二河白道

2017年5月14日 (日)

無碍の一道と絶対の幸福の違い

昨日と今日の降誕会では、「白骨の章」の話だったそうですが、無常観という真実の自己がハッキリと知らされないと救われないとか高森顕徹会長は言って、当ブログへの反論を試みたようです。もちろん、そんな根拠はありません。
また『なぜ生きる』を「平成の教行信証」と呼ばせて、高森顕徹会長は御満悦な様子で、良くできた落語のようです。

さて相変わらず、絶対の幸福の連呼をしていますが、絶対の幸福は「無碍の一道」の言い換えと妄想を膨らませているとしか言いようがありません。

まずは『歎異抄』第7条

念仏者は無碍の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなりと[云々]。

ここの「信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなき」ですが、これは二河白道の譬えの白道に乗った後の話と同じ内容です。

”親鸞聖人の教えられた”二河白道の譬えでは、

この人、すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに、東の岸の群賊等喚ばひていはく、〈きみ回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。かならず死せんこと疑はず。われらすべて悪心あつてあひ向かふことなし〉と。この人、喚ばふ声を聞くといへども、またかへりみず、一心にただちに進んで道を念じて行けば、

(現代語訳)

この人は、もはや、こちらの岸から<行け>と勧められ、向こうの岸から<来るがよい>と喚ばれるのを聞いた以上、その通りに受けとめ、少しも疑ったり恐れたり、またしりごみしたりもしないで、ためらうことなく、道をたどってまっすぐ西へ進んだ。そして少し行った時、東の岸から、盗賊などが、<おい、戻ってこい。その道は危険だ。とても向こうの岸までは行けない。間違いなく死んでしまうだろう。俺たちは何もお前を殺そうとしているわけではない>と呼ぶ。しかしこの人は、その呼び声を聞いてもふり返らず、わき目もふらずにその道を信じて進み、

です。
譬えの解説部分では、

〈あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚び回す〉といふは、すなはち別解・別行・悪見の人等、みだりに見解をもつてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失すと説くに喩ふるなり。

(現代語訳)

<少し行くと盗賊などが呼ぶ>というのは、本願他力の教えと異なる道を歩む人や、間違った考えの人々が、<念仏の行者は勝手な考えでお互いに惑わしあい、また自分自身で罪をつくって、さとりの道からはずれ、その利益を失うであろう>とみだりに説くことをたとえたのである。

です。
絶対の幸福と言えるような特別な境地の幸福感が獲られるのではなく、親鸞会的に言うなら、信心が金剛の心になったということを例えられただけです。
その証拠にこの二河白道の譬えの前に

この心、深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。

(現代語訳)

この心は金剛のようにかたい信であるから、本願他力の教えと異なるどのような人々によっても、乱されたり砕かれたりすることはない。

とありように、信心が「動乱破壊」されないことを説明する譬えなのです。重要なのは「信心が」です。「信心以外のことが」「動乱破壊せられず」ではありません。

話を戻しますと「無碍の一道」に出た人の説明だと高森会長が言っている「信心の行者」とは、要するに、「深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。」のことであって、大安心大満足というような、特殊な幸福感とは異質のものだと言うことです。

信心の内容が理解できないでいる高森会長にはチンプンカンプンで、会員には頭が混乱する内容かもしれませんので、まとめると、

『歎異抄』第7条の「何物も障りとならない」とは信心についてのことであって、他のことについては障りだらけで、信のない人と何も変わらない

ということです。

引用の根拠が殆どない『なぜ生きる』を、膨大な引文で埋め尽くされた『教行信証』と同列に考えるようなオカルトチックな感覚では、根拠を多用する当ブログ自体を理解できなくて当然でしょうが、信後の境地とはこういうことです。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2017年5月 9日 (火)

”親鸞聖人の教えられた二河白道の譬え”から見る絶対の幸福

最近の親鸞会は、やたらと絶対の幸福を強調しています。大学の新入生を含めた非会員を意識しているのでしょうが、創価学会からのパクリ用語を未だに平気で使っているのですから、そのぶれない信念は尊敬に値します。
その絶対の幸福は、信後の境地として高森顕徹会長は説明していますが、親鸞聖人が信後の境地について教えられた話は、二河白道の譬えです。正確には善導大師の創られた譬え話ですが、5年前の講師部講義で、高森会長は突然に奇想天外な珍説を披露しました。

