異安心

2017年11月26日 (日)

親鸞聖人の仰ったことを、「そんなことは口が腐っても言ってはならない」と完全否定する高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話には、またまた、あっと驚くタメゴロー発言がありました。

阿弥陀仏の本願を信じなさいとはどこにも教えられていないし、そんなことを口が腐っても言ってはならない。

これを聞いた会員は平常心でいられるのだろうかと思います。

判らない高森会長と取り巻きのために、教えてあげます。

直接的な聖教上のお言葉として、『正像末和讃』の

弥陀の本願信ずべし
 本願信ずるひとはみな
 摂取不捨の利益にて
 無上覚をばさとるなり

には、阿弥陀仏の本願を信じなさい、と親鸞聖人が仰っておられますが、そんなことも知らないのかという話です。『正像末和讃』は読んだことなくても、『御文章』を読んだことのある会員は多いと思います。5帖目6通の

このこころをまた『和讃』にいはく、「弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益ゆゑ 等正覚にいたるなり」といへり。

は一部の会員でも知っているでしょう。

もっというなら、『正信偈』の

五濁悪時の群生海、如来如実の言を信ずべし。

道俗時衆ともに同心に、ただこの高僧の説を信ずべしと。

如来如実の言」「この高僧の説」とは、阿弥陀仏の本願以外にないでしょう。

五濁悪時の群生海」は阿弥陀仏の本願を信じなさい。
道俗時衆ともに同心に」阿弥陀仏の本願を信じなさい。

と親鸞聖人が一字一涙の思いで書き残されているのではないのですかね。それとも、「如来如実の言」「この高僧の説」とは、阿弥陀仏の本願ではないと言いたいのか、いずれにしても、無知を通り越して、会員さえも、あっと驚くタメゴロー状態ではないかと想像しています。

苦し紛れの反論として、

信じるのは自力だから

とか言うかもしれませんが、自力の聴聞を勧めているのに、自力で信じることは口が腐っても言ってはならないとは、どの口が言うのでしょう。

理解力の欠落した高森会長と講師と会員のために補足しておきますと、

阿弥陀仏を信じる気のない、言い換えると外道や聖道門を信じている人に、
阿弥陀仏の本願を信じなさい
と勧められていることは説明するまでもないですし、
阿弥陀仏の本願を信じて聞いている人にも、
阿弥陀仏の本願を信じなさい(他力の信心を頂きなさい)
と勧められているのが親鸞聖人です。

『末灯鈔』には

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

と親鸞聖人は教えられていますが、これを簡単に言うと

阿弥陀仏の本願(名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる)を深く信じて念仏を称えなさい

です。

異教の教祖である高森会長の言うことを信じなさい、と私は口が腐っても言いませんので、会員は、一刻も早く、高森会長を見限って親鸞会を離れることを強くお勧めします。

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2017年11月12日 (日)

自力の迷情とは後生どこへ行くかわからない心とか言っているお笑い悪知識

本日も、毎度毎度全くと言っていいほど同じ話で、高森顕徹会長の数少ないレパートリーが更に更に減ってきました。会員は何を思って聞いているのかと質問したくなりますが、大抵の会員は、高森会長が話ができなくなるか亡くなるまでの我慢と耐え忍んでいることでしょう。自分が信心決定できるとは思っていないです。

親切心で、聖教を読んだことのない高森会長と教学を補佐する講師部員のために、少しだけ教えてあげましょう。

最近いつも出す『改邪鈔』の

この娑婆生死の五蘊所成の肉身いまだやぶれずといへども、生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念にやぶれて

ですが、「共発金剛心の一念」は善導大師の『玄義分』が元になっていて、親鸞聖人は『教行信証』信巻に引文されています。

『観経義』に、
「道俗時衆等、おのおの無上の心を発せども、
生死はなはだ厭ひがたく、仏法また欣ひがたし。
ともに金剛の志を発して、横に四流を超断せよ。
まさしく金剛心を受けて、一念に相応してのち、
果、涅槃を得んひと」といへり。

(現代語訳)

