異安心

2017年7月25日 (火)

念仏一行を勧めるのが善知識、念仏一行を否定するのが悪知識高森顕徹会長

前回のエントリーで、親鸞聖人は「念仏正因」と仰っていると書きましたので、「信心正因」との関係で、親鸞会の会員は頭が混乱していることと思います。しかし、当ブログを以前から読まれている退会者の皆さんなら、普通に理解されていることと思います。

簡単なことで、

信心とは、念仏1つで往生できると深く信じた心のことですから、

「信心正因」=「念仏正因」と深く信じた心が正因

ということです。
他力の信心に疎い高森顕徹会長と愉快な会員達には理解できないことですが、これだけのことです。

以前に同じようなことをエントリーで書いた時に、会員が挙げ足を取ったつもりでこのようなコメントしてきたことがあります。

念仏称えて助かると深く信じていますが、救われていないのはどうしてですか?

思考停止の会員らしいコメントですが、深く信じるとは深信、つまり真実の信心のことを指して親鸞聖人は仰っているのですから、会員のコメントを言い換えるなら、

真実の信心を獲ましたが、救われていないのはどうしてですか?

これなら思考停止の会員でもおかしさが理解できるのではないかと思います。深く信じるを自力だとかいう愚かさを恥じて、その会員はコメントしなくなりましたが、恥を知らずに同じようなことを未だに言っている会員もいるようで、呆れ果てます。

もう一度言いますと、真実の信心、他力の信心とは「念仏1つで往生できると深く信じた心」ですので、「念仏1つで往生できると浅く信じた心」が自力の信心になります。
共通しているのは「念仏1つで往生できると信じた心」で、違いは「深く」か「浅く」かです。

ここまで説明すれば、思考できる人ならお判りかと思いますが、「念仏1つで往生できると深く信じた心」の前には、通常「仏1つで往生できると浅く信じた心」がある筈です。「諸善をして往生しようと信じた心」をいくら積み重ねても、「念仏1つで往生できると深く信じた心」にはなれません。「諸善をして往生しようと信じた心」を自ら捨てさって、「念仏1つで往生できると浅く信じた心」になれば、「念仏1つで往生できると深く信じた心」になることはあります。

諸善をすれば、1つの善もできないことが知らされる

と本気で思っているのが会員ですが、善をしてもそんなことは永久に知らされません。

諸善をすれば、諸善がそれなりにできることが知らされる

です。
高森会長が詭弁でよく使う例えが、

親孝行をしようと真剣になれば本当の親孝行のできないことが知らされる

ですが、これを会員はまともに信じているから思考停止だというのです。
私が会員の時でも、これが詭弁であることは判っていました。
正しくいうなら、

親孝行をしようと真剣になれば、親孝行は他人よりもできるが、親を心から喜ばせるような本当の親孝行のできないことが知らされる

です。親孝行のできないことが知らされることなど、絶対にありません。

こんな簡単な詭弁に騙されて、未だに諸善だの宿善だの19願だの言っているから、他力の信心の1歩手間の「念仏1つで往生できると浅く信じた心」さえも馬鹿にして念仏軽視しているのです。

念仏1つで往生できると深く信じた心」とは異なる信心の高森会長を、善知識と思っているのは、鰯の頭を信じているのと何ら変わりがないのです。

今回は思考停止でも理解しやすいように根拠なしで説明しましたが、最後に一つだけ根拠を出しておきます。

『正信偈大意』

この三国の祖師等、念仏の一行をすすめ

善知識は念仏の一行を勧められる方、悪知識は念仏の一行を否定する輩です。

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2017年7月23日 (日)

「往生の正因は念仏を本とす」という親鸞聖人のお言葉を全否定する高森顕徹会長

高森顕徹会長は必死になって、聖教にない理屈を捏ね繰り回して、訳の判らない超珍しき法を生み出して、真宗界から鼻で笑われているのですが、それを知ってか知らずか、親鸞会の会員は高森会長のヘンテコ理屈に輪を掛けた???理屈で反論してくることが多いです。
師匠があんなのですから、弟子がこうなるのも無理はありませんが、少なくとも、親鸞聖人が仰ったことを否定するような理屈は止めておかないと、恥を何重にも上塗りするだけです。

