18願

2021年2月24日 (水)

親鸞会の根本聖典『歎異抄をひらく』の邪義2

高森顕徹会長が、本心から自信満々に言っていることの一つに、『歎異抄』第二条の

弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。

の解釈を『歎異抄をひらく』の意訳

弥陀の本願がまことだから、唯その本願を説かれた、釈尊の教えにウソがあるはずはない。釈迦の説法がまことならば、そのまま説かれた、善導大師の御釈に偽りがあるはずがなかろう。

としていることがあります。その解説を

だが親鸞聖人には、弥陀の本願以外、この世にまことはなかったのだ。

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法(教行信証)
|まことだった、まことだった。弥陀の本願まことだった。

の大歓声や、

煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします(歎異抄)
|火宅のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間の総ては、そらごと、たわごとであり、まことは一つもない。ただ弥陀の本願念仏のみがまことなのだ。

『歎異抄』の「念仏のみぞまこと」は、「弥陀の本願念仏のみぞまこと」の簡略である。聖人の「本願まことの信念」は明白であろう。
親鸞聖人の著作はどこも、「弥陀の本願まこと」の讃嘆で満ちている。「弥陀の本願まこと」が、常に聖人の原点であったのだ。その聖人が、仮定で「本願」を語られるはずがなかろう。
弥陀の本願まことにおわしまさば」は、「弥陀の本願まことだから」の断定にほかならない。

としています。もちろんこれは文法的に誤りです。

おはしまさば」は、未然形+接続助詞「ば」で、仮定を表わします。

文法上の誤りくらいどうでも良いと会員は思うかもしれませんが、もし文法上の誤りを知っているのに敢えてそうされたのであれば、親鸞聖人が、命懸けで尋ねに来た関東の同行に対して誤解を生じさせる表現をされたこととなり、親鸞聖人の真意を理解する妨げることになります。したがってもしこれが断定であるならば、親鸞聖人は意地悪な不適切な回答をされたことになってしまします。
また『歎異抄』第二条の他所では、

総じてもって存知せざるなり。

と断定を避けて仰っていることからも、ここを断定とする必然性がありません。
ここは真実信心とはこのようなものだ、と示された箇所と思われます。
その理由は『歎異抄』の著者とされる唯円から直接話を聞かれた覚如上人が『執持鈔』で、この『歎異抄』第二条の内容を違う表現でされています。
真実信心について親鸞聖人の御言葉として紹介されているのが、

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

です。
本願まことの信念」とは、「本願まこと」が判る智慧を得ることではなく、「如来の御ちかひにまかせたてまつる」つまり「本願まこと」をそのまま受け入れていくことに他ならないのです。
高森会長のように「弥陀の本願まことだから」と断定するには、「弥陀の本願まこと」が判らなければならないですが、それは補処の弥勒菩薩の智慧をもってしても無理なことなのです。

高森会長が「弥陀の本願まことにおわしまさば」を誤解して、その誤解を本心から自信満々で言えるのは、親鸞聖人、覚如上人とは違う信心であるからという理由以外にはないでしょう。それでも高森会長が正しいと思うのであれば、それは浄土真宗とは別の宗か別の宗教です。

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2020年7月29日 (水)

三願転入に対する親鸞会の妄想2

とくよしみねさんからのコメントがありましたように、8月29日に愛知県刈谷市で勉強会を開催予定です。
詳細は
とくよしみねの「なぜ生きる」
で確認して、参加を希望される方は、とくよしみねさんにメールで連絡をしてください。

こういう時期で人数制限があり、当日突然参加ということは難しいと思われますので、事前に連絡をお願いします。

さて、高森顕徹会長は18願の「唯除五逆誹謗正法」を「十方衆生」の実機を顕わされた箇所として説明していますが、出鱈目です。結論を先に言いますと、親鸞聖人の教えを真面目に聞いている皆さんは、五逆でも謗法の者でもありません。
唯除五逆誹謗正法」の直接の解釈は『尊号真像銘文』にしかありません。

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

です。
つまり、18願には「唯除五逆誹謗正法」というお言葉があるから、18願の「十方衆生」から洩れたものはないと仰っているのです。逆にいえば、「唯除五逆誹謗正法」のない19願・20願の「十方衆生」には、洩れているものがいるということです。
要するに、「十方衆生」の中に五逆誹謗正法の者がいるという意味にしかなりません。
前回も述べましたが、19願の「十方衆生」は聖道門の行ができる人であり、聖道門の行のできない我々は19願の「十方衆生」には含まれていないのです。

