異安心

2019年8月18日 (日)

弥勒菩薩以上の”聞法善”をしてきたと悲しい勘違いをしている高森顕徹会長

本日は、久しぶりに高森顕徹会長が話をしました。頭を冷やして少しは面白い話をしてくれるのかと思いましたが、いつもと変わらずつまらない話でした。

高森会長の好きな親鸞聖人の『教行信証』信巻のお言葉、

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

を出して、いつも通りの、

救われたらガラリと変わる
「まことに知んぬ」は、ハッキリ知らされた

という根拠として使用していました。
妄想が激しすぎるのですが、救われたからと言って、弥勒菩薩の成仏の時期が判る筈もなく、七高僧方がどなたも仰っていない往生即成仏が救われてハッキリ知らされたのなら、七高僧は救われていなかったことになります。
ちょっと考えれば判りそうなことが、高森会長の話術にかかってしまうと騙されるのです。

さて、親鸞聖人がここで弥勒菩薩を出されていることには、様々な意味が考えられます。

1つは、聖道門の理想像である弥勒菩薩でさえも、成仏に途方もない年月を要することを示して、18願の素晴らしさを際立たせたいことです。
2つに、『大無量寿経』の聴衆の一人であり、釈尊と問答までされた弥勒菩薩は18願ではなく、聖道門での修行を続けられていることです。
3つに、仏を除いて最高の善人である弥勒菩薩が、凡夫とは桁違いの度真剣な聞き方をしているはずなのに、救われていないことです。

1番目は解説は要らないでしょうが、2番目と3番目は親鸞会の邪義を暴く根拠になっています。
阿弥陀仏の18願を聞くことは、聖道門の善人では難しい、つまり高森流の”宿善厚き人”は救われがたいが、聖道門など全くできない悪人の”宿善薄き人”の方が救われやすいので、まさに『歎異抄』の

善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。

の通りであることが、理屈上で”ハッキリ”知らされます。
それと、弥勒菩薩は51段の菩薩ですから、厳しい修行を積み重ねられ、当然ながら高森流の”聞法善”も凡夫では絶対にできないレベルでしてきたので、『大無量寿経』もそんなレベルで聞法しても、救われるどころか聖道門に留まったままなら、凡夫がそれ以上の”聞法善”など絶対にできないので、凡夫は絶対に救われないことになります。

今回も「聞く一つ」と強調していましたが、その言葉自体は正しくても、”聞法善”の積み重ねで救われるという意味合いでしか話をしていない高森会長は、会員に弥勒菩薩以上の”聞法善”を要求しているのですが、ちなみに高森会長は弥勒菩薩以上の”聞法善”をしてきたと自惚れているのでしょうか。
自惚れているというより、悲しい勘違いなのでしょう。

そんなかわいそうな高森会長を信じている会員は、更にかわいそうです。

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2019年8月14日 (水)

阿弥陀仏の救いを根本から疑う高森顕徹流”真実信心”

親鸞会の教義は10年も前から破綻が顕在化していましたが、組織は問題がありながらも存続してきました。ところが昨年から組織の破綻も顕著になってきて、たとえば講師部員はバラバラで、士気が下がりまくり、離脱も出ています。

適当教義と方針行き当たりばったりの高森顕徹会長ですから、因果の道理を深信すればこうなることは、だれでも予想できるでしょう。

さて、親鸞会会員が妄想している真実信心と、親鸞聖人が仰る真実信心とは、天地ほどの違いがあります。会員が自力の信心だからではなく、高森会長の言っている真実信心の説明が出鱈目だからです。

親鸞聖人は、真実信心について様々な説明をなされていまして、高森会長の説明と悉く違っていますが、今回は以下のところからそれを見てみたいと思います。

『教行信証』信巻にこうあります。

元照律師のいはく、「他のなすことあたはざるがゆゑに甚難なり。世挙つていまだ見たてまつらざるがゆゑに希有なり」と。
またいはく、「念仏法門は、愚智豪賤を簡ばず、久近善悪を論ぜず、ただ決誓猛信を取れば臨終悪相なれども、十念に往生す。これすなはち具縛の凡愚、屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり。世間甚難信といふべきなり」と。
またいはく、「この悪世にして修行成仏するを難とするなり。もろもろの衆生のために、この法門を説くを二つの難とするなり。前の二難を承けて、すなはち諸仏所讃の虚しからざる意を彰す。衆生聞きて信受せしめよとなり」と。{以上}

(現代語訳)

