異安心

2018年5月15日 (火)

親鸞聖人が問題にされた自力の信心の範疇にさえも入っていない高森顕徹会長の信心

近年にない多くの人が集まった先日の降誕会ですが、それでも正本堂落慶法要の時には及ばず、正本堂落慶当時も広告を出していましたので、結果的には親鸞会の衰退が顕著になったということです。

さて、コメント欄で高森顕徹会長を妄信する愉快な仲間が、頓珍漢なことを書いていますが、これはここ数年の傾向で、親鸞聖人のお言葉はどうでもよく信心決定している特異な高森会長と異なっている信心について、退会者を非難してくるのです。

法論に敵なしの親鸞会を自負しているなら、あり得ないコメントですが、これが現実です。高森会長の言っている教義が親鸞聖人の教えとは無関係であり、親鸞聖人と高森会長の信心までも違うとまで思いが及ばないところが、会員の哀れさを際立たせています。

教義について反論できないことは、高森会長も会員も判っているようですので、信心についても親鸞聖人とは異なっていることを、根拠を挙げて、説明しておきます。

他力の信心あるいは他力の念仏と、自力の信心あるいは自力の念仏との違いについて、親鸞聖人は対比して、度々教えられています。
最も判りやすいのが『浄土和讃』の最初の

弥陀の名号となへつつ
 信心まことにうるひとは
 憶念の心つねにして
 仏恩報ずるおもひあり

誓願不思議をうたがひて
 御名を称する往生は
 宮殿のうちに五百歳
 むなしくすぐとぞときたまふ

です。

念仏を称えている前提で、「信心まことにうる」と「誓願不思議をうたがひて」の違いが他力と自力の違いだということです。

では「誓願不思議をうたがひて」とは具体的にどんなことかというと、他宗教や他宗を信じているというようなレベルの話ではなく、『正像末和讃』にあるように

不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

如来の諸智を疑惑して
 信ぜずながらなほもまた
 罪福ふかく信ぜしめ
 善本修習すぐれたり

罪福ふかく信じつつ
 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆゑに
 方便化土にとまるなり

仏智不思議をうたがひて
 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば
 胎生のものとときたまふ

仏智の不思議を疑惑して
 罪福信じ善本を
 修して浄土をねがふをば
 胎生といふとときたまふ

ということです。つまり、「罪福信ずる」こと「自力諸善」という高森会長が勧めていることが「仏智不思議をうたがう」ことになるのです。

他力と自力の違いをもっと端的に仰ったのが、『末灯鈔』にある

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。

です。

18願のことを「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる」あるいは「念仏往生」と仰った上で、他力の信心を「ふかく信じて」と仰り、自力の信心を「信心あさく」と仰っています。

簡単にまとめると、

他力の信心=念仏を称えて往生できると深く信じた心
自力の信心=念仏を称えて往生できると浅く信じた心

ということです。

他力と自力の信心に共通することは「念仏を称えて往生できると信じた心」です。

では高森会長はどう言っているかと言うと、

念仏を称えて往生できると思うのは間違いで、往生できない

です。昔はこれを必堕無間とまで言い切っていましたが、最近はそこまでは言わなくなりました。

この高森会長の言っていることから判断すれば、高森会長が他力の信心を獲ていないどころか、親鸞聖人が問題にされた自力の信心の範疇にさえ入っていないことが明確です。

ちなみに、蓮如上人が『御文章』5帖目11通で仰っている

なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなき次第なり

は、

他力の信心=念仏を称えて往生できると深く信じた心
自力の信心=念仏を称えて往生できると浅く信じた心

を踏まえられた上で、「念仏を称えて往生できると信じた心」だけでは往生できるかどうか覚束ない、つまりは不確実だということで、「深く」と「浅く」の違いを弁えなさいとの誡めです。「念仏を称えて往生できると信じた心」だけでは、往生は不可とも仰っていませんし、ましてや必堕無間でもありません。

ということで、今回は少し長くなりましたが、高森会長が他力の信心と思い込んでいる信心は、念仏誹謗の創価学会の信心と同レベルだということです。高森会長が、他力の信心のことを絶対の幸福と言っていることからも、それが裏付けられるというものです。

なお余談ですが、正本堂も創価学会のパクリで、今はそこだけ2000畳と変更しています。肝心な信心は創価学会のパクリそのままで。

悔しいと憤る元気がある会員で、反論があるならいつでもコメントをください。ただし、体験至上主義で高森会長の信心を基準にしてのコメントは無意味ですので、そんな愚かなコメントはしない方が宜しいかと思います。

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2018年2月11日 (日)

『観経』も『観経疏』も『教行信証』も全く読んだことがないから韋提希の話を創作するしかない高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話は、毎度毎度の