『観経疏』にいわれている(玄義分)。
 「出家のものも在家のものも、今の世の人々は、それぞれ自力の菩提心をおこしても、迷いの世界は厭い離れることが難しく、またさとりへの路は求めて得ることが難しい。みなともに他力金剛の信心をおこして、ただちに迷いの流れを断ち切るがよい。まさしく他力金剛の信心を得て、本願にかなう一念の人はついには仏のさとりを得るものである」

親鸞聖人がどのような意味で仰ったのかは、読まれた通りで、自力の菩提心、自力の信心では出離が難しいから他力の信心をおこして、仏のさとりをえなさい、ということです。

つまり、『改邪鈔』で仰っている「自力の迷情」とはその人その人の「無上の心」という自分の力で出離しようとする菩提心のことです。難しい話でも何でもないです。

ところが聖教を読んだことのない高森会長と愉快な仲間達は、

自力の迷情=後生暗い心=後生どこへ行くかわからない心

と妄想し、本日も説明しているのです。

無知の恥じ曝しも大概にしておいた方が宜しいかと思いますが、後生どこへ行くかなんてことは、仏の智慧をもってしか判らないことです。他力の信心とは後生どこへ行くかハッキリする心だ、なんて根拠はどこにもありません。

往生一定ということと、極楽が手に取るように判るようになった、阿弥陀仏のお姿が認識できた、ということとは全く違うのですが、それさえも理解できないのでしょう。

仮に、極楽や阿弥陀仏が判るようになったのなら、定善が楽々できるでしょう。

極楽も阿弥陀仏も判らないが、極楽に往生できることがハッキリ判るんだ!

と訳の判らない反論をしてくるのでしょうが、死後に往く世界も認識できないのに、極楽に往生できると認識できる訳がありません。

往生一定とは、阿弥陀仏に死んだ後のことは全ておまかせしたことであり、阿弥陀仏が必ず往生させると誓っておられるので、往生は間違いない、という以上のことではないのです。

難しい根拠を出すなら、『浄土論註』には

かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり。

(現代語訳)

かの下品の人は生即無生であると知らないけれども、 ただ仏の名号を称えて作願してかの土に生まれようと願うならば、 浄土に至ればかの国は無生の道理にかなった境界であるから、 実消実滅と見る煩悩の火は自然に消えるのである。

とあります。煩悩にまみれて智慧のない下品の人には、往生とはどんなことかまるっきり理解できないのですが、その状態のまま念仏の力によって往生できるということです。

『教行信証』さえ読んだことがないのですから、『玄義分』や『浄土論註』など見たこともないでしょうが、聖教には、高森会長の異安心の証拠が山ほど書かれてあるのです。絶対の幸福とか創価学会用語を未だにパクリ続けて、それで他力の信心を語っているつもりなのですから、後々までお笑い悪知識と愉快な会として名を残してください。

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2017年11月 3日 (金)

阿弥陀仏の約束を疑わないように諸行に励む異安心集団親鸞会

先日の高森顕徹会長の講義では、自力の信心と他力の信心との違いについての話がありました。異安心の高森会長に、自力の信心・他力の信心の説明が正しくできる筈もありません。
高森会長の説明は、

自力の信心とは、阿弥陀仏の約束を疑わないようにしている信心。
他力の信心とは、阿弥陀仏から頂いた信心で、まことの心になる。

でした。
他力の信心を、聖道門のさとりのように勘違いしているところから生じる、あるいは土蔵秘事の一念覚知と混同しているところから生じる、異安心の典型的な理解です。

まず、自力の信心とは、阿弥陀仏の18願を疑わないようにしているのではなく、18願を疑っている信心です。阿弥陀仏の18願とは、前回も言いましたように、因果の道理に相反する救いであり、衆生の側には救いの因は全くなく、当然、何かをしなければならないということは皆無でありますから、救われるために私たちが何かをしようと思っていること自体が、阿弥陀仏18願を疑っているのです。

『教行信証』信巻の

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

(現代語訳)

このようなわけであるから、往生の行も信も、すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。如来より与えられた行信が往生成仏の因であって、それ以外に因があるのではない。よく知るがよい

