18願

2017年4月26日 (水)

念仏往生の願の成就文に「念仏の意味はない」としか考えられない浅はかな高森顕徹会長

前回のエントリーについて、言葉が不足していて判りにくかったと思いますので、少し言葉を加えておきました。

さて、先日の講師部講義で18願成就文について強調していましたが、18願も判らないのに18願成就文の意味など高森顕徹会長に判るはずもないです。

基本的なこととして、存覚上人の『真要鈔』を紹介しておきます。

しかのみならず、おなじき第十八の願成就の文にいはく、「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」といへり。この文のこころは、「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜し、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す」となり。こころは、「一切の衆生、無礙光如来の名をきき得て、生死出離の強縁ひとへに念仏往生の一道にあるべしと、よろこびおもふこころの一念おこるとき往生は定まるなり。これすなはち弥陀如来、因位のむかし、至心に回向したまへりしゆゑなり」となり。この一念について隠顕の義あり。顕には、十念に対するとき一念といふは称名の一念なり。隠には、真因を決了する安心の一念なり。これすなはち相好・光明等の功徳を観想する念にあらず、ただかの如来の名号をきき得て、機教の分限をおもひ定むる位をさすなり。されば親鸞聖人はこの一念を釈すとして、「一念といふは信心を獲得する時節の極促を顕す」と判じたまへり。

高森会長が最も拘っている「一念」について、「隠顕の義」があると仰っています。表面上に説かれていることは「称名の一念」、隠された部分が「安心の一念」だということです。重要なことは、「称名の一念」の意味があるということです。
なお、18願成就文の「信心」について存覚上人は「生死出離の強縁ひとへに念仏往生の一道にあるべし」と仰っています。
念仏と信心との関係が実によく判る箇所です。

では、親鸞聖人が18願成就文で「称名の一念」の義について仰っているところがあるのか、との疑問が生じるでしょうが、それは『浄土文類聚鈔』と『三経往生文類』にあります。

まず『浄土文類聚鈔』には

行といふは、すなはち利他円満の大行なり。すなはちこれ、諸仏咨嗟の願(第十七願)より出でたり。また諸仏称名の願と名づけ、また往相正業の願と名づくべし。しかるに本願力の回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。往相について大行あり、また浄信あり。大行といふは、すなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はあまねく一切の行を摂し、極速円満す。ゆゑに大行と名づく。このゆゑに称名はよく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはち憶念なり、憶念はすなはち念仏なり、念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。
願(第十七・十八願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「十方恒沙の諸仏如来、みなともに無量寿仏の威神功徳、不可思議にましますことを讃嘆したまふ。諸有の衆生、その名号を聞きて、信心歓喜し乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す」と。

とあります。行の説明に18願成就文を引かれています。
もう一つ『三経往生文類』にも

この如来の往相回向につきて、真実の行業あり。すなはち諸仏称名の悲願(第十七願)にあらはれたり。称名の悲願は『大無量寿経』(上)にのたまはく、「たとひわれ仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟しわが名を称せずは、正覚を取らじ」と。[文]
称名・信楽の悲願(第十七・十八願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「十方恒沙の諸仏如来、みなともに無量寿仏の威神功徳、不可思議なるを讃嘆したまふ。あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜して乃至一念せん。至心回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗するを除く」と。

とあります。同じく行の説明に18願成就文が引かれています。

簡単なことで、18願は念仏往生の願ですから、18願成就文は念仏往生の願成就文です。18願に信心と念仏が誓われているのと同様に、その成就文にも信心と念仏両方があります。なぜなら、「生死出離の強縁ひとへに念仏往生の一道にあるべし」が信心なのですから。

摩訶不思議な体験を信心と勘違いしているうちは、以上のことが永久に理解できないでしょう。

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2017年2月26日 (日)

高森顕徹会長の解釈は、教え以前に国語の問題で躓いている

同朋の里に映画館を造るという話が出ているようですが、これは明らかに金集めの手段です。未だに各地に会館を建て続けていますが、そうしてまで強引な金集めをしなければ回らないほど、金銭的に逼迫していることが判ります。会員も年々酷くなる金集めに、退会者にまで愚痴を言いふらす程です。

さて、本日の高森顕徹会長の話は、予想通りと言いましょうか、単純といいましょうか、「若不生者」の「」に絡んだ話でした。

当ブログを通して読まれている方ならお判りでしょうが、「若不生者」に関しては殆ど言及してきませんでした。昨年末になって初めてまともに言及したくらいですが、その理由は、他の邪義が余りにも酷過ぎることと、高森会長の「若不生者」の解釈は教えの間違いというよりも日本語の間違いという低レベルの話だからです。