では、「唯除五逆誹謗正法」が「十方衆生」の実機、機の深信だというのは、高森会長の創作かといえば違います。そんな高度な創作ができるほどの知恵は高森会長にはないでしょう。
もうお判りかと思いますが、大沼法竜師からのパクリです。
『本派本願寺の危機 どちらが異安心か』にはこのようにあります。

 本願寺の総長を始め勧学のお歴歴から頭の切り替えをやらなければ真宗の復興は望めない。君達は第十八願や成就の文を有難がって見て居るのであって十八願の身になる事を忘れて居るのだ、至心信楽の文に陶酔し、至心に廻向せしめ給えりに酩酊して麻痺状態となり、阿片やヒロポンに中毒されて萎靡沈滞して活動能力を失うて居るのだ、第十八願の文を見て自分は至心信楽己を忘れて乃至十念の称名を称えて居るから死にさえすれば往生に間違いはない、仏様が若し生れささずんば正覚を取らずと仰せられたのが、既に十劫の昔に正覚を成就して居らるるから十劫の昔に助かって居るのだと安心して居るが、君達は文面を見て裏面を読んで居ないのだ。唯除五逆誹謗正法とは誰の事かい、勧学だと威張って居る君達の事だぞ、除かれて居るとも知らずにのさばりかえって居るが、それだから開発の一念を知らないのだ、若不生者不取正覚とは生れさすとは死後の事しか知らないのだろう、心命終を忘れたか、君の逆謗の屍を今心命終ささなければ正覚を投げ出すぞと言うことだよ。成就の文にしても至心に廻向して貰ったか、不可称不可説不可思議の功徳は行者の身に満てりと有るが、三千世界の果報者は自分一人と言う満足が有るか、観念の遊戯だけして居るのだからそんなはっきりした事は有るまい、何を廻向されたか、上に向えば法体の大行、下に向えば当果決定、誰が頂くのだ、諸有衆生、その腹底は、唯除逆謗、おいおい君達、素直に聞いて居ればよいと言うような対岸の火事のような話ではないぞ、君が邪見驕慢の逆謗の屍ではないか、その機に久遠劫から付き纏い、至心に廻向し給いいて聞即信の一念に法体の大行を全領し同時に住不退転の当果を決定さして頂くのだが、文面を読んで眺めて通って居るのだから何とも有るまい、これが実地に諦得出来たのなら信前信後の水際鮮かに今こそ明らかに知られたりと大慶喜せずには居られないのだ、その初起の一念を信一念と名前を付けるのだ、時尅に何の関係が有るのだ、味に用事が有るのだ、本当に大満足の出来た人なら実時は判らないが仮時ならあの時であったと言えるのだ、君達にはあの時もこの時もないのだ、御経やお聖教を読んで通って見て感じただけだから自分の実機とは無関係だから観念の遊戯に過ぎないのだ、勧学で有りながら実地の体験がないのだから、晴れたのやら暮れたのやら、水際もなければ角目もない、……

当時の本願寺派勧学を批判した内容です。当然ながら、大沼師の味わいであり、聖教上に根拠のあることではありません。

高森会長は、大沼師の独特の味わいと聖教の内容との区別が全くついていません。なぜなら、聖教を読んだことがないからです。

「十方衆生」=全人類

というちょっとおっちょこちょいな解釈をしているのも、すべて、聖教を読んでいないことが原因です。

なお、私は聖教に書かれてあることをそのまま述べているに過ぎませんので、私の言っていることが間違いだと反論するのであれば、それは聖教が間違っているか、もしくは聖教の解釈が間違っていることを証明してください。

味わいと聖教上の根拠とは違いますので、その程度の分別はもってもらいたいものです。

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2020年7月19日 (日)

念仏の信心も信心正因称名報恩の意味も知らない相伝もなきしらぬくせ法門

念仏往生」は蓮如上人も仰っていますが、それと「信心正因称名報恩」との関係がどうなっているのか、よく判るのが『御文章』3帖13通です。
少し長いですが、全文載せておきます。