にある通りです。

仮に疑わないようにしているなら、何もしない筈です。しかし、親鸞会の会員を見れば判りますが、疑わないようにしようと思いながら聞くという行や善に励んでいます。その思い、その行為が疑いそのものでありますから、高森会長の説明は全く意味不明です。

よって、他力の信心とは、阿弥陀仏が全てを用意されているので私が何かをする必要がない、阿弥陀仏に全部おまかせします、という信心です。私の心が真実の心になる訳ではありません。阿弥陀仏にそのままおまかせをしたことを、蓮如上人は「まことの心」と表現されているのであって、私たちの心が「まことの心」にはなりません。

自力の信心と他力の信心の違いを最も端的に顕わされているのが、高森会長の好きな、いや好きだった二河白道の譬えです。

御文を紹介すると長いので、今回は省略しますが、旅人が阿弥陀仏の喚び声を聞く前から聞いた後に何が変わったのかと言えば、白道に乗ったことだけです。幅四、五寸の白道は広くも短くもなっていません。水の河と火の河の波が白道を潤し焼いているのも変わりません。群賊悪獣悪知識も存在したままです。白道に乗って進む以外には、何一つ周りの状況は変わっていません。

つまりは、阿弥陀仏の喚び声に従うか従わないか、疑うか信じるかの違いだけです。

自力の信心と他力の信心の違いは、救われるために自分で何かをしなければならないと思うか思わないかの違いと言えます。

救われたなら善は必要ないが、救われるまでには善をしていかなければ信仰は進まない

とか寝惚けた妄言を信じ続けている限り、他力の信心を頂くことはありません。

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2017年10月22日 (日)

自力と他力の水際に疎い高森顕徹会長と愉快な仲間達

猛烈な教義批判に曝されて、慄いている高森顕徹会長の最近の話は、無難な内容で誤魔化そうとしています。しかし、そこは異安心の悲しさで、無難な話のつもりでも明らかな間違いが多々あり、更なる批判を浴びているのが親鸞会です。

最近は特に聴聞の強調をしていますが、高森会長の話は「聞く」という行為に拘わっていることが大きな間違いです。高森会長が聞法善だとか言って、自力の「聞く」という行を強く勧めているのですが、このことから、高森会長には自力と他力の水際が説けないと断言できます。

まず、真宗では「聞く」ということを大事にするのは言うまでもないことです。それは18願成就文に「聞」とあるからです。
この「聞」について、親鸞聖人は判りやすく教えておられます。

『教行信証』信巻に

しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。

と仰っています。
また『一念多念証文』に

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。

簡単にいうと

「聞」とは、18願の教えを聞いて、疑心のない状態(=信心)

ということです。
18願の教えを知らない人にとっては、その教えを知らなければ無疑心にはなりません。そのために、教えを知る、という「聞く」が必要になりますが、18願の教えを十分に知っている人が、無疑心、信心を獲るために18願の教えを聞き重ねていくのではありません。自力の「聞く」ことの延長に信心があるのではありません。
親鸞聖人はその間違いを正されるために先ほどの『教行信証』信巻で

「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。

と仰っています。「本願力回向の信心」です。本願力によって回向される信心ですから、自力が全く混じることもないし、自力の延長上に連続してある信心でもないということです。
本願力回向」ですから、自力とは完全に分離されたものなのです。自力と他力、信前と信後とは相容れない完全に分断されたものなのです。「聞く」ということも自力の「聞く」と他力の「聞く」とは全く別で延長上にあるものではありません。
この他力の「聞く」ということを存覚上人は『浄土見聞集』で上手く表現されています。

聞よりおこる信心、思よりおこる信心といふは、ききてうたがはず、たもちてうしなはざるをいふ。思といふは信なり、きくも他力よりきき、おもひさだむるも願力によりてさだまるあひだ、ともに自力のはからひちりばかりもよりつかざるなり。