一応復習しておきますと、「若不生者」について親鸞聖人の解釈は、『尊号真像銘文』の

至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは

ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは

と『唯信鈔文意』の

「来迎」といふは、「来」は浄土へきたらしむといふ、これすなはち若不生者のちかひをあらはす御のりなり。

で終わりです。

至心信楽をえたるひと、信楽にもし生れずは

では意味が判りません。二河白道の譬喩でも

信楽の心で念仏して浄土に生まれさせる

としかなりませんので、

信楽の心で念仏して信楽に生まれさせる

では文章にならないのです。

では現益の意味がないのかと言われれば、親鸞聖人は直接仰ってはいませんが、それも含められていると言ってもよい程度の話です。
しかし、現益でいうにしても、

至心信楽をえたるひと、信楽にもし生れずは
信楽の心で念仏して信楽に生まれさせる

には成りようがありません。国語の問題であって、教えの問題ではありません。ここで議論するのが馬鹿らしくなるレベルですから、これまで言及をしてこなかったのです。

そんな低レベルの話を、修正することもせずに、意地になって言い続ける高森会長の人格が知れるというものです。

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2017年1月20日 (金)

「若不生者」の「生」のまとめ

私の先輩と思われる会員からコメントを頂きました。「若不生者」の「」について、私が何回か書いてきたことに対する批判ですが、いつも通り、”高森先生が仰ったことと違う”という類の批判です。私が書いた教義的な内容についての批判ではないところが、ポイントです。

若不生者」については、前回で終わりにするつもりでしたが、せっかくですからもう少し書いておきます。

親鸞聖人は18願について、『大無量寿経』の異訳経を『教行信証』行巻に引いておられます。

『大阿弥陀経』

諸天・人民・蜎飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。この願を得ずは、つひに作仏せじ

『平等覚経』

諸天・人民・蠕動の類、わが名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、わが国に来生せしめん。しからずはわれ作仏せじ

若不生者」にあたる部分は、「わが国に来生せしめ」となっています。親鸞聖人がわざわざ紹介されたものですから、「」は、浄土に生まれさせるというのが、18願の意味であることを親鸞聖人は明確に認識なされる根拠となったものです。

良く知られた親鸞聖人の御言葉でいうなら、『尊号真像銘文』の

「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。

が決定的な証拠です。

これが大前提です。これを踏まえた上で、「」に当益の意味しかないかという話になりますが、実は現益の意味も親鸞聖人は含められていたものと思われます。その根拠もありますが、高森会長に塩を送るつもりはないので、紹介はしません。ただし、現益は「信楽」ではないです。現益なら「信楽」だと思われるかもしれませんが、違います。それはこれまでの「信楽」の説明を読まれればお判りになると思います。

会員には理解しがたいでしょうが、再度申し上げますと、「信楽」の信心を賜ることと「信楽」の身になることとは違います。以前にも書いてきた内容ですが、七高僧方とは異なる親鸞聖人の独自の解釈によるものです。

真宗学に詳しい方なら、これだけのヒントで判ると思われますが、高森会長や会員ではおそらく判らないでしょう。
もし高森会長が「若不生者」の「」を「信楽の身に生れさせる」とは別の表現で説明したなら、私の影響があったということです。それが1年後であろうが5年後であろうがです。

一応これまで宣言してきたことを繰り返しておきます。

法論は、高森会長でも講師部員でも幹部会員でも、誰とでも受けます。もちろん公開法論です。
以下論点をまとめています。

1.獲信していない人の死後はどうなるか 

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

 

2.五逆罪・謗法罪について 

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

 

3.善人と悪人について 

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

 

4.獲信のために善は必要か 

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

 

5.白道とは 

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

 

6.定散二善について 

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

 

7.19願について 

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

 

8.宿善について 

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

 

9.機の深信について 

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

 

10.善知識に無条件服従しなければならないか 

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

 

11.因果の道理について 

親鸞聖人 罪福の因果を信じることは自力・仏智不思議を疑う心
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高森会長 因果の道理を深信しなければならない

 

12.三願転入について 

親鸞聖人 聖道門の人を浄土門に導く方便が19願であり、19願の勧めはない
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高森会長 全人類は19願から始めなければならない

 

13.「一向専念無量寿仏」について 

親鸞聖人 諸善を廃して念仏1つになること
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高森会長 阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む

 

『歎異抄』について 

第1章 

1.「ただ信心を要とす」の「信心」とは 

親鸞聖人 「ただ念仏で往生できる」と信じた心
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高森会長 「助かった」とハッキリした心

 

2.「本願を信ぜんには他の善も要にあらず」とは 

親鸞聖人 本願に救われるには善は不要
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高森会長 救われたなら善は不要だが、救われる前には善が勧められている

 

3.「悪をもおそるべからず」とは 

親鸞聖人 本願に救われるのに、悪が妨げになることはない
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高森会長 悪を恐れ不安になるのは、地獄一定の悪人と知らされていないからだ

 

第2章 

4.「ただ念仏して」の「ただ」とは 

親鸞聖人 念仏一行
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高森会長 びっくり仰天

 

