18願

2020年2月23日 (日)

最近の親鸞会との法論13

若不生者」について、親鸞聖人がどう仰っているのかの根拠を列記しておきます。「往生」とか「生まれる」だけで、「どこに」「どんな身に」が記されていない御文は除いています。

まずは『教行信証』行巻より

諸天・人民・蜎飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。この願を得ずは、つひに作仏せじ

諸天・人民・蠕動の類、わが名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、わが国に来生せしめん。しからずはわれ作仏せじ


前者は『大無量寿経』の異訳経である『大阿弥陀経』、後者は同じく異訳経の『平等覚経』で、共に18願の異訳で「わが国」ですから、浄土に生まれるという意味です。

もう一つ行巻より

『双巻経』(大経)の三輩の業、浅深ありといへども、しかるに通じてみな「一向専念無量寿仏」といへり。三つに四十八願のなかに、念仏門において別して一つの願を発してのたまはく、「乃至十念 若不生者 不取正覚」と。四つに『観経』には「極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得」

これは『往生要集』を引かれたものですが、直接「若不生者」についての解釈を仰っているのではありません。しかし、最後の文が18願文の「」がどこかを明確にされています。「極楽」。

次に『尊号真像銘文』です。

「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。

これはよく知られていますので、解説は要らないでしょう。「浄土」。

もう一つ

「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。

ですが、これは18願文を言い換えられた善導大師の『観念法門』にある

若我成仏 十方衆生 願生我国 称我名字 下至十声 乗我願力 若不生者 不取正覚

の「若不生者」についてですが、当然、18願文の「若不生者」そのままですから、18願文の「若不生者」の解釈と同じです。「もし本願の実報土に生れずは」ですから、「本願の実報土」です。

『唯信鈔文意』には、

「来迎」といふは、「来」は浄土へきたらしむといふ、これすなはち若不生者のちかひをあらはす御のりなり。穢土をすてて真実報土にきたらしむとなり、すなはち他力をあらはす御ことなり。

とあり、ここでも「浄土」です。

もう一つ

「乃至十念 若不生者 不取正覚」といふは、選択本願の文なり。この文のこころは、「乃至十念の御なをとなへんもの、もしわがくにに生れずは仏に成らじ」とちかひたまへる本願なり。

です。「わがくに」です。

次に『愚禿鈔』ですが、これは18願文を二河白道の譬えで言い換えられた

汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん

で「若不生者」にあたる「来れ」の解釈で

「来」の言は、去に対し往に対するなり。また報土に還来せしめんと欲してなり。

と仰っておられます。「報土」です。

最後は『末灯鈔』で親鸞聖人が18願文をご自身のお言葉で言い換えられた

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる

です。「極楽」です。

これで

1.「浄土に生まれる」と仰った根拠

教行信証行巻 3文
尊号真像銘文 2文
唯信鈔文意 2文
愚禿鈔 1文
末灯鈔 1文

計 9文

です。これ以外にもあるかもしれませんが、思いつくものとして挙げた9文です。
信楽に生まれる」という解釈をされた箇所は、全くないのです。

理屈でどうこういうのではなく、

親鸞聖人がどう仰っているか

論点はこの一点で、高森会長が親鸞聖人とは違う教え方しかしていない、という結論に達するのです。

これで某講師は完全に沈黙しました。

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2020年2月15日 (土)

最近の親鸞会との法論12

他に講師との法論では、「若不生者」についてのこともありました。かなり議論尽くされた内容ですので、取り上げるかどうか迷いましたが、ポイントだけ紹介しておきます。

親鸞会の主張は、

信楽に生まれさせる

というものです。これは明確な間違いであり、このことについては当ブログで何度か言及しています。「信楽」とは仏心そのものですので、「信楽」に生まれたら仏になったことと同じことですので、そのような言い方は言葉の定義からして間違いです。

他力の信心を「信楽」と言われますが、「信楽」を頂くことと「信楽」になることとは違います。「信楽」を頂くのは、あくまで「信楽」になる種つまり仏になる種を頂くのであって、芽も花も実もない状態です。

高森顕徹会長は、自分が体験したこともないのに、話を創作して会員を騙しているだけなのです。

次に親鸞会が言ってくるのが、

本願成就文には現益しか説かれていない。
現益がないというのか!