さて、信心と念仏の関係に無知な高森会長と愉快な会員達に、もう少し親鸞聖人のお言葉を紹介したいと思います。

親鸞聖人は法然上人の念仏一行で救われるという教えを聞いて、救われたのは、マインドコントロールの良く効いている会員でも認めることと思います。

法然上人は『選択本願念仏集』の結論で

正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。

(現代語訳)

正定の業とは、 すなわち仏のみ名を称えることである。 称名する者はかならず往生を得る。 阿弥陀仏の本願にもとづくからである。

と仰って、その通りに救われたのが親鸞聖人です。
この法然上人のお言葉を親鸞聖人は『尊号真像銘文』で

「正定之業者即是称仏名」といふは、正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。 「称名必得生依仏本願故」といふは、御名を称するはかならず安楽浄土に往生を得るなり、仏の本願によるがゆゑなりとのたまへり。

(現代語訳)

「正定之業者即是称仏名」 というのは、 正定の因となる行いは、 すなわち阿弥陀仏の名号を称えることであるというのである。 正定の因というのは、 必ずこの上ないさとりを開く因ということである。  「称名必得生依仏本願故」 というのは、 名号を称えると間違いなく安楽浄土に往生することができるのであり、 それは阿弥陀仏の本願のはたらきによるからであるというのである。

と解説しておられます。
仏名をとなふる」つまり念仏を称えることが「正定の因」「無上涅槃のさとりをひらくたね」だと明言されているのです。

こういうと、親鸞聖人のお言葉を否定するために

親鸞聖人の教えは「信心正因」だ、「念仏正因」ではない!

と、間の抜けたことを言うでしょうが、親鸞聖人は同じく『尊号真像銘文』で法然上人のお言葉を解説して

「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。

(現代語訳)

「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」 というのは、 安養浄土に往生する正因は本願の念仏を根本とするというお言葉であると知らなければならない。 「正因」 というのは、 浄土に生れて間違いなく仏になる因ということである。

と親鸞会を完膚なきまでに否定されています。

往生の正因は念仏を本とす

ここまできても、信心と念仏の関係が高森会長の言っている通りだと思うようなら、思考が完全に停止している状態です。

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2017年7月21日 (金)

”親鸞聖人の教えの根基”の話をしない高森顕徹会長

最近は、”親鸞聖人の教えの根基”である三願転入についての話がありません。高森顕徹会長は”親鸞聖人の教えの根基”の抜けた話しかしていません。

この状況を会員はどう考えているのか訊いてみたいです。
もう一度いいますが、”親鸞聖人の教えの根基”の話をしないことについてどう思っているのか。

高森会長が話をしなくなった理由は簡単です。”親鸞聖人の教えの根基”だと思っていた三願転入の教えが、親鸞聖人の教えではなかったと、高森会長が認めざるを得なくなったからです。

どんな詭弁を使おうが、どんな超飛躍的論理を用いようが、親鸞聖人の御著書では、三願転入の教えなるものは完全に否定されているのですから当然です。
七高僧のどなたも三願転入について仰っていませんし、19願自体を殆ど無視されています。蓮如上人も、三願転入についても19願についても、何一つ仰っていません。
この状態で”親鸞聖人の教えの根基”とか言い切ることの無謀さを、高森会長はようやく理解しただけのことです。

mixiでの法論で大惨敗した時点で、”親鸞聖人の教えの根基”である三願転入の教えを引っ込めておけば、『なぜ生きる2』を出版することもなく、真宗史上最悪の知識が定着することも防げたのかもしれませんが、既に時遅しです。

ところで、高森会長がこのように悲惨な教義を生み出した出発点は、信心と念仏との関係が全く判っていなかったことによるのでしょう。念仏は信心のオマケ、信前の念仏は信心獲得するのに無意味、との異安心から、宿善だの三願転入だのと真宗とはかけ離れた教義へ向かったのだと思われます。

信心と念仏との関係が良く判るのが、『教行信証』で行巻と信巻の二回も引かれている

深心はすなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく

です。
真実の信心とは、自分の修した善程度では出離できず、「名号を称すること下至十声聞等」によって往生できると信知したことです。

『末灯鈔』ではもっと判り易く、

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

と仰っています。
真実の信心とは、「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じ」たことです。

要するに、念仏を称えて往生できると深く信じたことが真実の信心ですから、信前に念仏を疎かにしてもよいと考えることはあり得ませんし、信後に未だ命があるのに、念仏を称えなくても良い、などという考えがでてきようもありません。

