二種深信

2017年1月22日 (日)

信心について知ったかぶりの高森顕徹会長

今日の講師部講義では、「若不生者」の話があったそうです。明らかに、当ブログを意識しています。それは自意識過剰だと必死に否定したい会員もあるでしょうが、明々白々の事実です。

前回までで「若不生者」の意味をまとめましたので読んで頂ければお判りかと思いますので、詳しくは言いませんが簡単に復習しますと、

『尊号真像銘文』

「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。

と浄土に生まれるとしか、親鸞聖人は説明されていないのです。『唯信鈔文意』でも同様です。

『大無量寿経』の異訳経でも、親鸞聖人の御著書でも、「」は浄土に生まれるという当益以外には書かれていないので、それ以上説明は不要で、言い訳も屁理屈も不要です。その上で親鸞聖人が直接仰っていない現益の意味があるかどうかの議論に移るのです。もう一度言いますと、当益を認めた上での現益の話をしないと、全く無意味です。

ここで現益の意味があるとした場合、二河白道の譬えで

信楽の心で念仏して信楽に生まれさせる

では訳が判らないとは以前に申した通りですし、『尊号真像銘文』の「至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじ」を「至心信楽をえたるひと、信楽にもし生れずは仏に成らじ」と言っては意味が通じないことも高森顕徹会長にも会員にも理解できないのでしょう。これは教学以前の国語の問題であり、理論的な思考力があるかどうかの問題です。

簡単な話です。「信楽」は信心ですから、信心を獲て、どう生まれるかを言わないと意味のある文章として成立しないのです。まだ説明が必要だというなら、その程度のことを教えてくれる小学校の国語の先生に教えてもらってください。

さて、今回は信心の話も出たようですが、高森会長は信心についても無知です。

真実の信心=信楽=深信

ここまでは高森会長でも知っているでしょうが、深信の内容が全く判っていません。

二種深信については、親鸞会でも引用されるのが、『教行信証』信巻にだけある

一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。

です。
ところが善導大師は他の表現でも二種深信を仰っていて、それは『教行信証』の行巻と信巻の二か所に引かれています。

自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。
いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。

前者が一か所で、後者が二か所で紹介されているから、単純に後者の方が重要という話ではありませんが、少なくとも、親鸞聖人は後者の二種深信を重要視されていたので、それを知らない高森会長は、『教行信証』を全く読んだことがないとここでも判明します。

内容については、前者よりも後者の方が、より明確になっています。
簡単にまとめると

機の深信は、自分が今までやってきた程度の善では出離できない、と信知すること。
法の深信は、阿弥陀仏の本願は念仏で必ず往生できる、と信知すること。

こういうことです。もっと簡潔に言うと、

善では出離できない、念仏によってのみ出離し往生できる、と信知する

これが真実の信心だと言うことです。

高森会長の説明とは大いに異なっていることがお判りでしょうか。要するに、念仏1つで助かる、と深信したのが二種深信だということです。

御存知の通り、私は徹底的に高森会長を扱き下ろしています。悔しいと思われる講師部員、会員は、遠慮なく教義上の反論をしてください。ただし、聖教上の根拠に基づく反論で。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2016年10月 7日 (金)

木の深信が立った高森顕徹会長

親鸞会が現在唯一使う根拠が

難思の弘誓は難度海を度する大船

です。

ここで最も重要なお言葉は言うまでもなく「難思の弘誓」で、18願のことですが、この説明を高森顕徹会長はしません。敢えて説明を避けているのでしょう。その理由は、説明したら非難されることが判っているからです。
高森会長は非難を極度に畏れています。それで非難されない内容として「難度海」の説明に終始していますが、そこもずれています。

高森会長の説明は

難度海に丸太や板切れが浮いていて、丸太や板切れは 金や財産、健康、名誉、地位、妻子、邪教、迷信などと言っています。

こんな感じですが、この譬えは高森会長のオリジナルかと言えば、やはりパクリです。
伊藤康善師による『仏敵』の中に

「じゃ、君に一つの譬えを出そう。君は今、生死の苦海に漂っているとする。そこへ大木が漂流していたら、君はそれにすがるかい?」
「私はすがります」

とあります。
聖教を読んだことのない高森会長は、これが正統的な解釈と勘違いしているのでしょう。

今後も聖教を読むことがないでしょうから、少しだけ教えておきます。

「難度海」の元は、『十住毘婆沙論』易行品です。『教行信証』行巻にも引かれています。

かの八道の船に乗じて、よく難度海を度す。みづから度し、またかれを度せん。

(現代語訳)

八聖道という船に乗って、渡ることのできない迷いの海を超えるのである。自ら仏となって迷いの海を渡り、またあらゆる人を救って迷いの海を渡してくださる

お判りかと思いますが、「難度海」とは迷いの世界を出ることが難い、つまり我らは六道から離れられない、出離できないことを仰ったものです。
金や財産、健康、名誉、地位、妻子という丸太や板切れのレベルの話をされているのではありません。

難度海」の言い換えとしてよく使われる「苦海」は善導大師の『法事讃』にあり、『教行信証』化土巻に引かれています。

循々として愛波に沈みて苦海に沈む。仏道人身得がたくしていますでに得たり。浄土聞きがたくしていますでに聞けり。信心発しがたくして、いますでに発せり。

(現代語訳)

衆生は、すべての迷いの世界を繰り返し輪廻してとどまることがなく、めぐりめぐって長い間欲望の波にのまれ、苦しみの海に沈み続けている。そのように人間として生れ仏道を歩むのは難しいのに、わたしは今すでにそれを得ることができた。浄土の教えを聞くのは難しいのに、今すでに聞くことができた。信心をおこすのは難しいのに、今すでにおこすことができた

