親鸞会の根本聖典『歎異抄をひらく』の邪義2
高森顕徹会長が、本心から自信満々に言っていることの一つに、『歎異抄』第二条の
弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。
の解釈を『歎異抄をひらく』の意訳
弥陀の本願がまことだから、唯その本願を説かれた、釈尊の教えにウソがあるはずはない。釈迦の説法がまことならば、そのまま説かれた、善導大師の御釈に偽りがあるはずがなかろう。
としていることがあります。その解説を
だが親鸞聖人には、弥陀の本願以外、この世にまことはなかったのだ。
|誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法(教行信証)
|まことだった、まことだった。弥陀の本願まことだった。の大歓声や、
|煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします(歎異抄)
|火宅のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間の総ては、そらごと、たわごとであり、まことは一つもない。ただ弥陀の本願念仏のみがまことなのだ。『歎異抄』の「念仏のみぞまこと」は、「弥陀の本願念仏のみぞまこと」の簡略である。聖人の「本願まことの信念」は明白であろう。
親鸞聖人の著作はどこも、「弥陀の本願まこと」の讃嘆で満ちている。「弥陀の本願まこと」が、常に聖人の原点であったのだ。その聖人が、仮定で「本願」を語られるはずがなかろう。
「弥陀の本願まことにおわしまさば」は、「弥陀の本願まことだから」の断定にほかならない。
としています。もちろんこれは文法的に誤りです。
「おはしまさば」は、未然形+接続助詞「ば」で、仮定を表わします。
文法上の誤りくらいどうでも良いと会員は思うかもしれませんが、もし文法上の誤りを知っているのに敢えてそうされたのであれば、親鸞聖人が、命懸けで尋ねに来た関東の同行に対して誤解を生じさせる表現をされたこととなり、親鸞聖人の真意を理解する妨げることになります。したがってもしこれが断定であるならば、親鸞聖人は意地悪な不適切な回答をされたことになってしまします。
また『歎異抄』第二条の他所では、
総じてもって存知せざるなり。
と断定を避けて仰っていることからも、ここを断定とする必然性がありません。
ここは真実信心とはこのようなものだ、と示された箇所と思われます。
その理由は『歎異抄』の著者とされる唯円から直接話を聞かれた覚如上人が『執持鈔』で、この『歎異抄』第二条の内容を違う表現でされています。
真実信心について親鸞聖人の御言葉として紹介されているのが、
往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
です。
「本願まことの信念」とは、「本願まこと」が判る智慧を得ることではなく、「如来の御ちかひにまかせたてまつる」つまり「本願まこと」をそのまま受け入れていくことに他ならないのです。
高森会長のように「弥陀の本願まことだから」と断定するには、「弥陀の本願まこと」が判らなければならないですが、それは補処の弥勒菩薩の智慧をもってしても無理なことなのです。
高森会長が「弥陀の本願まことにおわしまさば」を誤解して、その誤解を本心から自信満々で言えるのは、親鸞聖人、覚如上人とは違う信心であるからという理由以外にはないでしょう。それでも高森会長が正しいと思うのであれば、それは浄土真宗とは別の宗か別の宗教です。
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