元照律師が『阿弥陀経義疏』にいっている。
 「『阿弥陀経』には、釈尊がこの五濁の世に出られて仏となり、阿弥陀仏の教えを説かれたことを<甚難希有>と示されているが、他の仏がたのできないことであるから甚難であり、この世で今までになかったことであるから希有である」
また次のようにいっている(阿弥陀経義疏)。
「念仏の教えは、愚者と智者、富めるものと貧しいもののへだてなく、修行期間の長短や行の善し悪しを論じることなく、ただ決定の信心さえ得れば、臨終に悪相をあらわしても、たとえば十声念仏して往生をとげる。これこそは、煩悩に縛られた愚かな凡夫でも、また、生きものを殺し、酒を売って生活し、賤しいとされるものであっても、たちどころにすべてを跳び超えて仏になる教えである。まことに世間の常識を超えた信じがたい尊い教えというべきである」
また次のようにいっている(阿弥陀経義疏)。
「この五濁の世で修行して仏になるということは難しい。多くの衆生のために阿弥陀仏の教えを説くことも難しい。この二つの難事をあげて、仏がたが釈尊をほめたたえられることが無意味でないことを明らかにされている。これは衆生に教えを聞かせて信を得させるためである」

『阿弥陀経』について解釈された元照律師の『阿弥陀経義疏』を引かれている箇所です。『阿弥陀経』ですので、当然、念仏についての内容になるのですが、念仏を称えることによって往生する、もしくは仏になる、という教えが「甚難信」だと親鸞聖人もみられていたことが判ります。
この次に

律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』に〈易往而無人〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」と。

(現代語訳)

律宗の用欽がいっている。
「阿弥陀仏の教えを信じることが難しいと説くのは、まことにこの教えは、凡夫を転じて仏とすることが、ちょど手のひらを返すようだからである。きわめてたやすいから、かえって浅はかな衆生は多くの疑いを生じる。そこで『無量寿経』には、<浄土は往生しやすいにもかかわらず、往生する人がまれである>と説かれている。このようなわけで信じることが難しいと知られる」

ここでは、なぜ「難信」なのかについての解説となっています。阿弥陀仏の救いとは、凡夫が仏になることは、手のひらを表から裏へ返すのと同じくらい極めて容易いことであるから、そんな簡単なはずがないと疑うのだということです。信心を獲ることが難しいのではなく、その前の、阿弥陀仏の救い自体に大きな疑惑がおきて、それを拭い去ることができないから、「難信」になるのです。
現代的な言い方をするならば、

念仏を称えたくらいで仏になれる、そんなうまい話があるか

という疑いです。これは聖道門を信じている人たちの当然な疑問ですが、阿弥陀仏の救いを”正しく”聞いているはずの親鸞会会員の心でもあります。阿弥陀仏に救われたはずの高森会長の心でもあります。

逆の言い方をしますと、真実信心とは

念仏を称えただけで仏になれる、そんなうまい話が阿弥陀仏の救いだった

と疑いなく信じたことをいうのです。これを真っ向から批判する高森会長と会員に対して、「易往而無人」と説かれているのです。

教義も組織も破綻した親鸞会に留まって、

易往而無人」だから信心が獲られなくても当然だ、死んだら必堕無間でしかたがない

と思い続けたいのなら、どうぞ好きにしてください。

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2019年2月10日 (日)

元気な会員は高森顕徹会長に、「往生一定とハッキリするとは具体的に何がハッキリするのか」質問してみましょう。

高森顕徹会長の休みが長く続いていますが、我儘放題の会長の理不尽な要求に真生会病院の医師も疲弊していることでしょう。

さて、阿弥陀仏に救われるということがどういうことか、高森会長にも親鸞会の会員にも全く理解できないことでしょうが、歴代の善知識方は、高森会長の言うような奇妙奇天烈で摩訶不思議な体験をしたということをどこにも仰っていませんし、救われて判ることは極めて限定的なことだと仰っています。

『正信偈』にもあります、

われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲、倦きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり。

を読んでもそのことが普通なら判るはずです。

この元は、源信僧都の『往生要集』にあり、『教行信証』信巻にも引かれています。

またいはく、「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつるにあたはずといへども、大悲、倦きことなくして、つねにわが身を照らしたまふ」と。

(現代語訳)

また次のようにいわれている(往生要集)。
「わたしもまた阿弥陀仏の光明の中に摂め取られているけれども、煩悩がわたしの眼をさえぎって、見ることができない。しかし阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、そのようなわたしを見捨てることなく常に照らしていてくださる」

源信僧都と言えば、元は仏であったとご自身で仰ったと伝えられ、親鸞聖人もそのように仰っています。『高僧和讃』に

源信和尚ののたまはく
 われこれ 故仏とあらはれて
 化縁すでにつきぬれば
 本土にかへるとしめしけり

とある通りです。

仏であったとされる源信僧都でさえ、阿弥陀仏の光明の中にいることを見ることができないと仰っているのですから、流転輪廻の凡夫が、阿弥陀仏の光明を見ることができるなど、あり得ない話です。まして色も形もない阿弥陀仏のお姿を見ることもできないし、定善ができないのに浄土を見ることもできません。

前回のエントリーでも紹介した『執持鈔』にもあるように、「往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず」で、往生ということも凡夫に認識できる話ではありません。

では何が判るのかといえば、『執持鈔』のお言葉を使うなら「かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。」と、阿弥陀仏におまかせをしたことしか判らないのです。

このように言うと、

往生一定が判ると仰っているではないか!

