聖教

2020年4月27日 (月)

「聖教はそのまま素直に読んではいけない!」というマイコン会員に対する親鸞聖人のお言葉

昔は、法話中に高森顕徹会長が出す根拠を会員が『真宗聖典』で確認するのが常でしたが、現在は『真宗聖典』を見る以前に、聖教は一般の人では読むことができないと高森会長から吹き込まれています。
そのために、退会者が根拠を出しても、

聖教をそのまま読んではだめだ!
聖教を正しく読めるとでも思っているのか!
文字は不完全なものだから正確には顕わせないのも知らんのか!

という具合に、議論を放棄して、妄想をひたすら言い続けるのが親鸞会です。

例の館長も同じでした。
そこで私が示した聖教の根拠は、『唯信鈔文意』と『一念多念証文』の最後に書かれてある

ゐなかのひとびとの文字のこころもしらず、あさましき愚痴きはまりなきゆゑに、やすくこころえさせんとて、おなじことをとりかへしとりかへし書きつけたり。こころあらんひとは、をかしくおもふべし、あざけりをなすべし。しかれども、ひとのそしりをかへりみず、ひとすぢに愚かなるひとびとを、こころえやすからんとてしるせるなり。

(現代語訳)

都から遠く離れたところに住む人々は、 仏教の言葉の意味もわからず、 教えについてもまったく無知なのである。 だから、 そのような人々にもやさしく理解してもらおうと思い、 同じことを繰り返し繰り返し書きつけたのである。 ものの道理をわきまえている人は、 おかしく思うだろうし、 あざけり笑うこともあるだろう。 しかし、 そのように人からそしられることも気にかけず、 ただひたすら教えについて無知な人々に理解しやすいようにと思って、 書き記したのである。

でした。
親鸞聖人は、難しいことの判らない田舎の人にも判るようにと思われて書かれた、と仰っているのに、当時の田舎の人よりも教養も学力もある会員が、理解できないとはおかしいでしょう。

こういうと、彼は言い返せませんでした。当たり前です。
彼だけでなく、他の会員も同じことを言ってきて、このことを教えると絶句します。

高森会長が考える程度の詭弁が通用するのは、思考停止の会員だけです。

更には、親鸞聖人は同行にお手紙を書かれていますが、当然、判ってもらいたいと思われて文章を書かれているのです。手紙にまで暗号文を書いて何の意味があるのか、少し考えれば判ることがマインドコントロール下にあると判らないのです。

ちなみに、親鸞聖人は「ゐなかのひとびと」のために、読むことを推奨された書がいくつかあります。たとえば、善鸞疑絶を知らせるお手紙には

おほかたは、『唯信抄』・『自力他力の文』・『後世物語の聞書』・『一念多念の証文』・『唯信鈔の文意』・『一念多念の文意』、これらを御覧じながら、慈信が法文によりて、おほくの念仏者達の、弥陀の本願をすてまゐらせあうて候ふらんこと、申すばかりなく候へば、かやうの御文ども、これよりのちには仰せらるべからず候ふ。

といくつかの書を出されています。聖覚法印の『唯信鈔』、隆寛律師の『自力他力事』、隆寛律師著と伝えられる『後世物語聞書』、隆寛律師の『一念多念分別事』、親鸞聖人の『唯信鈔文意』と『一念多念証文』を、関東の同行に送られて、読むように勧められていたことが判ります。

もちろん、読んで理解してくれることを期待してです。
聖覚法印と隆寛律師のお二人を、親鸞聖人は「よきひとびと」と仰って、大変尊敬されていましたし、法然上人も大変信頼されていました。
このお二人の著わされた内容は、法然上人の教え、そのものです。
法然上人の念仏一行の教えを忠実に継承されて、それを書とされて、親鸞聖人が同行に読むように勧められたのですから、同行は「善は不要、念仏一行で救われるのが、阿弥陀仏の18願」としか理解できなかったでしょう。
親鸞聖人が信心を強調されたといっても、それは念仏の信心ですから、親鸞聖人が同行に教えられたことは、法然上人、聖覚法印、隆寛律師と同じ念仏一行なのです。

『御消息』には、

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

とある通りです。念仏を称えて往生できると深く信じたことが信心なのです。

ここに暗号も難しい言い回しも、特別な解釈もありません。会員に必要なのは、高校生並みの思考力と自己の間違いを認める勇気です。

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2016年12月11日 (日)

理解できるように書かれた聖教を繰り返し読むように勧められた善知識、誰も理解できないのだから読んではならないと禁止する悪知識高森顕徹会長

3年前に高森顕徹会長は『なぜ生きる2』を発刊しました。自信満々で会の内外に大々的に宣伝したものの、退会者から完膚なきまでに叩きのめされ、amazonのレビューでも法論に惨敗し続けた結果、親鸞会は『なぜ生きる2』を切り捨てました。新聞広告には二行程度の紹介しかしなくなり、売る気が全くありません。