ですが、浄土真宗なら現益をいうのが当然ですが、問題は、

親鸞聖人が「若不生者」をどのように解釈されているか

の一点です。

曲がりなりにも親鸞学徒を名乗るのなら、親鸞聖人が仰ったお言葉で説明し、理屈を捏ね繰り回す必要はないのです。

結論は以下の通りで終了でした。

「若不生者」についてのまとめ

1.「浄土に生まれる」と仰った根拠

教行信証行巻 3文
尊号真像銘文 2文
唯信鈔文意 2文
愚禿鈔 1文
末灯鈔 1文

計 9文

2.「信楽に生まれる」と仰った根拠

ゼロ

0
皆無

つまり、高森会長は親鸞聖人とは違う教え方をしている。

根拠については、次回以降紹介していきます。

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2019年5月19日 (日)

大沼法竜師の説明を受け売りして恥をかき続ける高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話は、また

「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです」とは、どんなことでしょうか」

との質問に答える座談会でした。

自分の創作した言葉の解説を延々とし続ける意図は、批判されることへの恐れを抱いた自信のなさの表われです。

いつもの邪義の連続で大した話はありませんでしたが、邪義の中で一つだけ取り上げておきます。

阿弥陀仏が「すべての人」を「極重の悪人」と見て取られて本願を建てられた

というところです。大沼法竜師が言われていたことの受け売りですが、これは間違いです。

極重の悪人」とは、『正信偈』の

極重悪人唯称仏

から取っているのでしょうが、この元は源信僧都の『往生要集』の

『観経』に「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」と。

です。『観無量寿経』の内容を示されたものですが、この更に元は、善導大師の弟子であった懐感禅師の『釈浄土群疑論』にある

『観経』の下品上生、下品中生、下品下生の三処の経文には、みなただ弥陀仏を念じて浄土に往生すと陳ぶ。

です。ここで『観無量寿経』の九品について見てみますと、

「上品上生」「上品中生」「上品下生」は、行福を行じている善人
「中品上生」「中品中生」は、戒福を行じている善人
「中品下生」は、世福を行じている善人
「下品上生」「下品中生」「下品下生」は、無三福の悪人

となります。したがって、源信僧都の仰る「極重の悪人」とは、悪人の中の最も下に当たる「下品下生」のことを指しているのは浄土門の常識です。源信僧都が仰っていることは、「下品下生」の「極重の悪人」は、念仏だけを勧められていて善という方便がない、その念仏を称えて極楽に往生する、と『観無量寿経』に説かれている、ということです。

これがどういうことかというと、「上品上生」から「中品下生」までの善人がいるということであり、悪人でも「下品上生」「下品中生」もいるということです。

そんなことはない、親鸞聖人は全人類を「極重の悪人」とみておられた!!!

と根拠のない反論をしてくるでしょうから、この御文を使って言い換えられた親鸞聖人の御文を示しておきます。『往生要集』のお言葉に「定散の諸機」を加えられて、『教行信証』化土巻の要門釈で

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

と仰っています。「極重の悪人」には他の方便がありませんが、善人である「定散の諸機」には他の方便がありますので、「定散の諸機」の入ったこの御文には「他の方便なし」が無くなっています。

なぜかって、「定散の諸機」がいるからです。

それでも納得しないでしょうからもう一つ信巻から

禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。

高玉・智覚禅師は、上品だということです。

高森会長の邪義など、たやすく暴くことができます。なぜなら、その程度の人物だからです。

 

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2019年4月14日 (日)