念仏と諸善とは対極関係にありますので、善が信心に何らかの関わりがあるのかという発想も、真実信心からは出てきません。

この単純な話も、高森会長には理解できないでしょうし、”親鸞聖人の教えの根基”を話しない高森会長に疑問を持たないマインドコントロールのよく効いた会員には、チンプンカンプンなことでしょう。

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2017年3月28日 (火)

無常観と罪悪観を強調するのは土蔵秘事と同じ信心

最近の高森顕徹会長の話は、薄っぺらい内容です。以前も薄っぺらい内容ではありましたが、大沼師をパクった内容の時には、少しは深みがありました。今では、退会者からの激しい教義批判に怖れ慄き、非難されないことだけに気を使っているため、どうでもよいことに時間を費やしている有り様です。

映画のシナリオの話で法を説いているつもりになっているのですが、その内容がずれています。

無常観と罪悪観が大事だとやたら強調していますが、これもおかしなことです。仏法を聞くきっかけとして無常観と罪悪観が大事だということではあっても、無常観と罪悪観が聞法に大切なのではありません。
言葉を替えると、仏法を聞く気の無い人が、仏法を聞き始める縁として無常観と罪悪観が大事だとは言っても良いですが、すでに仏法を真面目に聞いている人にとっては、無常観と罪悪観が必要なものではありません。

たとえば蓮如上人は『御文章』2帖目7通に

しづかにおもんみれば、それ人間界の生を受くることは、まことに五戒をたもてる功力によりてなり。これおほきにまれなることぞかし。ただし人界の生はわづかに一旦の浮生なり、後生は永生の楽果なり。たとひまた栄華にほこり栄耀にあまるといふとも、盛者必衰会者定離のならひなれば、ひさしくたもつべきにあらず。ただ五十年・百年のあひだのことなり。それも老少不定ときくときは、まことにもつてたのみすくなし。これによりて、今の時の衆生は、他力の信心をえて浄土の往生をとげんとおもふべきなり。

と仰っています。蓮如上人は、仏法を聞くきっかけとしても無常観、罪悪観が大事だとも仰っていません。人間界の栄耀栄華の僅かな楽しみよりも浄土往生の永生の楽果を求めなさいとのことで、無常については栄耀栄華が短いとしか仰っておらず、罪悪についての言及はここではありません。もちろん、仏法をすでに聞いている人にも、無常観、罪悪観が大切だということも仰っていません。

また親鸞聖人の御著書、お手紙を一通り読んだ人なら判りますが、親鸞聖人も無常観と罪悪観が大事だと仰ってはいませんし、無常観に至っては、言及さえ殆どありません。罪悪観については、煩悩具足で出離できないことの説明に関連して仰っているだけで、それ以上ではありません。機の深信と罪悪観の違いが判っていない高森会長にとっては、私の言っていることが理解できないと思います。

機の深信と罪悪観との関係については、何度か述べたことがありますが、善導大師が著わされた『散善義』の以下の御言葉が判りやすいと思います。

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

(現代語訳)

わが身は、 無始よりこのかた、 他のものと同時に、 発願し、 悪を断ち、 菩薩の道を行じたのに、 他のものはことごとく身命を惜しまず、 修行して位を進め、 因が円満し、 果が成就して、 聖者の位を証した。その数は、 大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、 われら凡夫は過去より今日に至るまで、 いたずらに流転して、 煩悩の悪障が次第にますます多くなり、 福徳智慧のきわめて少ないことは、 重昏をもって明鏡に望むがようである。 今このことを考えると、 どうして心驚き悲しまずにおられようか。

善導大師はかつての法友が聖道門の修行によって出離して聖者となっていく中で、善導大師御自身は聖道門の修行をされても出離できずに流転を繰り返してきたとの告白です。その結果として、煩悩の悪障が次第にますます多くなっていると仰っているのであって、罪悪観を大事にして求めるという話ではありません。罪悪観云々は、聖道門ではさとりを得ることができないということであり、18願において罪悪観が関係する話ではないのです。

善導大師の御言葉で機の深信と罪悪観との関係を簡単に言うと、機の深信は聖道門では出離できないことであり、罪悪観は出離できないから罪悪を造っているということです。聖道門あるいは善では出離できないと知らされることが大事なのであって、罪悪が知らされることが大事なのではありません。