それ、当流門徒中において、すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こころうべき次第は、まづほかには王法を本とし、諸神・諸仏・菩薩をかろしめず、また諸宗・諸法を謗ぜず、国ところにあらば守護・地頭にむきては疎略なく、かぎりある年貢所当をつぶさに沙汰をいたし、そのほか仁義をもつて本とし、また後生のためには内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして、一念も疑心なく信じまゐらせば、かならず真実の極楽浄土に往生すべし。

このこころえのとほりをもつて、すなはち弥陀如来の他力の信心をえたる念仏行者のすがたとはいふべし。かくのごとく念仏の信心をとりてのうへに、なほおもふべきやうは、さてもかかるわれらごときのあさましき一生造悪の罪ふかき身ながら、ひとたび一念帰命の信心をおこせば、仏の願力によりてたやすくたすけたまへる弥陀如来の不思議にまします超世の本願の強縁のありがたさよと、ふかくおもひたてまつりて、その御恩報謝のためには、ねてもさめてもただ念仏ばかりをとなへて、かの弥陀如来の仏恩を報じたてまつるべきばかりなり。

このうへには後生のためになにをしりても所用なきところに、ちかごろもつてのほか、みな人のなにの不足ありてか、相伝もなきしらぬくせ法門をいひて人をもまどはし、また無上の法流をもけがさんこと、まことにもつてあさましき次第なり。よくよくおもひはからふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

前段は、これまでに度々取り上げたところで、信前信後を問わずに、法律・倫理道徳の善に心がけて、往生のためには雑行・雑善を捨てよとありますので、真宗における善の扱いについて明確にされています。
問題は、「内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて」が何を意味しているかです。当然、信心のことですが、このようになった人のことを中段で、「弥陀如来の他力の信心をえたる念仏行者のすがた」と仰り、その信心を「かくのごとく念仏の信心をとりて」と仰っていることです。

親鸞会の会員にとっては気が付かないことでしょうが、「阿弥陀如来を一心一向」が念仏のことを指しているのです。これまでにも述べたように

善を捨てよ=念仏一行

ということですから、「阿弥陀如来を一心一向」になったことを「念仏行者」「念仏の信心」と仰っても手紙を読んだ同行にとっては普通に理解できたことなのです。

念のために言っておきますが、信後の報恩念仏のことではありません。なぜなら、「かくのごとく念仏の信心をとりてのうへに、なほおもふべきやうは」の後に報恩念仏の説明があるからです。

ここまでをまとめると、

・往生と善とは無関係
・往生のために善を捨てたならば念仏一行になる
・信前に念仏一行になった行者が「阿弥陀如来を一心一向」の信心を獲て「念仏行者」となる
・「阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて」のことを「念仏の信心」という
・信後の念仏は御恩報謝の念仏となる

往生のための善の勧めは論外ですが、信前の念仏を否定されたのではなく、念仏一行となった行者の「念仏の信心」を蓮如上人は強調されているのであり、信心と念仏とは密接不離の関係にあるということです。

蓮如上人が「念仏往生」と仰っているのはこういうことであり、「信心正因称名報恩」の意味もここから判ると思います。

以上のことを理解できない親鸞会などを蓮如上人は、「相伝もなきしらぬくせ法門をいひて人をもまどはし、また無上の法流をもけがさんこと、まことにもつてあさましき次第なり」と厳しく非難されているのです。

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2020年7月14日 (火)

念仏往生の願成就文と信心正因称名報恩

法然上人が18願のことを「念仏往生の願」と初めて仰ったことを親鸞聖人もそのまま受け継がれて「念仏往生の願」と頻繁に使われていることは前回述べた通りです。信心正因称名報恩を強調された覚如上人も「念仏往生の願」と使われています。

『改邪鈔』には

かの心行を獲得せんこと、念仏往生の願成就の「信心歓喜乃至一念」と等の文をもつて依憑とす。このほかいまだきかず。

これは親鸞会でも有名です。親鸞会では18願成就文の「信心歓喜乃至一念」が18願よりも重要である、つまり阿弥陀仏の救いは念仏ではなく信心一つである根拠として使っています。