18願文さえもまともに理解できない高森顕徹会長とその信者達

本日も、間抜けな話をした高森顕徹会長でした。その典型が、18願文を出して、「信楽」の身にさせるのが18願、という勘違いです。
会員には、どこが間違いか全く判らないでしょうが、「信楽」は信心であって、「信楽」の身にさせるというものではないです。

18願は、「信楽」という信心を獲た人を浄土に生まれさせるという誓いです。

『尊号真像銘文』に

至心信楽をえたるひと、 わが浄土にもし生まれずは、 仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。

とある通りです。

これでも会員は理解できないと思いますので、もう少し説明すると、「信楽」が因で「浄土に生まれる」が果です。「信楽」は果ではありません。
会員は混乱していると思いますので、18願文の言い換えを紹介します。親鸞聖人は『大無量寿経』の異訳経で18願文を説明されています。
『教行信証』行巻に『大阿弥陀経』と『平等覚経』とを引かれて

諸天・人民・蜎飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。

諸天・人民・蠕動の類、わが名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、わが国に来生せしめん。しからずはわれ作仏せじ

歓喜踊躍せんもの」を「わが国に来生せしめ」です。
歓喜踊躍」=「信楽」=因
わが国に来生せしめ」=果
歓喜踊躍せんもの」を「歓喜踊躍させる」という誓いではありません。

言い換えると、

信心を獲た人を信心の身にさせるという誓いではありません。

もう一つ言い換えると

「信楽」を獲た人を「信楽」の身にさせるという誓いではありません。

もっと言うと、18願は信心を獲させる願ではなく、信心を獲た人を浄土に生まれさせる願です。もし、18願が信心を獲させる願ならば、阿弥陀仏が成仏された時点で「十方衆生」は信心を獲ていることになりますが、そうではありません。なぜなら、信心を獲させる願ではなく信心を獲た人を浄土に生まれさせる願であるからです。

これでも思考停止の会員には、理解できないかもしれません。

カルトは恐ろしいです。

 

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2018年7月 7日 (土)

麻原教祖を未だに信じているアレフの信者より幼稚な高森顕徹会長信者

二河白道の譬えの中にある阿弥陀仏の喚び声が18願の言い換えであることは、あの高森顕徹会長でさえ認めていることです。阿弥陀仏の喚び声である18願を聞いてそれに順ったことが、白道に乗ることですから、白道は信後の他力以外には考えられないのです。

小学生でも判る単純明快な理屈です。

その阿弥陀仏の喚び声の内容について、少し説明しておきます。

阿弥陀仏の喚び声についての解説は、『浄土文類聚鈔』と『愚禿鈔』にあります。

まず『浄土文類聚鈔』では

これによりて師釈を披きたるにいはく、「西の岸の上に人ありて喚ばひてのたまはく、〈なんぢ、一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉」と。また〈中間の白道〉といふは、すなはち、貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。仰いで釈迦の発遣を蒙り、また弥陀の招喚したまふによりて、水火二河を顧みず、かの願力の道に乗ず」と。{略出}
ここに知んぬ、「能生清浄願心」は、これ凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なるがゆゑに清浄願心とのたまへり。しかれば、「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり。(後略)

(現代語訳)

そこで、 善導大師の 『観経疏』をひらくと、 次のようにいわれている 。
「西の岸に人がいて、 〈そなたは一心に正念してまっすぐに来るがよい。 わたしがそなたを護ろう。 水の河や火の河に落ちるのではないかと恐れるな〉と喚ぶ声がする」
また次のようにいわれている。
「〈水の河と火の河の間にある白い道〉というのは、 貪りや怒りの心の中に、 往生を願う清らかな信心がおこることをたとえたのである。 浄土へ往生せよという釈尊のお勧めと、 浄土へ来たれと招き喚ぶ阿弥陀仏の仰せにしたがって、 貪りや怒りの水と火の河を気にもかけず、 阿弥陀仏の本願のはたらきに身をまかせるのである」
これによって知ることができた。 「清らかな信心が起こる」 とは、 凡夫が自力で起す心ではない。 大いなる慈悲により回向された心であるから、 清らかな信心といわれているのである。 そして 「一心に正念して」 というのは、 「正念」 とはすなわち称名である。 称名はすなわち念仏である。 「一心」 とは深い心、 すなわち深心である。 (後略)