との机上の空論でしか物の言えない高森会長と会員は反論するでしょうが、往生一定とは、浄土が判ることでも往生の概念が判ることでも阿弥陀仏が認識できることでもありません。

そのことについては二河白道の譬えが最も判りやすいでしょう。

行者が東の岸にいる時に、西の岸の方が仰ったことは、

なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ

です。その仰せに順って白道を進むのです。

この行者が判ったこととは、

この白道を進んで行ったら西の岸に確実に行くことができる

です。
ということは、

我々が阿弥陀仏の18願を信じて、阿弥陀仏におまかせをしたから、往生は一定である

ということになるのです。

つまり

往生一定=すべて阿弥陀仏におまかせをしたこと

です。

救われたのにハッキリしないはずがない!

と喚き散らす元気があるなら、高森会長に質問してみましょう。

往生一定とは、何がハッキリするのですか?
浄土が見えるのですか?
阿弥陀仏が見えるのですか?
阿弥陀仏の声が聞こえるのですか?
往生とはどんなことなのか判る智慧が授かったのですか?

高森会長は答えないでしょう。なお、二種深信にはこれらのことは入っていません。

今まで70年間、高森会長は往生一定がハッキリするとは言ってきましたが、具体的なことは何も説明してきませんでした。
具体的にどうハッキリするのか誰も聞いたことがありません。

その理由は、高森会長は何もハッキリしていないからです。

会員は現実を直視して、高森会長の信心を疑うべきです。

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2019年1月31日 (木)

善悪の生所を自分で定めた高森顕徹会長の自力の妄想

自力と他力の水際については、善知識方はいろいろな言い方で教えられていますが、今回は高森顕徹会長の知らない、言わない御文で説明します。

『執持鈔』には、親鸞聖人のお言葉として覚如上人が書かれたところがあります。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人(源空)の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。しかるにいま聖人の御化導にあづかりて、弥陀の本願をきき摂取不捨のことわりをむねにをさめ、生死のはなれがたきをはなれ、浄土の生れがたきを一定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず。たとひ弥陀の仏智に帰して念仏するが地獄の業たるを、いつはりて往生浄土の業因ぞと聖人授けたまふにすかされまゐらせて、われ地獄におつといふとも、さらにくやしむおもひあるべからず。

そのゆゑは、明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑにとなり。しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

(石田瑞磨著『親鸞全集 別巻』による現代語訳)

浄土に生れるという、これほどの一大事について、愚かなものがさかしらな才覚をめぐらしてはならない、ただ一すじに如来におかませしなければならない。総じて愚かなひとに限らず、次の世に仏となってあらわれることが約束された弥勒菩薩をはじめとして、仏の智慧の不思議になまじいの才覚をしてはならない。まして愚かなひとの浅はかな智慧には、当然許されない。ねんごろに如来の智慧のお誓いにおまかせをしなければならない。これを、仏にすべてを託した、真実の信心をえたひとというのである。

だから自分から、浄土に行くことができそうだとも、また地獄に堕ちるかもしれないとも、決めてはならない。なくなられた上人<黒谷の源空、法然上人のことばである>の仰せられた言葉として、「源空の生れるところへ行こうとお考えになってください」ということをたしかにうけたまわったうえは、たとえ地獄であっても、なくなられた上人のおいでになるところへ行かなければならない、と思うのである。このたび、もし正しい教えの師にお会いしないならば、わたしたち愚かなものはかならず地獄に堕ちるはずである。ところがいま、上人のお導きにあずかって、阿弥陀仏の本願を聞き、救いとってお捨てにならない道理を胸に収め、離れにくい生死の迷いを離れて、生れにくい浄土にかならず生れようと、心に深くたのむのは、けっしてわたしの力によるものではない。たとい、阿弥陀仏の智慧にすべてを託して念仏することが地獄に堕ちる行為でしかないのに、それをいつわって、「浄土に生れるための行為なのだ」、と上人がお教えになることにだまされて、わたしが地獄に堕ちるとしても、けっしてくやしく思うはずはない。

その理由は、智慧の勝れた師にお逢いしないで終ってしまうならば、かならず悪道に行くはずの身だから、というのである。ところが、正しい教えの師にだまされて悪道に行くならば、そのときはひとりで行くはずがない。かならず師と一緒に堕ちて行くだろう。だから、ただ地獄に堕ちるほかない、といっても、なくなった上人のおいでになるところへ参ろうと決心したのであるから、生れるさきの善し悪しはわたしのきめるところではない、というのである。これが自力を捨てて他力にすべてをまかせる姿である。

他力の信心について、最初の段と最後の段で明確に仰っています。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

往生について判るとか、死んだ後にどこに行くのか判るとか、そういうこととは正反対で、私が定めるようなことをせずにすべて阿弥陀仏におまかせをしたことを他力の信心だという説明をされています。

