謗法罪

2016年7月24日 (日)

親鸞聖人の仰せを知らず、大沼師の味わいだけが根拠の高森顕徹会長

親鸞聖人の教えを信じている皆さんは、謗法の者でもないし、五逆の者でもありません。親鸞聖人がそのように仰っているのですから、それを覆す理屈などある筈もありません。しかし、そこは無知で邪義満載の高森顕徹会長ですから、親鸞聖人の仰せを平気で否定します。

その理屈の一つは『末灯鈔』ですが、これが断章取義であることは何度も述べてきましたので省略します。もう一つが18願の「唯除五逆誹謗正法」です。高森会長の理屈では、「唯除五逆誹謗正法」が「十方衆生」の実機であり、機の深信だということになっています。本日の講師部講義でも言っていたそうですが、もちろんそんな根拠はありません。

唯除五逆誹謗正法」の直接の解釈は『尊号真像銘文』にしかありません。

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

です。
つまり、18願には「唯除五逆誹謗正法」というお言葉があるから、18願の「十方衆生」から洩れたものはないと仰っているのです。逆にいえば、「唯除五逆誹謗正法」のない19願・20願の「十方衆生」には、洩れているものがいるということです。
要するに、「十方衆生」の中に五逆誹謗正法の者がいるという意味にしかなりません。

では、「唯除五逆誹謗正法」が「十方衆生」の実機、機の深信だというのは、高森会長の創作かといえば違います。そんな高度な創作ができるほどの知恵は高森会長にはないでしょう。
もうお判りかと思いますが、大沼法竜師からのパクリです。
『本派本願寺の危機 どちらが異安心か』にはこのようにあります。

 本願寺の総長を始め勧学のお歴歴から頭の切り替えをやらなければ真宗の復興は望めない。君達は第十八願や成就の文を有難がって見て居るのであって十八願の身になる事を忘れて居るのだ、至心信楽の文に陶酔し、至心に廻向せしめ給えりに酩酊して麻痺状態となり、阿片やヒロポンに中毒されて萎靡沈滞して活動能力を失うて居るのだ、第十八願の文を見て自分は至心信楽己を忘れて乃至十念の称名を称えて居るから死にさえすれば往生に間違いはない、仏様が若し生れささずんば正覚を取らずと仰せられたのが、既に十劫の昔に正覚を成就して居らるるから十劫の昔に助かって居るのだと安心して居るが、君達は文面を見て裏面を読んで居ないのだ。唯除五逆誹謗正法とは誰の事かい、勧学だと威張って居る君達の事だぞ、除かれて居るとも知らずにのさばりかえって居るが、それだから開発の一念を知らないのだ、若不生者不取正覚とは生れさすとは死後の事しか知らないのだろう、心命終を忘れたか、君の逆謗の屍を今心命終ささなければ正覚を投げ出すぞと言うことだよ。成就の文にしても至心に廻向して貰ったか、不可称不可説不可思議の功徳は行者の身に満てりと有るが、三千世界の果報者は自分一人と言う満足が有るか、観念の遊戯だけして居るのだからそんなはっきりした事は有るまい、何を廻向されたか、上に向えば法体の大行、下に向えば当果決定、誰が頂くのだ、諸有衆生、その腹底は、唯除逆謗、おいおい君達、素直に聞いて居ればよいと言うような対岸の火事のような話ではないぞ、君が邪見驕慢の逆謗の屍ではないか、その機に久遠劫から付き纏い、至心に廻向し給いいて聞即信の一念に法体の大行を全領し同時に住不退転の当果を決定さして頂くのだが、文面を読んで眺めて通って居るのだから何とも有るまい、これが実地に諦得出来たのなら信前信後の水際鮮かに今こそ明らかに知られたりと大慶喜せずには居られないのだ、その初起の一念を信一念と名前を付けるのだ、時尅に何の関係が有るのだ、味に用事が有るのだ、本当に大満足の出来た人なら実時は判らないが仮時ならあの時であったと言えるのだ、君達にはあの時もこの時もないのだ、御経やお聖教を読んで通って見て感じただけだから自分の実機とは無関係だから観念の遊戯に過ぎないのだ、勧学で有りながら実地の体験がないのだから、晴れたのやら暮れたのやら、水際もなければ角目もない、……

当時の本願寺勧学を批判した内容です。当然ながら、大沼師の味わいであり、聖教上に根拠のあることではありません。

高森会長は、大沼師の独特の味わいと聖教の内容との区別が全くついていません。なぜなら、聖教を読んだことがないからです。

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2016年6月28日 (火)

謗法罪の定義さえ知らない親鸞会を非難攻撃したら謗法罪になりますか?