5.「総じてもつて存知せざるなり」とは 

親鸞聖人 念仏が浄土に生れる因なのか地獄に行く因なのかを知る智慧を持っていない
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高森会長 知り過ぎた知らん

 

6.「弥陀の本願まことにおわしまさば」は仮定か断定か 

親鸞聖人 仮定
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高森会長 断定

 

第3章 

7.「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」とは 

親鸞聖人 善人ではなく悪人のために18願を建てられた
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高森会長 「悪人」とは、全人類のことであり、「人間」の代名詞にほかならない

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2017年1月17日 (火)

何がおかしいのかも判っていない高森顕徹会長と会員のための補足

二河白道の譬えの中で出てくる、西岸上の人の喚び声が18願を譬えられたものであることは、高森顕徹会長も認めています。それを前回述べました。そうであるなら、西岸上の人の喚び声を聞いて初めて乗る白道は、信後の意味にしかならないのは言うまでもありませんが、白道を信前の求道心としていることも、大きな矛盾です。というより、高森会長が、二河白道の譬えの内容を正しく把握していないから矛盾にも気が付いていなかったのでしょう。

さて、西岸上の人の喚び声、

なんぢ、一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ

につきまして、親鸞聖人も解説なされています。
その中で「一心に正念にしてただちに来れ」について見てみますと、『愚禿鈔』には、

「一心」の言は、真実の信心なり。「正念」の言は、選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり。
「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。
「来」の言は、去に対し往に対するなり。また報土に還来せしめんと欲してなり。

とあります。

前々回と前回に問題にした18願文の「若不生者」に当たる「直ちに来れ」について、
遠回りである聖道門や19願・20願を捨てて、近道である18願に帰し、「報土に還来せしめんと欲してなり」と教えられています。ですから、「」は浄土に生まれさせるという意味になります。、「信楽」の身に生まれさせるという意味にはなりません。

ではどのようにして来なさい、と仰っているのかというと、「一心正念にして」です。簡単に言うと「一心」真実の信心で「正念」念仏して、です。

この「一心正念」については『浄土文類聚鈔』で更に詳しく解説なされています。

しかれば、「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり。深心はすなはちこれ堅固深信なり。堅固深信はすなはちこれ真心なり。真心はすなはちこれ金剛心なり。金剛心はすなはちこれ無上心なり。無上心はすなはちこれ淳一相続心なり。淳一相続心はすなはちこれ大慶喜心なり。大慶喜心を獲れば、この心三不に違す、この心三信に順ず。この心はすなはちこれ大菩提心なり。大菩提心はすなはちこれ真実信心なり。真実信心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。
度衆生心はすなはちこれ衆生を摂取して、安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心はすなはちこれ畢竟平等心なり。この心はすなはちこれ大悲心なり。この心作仏す。この心これ仏なり。これを「如実修行相応」と名づくるなり、知るべし。

正念」は念仏ですが、問題は「一心」の内容です。18願文の「信楽」にあたる「一心」の言い換えをたくさん出されていますが、図式にすると

信楽
=一心
=深心
=堅固深信
=真心
=金剛心
=無上心
=淳一相続心
=大慶喜心
=三信に順ず
=大菩提心
=真実信心
=願作仏心
=度衆生心
=衆生を摂取して、安楽浄土に生ぜしむる心
=畢竟平等心
=大悲心
=作仏す
=仏なり

となります。
詳しい説明はしませんが、「信楽」とは、最後にある仏のはたらきそのものになりますから、軽々しく、「信楽」の身に生まれ変わるなどというものではありません。我々の煩悩に汚れた心が、仏の心になるのではないことは、少し考えれば判ると思います。
信楽」を頂くことと、、「信楽」の心になることの違いは、ここでも明らかです。

18願文でさえ、まともに解釈できない高森会長に、三願転入とか言って19願・20願の解釈などできる筈もないでしょう。

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2017年1月 3日 (火)

これまでの主張を修正するも、誤魔化せないほどおかしい高森邪義

今年最初の高森顕徹会長の話は、本願と本願成就文でした。これまで私は何回か言いましたが、高森会長は批判に対して反応します。三願転入についてmixiでの法論を通して徹底的に高森会長を扱き下ろすと、『なぜ生きる2』を出したのがその典型です。もちろんそれを狙って、扱き下ろしたので、こちらの思惑通りに『なぜ生きる2』を書いてくれて、「ワシはそんなこと言っていない」の名言を封じることに成功しています。今回も本願の話をしない、と何度も書いたので、それに応えるように本願の話を急にし出しただけのことです。高森会長の性格は実に単純です。