高森会長には、自力と他力の水際が説けない、信前と信後の水際が全く説けないのです。

もう一つ、自力の念仏と他力の念仏についても、高森会長とその信者は全くの無知です。

自力の念仏とは『教行信証』化土巻に

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。

とあり、『正像末和讃』誡疑讃に

不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

などとあるように、因果の道理を信じて称える念仏を自力の念仏と親鸞聖人は明言されているのです。一方の他力の念仏は、因果の道理とは相反する「如来の諸智」「仏智の不思議」を信じて称える念仏です。

因果の道理は仏教の教えの根幹だ、とか寝惚けたことを平然と言っている異安心の高森会長と無安心の高森信者には、以上のことは全く理解できないことでしょう。

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2017年7月25日 (火)

念仏一行を勧めるのが善知識、念仏一行を否定するのが悪知識高森顕徹会長

前回のエントリーで、親鸞聖人は「念仏正因」と仰っていると書きましたので、「信心正因」との関係で、親鸞会の会員は頭が混乱していることと思います。しかし、当ブログを以前から読まれている退会者の皆さんなら、普通に理解されていることと思います。

簡単なことで、

信心とは、念仏1つで往生できると深く信じた心のことですから、

「信心正因」=「念仏正因」と深く信じた心が正因

ということです。
他力の信心に疎い高森顕徹会長と愉快な会員達には理解できないことですが、これだけのことです。

以前に同じようなことをエントリーで書いた時に、会員が挙げ足を取ったつもりでこのようなコメントしてきたことがあります。

念仏称えて助かると深く信じていますが、救われていないのはどうしてですか?

思考停止の会員らしいコメントですが、深く信じるとは深信、つまり真実の信心のことを指して親鸞聖人は仰っているのですから、会員のコメントを言い換えるなら、

真実の信心を獲ましたが、救われていないのはどうしてですか?

これなら思考停止の会員でもおかしさが理解できるのではないかと思います。深く信じるを自力だとかいう愚かさを恥じて、その会員はコメントしなくなりましたが、恥を知らずに同じようなことを未だに言っている会員もいるようで、呆れ果てます。

もう一度言いますと、真実の信心、他力の信心とは「念仏1つで往生できると深く信じた心」ですので、「念仏1つで往生できると浅く信じた心」が自力の信心になります。
共通しているのは「念仏1つで往生できると信じた心」で、違いは「深く」か「浅く」かです。

ここまで説明すれば、思考できる人ならお判りかと思いますが、「念仏1つで往生できると深く信じた心」の前には、通常「仏1つで往生できると浅く信じた心」がある筈です。「諸善をして往生しようと信じた心」をいくら積み重ねても、「念仏1つで往生できると深く信じた心」にはなれません。「諸善をして往生しようと信じた心」を自ら捨てさって、「念仏1つで往生できると浅く信じた心」になれば、「念仏1つで往生できると深く信じた心」になることはあります。

諸善をすれば、1つの善もできないことが知らされる

と本気で思っているのが会員ですが、善をしてもそんなことは永久に知らされません。

諸善をすれば、諸善がそれなりにできることが知らされる

です。
高森会長が詭弁でよく使う例えが、

親孝行をしようと真剣になれば本当の親孝行のできないことが知らされる

ですが、これを会員はまともに信じているから思考停止だというのです。
私が会員の時でも、これが詭弁であることは判っていました。
正しくいうなら、

親孝行をしようと真剣になれば、親孝行は他人よりもできるが、親を心から喜ばせるような本当の親孝行のできないことが知らされる

です。親孝行のできないことが知らされることなど、絶対にありません。

こんな簡単な詭弁に騙されて、未だに諸善だの宿善だの19願だの言っているから、他力の信心の1歩手間の「念仏1つで往生できると浅く信じた心」さえも馬鹿にして念仏軽視しているのです。

念仏1つで往生できると深く信じた心」とは異なる信心の高森会長を、善知識と思っているのは、鰯の頭を信じているのと何ら変わりがないのです。

今回は思考停止でも理解しやすいように根拠なしで説明しましたが、最後に一つだけ根拠を出しておきます。

『正信偈大意』

この三国の祖師等、念仏の一行をすすめ

善知識は念仏の一行を勧められる方、悪知識は念仏の一行を否定する輩です。

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2017年7月23日 (日)

