七高僧、親鸞聖人とは異なる信心の人には判らない念仏の話
善導大師、曇鸞大師と、往生と念仏との関係について仰った箇所を紹介してきました。次いでですから、源信僧都が教えられている箇所も紹介しておきます。
『往生要集』に
大文第八に、念仏証拠といふは、問ふ、一切の善業はおのおの利益あり、おのおの往生することを得てん。 なんがゆゑぞ、ただ念仏の一門を勧むる。
答ふ。いま念仏を勧むることは、これ余の種々の妙行を遮するにはあらず。 ただこれ、男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜずして、これを修するに難からず、乃至、臨終に往生を願求するに、その便宜を得たるは念仏にはしかじ。
(中略)
いはんやまた、もろもろの聖教のなかに、多く念仏をもつて往生の業となせり。 その文、はなはだ多し。 略して十の文を出さん。
(中略)
四には、『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。(現代語訳)
大文第八に念仏の証拠とは、 問う。 すべての善業には、 それぞれ利益があり、 それぞれ往生することができるのに、 どういうわけで、 ただ念仏の一門だけを勧めるのか。
答える。 今、 念仏を勧めることは、 決して、 その他の種々のすぐれた行をさえぎるのではない。 ただ男でも女でも、 身分の高いものでも、 低いものでも、 その行住座臥の区別なく、 時とき処ところやいろいろの場合を論ぜず、 これを修めるのに難しくなく、 そして臨終までも往生を願い求めるのに、 その便宜を得ることは、 念仏におよぶものはないからである。
(中略)
まして、 またもろもろの聖教の中には、 多く念仏を往生の業としている。 その文ははなはだ多いが、 略して十文を出そう。
(中略)
四つには、 『観経』に説かれている。
極重の悪人は、 他の方法がない。 ただ弥陀の名号を称念して、 極楽往生を得るばかりである。
とあります。往生のために、善ではなく念仏だけを勧める理由を問答形式で教えられています。答えとして、「男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜずして、これを修するに難からず、臨終に往生を願求するに、その便宜を得たるは念仏にはしかじ」とされて、誰でもどんな状況でもできる往生の行は念仏だけ、その根拠を聖教から10挙げられています。その4番目が、
四には、『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。
ですが、ここでは明確に、念仏を称えることで往生できる、と教えられているのです。前々回の善導大師、前回の曇鸞大師と同じことを教えられています。信心を獲て往生できる、という言い方ではありませんし、往生が定まった後に報謝の「仏を称念して」でもありません。往生のために、「ただ仏を称念して」です。
往生には念仏不要と思っている親鸞会やその賛同者には、極めて不都合な御文です。
しかも、これは親鸞聖人も大変お気に入りの御文です。
『教行信証』行巻には、そのまま引かれていますし、『正信偈』には、
極重の悪人はただ仏を称すべし。
と仰り、『高僧和讃』では
極悪深重の衆生は
他の方便さらになし
ひとへに弥陀を称してぞ
浄土にうまるとのべたまふ
と仰っています。
源信僧都だけではなく、親鸞聖人も全く同じ解釈をされていたからこそ、このように繰り返し仰っているのです。
往生のために善を勧めるのは論外ですが、逆に往生のために念仏を勧めないのも、七高僧、親鸞聖人とは異なった教え方になるのです。
信心と念仏との関係が判っている獲信者ならば今回も簡単に判ることですが、七高僧、親鸞聖人と異なる信心の人には理解できない内容です。
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