本日の話で特徴的なのが、信楽について「往生一定」と説明したことです。どこかを修正することは予想していましたが、その箇所が少し意外でした。

今までは、絶対の幸福と言っていたので、明らかに何かの意図をもっての修正です。

ところで、18願文の言い換えで、高森会長が言っているのが

どんな人をも 必ず助ける 絶対の幸福に

ですが、これとは別の説明が『教学聖典』にあります。

汝―――十方衆生
一心――至心・信楽・欲生
正念――乃至十念
直来――若不生者
護汝――不取正覚
不畏――唯除

二河白道の譬えの中にある西岸上の人の喚び声です。

なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ

今取り上げたい箇所は「一心正念にしてただちに来れ」で、18願文では「至心・信楽・欲生 乃至十念 若不生者」です。
一心正念にしてただちに来れ」にあてはめて18願文を言うと

信楽の心で念仏して生まれさせる

ということになります。
では「生まれさせる」はどう生まれさせるのか。

1.信楽に生まれさせる
2.浄土に生まれさせる

どちらかでしょうか。
1では意味が通じません。

信楽の心で念仏して信楽に生まれさせる

訳が判りません。
2ですとすんなり理解できます。

信楽の心で念仏して浄土に生まれさせる

当たり前のことです。
二河白道の譬えでも、「ただちに来れ」は

ただちに西の岸に来れ

です。

ただちに一心へ来れ

になることはあり得ません。

それでも

「若不生者」の「生」は信楽に生まれさせる

だというなら、『教学聖典』は破棄しないといけないでしょう。

ちなみに、本日の

信楽=往生一定

の説明は、

「若不生者」の「生」は信楽に生まれさせる

との整合性を取るための苦肉の策でしょうが、

一心――至心・信楽・欲生
正念――乃至十念
直来――若不生者

との整合性まで考えの及ばないところが、高森会長らしいです。小手先の修正で誤魔化せるほど私は甘くはありません。

悔しければ、もう少し深い詭弁を、高学歴の講師を集めて考えてみましょう。

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2016年12月25日 (日)

「若不生者」の「生」を”信楽に生まれさせる”とする解釈にまた戻りました

本日の講師部講義で、珍しく本願、本願成就文についての説明がありました。あれだけ避けていた本願と本願成就文ですが、極一部だけの会員の参加ということもあり、情報が洩れることもないし、会員に対する、本願文の説明も、根拠を出しての説明もしているぞ、とのパフォーマンスのつもりなのでしょう。

さてその内容はと言うと、これまでと何も変わっていない、間違いだらけの説明でした。こっそりと修正してくるのかと思いきや、何の修正もないので、拍子抜けです。高森顕徹会長も、間違いには気が付いているのですが、それでも修正しないのは、会員に救われてほしい、という気持ちの欠落を意味しています。

たとえば、本願の「若不生者」の「」を”信楽に生まれさせる”と言い続けて恥をかき、『なぜ生きる2』でこっそり”浄土に生まれさせる”と修正したものの、今日はまた”信楽に生まれさせる”と元に戻っています。

その「信楽」の説明も当然以前のままで、

後生明るい心、後生楽しい心

とか訳の判らない説明です。
言うまでもなく親鸞聖人の説明は違います。
『教行信証』信巻の信楽釈については何度か紹介しましたので、今回は『浄土文類聚鈔』を紹介します。

二つには信楽、すなはちこれ、真実心をもつて信楽の体とす。しかるに具縛の群萌、穢濁の凡愚、清浄の信心なし、真実の信心なし。このゆゑに真実の功徳値ひがたく、清浄の信楽獲得しがたし。
これによりて釈(散善義)の意を闚ふに、愛心つねに起りてよく善心を汚し、瞋嫌の心よく法財を焼く。身心を苦励して、日夜十二時、急に走め急に作して、頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒の善と名づく、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。この雑毒の善をもつてかの浄土に回向する、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに、まさしくかの如来、菩薩の行を行じたまひしとき、乃至一念一刹那も、三業の所修、みなこれ真実心中に作したまひしによるがゆゑに、疑蓋雑はることなし。
如来、清浄真実の信楽をもつて、諸有の衆生に回向したまへり。

(現代語訳)

二つには信楽について、 この心はすなわち、 真実心を信楽の体とするのである。 ところが、 煩悩に縛られ濁りに満ちた世に生きる愚かな凡夫には、 清らかな信心がなく、 真実の信心がない。 だから、 真実の功徳にあうことができず、 清らかな信楽を得ることができないのである。
そこで、 『観経疏』のおこころを考えてみると、 貪りの心は常に善い心を汚し、 怒りの心はその功徳を焼いてしまう。 たとえ身を苦しめ心を砕いて、 昼夜を問うことなく、 ちょうど頭についた火を必死に払い消すように賢明に努め励んでも、 それはすべて毒のまじった善といい、 また、 いつわりの行というのであり、 真実の行とはいわないのである。 この毒のまじった善を回向しても、 阿弥陀仏の浄土に往生することはできない。