大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わるとは、どう変わるのでしょうか

という質問に対して答える内容でした。

ただし、本日は久しぶりに王舎城のアニメを使って話をしました。韋提希が獲信して三忍を獲て、ガラリと変わったと示したかったようですが、ここでも高森会長の無知が明白です。

まず『観無量寿経』を読んでみれば判りますが、韋提希がどこで獲信したのか明確ではありません。

釈尊が華座観を説かれる前に決まっている

と高森会長と愉快な仲間達は反論するでしょうが、そこには

仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「あきらかに聴け、あきらかに聴け、よくこれを思念せよ。仏、まさになんぢがために苦悩を除く法を分別し解説すべし。なんぢら憶持して、広く大衆のために分別し解説すべし」と。
この語を説きたまふとき、無量寿仏、空中に住立したまふ。観世音・大勢至、この二大士は左右に侍立せり。光明は熾盛にしてつぶさに見るべからず。百千の閻浮檀金色も比とすることを得ず。
ときに韋提希、無量寿仏を見たてまつりをはりて、接足作礼して仏にまうしてまうさく、「世尊、われいま仏力によるがゆゑに、無量寿仏および二菩薩を観たてまつることを得たり。未来の衆生まさにいかんしてか、無量寿仏および二菩薩を観たてまつるべき」と。

(現代語訳)

釈尊はさらに阿難と韋提希に仰せになった。
「 そなたたちは、わたしのいうことをよく聞いて、深く思いをめぐらすがよい。わたしは今そなたたちのために、苦悩を除く教えを説き示そう。そなたたちはしっかりと心にとどめ、多くの人々のために説きひろめるがよい 」
釈尊のこのお言葉とともに、無量寿仏が突然空中に姿を現してお立ちになり、その左右には観世音、大勢至の二菩薩がつきそっておられた。その光明はまばゆく輝いて、はっきりと見ることができない。黄金の輝きをどれほど集めても、そのまばゆさにくらべようもなかった。ここに韋提希は、まのあたりに無量寿仏を見たてまつることができのたで、釈尊の足をおしいただき、うやうやしく礼拝して申しあげた。
「 世尊、わたしは今世尊のお力によって、無量寿仏と観世音・大勢至の二菩薩を拝ませていただくことができましたが、世尊が世を去られた後の世の人々は、どうすれば無量寿仏とその菩薩がたを見たてまつることができるでしょうか 」

とあるだけです。韋提希が三忍をここで獲たとか、韋提希がガラリと変わったという表現は一切ありません。
『観無量寿経』の中で、韋提希が三忍を獲たと言えそうな表現のある箇所は、釈尊が韋提希に諸仏の浄土を見せられて定善を説かれる前に

かの国土の極妙の楽事を見て、心歓喜するがゆゑに、時に応じてすなはち無生法忍を得ん

(現代語訳)

そしてその国土のきわめてすぐれたすがたを見て、心は喜びに満ちあふれ、そこでただちに無生法忍を得るであろう

と仰った箇所と、下品下生まで釈尊が説き終わられた後の

仏身および二菩薩を見たてまつることを得て、心に歓喜を生じて未曾有なりと歎ず。廓然として大悟して無生忍を得たり。

(現代語訳)

さらに阿弥陀仏と観世音・大勢至の二菩薩を見たてまつることができて、心から喜び、これまでにはない尊いことであるとほめたたえ、すべての迷いが晴れて無生法忍のさとりを得た。

です。この『観無量寿経』の表現に対して、韋提希が三忍(無生忍)を獲たのは華座観を説かれる前だと解釈されたのが、善導大師です。その理由については、長くなるのでここでは述べませんが、皆さんの関心事は親鸞聖人がどう仰っているかでしょう。

実は親鸞聖人はそのことについて仰っていません。それどころか、定善を説かれる前に釈尊が仰った「かの国土の極妙の楽事を見て、心歓喜するがゆゑに、時に応じてすなはち無生法忍を得ん」を解釈された善導大師の『序分義』を『教行信証』信巻に引かれて、

またいはく、「心歓喜得忍といふは、これは阿弥陀仏国の清浄の光明、たちまちに眼の前に現ぜん、なんぞ踊躍に勝へん。この喜びによるがゆゑに、すなはち無生の忍を得ることを明かす。また喜忍と名づく、また悟忍と名づく、また信忍と名づく。これすなはちはるかに談ずるに、いまだ得処を標さず、夫人をして等しく心にこの益を悕はしめんと欲ふ。勇猛専精にし心に見んと想ふときに、まさに忍を悟るべし。これ多くこれ十信のなかの忍なり、解行以上の忍にはあらざるなり」と。

(現代語訳)