機の深信を究極の罪悪観としか思っていない高森会長は、突っ込まれない話をしているつもりでしょうが、高森会長の信心は土蔵秘事となんら変わらないのです。

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2017年2月16日 (木)

高森秘事の二河白道の譬え話

信前信後で、何が変わって何が変わらないのかがよく判る話が、二河白道の譬喩です。この譬喩が、高森顕徹会長が話している内容とはかなり違うことを、これまで何度も述べてきました。

高森会長は、白道についての私の非難に反論するために、善導大師と親鸞聖人とは教えられた方が違うとか、おもしろいことを言ったこともありますが、言うまでもなく御二方の譬え話は同じです。

信前信後の話に絞って言いますと、三定死を迎えるのは、東の岸にいる時であり、西の岸にいる人の喚び声を聞くのも東の岸にいる時です。したがいまして、信前信後の違いは、東の岸にいるか白道に乗ったかの違いです。ここで、白道に乗ったこと以外に何かが変わったかどうかです。

・旅人の姿は変わらない。
・東の岸も変わらない。
・白道は四五寸のまま変わらない。
・水の河と火の河も変わらない。
・群賊悪獣悪知識も変わらない。
・東の岸と西の岸の距離も変わらない。
・西の岸も変わらない。
・東の岸の人も変わらない。
・西の岸の人も変わらない。
・西の岸の人から新たな喚び声はない。

要するに、白道に乗ったこと以外には、何も変わらないということです。
そうなると、救われてハッキリするのは、白道に乗ったこと、つまり他力の信心を頂いたことだけで、他にはハッキリすることが何もないということになります。

これは前回の『執持鈔』と同じです。思慮の浅い親鸞会会員は、信後は西の岸が見えるではないか、と反論するかもしれませんが、それは東の岸にいた時と同じ見え方です。

結局、往生一定といっても、白道に乗ったこと、つまりは阿弥陀仏の喚び声に従う以上でも以下でもないということです。善導大師、親鸞聖人が二河白道の譬喩でそのように教えておられるのですから、これ以上屁理屈のつけようがありません。

善導大師、親鸞聖人の譬え話そのままでも、信前信後はこの違いしかないのですが、高森会長のいう白道の途中で信前信後が分かれるとなると、信前信後には違いが何もないことになります。白道の途中で西の岸の人が新たな喚び声を出されていませんし、白道も変わりませんので、何も変化がない、つまりは何一つハッキリすることがないことになります。高森秘事の譬え話では、信前信後の水際がハッキリすることなどない曖昧なものにしかなりません。

高森会長の言っている驚天動地の変化を言いたいのなら、せめて

・白道の四五寸が広い広い大道に変わった。
・水の河と火の河が白道を隠すことがなくなった。
・西の岸が光り輝いてよく見えるようになった。

くらいの大胆な改竄をして言わないと辻褄が合いません。尤もこれに近いことを高森会長は過去に言ったこともありましたので、善導大師、親鸞聖人の譬え話とは大きく異なったオリジナルの譬え話を高森会長が創作したのだといえます。まあ、創作をしたというよりは、寧ろ、善導大師、親鸞聖人の譬え話を知らなくて、適当なことを言っただけでしょう。

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2017年2月12日 (日)

邪義を修正してもやはり邪義にしかならない

本日の高森顕徹会長の話は、救われたらどう変わるのかについてでしたが、高森会長は言葉上ではまともなことを言っていたようです。ただし、薄っぺらい内容でした。退会者からの激しい批判に晒されて、かなり修正をしてきて、往生一定という言葉を出して説明していましたが、往生一定がどういうことか、高森会長はよく理解できていないみたいです。

覚如上人は親鸞聖人のお言葉を『執持鈔』の中で紹介されています。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人[黒谷源空聖人の御ことばなり]の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。(中略)
そのゆゑは、明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑにとなり。しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

(石田瑞磨著『親鸞全集 別巻』による現代語訳)

