異安心

2018年11月11日 (日)

自分が獲てもいない空想妄想創作信心を偉そうに説明する高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話は、

「死んだらどうなるか分からない心」が救われたなら「往生一定」の身になる

ということを中心に話をしていました。
正しいことを言っているのではないかと思う会員や退会後間もない人があるかもしれませんが、大いに間違っています。

死んだらどうなるか分からない心」は、救われても変わりませんし、「往生一定」は「死んだらどうなるか分かる心」ではりません。

まず二種深信の法の深信で説明します。

親鸞会でも引用される『教行信証』の信巻にだけある

二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。

ですが、これは簡単に言い換えると「願力に乗ったなら必ず往生できる」と深信することとです。「願力に乗ったなら」です。これなしの「必ず往生できる」ではないです。

もう一つの法の深信は『教行信証』の行巻と信巻の二か所に引かれています。

いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。

これを簡単に言い換えると、「念仏によって必ず往生できる」と信知することです。「念仏によって」が付いた「必ず往生できる」です。

以上は善導大師から引かれた文ですが、親鸞聖人ご自身のお言葉で言うなら、『末灯鈔』の

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

です。「念仏を称えたならば極楽へ往ける」と深く信じたことです。ここでも「念仏を称えたならば」がついていて、「極楽へ往ける」だけではありません。

『歎異抄』でいうと第2条の

ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり

は、「ただ念仏して阿弥陀仏に助けられる」と信じる以外にないです。ここにも「ただ念仏して」が付いています。

判る人には判ると思いますが、「願力に乗ったなら」「念仏称えたら」という条件を満たしたら「必ず往生できる」「極楽に往ける」のであって、前提の条件なしの話ではありません。要するに、往生の条件について深信した、信知したことを法の深信というのです。

会員からすれば、何を言っているんだと憤慨する内容でしょうが、では二河白道の譬えで説明しましょう。阿弥陀仏の喚び声を聞いて信心を獲た行者はどうなったかといえば、白道を進んでいったなら、必ず西の岸である浄土に往けると信じて進んで行っただけです。

もう一度言いますと、白道は間違いなく西の岸に続いているので、白道を進んで行けば必ず西の岸に行けると信じて進むのです。条件なしで西の岸に行けるとハッキリしたのではなく、この道を進んで行ったなら必ず西の岸に行けるとハッキリしたのです。これが「往生一定」ということです。

高森会長の話に戻ると、「死んだあとどうなるか分かる」のではなく、「念仏往生の願を深く信じたならば死んだあとは阿弥陀仏が浄土に連れて行ってくださると誓っておられるので浄土に往けると分かる」ということです。

自分が獲てもいない空想妄想創作信心の高森会長を信じていると、長い求道は幻と消えます。

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2018年10月28日 (日)

曇鸞大師の体験談を全否定する高森顕徹会長の謗話

本日の高森顕徹会長の話は、いつものように念仏否定の教えでした。

親鸞聖人の教えについて、学校の教科書では「念仏称えたら極楽浄土に往ける」とあるが間違いだ

今朝の西本願寺のラジオ放送でも「念仏称えたら極楽浄土に往ける」と間違ったことを言っていた

と宣っていました。報恩講の時と何ら変わり映えのしない妄想を垂れ流しています。

結論は、

親鸞聖人 念仏を称えて極楽浄土に往生できると深く信じたことを他力の信心という
----------------------------------------------------------------------
高森会長 念仏を称えて極楽浄土に往生できるというのは間違い

なのです。
その根拠はたくさんあり、いくつか紹介もしてきましたが、高森会長お得意の『歎異抄』で信心の内容を言うなら、

往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころ

ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずる

であり、「念仏よりほかに往生のみち」はないと信じた心です。

三願転入だの19願だのと煩いのに、念仏を排斥する高森会長は、聖道門よりも酷いです。

念仏称えて極楽浄土に往く、が浄土門の基本ですので、それを否定したら日蓮系と同じです。

信心を獲ていない人に対しての念仏の扱いについて、獲信者の体験談を親鸞聖人、蓮如上人のお言葉で紹介されているので、それを示しておきます。
それは曇鸞大師の体験です。蓮如上人の『正信偈大意』が最も詳しいです。

「三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦」といふは、かの曇鸞大師、はじめは四論宗にておはせしが、仏法のそこをならひきはめたりといふとも、いのちみじかくは、ひとをたすくることいくばくならんとて、陶隠居といふひとにあうて、まづ長生不死の法をならひぬ。すでに三年のあひだ仙人のところにしてならひえてかへりたまふ。そのみちにて菩提流支と申す三蔵にゆきあひてのたまはく、「仏法のなかに長生不死の法は、この土の仙経にすぐれたる法やある」と問ひたまへば、三蔵、地につばきを吐きていはく、「この方にはいづくのところにか長生不死の法あらん、たとひ長年を得てしばらく死せずといふとも、つひに三有に輪廻すべし」といひて、すなはち浄土の『観無量寿経』を授けていはく、「これこそまことの長生不死の法なり、これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし」とのたまへば、曇鸞これをうけとりて、仙経十巻をたちまちに焼きすてて、一向に浄土に帰したまひけり。

菩提流支が信前の曇鸞大師に対して何を勧められているでしょう。

これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし

言い換えると

念仏を称えたなら極楽浄土に往くことができる

と菩提流支が信前の曇鸞大師に勧められて、「曇鸞これをうけとりて、一向に浄土に帰したまひけり」で、曇鸞大師は信心を獲られたということです。

まとめ。

念仏を称えたなら極楽浄土に往くことができる、と教えられて信心を獲る

では、思考力のある方に質問です。

念仏を称えたなら極楽浄土に往くことができるが間違い、と教えられて信心が獲られますか?

