二種深信は、地獄や浄土が判ることでも、往生がハッキリすることでもなく、往生への道がハッキリすること
信心を獲たら何が知られるか、高森顕徹会長がいつも言ってきたのが、二種深信です。では、高森会長が親鸞会が二種深信とは何かを判っているかといえば、否です。判っていないから、信心を獲てハッキリすることとハッキリしないことの区別がつかないのです。
二種深信について、判り易く説明します。
二種深信については、親鸞会でも引用されるのが、『教行信証』の信巻にだけある
一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。
です。
ところが善導大師は他の表現でも二種深信を仰っていて、それは『教行信証』の行巻と信巻の二か所に引かれています。
自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。
いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。
前者が一か所で、後者が二か所で紹介されているから、単純に後者の方が重要という話ではありませんが、少なくとも、親鸞聖人は後者の二種深信を重要視されていたので、それを知らない高森会長は、『教行信証』を全く読んだことがないとここでも判明します。
その無知な高森会長の言うことを妄信して、二種深信について知った気になっている会員は、哀れ哀れというほかありません。
二種深信の内容については、前者よりも後者の方が、より明確になっています。
簡単にまとめると
機の深信は、自分が今までやってきた程度の善では出離できない、と深信、信知すること。
法の深信は、阿弥陀仏の本願は念仏で必ず往生できる、と深信、信知すること。
こういうことです。もっと簡潔に言うと、
善では出離できない、念仏によってのみ出離し往生できる、と深信、信知する
これが真実の信心です。
法の深信についてもう少し説明すると、『末灯鈔』で親鸞聖人はこのようにも仰っています。
弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。
何を深信し信知するのかについて明確に仰っています。
「さだめて往生を得」とは、未だ遂げていない往生について、その道は「かの願力に乗じて」「名号を称する」「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる」ことだけだとハッキリしたことです。浄土往生がハッキリ認識できたのではなく、浄土往生への道を信知、深信するのです。二河白道の譬喩と同じです。
思考できない会員のために再度、
浄土往生への道は念仏だけだと信知、深信したことを法の深信というのです。
なお、言うのもあほらしいことですが、法の深信は「往生できる」であって「成仏できる」ではないです。難しい事でも何でもない、小学生でも判る簡単な話ですので、
念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。
これは法の深信とは違います。信心を獲た人が、臨終に往生即成仏する、と知らされることはありません。これは親鸞聖人の独自の解釈であって、智慧を得て知らされることではありません。
基礎学力プラスアルファーがないと、理解できないかもしれません。
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