善導大師が、二河白道の譬えで「自力」だと教えられた「白道」を、親鸞聖人は「他力」と読まれた

その内容は、平成25年2月号の『顕真』にも紹介されています。
善導大師と親鸞聖人の教えられ方が違うと説明していることが間違いであることは、言うまでもありませんが、注目すべきは、

「白道」は、親鸞聖人が他力として教えられていることを高森会長が認めた

という事実です。
つまり、信後どのような境地になるのかを親鸞聖人が説明されたのが、二河白道の譬えだということになります。

したがいまして、二河白道の譬えを読めば、信後の境地である絶対の幸福なるものの本質が判る筈です。

”親鸞聖人の教えられた二河白道の譬え”では、水の河と火の河に挟まれ、二河の波のために細い細い白道が隠されて、旅人がなかなか進めない状態です。

念のため、『教行信証』信巻では

一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし、南北辺なし。まさしく水火の中間に一つの白道あり、闊さ四五寸ばかりなるべし。この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿す。その火焔(焔、けむりあるなり、炎、けむりなきほのほなり)また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなけん。

(現代語訳)

一つは火の河で南にあり、もう一つは水の河で北にある。その二つの河はそれぞれ幅が百歩で、どちらも深くて底がなく、果てしなく南北に続いている。その水の河と火の河の間に一すじの白い道がある。その幅はわずか四、五寸ほどである。水の河は道に激しく波を打ち寄せ、火の河は炎をあげて道を焼く。水と火とがかわるがわる道に襲いかかり、少しも止むことがない。

です。
ここは白道に乗る前の表現ですが、白道に乗った後も、この状態は変わっていませんので、親鸞聖人は『一念多念証文』で親鸞会でも有名な次の説明をされています。

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。
かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず安楽浄土へいたれば

白道に乗って白道を歩んでいる人のことを「無明煩悩われらが身にみちみちて…」と仰り、これが信後の境地と親鸞聖人が教えられている明確な根拠です。

では、高森会長の言う絶対の幸福とは、煩悩が身にみちみちて悩み煩い苦しんでいることをいうのなら辻褄があいますが、そんなつもりは毛頭ないでしょう。
要するに、絶対の幸福なんてものは、親鸞聖人の教えにはあり得ないものなのです。

次回は無碍の一道について、述べますので、高森会長も講師も会員も焦らず、まずはじっくり”親鸞聖人が他力で教えられた”二河白道の譬えを読んでみましょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年2月16日 (木)

高森秘事の二河白道の譬え話

信前信後で、何が変わって何が変わらないのかがよく判る話が、二河白道の譬喩です。この譬喩が、高森顕徹会長が話している内容とはかなり違うことを、これまで何度も述べてきました。

高森会長は、白道についての私の非難に反論するために、善導大師と親鸞聖人とは教えられた方が違うとか、おもしろいことを言ったこともありますが、言うまでもなく御二方の譬え話は同じです。

信前信後の話に絞って言いますと、三定死を迎えるのは、東の岸にいる時であり、西の岸にいる人の喚び声を聞くのも東の岸にいる時です。したがいまして、信前信後の違いは、東の岸にいるか白道に乗ったかの違いです。ここで、白道に乗ったこと以外に何かが変わったかどうかです。

・旅人の姿は変わらない。
・東の岸も変わらない。
・白道は四五寸のまま変わらない。
・水の河と火の河も変わらない。
・群賊悪獣悪知識も変わらない。
・東の岸と西の岸の距離も変わらない。
・西の岸も変わらない。
・東の岸の人も変わらない。
・西の岸の人も変わらない。
・西の岸の人から新たな喚び声はない。

要するに、白道に乗ったこと以外には、何も変わらないということです。
そうなると、救われてハッキリするのは、白道に乗ったこと、つまり他力の信心を頂いたことだけで、他にはハッキリすることが何もないということになります。