とあります。

一心」=深心真実の信心
正念」=称名念仏

真実の信心(他力の信心)で念仏して(西の岸)に来なさい=白道を歩みなさい

です。
凡夫自力の心にあらず」の真実の信心(他力の信心)になって白道を歩むのですから、信後の他力の道が白道です。

何の矛盾もないです。

次に『愚禿鈔』

「また、西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく、〈汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん〉」といふは、

「西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく」といふは、阿弥陀如来の誓願なり。

「汝」の言は行者なり、これすなはち必定の菩薩と名づく。龍樹大士『十住毘婆沙論』にいはく、「即時入必定」となり。曇鸞菩薩の『論』には、「入正定聚之数」といへり。善導和尚は、「希有人なり、最勝人なり、妙好人なり、好人なり、上上人なり、真仏弟子なり」といへり。「一心」の言は、真実の信心なり。「正念」の言は、選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり。

「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。

「来」の言は、去に対し往に対するなり。また報土に還来せしめんと欲してなり。

「我」の言は、尽十方無礙光如来なり、不可思議光仏なり。「能」の言は、不堪に対するなり、疑心の人なり。「護」の言は、阿弥陀仏果成の正意を顕すなり、また摂取不捨を形すの貌なり、すなはちこれ現生護念なり。「念道」の言は、他力白道を念ぜよとなり。

ここで

一心」=真実の信心
正念」=選択摂取の本願、第一希有の行、金剛不壊の心

ということですから、『浄土文類聚鈔』とほとんど同じ内容です。
『浄土文類聚鈔』に無かった解説として

」=回に対し迂に対する、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰する、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲して
」=去に対し往に対する、報土に還来せしめんと欲して

とあります。

したがいまして、諸善、19願の寄り道をするな、躊躇することなく直ちに18願の他力に帰しなさい、ということですから、そのお言葉に順って乗った白道に方便仮門、自力の意味は皆無になります。

そして「」が18願文の「若不生者」の「」に当たりますので、
」=報土に還来せしめん浄土に生まれさせる
となり、信楽に生まれさせるという意味でないことも明白になります。

ついでに白道を進んでいる旅人に対して群賊等が戻ってこいと叫んでいてもそれに惑わされないことを二河白道の譬えでは

一心にただちに進んで道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。

とあり、この「道を念じて

念道」=他力白道を念ぜよ

と親鸞聖人は仰っています。自力の意味はここでも完全否定されています。

親鸞聖人が白道には自力の心ではない真実の信心で乗りなさい、19願の寄り道をするなと解説もされ、直接「他力白道」とまで明言されているので、白道=他力をどうしたら間違えるのか不思議不思議です。
あの高森会長でさえ、親鸞聖人は白道を他力と教えられていると認めざるをえなくなったのになお、未だに白道が自力だと言っている会員がいることには、憐みの気持ちしか起きてきません。

麻原教祖を未だに信じているアレフの信者と同じレベルかと思っていましたが、アレフの信者よりも幼稚な知能なのでしょう。

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2017年12月10日 (日)

親鸞聖人の教えを知らないのだから七高僧方の教えなど何一つ知らない高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話は、いつも通り支離滅裂です。仏教と親鸞聖人の教えの基本が判っていないからこんな話になるのだと思います。

18願成就文の「即得往生、住不退転」の説明を、

生きている時に絶対の幸福になること

としていました。元々、高森会長の言う絶対の幸福とは信楽の身になることでしたので、以前から言い続けている「若不生者」の「」を信楽に生まれさせるが、成就文の「即得往生、住不退転」から邪義と明らかになります。
『唯信鈔文意』には、