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2018年10月14日 (日)

親鸞聖人の教えに無知で正反対の信心を自慢する高森顕徹会長と愉快な仲間達

昨日と本日は親鸞会の報恩講でした。昨日には里見浩太朗氏が会館に来て、自分の生い立ち話と歌を披露し、帰り際に社交辞令の言葉を残していきました。

具体的に、高森顕徹会長の話のここが良かったと言わず、また親鸞聖人の教えの素晴らしさが判ったとか、絶対の幸福になりたいとか言えないところが、高森会長の与太話を物語っています。
さて、親鸞会は里見浩太朗氏を広告に使っただけであるのは、言うまでもありません。これまでの”有名人とお友達になりたい”作戦と何ら変わりがありません。
もちろん親鸞聖人の教えを、命がけで伝えようなどという考えは、欠片もないです。

さて、今回は『歎異抄』第1条の

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

を使って話をしていました。

ここに信心と念仏とが表現されていますが、高森会長の説明は

「往生できると明らかになり」
「念仏称えようと思い立った」
「摂取不捨の幸福にして頂く」
の3つが同時に起こる

というものでした。
これを高森流の言葉で簡潔に言うと、

信心を獲て絶対の幸福になった後に念仏を称える

ということです。
要するに、信心と念仏は別で、信心とは悟りに近い何か特別なものを阿弥陀仏から頂く、としか理解できていないのです。

その証拠に、高森会長は本日、

かつての教科書には、念仏を称えると極楽浄土に生まれることができると親鸞聖人は仰ったと書かれてあったが、それは間違いである

と言っていることです。

これまで幾度も述べてきましたが、親鸞聖人が仰る他力の信心とは、

念仏を称えると極楽浄土に生まれることができると深く信じた心

ということです。その根拠で最も判りやすいのが、『末灯鈔』の

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。

です。
『歎異抄』でいう「弥陀の誓願」とは、「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる」です。
念仏を称えると極楽浄土へ迎えてくださると誓われているので、高森会長が間違いだと言っていることが間違いなのです。
他力の信心とは、「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じて」「念仏往生とふかく信じて」です。
前々回述べた法の深信で言うなら、

いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して

念仏によって極楽浄土に生まれることができると信知したことを法の深信と親鸞聖人が仰っているのです。

つまり、高森会長が信じていること、信知していることは、親鸞聖人とは正反対です。

まとめると

親鸞聖人 念仏を称えて極楽浄土に往生できると深く信じたことを他力の信心という
----------------------------------------------------------------------
高森会長 念仏を称えて極楽浄土に往生できるというのは間違い

なお、以上では納得できない思考停止の愚か者のために他の根拠を出すと、
『唯心鈔文意』に

ひとへに御なをとなふる人のみ、みな往生すとのたまへるなり

とあり、また『尊号真像銘文』に

安養浄土の往生の正因は念仏を本とす

御名を称するはかならず安楽浄土に往生を得るなり

ともあります。これだけではなく、まだ同じような根拠はありますが、思考停止の頭では混乱するだけでしょうから、今回はこの程度にしておきます。

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2018年9月15日 (土)

親鸞会で切れ者と思われる人物でも、実は大したことないという実例を通しての国語の授業です

今日は、高森顕徹会長の側近で、親鸞会の中では切れ者と思われていて、しかも文章を書くことを任務としているW氏でも、国語の能力に問題があった実例を通して、授業をします。

それは4年前にあった法論で、全文は以下にあります。

「宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)へ」
http://shinrankaidakkai.hatenablog.com/entry/2014/07/29/162012

名前を「ゼロ」とか「JB」と名乗っていますが共にW氏です。
論点の中心は、

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

について「まことに知んぬ」がどういう意味なのかについてでした。

文法から言うと、「まことに知んぬ」は「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」と「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す」の両方にかかっています。これは説明するまでもないことですよね。
まさか、「まことに知んぬ」は「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」にはかかっていない、というなら落第です。

W氏は、文を書いているだけに、流石にそれを認めざるをえなくなり、苦し紛れに書いたコメントから最終結論までを以下に抜粋します。

JB

宮田教の信者の言語はほんとに凄いですね(笑)
念のため日本語と比較しておきましょうか。

■宮田語基礎講座■

【1】

昨年、A君がインフルエンザにかかって、とてもつらい思いをした。(A)
今年、私もインフルエンザにかかり、とてもつらかった。(B)

(A)と(B)は、ともに断言していますが、同じレベルの断言でしょうか、違うレベルでしょうか? 正しいと思う方の( )に○を入れてください。

(答え)

1:同じ(○)
2:違う( )

【2】

Mくんは3年間の勉強の末、T高校に合格して、春から高校生になる。
(C)
私は、喜ばしいことに、中高一貫校だから、すでに高校進学が決まっている。
(D)

(C)の文章と(D)の文章と、より言いたいことはどちらの文章でしょう?
正しいと思う( )に○を入れてください。

1:C( )
2:D( )
3:どちらも同じくらい言いたい(○)

【3】

「断定文」は「疑問文」である。

【4】

「まことに知んぬ」は、「信じるに過ぎない」という意味である。

■日本語基礎講座■

【1】

昨年、A君がインフルエンザにかかって、とてもつらい思いをした。(A)
今年、私もインフルエンザにかかり、とてもつらかった。(B)

(A)と(B)は、ともに断言していますが、同じレベルの断言でしょうか、違うレベルでしょうか? 正しいと思う方の( )に○を入れてください。

(答え)

1:同じ( )
2:違う(○)他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。

【2】

Mくんは3年間の勉強の末、T高校に合格して、春から高校生になる。
(C)
私は、喜ばしいことに、中高一貫校だから、すでに高校進学が決まっている。
(D)

(C)の文章と(D)の文章と、より言いたいことはどちらの文章でしょう?
正しいと思う( )に○を入れてください。

1:C( )
2:D(○) 「C]の文章は、引き合いに出して比較したもの。
3:どちらも同じくらい言いたい( )

【3】

「断定文」が「疑問文」になることは決してない。

【4】

「まことに知んぬ」が、「信じるに過ぎない」という意味にはならない。

=============================

※義務教育をちゃんと受けた人は誰でも分かることですよね。
 宮田教の信者さんからすると驚かれるかもしれませんが!

宮田語しか分からない人には、

> 宮田さんの主張は、誰が読んでも良く分かります。
>
> でも、ゼロさんの言っていることは、チンプンカンプンなのです。

となるでしょう。お気持ちよく分かります。

ですが、『教行信証』をはじめ、親鸞聖人のご著書が、宮田語で書かれているという説は見たことがないですね。(当たり前・笑)

「真に知んぬ」が、弥勒菩薩のことと、念仏の衆生と同等だと主張するのは、

宮田教内部にしか通用しない理屈です。日本語で、他人のことと自分のことを同じレベル

で、「本当だったと知らされた」などありえませんから!(【1】参照)

なので、ゼロさんも前に書いていたとおり、弥勒菩薩は、比較の対象として

引き合いに出されただけで、メインではないのです。

これも日本語基礎講座【2】にあるとおりで、普通の日本人なら皆、分かる

ことなので、逆にいえば、宮田語しか分からない人には毛頭わからないことですね。

なので、お互い言語が違うとしかいいようがないです。

★反論があるなら、【1】~【4】について、宮田語のほうが正しいという

国語辞典なりの根拠をお示しくださいな(^^)

まったくもって、法論レベルまでいかない人たち相手に、ゼロさんも忍耐で

がんばられたことと思います!