浄土に生れるという、これほどの一大事について、愚かなものがさかしらな才覚をめぐらしてはならない、ただ一すじに如来におかませしなければならない。総じて愚かなひとに限らず、次の世に仏となってあらわれることが約束された弥勒菩薩をはじめとして、仏の智慧の不思議になまじいの才覚をしてはならない。まして愚かなひとの浅はかな智慧には、当然許されない。ねんごろに如来の智慧のお誓いにおまかせをしなければならない。これを、仏にすべてを託した、真実の信心をえたひとというのである。
だから自分から、浄土に行くことができそうだとも、また地獄に堕ちるかもしれないとも、決めてはならない。なくなられた上人<黒谷の源空、法然上人のことばである>の仰せられた言葉として、「源空の生れるところへ行こうとお考えになってください」ということをたしかにうけたまわったうえは、たとえ地獄であっても、なくなられた上人のおいでになるところへ行かなければならない、と思うのである。(中略)
その理由は、智慧の勝れた師にお逢いしないで終ってしまうならば、かならず悪道に行くはずの身だから、というのである。ところが、正しい教えの師にだまされて悪道に行くならば、そのときはひとりで行くはずがない。かならず師と一緒に堕ちて行くだろう。だから、ただ地獄に堕ちるほかない、といっても、なくなった上人のおいでになるところへ参ろうと決心したのであるから、生れるさきの善し悪しはわたしのきめるところではない、というのである。これが自力を捨てて他力にすべてをまかせる姿である。

ここで仰っていることで、ポイントは

  • 往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし
  • われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
  • 源空があらんところへゆかんとおもはるべし
  • 善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず

です。
死んだ後にどこにいくかを自分ではからって決めてはならないということです。救われた後もです。要するに、往生一定とは、自分の往生がハッキリと判ることではないのです。
では真実の信心とは何かについて、

  • 如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
  • 善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

と仰っています。死んだ後のことを自分でどうこう決めるのではなく、阿弥陀仏におまかせをするのです。
つまり、浄土往生を誓われた阿弥陀仏におまかせをしたのだから、往生は一定となるのです。浄土往生がハッキリすることは救われる前も後もありません。しかし、浄土往生は間違いないと仰る阿弥陀仏におまかせをしたから、浄土往生は間違いない、となり、それが救われたということなのです。

高森会長の話は、いつも核心を突いていません。まともらしきことを言っている時は、大沼法竜師や伊藤康善師などの言葉をそのまま使っているだけですので、中身が伴わず言葉が軽いのです。そして、親鸞聖人の仰ることと高森会長の説明とには矛盾も生じるのです。

トンデモ邪義連発だったここ数年のことを思うと、最近の邪義は落ち着いてきた感はありますが、元が邪義ですから、落ち着いてもやはり邪義でしかないのです。

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2017年1月26日 (木)

教えも信心も嘘で塗り固めた高森顕徹会長の実態

真実信心かどうかは二種深信が立ったかどうかと説明しながら、退会者に対して二種深信以外の、これが知らされていないから自力の信心だ、あれが知らされていないから異安心だ、と平気で非難してきます。親鸞会の会員には、矛盾が矛盾と理解できていないようです。

親鸞聖人のお言葉で「まことに知んぬ」とあると、真実信心を獲たら必ず知らされることだと親鸞会は勘違いしていますが、単に高森顕徹会長の嘘に騙されているだけです。

たとえば、『教行信証』信巻の

まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり。

ですが、これは二河白道の譬えの内容について「まことに知んぬ」です。真実信心を獲たからと言って、譬えが何を意味しているかを正確に知らされるはずがありません。ここで知らされたこととは、譬えの内容をこのように理解した、ということです。信心とは別の話です。

否、そんなことはない、真実信心を獲たからこそ知らされたことなんだ

と親鸞会会員は言いかねないので、この御文の内容を見ていきましょう。

現代語訳は

いま、まことに知ることができた。善導大師の二河の喩えの中に「四、五寸ほどの白い道」といわれているが、「白い道」の「白」という言葉は「黒」に対するものである。「白」とはすなわち、阿弥陀仏が因位のときにあらゆる行の中から選び取られた清らかな行であり、浄土往生のために如来より回向された清らかな行であることをいう。「黒」とはすなわち、無明に汚れた行であり、また、声聞や縁覚、人間や神々の修める煩悩のまじった善であることをいう。「道」という言葉は「路」に対するものである。「道」とはすなわち、第十八願の唯一信心の道であり、この上ないさとりを開くすぐれた道である。「路」とはすなわち、二乗・三乗の法、さまざまな行を修めなければならない劣った路である。「四、五寸」とはすなわち、衆生の心身を構成している四大・五陰にたとえたのである。