「地獄に堕ちたくないから、助けてください」では、阿弥陀仏に何もまかせていないのです。自分で地獄行きと決めつけ、浄土往きに変更してほしいと請求しているのです。阿弥陀仏にすべてをまかせるとは、死後にどこに行くかも完全にまかせることです。その行き先が判るのではなく、阿弥陀仏が連れて行ってくださるところ、あるいは善知識と同じところに行く、そこが仮に地獄であったとしてもおまかせします、ということ以上のことは何もないのが、他力の信心です。

高森会長が言っているような、救われたら地獄一定とハッキリ知らされる、極楽一定とハッキリ知らされる、などと思っているのを自力というのです。その間違った思いを捨てたのが、他力です。

高森会長が自力の信心を他力の信心と錯覚して、適当なことをいっていることは、親鸞聖人、覚如上人のお言葉で明々白々です。

ここまで言われて悔しいと憤る元気のある講師や会員は、いつでも反論のコメントを受け付けています。ただし、善知識方の仰ったお言葉を基にしたコメントにしてください。なお創作妄想のコメントは憐れみの心をもって拒否します。。

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2019年1月24日 (木)

親鸞聖人が「信後絶対に出ない」と仰った心に満ち溢れている高森顕徹会長

高森顕徹会長が言っている自力と他力の水際について、聖教に掛かれていることとかけ離れていることは、ちょっと調べれば判る話です。ところがマインドコントロールのよく効いている会員は、聖教にどうあるかなど関係なく、高森会長を妄信している状態です。

そこで今回は、高森会長の言っている自力と他力の水際が、どれほどぶれているかを説明します。

古い会員なら知っている教学短冊、教学テキストの中に「信後絶対に出ない心100」という問答がありました。

高森会長が自信を込めて「信後絶対に出ない心」と水際を具体例ではっきりさせたのですが、教学聖典に代わってからは、「信後絶対に出ない心100」がなくなりました。会員は必死になって覚えた内容がいとも簡単に削除されました。その理由は、

信後に出る心があったから

というものでした。私はそれを聞いて愕然としました。「信後絶対に出ない心」が「信後に出るものもある」になった、つまり水際が移動したのです。絶対に動かない水際だったはずが、簡単に動いたのです。

高森会長の「信後絶対に出ない心」の自信は何だったのか。

何のことはない、自力と他力の水際が高森会長の中では定まっていないだけのことのなのです。

ちなみに親鸞聖人は「信後絶対に出ない心」を仰っているところがあります。
『末灯鈔』に

金剛心をとりて候はんひとは、よも師をそしり善知識をあなづりなんどすることは候はじ

と仰っています。高森会長はこれを、信心決定した人に対して善知識を謗ってはいけないと親鸞聖人が禁じられたお言葉と言っていますが、高森会長は古文の基礎が欠落しているのです。この意味は、

信心決定した人は、決して師を謗ったり善知識を侮るようなことはしない

です。「信後絶対に出ない心」だと親鸞聖人は仰っているのです。

ここで高森会長自身のことを見てみると、高森会長は18才で信心決定したと宣言し、華光会の伊藤康善師を師匠、華光会へ導いてくれた増井悟朗師を善知識と仰いできましたが、親鸞会を設立するにあたって両師と絶縁をし、

伊藤康善師をそしり増井悟朗師をあなづりなんどすること

を平気でするようなりました。

親鸞聖人が「信後絶対に出ない心」と仰ったことが、高森会長には「つねに出ている心」なのです。

親鸞聖人と高森会長とどちらが正しいのでしょうか。

会員にそう尋ねると、会員は話をずらしてこのように返してきます。

退会者は救われたと言いながら、高森先生のことを謗っているではないか。

噴飯物の反論です。退会者にとって高森会長は師でも善知識でもありません。かなり贔屓目に見ても、親鸞聖人における比叡山でしょう。普通に考えたら、曇鸞大師における道教でしょう、

高森経を梵焼して楽邦に帰したまひき

親鸞聖人とは無関係な宗教を親鸞聖人の教えと信じている会員は、本当に憐れです。

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2019年1月18日 (金)

高森顕徹会長と親鸞会が萎み続ける中、永久に獲られることのない創作信心を追い求める哀れな会員

明後日の高森顕徹会長の話は、中止となりました。今後高森会長の直接の話を聞く機会は減るでしょうが、昨年12月に行われた高森会長の話を録画したものが、なんと破格値の1,800円で大バーゲンセール中です。