この18願成就文のことを覚如上人は「念仏往生の願成就」と敢えて仰っているところに注目すべきです。
法然上人は18願成就文の「乃至一念」を念仏と解釈されていました。なぜなら「念仏往生の願成就文」だからです。
ところが親鸞聖人は『教行信証』ではこの「乃至一念」を信心と解釈されています。
こうなると、親鸞聖人は法然上人の解釈を否定されたのかと疑問が起きますが、そうではありません。
『教行信証』をまとめたとされる『浄土文類聚鈔』と、『三経往生文類』では、行の説明の中で18願成就文を根拠として挙げられています。
つまり、親鸞聖人は「乃至一念」を念仏と信心の両義あるとみられていたと言えます。理屈の上でも当たり前のことで、念仏往生の願の成就文に念仏の義が無かったらおかしなことになります。したがって、親鸞聖人は法然上人の「乃至一念」の解釈に信心の義を追加されたのであって、否定されたのではないことになります。

ここまでくればお判りかと思いますが、覚如上人もそのことを踏まえられていますので、「念仏往生の願成就」という表現をされたのだと思われます。信心を強調されたいのであれば、親鸞聖人が18願の別名で仰った「至心信楽の願」を採用されて、

かの心行を獲得せんこと、至心信楽の願成就の「信心歓喜乃至一念」と等の文をもつて依憑とす。

の方が信心で統一されてより判りやすくなるでしょうが、そうされていない意図を考える必要があります。

『口伝鈔』の「体失・不体失の往生の事」にある法然上人のお言葉

善恵房の体失して往生するよしのぶるは、諸行往生の機なればなり。善信房の体失せずして往生するよし申さるるは、念仏往生の機なればなり。「如来教法元無二」なれども、「正為衆生機不同」なれば、わが根機にまかせて領解する条、宿善の厚薄によるなり。念仏往生は仏の本願なり、諸行往生は本願にあらず。念仏往生には臨終の善悪を沙汰せず、至心信楽の帰命の一心、他力より定まるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ、この穢体亡失せずといへども、業事成弁すれば体失せずして往生すといはるるか。本願の文あきらかなり、かれをみるべし。

には、18願を「念仏往生」と度々仰っています。法然上人のお言葉だから当然だ、ではなく、法然上人のお言葉を正統として覚如上人が著わされたのですから、覚如上人のお言葉でもあります。「念仏往生」と「至心信楽」とが並列になっていますので、念仏と信心とが対立する関係ではなく、逆に深い関係であることが判ります。
覚如上人には「念仏の信心」という直接的な言葉はありませんが、参考までに存覚上人の『浄土真要鈔』には、

それ一向専修の念仏は、決定往生の肝心なり。これすなはち『大経』のなかに弥陀如来の四十八願を説くなかに、第十八の願に念仏の信心をすすめて諸行を説かず、「乃至十念の行者かならず往生を得べし」と説けるゆゑなり。

と「念仏の信心」が出てきます。

結局のところ、覚如上人においてでも信心とは「念仏の信心」つまり「念仏を称えて往生すると深信したこと」であるのです。

信心正因称名報恩という言葉から、信心と念仏とは対立する関係のように思われがちですが、信心正因の信心が「念仏の信心」ですから、正確には
《念仏の》信心正因《信後の》称名報恩
なのです。

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2020年7月 3日 (金)

聖教を読む前に日本語のお勉強をして「念仏往生の願」の意味を知りましょう

七高僧で親鸞聖人が直接教えを聞かれた方は、法然上人です。親鸞聖人が法然上人にお遭いできなかったならば流転輪廻を繰り返してきた、と仰ったことは、真宗の関係者ならば誰でも知っていることでしょう。その法然上人が、往生のために念仏を勧められたことは、これまた真宗関係者だけでなく日本史を学んだなら誰でも知っている超常識です。

ここで、一つ質問です。

親鸞聖人は、法然上人が往生のために念仏を勧められたことを間違いだと否定されたと思いますか?