ですが、判り易い所で、高森会長が途中まで自力の道と主張している「白道」についてのみ見てみましょう。

白=選択摂取の白業、往相回向の浄業
道=本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道

つまり、「白道」とは本願他力の道の意味しかないのです。

ということは、白道は他力と知らされていない高森会長は真実の信心ではないということになります。あるいは高森会長は、白道を善導大師は自力で教えられたのを親鸞聖人が他力で教えられたとか珍説を言ったりしていますので、親鸞聖人の信心と善導大師の信心は違うことにもなります。
それとも、「まことに知んぬ」は、真実の信心を獲て知らされることではないと高森会長の説明を修正するのでしょうか。

いずれにしても矛盾です。

このようなちょっとのことでも、矛盾が噴出しているのが、高森会長の言っている教えです。

参考までに、「まことに知んぬ」と親鸞聖人が『教行信証』で仰っている箇所で、明らかに教えの理解と会員でも認めるであろう御文を挙げておきます。

これすなはち真実の行を顕す明証なり。まことに知んぬ、選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行なり、知るべしと。(行巻)

まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。(信巻)

しかれば大聖の真言、宗師の釈義、まことに知んぬ、この心すなはちこれ不可思議不可称不可説一乗大智願海、回向利益他の真実心なり。これを至心と名づく。(信巻)

まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。(信巻)

しかれば大聖の真言、まことに知んぬ、大涅槃を証することは願力の回向によりてなり。(証巻)

まことに知んぬ、これいましこの『経』に顕彰隠密の義あることを。(化土巻)

高森会長は、無知な上に、信心も偽装していることが明白です。
高森会長の嘘を信じて、親鸞聖人の仰せを否定するのは各々の勝手ですが、親鸞聖人の教えを正しく伝えていると吹聴している高森会長は大嘘つきだということくらいは知っておきましょう。

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2016年10月 7日 (金)

木の深信が立った高森顕徹会長

親鸞会が現在唯一使う根拠が

難思の弘誓は難度海を度する大船

です。

ここで最も重要なお言葉は言うまでもなく「難思の弘誓」で、18願のことですが、この説明を高森顕徹会長はしません。敢えて説明を避けているのでしょう。その理由は、説明したら非難されることが判っているからです。
高森会長は非難を極度に畏れています。それで非難されない内容として「難度海」の説明に終始していますが、そこもずれています。

高森会長の説明は

難度海に丸太や板切れが浮いていて、丸太や板切れは 金や財産、健康、名誉、地位、妻子、邪教、迷信などと言っています。

こんな感じですが、この譬えは高森会長のオリジナルかと言えば、やはりパクリです。
伊藤康善師による『仏敵』の中に

「じゃ、君に一つの譬えを出そう。君は今、生死の苦海に漂っているとする。そこへ大木が漂流していたら、君はそれにすがるかい?」
「私はすがります」

とあります。
聖教を読んだことのない高森会長は、これが正統的な解釈と勘違いしているのでしょう。

今後も聖教を読むことがないでしょうから、少しだけ教えておきます。

「難度海」の元は、『十住毘婆沙論』易行品です。『教行信証』行巻にも引かれています。

かの八道の船に乗じて、よく難度海を度す。みづから度し、またかれを度せん。

(現代語訳)

八聖道という船に乗って、渡ることのできない迷いの海を超えるのである。自ら仏となって迷いの海を渡り、またあらゆる人を救って迷いの海を渡してくださる

お判りかと思いますが、「難度海」とは迷いの世界を出ることが難い、つまり我らは六道から離れられない、出離できないことを仰ったものです。
金や財産、健康、名誉、地位、妻子という丸太や板切れのレベルの話をされているのではありません。

難度海」の言い換えとしてよく使われる「苦海」は善導大師の『法事讃』にあり、『教行信証』化土巻に引かれています。

循々として愛波に沈みて苦海に沈む。仏道人身得がたくしていますでに得たり。浄土聞きがたくしていますでに聞けり。信心発しがたくして、いますでに発せり。

(現代語訳)

衆生は、すべての迷いの世界を繰り返し輪廻してとどまることがなく、めぐりめぐって長い間欲望の波にのまれ、苦しみの海に沈み続けている。そのように人間として生れ仏道を歩むのは難しいのに、わたしは今すでにそれを得ることができた。浄土の教えを聞くのは難しいのに、今すでに聞くことができた。信心をおこすのは難しいのに、今すでにおこすことができた