会員の手の届かない地位まで自らを祭り上げてきた高森会長ですが、厳しい懐具合に耐えきれず、”庶民的”なレベルまで自ら降りざるを得なくなったのでしょう。

教義も大人しくなって、このまま会長も法人も萎んでいくものと思われます。

さて、自力と他力のことがよく判らないまま、それらしい話を創作してきた高森会長ですが、聖教を読んだらその出鱈目ぶりに呆れるしかありません。

前回に引き続き、親鸞聖人が「よきひとびと」と仰って尊敬されていた隆寛律師の『自力他力事』について見てみます。

最後にこのようにあります。

たとへば腰折れ足なえて、わがちからにてたちあがるべき方もなし、ましてはるかならんところへゆくことは、かけてもおもひよらぬことなれども、たのみたる人のいとほしとおもひて、さりぬべき人あまた具して、力者に輿をかかせて迎へに来りて、やはらかにかき乗せてかへらんずる十里・二十里の道もやすく、野をも山をもほどなくすぐるやうに、われらが極楽へまゐらんとおもひたちたるは、罪ふかく煩悩もあつければ、腰折れ足なえたる人々にもすぐれたり。
ただいまにても死するものならば、あしたゆふべにつくりたる罪のおもければ、頭をさかさまにして、三悪道にこそはおちいらんずるものにてあれども、ひとすぢに阿弥陀仏のちかひを仰ぎて、念仏して疑ふこころだにもなければ、かならずかならずただいまひきいらんずるとき、罪といふ罪をばすこしものこることなく功徳と転じかへなして、無漏無生の報仏報土へ率てかへらせおはしますといふことを、釈迦如来ねんごろにすすめおはしましたることをふかくたのみて、二心なく念仏するをば他力の行者と申すなり。かかるひとは、十人は十人ながら百人は百人ながら、往生することにて候ふなり。かかる人をやがて一向専修の念仏者とは申すなり。おなじく念仏をしながら、ひとへに自力をたのみたるは、ゆゆしきひがごとにて候ふなり。

古文ではありますが、易しい文章ですので、概ね理解できるのではないかと思います。
腰折れ足なえたる人々」が「力者に輿をかかせて迎へに来りて、やはらかにかき乗せて」もらうことで「十里・二十里の道もやすく、野をも山をもほどなくすぐる」ことができます。そのように「罪ふかく煩悩もあつ」いわれらでも、「阿弥陀仏、目のまへにあらはれて、罪といふ罪をばすこしものこることなく功徳と転じかへなして、無漏無生の報仏報土へ率てかへらせおはします」のです。本来なら「三悪道にこそはおちいらんずるもの」ではありますが、阿弥陀仏のお力によって極楽に往生することができるのです。

ここまでは、三悪道と無間地獄の違いはあるにしても、親鸞会でも言っていることですが、問題はどうしたら極楽に往生できるのかです。

その答えは
ひとすぢに阿弥陀仏のちかひを仰ぎて、念仏して疑ふこころだにもなければ
釈迦如来ねんごろにすすめおはしましたることをふかくたのみて、二心なく念仏するをば他力の行者と申すなり
です。
共に、「念仏して」と「疑ふこころだにもなければ」「二心なく」という組み合わせになっています。
判りやすくいうと、念仏という行と疑いのないという信心が合わさって、ということです。念仏が必要条件として付いているところが、高森会長の話とは全く違うところです。

この次にどこかで聞いたことのある言葉が出てきます。

かかるひとは、十人は十人ながら百人は百人ながら、往生することにて候ふなり。

そう高森会長の好きな蓮如上人のお言葉、

一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら百人は百人ながら、みな浄土に往生すべきこと、さらに疑なし

です。

蓮如上人も「よきひとびと」である隆寛律師の『自力他力事』を愛読せられていたということです。
蓮如上人は「一念の信心定まらん輩」という言い方を確かにされてはいますが、そこには「念仏して」が含まれているのです。『御文章』だけでは信心と念仏との関係は判りにくいところがありますが、『正信偈大意』では、

「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」といふは、雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり。また専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。これすなはち、専雑二修の浅深を判じたまへるこころなり。

と仰っていまして、行と信心の関係を教えられています。「雑行雑修の機をすてやらぬ執心」が自力、「専修正行になりきはまるかたの執心」が他力です。簡単に言うと

自力の信心=雑行雑修に心がかかっている信心
他力の信心=念仏一行に心がなり極まった信心

です。『自力他力事』でいうなら、

他力=「念仏して疑ふこころだにもなければ」「二心なく念仏する

蓮如上人も同じことを仰っているのです。

隆寛律師も蓮如上人も念仏の抜けた他力の信心だという説明はないのです。
一方で高森会長は、念仏の抜けた他力の信心だと説明します。

この根本的な相違は、聖教を読んだら一目瞭然です。

高森会長の創作信心を獲ようともがいている会員は、永久に創作信心は獲られません。ないのですから。哀れ憐れ。

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2019年1月14日 (月)

親鸞聖人の御をしへを、ゆめゆめこころえざるひとにておはします高森顕徹会長

1月15日号の顕正新聞の論説には、先日の高森顕徹会長の話の内容がまとめられています。

今の真宗においては、専ら自力を捨てて他力に帰するをもって、宗の極致とする

という『改邪鈔』のお言葉から、自力と他力のことを問題としています。表現自体は間違いではないのですが、やはり根本的なことが判っていません。

親鸞聖人が問題とされている自力と他力の違いを曖昧にしか理解していないのでこの程度となるのも仕方がないでしょう。

自力他力と聞いて、ピンっとくるなら大したものでしょうが、親鸞聖人が関東の同行に宛てた手紙の中で、何度も推薦されている書に『自力他力事』があります。

親鸞会では聞いたことのない親鸞聖人一押しの書です。

たとえば『末灯鈔』の

さきにくだしまゐらせ候ひし『唯信鈔』・『自力他力』なんどのふみにて御覧候ふべし。それこそ、この世にとりてはよきひとびとにておはします。すでに往生をもしておはしますひとびとにて候へば、そのふみどもにかかれて候ふには、なにごともなにごともすぐべくも候はず。法然聖人の御をしへを、よくよく御こころえたるひとびとにておはしますに候ひき。さればこそ往生もめでたくしておはしまし候へ。

