後にこのように続いていますので、

聖道門では「家をもすて欲をもすてて修行すべき」求道であるのに対して、浄土門では、「世をもそむかず名利にもまつはれながら、めでたき無上の仏法をききて、ながく輪廻の故郷をはなれんこと」だと教えられています。世間の流れに逆らうこともなく、名利の欲にまみれたまま、無上の阿弥陀仏の18願を聞いて、出離するのだということです。

もう一度、高森会長の説明は

欲と怒りと戦って命がけで聞かなければならない

これが存覚上人と同じだと思うなら完全に思考停止でしょう。

念のため、蓮如上人のお言葉、『御一代聞書』

一 前々住上人(蓮如)、南殿にて、存覚御作分の聖教ちと不審なる所の候ふを、いかがとて、兼縁、前々住上人へ御目にかけられ候へば、仰せられ候ふ。名人のせられ候ふ物をばそのままにて置くことなり。これが名誉なりと仰せられ候ふなり。

(現代語訳)

蓮悟さまが、蓮如上人のおられる南殿へおうかがいし、存覚上人の著わされたお聖教に少し疑問に思うところがあるのを書き出して「どういうことでしょうか」と、上人にお見せしました。
すると上人は、「名人がお書きになったものは、そのままにしておきなさい。
こちらの考えが及ばない深い思し召しのあるところが、名人の名人たるすぐれたところなのである」と仰せになりました。

如何でしょうか。存覚上人の「世をもそむかず名利にもまつはれながら、めでたき無上の仏法をききて、ながく輪廻の故郷をはなれんこと」は蓮如上人のお考えとも一致しています。

では親鸞聖人はどうでしょうか。親鸞聖人のお言葉はいくつもありますが、最も判りやすいのが『教行信証』信巻にある阿闍世の獲信物語です。

阿闍世の獲信後の言葉は

世尊、われ世間を見るに、伊蘭子より伊蘭樹を生ず。伊蘭より栴檀樹を生ずるをば見ず。われいまはじめて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る。伊蘭子はわが身これなり。栴檀樹はすなはちこれわが心、無根の信なり。無根とは、われはじめて如来を恭敬せんことを知らず、法僧を信ぜず、これを無根と名づく。

(現代語訳)

世尊、世間では、伊蘭の種からは悪臭を放つ伊蘭の樹が生えます。伊蘭の種から芳香を放つ栴檀の樹が生えるのを見たことはありません。わたしは今はじめて伊蘭の種から栴檀の樹が生えるのを見ました。伊蘭の種とはわたしのことであり、栴檀の樹とはわたしの心におこった無根の信であります。無根とは、わたしは今まで如来をあつく敬うこともなく、法宝や僧宝を信じたこともなかったので、これを無根というのであります。

です。阿闍世には、命がけの求道も聞法もなかったとの告白で、それを親鸞聖人が紹介されているのです。なお、阿闍世の獲信物語は、『教行信証』全体の約1割を占めていますので、代表的”求道”を親鸞聖人が紹介されたということです。

三願転入の復活と会費の値上げ、そして命がけの求道の捏造と続いていることから判るのは、親鸞会の苦悩の表面化です。この傾向は、ますます顕著になってくるでしょう。

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2018年9月16日 (日)

国語の問題よりもさらに深刻な人間性に問題のある高森顕徹会長と愉快な仲間達

本日の高森顕徹会長の話は、意地になっての二河白道の譬えを入れてきました。二河白道の譬えを話することができない、と煽ったので、反応した、といういつも私が言っている通りの展開です。高森会長の単純な性格が皆さんにも判られたと思います。

内容については、修正があるどころか、開き直りで、いつもの創作ヘンテコ話でした。

白道は仏教を聞こうと思う弱い聞法心

としたり、

見えない彼岸
仏教を聞くということは、白道を見えない西に向かって進むことだ

と言ったり、親鸞聖人の教えを正しく伝えようとか、間違えて伝えたら腹を切るとか、そんな気の更々ない無責任極まりない、会員を騙す気満々です。

今更ですが、

白道=他力信心

は揺るぎないし、高森会長自身が、

親鸞聖人は白道を他力で教えられている

と言っていたことも、ワシはそんなこと言ってない、で済ますのでしょう。

これが高森顕徹と言う人物の実相です。

白道については、散々説明してきましたので、今回は彼岸、西の岸が見えないのかどうかについて説明します。

『教行信証』信巻でも、元の『散善義』でも

この道東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩

この河、南北に辺畔を見ず、中間に一つの白道を見る、きはめてこれ狭少なり。二つの岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべき。