なぜかというと、 阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、 ほんの一瞬の間に至るまでも、 その身・口・意の三業に修められた行はみな、 真実心においてなされたからであり、 だからどのような疑いの心もまじることがない。
阿弥陀仏はその清らかな真実の信楽を、 すべての人々にお与えになるのである。

とあります。

親鸞聖人がここで仰っていることは、

凡夫には阿弥陀仏の報土に生まれることができるような善はできない。
それで阿弥陀仏が凡夫の代わりに修行なされた。
その清らかな真実の信楽をすべての人に与えてくださっている。

ということです。重要なことは、阿弥陀仏のなされた修行による因でわれらが報土往生という果を受けるということです。

後生暗い心が明るい心になった、後生苦しい心が楽しい心になった、という我々の心の変化ではなく、阿弥陀仏から与えられた信心を受け取るだけで、我々の心が変わる訳ではないということなのです。
言わば、高森流因果の道理を否定した、他因自果を仰ったのが「信楽」なのです。

『浄土文類聚鈔』ではこの後に

本願(第十八願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「諸有の衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せん」と。{抄出}
聖言、あきらかに知んぬ。いまこの心は、すなはちこれ、本願円満清浄真実の信楽なり、これを信心と名づく。信心はすなはちこれ大悲心なるがゆゑに、疑蓋あることなし。

(現代語訳)

本願 (第十八願) が成就したことを示す文は、 『大無量寿経』に次のように説かれている。 「すべての人々は、 その名号のいわれを聞いて信じ喜ぶ」
釈尊のお言葉により、 明らかに知ることができた。 この心は、 すなわち本願に誓われている功徳に満ちた清らかな真実の信楽であり、 これを信心というのである。 信心はすなわち大いなる慈悲の心であるから、 疑いの心があるはずはない。

と続きます。

信楽」は阿弥陀仏から与えられた信心であるから疑いの心があるはずがない、ということです。

高森会長の言う”信楽に生まれさせる”との解釈における最大の問題点は、我々の心が阿弥陀仏の清らかな信心に生まれ変わると錯覚していることです。清らかな信心を頂くことと、清らかな信心に生まれ変わることとは全く違うことです。

判り易くいうなら、報土往生する因(信楽)そのものを受け取るのではなく、報土往生という果だけを受け取るのです。ですから「若不生者」の「」は”浄土に生まれさせる”でないと話が通じないのです。

それが摩訶不思議体験至上主義である高森会長には到底理解できないのでしょう。

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2016年11月19日 (土)

18願を知らないから成就文も当然知らない高森顕徹会長

親鸞会の関連会社の社長だった人が、社長だけでなく会員も辞めています。理不尽さと非常識、そしておかしな教義に呆れ果てて、真面目な人ほど親鸞会を去っていきます。高森顕徹会長のカリスマ性も無くなり、元々レパートリーの少なかった話が更に限定されてきて、高森会長の話を聞くことが苦痛としか感じられない会員も多いと思います。

高森会長の話で、正しそうな言い回しとして、

念仏で助かるのではなく信心一つで助かるのだ

というのがありますが、言葉上は間違いではないのですが、意味が間違っています。

高森会長がその根拠としてきたのが、18願成就文の「乃至一念」で

18願には信心と念仏が誓われていてどちらで助かるかわからないが、成就文では念仏がないから信心一つで助かるということがハッキリする

という理屈です。
それで念仏を否定して信心だけを勧めるのですが、そこが根本的な間違いです。
簡単に言えば、信心と念仏を別のものとしか考えられないことが原因です。

このように言うと、

親鸞聖人は成就文の「乃至一念」を信の一念として解釈されている

と尤もらしいことを言ってくる薄学の講師や幹部会員がいるかもしれませんので、一応解説をしておきます。

成就文の「乃至一念」について、法然上人は念仏として教えられてきました。『選択本願念仏集』に

第十八の念仏往生の願、あに孤りもつて成就せざらんや。しかればすなはち念仏の人みなもつて往生す。なにをもつてか知ることを得る。
すなはち念仏往生の願成就の文に、「もろもろの衆生ありて、その名号を聞きて信心歓喜して、乃至一念、心を至して回向してかの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得て不退転に住す」といふこれなり。

と仰っていることから、「念仏の人みなもつて往生す」根拠として成就文を出されていることから明らかです。

ところが親鸞聖人はこれを『教行信証』信巻で信心と仰っています。

それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。
ここをもつて『大経』にのたまはく、「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」と。

成就文の「乃至一念」を法然上人が念仏と仰ったのを親鸞聖人は信心で解釈されたのですが、ここで親鸞聖人が法然上人の仰せを否定されたと考えるのは間違いです。どういうことかと言えば、親鸞聖人は法然上人の仰せに対して補足説明をされただけだということです。