高森会長の今の心情は、売れては困るが、宣伝していないと会員に突っ込まれても困るので、宣伝しない訳にもいかず、申し訳程度の紹介に留めているという実情です。

『なぜ生きる2』のメインテーマは三願転入です。三願転入は親鸞聖人の教えの根基だとまで言っていたのですが、その親鸞聖人の教えの根基である筈の三願転入さえ、最近は全く話をしません。高森会長の持っている辞書では急遽、根基の意味は、「話す必要がないこと」に書き換えられたようです。

親鸞会では、聖教は読みませんし、理解できるものではないと言います。理解できるのは世界中で高森顕徹会長ただ一人だと信じています。これでは善知識方の御著書は暗号で、それが解読できる奇特な人物だけに判れば良いという、完全な秘事法門になってしまいます。

実に奇妙な理屈ですが、本気で会員はそう信じ込まされていて滑稽です。

では親鸞聖人をはじめ、善知識方はなぜ著書を残されたのでしょうか。読んだら誤解するような書き方を敢えてなされたのでしょうか。判るように書かれなかった理由は何でしょうか。

少し考えれば判ることですが、善知識方はできるだけ多くの人に聖教を読んで理解してほしいと思われて、できるだけ判るように御苦労なされて著書を残されているのです。

当たり前すぎて、説明するのが馬鹿らしいことですが、この基礎的な思考さえ奪われてしまっているのが会員です。

親鸞聖人は『一念多念証文』と『唯信鈔文意』の最後に同じことを書かれています。

ゐなかのひとびとの文字のこころもしらず、あさましき愚痴きはまりなきゆゑに、やすくこころえさせんとて、おなじことをとりかへしとりかへし書きつけたり。こころあらんひとは、をかしくおもふべし、あざけりをなすべし。しかれども、ひとのそしりをかへりみず、ひとすぢに愚かなるひとびとを、こころえやすからんとてしるせるなり。

(現代語訳)

都から遠く離れたところに住む人々は、 仏教の言葉の意味もわからず、 教えについてもまったく無知なのである。 だから、 そのような人々にもやさしく理解してもらおうと思い、 同じことを繰り返し繰り返し書きつけたのである。 ものの道理をわきまえている人は、 おかしく思うだろうし、 あざけり笑うこともあるだろう。 しかし、 そのように人からそしられることも気にかけず、 ただひたすら教えについて無知な人々に理解しやすいようにと思って、 書き記したのである。

親鸞聖人が、学の無い人にも理解できるようにと心を配られていることがよく判ります。

蓮如上人は『御一代記聞書』で次のように教えられています。

蓮如上人仰せられ候ふ。本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれと、対句に仰せられ候ふ。

(現代語訳)

蓮如上人は、「ご本尊は破れるほど掛けなさい、お聖教は破れるほど読みなさい」と、対句にして仰せになりました。

またこのようにも仰っています。

聖教を拝見申すも、うかうかと拝みまうすはその詮なし。蓮如上人は、ただ聖教をばくれくれと仰せられ候ふ。また百遍これをみれば義理おのづから得ると申すこともあれば、心をとどむべきことなり。聖教は句面のごとくこころうべし。そのうへにて師伝口業はあるべきなり。私にして会釈することしかるべからざることなり。

(現代語訳)

お聖教を拝読しても、ただぼんやりと字づらを追っているだけでは何の意味もありません。蓮如上人は、「ともかく繰り返し繰り返しお聖教を読みなさい」と仰せになりました。世間でも,書物は百遍,繰り返し読めば,その意味はおのずと理解できるというのだから、このことはよく心にとどめておかねければなりません。お聖教はその文面にあらわれている通りにいただくべきものです。その上で、師のお言葉をいただかなければならないのです。自分勝手な解釈は、決してしてはなりません。

親鸞会の会員のために仰ったような内容です。

聖教を繰り返し読めば、善知識方の御心も判ってくるというものです。

そしてもう一つ、聖教は同じ内容が書かれているということです。たとえば、蓮如上人の『正信偈大意』と『御文章』で書かれてある内容が違うと考える発想が根本的におかしいです。同じに決まっています。当然、親鸞聖人の仰せとも同じです。
ただし、手紙の場合には、手紙の相手に応じた表現になっていることがありますので、そのことを考慮する必要はあります。

学のない高森会長にも判るように善知識方は苦心なされてはいますが、聖教を全く読もうとしない高森会長には善知識方の御心は理解できるはずもありません。高森会長自身も理解するつもりもありません。

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