もう、これ以上はどれだけ頑張っても、宮田教の信者さんたちには理解不能だと思いますね、ハッキリいってこれらの人は、言語が違うのですから。

> 2.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、仏の智慧を以ってしか断言できないことであるので、親鸞聖人御自身が智慧を体得せられて知らされたのではない。
> >
> >は、そうでしょうね。

については、まだ話が早いと思いましたので、とりあえず、善意に解釈した上で、「そうでしょうね」とぼかした返事にしておきました。

厳密にいうと、「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は【仏】にならないと本当の意味で分からないことです。

親鸞聖人は、南無阿弥陀仏の智恵をいただかれ、仏説まこと、仏語に虚妄なしと知らされたことです。

そういう意味では、

2.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、成仏しないと断言できないことであるので、親鸞聖人御自身がハッキリと知らされたのではない。
>
となります。

つまりゼロさんと同じ意味と理解しておりますが? いつもの調子で「ゼロさんと違う!」という妄想が多いですね、宮田教の人々は。

まとめると

「真に知んぬ」は、まことだったとハッキリ知らされること(「信じるに過ぎない」という意味は日本語にない)ですから、

その内容は、日本語の基礎、【1】【2】に基づき「念仏の衆生は~」のお言葉にかかっている。

「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」も【1】【2】の日本語の大前提にもとづき、

ご自身のことではありませんから、まことだったとハッキリ知らされたわけではない。

(※もう少し詳しく解説しますと、これは日本語レベルを超えて教学が必要となりますが、「仏語に虚妄なし」と知らされたお言葉)

これが中学生レベルでもわかる文章の構造です。ごくフツーです。

自分の体験や、自分の都合に合わせてよむと、「真に知んぬ」が「信じるに過ぎない」とまでなってしまうので驚きです!

これが宮田教の教義。

じゃあ、

「まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり」

などはどうなるんだ!こんな教学的なことがハッキリ知らされるのか!と叫びたいのが宮田教の信者さんでしょうから、これも答えておきますね。

親鸞聖人は、弥陀に救われた体験に裏付けられた教えを明らかにされて書いておられるのです。
だから、「まことに知んぬ」なのです。

「まことに知んぬ」に、「信じるに過ぎない」という意味がない大原則は変わりようがありません。

もし「信じるに過ぎない」なら、「思う」「味わう」などの表現をなされるはずです。日本語を無視なされるはずがありません。

それでも、納得されないのでしたら、親鸞聖人は、そのお言葉を読まれて、「お聖教にあるから信じよう」と思われたのですか?

根拠を示してください。なるほど、パッと拝読して、このお言葉とピッタリ同じだな、というお聖教のお言葉です。

★もし、そのようなご文がないのに「お聖教にあるから信じよう」とはなられないですから。

パッと拝読しても、私たちにはそうは読めないところを、聖人は、体験を通して知らされたのです。
そうでないと、「まことに知んぬ」の強烈な断言はできません。
(あ、日本語では、強烈な断言なんですよ、「まことに知んぬ」は。信じるに過ぎないのは、宮田語ですからね)

★根拠を示せなければ、あなたの妄想ということになりますね。
(きっと、ここを無視して、好き勝手なことをいうのでしょうけれど、根拠がなければ、どんなに強がっても、
 自信いっぱいに見せかけても【ムダ】ですからね。
 根拠なく騒げば騒ぐほど、痛いところを突かれたことが丸分かりになるということを教えてあげておきましょう)

あと、「浄土往生できることは弥勒菩薩でも分かられないのに、凡智で分かるのか!」といまだに言っている人がありますが、

凡智で分かるなどと、ゼロさんがいつそんなことを言われましたでしょうか?

凡智では分からないけれど、南無阿弥陀仏の智恵で分かるとハッキリ書かれてますでしょう。

そうすると今度は、「仏さまになったのか」と宮田教の信者さん理解しますが、あまりにも極端ですね。

「南無阿弥陀仏の智恵」をいただくのであって、仏になることとは違います。

「令諸衆生」の仏智満入して不成の迷心を他力より成就して、「願入弥陀界」の往生の正業成ずるときを、「能発一念喜愛心」とも、「不断煩悩得涅槃」とも、「入正定聚之数」とも、聖人釈しましませり。これすなわち「即得往生」の時分なり。(改邪鈔)

とあるように、仏智満入して信心決定するのです。(でも仏になったのではありません)

宮田教では、仏智満入しないのでしょうか?

もし、「仏智満入する」と言ったとしても、独自の解釈をして、【満入】の意味と正反対の理解をしてそうですけどね。

大体、想像つくというもの。
(満入しても、満ちない、入ってない、とか。かな? 日本語の正反対な理解が得意ですものね、宮田教の皆さんは)

「仏心と凡心と一つになるところをさして、信心獲得の行者とはいふなり」
                          (御文章 二帖目第九通)

仏心と凡心がひとつになるから、仏心のお働きで、凡夫にも「往生一定」とハッキリするのです。(でも、仏になったのではありません。正定聚の菩薩になったのです)

それは、浄土がアリアリと見えるのでもなければ、仏が見えるのでもありません。文字通り、浄土へ往生できることがハッキリ(一定)するのです。
それ以上でも以下でもありません。

これも、宮田教の人たちは、根拠のない解釈をして、
「仏心と凡心と一つになったら、心じゃなくなる」、とかいう珍釈でしょうか?

ちょっと、ここはまだ、あなた方の妄想を破るには字数が足らないかも知れませんね。
将来、分かる日がくることを念じておきますね。

紅楳英顕氏の根拠を出したこと自体に、何か凄く反応してますけど、

「紅楳英顕氏【でさえ】分かっていることが、宮田教の人々には分かってない」

という意味で出されているのは明らかではないですか。

宮田教の人々には、その流れが分かってないようですが、

日本語が分かる人には誰でもわかることです。分からないのは、宮田教信者の証です。

分かるのは、普通の日本人。

ちなみに、「信じるに過ぎない」なら、「自覚する」の言葉は出てきようがないんじゃないですか?

紅楳英顕氏があれほど「自覚」「確信」を連発していますが、それでもこの場合は、「自覚」「確信」と言っていいなんて、それこそ【詭弁!】ですね。

間接的、それっぽい反論はたくさんしてくるでしょうが、直接的な反論はきっとムリでしょうね。

本願寺とも違う、宮田教の珍しき解釈、ということがここで明らかになっているのです。
別に紅楳英顕氏を敬ってのことでないのは、日本人なら誰でも理解できるゼロさんの文章です。

まあ、これが最後かも知れないと思ってたくさん書かせてもらいました。

本当なら、もっと議論をしたかったのですが、いかんせん言語が違うとこれ以上どれだけやりとりしても、進展は望めませんからね。
残念です。

日本語が理解できるようになったら、またお話しするかもしれませんが、それまでは議論は無理ですね。

すでに、【1】~【4】をもとに説明しましたが、宮田語しか解せない方々には、とても受け入れられなかったでしょう?