(現代語訳)

以前にお送りしました『唯信鈔』や『自力他力事』などの書物をご覧になってください。これらをお書きになった聖覚法印や隆寛律師こそ、 今の世のわたしたちにとっての善知識なのです。 すでに往生を遂げておられる方々ですので、 どのようなことであってもこれらの書物に書かれていることにまさるものは何一つあるはずがありません。 法然上人の教えを深く心得ておられる方々でした。 だからこそ、 往生もめでたく遂げておられるのです。

です。
他のお手紙でも『自力他力事』を読むように何度も勧められています。著者は親鸞聖人が「よきひとびと」とまで仰って大変に尊敬なされていた隆寛律師です。隆寛律師のことは高森会長が言及したこともないので、高森会長は隆寛律師のことも知らないのでしょうし、当然『自力他力事』という書の存在すら知らないと思います。

法然聖人の御をしへを、よくよく御こころえ」しかも「往生もめでたくしておはしまし候」隆寛律師の著わされた『自力他力事』を読むと、親鸞聖人が自力と他力の違いを同行にどのように教えられていたかが判ります。

『自力他力事』は、内容も判り易く短いので、皆さんがそのまま読まれても理解できると思います。

今回は『自力他力事』の肝心なところだけ説明します。

最初に

念仏の行につきて自力・他力といふことあり。これは極楽をねがひて弥陀の名号をとなふる人のなかに、自力のこころにて念仏する人あり。

とあります。自力と他力で問題とされているのは、念仏についてです。くどいようですが、親鸞聖人が関東の同行に読むように繰り返し勧められた『自力他力事』に書かれてあることは、念仏についての自力と他力の話です。
高森会長の話とは大いにずれがあります。

続いて自力の念仏についての説明です。

まづ自力のこころといふは、身にもわろきことをばせじ、口にもわろきことをばいはじ、心にもひがごとをばおもはじと、かやうにつつしみて念仏するものは、この念仏のちからにて、よろづの罪を除き失ひて、極楽へかならずまゐるぞとおもひたる人をば、自力の行といふなり。

身口意の三業で、「わろきこと」をしないようにして、「つつしみて」念仏することを、自力の念仏だと言われています。

対して他力の念仏は、

他力の念仏とは、わが身のおろかにわろきにつけても、かかる身にてたやすくこの娑婆世界をいかがはなるべき。罪は日々にそへてかさなり、妄念はつねにおこりてとどまらず。
かかるにつけては、ひとへに弥陀のちかひをたのみ仰ぎて念仏おこたらざれば、阿弥陀仏かたじけなく遍照の光明をはなちて、この身を照らしまもらせたまへば、観音・勢至等の無量の聖衆ひき具して、行住坐臥、もしは昼もしは夜、一切のときところをきらはず、行者を護念して、目しばらくもすてたまはず、まさしくいのち尽き息たえんときには、よろづの罪をばみなうち消して、めでたきものにつくりなして、極楽へ率てかへらせおはしますなり。
されば罪の消ゆることも南無阿弥陀仏の願力なり、めでたき位をうることも南無阿弥陀仏の弘誓のちからなり、ながくとほく三界を出でんことも阿弥陀仏の本願のちからなり、極楽へまゐりてのりをききさとりをひらき、やがて仏に成らんずることも阿弥陀仏の御ちからなりければ、ひとあゆみもわがちからにて極楽へまゐることなしとおもひて、余行をまじへずして一向に念仏するを他力の行とは申すなり。

とあります。
罪深い身でありながら、迷いの世界を離れることができるのは、「ひとへに弥陀のちかひをたのみ仰ぎて念仏おこたらざれば」「よろづの罪をばみなうち消して、めでたきものにつくりなして、極楽へ率てかへらせおはしますなり」とあります。
意味は読んだそのままで、阿弥陀仏の18願をたのみ仰いで怠らずに念仏すれば、極楽に連れていってくださる、ということです。

しつこいでしょうが、もう一度言いますと、親鸞聖人が関東の同行に読むように繰り返し勧められた書が『自力他力事』です。信前の同行が何をすベきか、という最も知りたい疑問に対して、「ひとへに弥陀のちかひをたのみ仰ぎて念仏おこたらざれば、極楽へ率てかへらせおはしますなり」という答えを親鸞聖人が示されているのです。