また『観経疏』にいわれている(序分義)。
「『観無量寿経』に、<心が喜びに満ちて無生法忍を得る>と説かれているが、これは阿弥陀仏の浄土の清浄な光明がたちまち目の前に現れると、踊りあがるほどの喜びに満ちあふれ、その喜びによって、無生法忍を得るということを明かされるのである。この無生法忍を喜忍ともいい、悟忍ともいい、信忍ともいう。『観無量寿経』の序分では、まだそれがどこで得られるかということをはっきりとあらわさず、ただ韋提希などにこの利益を願わせようとされるのである。心を励ましてただひとすじに、自らの心のうちに仏を見たてまつろうとするとき、まさしくこの無生法忍を得るのである。だから『観無量寿経』に説かれる無生法忍は、凡夫の位で得るものであって、高位の菩薩が得るものではない」

とあるだけです。『観無量寿経』を直接引かれることもなく、高森会長の大好きな「除苦悩法」の場面の言及さえもありません。

私がここで言いたいのは、韋提希の獲信の時がいつかという話ではなく、韋提希が獲信して三忍を獲ても、ガラリと変わったと釈尊も善導大師も親鸞聖人も仰っていないということです。

三忍を獲たのだからガラリと変わったということに決まっている!

と浅知恵の高森会長と愉快な仲間達は反論するでしょうが、親鸞聖人が御自身のお言葉で三忍について言及されたのは信巻の、これまた高森会長の大好きなお言葉の後です。

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。ゆゑに便同といふなり。しかのみならず金剛心を獲るものは、すなはち韋提と等しく、すなはち喜・悟・信の忍を獲得すべし。

(現代語訳)

いま、まことに知ることができた。弥勒菩薩は等覚の金剛心を得ているから、竜華三会のときに、この上ないさとりを開くのである。念仏の衆生は他力の金剛心を得ているから、この世の命を終えて浄土に生れ、たちまちに完全なさとりを開く。だから、すなわち弥勒菩薩と同じ位であるというのである。そればかりでなく、他力の金剛心を得たものは、韋提希と同じように、喜忍・悟忍・信忍の三忍を得ることができる。

学術論文である『教行信証』を体験記と見做す体験至上主義の高森顕徹会長

でも述べましたが、これは、親鸞聖人の学術的な理論なのです。ガラリと変わった体験を仰ったものではありません。

頭の鈍い高森会長と愉快な仲間たちのために、もっとはっきり言うと、自力から他力へと信心はガラリと変わっても、私たちの心も幸福もガラリとは変わらないのです。阿弥陀仏にすべておまかせをしたという点においてのみ、変わるだけです。

以上は真宗の教えについてですので、絶対の幸福と言う創価学会の信心を獲た高森会長には関係のない話です。創価学会の信心を獲たい人は創価学会に行った方が早いでしょうが、親鸞聖人と同じ他力の信心を獲たいのなら、創価学会亜流の親鸞会を直ちに捨てましょう。

なお、真宗の本尊についても高森会長はこんなことを言っていました。

親鸞聖人も蓮如上人も、絵像・木像を本尊にされたことはない

これが間違いであることは、遠の昔に本願寺から指摘されて反論できないことなのですが、どこどこまでも恥知らずですね。以下を参照。

「真宗の本尊について」山田行雄著

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2018年1月26日 (金)

愉快な信心の高森顕徹会長と愉快な仲間たち

絶対の幸福という創価学会パクリ信心を正当化するために、高森顕徹会長が最近よく使う根拠が、『正信偈』の

譬如日月覆雲霧 雲霧之下明無闇

です。
この意味についての解釈が、いつものように面白いです。

雲や霧がどんなに天を覆っていても、日光で雲霧の下は明るいように、欲や怒り、妬みの煩悩いっぱいあるがままで、心は浄土に遊んでいるように明るく愉快である

1月15日号の顕正新聞にこのようにありますから、高森会長の解釈で間違いないです。これが絶対の幸福の境地だということなのでしょうが、創価学会の信心ではあっても真宗の信心とは無関係です。

高森会長は知らないでしょうが、親鸞聖人は『尊号真像銘文』でこの解説をなされています。

「譬如日月覆雲霧雲霧之下明無闇」といふは、日月の、雲・霧に覆はるれども、闇はれて雲・霧の下あきらかなるがごとく、貪愛・瞋憎の雲・霧に信心は覆はるれども、往生にさはりあるべからずとしるべしとなり。

往生にさわりがないことを譬えられたのであって、心が明るく愉快な状態になることではありません。
往生にさわりがなくなる譬えが二河白道の譬喩です。この譬えにおいて、信前と信後で何が変わったのかと言えば、白道に乗ったか乗らないかの違いだけです。煩悩を譬えられた水と火の勢いも白道を潤し焼いているのも変わっていませんし、白道の長さも幅も変わっていません。親鸞聖人の譬えの雲と霧を二河白道の譬喩で言い換えるなら