「即得往生」は、信心をうればすなはち往生すといふ、すなはち往生すといふは不退転に住するをいふ、不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まるとのたまふ御のりなり、これを「即得往生」とは申すなり。「即」はすなはちといふ、すなはちといふはときをへず日をへだてぬをいふなり。

(現代語訳)

「即得往生」 は、 信心を得ればすなわち往生するということである。 すなわち往生するというのは、 不退転に住することをいう。 不退転に住するというのは、 すなわち正定聚の位に定まると仰せになっているみ教えである。 このことを 「即得往生」 というのである。 「即」 は 「すなわち」 というのである。 「すなわち」 というのは、 時を経ることもなく日を置くこともないことをいうのである。

とありますが、お判りでしょうか。
信心をうればすなはち往生す」ですから、信楽をうれば往生する、なので、この「往生」は信楽の身に生れるではあません。もし信楽の身に生まれるなら、信楽をうれば信楽の身に生まれる、となって意味が通じなくなります。

もし、高森会長が絶対の幸福と信楽の身とは別という意味で、「住不退転」を絶対の幸福にさせるという言い方をしたとしたら、一歩前進とも言えなくもないですが、絶対の幸福自体が最初からおかしいので、訳の判らない無茶苦茶な話になってくるのです。

不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まる」と親鸞聖人が仰っていますように、

不退転=正定聚の位

ということです。
高森会長の理論でいくと

不退転=正定聚の位=絶対の幸福

ですが、ここがポイントです。
現生で正定聚になると教えられたのは歴代の善知識方では親鸞聖人が初めてです。つまり、七高僧方は死後に正定聚になるとしか仰っていませんので、

不退転=正定聚の位=絶対の幸福

であるなら、死後に絶対の幸福になると教えられたのが七高僧方となります。
会員にはチンプンカンプンだと思いますが、
現生で正定聚になると親鸞聖人が教えられたのは、親鸞聖人の理論であり、独特の解釈ですから、正定聚の位に入ったという自覚も実感も確かな証拠も何もないのです。
要するに、仮に

不退転=正定聚の位=絶対の幸福

だとしても、高森会長の説明するような現生で絶対の幸福になど絶対になれないのです。

妄想、空想、創価学会のパクリで創り上げた高森会長の偽の信心を正信心と騙されている会員は、一刻も早く高森会長に三下り半を突き付けてください。

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2017年4月26日 (水)

念仏往生の願の成就文に「念仏の意味はない」としか考えられない浅はかな高森顕徹会長

前回のエントリーについて、言葉が不足していて判りにくかったと思いますので、少し言葉を加えておきました。

さて、先日の講師部講義で18願成就文について強調していましたが、18願も判らないのに18願成就文の意味など高森顕徹会長に判るはずもないです。

基本的なこととして、存覚上人の『真要鈔』を紹介しておきます。

しかのみならず、おなじき第十八の願成就の文にいはく、「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」といへり。この文のこころは、「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜し、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す」となり。こころは、「一切の衆生、無礙光如来の名をきき得て、生死出離の強縁ひとへに念仏往生の一道にあるべしと、よろこびおもふこころの一念おこるとき往生は定まるなり。これすなはち弥陀如来、因位のむかし、至心に回向したまへりしゆゑなり」となり。この一念について隠顕の義あり。顕には、十念に対するとき一念といふは称名の一念なり。隠には、真因を決了する安心の一念なり。これすなはち相好・光明等の功徳を観想する念にあらず、ただかの如来の名号をきき得て、機教の分限をおもひ定むる位をさすなり。されば親鸞聖人はこの一念を釈すとして、「一念といふは信心を獲得する時節の極促を顕す」と判じたまへり。

高森会長が最も拘っている「一念」について、「隠顕の義」があると仰っています。表面上に説かれていることは「称名の一念」、隠された部分が「安心の一念」だということです。重要なことは、「称名の一念」の意味があるということです。
なお、18願成就文の「信心」について存覚上人は「生死出離の強縁ひとへに念仏往生の一道にあるべし」と仰っています。
念仏と信心との関係が実によく判る箇所です。