この「苦海」も「難度海」と同じで、出離できずに苦しんでいることを仰っているのであって、裏切られる世間的な幸せを信じているとかのレベルではないのです。
仏教を聞いて、出離を求めながら出離できない凡夫の世界を「難度海」「苦海」と表現されていて、出離の道は18願しかないことを示されていることが、容易に判られると思います。

丸太や板切れを信じて苦しんでいるという話を、どれだけ真剣に何百年聞いたところで、「大船」に乗ることはできません。そもそも方向が違っているのです。
世間的な幸福云々を越えた出離を目指した上で、自分の力では出離できないことを知って18願に帰依することを教えられたのです。勘の良い方は気が付かれたと思いますが、二種深信と同じなのです。
機の深信を、丸太や板切れに裏切られることを深信したことだ、とは高森会長でもさすがに言わないのですが、「難度海」「苦海」と機の深信とが完全に無関係だとしか思っていないのでしょう。。

高森会長がもし本当に、機の深信が立っているなら、こんな愚かな説明を自信満々、映画でも法話でもしません。

つまりは、丸太や板切れに拘っていることそのままが、高森会長は機の深信ではなく木の深信という珍しい信心を獲た人物だということです。映画を宣伝すればするほど、嘲笑の的となっていることも知らずに。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2016年8月 6日 (土)

パクリで大学者を演じても、聖教を全く読んでいないので簡単にボロを出す高森顕徹会長

何十年と会員を続けてきた人が次々と退会していますが、その陰で、何十年と講師部員を続けてきた人もぽつぽつと退会しています。このブログで法論を取り上げ、言うまでもなく惨敗逃走した元講師部員もその中に含まれています。

何百年に一人の善知識と崇めてはきたものの、人間性も教義も無茶苦茶な高森顕徹会長に絶望して還暦近くで親鸞会を去っていく講師部員の心中は、どのようなものでしょうか。

法論に惨敗した時点で高森会長に見切りをつけていれば、傷も多少は浅くて済んだかもしれませんが、それさえできないようにマインドコントロールされていたのですから、哀れです。

さて、信心決定を摩訶不思議な体験として印象付けるために利用されるのが、二種深信です。しかし、その摩訶不思議な体験をしてもいないのにしたかのように装っているのが、高森会長です。

前回まで、五逆謗法は親鸞聖人の教えを聞いている皆さんのことではないし、機の深信とも無関係だということを、聖教上の根拠を示して、述べてきました。

参考までに機の深信にあたる曇鸞大師のお言葉は、『讃阿弥陀仏偈』にあります。

われ無始より三界に循りて、虚妄輪のために回転せらる。
一念一時に造るところの業、足六道に繋がれ三塗に滞まる。

です。曇鸞大師は、煩悩虚妄の業によって三界をはてしなくめぐり、六道を抜け出せず、三悪道に留まっていることを仰ったのですが、どこをどう読んだら「逆謗の屍」という意味になるのでしょうか?これは曇鸞大師は「逆謗の屍」ではないと否定されたお言葉にしかなりません。

親鸞聖人は善導大師の『往生礼讃』の二種深信を承けられて、『高僧和讃』善導讃で

煩悩具足と信知して
 本願力に乗ずれば
 すなはち穢身すてはてて
 法性常楽証せしむ

と仰っています。親鸞聖人は機の深信を「煩悩具足と信知して」と表現なされています。

善知識方のお言葉を通しても、機の深信とはつまり

煩悩によって輪廻し、自力では出離できない

ということにしかなりません。

逆謗の屍」という言葉は、大沼師からのパクリですが、大沼師は、『高僧和讃』曇鸞讃の

名号不思議の海水は
 逆謗の屍骸もとどまらず
 衆悪の万川帰しぬれば
 功徳のうしほに一味なり

から、「逆謗の屍」と言ったのでしょうが、この御和讃は、五逆罪、謗法罪の人でさえも阿弥陀仏の功徳に包まれたならば、一味平等の世界に入ることができる、と教えられたお言葉です。このお言葉から、全ての人が「逆謗の屍」という解釈にはなりえません。

18願文と二種深信との関係を、大沼師の味わいを鵜呑みにして高森会長は

若不生者不取正覚」=法の深信
唯除五逆誹謗正法」=機の深信

と、まるで大学者を気取って説明していますが、完全な間違いです。二種深信を詳説された存覚上人の『六要鈔』には、

次に深心を釈する中に、「二者」等とは、これ経文を牒す。「深」等というは、能信の相を明かす。「亦有」等とは、所信の事を顕かす。これ則ち機法二種の信心なり。「無有」等とは、正しく有善・無善を論ぜず、自の功を仮らず、出離は偏に他力に在ることを明かす。聖道の諸教は盛んに生仏一如の理を談ず。今の教は自力の功なきことを知るに依りて、偏に仏力に帰す。これに依りて、この信は殊に最要なり。「無疑」等とは、「若不生者不取正覚」、正覚既に成ず、故に無疑という。「即得往生住不退転」一念誤ることなし、故に無慮という。

とあります。二種深信と本願文とを対応して書かれているのは、法の深信と「若不生者不取正覚」だけです。機の深信に対応する本願文については記されていません。
大沼師の味わいを真宗学の基本と勘違いしただけのことです。

聖教を読んだことがない高森会長が大学者を演じようとしても、無理な話です。

| | コメント (10) | トラックバック (0)