貪愛・瞋憎の水・火に信心は覆はるれども、往生にさはりあるべからずとしるべしとなり。

です。明るく愉快になるという内容は、二河白道の譬喩にも全くありません。

それでも苦し紛れで高森流ヘンテコ理論の反論があるでしょうから、その反論を論破する根拠を出しておきます。それは同じ『尊号真像銘文』のこの前にある

「摂取心光常照護」といふは、信心をえたる人をば、無碍光仏の心光つねに照らし護りたまふゆゑに、無明の闇はれ、生死のながき夜すでに暁になりぬとしるべしとなり。「已能雖破無明闇」といふは、このこころなり、信心をうれば暁になるがごとしとしるべし。

です。「無明の闇はれ、生死のながき夜すでに暁になりぬとしるべし」「信心をうれば暁になるがごとしとしるべし」です。「」で明るさを表現なされていますが、「」とは夜中の漆黒の闇からほんのり明るくなった状態のことを言います。

『デジタル大辞泉』(小学館)では、

1 太陽の昇る前のほの暗いころ。古くは、夜半から夜の明けるころまでの時刻の推移を「あかつき」「しののめ」「あけぼの」と区分し、「あかつき」は夜深い刻限をさして用いられた。夜明け。明け方。

2 待ち望んでいたことが実現する、その際。「当選の暁には」

とあります。ここでは1の意味です。
夜深く仄暗い時を指します。ただし、街路灯や住宅、店などの照明が夜中でも消えない状態しか知らない現代の日本人には理解しにくいかもしれませんが、親鸞聖人の時代の夜は、月が見えないと漆黒で明かりがないに等しいのです。現代でそれを再現するには、窓のない部屋で照明を消した状態でしょう。そこにドアの隙間から光が洩れたような状態が「暁」です。明るさといっても、その程度のものであり、昔高森会長がよく言っていたような日本晴れの心とは程遠い明るさです。
高森会長の信心である絶対の幸福は、明るく愉快な心だそうで、子供だましの煩悩のレベルです。

高森会長の愉快な信心に付き合っている会員は、哀れ哀れです。

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2017年11月26日 (日)

親鸞聖人の仰ったことを、「そんなことは口が腐っても言ってはならない」と完全否定する高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話には、またまた、あっと驚くタメゴロー発言がありました。

阿弥陀仏の本願を信じなさいとはどこにも教えられていないし、そんなことを口が腐っても言ってはならない。

これを聞いた会員は平常心でいられるのだろうかと思います。

判らない高森会長と取り巻きのために、教えてあげます。

直接的な聖教上のお言葉として、『正像末和讃』の

弥陀の本願信ずべし
 本願信ずるひとはみな
 摂取不捨の利益にて
 無上覚をばさとるなり

には、阿弥陀仏の本願を信じなさい、と親鸞聖人が仰っておられますが、そんなことも知らないのかという話です。『正像末和讃』は読んだことなくても、『御文章』を読んだことのある会員は多いと思います。5帖目6通の

このこころをまた『和讃』にいはく、「弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益ゆゑ 等正覚にいたるなり」といへり。

は一部の会員でも知っているでしょう。

もっというなら、『正信偈』の

五濁悪時の群生海、如来如実の言を信ずべし。

道俗時衆ともに同心に、ただこの高僧の説を信ずべしと。

如来如実の言」「この高僧の説」とは、阿弥陀仏の本願以外にないでしょう。

五濁悪時の群生海」は阿弥陀仏の本願を信じなさい。
道俗時衆ともに同心に」阿弥陀仏の本願を信じなさい。

と親鸞聖人が一字一涙の思いで書き残されているのではないのですかね。それとも、「如来如実の言」「この高僧の説」とは、阿弥陀仏の本願ではないと言いたいのか、いずれにしても、無知を通り越して、会員さえも、あっと驚くタメゴロー状態ではないかと想像しています。

苦し紛れの反論として、

信じるのは自力だから

とか言うかもしれませんが、自力の聴聞を勧めているのに、自力で信じることは口が腐っても言ってはならないとは、どの口が言うのでしょう。

理解力の欠落した高森会長と講師と会員のために補足しておきますと、

阿弥陀仏を信じる気のない、言い換えると外道や聖道門を信じている人に、
阿弥陀仏の本願を信じなさい
と勧められていることは説明するまでもないですし、
阿弥陀仏の本願を信じて聞いている人にも、
阿弥陀仏の本願を信じなさい(他力の信心を頂きなさい)
と勧められているのが親鸞聖人です。

『末灯鈔』には

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

と親鸞聖人は教えられていますが、これを簡単に言うと

阿弥陀仏の本願(名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる)を深く信じて念仏を称えなさい

です。

異教の教祖である高森会長の言うことを信じなさい、と私は口が腐っても言いませんので、会員は、一刻も早く、高森会長を見限って親鸞会を離れることを強くお勧めします。

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2017年11月12日 (日)