言語が違うからです。

では、以下の理解ができるようになったら連絡ください。
それまでは「議論不可能」というのが私の結論です。

だって、文法も単語の意味も違うのですから。

どれだけ、煽ったり、あざけっても【ムダ】ですから、そんな時間があったら、日本語の勉強してくださいね。

以下の【1】~【4】の日本語が理解できるようになったら連絡ください。

もしくは、宮田語辞典などがネットや書店で購入できるようでしたら、教えてくださいな。
興味あるので勉強してみます。
ないのなら、議論は残念ながら不可能ということです。

★議論したいのなら、【1】~【4】の日本語が理解したむねを伝えるか、宮田語辞典の存在を教えてください!

その他、どれだけ煽ってもムダです。

■日本語基礎講座■

【1】

昨年、A君がインフルエンザにかかって、とてもつらい思いをした。(A)
今年、私もインフルエンザにかかり、とてもつらかった。(B)

(A)と(B)は、ともに断言していますが、同じレベルの断言でしょうか、違うレベルでしょうか? 正しいと思う方の( )に○を入れてください。

(答え)

1:同じ( )
2:違う(○)他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。

【2】

Mくんは3年間の勉強の末、T高校に合格して、春から高校生になる。
(C)
私は、喜ばしいことに、中高一貫校だから、すでに高校進学が決まっている。
(D)

(C)の文章と(D)の文章と、より言いたいことはどちらの文章でしょう?
正しいと思う( )に○を入れてください。

1:C( )
2:D(○) 「C]の文章は、引き合いに出して比較したもの。
3:どちらも同じくらい言いたい( )

【3】

「断定文」が「疑問文」になることは決してない。

【4】

「まことに知んぬ」が、「信じるに過ぎない」という意味にはならない。

=============================

では、【1】~【4】の勉強、がんばってください!

JB

ちょっと修正

それでも、納得されないのでしたら、親鸞聖人は、【どのお言葉】を読まれて、「お聖教にあるから信じよう」と思われたのですか?

根拠を示してください。なるほど、パッと拝読して、このお言葉とピッタリ同じだな、というお聖教のお言葉です。

id:shinrankaiuso

ではもう1つ教えてあげましょう。

「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」

について
**********************************************
【1】

昨年、A君がインフルエンザにかかって、とてもつらい思いをした。(A)
今年、私もインフルエンザにかかり、とてもつらかった。(B)

(A)と(B)は、ともに断言していますが、同じレベルの断言でしょうか、違うレベルでしょうか? 正しいと思う方の( )に○を入れてください。

(答え)

1:同じ( )
2:違う(○)他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。
**********************************************

これを往生即成仏について言い換えてみると

**********************************************
【1】

昨年、A君が臨終に往生し即成仏した。(A)
今年、私も往生が定まり、臨終に往生し即成仏する。(B)

(A)と(B)は、ともに断言していますが、同じレベルの断言でしょうか、違うレベルでしょうか? 正しいと思う方の( )に○を入れてください。

(答え)

1:同じ( )
2:違う(○)他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。
**********************************************

こうなりますが如何ですか?

「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」

主語は「念仏の衆生は」

つまり、私だけでなく、A君とその他多くの人が含まれる。

もう一度答えは、

2:違う(○)他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。

でしょ。

愚かですね。

それと、「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」と七高僧も聖覚法印も仰っていない。
知らされ方が違うんですよ。

id:shinrankaiuso

鈍いJBさんのためにもう少し説明

「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」

これをインフルエンザに置き換えると、

「インフルエンザにかかった人は、とてもつらい」

わかりましたか?

他人の体験も含まれています。

id:shinrankaiuso

JBさんの日本語講座を受講して以下のことが真に知らされました。

「他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。」

親鸞聖人以外の念仏の衆生の体験は、自覚はできない。親鸞聖人御自身の体験は自覚している。だから違う。

親鸞聖人の「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」を分りやすく言うと、

 私以外の念仏の衆生について、臨終に往生即成仏できると自覚できない。
 私の体験は自覚している。
 だからこの2つは違うが、一緒に「真に知んぬ」

このように真に知らされました。

id:shinrankaiuso

一応解説しておくと、「弥勒大士は…」を出されたのは、聖道門での成仏と18願での成仏を比較されるため。

よって

真に知らされた、聖道門では弥勒菩薩でさえ成仏するのに五十六億七千万年かかるのに、18願の救いは臨終に成仏できる。

親鸞聖人の個人的な体験を仰ったのではなく、教義解釈についての話です。

往生即成仏と、経典にもなく、七高僧方も仰っていないが、論理的にそうならないとおかしいと真に知らされた

これがこの御文の意味。自覚の問題ではないから、七高僧方と違ったことを仰っていても、信心が同じかどうかには関係しない話。

JB

おはようございます。

shinrankaiusoさん、遅くまで詭弁を展開していただき有難うございます。

でも、その努力は日本語習得のために使ってほしいものですね。

宮田さんもshinrankaiusoさんと同じ意見でしょうか?

この先の二つのコメントについてです。

日本語について少し触れてきましたので、今回はお答えしようと思っていますが、宮田さんの意見を聞いてからにしたいと思います。

あと、私の言葉遣い云々についてのコメントがいくつかありますね。

これについては、もう少し落ち着いてからお話ししようと思っていましたが、ちょっとだけ話しておきましょう。

言葉遣いのまずさは、自分や自分の仲間に関してはなかなか気づかないものです。特に反対意見を述べているときには。
そして議論をかわしているときには、あまりお上品にもやっておれませんので、ある程度、激しくなることはやむをえないものもあるでしょう。

ですが、度を越してはなりません。

例えば、たびたび取り上げられるこのような言葉です。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。
>
> 何度でも言ってやるよ 馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿
> 馬鹿を誹謗したところで功徳になりすれ、悪にはならないから
>
> 。。。。。。。。。。。。。。。。。。
>
> 高森教の邪義しか聞いていないゼロさんのことですから、「二つの心が同時に起こる。」などと、
> ど~せトンデモナイ説明で済ますんでしょうけどね。
> そんな人が実際にいたら、それこそ“【精神病患者】”ですよ。
>
> 。。。。。。。。。。。。。。。。。。
>
> 二千年かけて、どうぞ“無間地獄”に堕ちていって下さい。
>
> 。。。。。。。。。。。。。。。。。。

特に世間一般にみて、【精神病患者】発言は看過さるべきではものではないですね。
見てみぬふりをしては同罪になってしまいます。
管理人である宮田さんは、この発言についてどう思われますか?