「往生の正因は念仏を本とす」という親鸞聖人のお言葉を全否定する高森顕徹会長

高森顕徹会長は必死になって、聖教にない理屈を捏ね繰り回して、訳の判らない超珍しき法を生み出して、真宗界から鼻で笑われているのですが、それを知ってか知らずか、親鸞会の会員は高森会長のヘンテコ理屈に輪を掛けた???理屈で反論してくることが多いです。
師匠があんなのですから、弟子がこうなるのも無理はありませんが、少なくとも、親鸞聖人が仰ったことを否定するような理屈は止めておかないと、恥を何重にも上塗りするだけです。

さて、信心と念仏の関係に無知な高森会長と愉快な会員達に、もう少し親鸞聖人のお言葉を紹介したいと思います。

親鸞聖人は法然上人の念仏一行で救われるという教えを聞いて、救われたのは、マインドコントロールの良く効いている会員でも認めることと思います。

法然上人は『選択本願念仏集』の結論で

正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。

(現代語訳)

正定の業とは、 すなわち仏のみ名を称えることである。 称名する者はかならず往生を得る。 阿弥陀仏の本願にもとづくからである。

と仰って、その通りに救われたのが親鸞聖人です。
この法然上人のお言葉を親鸞聖人は『尊号真像銘文』で

「正定之業者即是称仏名」といふは、正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。 「称名必得生依仏本願故」といふは、御名を称するはかならず安楽浄土に往生を得るなり、仏の本願によるがゆゑなりとのたまへり。

(現代語訳)

「正定之業者即是称仏名」 というのは、 正定の因となる行いは、 すなわち阿弥陀仏の名号を称えることであるというのである。 正定の因というのは、 必ずこの上ないさとりを開く因ということである。  「称名必得生依仏本願故」 というのは、 名号を称えると間違いなく安楽浄土に往生することができるのであり、 それは阿弥陀仏の本願のはたらきによるからであるというのである。

と解説しておられます。
仏名をとなふる」つまり念仏を称えることが「正定の因」「無上涅槃のさとりをひらくたね」だと明言されているのです。

こういうと、親鸞聖人のお言葉を否定するために

親鸞聖人の教えは「信心正因」だ、「念仏正因」ではない!

と、間の抜けたことを言うでしょうが、親鸞聖人は同じく『尊号真像銘文』で法然上人のお言葉を解説して

「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。

(現代語訳)

「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」 というのは、 安養浄土に往生する正因は本願の念仏を根本とするというお言葉であると知らなければならない。 「正因」 というのは、 浄土に生れて間違いなく仏になる因ということである。

と親鸞会を完膚なきまでに否定されています。

往生の正因は念仏を本とす

ここまできても、信心と念仏の関係が高森会長の言っている通りだと思うようなら、思考が完全に停止している状態です。

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2017年7月21日 (金)

”親鸞聖人の教えの根基”の話をしない高森顕徹会長

最近は、”親鸞聖人の教えの根基”である三願転入についての話がありません。高森顕徹会長は”親鸞聖人の教えの根基”の抜けた話しかしていません。

この状況を会員はどう考えているのか訊いてみたいです。
もう一度いいますが、”親鸞聖人の教えの根基”の話をしないことについてどう思っているのか。

高森会長が話をしなくなった理由は簡単です。”親鸞聖人の教えの根基”だと思っていた三願転入の教えが、親鸞聖人の教えではなかったと、高森会長が認めざるを得なくなったからです。

どんな詭弁を使おうが、どんな超飛躍的論理を用いようが、親鸞聖人の御著書では、三願転入の教えなるものは完全に否定されているのですから当然です。
七高僧のどなたも三願転入について仰っていませんし、19願自体を殆ど無視されています。蓮如上人も、三願転入についても19願についても、何一つ仰っていません。
この状態で”親鸞聖人の教えの根基”とか言い切ることの無謀さを、高森会長はようやく理解しただけのことです。

mixiでの法論で大惨敗した時点で、”親鸞聖人の教えの根基”である三願転入の教えを引っ込めておけば、『なぜ生きる2』を出版することもなく、真宗史上最悪の知識が定着することも防げたのかもしれませんが、既に時遅しです。

