「聖教はそのまま素直に読んではいけない!」というマイコン会員に対する親鸞聖人のお言葉
昔は、法話中に高森顕徹会長が出す根拠を会員が『真宗聖典』で確認するのが常でしたが、現在は『真宗聖典』を見る以前に、聖教は一般の人では読むことができないと高森会長から吹き込まれています。
そのために、退会者が根拠を出しても、
聖教をそのまま読んではだめだ!
聖教を正しく読めるとでも思っているのか!
文字は不完全なものだから正確には顕わせないのも知らんのか!
という具合に、議論を放棄して、妄想をひたすら言い続けるのが親鸞会です。
例の館長も同じでした。
そこで私が示した聖教の根拠は、『唯信鈔文意』と『一念多念証文』の最後に書かれてある
ゐなかのひとびとの文字のこころもしらず、あさましき愚痴きはまりなきゆゑに、やすくこころえさせんとて、おなじことをとりかへしとりかへし書きつけたり。こころあらんひとは、をかしくおもふべし、あざけりをなすべし。しかれども、ひとのそしりをかへりみず、ひとすぢに愚かなるひとびとを、こころえやすからんとてしるせるなり。
(現代語訳)
都から遠く離れたところに住む人々は、 仏教の言葉の意味もわからず、 教えについてもまったく無知なのである。 だから、 そのような人々にもやさしく理解してもらおうと思い、 同じことを繰り返し繰り返し書きつけたのである。 ものの道理をわきまえている人は、 おかしく思うだろうし、 あざけり笑うこともあるだろう。 しかし、 そのように人からそしられることも気にかけず、 ただひたすら教えについて無知な人々に理解しやすいようにと思って、 書き記したのである。
でした。
親鸞聖人は、難しいことの判らない田舎の人にも判るようにと思われて書かれた、と仰っているのに、当時の田舎の人よりも教養も学力もある会員が、理解できないとはおかしいでしょう。
こういうと、彼は言い返せませんでした。当たり前です。
彼だけでなく、他の会員も同じことを言ってきて、このことを教えると絶句します。
高森会長が考える程度の詭弁が通用するのは、思考停止の会員だけです。
更には、親鸞聖人は同行にお手紙を書かれていますが、当然、判ってもらいたいと思われて文章を書かれているのです。手紙にまで暗号文を書いて何の意味があるのか、少し考えれば判ることがマインドコントロール下にあると判らないのです。
ちなみに、親鸞聖人は「ゐなかのひとびと」のために、読むことを推奨された書がいくつかあります。たとえば、善鸞疑絶を知らせるお手紙には
おほかたは、『唯信抄』・『自力他力の文』・『後世物語の聞書』・『一念多念の証文』・『唯信鈔の文意』・『一念多念の文意』、これらを御覧じながら、慈信が法文によりて、おほくの念仏者達の、弥陀の本願をすてまゐらせあうて候ふらんこと、申すばかりなく候へば、かやうの御文ども、これよりのちには仰せらるべからず候ふ。
といくつかの書を出されています。聖覚法印の『唯信鈔』、隆寛律師の『自力他力事』、隆寛律師著と伝えられる『後世物語聞書』、隆寛律師の『一念多念分別事』、親鸞聖人の『唯信鈔文意』と『一念多念証文』を、関東の同行に送られて、読むように勧められていたことが判ります。
もちろん、読んで理解してくれることを期待してです。
聖覚法印と隆寛律師のお二人を、親鸞聖人は「よきひとびと」と仰って、大変尊敬されていましたし、法然上人も大変信頼されていました。
このお二人の著わされた内容は、法然上人の教え、そのものです。
法然上人の念仏一行の教えを忠実に継承されて、それを書とされて、親鸞聖人が同行に読むように勧められたのですから、同行は「善は不要、念仏一行で救われるのが、阿弥陀仏の18願」としか理解できなかったでしょう。
親鸞聖人が信心を強調されたといっても、それは念仏の信心ですから、親鸞聖人が同行に教えられたことは、法然上人、聖覚法印、隆寛律師と同じ念仏一行なのです。
『御消息』には、
弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。
とある通りです。念仏を称えて往生できると深く信じたことが信心なのです。
ここに暗号も難しい言い回しも、特別な解釈もありません。会員に必要なのは、高校生並みの思考力と自己の間違いを認める勇気です。
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