この「苦海」も「難度海」と同じで、出離できずに苦しんでいることを仰っているのであって、裏切られる世間的な幸せを信じているとかのレベルではないのです。
仏教を聞いて、出離を求めながら出離できない凡夫の世界を「難度海」「苦海」と表現されていて、出離の道は18願しかないことを示されていることが、容易に判られると思います。

丸太や板切れを信じて苦しんでいるという話を、どれだけ真剣に何百年聞いたところで、「大船」に乗ることはできません。そもそも方向が違っているのです。
世間的な幸福云々を越えた出離を目指した上で、自分の力では出離できないことを知って18願に帰依することを教えられたのです。勘の良い方は気が付かれたと思いますが、二種深信と同じなのです。
機の深信を、丸太や板切れに裏切られることを深信したことだ、とは高森会長でもさすがに言わないのですが、「難度海」「苦海」と機の深信とが完全に無関係だとしか思っていないのでしょう。。

高森会長がもし本当に、機の深信が立っているなら、こんな愚かな説明を自信満々、映画でも法話でもしません。

つまりは、丸太や板切れに拘っていることそのままが、高森会長は機の深信ではなく木の深信という珍しい信心を獲た人物だということです。映画を宣伝すればするほど、嘲笑の的となっていることも知らずに。

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2016年8月19日 (金)

異安心というよりも寧ろオカルトに近い高森顕徹会長

2000畳の正面には、黒板の脇に根拠ボードが8面あり、正本堂建立から暫くは8面全部を聖教の根拠を映し出しても足りず、紙まで使って聖教の根拠を示していました。
その時の高森顕徹会長の心中は、自信に満ち溢れていたことと思います。親鸞聖人や善知識方、経典を読みこなした教学随一の人物と、自分でも錯覚していたでしょう。

ところが高森会長の教学が、偽物だったと明らかになり、それどころか、何一つ知らない単なるパクリ魔だったことが周知の事実になってから、根拠ボードに聖教の根拠が映し出されなくなりました。
現在の高森会長の心中は、自信喪失を通り越して開き直り、何とかの科学の総裁を真似ていると思われます。

親鸞会は、もはやカルトというより、オカルトに近づいているのかもしれません。

そんな高森会長が大好きな、いや大好きだった聖教上の根拠の1つが、『教行信証』信巻の

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

です。

親鸞聖人は信心を獲られて、自分が死ぬと同時に仏の覚りを開くとハッキリ知らされた

という説明をしてきました。これでは信心を獲たら、自分の死後のことが明確に判る智慧を体得することになってしまうのですが、実際はそうではありません。
前回のエントリー同様、これは親鸞聖人の独自の理論です。
七高僧方は仰っていないことだからです。

たとえば曇鸞大師は『浄土論註』で

仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。

と仰っていますが、浄土に往生してから、正定聚に入り、そして仏になるということです。他の方も同じです。

また聖覚法印も『唯信鈔』で

順次生に浄土に生れて、浄土にして菩薩の行を具足して仏に成らんと願ずるなり。この門は末代の機にかなへり。

と言われています。
もし信心獲得したら親鸞聖人が仰ったことをハッキリと知らされるとするなら、七高僧方や聖覚法印は、異安心になります。

このように言うと親鸞会は必ずこのような反論をしてきます。

「まことに知んぬ」と親鸞聖人は仰っているのだから、ハッキリと知らされたことになるではないか

しかし、これこそが親鸞聖人の御著書を読んだことのない証拠になります。
簡単なところから説明すると、まず、

弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。

がもし知らされたなら、仏智を獲たことになるでしょう。弥勒菩薩の成仏の時期は、『菩薩処胎経』に説かれたことを単に信じる以上には判かりようがありません。

それでも

「まことに知んぬ」なんだから

と喚き続けるでしょうから、他の「まことに知んぬ」のお言葉を『教行信証』から紹介すると

「これすなはち真実の行を顕す明証なり。まことに知んぬ、選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行なり、知るべしと。」(行巻)

「まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。」(信巻)

「しかれば大聖の真言、宗師の釈義、まことに知んぬ、この心すなはちこれ不可思議不可称不可説一乗大智願海、回向利益他の真実心なり。これを至心と名づく。」(信巻)

「まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。」(信巻)

「まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。」(信巻)

「しかれば大聖の真言、まことに知んぬ、大涅槃を証することは願力の回向によりてなり。」(証巻)

「まことに知んぬ、これいましこの『経』に顕彰隠密の義あることを。」(化土巻)

以上に共通することは聖教の解釈上での話で、理解できた、の意味です。

結論を言えば、信心を獲たら、今まで知ることのできなかったことを知る智慧を体得すると考えることは間違いだ、ということです。

多くのことが明確に知らされたと公言している高森会長は、異安心というよりも、なんとかの科学の総裁と同じオカルトレベルと言えます。

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2016年8月12日 (金)

どちらが異安心か?