このことについてはお尋ねしたく思います。

通りすがりさんは、通りすがりのわりに何度も通られるのですね(笑)
そして第三者の目で見て、【精神病患者】は問題なしだそうですが、一体どこの国の第三者の目なのでしょうね。

朝から笑いを提供してくださり有難うございました。

id:shinrankaiuso

おはようございます、笑いを提供しておきます。

JBさんの日本語基礎講座受講を踏まえて整理し直しました。

1.「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」と七高僧は、仰っていない。(親鸞聖人とは異なる知らされ方)

2.親鸞聖人以外の念仏の衆生の体験について、親鸞聖人は自覚できない。親鸞聖人御自身の体験については自覚できる。だからこの2つは違う。

3.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、仏の智慧を以ってしか断言できないことであるので、親鸞聖人御自身が智慧を体得せられて知らされたのではない。

4.弥勒菩薩の成仏と親鸞聖人以外の念仏の衆生が臨終に往生即成仏できることについて、親鸞聖人が自覚できることではないが、親鸞聖人御自身の体験と併せて、「真に知んぬ」と一括りで仰っている。

よって結論は、
「念仏の衆生は…」は、親鸞聖人御自身が実感として知ることができたのではなく、阿弥陀仏に救われたのだから、往生即成仏できるに違いない、とお聖教の解釈をされたに過ぎない。

W氏は、文章を書くのが任務でも、国語の能力に問題があって、自信満々に出した詭弁を暴かれて、あっけなく幕切れとなりました。

W氏の今回の間違いは、主語です。親鸞会との法論では、相手が親鸞会一の切れ者であっても、国語の能力が人並み以上なら誰でも勝てるという実例でした。

今日の授業のポイント。

皆さん、文章を読むとき、書くときは、主語に気を付けましょう。それだけで、高森会長の嘘が判ります。

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2018年9月14日 (金)

思考停止の会員のために国語の授業をします

思考停止の会員には、まず国語の授業が必要ですので、中学校程度の授業をします。

まことに知んぬ」を現代語訳すると、

まことに知ることができた

です。ここで躓くようなら、小学校に戻ってください。

ここをクリアした会員には、次のステップです。
知ることができたその手段としては2通り考えられます。

1.体験を通して実感として知ることができた
2.書物や実験などを通して理屈として知ることができた

そんなのおかしい、「まことに知んぬ」は1の意味しかない!

と言うなら、その理由は何でしょうか?
世の中のことで「まことに知んぬ」ということは山ほどあります。事件や事故の原因がスッキリ判ったことも「まことに知んぬ」と古文では表現されます。
仏教においても、教えを聞いて、
今までの理解は間違っていた、「まことに知んぬ」
と納得することもよくあります。

そんなこと関係ない、体験に限った話だ!

というのなら、その理由を示しましょう。

示せないが1に決まっている!!!

という粋がるだけの会員は落第ですから、教室から出ていきましょう。

では、しっかり見極めたいという気持ちのある人には更に次のステップです。
1か2のどちらであるのか検証しましょう。
検証する方法は、前後の文脈から判断するしかありません。

前の部分は少し長いですが、

王日休がいはく、「われ『無量寿経』を聞くに、〈衆生、この仏名を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せんもの、かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す〉と。不退転は梵語にはこれを阿惟越致といふ。『法華経』にはいはく、〈弥勒菩薩の所得の報地なり〉と。一念往生、便ち弥勒に同じ。仏語虚しからず、この『経』はまことに往生の径術、脱苦の神方なり。みな信受すべし」と。{以上}

『大経』にのたまはく、「仏、弥勒に告げたまはく、〈この世界より六十七億の不退の菩薩ありて、かの国に往生せん。一々の菩薩は、すでにむかし無数の諸仏を供養せりき、次いで弥勒のごとし〉」と。

またのたまはく、「仏、弥勒に告げたまはく、〈この仏土のなかに七十二億の菩薩あり。かれは無量億那由他百千の仏の所にして、もろもろの善根を種ゑて、不退転を成ぜるなり。まさにかの国に生ずべし〉」と。{抄出}

律宗の用欽師のいはく、「至れること、華厳の極唱、法華の妙談にしかんや。かつはいまだ普授あることを見ず。衆生一生にみな阿耨多羅三藐三菩提の記を得ることは、まことにいふところの不可思議功徳の利なり」と。{以上}

です。
古文で難しいでしょうから現代語訳を載せます。

王日休が『龍舒浄土文』にいっている。
「『無量寿経』をうかがうと、<すべての人々は、阿弥陀仏の名号のいわれを聞いて信じ喜ぶまさにそのとき、浄土に生れようと願うたちどころに往生すべき身に定まり、不退転の位に至るのである>と説かれている。不退転の位とは、インドの言葉では阿惟越致という。『法華経』には、<弥勒菩薩が長い間行を修めて得られた位である>と説かれている。信じ喜ぶまさにそのとき往生する身に定まれば、すなわち弥勒菩薩と同じくらいになる。仏のお言葉にいつわりはない。この『無量寿経』はまことに往生の近道であり、迷いを離れることができる不可思議な方法である。みなこの経を信じるべきである。

『無量寿経』に説かれている。
「釈尊が弥勒菩薩に、<この世界からは、不退転の位にある六十七億の菩薩が阿弥陀仏の浄土に往生するであろう。その菩薩たちはみなすでに数限りない仏がたを供養しており、その位は、弥勒よ、そなたと同じである>と仰せになる」

また『如来会』に説かれている。
「釈尊が弥勒菩薩に、<この娑婆世界に七十二億の菩薩がいるが、その菩薩たちは数限りない仏がたのもとで多くの功徳を積んで不退転の位を得ており、みな阿弥陀仏の浄土に生れるであろう>と仰せになる」

律宗の用欽師がいっている。
「教えの深いことは、『華厳経』の説く至極の法、『法華経』の説く至妙の法に及ぶものはない。しかしながら、すべての衆生が将来さとりを得ることを約束されているのではない。すべての衆生がこの世の命を終えて後に、みなこの上ないさとりを得ることを約束されるのは、まことに阿弥陀仏の不可思議な功徳による利益である。

弥勒菩薩と念仏の衆生との関係について、経典と親鸞聖人が尊敬されている中国の高僧の文が示されています。

以上を請けて、

まことに知んぬ

です。

はい、もう判りましたよね、2ですね。

えっ、まだ判らない?