相手にされていない本願寺に対しては、未だに”打倒本願寺”のスローガンを掲げて、金集めに余念のない親鸞会ですが、親鸞会を攻撃する退会者には、ダンマリを決め込んで、教義論争には手も足も出ないというのが現実です。それに薄々気が付いて戸惑っている会員も少なからずいます。

その対策として、親鸞会を攻撃することを謗法罪と会員に刷り込んでいるのですが、謗法罪の定義が真宗とも通仏教とも異なっているのが親鸞会です。

前回書きましたように、謗法罪とは「無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法」と考える人のことを指すのですが、その程度のことさえ聞いたことのないのが高森顕徹会長です。

親鸞聖人は、謗法の者が救われることはあり得ないと曇鸞大師が仰ったことを承けられて、善導大師の『法事讃』のお言葉を信巻に引かれています。

仏願力をもつて、五逆と十悪と罪滅し生ずることを得しむ。謗法・闡提、回心すればみな往く。

(現代語訳)

この本願のはたらきにより、五逆や十悪のものの罪を滅して往生を得させてくださるのである。謗法のものや一闡提であっても、心をひるがえして如来の本願を信じれば、みな往生することができる。

高森邪義に毒されていると理解できないかもしれませんが、五逆・十悪の者と、謗法・闡提の者とは救われ方が違うのです。判り易く言うと五逆・十悪の者は、そのまま救われますが、謗法・闡提の者は謗法・闡提のまま救われるのではなく、「回心」という心を入れ替えて謗法・闡提でなくなって救われるということです。
曇鸞大師のお言葉と併せれば、簡単な内容ですが、「回心」を獲信と理解すると訳が判らなくなります。ここでの「回心」は「無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法」という謗法・闡提を懺悔して仏教を信じる仏教徒になり、しかも18願を信じるということを意味します。

参考までに『往生要集』にはこうあります。

 問ふ。 不信のもの、なんの罪報をか得る。
答ふ。
『称揚諸仏功徳経』の下巻にのたまはく、「それ、阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀するものは、五劫のうちに、まさに地獄に堕して、つぶさにもろもろの苦を受くべし」と。
 問ふ。 もし深信なくして疑念をなすものは、つひに往生せざるや。
答ふ。
まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるものは、理として生るべからず。 もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。(後略)

(現代語訳)

 問う。 信じない者は、 どのような罪の報を得るのであるか。
 答える。 ≪称揚諸仏功徳経≫ の下巻に説かれている。
もし、 阿弥陀仏の名号の功徳を讃めたたえることを信じないで、 謗り毀つ者があるならば、 五劫のあいだ地獄に堕ちて、 つぶさにもろもろの苦を受けねばならぬ。
 問う。 もし深心がなくて、 疑念を生ずる者は、 結局往生できないのであるか。
 答える。 もし、 全く信ぜず、 往生の業を修めず、 浄土を願い求めない者は、 道理として往生するはずがない。 しかしながら、 もし仏智を疑うけれども、 それでもやはり、 かの浄土に生まれたいと願い、 往生の業を修める者は、 これもまた往生することができるのである。(後略)

簡単に言うと

謗法の者は地獄に堕ちる。
謗法ではないが、浄土を願い求めない者は、往生できない。
浄土を願い求めていながらも仏智を疑っている者は、(化土)往生できる。

ということです。
謗法の定義が根本的に狂っているのが親鸞会だと理解できたでしょうか。

現会員はよく考えてください、高森会長の言っていることは仏教と言えますか。

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2016年6月21日 (火)

謗法罪の定義さえ知らない高森顕徹会長

幸福の何とかという宗教団体の真似をして映画館でアニメを上映したものの、その程度の評価しか受けていないのは予想通りで、会員歴の長い会員も呆れて、親鸞会を辞めていく人も出ている程です。