その証拠が、18願のことを親鸞聖人は「念仏往生の願」と何度も仰っていることです。

それだけでは捻くれた会員は納得しないでしょうから、他の根拠を示しておきます。

『教行信証』をまとめられた『浄土文類聚鈔』には少し長いですが

行といふは、すなはち利他円満の大行なり。すなはちこれ、諸仏咨嗟の願(第十七願)より出でたり。また諸仏称名の願と名づけ、また往相正業の願と名づくべし。しかるに本願力の回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。往相について大行あり、また浄信あり。大行といふは、すなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はあまねく一切の行を摂し、極速円満す。ゆゑに大行と名づく。このゆゑに称名はよく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはち憶念なり、憶念はすなはち念仏なり、念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。
願(第十七・十八願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「十方恒沙の諸仏如来、みなともに無量寿仏の威神功徳、不可思議にましますことを讃嘆したまふ。諸有の衆生、その名号を聞きて、信心歓喜し乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す」と。

とあります。行の説明に18願成就文を引かれています。
もう一つ『三経往生文類』にも

この如来の往相回向につきて、真実の行業あり。すなはち諸仏称名の悲願(第十七願)にあらはれたり。称名の悲願は『大無量寿経』(上)にのたまはく、「たとひわれ仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟しわが名を称せずは、正覚を取らじ」と。[文]
称名・信楽の悲願(第十七・十八願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「十方恒沙の諸仏如来、みなともに無量寿仏の威神功徳、不可思議なるを讃嘆したまふ。あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜して乃至一念せん。至心回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗するを除く」と。

とあります。同じく行の説明に18願成就文が引かれています。

以上の意味については『末灯鈔』にあります。

信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。

(現代語訳)

信の一念と行の一念とは言葉は二つでありますが、 信を離れた行もありませんし、 行の一念を離れた信の一念もありません。 なぜなら、 行というのは、 本願に誓われている名号を一声称えて浄土に往生するということを聞いて、 一声でも称え、 あるいは十声でも称えることをいうのであり、 この本願を聞いて、 疑う心が少しもないことを信の一念というのです。 ですから信と行とは二つではありますが、 名号を一声称えて往生すると聞いて疑う心がないので、 行を離れた信はないとうかがっています。 また、 信を離れた行もないとお考えください。

簡単なことで、18願に信心と念仏が誓われているのと同様に、その成就文にも信心と念仏両方があります。なぜなら、信心と念仏とは密接不離であるのです。

高森会長は、18願の意味も間違っていますから、成就文の意味も間違っているのは至極当然なことであり、驚くことではありません。

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2016年11月15日 (火)

昔は言葉だけは正しかったもののずれていた解釈、今では解釈以前に言葉もずれまくりの高森顕徹会長

高森顕徹会長は、大学で真宗学を真面目に学んでこなかったので、18願の救いが如何なるものか、全く判っていません。元々おかしい説明が、最近はよりおかしくなっています。

今から約30年前の滋賀降誕会で、高森会長は突如、真宗学用語を説明したことがあります。

親鸞聖人の教えを漢字6字で言うと機無円成回施である

実にまともなことを当時は言っていましたが、このように言ったことは後にも先にもこれ一度きりでした。
機無円成回施について説明しますと、親鸞会でも有名な『教行信証』信巻の至心釈に

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。
ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。
如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。
すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。

(現代語訳)

すべての衆生は、はかり知れない昔から今日この時にいたるまで、煩悩に汚れて清らかな心がなく、いつわりへつらうばかりでまことの心がない。
そこで、阿弥陀仏は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、はかり知ることができない長い間菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間も清らかでなかったことがなく、まことの心でなかったことがない。如来は、この清らかなまことの心をもって、すべての功徳が一つに融けあっていて、思いはかることも、たたえ尽すことも、説き尽すこともできない、この上ない智慧の徳を成就された。
如来の成就されたこの至心、すなわちまことの心を、煩悩にまみれ悪い行いや誤ったはからいしかないすべての衆生に施し与えられたのである。
この至心は、如来より与えられた真実心をあらわすのである。だからそこに疑いのまじることはない。

こうある内容です。
衆生には、仏に成れるような因である清浄心、真実心がないことを最初に仰っています。これを「機無」と言います。善が一切できないではなく、仏に成れるような善ができないです。
この「機無」を本として法蔵菩薩が衆生のために本願を建てて下され、清浄心、真実心をもって行を行じられ、名号を成就なされたことを仰ったのが第二・第三文で、「円成」と言います。
第四文は、不可思議功徳の名号を阿弥陀仏が衆生に向って等しく与えて下されることを仰ったもので、「回施」と言われます。
最後の二文は、他力回向の真実心を衆生は賜わるので、自力の一切混じるものではないことを仰っています。

同様のことを信楽釈でも仰っています。

一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。
如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。
これを利他真実の信心と名づく。

(現代語訳)

すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに修めた自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。
なぜかというと、阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまで、どのような疑いの心もまじることがなかったからである。この心、すなわち信楽は、阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、必ず真実報土にいたる正因となるのである。
如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、この上ない功徳をおさめた清らかな信を、迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。
これを他力の真実の信心というのである。

もちろん欲生釈にもあります。

微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。
このゆゑに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに、利他真実の欲生心をもつて諸有海に回施したまへり。欲生すなはちこれ回向心なり。これすなはち大悲心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなし。

(現代語訳)

あらゆる衆生は、煩悩に流され迷いに沈んで、まことの回向の心がなく、清らかな回向の心がない。
そこで、阿弥陀仏は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまでも、衆生に功徳を施し与える心を本としてなされ、それによって如来の大いなる慈悲の心を成就されたのである。そして他力真実の欲生信を、迷いの衆生に施し与えられたのである。すなわち、衆生の欲生心は、そのまま如来が回向された心であり大いなる慈悲の心であるから、疑いがまじることはない。

約30年前に高森会長が言っていたことは、珍しく正しかったのですが、その意味にずれがありました。

悪人は悪しかできないことで六道から出離できず、善のできる善人も真実の善ができず雑毒の善にしかならないから真実の報土に往生できないということです。

難度海で苦しんでいるとは「機無」、つまり出離できない報土往生できないことであって、丸太や板切れ、泳ぎ方しか考えていないことではありません。

出離したい、報土往生したいと願っても叶わない衆生のために、阿弥陀仏が代わりに御修行なされて報土往生の因を積まれて衆生に与えて下されている、だから難思の弘誓と親鸞聖人は仰っているのです。これが理解できれば、宿善が厚くならないととか、善の勧めがあるとか、三願転入しなければならないとか、そんな発想が出てきようがありません。

親鸞聖人の教えを漢字6字で言うと機無円成回施である

これは大学の授業で、何かの拍子に覚えたのでしょうが、その親鸞聖人の御心を聞き損なったために、ヘンテコな解釈になり、30年前に一度だけ説明をしてみたものの自己矛盾に陥って、それからは説明しようともしなかったのでしょう。

今更、真宗学を学んでいくつもりもないでしょうし、18願の説明をする気もないのですから、高森会長の話を聞く暇があるなら、落語でも聞いていた方がマシです。

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2016年11月 6日 (日)

変な譬え話が更に変になり、真宗教義の欠片もなくなった高森教

親鸞会は、聖教上の御文を使わなくなり高森教と化して久しいのですが、これまで言ってきた変な譬え話までも変化しています。

映画のメインになった幼稚な話、大海に放り出された人が浮かんだ丸太や板切れに掴る云々ですが、その人が何を考えているかについて、どう泳ぐのか、泳ぎ方のことだけだ、と高森顕徹会長が尤もらしく話をしています。

丸太や板切れについては、以前におかしいことを指摘しましたが、益々おかしな説明になりました。皆さんは、気が付かれたでしょうか。どう泳ぐ、泳ぎ方、を考えるのは、泳げる人です。溺れている人ではありません。泳ぐことのできる善人についての譬えであって、泳げない溺れている悪人は、この譬えでは除外されているのです。昔は、溺れて水飲んで苦しんでいる人だと説明していたので、変なりにも許容範囲だったかもしれませんが、今は完全に逸脱しています。

当然ですが、高森会長には18願の根本が判っていないし、浄土門の基礎の基礎がない証拠です。

善導大師は『玄義分』に有名なお言葉を残しておられます。

しかるに諸仏の大悲は苦あるひとにおいてす、心ひとへに常没の衆生を愍念したまふ。ここをもつて勧めて浄土に帰せしむ。 また水に溺れたる人のごときは、すみやかにすべからくひとへに救ふべし、岸上のひと、なんぞ済ふを用ゐるをなさん。

(現代語訳)

ところで、 仏の大悲は苦しむ者に対するのであって、 そのお心はひとえにいつも迷いに沈んでいる衆生をあわれみたもうのである。 そこで浄土に帰するよう勧められる。 また水に溺れているような人は、 いそいで特に救わねばならないが、 岸の上にいる者はどうして救う必要があろうか。

高森会長も、以前は時々口に出して言ったことのある一説ですが、お得意のパクリで意味も判らず使っていただけなのでしょう。

どう泳ぐか、泳ぎ方ばかりを考えているという高森会長の説明は、どこをどう贔屓目に見ても、浄土門ではなく、聖道門に近い発想です。もちろん聖道門でもないですから高森教としか言いようがありません。

浄土真宗の教えは、本願力回向の教えです。阿弥陀仏が兆載永劫の御修行によって成就された功徳を衆生に与えられることをいいます。つまり、往生のために衆生の側で何かを加えたり添える必要がないということです。高森会長が知らない真宗の超常識です。