自力の迷情とは後生どこへ行くかわからない心とか言っているお笑い悪知識

本日も、毎度毎度全くと言っていいほど同じ話で、高森顕徹会長の数少ないレパートリーが更に更に減ってきました。会員は何を思って聞いているのかと質問したくなりますが、大抵の会員は、高森会長が話ができなくなるか亡くなるまでの我慢と耐え忍んでいることでしょう。自分が信心決定できるとは思っていないです。

親切心で、聖教を読んだことのない高森会長と教学を補佐する講師部員のために、少しだけ教えてあげましょう。

最近いつも出す『改邪鈔』の

この娑婆生死の五蘊所成の肉身いまだやぶれずといへども、生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念にやぶれて

ですが、「共発金剛心の一念」は善導大師の『玄義分』が元になっていて、親鸞聖人は『教行信証』信巻に引文されています。

『観経義』に、
「道俗時衆等、おのおの無上の心を発せども、
生死はなはだ厭ひがたく、仏法また欣ひがたし。
ともに金剛の志を発して、横に四流を超断せよ。
まさしく金剛心を受けて、一念に相応してのち、
果、涅槃を得んひと」といへり。

(現代語訳)

『観経疏』にいわれている(玄義分)。
 「出家のものも在家のものも、今の世の人々は、それぞれ自力の菩提心をおこしても、迷いの世界は厭い離れることが難しく、またさとりへの路は求めて得ることが難しい。みなともに他力金剛の信心をおこして、ただちに迷いの流れを断ち切るがよい。まさしく他力金剛の信心を得て、本願にかなう一念の人はついには仏のさとりを得るものである」

親鸞聖人がどのような意味で仰ったのかは、読まれた通りで、自力の菩提心、自力の信心では出離が難しいから他力の信心をおこして、仏のさとりをえなさい、ということです。

つまり、『改邪鈔』で仰っている「自力の迷情」とはその人その人の「無上の心」という自分の力で出離しようとする菩提心のことです。難しい話でも何でもないです。

ところが聖教を読んだことのない高森会長と愉快な仲間達は、

自力の迷情=後生暗い心=後生どこへ行くかわからない心

と妄想し、本日も説明しているのです。

無知の恥じ曝しも大概にしておいた方が宜しいかと思いますが、後生どこへ行くかなんてことは、仏の智慧をもってしか判らないことです。他力の信心とは後生どこへ行くかハッキリする心だ、なんて根拠はどこにもありません。

往生一定ということと、極楽が手に取るように判るようになった、阿弥陀仏のお姿が認識できた、ということとは全く違うのですが、それさえも理解できないのでしょう。

仮に、極楽や阿弥陀仏が判るようになったのなら、定善が楽々できるでしょう。

極楽も阿弥陀仏も判らないが、極楽に往生できることがハッキリ判るんだ!

と訳の判らない反論をしてくるのでしょうが、死後に往く世界も認識できないのに、極楽に往生できると認識できる訳がありません。

往生一定とは、阿弥陀仏に死んだ後のことは全ておまかせしたことであり、阿弥陀仏が必ず往生させると誓っておられるので、往生は間違いない、という以上のことではないのです。

難しい根拠を出すなら、『浄土論註』には

かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり。

(現代語訳)

かの下品の人は生即無生であると知らないけれども、 ただ仏の名号を称えて作願してかの土に生まれようと願うならば、 浄土に至ればかの国は無生の道理にかなった境界であるから、 実消実滅と見る煩悩の火は自然に消えるのである。

とあります。煩悩にまみれて智慧のない下品の人には、往生とはどんなことかまるっきり理解できないのですが、その状態のまま念仏の力によって往生できるということです。

『教行信証』さえ読んだことがないのですから、『玄義分』や『浄土論註』など見たこともないでしょうが、聖教には、高森会長の異安心の証拠が山ほど書かれてあるのです。絶対の幸福とか創価学会用語を未だにパクリ続けて、それで他力の信心を語っているつもりなのですから、後々までお笑い悪知識と愉快な会として名を残してください。

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2017年11月 3日 (金)

阿弥陀仏の約束を疑わないように諸行に励む異安心集団親鸞会

先日の高森顕徹会長の講義では、自力の信心と他力の信心との違いについての話がありました。異安心の高森会長に、自力の信心・他力の信心の説明が正しくできる筈もありません。
高森会長の説明は、

自力の信心とは、阿弥陀仏の約束を疑わないようにしている信心。
他力の信心とは、阿弥陀仏から頂いた信心で、まことの心になる。

でした。
他力の信心を、聖道門のさとりのように勘違いしているところから生じる、あるいは土蔵秘事の一念覚知と混同しているところから生じる、異安心の典型的な理解です。