そして他力の念仏の最終的な説明を、「ひとあゆみもわがちからにて極楽へまゐることなしとおもひて、余行をまじへずして一向に念仏するを他力の行とは申すなり」とされています。

自力の念仏と他力の念仏の違いがここに鮮明に表現されています。

自力の念仏=「ひとあゆみもわがちからにて極楽へまゐるとおもひて」「余行をまじへて念仏する

他力の念仏=「ひとあゆみもわがちからにて極楽へまゐることなしとおもひて」「余行をまじへずして一向に念仏する

自力と他力の水際とは、これです。
因果の道理を信じよとか、善をしなければとか、信前に念仏称えても助からないとか、他力の念仏はお礼だから称えても称えなくても良いとか、高森会長がするような説明は全くないのです。

隆寛律師のことを親鸞聖人は「法然聖人の御をしへを、よくよく御こころえたるひとびとにておはします」と絶賛されていますが、高森会長のことを評するなら

親鸞聖人の御をしへを、ゆめゆめこころえざるひとにておはします

という以外にありません。

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2019年1月 7日 (月)

高森顕徹会長の薄っぺらい話で喜んでいる「おおよそ浅き会員は多く疑惑を生ぜん」

高森顕徹会長の今年の年頭所感は、タイトルを「念仏者は無碍の一道なり」としてあり、内容はと言うと『歎異抄をひらく』の文章を少し替えただけのものです。
ただ注目すベきは、絶対の幸福とは書いていないことです。昨年はあれだけ絶対の幸福の連発であったのに、今年は少し無難に纏めようとの意図があるのでしょう。

先日の話もそうですが、退会者の批判に神経質になっているのは間違いありません。

しかしながら、念仏に関しては相変わらず理解がお粗末で、『歎異抄をひらく』から進歩していません。

今回も自力の念仏と他力の念仏の違いについて、判ったふりして強調していますが、高森会長には根本が判っていないです。

親鸞聖人が自力の念仏についてどう仰っているのか、教えてあげます。

『正像末和讃』に

不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

仏智の不思議をうたがひて
 自力の称念このむゆゑ
 辺地懈慢にとどまりて
 仏恩報ずるこころなし

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

罪福ふかく信じつつ
 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆゑに
 方便化土にとまるなり

とあります。
自力の念仏とは、「如来の諸智を疑惑して」「罪福信じ」「仏智の不思議をうたがひて」「罪福信ずる」「罪福ふかく信じつつ」称える念仏のことです。

つまり
自力=仏智不思議を疑う=罪福信じる
ということで、因果の道理を信じて称える念仏が自力の念仏だと親鸞聖人は仰っているのです。

『教行信証』化土巻・真門釈にも

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。

とあります。

これが自力の念仏の根本なのです。

他力の念仏は、自力が微塵ほどもない念仏ですから、因果の道理を信じていない念仏ということです。

高森会長の嘘教義に毒されていると全く判らない話でしょうが、結論を言えば、因果の道理と18願とは相容れないのです。

最近は言いませんが、因果の道理を信じるように高森会長が話をすればする程、それを聞いた会員は自力に固執し他力に入れなくなるのです。

以上、自力の念仏と他力の念仏の違いで説明しましたが、それがそのまま信心の違いです。

念仏称えて助かるなんていうのは(因果の道理に反しているから)間違いだ、というのが自力の信心。
念仏称えて助かるというのは(因果の道理に反しているので)正しい、というが他力の信心です。

そんな上手い話があるか、馬鹿にするな!

と思うのが自力の信心です。

親鸞聖人は『教行信証』信巻に、律宗でありながら浄土教を信奉していた中国南宋の僧侶の言葉を引かれて

律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』に〈易往而無人〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」と。

と他力の信心を説明されています。凡夫が聖者になるのは、掌を返すように大いに簡単なことであるから、それを疑うのだということです。
念仏称えたくらい簡単なことで助かるなんてことがあるか、というのが因果の道理を信じている自力です。
他力の信心とは、掌を返すように簡単に称えることのできる念仏で助けてくださるとは、阿弥陀仏の18願はなんと素晴らしいことか、という信心です。

自力の信心で、自力と他力の違いを判ったふりして説明しても、すぐにボロが出るのです。

薄っぺらい高森会長の話で喜んでいるうちは、「おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん」の状態を脱することは不可能です。

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2018年11月11日 (日)

自分が獲てもいない空想妄想創作信心を偉そうに説明する高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話は、