ところで、高森会長がこのように悲惨な教義を生み出した出発点は、信心と念仏との関係が全く判っていなかったことによるのでしょう。念仏は信心のオマケ、信前の念仏は信心獲得するのに無意味、との異安心から、宿善だの三願転入だのと真宗とはかけ離れた教義へ向かったのだと思われます。

信心と念仏との関係が良く判るのが、『教行信証』で行巻と信巻の二回も引かれている

深心はすなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく

です。
真実の信心とは、自分の修した善程度では出離できず、「名号を称すること下至十声聞等」によって往生できると信知したことです。

『末灯鈔』ではもっと判り易く、

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

と仰っています。
真実の信心とは、「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じ」たことです。

要するに、念仏を称えて往生できると深く信じたことが真実の信心ですから、信前に念仏を疎かにしてもよいと考えることはあり得ませんし、信後に未だ命があるのに、念仏を称えなくても良い、などという考えがでてきようもありません。

念仏と諸善とは対極関係にありますので、善が信心に何らかの関わりがあるのかという発想も、真実信心からは出てきません。

この単純な話も、高森会長には理解できないでしょうし、”親鸞聖人の教えの根基”を話しない高森会長に疑問を持たないマインドコントロールのよく効いた会員には、チンプンカンプンなことでしょう。

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2017年3月28日 (火)

無常観と罪悪観を強調するのは土蔵秘事と同じ信心

最近の高森顕徹会長の話は、薄っぺらい内容です。以前も薄っぺらい内容ではありましたが、大沼師をパクった内容の時には、少しは深みがありました。今では、退会者からの激しい教義批判に怖れ慄き、非難されないことだけに気を使っているため、どうでもよいことに時間を費やしている有り様です。

映画のシナリオの話で法を説いているつもりになっているのですが、その内容がずれています。

無常観と罪悪観が大事だとやたら強調していますが、これもおかしなことです。仏法を聞くきっかけとして無常観と罪悪観が大事だということではあっても、無常観と罪悪観が聞法に大切なのではありません。
言葉を替えると、仏法を聞く気の無い人が、仏法を聞き始める縁として無常観と罪悪観が大事だとは言っても良いですが、すでに仏法を真面目に聞いている人にとっては、無常観と罪悪観が必要なものではありません。

たとえば蓮如上人は『御文章』2帖目7通に

しづかにおもんみれば、それ人間界の生を受くることは、まことに五戒をたもてる功力によりてなり。これおほきにまれなることぞかし。ただし人界の生はわづかに一旦の浮生なり、後生は永生の楽果なり。たとひまた栄華にほこり栄耀にあまるといふとも、盛者必衰会者定離のならひなれば、ひさしくたもつべきにあらず。ただ五十年・百年のあひだのことなり。それも老少不定ときくときは、まことにもつてたのみすくなし。これによりて、今の時の衆生は、他力の信心をえて浄土の往生をとげんとおもふべきなり。

と仰っています。蓮如上人は、仏法を聞くきっかけとしても無常観、罪悪観が大事だとも仰っていません。人間界の栄耀栄華の僅かな楽しみよりも浄土往生の永生の楽果を求めなさいとのことで、無常については栄耀栄華が短いとしか仰っておらず、罪悪についての言及はここではありません。もちろん、仏法をすでに聞いている人にも、無常観、罪悪観が大切だということも仰っていません。

また親鸞聖人の御著書、お手紙を一通り読んだ人なら判りますが、親鸞聖人も無常観と罪悪観が大事だと仰ってはいませんし、無常観に至っては、言及さえ殆どありません。罪悪観については、煩悩具足で出離できないことの説明に関連して仰っているだけで、それ以上ではありません。機の深信と罪悪観の違いが判っていない高森会長にとっては、私の言っていることが理解できないと思います。