まず、自力の信心とは、阿弥陀仏の18願を疑わないようにしているのではなく、18願を疑っている信心です。阿弥陀仏の18願とは、前回も言いましたように、因果の道理に相反する救いであり、衆生の側には救いの因は全くなく、当然、何かをしなければならないということは皆無でありますから、救われるために私たちが何かをしようと思っていること自体が、阿弥陀仏18願を疑っているのです。

『教行信証』信巻の

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

(現代語訳)

このようなわけであるから、往生の行も信も、すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。如来より与えられた行信が往生成仏の因であって、それ以外に因があるのではない。よく知るがよい

にある通りです。

仮に疑わないようにしているなら、何もしない筈です。しかし、親鸞会の会員を見れば判りますが、疑わないようにしようと思いながら聞くという行や善に励んでいます。その思い、その行為が疑いそのものでありますから、高森会長の説明は全く意味不明です。

よって、他力の信心とは、阿弥陀仏が全てを用意されているので私が何かをする必要がない、阿弥陀仏に全部おまかせします、という信心です。私の心が真実の心になる訳ではありません。阿弥陀仏にそのままおまかせをしたことを、蓮如上人は「まことの心」と表現されているのであって、私たちの心が「まことの心」にはなりません。

自力の信心と他力の信心の違いを最も端的に顕わされているのが、高森会長の好きな、いや好きだった二河白道の譬えです。

御文を紹介すると長いので、今回は省略しますが、旅人が阿弥陀仏の喚び声を聞く前から聞いた後に何が変わったのかと言えば、白道に乗ったことだけです。幅四、五寸の白道は広くも短くもなっていません。水の河と火の河の波が白道を潤し焼いているのも変わりません。群賊悪獣悪知識も存在したままです。白道に乗って進む以外には、何一つ周りの状況は変わっていません。

つまりは、阿弥陀仏の喚び声に従うか従わないか、疑うか信じるかの違いだけです。

自力の信心と他力の信心の違いは、救われるために自分で何かをしなければならないと思うか思わないかの違いと言えます。

救われたなら善は必要ないが、救われるまでには善をしていかなければ信仰は進まない

とか寝惚けた妄言を信じ続けている限り、他力の信心を頂くことはありません。

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2017年10月22日 (日)

自力と他力の水際に疎い高森顕徹会長と愉快な仲間達

猛烈な教義批判に曝されて、慄いている高森顕徹会長の最近の話は、無難な内容で誤魔化そうとしています。しかし、そこは異安心の悲しさで、無難な話のつもりでも明らかな間違いが多々あり、更なる批判を浴びているのが親鸞会です。

最近は特に聴聞の強調をしていますが、高森会長の話は「聞く」という行為に拘わっていることが大きな間違いです。高森会長が聞法善だとか言って、自力の「聞く」という行を強く勧めているのですが、このことから、高森会長には自力と他力の水際が説けないと断言できます。

まず、真宗では「聞く」ということを大事にするのは言うまでもないことです。それは18願成就文に「聞」とあるからです。
この「聞」について、親鸞聖人は判りやすく教えておられます。

『教行信証』信巻に

しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。

と仰っています。
また『一念多念証文』に

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。

簡単にいうと

「聞」とは、18願の教えを聞いて、疑心のない状態(=信心)

ということです。
18願の教えを知らない人にとっては、その教えを知らなければ無疑心にはなりません。そのために、教えを知る、という「聞く」が必要になりますが、18願の教えを十分に知っている人が、無疑心、信心を獲るために18願の教えを聞き重ねていくのではありません。自力の「聞く」ことの延長に信心があるのではありません。
親鸞聖人はその間違いを正されるために先ほどの『教行信証』信巻で

「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。

と仰っています。「本願力回向の信心」です。本願力によって回向される信心ですから、自力が全く混じることもないし、自力の延長上に連続してある信心でもないということです。
本願力回向」ですから、自力とは完全に分離されたものなのです。自力と他力、信前と信後とは相容れない完全に分断されたものなのです。「聞く」ということも自力の「聞く」と他力の「聞く」とは全く別で延長上にあるものではありません。
この他力の「聞く」ということを存覚上人は『浄土見聞集』で上手く表現されています。

聞よりおこる信心、思よりおこる信心といふは、ききてうたがはず、たもちてうしなはざるをいふ。思といふは信なり、きくも他力よりきき、おもひさだむるも願力によりてさだまるあひだ、ともに自力のはからひちりばかりもよりつかざるなり。