日本語が理解できるならば、そんなことはあり得ないでしょう。ところが、親鸞聖人が法然上人の教えの真髄である「往生のための念仏」を否定されたと言うのが親鸞会などです。日本語が判らないのか、他宗のスパイかと疑ってしまいます。

念のために、法然上人のお言葉を少しだけ紹介しておきます。『選択本願念仏集』には18願のことを著書名通り、「選択本願」と仰っただけではなく「念仏往生の願」と度々仰っています。その1つに

諸師の釈には別して十念往生の願といふ。善導独り総じて念仏往生の願といへり。

とありますが、実は善導大師は「念仏往生の願」とは直接仰っていませんので、「念仏往生の願」は、法然上人の造語になります。意味は説明するまでもなく、「念仏を称えたものを往生させる願」「念仏を称えて往生する願」です。

さて、この法然上人の造語である「念仏往生の願」を親鸞聖人は使われなかったのかと言えば、その逆で、頻繁に使われています。

『教行信証』信巻には、

この心すなはちこれ念仏往生の願より出でたり。

と敢えて、「念仏往生の願」と仰っています。別の言い方ではなく、ここは敢えて使われたとみるべきです。なぜなら信巻の前に、18願を「念仏を称えて往生する願」として繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し仰った行巻があるからです。
同じことで、『浄土文類聚鈔』には

浄信といふは、すなはち利他深広の信心なり。すなはちこれ念仏往生の願より出でたり。

とあります。この直前に18願を「念仏を称えて往生する願」として説明されたからです。
同様の理由で『三経往生文類』には

また真実信心あり。すなはち念仏往生の悲願にあらはれたり。

更には、『如来二種回向文』にも

真実信心といふは、念仏往生の悲願にあらはれたり。

とあります。
これ以外には、『浄土文類聚鈔』にもう一か所、『正像末和讃』にも一か所、『御消息』には多数あります。『御消息』には、「念仏往生の願」の意味が明確に判る箇所があります。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。

念仏往生の願」=「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる

なお、他力の信心とは、

名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じて

念仏往生とふかく信じて

です。他の『御消息』でも

この念仏往生の願を一向に信じてふたごころなきを、一向専修とは申すなり。

とある通り、「念仏を称えて往生する願を疑いなく信じること」が他力の信心です。

この単純明快な教えを捻くり回して、

「念仏を称えて往生する」と教えることは間違いだ!

と喚く者が真宗を名乗る資格があるのかと甚だ疑問に思います。
駄目押しで言うなら、覚如上人も蓮如上人も、「念仏往生の願」という言葉を使われています。親鸞聖人が多用されたのですから当然です。

真宗を名乗るのであれば、聖教を読む前にまずは日本語のお勉強をしましょう。

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2020年6月27日 (土)

親鸞会会員の知らない曇鸞大師の念仏

二河白道の譬喩を通して、善導大師が18願意をどのように捉えられているかを紹介してきました。一言で言うならば、

念仏を称えることで往生できる

です。善導大師の著書には、至る所にそのような言い方をされています。もちろん、信心についても詳しく仰っているのですが、念仏の強調の方が目立ちます。
親鸞聖人は七高僧の中でも、善導大師を特に尊敬されていましたので、親鸞聖人が善導大師の教えを否定されることは普通に考えればあり得ないでしょうが、高森顕徹会長のように信心がすべてだという偏屈な思考に凝り固まると、念仏が信心の付属品のように考えるのです。その屁理屈として、親鸞聖人が七高僧の中で善導大師と同じかそれ以上に特に尊敬されていた曇鸞大師を持ち出してくることがあります。『高僧和讃』の数を見ても、善導大師の26首よりも多い34首ですから、親鸞聖人が曇鸞大師から多大なる影響を受けられたことは確かです。

そこで今回は、曇鸞大師の念仏について見てみます。

曇鸞大師が阿弥陀仏の48の願の内、3つの願を選ばれたいわゆる三願的証の文が『浄土論註』にあります。三願とは18願、11願、22願です。18願、19願、20願ではありませんので、親鸞会の会員にとっては、この時点でカルチャーショックを受けると思います。曇鸞大師は18願文を出された後にこう続けておられます。

仏願力によるがゆゑに十念の念仏をもつてすなはち往生を得。往生を得るがゆゑに、すなはち三界輪転の事を勉る。輪転なきがゆゑに、ゆゑに速やかなることを得る一の証なり。

(現代語訳)

この仏の願のはたらきによるから、たとえば十声念仏して往生することができる。往生することができるのだからもはや迷いの世界をさまようことはない。浄土に往生することができ、もはやさまようことがないというのが、速やかに仏となることができるということの第一の証である。

これは『教行信証』行巻にも引かれています。
注目は、「十念の念仏をもつてすなはち往生を得」です。曇鸞大師が18願意を仰った箇所です。親鸞会では、ここもまた受け入れられない文だと思います。