では、親鸞聖人が18願成就文で「称名の一念」の義について仰っているところがあるのか、との疑問が生じるでしょうが、それは『浄土文類聚鈔』と『三経往生文類』にあります。

まず『浄土文類聚鈔』には

行といふは、すなはち利他円満の大行なり。すなはちこれ、諸仏咨嗟の願(第十七願)より出でたり。また諸仏称名の願と名づけ、また往相正業の願と名づくべし。しかるに本願力の回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。往相について大行あり、また浄信あり。大行といふは、すなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はあまねく一切の行を摂し、極速円満す。ゆゑに大行と名づく。このゆゑに称名はよく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはち憶念なり、憶念はすなはち念仏なり、念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。
願(第十七・十八願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「十方恒沙の諸仏如来、みなともに無量寿仏の威神功徳、不可思議にましますことを讃嘆したまふ。諸有の衆生、その名号を聞きて、信心歓喜し乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す」と。

とあります。行の説明に18願成就文を引かれています。
もう一つ『三経往生文類』にも

この如来の往相回向につきて、真実の行業あり。すなはち諸仏称名の悲願(第十七願)にあらはれたり。称名の悲願は『大無量寿経』(上)にのたまはく、「たとひわれ仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟しわが名を称せずは、正覚を取らじ」と。[文]
称名・信楽の悲願(第十七・十八願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「十方恒沙の諸仏如来、みなともに無量寿仏の威神功徳、不可思議なるを讃嘆したまふ。あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜して乃至一念せん。至心回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗するを除く」と。

とあります。同じく行の説明に18願成就文が引かれています。

簡単なことで、18願は念仏往生の願ですから、18願成就文は念仏往生の願成就文です。18願に信心と念仏が誓われているのと同様に、その成就文にも信心と念仏両方があります。なぜなら、「生死出離の強縁ひとへに念仏往生の一道にあるべし」が信心なのですから。

摩訶不思議な体験を信心と勘違いしているうちは、以上のことが永久に理解できないでしょう。

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2017年2月26日 (日)

高森顕徹会長の解釈は、教え以前に国語の問題で躓いている

同朋の里に映画館を造るという話が出ているようですが、これは明らかに金集めの手段です。未だに各地に会館を建て続けていますが、そうしてまで強引な金集めをしなければ回らないほど、金銭的に逼迫していることが判ります。会員も年々酷くなる金集めに、退会者にまで愚痴を言いふらす程です。

さて、本日の高森顕徹会長の話は、予想通りと言いましょうか、単純といいましょうか、「若不生者」の「」に絡んだ話でした。

当ブログを通して読まれている方ならお判りでしょうが、「若不生者」に関しては殆ど言及してきませんでした。昨年末になって初めてまともに言及したくらいですが、その理由は、他の邪義が余りにも酷過ぎることと、高森会長の「若不生者」の解釈は教えの間違いというよりも日本語の間違いという低レベルの話だからです。

一応復習しておきますと、「若不生者」について親鸞聖人の解釈は、『尊号真像銘文』の

至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは

ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは

と『唯信鈔文意』の

「来迎」といふは、「来」は浄土へきたらしむといふ、これすなはち若不生者のちかひをあらはす御のりなり。

で終わりです。

至心信楽をえたるひと、信楽にもし生れずは

では意味が判りません。二河白道の譬喩でも

信楽の心で念仏して浄土に生まれさせる

としかなりませんので、

信楽の心で念仏して信楽に生まれさせる

では文章にならないのです。

では現益の意味がないのかと言われれば、親鸞聖人は直接仰ってはいませんが、それも含められていると言ってもよい程度の話です。
しかし、現益でいうにしても、

至心信楽をえたるひと、信楽にもし生れずは
信楽の心で念仏して信楽に生まれさせる

には成りようがありません。国語の問題であって、教えの問題ではありません。ここで議論するのが馬鹿らしくなるレベルですから、これまで言及をしてこなかったのです。

そんな低レベルの話を、修正することもせずに、意地になって言い続ける高森会長の人格が知れるというものです。

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2017年1月20日 (金)