これは前回の『執持鈔』と同じです。思慮の浅い親鸞会会員は、信後は西の岸が見えるではないか、と反論するかもしれませんが、それは東の岸にいた時と同じ見え方です。

結局、往生一定といっても、白道に乗ったこと、つまりは阿弥陀仏の喚び声に従う以上でも以下でもないということです。善導大師、親鸞聖人が二河白道の譬喩でそのように教えておられるのですから、これ以上屁理屈のつけようがありません。

善導大師、親鸞聖人の譬え話そのままでも、信前信後はこの違いしかないのですが、高森会長のいう白道の途中で信前信後が分かれるとなると、信前信後には違いが何もないことになります。白道の途中で西の岸の人が新たな喚び声を出されていませんし、白道も変わりませんので、何も変化がない、つまりは何一つハッキリすることがないことになります。高森秘事の譬え話では、信前信後の水際がハッキリすることなどない曖昧なものにしかなりません。

高森会長の言っている驚天動地の変化を言いたいのなら、せめて

・白道の四五寸が広い広い大道に変わった。
・水の河と火の河が白道を隠すことがなくなった。
・西の岸が光り輝いてよく見えるようになった。

くらいの大胆な改竄をして言わないと辻褄が合いません。尤もこれに近いことを高森会長は過去に言ったこともありましたので、善導大師、親鸞聖人の譬え話とは大きく異なったオリジナルの譬え話を高森会長が創作したのだといえます。まあ、創作をしたというよりは、寧ろ、善導大師、親鸞聖人の譬え話を知らなくて、適当なことを言っただけでしょう。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2017年1月31日 (火)

高森顕徹会長の語る霊言を信じる絶対の幸福の科学

当ブログを開設してから7年が経ちましたが、その間に、コメント欄で多くの法論をしてきました。しかし、ここ数年は法論以前の低レベルのコメントが大半となってきて、親鸞会の衰退をコメントからも感じます。

高森顕徹会長と親鸞会をこれだけ扱き下ろしているのに、講師も会員も教義的な反論ができないのです。40年来の会員でも、私に対する人格攻撃しかできず、教義には何一つ触れないコメントで荒すのが関の山です。以前から言っていますが、人格攻撃されるのは、嬉しいことです。なぜなら、私の言っていることに反論できない、つまり賛同せざるを得ないと言っているのと同じだからです。
聖教に依らない妄想のコメントも、荒しにしかなりませんので、それが続くなら当然の措置として削除しスパム設定します。
なお、聖教に基づいた理屈の通る反論なら、いつでも大歓迎です。スパム設定を解除します。

さて、ついでですから、二河白道の譬えについて基本的なことをもう少し説明します。

言うまでもなく、二河白道の譬えは善導大師が作られた話です。『散善義』の中で『観無量寿経』の回向発願心を解釈なされたところで出てくるのですが、この譬えの前に

また一切の往生人等にまうさく、いまさらに行者のために一の譬喩を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。

と仰っています。
信心守護の譬えですから、真実信心についての解説であり、求道の譬えではないことは明白です。

この譬えを親鸞聖人は『教行信証』信巻に引かれていますので、親鸞聖人も、真実信心を顕わされたのが二河白道の譬えとされたのは、疑いようのない事実です。19願の意味があるなら、化土巻に二河白道の譬えを引かれるでしょうが、それはありません。

『教行信証』は高森会長にも会員にも難しすぎるでしょうから、『教行信証』をまとめられた『浄土文類聚鈔』で再度説明しますと、二河白道の譬えの解説があるのは、

問ふ。念仏往生の願、すでに三心を発したまへり。論主、なにをもつてのゆゑに一心といふや。

という問いに対する答えの中です。
答えとして18願の三心(至心・信楽・欲生我国)の説明をされた後に

これによりて師釈を披きたるにいはく、「西の岸の上に人ありて喚ばひてのたまはく、〈なんぢ、一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉」と。また〈中間の白道〉といふは、すなはち、貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。仰いで釈迦の発遣を蒙り、また弥陀の招喚したまふによりて、水火二河を顧みず、かの願力の道に乗ず」と。{略出}
ここに知んぬ、「能生清浄願心」は、これ凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なるがゆゑに清浄願心とのたまへり。しかれば、「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり。(後略)