じゃあ、後の文を見ましょう。

弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。ゆゑに便同といふなり。

前の文を考察した結果として、弥勒菩薩と念仏の衆生の関係を親鸞聖人の見解として述べられています。
やっぱり、2ですよね。とどめが「ゆゑに便同といふなり」とあって、前の文にある「便ち弥勒に同じ」の意味を親鸞聖人が述べられているのは、小学生でもわかるでしょ。

前後の文に、親鸞聖人の体験らしきことはどこにもないので、1はあり得ないですよね。

参考までに親鸞聖人が「まことに知んぬ」と仰っている他の箇所を見てみましょう。

これすなはち真実の行を顕す明証なり。まことに知んぬ、選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行なり、知るべしと。」(行巻)
まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。」(信巻)
しかれば大聖の真言、宗師の釈義、まことに知んぬ、この心すなはちこれ不可思議不可称不可説一乗大智願海、回向利益他の真実心なり。これを至心と名づく。」(信巻)
まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。」(信巻)
まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。」(信巻)
しかれば大聖の真言、まことに知んぬ、大涅槃を証することは願力の回向によりてなり。」(証巻)
まことに知んぬ、これいましこの『経』に顕彰隠密の義あることを。」(化土巻)

ちょっと難しいですが、これらみんな、難しい教義の内容をスッキリ理解できたということですよね。体験で難しい教えが知らされたのではなく、他の聖教からこのような結論に達した、ということです。

あれれ、まさかこれらみんな体験で知らされたことだとか言わないですよね。体験によって特殊な智慧が獲られるとでも思っていないですよね。

なお、余談ですが、親鸞聖人が初めて出された見解というのがいくつもあって、それまでの七高僧とは違う見解のところもあります。ここからも、同一体験(同一信心)で知らされることではないと中学生程度の頭なら判りますよね。

今日の授業はここまでとします。

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2018年9月13日 (木)

四種深信を主張し七高僧を異安心呼ばわりする高森顕徹会長と思考停止の会員たち

前々回と前回とで

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

の「まことに知んぬ」と言われても、これは体験上の知らされたではなく、理屈の上での知らされたことだと説明しました。まさかこれで理解できない人はいないだろうと思っていたら、いたのです。親鸞会会員を甘く見ていました。思考停止は私の認識を超えていたのです。

コメント欄で具体的に説明もしましたが、思考停止では理解できないでしょうから、今回は違う観点から説明します。

高森顕徹会長は、真実の信心を判定するのは、二種深信が立っているかどうかだ、と言い続けてきました。二種深信とは、

一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。

です。
機の深信は簡潔に言うと、我らは罪悪生死の凡夫で出離することができないと深く信じることです。
法の深信を簡潔に言うと、阿弥陀仏の本願によってのみ出離して浄土に往生できると深く信じることです。
いうまでもなく、深く信じるとは他力の信心を顕わしています。

この2つがあるかないかで他力の信心かどうかを判定するのだと高森会長が断言し、会員もそう言っているはずです。

ここで最初の「まことに知んぬ」に戻りますと、これと二種深信との関係は何、という話です。
他力の信心を獲たら「まことに知んぬ」以下のことも必ず知らされるとも言っていますが、

弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。
念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

の二つは二種深信の内容と同じか違うかと言えば、明らかに違います。

先の文は、弥勒菩薩の成仏の時期について、
後の文は、獲信した人は臨終に往生すると同時に成仏するということ。

共に二種深信とは違う内容です。後の方は法の深信と関連はしていますが、浄土往生と往生即成仏とは違う話です。

二種深信を仰った善導大師をはじめ、七高僧方は、浄土に往生した後に菩薩の行をして成仏するという解釈です。往生と同時に成仏するとは七高僧のどなたも仰っていません。

ということは、高森会長と思考停止の会員の主張は、二種深信とは別に二つのことも深信する、つまり四種深信だということになり二種深信で判定するというのは嘘だということです。更には、七高僧方は四種深信が立っていないので、七高僧方は異安心だと言っているわけです。

実に判りやすい矛盾を何も考えずに平気で言えるのが、思考停止の為せる業なのでしょう。

ここのように国語の能力も、論理的思考も、もちろん学術的素養の欠片もない低脳集団にまで落ちぶれた親鸞会に、明るい未来があるわけもなく、必死の広告投入で形式上の体裁を整えているに過ぎません。

今回は、聖教の文を最低限にして、微かな思考でもあるなら理解できる内容にしました。
思考力が無い会員には、これでも理解できないのでしょう。
哀れ哀れ。

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2018年9月10日 (月)

浄土を願う心もなく、念仏誹謗宗の信心を目指す高森顕徹会長と愉快な仲間達

高森顕徹会長の前回の話で出てきた『教行信証』信巻の

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

ですが、この後には

ゆゑに便同といふなり。

と続きます。
つまり、「便同弥勒」についての親鸞聖人の解釈が上記のお言葉だということです。
くどいようですが、親鸞聖人は体験で知らされたのではなく、経釈を通りて理屈として知らされたという話です。

その証拠にこのお言葉の直前は

王日休がいはく、「われ『無量寿経』を聞くに、〈衆生、この仏名を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せんもの、かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す〉と。不退転は梵語にはこれを阿惟越致といふ。『法華経』にはいはく、〈弥勒菩薩の所得の報地なり〉と。一念往生、便ち弥勒に同じ。仏語虚しからず、この『経』はまことに往生の径術、脱苦の神方なり。みな信受すべし」と。

『大経』にのたまはく、「仏、弥勒に告げたまはく、〈この世界より六十七億の不退の菩薩ありて、かの国に往生せん。一々の菩薩は、すでにむかし無数の諸仏を供養せりき、次いで弥勒のごとし〉」と。

とありまして、経釈にある「便ち弥勒に同じ」「次いで弥勒のごとし」とはどういうことかについて親鸞聖人の見解を述べられたところになるからです。

一連の流れを見たらこれが親鸞聖人の体験で知らされたことなどとは言えないことです。
今更言うまでもないことですが、要するに、高森会長は『教行信証』を全く読んでいないのです。

ついでですから、信心を獲たら、51段のさとりまで高跳びして特別な智慧が授かるのかどうか、親鸞聖人のお言葉で見てみます。

『高僧和讃』曇鸞讃に

世俗の君子幸臨し
 勅して浄土のゆゑをとふ
 十方仏国浄土なり
 なにによりてか西にある

鸞師こたへてのたまはく
 わが身は智慧あさくして
 いまだ地位にいらざれば
 念力ひとしくおよばれず

一切道俗もろともに
 帰すべきところぞさらになき
 安楽勧帰のこころざし
 鸞師ひとりさだめたり

とあります。
現代語訳は

東魏の孝静帝は、 曇鸞大師のもとを訪れ、 浄土への往生を願う理由について、 「あらゆる仏がたの国々はみな清らかである。 なぜ西方にある阿弥陀仏の浄土に限るのか」 と問うた。