「若不生者」の「生」のまとめ

私の先輩と思われる会員からコメントを頂きました。「若不生者」の「」について、私が何回か書いてきたことに対する批判ですが、いつも通り、”高森先生が仰ったことと違う”という類の批判です。私が書いた教義的な内容についての批判ではないところが、ポイントです。

若不生者」については、前回で終わりにするつもりでしたが、せっかくですからもう少し書いておきます。

親鸞聖人は18願について、『大無量寿経』の異訳経を『教行信証』行巻に引いておられます。

『大阿弥陀経』

諸天・人民・蜎飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。この願を得ずは、つひに作仏せじ

『平等覚経』

諸天・人民・蠕動の類、わが名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、わが国に来生せしめん。しからずはわれ作仏せじ

若不生者」にあたる部分は、「わが国に来生せしめ」となっています。親鸞聖人がわざわざ紹介されたものですから、「」は、浄土に生まれさせるというのが、18願の意味であることを親鸞聖人は明確に認識なされる根拠となったものです。

良く知られた親鸞聖人の御言葉でいうなら、『尊号真像銘文』の

「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。

が決定的な証拠です。

これが大前提です。これを踏まえた上で、「」に当益の意味しかないかという話になりますが、実は現益の意味も親鸞聖人は含められていたものと思われます。その根拠もありますが、高森会長に塩を送るつもりはないので、紹介はしません。ただし、現益は「信楽」ではないです。現益なら「信楽」だと思われるかもしれませんが、違います。それはこれまでの「信楽」の説明を読まれればお判りになると思います。

会員には理解しがたいでしょうが、再度申し上げますと、「信楽」の信心を賜ることと「信楽」の身になることとは違います。以前にも書いてきた内容ですが、七高僧方とは異なる親鸞聖人の独自の解釈によるものです。

真宗学に詳しい方なら、これだけのヒントで判ると思われますが、高森会長や会員ではおそらく判らないでしょう。
もし高森会長が「若不生者」の「」を「信楽の身に生れさせる」とは別の表現で説明したなら、私の影響があったということです。それが1年後であろうが5年後であろうがです。

一応これまで宣言してきたことを繰り返しておきます。

法論は、高森会長でも講師部員でも幹部会員でも、誰とでも受けます。もちろん公開法論です。
以下論点をまとめています。

1.獲信していない人の死後はどうなるか 

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

 

2.五逆罪・謗法罪について 

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

 

3.善人と悪人について 

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

 

4.獲信のために善は必要か 

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

 

5.白道とは 

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

 

6.定散二善について 

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

 

7.19願について 

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

 

8.宿善について 

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

 

9.機の深信について 

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

 

10.善知識に無条件服従しなければならないか 

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

 

11.因果の道理について 

親鸞聖人 罪福の因果を信じることは自力・仏智不思議を疑う心
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高森会長 因果の道理を深信しなければならない

 

12.三願転入について 

親鸞聖人 聖道門の人を浄土門に導く方便が19願であり、19願の勧めはない
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高森会長 全人類は19願から始めなければならない

 

13.「一向専念無量寿仏」について 

親鸞聖人 諸善を廃して念仏1つになること
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高森会長 阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む

 

『歎異抄』について 

第1章 

1.「ただ信心を要とす」の「信心」とは 

親鸞聖人 「ただ念仏で往生できる」と信じた心
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高森会長 「助かった」とハッキリした心

 

2.「本願を信ぜんには他の善も要にあらず」とは 

親鸞聖人 本願に救われるには善は不要
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高森会長 救われたなら善は不要だが、救われる前には善が勧められている

 

3.「悪をもおそるべからず」とは 

親鸞聖人 本願に救われるのに、悪が妨げになることはない
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高森会長 悪を恐れ不安になるのは、地獄一定の悪人と知らされていないからだ

 