高森会長には、自力と他力の水際が説けない、信前と信後の水際が全く説けないのです。

もう一つ、自力の念仏と他力の念仏についても、高森会長とその信者は全くの無知です。

自力の念仏とは『教行信証』化土巻に

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。

とあり、『正像末和讃』誡疑讃に

不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

などとあるように、因果の道理を信じて称える念仏を自力の念仏と親鸞聖人は明言されているのです。一方の他力の念仏は、因果の道理とは相反する「如来の諸智」「仏智の不思議」を信じて称える念仏です。

因果の道理は仏教の教えの根幹だ、とか寝惚けたことを平然と言っている異安心の高森会長と無安心の高森信者には、以上のことは全く理解できないことでしょう。

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2017年7月25日 (火)

念仏一行を勧めるのが善知識、念仏一行を否定するのが悪知識高森顕徹会長

前回のエントリーで、親鸞聖人は「念仏正因」と仰っていると書きましたので、「信心正因」との関係で、親鸞会の会員は頭が混乱していることと思います。しかし、当ブログを以前から読まれている退会者の皆さんなら、普通に理解されていることと思います。

簡単なことで、

信心とは、念仏1つで往生できると深く信じた心のことですから、

「信心正因」=「念仏正因」と深く信じた心が正因

ということです。
他力の信心に疎い高森顕徹会長と愉快な会員達には理解できないことですが、これだけのことです。

以前に同じようなことをエントリーで書いた時に、会員が挙げ足を取ったつもりでこのようなコメントしてきたことがあります。

念仏称えて助かると深く信じていますが、救われていないのはどうしてですか?

思考停止の会員らしいコメントですが、深く信じるとは深信、つまり真実の信心のことを指して親鸞聖人は仰っているのですから、会員のコメントを言い換えるなら、

真実の信心を獲ましたが、救われていないのはどうしてですか?

これなら思考停止の会員でもおかしさが理解できるのではないかと思います。深く信じるを自力だとかいう愚かさを恥じて、その会員はコメントしなくなりましたが、恥を知らずに同じようなことを未だに言っている会員もいるようで、呆れ果てます。

もう一度言いますと、真実の信心、他力の信心とは「念仏1つで往生できると深く信じた心」ですので、「念仏1つで往生できると浅く信じた心」が自力の信心になります。
共通しているのは「念仏1つで往生できると信じた心」で、違いは「深く」か「浅く」かです。

ここまで説明すれば、思考できる人ならお判りかと思いますが、「念仏1つで往生できると深く信じた心」の前には、通常「仏1つで往生できると浅く信じた心」がある筈です。「諸善をして往生しようと信じた心」をいくら積み重ねても、「念仏1つで往生できると深く信じた心」にはなれません。「諸善をして往生しようと信じた心」を自ら捨てさって、「念仏1つで往生できると浅く信じた心」になれば、「念仏1つで往生できると深く信じた心」になることはあります。

諸善をすれば、1つの善もできないことが知らされる

と本気で思っているのが会員ですが、善をしてもそんなことは永久に知らされません。

諸善をすれば、諸善がそれなりにできることが知らされる

です。
高森会長が詭弁でよく使う例えが、

親孝行をしようと真剣になれば本当の親孝行のできないことが知らされる

ですが、これを会員はまともに信じているから思考停止だというのです。
私が会員の時でも、これが詭弁であることは判っていました。
正しくいうなら、

親孝行をしようと真剣になれば、親孝行は他人よりもできるが、親を心から喜ばせるような本当の親孝行のできないことが知らされる

です。親孝行のできないことが知らされることなど、絶対にありません。

こんな簡単な詭弁に騙されて、未だに諸善だの宿善だの19願だの言っているから、他力の信心の1歩手間の「念仏1つで往生できると浅く信じた心」さえも馬鹿にして念仏軽視しているのです。

念仏1つで往生できると深く信じた心」とは異なる信心の高森会長を、善知識と思っているのは、鰯の頭を信じているのと何ら変わりがないのです。

今回は思考停止でも理解しやすいように根拠なしで説明しましたが、最後に一つだけ根拠を出しておきます。

『正信偈大意』

この三国の祖師等、念仏の一行をすすめ

善知識は念仏の一行を勧められる方、悪知識は念仏の一行を否定する輩です。

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2017年7月23日 (日)

「往生の正因は念仏を本とす」という親鸞聖人のお言葉を全否定する高森顕徹会長

高森顕徹会長は必死になって、聖教にない理屈を捏ね繰り回して、訳の判らない超珍しき法を生み出して、真宗界から鼻で笑われているのですが、それを知ってか知らずか、親鸞会の会員は高森会長のヘンテコ理屈に輪を掛けた???理屈で反論してくることが多いです。
師匠があんなのですから、弟子がこうなるのも無理はありませんが、少なくとも、親鸞聖人が仰ったことを否定するような理屈は止めておかないと、恥を何重にも上塗りするだけです。