曇鸞大師は、 「私は智慧が浅い凡夫であり、 いまだ不退転の位に至っていないので、 あらゆる浄土を等しく念じるには力がとうてい及ばない」 と答えられた。

出家のものも在家のものも、 みな帰依するところをもたずに迷っている中で、 曇鸞大師はただ一人、 阿弥陀仏に帰依し、 その浄土への往生を願うよう勧められた。

です。曇鸞大師のお言葉として「わが身は智慧あさくして いまだ地位にいらざれば 念力ひとしくおよばれず」と紹介されています。ここで言う「地位」とは初地以上のさとりのことですから、41段以上には至っていないので智慧が浅いのだ、と曇鸞大師が仰ったと親鸞聖人が紹介されています。51段高跳びしてそれなりの智慧を獲ると思っている親鸞会会員には、驚きのお言葉かもしれませんが、これが現実です。
なお、この和讃の基は『安楽集』の

曇鸞法師のごときは、康存の日つねに浄土を修す。
またつねに世俗の君子ありて、来りて法師を呵していはく、「十方仏国みな浄土たり、法師なんぞすなはち独り意を西に注むる。 あに偏見の生にあらずや」と。
法師対へていはく、「われすでに凡夫にして、智慧浅短なり。 いまだ地位に入らざれば、念力すべからく均しくすべけんや。 草を置きて牛を引くに、つねにすべからく心を槽櫪に繋ぐべきがごとし。 あにほしいままにして、まつたく帰するところなきことを得んや」と。
また難者紛紜たりといへども、法師独り決せり。 ここをもつて一切道俗を問ふことなく、ただ法師と一面あひ遇ふものは、もしいまだ正信を生ぜざるには、勧めて信を生ぜしめ、もしすでに正信を生ぜるものには、みな勧めて浄国に帰せしむ。

です。

以上から

1.信心を獲ても弥勒菩薩と同じさとりになるのでも、特別な智慧を獲るのでもない。
2.曇鸞大師は初地にも至っていないと仰っているので、信心を獲ても51段高跳びしたという実感が獲られることもない。
3.曇鸞大師は阿弥陀仏の浄土を念じられていて、人にも浄土を念じて帰すように勧められているので、衆生には浄土を願う心はない、というのは間違いである。

が、「まことに知んぬ」です。

聖教を読んでいない上に、絶対の幸福という念仏誹謗宗の信心を目指している高森会長と愉快な仲間達は、浄土を願うこともなく、浄土真宗ではなく浄土非宗になっていることを「まことに知んぬ」です。

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2018年8月11日 (土)

仏智疑惑・謗法・闡提を混ぜ合わせたものが真実信心だと教えている高森教

真実信心を知らないから18願を疑うことがどんなことかも判っていないのが、高森顕徹会長と愉快な仲間達です。

疑心についてまとめられているものが『往生要集』にあります。

問ふ。不信のもの、なんの罪報をか得る。

答ふ。
『称揚諸仏功徳経』の下巻にのたまはく、「それ、阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀するものは、五劫のうちに、まさに地獄に堕して、つぶさにもろもろの苦を受くべし」と。

問ふ。もし深信なくして疑念をなすものは、つひに往生せざるや。

答ふ。
まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるものは、理として生るべからず。もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。『双巻経』にのたまふがごとし、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了せず、このもろもろの智において疑惑して信ぜず、しかもなほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生は、かの宮殿に生じて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の衆を見たてまつらず、このゆゑにかの国土においては、これを胎生といふ」と。{以上}仏の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。しかも願に随ひて往生するは、これ仏の悲願の力なり。

(現代語訳)

問う。信じない者は、どのような罪の報を得るのであるか。

答える。《称揚諸仏功徳経》の下巻に説かれている。

もし、阿弥陀仏の名号の功徳を讃めたたえることを信じないで、謗り毀つ者があるならば、五劫のあいだ地獄に堕ちて、つぶさにもろもろの苦を受けねばならぬ。

問う。もし深心がなくて、疑念を生ずる者は、結局往生できないのであるか。

答える。もし、全く信ぜず、往生の業を修めず、浄土を願い求めない者は、道理として往生するはずがない。しかしながら、もし仏智を疑うけれども、それでもやはり、かの浄土に生まれたいと願い、往生の業を修める者は、これもまた往生することができるのである。

《無量寿経》に説かれているとおりである。

もし、人々の中で、疑いの心を持ちながら、いろいろの功徳を修めて、かの国に生まれたいと願い、仏智、思いもおよばぬ智慧 (不思議智)、はかり知られぬ智慧、すべての者を救う智慧、ならびなくすぐれた智慧を知らず、いろいろの仏の智慧を疑って信ぜず、しかもなお罪の報を恐れ、おのが善根をたのむ心をもって善の本を修め、それによってかの国に生まれたいと願うものがあれば、これらの人は、かの国に生まれても宮殿の中にとどまり、五百年のあいだ、少しも仏を拝むことができず、教法を聞くことができず、菩薩・声聞などの聖衆を見ることもできない。それゆえ、これをたとえて胎生というのである。

仏の智慧を疑うのは、悪道に堕ちる罪に相当する。けれども、その願いにしたがって往生するというのは、仏の大悲の願力によるのである。

宮殿」とは、化土のことです。

以上から判ることは、

謗法・闡提の者―地獄
一般の者―悪道
浄土を願う自力の者―化土往生
深信の者―報土往生

ということです。深信の者以外は無間地獄、などという愚かな教えもありませんし、その逆で「阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀する」謗法・闡提がそのまま救われることは、絶対にないのです。

謗法・闡提をそのまま救ってくださるのが阿弥陀仏だ

と間抜けなことを言っている高森会長と講師部員は、信心の基本中の基本を知らないのです。

謗法・闡提の者が報土往生するには、「阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀する」ことをまず止めないことには「阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを」深信できないという単純な理屈です。東に向かっている人を、西に向かわせるには、東に行くことをやめさせないと行けないです。東に向かったままで西に向かわせるなどと言っている愚かさに気が付かないのが、親鸞会思考です。

自力の信心については「このもろもろの智において疑惑して信ぜず、しかもなほ罪福を信じ」とありますから、阿弥陀仏が法蔵菩薩の時に兆載永劫の修行によって、我らが往生成仏の因をすべて用意されたことを疑って、因果の道理を信じて何かをしなければ救われないと考えていることだと教えられています。

親鸞会会員の信心そのものですが、この信心と親鸞会会員の信心との違いは「その国に生ぜんと願ぜん」の有無です。浄土に往きたいと願わずに、絶対の幸福になりたいと願っている親鸞会会員は、化土には往けません。
仏の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。
ですので、残念なことです。

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2018年7月 4日 (水)

二種深信も知らず創価学会の信心を真実信心だと本気で思っている高森顕徹会長と愉快な仲間達

先日、超一流大学に入学して世間的にもエリートコースを歩んできた還暦の現会員から、高森顕徹会長の話をしている動画が送られてきました。あの与太話動画を私に送る神経が理解できず、その意図を謀りかねていましたが、とりあえず間違いを簡潔に指摘して返信したらそれっきりでした。