機の深信と罪悪観との関係については、何度か述べたことがありますが、善導大師が著わされた『散善義』の以下の御言葉が判りやすいと思います。

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

(現代語訳)

わが身は、 無始よりこのかた、 他のものと同時に、 発願し、 悪を断ち、 菩薩の道を行じたのに、 他のものはことごとく身命を惜しまず、 修行して位を進め、 因が円満し、 果が成就して、 聖者の位を証した。その数は、 大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、 われら凡夫は過去より今日に至るまで、 いたずらに流転して、 煩悩の悪障が次第にますます多くなり、 福徳智慧のきわめて少ないことは、 重昏をもって明鏡に望むがようである。 今このことを考えると、 どうして心驚き悲しまずにおられようか。

善導大師はかつての法友が聖道門の修行によって出離して聖者となっていく中で、善導大師御自身は聖道門の修行をされても出離できずに流転を繰り返してきたとの告白です。その結果として、煩悩の悪障が次第にますます多くなっていると仰っているのであって、罪悪観を大事にして求めるという話ではありません。罪悪観云々は、聖道門ではさとりを得ることができないということであり、18願において罪悪観が関係する話ではないのです。

善導大師の御言葉で機の深信と罪悪観との関係を簡単に言うと、機の深信は聖道門では出離できないことであり、罪悪観は出離できないから罪悪を造っているということです。聖道門あるいは善では出離できないと知らされることが大事なのであって、罪悪が知らされることが大事なのではありません。

機の深信を究極の罪悪観としか思っていない高森会長は、突っ込まれない話をしているつもりでしょうが、高森会長の信心は土蔵秘事となんら変わらないのです。

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2017年2月16日 (木)

高森秘事の二河白道の譬え話

信前信後で、何が変わって何が変わらないのかがよく判る話が、二河白道の譬喩です。この譬喩が、高森顕徹会長が話している内容とはかなり違うことを、これまで何度も述べてきました。

高森会長は、白道についての私の非難に反論するために、善導大師と親鸞聖人とは教えられた方が違うとか、おもしろいことを言ったこともありますが、言うまでもなく御二方の譬え話は同じです。

信前信後の話に絞って言いますと、三定死を迎えるのは、東の岸にいる時であり、西の岸にいる人の喚び声を聞くのも東の岸にいる時です。したがいまして、信前信後の違いは、東の岸にいるか白道に乗ったかの違いです。ここで、白道に乗ったこと以外に何かが変わったかどうかです。

・旅人の姿は変わらない。
・東の岸も変わらない。
・白道は四五寸のまま変わらない。
・水の河と火の河も変わらない。
・群賊悪獣悪知識も変わらない。
・東の岸と西の岸の距離も変わらない。
・西の岸も変わらない。
・東の岸の人も変わらない。
・西の岸の人も変わらない。
・西の岸の人から新たな喚び声はない。

要するに、白道に乗ったこと以外には、何も変わらないということです。
そうなると、救われてハッキリするのは、白道に乗ったこと、つまり他力の信心を頂いたことだけで、他にはハッキリすることが何もないということになります。

これは前回の『執持鈔』と同じです。思慮の浅い親鸞会会員は、信後は西の岸が見えるではないか、と反論するかもしれませんが、それは東の岸にいた時と同じ見え方です。

結局、往生一定といっても、白道に乗ったこと、つまりは阿弥陀仏の喚び声に従う以上でも以下でもないということです。善導大師、親鸞聖人が二河白道の譬喩でそのように教えておられるのですから、これ以上屁理屈のつけようがありません。

善導大師、親鸞聖人の譬え話そのままでも、信前信後はこの違いしかないのですが、高森会長のいう白道の途中で信前信後が分かれるとなると、信前信後には違いが何もないことになります。白道の途中で西の岸の人が新たな喚び声を出されていませんし、白道も変わりませんので、何も変化がない、つまりは何一つハッキリすることがないことになります。高森秘事の譬え話では、信前信後の水際がハッキリすることなどない曖昧なものにしかなりません。