(現代語訳)

そこで、 善導大師の 『観経疏』 をひらくと、 次のようにいわれている。
「西の岸に人がいて、 <そなたは一心に正念してまっすぐに来るがよい。 わたしがそなたを護ろう。 水の河や火の河に落ちるのではないかと恐れるな>と喚ぶ声がする」
また次のようにいわれている。
<水の河と火の河の間にある白い道> というのは、 貪りや怒りの心の中に、 往生を願う清らかな信心がおこることをたとえたのである。 浄土へ往生せよという釈尊のお勧めと、 浄土へ来たれと招き喚ぶ阿弥陀仏の仰せにしたがって、 貪りや怒りの水と火の河を気にもかけず、 阿弥陀仏の本願のはたらきに身をまかせるのである」
これによって知ることができた。 「清らかな信心が起こる」 とは、 凡夫が自力で起す心ではない。 大いなる慈悲により回向された心であるから、 清らかな信心といわれているのである。 そして 「一心に正念して」 というのは、 「正念」 とはすなわち称名である。 称名はすなわち念仏である。 「一心」 とは深い心、 すなわち深心である。

と続きます。

白道=能生清浄願心=凡夫自力の心にあらず

と明確に仰っていますから、二河白道の譬えは、他力の真実信心についてです。
このように二河白道の譬えに、19願はどこにも出てきませんから、二河白道の譬えは三願転入の否定の根拠でもあります。
そもそも、『浄土文類聚鈔』にも、19願も三願転入もないのですから、三願転入の教えなるものは、親鸞聖人にはあり得ないのです。

親鸞聖人が仰ってもいないのに、これが本意だと判るというのは、何とかの科学の総裁の霊言と同じです。高森会長の語る霊言を信じるのは勝手ですが、真宗とは無関係な宗教です。絶対の幸福の科学とでも名乗るのが宜しいかと思います。
また高森会長でさえ言っていない妄想コメントを書き込む会員も、霊言の類なのでしょうから、真宗をやめて改宗した方がいいです。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2017年1月26日 (木)

教えも信心も嘘で塗り固めた高森顕徹会長の実態

真実信心かどうかは二種深信が立ったかどうかと説明しながら、退会者に対して二種深信以外の、これが知らされていないから自力の信心だ、あれが知らされていないから異安心だ、と平気で非難してきます。親鸞会の会員には、矛盾が矛盾と理解できていないようです。

親鸞聖人のお言葉で「まことに知んぬ」とあると、真実信心を獲たら必ず知らされることだと親鸞会は勘違いしていますが、単に高森顕徹会長の嘘に騙されているだけです。

たとえば、『教行信証』信巻の

まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり。

ですが、これは二河白道の譬えの内容について「まことに知んぬ」です。真実信心を獲たからと言って、譬えが何を意味しているかを正確に知らされるはずがありません。ここで知らされたこととは、譬えの内容をこのように理解した、ということです。信心とは別の話です。

否、そんなことはない、真実信心を獲たからこそ知らされたことなんだ

と親鸞会会員は言いかねないので、この御文の内容を見ていきましょう。

現代語訳は

いま、まことに知ることができた。善導大師の二河の喩えの中に「四、五寸ほどの白い道」といわれているが、「白い道」の「白」という言葉は「黒」に対するものである。「白」とはすなわち、阿弥陀仏が因位のときにあらゆる行の中から選び取られた清らかな行であり、浄土往生のために如来より回向された清らかな行であることをいう。「黒」とはすなわち、無明に汚れた行であり、また、声聞や縁覚、人間や神々の修める煩悩のまじった善であることをいう。「道」という言葉は「路」に対するものである。「道」とはすなわち、第十八願の唯一信心の道であり、この上ないさとりを開くすぐれた道である。「路」とはすなわち、二乗・三乗の法、さまざまな行を修めなければならない劣った路である。「四、五寸」とはすなわち、衆生の心身を構成している四大・五陰にたとえたのである。