学歴や仕事ができることと知能とは比例しないのだとよく判る例です。

さて、善導大師は「仏法・世俗の二種の善根あることなし」の悪人が、臨終になって初めて善知識から仏法を聞いて念仏を勧められて念仏して往生するのだと教えられていることを前回述べました。
その善導大師の信心は如何なるものであったかは、いわゆる二種深信で顕わされていますが、善導大師が仰った二種深信には2通りの表現がありまして、高森会長と愉快な仲間達の知らない方の二種深信を見てみます。

『往生礼讃』には、

二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。

とあります。

機の深信=「自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し
法の深信=「いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知し

です。機の深信と法の深信を比べると判りますが、諸善と念仏が対比されています。
機の深信を簡潔に言うと、

善が少ししかできないので出離できないと信知する

法の深信を簡潔に言うと

1回の念仏でも称えたら必ず往生できると信知する

二種深信をまとめて言うと、

善では救われない、念仏一行で必ず救われると信知する

です。
善導大師は、念仏が救いの絶対条件だと教えられていることが判ります。

コメント欄で、救われるのに念仏が要らない、とか言っている人がいますが、どこの宗教を元にコメントしているのかという話です。
真実信心の定義が、「念仏が要らない」とは無知の極みです。

親鸞聖人は『末灯鈔』に

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。

と判りやすく教えられています。

18願とは「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり

ですし、
真実の信心とは「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じて」「念仏往生とふかく信じて

です。
念仏不要の信心という説明は、まさに創価学会の信心のことでしょう。

浄土真宗でも浄土門でもないのが、高森親鸞会であることは、明々白々の事実です。

なお、善導大師の機の深信で「善根薄少にして」とありますので、「善根あることなし」の悪人とは異なっていることも知っておきましょう。当然な話で、聖道門の修行をされて、定善までできた善導大師が「善根あることなし」だったら、理屈が無茶苦茶です。「善根あることなし」だと断言する一方で雑毒の善はできると言っている高森会長の思考に納得できる人は、その程度の知能だということです。東大や京大に入ろうが、知能は極めて低いのです。

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2018年5月15日 (火)

親鸞聖人が問題にされた自力の信心の範疇にさえも入っていない高森顕徹会長の信心

近年にない多くの人が集まった先日の降誕会ですが、それでも正本堂落慶法要の時には及ばず、正本堂落慶当時も広告を出していましたので、結果的には親鸞会の衰退が顕著になったということです。

さて、コメント欄で高森顕徹会長を妄信する愉快な仲間が、頓珍漢なことを書いていますが、これはここ数年の傾向で、親鸞聖人のお言葉はどうでもよく信心決定している特異な高森会長と異なっている信心について、退会者を非難してくるのです。

法論に敵なしの親鸞会を自負しているなら、あり得ないコメントですが、これが現実です。高森会長の言っている教義が親鸞聖人の教えとは無関係であり、親鸞聖人と高森会長の信心までも違うとまで思いが及ばないところが、会員の哀れさを際立たせています。

教義について反論できないことは、高森会長も会員も判っているようですので、信心についても親鸞聖人とは異なっていることを、根拠を挙げて、説明しておきます。

他力の信心あるいは他力の念仏と、自力の信心あるいは自力の念仏との違いについて、親鸞聖人は対比して、度々教えられています。
最も判りやすいのが『浄土和讃』の最初の

弥陀の名号となへつつ
 信心まことにうるひとは
 憶念の心つねにして
 仏恩報ずるおもひあり

誓願不思議をうたがひて
 御名を称する往生は
 宮殿のうちに五百歳
 むなしくすぐとぞときたまふ

です。

念仏を称えている前提で、「信心まことにうる」と「誓願不思議をうたがひて」の違いが他力と自力の違いだということです。

では「誓願不思議をうたがひて」とは具体的にどんなことかというと、他宗教や他宗を信じているというようなレベルの話ではなく、『正像末和讃』にあるように

不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

如来の諸智を疑惑して
 信ぜずながらなほもまた
 罪福ふかく信ぜしめ
 善本修習すぐれたり

罪福ふかく信じつつ
 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆゑに
 方便化土にとまるなり

仏智不思議をうたがひて
 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば
 胎生のものとときたまふ

仏智の不思議を疑惑して
 罪福信じ善本を
 修して浄土をねがふをば
 胎生といふとときたまふ

ということです。つまり、「罪福信ずる」こと「自力諸善」という高森会長が勧めていることが「仏智不思議をうたがう」ことになるのです。

他力と自力の違いをもっと端的に仰ったのが、『末灯鈔』にある

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。

です。

18願のことを「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる」あるいは「念仏往生」と仰った上で、他力の信心を「ふかく信じて」と仰り、自力の信心を「信心あさく」と仰っています。

簡単にまとめると、

他力の信心=念仏を称えて往生できると深く信じた心
自力の信心=念仏を称えて往生できると浅く信じた心

ということです。

他力と自力の信心に共通することは「念仏を称えて往生できると信じた心」です。

では高森会長はどう言っているかと言うと、

念仏を称えて往生できると思うのは間違いで、往生できない

です。昔はこれを必堕無間とまで言い切っていましたが、最近はそこまでは言わなくなりました。

この高森会長の言っていることから判断すれば、高森会長が他力の信心を獲ていないどころか、親鸞聖人が問題にされた自力の信心の範疇にさえ入っていないことが明確です。

ちなみに、蓮如上人が『御文章』5帖目11通で仰っている

なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなき次第なり

は、

他力の信心=念仏を称えて往生できると深く信じた心
自力の信心=念仏を称えて往生できると浅く信じた心

を踏まえられた上で、「念仏を称えて往生できると信じた心」だけでは往生できるかどうか覚束ない、つまりは不確実だということで、「深く」と「浅く」の違いを弁えなさいとの誡めです。「念仏を称えて往生できると信じた心」だけでは、往生は不可とも仰っていませんし、ましてや必堕無間でもありません。

ということで、今回は少し長くなりましたが、高森会長が他力の信心と思い込んでいる信心は、念仏誹謗の創価学会の信心と同レベルだということです。高森会長が、他力の信心のことを絶対の幸福と言っていることからも、それが裏付けられるというものです。

なお余談ですが、正本堂も創価学会のパクリで、今はそこだけ2000畳と変更しています。肝心な信心は創価学会のパクリそのままで。

悔しいと憤る元気がある会員で、反論があるならいつでもコメントをください。ただし、体験至上主義で高森会長の信心を基準にしてのコメントは無意味ですので、そんな愚かなコメントはしない方が宜しいかと思います。

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