となっています。東と西の岸との距離は「百歩」「二つの岸あひ去ること近し」です。

これをどう読んだら、西の岸、彼岸が見えないとなるのでしょうか。ここまでくると国語の問題ではありません、人間性の問題です。

これでも高森会長を擁護する会員は、同類で人間性に問題があるのです。

ついでに、本日の高森会長の話で、親鸞聖人が善導大師のことを「大心海化現の善導」と仰っているとありました。それが間違いと言いたいのではなく、親鸞聖人は、遭われたこともない他人である善導大師のことを仏の化身だと断言されていることです。

『高僧和讃』に

大心海より化してこそ
 善導和尚とおはしけれ
 末代濁世のためにとて
 十方諸仏に証をこふ

とあります。善導大師だけではありません。他の高僧方も仏や勢至菩薩の化身と親鸞聖人は断言されていますし、当然ながら七高僧方が往生されたことも断言されています。
親鸞聖人の体験でこのように知らされたのかと言えば、前回のエントリーで紹介したW氏の日本語講座で、

他人の体験は自覚できない

と教えてくだされた通りです。それなのに親鸞聖人は断言されています。
親鸞聖人の断言、「まことに知んぬ」が何を意味しているかは、基礎学力があれば簡単にわかる話です。

会員も国語の能力を一般人並みにするように勉強し直してみてはいかがでしょう。その前の人間性に問題がある会員は、高森会長と同じ所へ行ってください。

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2018年8月 5日 (日)

創価学会の真似をして人集めに血眼になっている高森顕徹会長

本日は追悼法要という名目で、大大的に宣伝をし、高森顕徹会長の動画を一般に公開してまで必死の人集めの結果、人数だけは昨年の報恩講並であったようです。
それだけを見ると親鸞会は息を吹き返したのかと思われるかもしれませんが、かなり無理していることは、様々なところで表面に現われています。その1つが、御供物でしょう。一般の行事と変わりません。最も気を遣い、お金を使ってきたところへ回すお金が不足しているのです。かなり、切羽詰まっているところまで追い込まれているようです。

次回、御供物が増えたら、皆さんで笑ってあげてください。

さて、本日もはっきりしない話をだらだらしていましたが、絶対の幸福という創価学会の真似が主で、その説明に仏凡一体という言葉を使っていました。

真実信心を知らない高森会長ではこの程度の説明で誤魔化すしかないのでしょうが、真実信心と仏凡一体は、二河白道の譬えで説明できます。

先月のエントリー

白道は凡夫自力の迷心でも凡夫我執の心でもない、この当たり前の事実が理解できない高森顕徹会長と愉快な仲間達

でも紹介しました存覚上人の『浄土真要鈔』がそのことについて詳しいです。
上記のエントリーでは

この一念帰命の信心は、凡夫自力の迷心にあらず、如来清浄本願の智心なり。
しかれば、二河の譬喩のなかにも、中間の白道をもつて、一処には如来の願力にたとへ、一処には行者の信心にたとへたり。「如来の願力にたとふ」といふは、「念々無遺乗彼願力之道」といへるこれなり。こころは、「貪瞋の煩悩にかかはらず、弥陀如来の願力の白道に乗ぜよ」となり。「行者の信心にたとふ」といふは、「衆生貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心」といへるこれなり。こころは、「貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ず」となり。されば、「水火の二河」 は衆生の貪瞋なり。これ不清浄の心なり。「中間の白道」は、あるときは行者の信心といはれ、あるときは如来の願力の道と釈せらる。これすなはち行者のおこすところの信心と、如来の願心とひとつなることをあらはすなり。したがひて、清浄の心といへるも如来の智心なりとあらはすこころなり。もし凡夫我執の心ならば、清浄の心とは釈すべからず。

で、「白道」は、「如来の願力」と「行者の信心」の二通りで譬えられることを仰った後、「行者の信心」は、行者の「不清浄の心」に「如来の智心」である「清浄の心」がおきるのだと説明しました。
そしてこの後に存覚上人はこう続けられています。

このゆゑに『経』には、「令諸衆生功徳成就」といへり。こころは、「弥陀如来、因位のむかし、もろもろの衆生をして功徳成就せしめたまふ」となり。それ阿弥陀如来は三世の諸仏に念ぜられたまふ覚体なれば、久遠実成の古仏なれども、十劫以来の成道をとなへたまひしは果後の方便なり。これすなはち「衆生往生すべくはわれも正覚を取らん」と誓ひて、衆生の往生を決定せんがためなり。しかるに衆生の往生定まりしかば、仏の正覚も成りたまひき。その正覚いまだ成りたまはざりしいにしへ、法蔵比丘として難行苦行・積功累徳したまひしとき、未来の衆生の浄土に往生すべきたねをばことごとく成就したまひき。そのことわりをききて、一念解了の心おこれば、仏心と凡心とまつたくひとつになるなり。