もう一つ

問ひていはく、上に、生は無生なりと知るといふは、まさにこれ上品生のものなるべし。もし下下品の人の、十念に乗じて往生するは、あに実の生を取るにあらずや。ただ実の生を取らば、すなはち二執に堕しなん。一には、 おそらくは往生を得ざらん。二には、おそらくはさらに生ずとも惑ひを生ぜん。

答ふ。たとへば浄摩尼珠を、これを濁水に置けば、水すなはち清浄なるがごとし。もし人、無量生死の罪濁にありといへども、かの阿弥陀如来の至極無生清浄の宝珠の名号を聞きて、これを濁心に投ぐれば、念々のうちに罪滅して心浄まり、すなはち往生を得。
(中略)
また氷の上に火を燃くに、火猛ければすなはち氷解く。氷解くればすなはち火滅するがごとし。かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり。

(現代語訳)

問うていう。 上にいうてあるような生即無生の道理をさとるということは上品の往生者にいうことである。 下品下生の人のごときは、 ただ十念念仏によって往生するので、 こういうのは実生実滅の執着を持っているのではないか。 ただ実生を執ずるならば二つの疑いに堕ちる。 一つに、 恐らくはこういう実生実滅を執ずる凡夫は往生を得ないであろう。 二つに、 往生してもさらに生死相対の惑いを生ずるであろう。

答えていう。 たとえば清浄なる摩尼宝珠を濁った水の中に置けば、 珠の力で水が浄らかになるようなものである。 もし凡夫人が無量劫のあいだ迷わねばならぬ罪があっても、 かの阿弥陀如来の法性真如にかなったこの上なき清浄の名号を聞いて、 これを濁った心の中にいただくならば、 念々の中うちに罪が滅し清浄の徳を得て、 往生が得られる。
(中略)
また、 氷の上で火を燃やすと、 火の勢いが強ければ氷は解け、 氷が解けると火が消えるようなものである。 かの下品の人は生即無生であると知らないけれども、 ただ仏の名号を称えて作願してかの土に生まれようと願うならば、 浄土に至ればかの国は無生の道理にかなった境界であるから、 実生実滅と見る煩悩の火は自然に消えるのである。

親鸞会の人にはかなり難しい内容ですが、最後の文中の「かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして」だけでも見てもらえれば、曇鸞大師が、念仏を称えることによる往生を明確に仰っていることが判るというものです。

これ以外にも、念仏を称えて往生する、という表現を曇鸞大師はなされています。

したがって、善導大師も曇鸞大師も、そしてお二人から多大な影響を受けられた親鸞聖人も、

念仏を称えて往生する

と仰っている箇所がいくつもありますから、これが間違いだという発想自体が、浄土真宗から外れています。

くどいようですが念のために言いますと、信心で往生する、聞いて往生する、というような他の表現を持ち出して、念仏を称えて往生するというのは間違いだという理屈は完全な間違いです。善知識方が違う表現をされていても筋は通っているのですから、同じことを表現を変えて仰ったのだと理解しなければなりません。

具体的に言えば、

信心=念仏を称えて往生すると深信したこと
聞=念仏を称えて往生するという18願を疑いなく聞くこと

こういうことです。
単純な話ですが、思考停止の人には理解できないのでしょう。哀れです。

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2020年2月23日 (日)

最近の親鸞会との法論13

若不生者」について、親鸞聖人がどう仰っているのかの根拠を列記しておきます。「往生」とか「生まれる」だけで、「どこに」「どんな身に」が記されていない御文は除いています。

まずは『教行信証』行巻より

諸天・人民・蜎飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。この願を得ずは、つひに作仏せじ

諸天・人民・蠕動の類、わが名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、わが国に来生せしめん。しからずはわれ作仏せじ


前者は『大無量寿経』の異訳経である『大阿弥陀経』、後者は同じく異訳経の『平等覚経』で、共に18願の異訳で「わが国」ですから、浄土に生まれるという意味です。

もう一つ行巻より

『双巻経』(大経)の三輩の業、浅深ありといへども、しかるに通じてみな「一向専念無量寿仏」といへり。三つに四十八願のなかに、念仏門において別して一つの願を発してのたまはく、「乃至十念 若不生者 不取正覚」と。四つに『観経』には「極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得」

これは『往生要集』を引かれたものですが、直接「若不生者」についての解釈を仰っているのではありません。しかし、最後の文が18願文の「」がどこかを明確にされています。「極楽」。