高森会長の言っている驚天動地の変化を言いたいのなら、せめて

・白道の四五寸が広い広い大道に変わった。
・水の河と火の河が白道を隠すことがなくなった。
・西の岸が光り輝いてよく見えるようになった。

くらいの大胆な改竄をして言わないと辻褄が合いません。尤もこれに近いことを高森会長は過去に言ったこともありましたので、善導大師、親鸞聖人の譬え話とは大きく異なったオリジナルの譬え話を高森会長が創作したのだといえます。まあ、創作をしたというよりは、寧ろ、善導大師、親鸞聖人の譬え話を知らなくて、適当なことを言っただけでしょう。

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2017年2月12日 (日)

邪義を修正してもやはり邪義にしかならない

本日の高森顕徹会長の話は、救われたらどう変わるのかについてでしたが、高森会長は言葉上ではまともなことを言っていたようです。ただし、薄っぺらい内容でした。退会者からの激しい批判に晒されて、かなり修正をしてきて、往生一定という言葉を出して説明していましたが、往生一定がどういうことか、高森会長はよく理解できていないみたいです。

覚如上人は親鸞聖人のお言葉を『執持鈔』の中で紹介されています。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人[黒谷源空聖人の御ことばなり]の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。(中略)
そのゆゑは、明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑにとなり。しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

(石田瑞磨著『親鸞全集 別巻』による現代語訳)

浄土に生れるという、これほどの一大事について、愚かなものがさかしらな才覚をめぐらしてはならない、ただ一すじに如来におかませしなければならない。総じて愚かなひとに限らず、次の世に仏となってあらわれることが約束された弥勒菩薩をはじめとして、仏の智慧の不思議になまじいの才覚をしてはならない。まして愚かなひとの浅はかな智慧には、当然許されない。ねんごろに如来の智慧のお誓いにおまかせをしなければならない。これを、仏にすべてを託した、真実の信心をえたひとというのである。
だから自分から、浄土に行くことができそうだとも、また地獄に堕ちるかもしれないとも、決めてはならない。なくなられた上人<黒谷の源空、法然上人のことばである>の仰せられた言葉として、「源空の生れるところへ行こうとお考えになってください」ということをたしかにうけたまわったうえは、たとえ地獄であっても、なくなられた上人のおいでになるところへ行かなければならない、と思うのである。(中略)
その理由は、智慧の勝れた師にお逢いしないで終ってしまうならば、かならず悪道に行くはずの身だから、というのである。ところが、正しい教えの師にだまされて悪道に行くならば、そのときはひとりで行くはずがない。かならず師と一緒に堕ちて行くだろう。だから、ただ地獄に堕ちるほかない、といっても、なくなった上人のおいでになるところへ参ろうと決心したのであるから、生れるさきの善し悪しはわたしのきめるところではない、というのである。これが自力を捨てて他力にすべてをまかせる姿である。

ここで仰っていることで、ポイントは

  • 往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし
  • われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
  • 源空があらんところへゆかんとおもはるべし
  • 善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず

です。
死んだ後にどこにいくかを自分ではからって決めてはならないということです。救われた後もです。要するに、往生一定とは、自分の往生がハッキリと判ることではないのです。
では真実の信心とは何かについて、

  • 如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
  • 善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

と仰っています。死んだ後のことを自分でどうこう決めるのではなく、阿弥陀仏におまかせをするのです。
つまり、浄土往生を誓われた阿弥陀仏におまかせをしたのだから、往生は一定となるのです。浄土往生がハッキリすることは救われる前も後もありません。しかし、浄土往生は間違いないと仰る阿弥陀仏におまかせをしたから、浄土往生は間違いない、となり、それが救われたということなのです。

高森会長の話は、いつも核心を突いていません。まともらしきことを言っている時は、大沼法竜師や伊藤康善師などの言葉をそのまま使っているだけですので、中身が伴わず言葉が軽いのです。そして、親鸞聖人の仰ることと高森会長の説明とには矛盾も生じるのです。

トンデモ邪義連発だったここ数年のことを思うと、最近の邪義は落ち着いてきた感はありますが、元が邪義ですから、落ち着いてもやはり邪義でしかないのです。

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