ですが、判り易い所で、高森会長が途中まで自力の道と主張している「白道」についてのみ見てみましょう。

白=選択摂取の白業、往相回向の浄業
道=本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道

つまり、「白道」とは本願他力の道の意味しかないのです。

ということは、白道は他力と知らされていない高森会長は真実の信心ではないということになります。あるいは高森会長は、白道を善導大師は自力で教えられたのを親鸞聖人が他力で教えられたとか珍説を言ったりしていますので、親鸞聖人の信心と善導大師の信心は違うことにもなります。
それとも、「まことに知んぬ」は、真実の信心を獲て知らされることではないと高森会長の説明を修正するのでしょうか。

いずれにしても矛盾です。

このようなちょっとのことでも、矛盾が噴出しているのが、高森会長の言っている教えです。

参考までに、「まことに知んぬ」と親鸞聖人が『教行信証』で仰っている箇所で、明らかに教えの理解と会員でも認めるであろう御文を挙げておきます。

これすなはち真実の行を顕す明証なり。まことに知んぬ、選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行なり、知るべしと。(行巻)

まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。(信巻)

しかれば大聖の真言、宗師の釈義、まことに知んぬ、この心すなはちこれ不可思議不可称不可説一乗大智願海、回向利益他の真実心なり。これを至心と名づく。(信巻)

まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。(信巻)

しかれば大聖の真言、まことに知んぬ、大涅槃を証することは願力の回向によりてなり。(証巻)

まことに知んぬ、これいましこの『経』に顕彰隠密の義あることを。(化土巻)

高森会長は、無知な上に、信心も偽装していることが明白です。
高森会長の嘘を信じて、親鸞聖人の仰せを否定するのは各々の勝手ですが、親鸞聖人の教えを正しく伝えていると吹聴している高森会長は大嘘つきだということくらいは知っておきましょう。

| | コメント (28) | トラックバック (0)

2017年1月17日 (火)

何がおかしいのかも判っていない高森顕徹会長と会員のための補足

二河白道の譬えの中で出てくる、西岸上の人の喚び声が18願を譬えられたものであることは、高森顕徹会長も認めています。それを前回述べました。そうであるなら、西岸上の人の喚び声を聞いて初めて乗る白道は、信後の意味にしかならないのは言うまでもありませんが、白道を信前の求道心としていることも、大きな矛盾です。というより、高森会長が、二河白道の譬えの内容を正しく把握していないから矛盾にも気が付いていなかったのでしょう。

さて、西岸上の人の喚び声、

なんぢ、一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ

につきまして、親鸞聖人も解説なされています。
その中で「一心に正念にしてただちに来れ」について見てみますと、『愚禿鈔』には、

「一心」の言は、真実の信心なり。「正念」の言は、選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり。
「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。
「来」の言は、去に対し往に対するなり。また報土に還来せしめんと欲してなり。

とあります。

前々回と前回に問題にした18願文の「若不生者」に当たる「直ちに来れ」について、
遠回りである聖道門や19願・20願を捨てて、近道である18願に帰し、「報土に還来せしめんと欲してなり」と教えられています。ですから、「」は浄土に生まれさせるという意味になります。、「信楽」の身に生まれさせるという意味にはなりません。

ではどのようにして来なさい、と仰っているのかというと、「一心正念にして」です。簡単に言うと「一心」真実の信心で「正念」念仏して、です。

この「一心正念」については『浄土文類聚鈔』で更に詳しく解説なされています。

しかれば、「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり。深心はすなはちこれ堅固深信なり。堅固深信はすなはちこれ真心なり。真心はすなはちこれ金剛心なり。金剛心はすなはちこれ無上心なり。無上心はすなはちこれ淳一相続心なり。淳一相続心はすなはちこれ大慶喜心なり。大慶喜心を獲れば、この心三不に違す、この心三信に順ず。この心はすなはちこれ大菩提心なり。大菩提心はすなはちこれ真実信心なり。真実信心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。
度衆生心はすなはちこれ衆生を摂取して、安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心はすなはちこれ畢竟平等心なり。この心はすなはちこれ大悲心なり。この心作仏す。この心これ仏なり。これを「如実修行相応」と名づくるなり、知るべし。