次に『尊号真像銘文』です。

「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。

これはよく知られていますので、解説は要らないでしょう。「浄土」。

もう一つ

「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。

ですが、これは18願文を言い換えられた善導大師の『観念法門』にある

若我成仏 十方衆生 願生我国 称我名字 下至十声 乗我願力 若不生者 不取正覚

の「若不生者」についてですが、当然、18願文の「若不生者」そのままですから、18願文の「若不生者」の解釈と同じです。「もし本願の実報土に生れずは」ですから、「本願の実報土」です。

『唯信鈔文意』には、

「来迎」といふは、「来」は浄土へきたらしむといふ、これすなはち若不生者のちかひをあらはす御のりなり。穢土をすてて真実報土にきたらしむとなり、すなはち他力をあらはす御ことなり。

とあり、ここでも「浄土」です。

もう一つ

「乃至十念 若不生者 不取正覚」といふは、選択本願の文なり。この文のこころは、「乃至十念の御なをとなへんもの、もしわがくにに生れずは仏に成らじ」とちかひたまへる本願なり。

です。「わがくに」です。

次に『愚禿鈔』ですが、これは18願文を二河白道の譬えで言い換えられた

汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん

で「若不生者」にあたる「来れ」の解釈で

「来」の言は、去に対し往に対するなり。また報土に還来せしめんと欲してなり。

と仰っておられます。「報土」です。

最後は『末灯鈔』で親鸞聖人が18願文をご自身のお言葉で言い換えられた

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる

です。「極楽」です。

これで

1.「浄土に生まれる」と仰った根拠

教行信証行巻 3文
尊号真像銘文 2文
唯信鈔文意 2文
愚禿鈔 1文
末灯鈔 1文

計 9文

です。これ以外にもあるかもしれませんが、思いつくものとして挙げた9文です。
信楽に生まれる」という解釈をされた箇所は、全くないのです。

理屈でどうこういうのではなく、

親鸞聖人がどう仰っているか

論点はこの一点で、高森会長が親鸞聖人とは違う教え方しかしていない、という結論に達するのです。

これで某講師は完全に沈黙しました。

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2020年2月15日 (土)

最近の親鸞会との法論12

他に講師との法論では、「若不生者」についてのこともありました。かなり議論尽くされた内容ですので、取り上げるかどうか迷いましたが、ポイントだけ紹介しておきます。

親鸞会の主張は、

信楽に生まれさせる

というものです。これは明確な間違いであり、このことについては当ブログで何度か言及しています。「信楽」とは仏心そのものですので、「信楽」に生まれたら仏になったことと同じことですので、そのような言い方は言葉の定義からして間違いです。

他力の信心を「信楽」と言われますが、「信楽」を頂くことと「信楽」になることとは違います。「信楽」を頂くのは、あくまで「信楽」になる種つまり仏になる種を頂くのであって、芽も花も実もない状態です。

高森顕徹会長は、自分が体験したこともないのに、話を創作して会員を騙しているだけなのです。

次に親鸞会が言ってくるのが、

本願成就文には現益しか説かれていない。
現益がないというのか!

ですが、浄土真宗なら現益をいうのが当然ですが、問題は、

親鸞聖人が「若不生者」をどのように解釈されているか

の一点です。

曲がりなりにも親鸞学徒を名乗るのなら、親鸞聖人が仰ったお言葉で説明し、理屈を捏ね繰り回す必要はないのです。

結論は以下の通りで終了でした。

「若不生者」についてのまとめ

1.「浄土に生まれる」と仰った根拠

教行信証行巻 3文
尊号真像銘文 2文
唯信鈔文意 2文
愚禿鈔 1文
末灯鈔 1文

計 9文

2.「信楽に生まれる」と仰った根拠

ゼロ

0
皆無

つまり、高森会長は親鸞聖人とは違う教え方をしている。

根拠については、次回以降紹介していきます。

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2019年5月19日 (日)

大沼法竜師の説明を受け売りして恥をかき続ける高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話は、また