難しい語はありませんので、概ねお判りになられると思いますが、最後の

法蔵比丘として難行苦行・積功累徳したまひしとき、未来の衆生の浄土に往生すべきたねをばことごとく成就したまひき。そのことわりをききて、一念解了の心おこれば、仏心と凡心とまつたくひとつになるなり。

で仏凡一体について説明されています。
法蔵菩薩の「難行苦行・積功累徳」によって「未来の衆生の浄土に往生すべきたね」を成就された、そのことを聞いて、それをそのまま聞いたことを「仏心と凡心とまつたくひとつになる」と仰っています。
もっと簡潔に言うなら、法蔵菩薩が我らが往生する因を法蔵菩薩が御修行によって用意されて、その通りと聞いたことを真実信心と言い、仏凡一体と言われるのです。

したがいまして、衆生の側で、何かをしなければならないことはないのです。
善をしなかれば、三願転入しなければ、宿善を厚くしなければ、
というのは間違いであるどころか、その通りと聞く妨げになるのです。
何かをする必要があると考えるのは、法蔵菩薩の「難行苦行・積功累徳」ではまだ不足だという考えであり、「そのことわりをききて、一念解了の心」が起きないからです。

そう聞くのは一念でも、それまでは何かをしなければ…

が間違いです。法蔵菩薩の「難行苦行・積功累徳」にケチをつけている心です。

二河白道の譬えでいうなら、阿弥陀仏の「浄土までいく白道に乗りなさい」との喚び声に、「はい」と白道に乗るだけです。白道に乗るために何かが必要だとはどこにも教えられていないのです。

そして白道の乗ったことを仏凡一体というのですが、白道に乗ったら、何かが変わったかと言えば、何も変わっていません。
白道の幅も長さも、水の河も火の河も、西の岸の様子も見え方も、東の岸の群賊悪獣悪知識も、何も変化していません。

ですから、真実信心を獲ても、表面上は何も変わりませんし、ましてや絶対の幸福なる空想の境地に出ることも絶対にありません。

信前信後の水際も変化も、仏凡一体も、全て二河白道の譬えで顕わされているのです。

この程度の簡単な説明もできない高森会長の話を聞いて、得られる物は、貧と恥のみです。

人集めには、創価学会の真似が手っ取り早いと考えている高森会長の浅はかさに、会員も早く気付くベきです。

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2018年7月29日 (日)

二河白道の譬えを曲げに曲げ続けた結果、簡単な話が判らなくなった高森顕徹会長と愉快な講師部員

自称退会者を論破さんからコメントを頂きました。

コメントを載せることができなくなった時点で、完全敗北宣言と同じです。過去同じことを何十回も繰り返してきたのに、それらの教訓が何も活かされていない全く学習能力のない講師部員だとよく判ります。

さて、本日の高森顕徹会長の話は、無碍の一道についてでした。

「碍」は煩悩のことで、その煩悩が無くなるのではなく障りとならなくなる世界。

と説明していました。
この後「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」を出して補足していました。

無碍」の定義からするとこの説明は間違っているのですが、意図することは間違いではありません。

ただし、これを言いたいのであれば、二河白道の譬えを使えば良いのです。

白道が、信後の他力信心を譬えられていることは、これまでくどいほど述べてきた通りですが、それが理解できている前提で以下話をします。

『教行信証』信巻に

一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし、南北辺なし。まさしく水火の中間に一つの白道あり、闊さ四五寸ばかりなるべし。この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿す。その火焔(焔、けむりあるなり、炎、けむりなきほのほなり)また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなけん。

とありますが、これは白道に乗る前の描写です。しかし、白道に乗った後も、二河が変化したとはありませんので、この通りだということになります。
それが『一念多念証文』の

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。

になります。
つまり、白道である他力の信心は、「その水の波浪交はり過ぎて道を湿す」「その火焔また来りて道を焼く」という状態であるのに、途切れることもなく障りとならないのだと、善導大師、親鸞聖人が教えられているということです。

譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」を二河白道の譬えで説明するなら、

たとえれば白道が水火の波に覆はれていても、水火で白道が途切れることなく細くても確実に西の岸に続いているようなものだ。

ということです。白道が変化するわけでも西の岸が近くなるわけでもありません。

水と火の波が全く障りとならない白道、と説明すれば合格ですが、いつまで経っても0点が続く高森会長と愉快な講師部員でした。

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