高森会長が、泳ぎ方を考えるとか、因果の道理から善を勧めれば勧めるほど、本願力回向を否定することになります。なぜなら、阿弥陀仏が兆載永劫の御修行による功徳では足りないと言っていることになるからです。
高森会長自身だけではなく、会員にも仏智不思議の本願力回向を疑わせる恐ろしい罪を造らせているのです。親鸞聖人は、御著書の中で何回もそのことを誡められ、高森会長の説を完全に否定されています。最も判りやすいのが、『正像末和讃』誡疑讃の

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

です。大海に放り出されて、泳ぎ方を常に考えている人のことを仰ったものです。罪福の因果の道理を信じて善を行っている人は、本願力回向を疑っているから、本願力回向によって往ける報土ではなく、その人の自業自得で、七宝の獄という化土に往くことになる、と教えられたています。

親鸞聖人の教えの肝心要の本願力回向というお言葉は、『教行信証』信巻にあります。

「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。

親鸞会の会員も退会者も、「本願力の回向の大信心海」を獲たいと思うのであれば、本願力回向と反する高森会長の説く聖道門もどきの発想を頭から消し去ることです。善ができるとか善をしようとおもっているとか、因果の道理がどうのこうのという泳ぎ方もです。もっと言えば、「本願力の回向の大信心海」を獲るために努力するのではなく、本願力回向を否定する努力を止めることです。

泳ごうとするな

これが会員に伝えたいメッセージです。高森教の教祖には、このメッセージは理解できないと思います。

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2016年10月28日 (金)

弥陀の誓願不思議と摩訶不思議な体験・信心との違いが理解できない高森顕徹会長

何十年の講師部員・会員でも、親鸞会の異常な活動についてゆけずに辞めていく人は後を絶ちませんが、それでも親鸞会が異常性を改めないのは、そうしなければ会を維持できないからです。講師部員・幹部会員への締め付けは年々酷くなり、特に献金の要求は他の宗教団体の追随を許さないところまできています。

こんな異常な中にあっても、親鸞会を辞めない人の心理は、高森顕徹会長の摩訶不思議な体験と信心に魅力を感じているからでしょう。しかしそれは、麻原死刑囚の空中浮揚の神秘性に惹かれてオウムに入った信者と全く同じです。

言うまでもなく、高森会長の言っている摩訶不思議な体験も信心も、阿弥陀仏の救いや親鸞聖人の教えとは関係がありません。

親鸞聖人は不思議、不可思議というお言葉を良く使われますが、それは阿弥陀仏の救いが不思議、不可思議と言うことであって、体験や信心が不思議、不可思議なのではありません。

会員には何のことか理解できないと思いますので、少し説明します。

親鸞聖人は『教行信証』行巻に念仏と諸善とを比較された中に

思不思議対
(現代語訳)
念仏は不可思議の仏智の顕現であり、諸善は分別思議の法である。

があります。
念仏で往生し成仏するということが、到底考えられないことだということです。それに対して諸善で往生や成仏することは不思議でもなんでもないことです。諸善で宿善が厚くなって獲信に近づくという理屈も不思議でもなんでもないことです。そんな理屈も思議も全く及ばない救いであるから、不思議なのです。もちろん諸善で宿善が厚くなってとか、諸善の道程とかがない救いなので、不思議なのです。

蓮如上人の愛読書であった『安心決定鈔』には

まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。和尚(善導)はこれを「別異の弘願」(玄義分)とほめたまへり。

とありますように、救いを求める我らが願を立て行を励むのが筋であるのに、願も行も法蔵菩薩が励まれて、それでいて受ける結果は我らの往生となるのです。世間の理屈でも聖道門の因果の道理にも全くあわないことなので、善導大師は18願を「別異の弘願」と仰って褒め称えられたのです。

もう一度言いますと、不思議、不可思議なのは念仏で往生成仏させると誓われた阿弥陀仏の救いであって、体験や信心が不思議、不可思議なのではありません。我らが善を全くしないのに往生し成仏できるから、考えられないことと親鸞聖人が仰っているのです。

こういうと、信心は地獄行き間違いなしと極楽参り間違いなしの2つが同時に起こる絶対矛盾的自己同一で不思議だろう、と反論するでしょうが、そんな信心は未来永劫起こりません。そんな個人的な味わい感想はあっても、それは信心ではありません。
二種深信は、善では助からない、念仏で助かると心が定まったことをいうのです。二種深信自体は理屈上矛盾ではありません。助かる手段が善か念仏かの選択だからです。ただ、無善で念仏のみで助かるという理屈が矛盾にしか思えないことを不思議、不可思議と仰っているのです。

ここまで説明しても、善なしで信仰が進むなんて考えられない、三願転入せずしてどうして救われるのか、と納得できない会員が多いでしょう。だから、不思議、不可思議なのです。

高森会長自身も、弥陀の誓願不思議と摩訶不思議な体験・信心との違いが理解できていないことは、言うまでもありません。

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