正定聚

2018年9月 2日 (日)

国語力の乏しい高森顕徹会長とそれを信じる思考停止の会員

本日の高森顕徹会長の話は、「幸せな人生にガラリと変わる」という代り映えのしないいつもの現世利益の内容でした。

救われたならガラリと変わるとの根拠としてあげた1つが『教行信証』信巻の

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

ですが、なぜそんな珍釈になるのかは、国語力の問題です。

まことに知んぬ」だから救われたらハッキリと正定聚に入ったことが判るのだ、という短絡的な思考です。

一応解説すると、「まことに知んぬ」に直接かかっているのは「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」ですが、弥勒菩薩の成仏の時期を、親鸞聖人が体験で知らされたのなら、親鸞聖人は仏の智慧を得られたことになります。しかし、親鸞聖人はこの時に仏智を得られていないことは御自身も仰っているし、常識的に考えてもないことです。
ではなぜ「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」が「まことに知んぬ」であったのかと言えば、経典にそのように説かれているからです。
同じことで、「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」も経典や釈文を読み解くとこの結論になるだと明らかになったことを「まことに知んぬ」と仰っているのです。

なお、往生即成仏という親鸞聖人の教えの特徴は、七高僧方の仰っていることは異なります。信心を獲た人が死ぬと同時に仏になるとは、七高僧のどなたも仰っていません。もし「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」が知らされなかったなら、信心を獲ていないのだとするなら、七高僧方は異安心になります。

もう一つ言うと、親鸞聖人は御自身のことはたとえ体験で知らされたとしても、他人のことまで体験で知らされることはありません。「念仏の衆生は」であって「親鸞は」でないところが重要です。親鸞聖人以外の「念仏の衆生」も「横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」と体験で知らされることはあり得ません。

ここまでの説明なら、中学生でも理解できることでしょう。

ついでに正定聚についても言っておきますと、『大無量寿仏経』の11願成就文には、

かの国に生るるものは、みなことごとく正定の聚に住す。

とありまして、「かの国に生るる」後に「正定の聚に住す」のです。つまり、浄土に往生後に正定聚に入るということです。
曇鸞大師は『浄土論註』でこのことを

もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得て、すなはち正定聚に入る

と教えられています。浄土に往生した後に正定聚に入るの意味です。

親鸞聖人は、曇鸞大師の解釈を踏まえられた上で、往生後に正定聚に入るとしか解釈のしようの無い11願を敢えて現生のことと解釈なされました。
それを表現されたのが、親鸞聖人が度々なされる漢文の読み替えという方法です。

曇鸞大師の

もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得て、すなはち正定聚に入る

を親鸞聖人は

もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ぜんものと、また往生を得るものとは、すなはち正定聚に入る

と読みかえられました。
また『一念多念証文』でも

もしひと、ひとへにかの国の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生れんと願ふひとと、またすでに往生を得たるひとも、すなはち正定聚に入るなり。

と言い換えられています。

この読み替えにより、「剋念して生ぜんと願ぜんもの」が「すなはち正定聚に入る」とされ、現生正定聚へと意を変えられてしまったのです。

親鸞聖人がこのように解釈をなされた理由は、親鸞聖人が信心を獲られて知らされたからではなく、阿弥陀仏の救いはこうでなければ理屈が通らないという親鸞聖人の理論です。

したがいまして、親鸞聖人の理論上では正定聚にガラリと変わるということは言えたとしても、体験上で正定聚にガラリと変わることはないのです。

この単純なトリックに引っ掛かると、現生で正定聚に入ることができないだけでなく、高森会長が蔑んでいる邪教の信者と同じかもっと酷い末路を辿るのです。

理屈も理論も関係ないという高森会長と思考停止の会員には、理解できないことでしょうが、哀れ哀れです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年12月10日 (日)

親鸞聖人の教えを知らないのだから七高僧方の教えなど何一つ知らない高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話は、いつも通り支離滅裂です。仏教と親鸞聖人の教えの基本が判っていないからこんな話になるのだと思います。

18願成就文の「即得往生、住不退転」の説明を、

生きている時に絶対の幸福になること

としていました。元々、高森会長の言う絶対の幸福とは信楽の身になることでしたので、以前から言い続けている「若不生者」の「」を信楽に生まれさせるが、成就文の「即得往生、住不退転」から邪義と明らかになります。
『唯信鈔文意』には、

「即得往生」は、信心をうればすなはち往生すといふ、すなはち往生すといふは不退転に住するをいふ、不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まるとのたまふ御のりなり、これを「即得往生」とは申すなり。「即」はすなはちといふ、すなはちといふはときをへず日をへだてぬをいふなり。

(現代語訳)

「即得往生」 は、 信心を得ればすなわち往生するということである。 すなわち往生するというのは、 不退転に住することをいう。 不退転に住するというのは、 すなわち正定聚の位に定まると仰せになっているみ教えである。 このことを 「即得往生」 というのである。 「即」 は 「すなわち」 というのである。 「すなわち」 というのは、 時を経ることもなく日を置くこともないことをいうのである。

とありますが、お判りでしょうか。
信心をうればすなはち往生す」ですから、信楽をうれば往生する、なので、この「往生」は信楽の身に生れるではあません。もし信楽の身に生まれるなら、信楽をうれば信楽の身に生まれる、となって意味が通じなくなります。

もし、高森会長が絶対の幸福と信楽の身とは別という意味で、「住不退転」を絶対の幸福にさせるという言い方をしたとしたら、一歩前進とも言えなくもないですが、絶対の幸福自体が最初からおかしいので、訳の判らない無茶苦茶な話になってくるのです。