前回まで述べてきたように、親鸞聖人は阿闍世の獲信の物語を長々と紹介されましたが、その後に、阿闍世の造った五逆罪の定義と、18願で除かれているもう一つの罪である謗法罪の定義について解説をされています。

信巻で『往生論註』を引かれています。

 問うていはく、たとひ一人は五逆罪を具して正法を誹謗せざれば、経に得生を許す。また一人ありてただ正法を誹謗して、五逆もろもろの罪なきもの往生を願ぜば、生を得るやいなやと。
 答へていはく、ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ。なにをもつてこれをいふとならば、『経』にいはく、〈五逆の罪人、阿鼻大地獄のなかに堕して、つぶさに一劫の重罪を受く。誹謗正法の人は阿鼻大地獄のなかに堕して、この劫もし尽くれば、また転じて他方の阿鼻大地獄のなかに至る。かくのごとく展転して百千の阿鼻大地獄を経〉と。仏、出づることを得る時節を記したまはず。誹謗正法の罪、極重なるをもつてのゆゑなり。また正法はすなはちこれ仏法なり。この愚痴の人、すでに誹謗を生ず、いづくんぞ仏土に願生するの理あらんや。たとひただかの安楽に 生ぜんことを貪じて生を願ぜんは、また水にあらざるの氷、煙なきの火を求めんがごとし。あに得る理あらんやと。

(現代語訳)

 問うていう。経には、ある人がたとえ五逆の罪を犯しても、正しい法を謗らないなら往生することができるとある。では、ただ正しい法を謗るだけで、五逆などの罪を犯さないものが浄土の往生を願うなら、往生することができるのであろうか。
 答えていう。ただ正しい法を謗るだけで、他に罪は何一つなくても、決して往生することはできない。なぜかといえば、経に、<五逆の罪を犯した人は無間地獄に堕ちて、一劫の間その重い罪の報いを受ける。正しい法を謗った人は無間地獄に堕ちて、一劫が尽きると、また続いて他の無間地獄に堕ちる。このようにして次々と、数多くの無間地獄をめぐるのである>と説かれていて、仏はこの人がいつ地獄から出ることができるのかを明らかにされていない。それは、正しい法を謗る罪がもっとも重いからである。また正しい法というのは、すなわち仏法である。この愚かな人は、すでに仏法を謗っているのであるから、どうして仏の浄土の往生を願うはずがあろうか。たとえ、浄土は安楽なところだから生れたいという貪りの心で往生を願っても、その願いは、水でない氷や煙の出ない火を求めるのと同じであって、往生することができるはずはないのである。

親鸞会の会員にとっては、目から鱗が落ちるような内容かもしれません。
簡単に言えば、

五逆罪を造って、謗法罪を造っていないなら救われる。
五逆罪を造らず、謗法罪を造っているなら救われない。
その理由は、謗法罪を造っている者は、往生を願わないから。
たとえ往生を願っているといっても、浄土で楽がしたいという気持ちなら往生できない。

ということです。

ここから親鸞会の邪義がいくつか明白になります。

五逆罪と謗法罪は、造っている人もあれば、造っていない人もある。
謗法罪を造っている人は決して救われないので、謗法罪を造っているまま救われることはあり得ない。
絶対の幸福だとかいう幻想的な楽を追い求めている人は救われない。

高森顕徹会長の言っていることと、曇鸞大師、親鸞聖人の仰っていることがまるっきり反対なので、会員は信じられないと思いますが、これが現実です。

では謗法罪とは何かということについて、この後このようにあります。

 問うていはく、なんらの相か、これ誹謗正法なるやと。
 答へていはく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。

(現代語訳)

 問うていう。正しい法を謗るとは、どのようなことをいうのか。
 答えていう。仏もなく仏の教えもなく、菩薩もなく菩薩の教えもないというような考えを、自分自身でおこしたり、他の人に教えられて、その通りと心に定めることを、みな正しい法を謗るというのである。

これも簡単に言えば、

謗法罪とは、仏教を信じることなく否定すること。

要するに異教徒のことを謗法罪の人というのです。

異教徒は往生を願いませんから異教徒のままで救われることはあり得ないのは筋の通った話です。
全人類が謗法の者という話は、親鸞聖人の教えからはあり得ないのです。

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