親鸞会は、退会者に対して聖教での反論をすることがなくなってきました。その代わりに投げつける言葉は、「間違った信心」という反論というか決めつけです。高森顕徹会長の嘘と不勉強を、聖教上の御文で証明している退会者に対して反論するなら、聖教上の御文をもってしなければ、そもそも議論が成立しないのですが、その劣勢を根拠のない自信で挽回しているつもりなのでしょう。
本来なら、退会者のことを異安心と決めつける前に、高森会長が親鸞聖人と同じ安心なのか確かめてからにすべきですが、それを絶対にしません。なぜなら、マインドコントロールされていて、高森会長は絶対に正しいと思い込まされているからです。それは親鸞会が邪教と見下している宗教団体の信者と何ら変わりないのですが、そこに気が付くことさえ拒否しているのです。

正しい信心かどうかは、二種深信が立っているかどうかだ

高森会長はいつも言っていましたが、その二種深信の説明が間違っていることは、これまで述べてきましたので、すでに高森会長の異安心が確定しています。反論があるなら、聖教上の二種深信の説明と高森会長の説明が一致していることを説明すればよいだけですが、それはできません。

もう一つの理屈は、退会者が信心の説明で現生十種の益が知らされていないから異安心だというものですが、これも無知の証拠にしかなりません。
現生十種の益を獲ると親鸞聖人が解釈されたことと、現生十種の益を獲たことが実感として判ることとの違いが理解できていないのです。

現生十種の益の中で、最も判りやすいのが入正定聚の益です。

親鸞聖人は、現生において正定聚に入る、と仰っていますが、これは七高僧方の仰っていないことです。七高僧方は、浄土に往生した後に正定聚に入る、と仰っていますので、もし、入正定聚の益を知らされていないことをもって異安心だと言うのであれば、七高僧方は異安心になります。

難しいですが、根拠を挙げて説明します。

『正信偈』にある

成等覚証大涅槃

は、阿弥陀仏の11願で、大経の異訳経である『無量寿如来会』にある御言葉から親鸞聖人が取られたものです。

もしわれ成仏せんに、国のうちの有情、もし決定して等正覚を成り、大涅槃を証せずは、菩提を取らじ

この「国のうちの有情」とは阿弥陀仏の浄土の中の有情です。
つまり、11願は、浄土に往生後、等正覚を成り、大涅槃を証すると誓われたもので、往生後に正定聚に入ることです。

それを曇鸞大師は『浄土論註』で11願を言い換えられて

もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得て、すなはち正定聚に入る

とされています。浄土に往生した後に正定聚に入るの意味です。

これは他の高僧方も同じです。

親鸞聖人は、七高僧方の解釈を踏まえられた上で、往生後に正定聚に入るとしか解釈のしようの無い11願を敢えて現生に解釈なされました。
それを表現されたのが、親鸞聖人が度々なされる漢文の読み替えという方法です。

曇鸞大師の

もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得て、すなはち正定聚に入る

を親鸞聖人は

もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ぜんものと、また往生を得るものとは、すなはち正定聚に入る

と読みかえられました。「生ぜんと願ぜんもの」が「すなはち正定聚に入る」と本来の意を変えられてしまったのです。

親鸞聖人がこのように解釈をなされた理由は、親鸞聖人が信心を獲られて知らされたからではなく、阿弥陀仏の救いはこうでなければ理屈が通らないという親鸞聖人の理論です。

これは真宗学の重要なポイントです。入正定聚を来生とされた七高僧方と、現生とされた親鸞聖人との相違が存在する、つまりは、入正定聚の益が知らされていないから、信心が間違っているということは言えないことになるどころか、そんなことを言うことが異安心の告白です。

今回の内容は、親鸞会の会員はもちろんのこと、信心の定義から間違っている高森会長にも理解しがたいことと思います。

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