正念」は念仏ですが、問題は「一心」の内容です。18願文の「信楽」にあたる「一心」の言い換えをたくさん出されていますが、図式にすると

信楽
=一心
=深心
=堅固深信
=真心
=金剛心
=無上心
=淳一相続心
=大慶喜心
=三信に順ず
=大菩提心
=真実信心
=願作仏心
=度衆生心
=衆生を摂取して、安楽浄土に生ぜしむる心
=畢竟平等心
=大悲心
=作仏す
=仏なり

となります。
詳しい説明はしませんが、「信楽」とは、最後にある仏のはたらきそのものになりますから、軽々しく、「信楽」の身に生まれ変わるなどというものではありません。我々の煩悩に汚れた心が、仏の心になるのではないことは、少し考えれば判ると思います。
信楽」を頂くことと、、「信楽」の心になることの違いは、ここでも明らかです。

18願文でさえ、まともに解釈できない高森会長に、三願転入とか言って19願・20願の解釈などできる筈もないでしょう。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2017年1月 3日 (火)

これまでの主張を修正するも、誤魔化せないほどおかしい高森邪義

今年最初の高森顕徹会長の話は、本願と本願成就文でした。これまで私は何回か言いましたが、高森会長は批判に対して反応します。三願転入についてmixiでの法論を通して徹底的に高森会長を扱き下ろすと、『なぜ生きる2』を出したのがその典型です。もちろんそれを狙って、扱き下ろしたので、こちらの思惑通りに『なぜ生きる2』を書いてくれて、「ワシはそんなこと言っていない」の名言を封じることに成功しています。今回も本願の話をしない、と何度も書いたので、それに応えるように本願の話を急にし出しただけのことです。高森会長の性格は実に単純です。

本日の話で特徴的なのが、信楽について「往生一定」と説明したことです。どこかを修正することは予想していましたが、その箇所が少し意外でした。

今までは、絶対の幸福と言っていたので、明らかに何かの意図をもっての修正です。

ところで、18願文の言い換えで、高森会長が言っているのが

どんな人をも 必ず助ける 絶対の幸福に

ですが、これとは別の説明が『教学聖典』にあります。

汝―――十方衆生
一心――至心・信楽・欲生
正念――乃至十念
直来――若不生者
護汝――不取正覚
不畏――唯除

二河白道の譬えの中にある西岸上の人の喚び声です。

なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ

今取り上げたい箇所は「一心正念にしてただちに来れ」で、18願文では「至心・信楽・欲生 乃至十念 若不生者」です。
一心正念にしてただちに来れ」にあてはめて18願文を言うと

信楽の心で念仏して生まれさせる

ということになります。
では「生まれさせる」はどう生まれさせるのか。

1.信楽に生まれさせる
2.浄土に生まれさせる

どちらかでしょうか。
1では意味が通じません。

信楽の心で念仏して信楽に生まれさせる

訳が判りません。
2ですとすんなり理解できます。

信楽の心で念仏して浄土に生まれさせる

当たり前のことです。
二河白道の譬えでも、「ただちに来れ」は

ただちに西の岸に来れ

です。

ただちに一心へ来れ

になることはあり得ません。

それでも

「若不生者」の「生」は信楽に生まれさせる

だというなら、『教学聖典』は破棄しないといけないでしょう。

ちなみに、本日の

信楽=往生一定

の説明は、

「若不生者」の「生」は信楽に生まれさせる

との整合性を取るための苦肉の策でしょうが、

一心――至心・信楽・欲生
正念――乃至十念
直来――若不生者

との整合性まで考えの及ばないところが、高森会長らしいです。小手先の修正で誤魔化せるほど私は甘くはありません。

悔しければ、もう少し深い詭弁を、高学歴の講師を集めて考えてみましょう。

| | コメント (11) | トラックバック (0)