第2章 

4.「ただ念仏して」の「ただ」とは 

親鸞聖人 念仏一行
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高森会長 びっくり仰天

 

5.「総じてもつて存知せざるなり」とは 

親鸞聖人 念仏が浄土に生れる因なのか地獄に行く因なのかを知る智慧を持っていない
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高森会長 知り過ぎた知らん

 

6.「弥陀の本願まことにおわしまさば」は仮定か断定か 

親鸞聖人 仮定
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高森会長 断定

 

第3章 

7.「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」とは 

親鸞聖人 善人ではなく悪人のために18願を建てられた
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高森会長 「悪人」とは、全人類のことであり、「人間」の代名詞にほかならない

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2017年1月17日 (火)

何がおかしいのかも判っていない高森顕徹会長と会員のための補足

二河白道の譬えの中で出てくる、西岸上の人の喚び声が18願を譬えられたものであることは、高森顕徹会長も認めています。それを前回述べました。そうであるなら、西岸上の人の喚び声を聞いて初めて乗る白道は、信後の意味にしかならないのは言うまでもありませんが、白道を信前の求道心としていることも、大きな矛盾です。というより、高森会長が、二河白道の譬えの内容を正しく把握していないから矛盾にも気が付いていなかったのでしょう。

さて、西岸上の人の喚び声、

なんぢ、一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ

につきまして、親鸞聖人も解説なされています。
その中で「一心に正念にしてただちに来れ」について見てみますと、『愚禿鈔』には、

「一心」の言は、真実の信心なり。「正念」の言は、選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり。
「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。
「来」の言は、去に対し往に対するなり。また報土に還来せしめんと欲してなり。

とあります。

前々回と前回に問題にした18願文の「若不生者」に当たる「直ちに来れ」について、
遠回りである聖道門や19願・20願を捨てて、近道である18願に帰し、「報土に還来せしめんと欲してなり」と教えられています。ですから、「」は浄土に生まれさせるという意味になります。、「信楽」の身に生まれさせるという意味にはなりません。

ではどのようにして来なさい、と仰っているのかというと、「一心正念にして」です。簡単に言うと「一心」真実の信心で「正念」念仏して、です。

この「一心正念」については『浄土文類聚鈔』で更に詳しく解説なされています。

しかれば、「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり。深心はすなはちこれ堅固深信なり。堅固深信はすなはちこれ真心なり。真心はすなはちこれ金剛心なり。金剛心はすなはちこれ無上心なり。無上心はすなはちこれ淳一相続心なり。淳一相続心はすなはちこれ大慶喜心なり。大慶喜心を獲れば、この心三不に違す、この心三信に順ず。この心はすなはちこれ大菩提心なり。大菩提心はすなはちこれ真実信心なり。真実信心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。
度衆生心はすなはちこれ衆生を摂取して、安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心はすなはちこれ畢竟平等心なり。この心はすなはちこれ大悲心なり。この心作仏す。この心これ仏なり。これを「如実修行相応」と名づくるなり、知るべし。

正念」は念仏ですが、問題は「一心」の内容です。18願文の「信楽」にあたる「一心」の言い換えをたくさん出されていますが、図式にすると

信楽
=一心
=深心
=堅固深信
=真心
=金剛心
=無上心
=淳一相続心
=大慶喜心
=三信に順ず
=大菩提心
=真実信心
=願作仏心
=度衆生心
=衆生を摂取して、安楽浄土に生ぜしむる心
=畢竟平等心
=大悲心
=作仏す
=仏なり

となります。
詳しい説明はしませんが、「信楽」とは、最後にある仏のはたらきそのものになりますから、軽々しく、「信楽」の身に生まれ変わるなどというものではありません。我々の煩悩に汚れた心が、仏の心になるのではないことは、少し考えれば判ると思います。
信楽」を頂くことと、、「信楽」の心になることの違いは、ここでも明らかです。

18願文でさえ、まともに解釈できない高森会長に、三願転入とか言って19願・20願の解釈などできる筈もないでしょう。

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