「死んだらどうなるか分からない心」が救われたなら「往生一定」の身になる

ということを中心に話をしていました。
正しいことを言っているのではないかと思う会員や退会後間もない人があるかもしれませんが、大いに間違っています。

死んだらどうなるか分からない心」は、救われても変わりませんし、「往生一定」は「死んだらどうなるか分かる心」ではりません。

まず二種深信の法の深信で説明します。

親鸞会でも引用される『教行信証』の信巻にだけある

二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。

ですが、これは簡単に言い換えると「願力に乗ったなら必ず往生できる」と深信することとです。「願力に乗ったなら」です。これなしの「必ず往生できる」ではないです。

もう一つの法の深信は『教行信証』の行巻と信巻の二か所に引かれています。

いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。

これを簡単に言い換えると、「念仏によって必ず往生できる」と信知することです。「念仏によって」が付いた「必ず往生できる」です。

以上は善導大師から引かれた文ですが、親鸞聖人ご自身のお言葉で言うなら、『末灯鈔』の

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

です。「念仏を称えたならば極楽へ往ける」と深く信じたことです。ここでも「念仏を称えたならば」がついていて、「極楽へ往ける」だけではありません。

『歎異抄』でいうと第2条の

ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり

は、「ただ念仏して阿弥陀仏に助けられる」と信じる以外にないです。ここにも「ただ念仏して」が付いています。

判る人には判ると思いますが、「願力に乗ったなら」「念仏称えたら」という条件を満たしたら「必ず往生できる」「極楽に往ける」のであって、前提の条件なしの話ではありません。要するに、往生の条件について深信した、信知したことを法の深信というのです。

会員からすれば、何を言っているんだと憤慨する内容でしょうが、では二河白道の譬えで説明しましょう。阿弥陀仏の喚び声を聞いて信心を獲た行者はどうなったかといえば、白道を進んでいったなら、必ず西の岸である浄土に往けると信じて進んで行っただけです。

もう一度言いますと、白道は間違いなく西の岸に続いているので、白道を進んで行けば必ず西の岸に行けると信じて進むのです。条件なしで西の岸に行けるとハッキリしたのではなく、この道を進んで行ったなら必ず西の岸に行けるとハッキリしたのです。これが「往生一定」ということです。

高森会長の話に戻ると、「死んだあとどうなるか分かる」のではなく、「念仏往生の願を深く信じたならば死んだあとは阿弥陀仏が浄土に連れて行ってくださると誓っておられるので浄土に往けると分かる」ということです。

自分が獲てもいない空想妄想創作信心の高森会長を信じていると、長い求道は幻と消えます。

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2018年10月28日 (日)

曇鸞大師の体験談を全否定する高森顕徹会長の謗話

本日の高森顕徹会長の話は、いつものように念仏否定の教えでした。

親鸞聖人の教えについて、学校の教科書では「念仏称えたら極楽浄土に往ける」とあるが間違いだ

今朝の西本願寺のラジオ放送でも「念仏称えたら極楽浄土に往ける」と間違ったことを言っていた

と宣っていました。報恩講の時と何ら変わり映えのしない妄想を垂れ流しています。

結論は、

親鸞聖人 念仏を称えて極楽浄土に往生できると深く信じたことを他力の信心という
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高森会長 念仏を称えて極楽浄土に往生できるというのは間違い

なのです。
その根拠はたくさんあり、いくつか紹介もしてきましたが、高森会長お得意の『歎異抄』で信心の内容を言うなら、

往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころ

ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずる

であり、「念仏よりほかに往生のみち」はないと信じた心です。

三願転入だの19願だのと煩いのに、念仏を排斥する高森会長は、聖道門よりも酷いです。

念仏称えて極楽浄土に往く、が浄土門の基本ですので、それを否定したら日蓮系と同じです。

信心を獲ていない人に対しての念仏の扱いについて、獲信者の体験談を親鸞聖人、蓮如上人のお言葉で紹介されているので、それを示しておきます。
それは曇鸞大師の体験です。蓮如上人の『正信偈大意』が最も詳しいです。

「三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦」といふは、かの曇鸞大師、はじめは四論宗にておはせしが、仏法のそこをならひきはめたりといふとも、いのちみじかくは、ひとをたすくることいくばくならんとて、陶隠居といふひとにあうて、まづ長生不死の法をならひぬ。すでに三年のあひだ仙人のところにしてならひえてかへりたまふ。そのみちにて菩提流支と申す三蔵にゆきあひてのたまはく、「仏法のなかに長生不死の法は、この土の仙経にすぐれたる法やある」と問ひたまへば、三蔵、地につばきを吐きていはく、「この方にはいづくのところにか長生不死の法あらん、たとひ長年を得てしばらく死せずといふとも、つひに三有に輪廻すべし」といひて、すなはち浄土の『観無量寿経』を授けていはく、「これこそまことの長生不死の法なり、これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし」とのたまへば、曇鸞これをうけとりて、仙経十巻をたちまちに焼きすてて、一向に浄土に帰したまひけり。

菩提流支が信前の曇鸞大師に対して何を勧められているでしょう。

これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし

言い換えると

念仏を称えたなら極楽浄土に往くことができる

と菩提流支が信前の曇鸞大師に勧められて、「曇鸞これをうけとりて、一向に浄土に帰したまひけり」で、曇鸞大師は信心を獲られたということです。

まとめ。

念仏を称えたなら極楽浄土に往くことができる、と教えられて信心を獲る

では、思考力のある方に質問です。

念仏を称えたなら極楽浄土に往くことができるが間違い、と教えられて信心が獲られますか?

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