さて、信心と念仏の関係に無知な高森会長と愉快な会員達に、もう少し親鸞聖人のお言葉を紹介したいと思います。

親鸞聖人は法然上人の念仏一行で救われるという教えを聞いて、救われたのは、マインドコントロールの良く効いている会員でも認めることと思います。

法然上人は『選択本願念仏集』の結論で

正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。

(現代語訳)

正定の業とは、 すなわち仏のみ名を称えることである。 称名する者はかならず往生を得る。 阿弥陀仏の本願にもとづくからである。

と仰って、その通りに救われたのが親鸞聖人です。
この法然上人のお言葉を親鸞聖人は『尊号真像銘文』で

「正定之業者即是称仏名」といふは、正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。 「称名必得生依仏本願故」といふは、御名を称するはかならず安楽浄土に往生を得るなり、仏の本願によるがゆゑなりとのたまへり。

(現代語訳)

「正定之業者即是称仏名」 というのは、 正定の因となる行いは、 すなわち阿弥陀仏の名号を称えることであるというのである。 正定の因というのは、 必ずこの上ないさとりを開く因ということである。  「称名必得生依仏本願故」 というのは、 名号を称えると間違いなく安楽浄土に往生することができるのであり、 それは阿弥陀仏の本願のはたらきによるからであるというのである。

と解説しておられます。
仏名をとなふる」つまり念仏を称えることが「正定の因」「無上涅槃のさとりをひらくたね」だと明言されているのです。

こういうと、親鸞聖人のお言葉を否定するために

親鸞聖人の教えは「信心正因」だ、「念仏正因」ではない!

と、間の抜けたことを言うでしょうが、親鸞聖人は同じく『尊号真像銘文』で法然上人のお言葉を解説して

「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。

(現代語訳)

「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」 というのは、 安養浄土に往生する正因は本願の念仏を根本とするというお言葉であると知らなければならない。 「正因」 というのは、 浄土に生れて間違いなく仏になる因ということである。

と親鸞会を完膚なきまでに否定されています。

往生の正因は念仏を本とす

ここまできても、信心と念仏の関係が高森会長の言っている通りだと思うようなら、思考が完全に停止している状態です。

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2017年7月21日 (金)

”親鸞聖人の教えの根基”の話をしない高森顕徹会長

最近は、”親鸞聖人の教えの根基”である三願転入についての話がありません。高森顕徹会長は”親鸞聖人の教えの根基”の抜けた話しかしていません。

この状況を会員はどう考えているのか訊いてみたいです。
もう一度いいますが、”親鸞聖人の教えの根基”の話をしないことについてどう思っているのか。

高森会長が話をしなくなった理由は簡単です。”親鸞聖人の教えの根基”だと思っていた三願転入の教えが、親鸞聖人の教えではなかったと、高森会長が認めざるを得なくなったからです。

どんな詭弁を使おうが、どんな超飛躍的論理を用いようが、親鸞聖人の御著書では、三願転入の教えなるものは完全に否定されているのですから当然です。
七高僧のどなたも三願転入について仰っていませんし、19願自体を殆ど無視されています。蓮如上人も、三願転入についても19願についても、何一つ仰っていません。
この状態で”親鸞聖人の教えの根基”とか言い切ることの無謀さを、高森会長はようやく理解しただけのことです。

mixiでの法論で大惨敗した時点で、”親鸞聖人の教えの根基”である三願転入の教えを引っ込めておけば、『なぜ生きる2』を出版することもなく、真宗史上最悪の知識が定着することも防げたのかもしれませんが、既に時遅しです。

ところで、高森会長がこのように悲惨な教義を生み出した出発点は、信心と念仏との関係が全く判っていなかったことによるのでしょう。念仏は信心のオマケ、信前の念仏は信心獲得するのに無意味、との異安心から、宿善だの三願転入だのと真宗とはかけ離れた教義へ向かったのだと思われます。

信心と念仏との関係が良く判るのが、『教行信証』で行巻と信巻の二回も引かれている

深心はすなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく

です。
真実の信心とは、自分の修した善程度では出離できず、「名号を称すること下至十声聞等」によって往生できると信知したことです。

『末灯鈔』ではもっと判り易く、

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

と仰っています。
真実の信心とは、「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じ」たことです。

要するに、念仏を称えて往生できると深く信じたことが真実の信心ですから、信前に念仏を疎かにしてもよいと考えることはあり得ませんし、信後に未だ命があるのに、念仏を称えなくても良い、などという考えがでてきようもありません。

念仏と諸善とは対極関係にありますので、善が信心に何らかの関わりがあるのかという発想も、真実信心からは出てきません。

この単純な話も、高森会長には理解できないでしょうし、”親鸞聖人の教えの根基”を話しない高森会長に疑問を持たないマインドコントロールのよく効いた会員には、チンプンカンプンなことでしょう。

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