「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです」とは、どんなことでしょうか」

との質問に答える座談会でした。

自分の創作した言葉の解説を延々とし続ける意図は、批判されることへの恐れを抱いた自信のなさの表われです。

いつもの邪義の連続で大した話はありませんでしたが、邪義の中で一つだけ取り上げておきます。

阿弥陀仏が「すべての人」を「極重の悪人」と見て取られて本願を建てられた

というところです。大沼法竜師が言われていたことの受け売りですが、これは間違いです。

極重の悪人」とは、『正信偈』の

極重悪人唯称仏

から取っているのでしょうが、この元は源信僧都の『往生要集』の

『観経』に「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」と。

です。『観無量寿経』の内容を示されたものですが、この更に元は、善導大師の弟子であった懐感禅師の『釈浄土群疑論』にある

『観経』の下品上生、下品中生、下品下生の三処の経文には、みなただ弥陀仏を念じて浄土に往生すと陳ぶ。

です。ここで『観無量寿経』の九品について見てみますと、

「上品上生」「上品中生」「上品下生」は、行福を行じている善人
「中品上生」「中品中生」は、戒福を行じている善人
「中品下生」は、世福を行じている善人
「下品上生」「下品中生」「下品下生」は、無三福の悪人

となります。したがって、源信僧都の仰る「極重の悪人」とは、悪人の中の最も下に当たる「下品下生」のことを指しているのは浄土門の常識です。源信僧都が仰っていることは、「下品下生」の「極重の悪人」は、念仏だけを勧められていて善という方便がない、その念仏を称えて極楽に往生する、と『観無量寿経』に説かれている、ということです。

これがどういうことかというと、「上品上生」から「中品下生」までの善人がいるということであり、悪人でも「下品上生」「下品中生」もいるということです。

そんなことはない、親鸞聖人は全人類を「極重の悪人」とみておられた!!!

と根拠のない反論をしてくるでしょうから、この御文を使って言い換えられた親鸞聖人の御文を示しておきます。『往生要集』のお言葉に「定散の諸機」を加えられて、『教行信証』化土巻の要門釈で

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

と仰っています。「極重の悪人」には他の方便がありませんが、善人である「定散の諸機」には他の方便がありますので、「定散の諸機」の入ったこの御文には「他の方便なし」が無くなっています。

なぜかって、「定散の諸機」がいるからです。

それでも納得しないでしょうからもう一つ信巻から

禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。

高玉・智覚禅師は、上品だということです。

高森会長の邪義など、たやすく暴くことができます。なぜなら、その程度の人物だからです。

 

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2019年4月14日 (日)

18願文さえもまともに理解できない高森顕徹会長とその信者達

本日も、間抜けな話をした高森顕徹会長でした。その典型が、18願文を出して、「信楽」の身にさせるのが18願、という勘違いです。
会員には、どこが間違いか全く判らないでしょうが、「信楽」は信心であって、「信楽」の身にさせるというものではないです。

18願は、「信楽」という信心を獲た人を浄土に生まれさせるという誓いです。

『尊号真像銘文』に

至心信楽をえたるひと、 わが浄土にもし生まれずは、 仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。

とある通りです。

これでも会員は理解できないと思いますので、もう少し説明すると、「信楽」が因で「浄土に生まれる」が果です。「信楽」は果ではありません。
会員は混乱していると思いますので、18願文の言い換えを紹介します。親鸞聖人は『大無量寿経』の異訳経で18願文を説明されています。
『教行信証』行巻に『大阿弥陀経』と『平等覚経』とを引かれて

諸天・人民・蜎飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。

諸天・人民・蠕動の類、わが名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、わが国に来生せしめん。しからずはわれ作仏せじ

歓喜踊躍せんもの」を「わが国に来生せしめ」です。
歓喜踊躍」=「信楽」=因
わが国に来生せしめ」=果
歓喜踊躍せんもの」を「歓喜踊躍させる」という誓いではありません。

言い換えると、

信心を獲た人を信心の身にさせるという誓いではありません。

もう一つ言い換えると

「信楽」を獲た人を「信楽」の身にさせるという誓いではありません。

もっと言うと、18願は信心を獲させる願ではなく、信心を獲た人を浄土に生まれさせる願です。もし、18願が信心を獲させる願ならば、阿弥陀仏が成仏された時点で「十方衆生」は信心を獲ていることになりますが、そうではありません。なぜなら、信心を獲させる願ではなく信心を獲た人を浄土に生まれさせる願であるからです。

これでも思考停止の会員には、理解できないかもしれません。

カルトは恐ろしいです。

 

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