不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まる」と親鸞聖人が仰っていますように、

不退転=正定聚の位

ということです。
高森会長の理論でいくと

不退転=正定聚の位=絶対の幸福

ですが、ここがポイントです。
現生で正定聚になると教えられたのは歴代の善知識方では親鸞聖人が初めてです。つまり、七高僧方は死後に正定聚になるとしか仰っていませんので、

不退転=正定聚の位=絶対の幸福

であるなら、死後に絶対の幸福になると教えられたのが七高僧方となります。
会員にはチンプンカンプンだと思いますが、
現生で正定聚になると親鸞聖人が教えられたのは、親鸞聖人の理論であり、独特の解釈ですから、正定聚の位に入ったという自覚も実感も確かな証拠も何もないのです。
要するに、仮に

不退転=正定聚の位=絶対の幸福

だとしても、高森会長の説明するような現生で絶対の幸福になど絶対になれないのです。

妄想、空想、創価学会のパクリで創り上げた高森会長の偽の信心を正信心と騙されている会員は、一刻も早く高森会長に三下り半を突き付けてください。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2017年1月23日 (月)

信楽と正定聚との関係も判らない高森顕徹会長の信心

昨日は複数の会員からコメントがありました。しかし、そのレベルには大きな差があります。私の先輩に当たる会員歴40年近い会員は、負け惜しみしか言えません。かと思えば、根拠を出して何とか反論しようという真面目な会員のコメントもあります。残念ながら前者は、見苦しいの一言ですし、当然ながら教えなどどうでもよい人です。後者は、信心を獲たいと思っているが、高森信心が強い人と想像できます。後者のコメントは大歓迎で、私も真面目に対応します。前者は、適当にあしらうだけです。

さて、昨日の講師部講義で出た話が体失不体失往生の諍論と『愚禿鈔』の

本願を信受するは、前念命終なり。
即得往生は、後念即生なり。

ですが、ここから「若不生者」のデタラメ解釈に繋がっていきますので、それについて解説します。

まず『愚禿鈔』のこの御文の元になったのが善導大師の『往生礼讃』にある

前念に命終して後念にすなはちかの国に生じ、長時永劫につねに無為の法楽を受く。

です。
ここでの前念と後念は、信楽を獲た人は肉体の命が終わって、死後に浄土に生まれるの意味です。つまり体失往生です。

ところが善導大師のこの御文を親鸞聖人は信一念、つまり不体失往生として意味を変えられたのが『愚禿鈔』の文です。

簡単に言うと、善導大師と証空上人は体失往生を教えられたのですが、親鸞聖人は不体失往生を教えられたということです。
親鸞会会員にとっては疑問符が10個くらい付く話になりますが、これが事実です。

元々往生とは体失往生のことでしか経典にも善導大師も教えられていないのを、親鸞聖人は不体失往生という新たな解釈で教えられたということです。この背景を知らない高森会長は、不体失往生とは、信楽の身になること言っていますが、それでは意味が判りません。前回も書きましたが、

信楽を獲たら、信楽の身になる

では文として成立しないのです。
親鸞聖人が仰った不体失往生の解釈を『愚禿鈔』を使って説明すると、

「信受本願」=信楽を獲る⇒「即得往生」=不体失往生(正定聚)

になります。
高森会長の説明と同じだと思われるかもしれませんが、違います。

「信楽を獲る」=「不体失往生(正定聚)」

「信楽を獲る」⇒「不体失往生(正定聚)

が同じだと思うのは自力の信心、違うとするのが他力の信心です。

高森会長はそんなこと言っていないと喚く会員のために『なぜ生きる2』の言葉を出しておきます。

親鸞聖人のお言葉

金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。

を高森会長は

大悲の願船に乗じた者は、必ず現世で十種の幸せに生かされる。

としていますが、これが自力の信心の証拠です。

親鸞聖人が仰っていることは

信楽を獲たなら、現生で十種の利益(正定聚に入る益を含む)を獲る。

です。
信楽を獲ることと正定聚に入る益を獲ることがイコールではなく、因果関係にあるということです。これを言葉の遊び、屁理屈だと思うのであれば、それが自力の信心の証拠です。

更には、現生で正定聚に入ると教えられたのは、親鸞聖人独自の解釈です。元は、往生後に正定聚に入ると誓われた11願があり、それをそのまま教えられたのが高僧方ですが、その解釈とは異なることを親鸞聖人が仰ったのです。

ということは、

信楽を獲たなら、現生で正定聚に入る益を獲る。

とは七高僧方は仰っていないので、

信楽を獲ても、現生で正定聚に入る益を獲ると実感として知らされることはない。

ということです。親鸞聖人の理論で導きだされたことを、信心の内容と勘違いしているのが高森会長です。

以上は高森会長にも会員にもチンプンカンプンの内容だと思いますが、これが真宗学の常識です。

知らされる筈もない

大悲の願船に乗じた者は、必ず現世で十種の幸せに生かされる。

と平気で嘘をついている高森会長が、体験至上主義の異安心なのは言うまでもありません。

もう一つ、会員の頭が混乱することを言っておきますと、証空上人も不体失往生を教えられています。要するに、高森会長の体失不体失往生の諍論の説明も、デタラメだということです。

高森会長は二種深信の説明もまともにできない、現生正定聚の意味も背景も判っていない。それでも
高森先生の信心は親鸞聖人と同じ真実信心だ!
と会員が力んだところで、世間は麻原死刑囚信者と同類にしか見做しません。

| | コメント (17) | トラックバック (0)