三願転入に対する親鸞会の妄想3
10年前のmixiでの法論で、退会者が最初から最後まで一貫して高森顕徹会長に問い続けたことは、
親鸞聖人が19願を勧められたお言葉
でした。そして最初から最後まで高森会長は根拠を出しませんでした。いや、出せませんでした。無いからです。
法論で負けた悔しさから書いた『なぜ生きる2』でも、
親鸞聖人が19願を勧められたお言葉
は当然出していません。書いていることは、高森流創作譬喩ばかりです。
一応言っておきますが、三願転入は全人類共通の道で必ず19願を通らなければならないのならば、親鸞聖人が19願を勧められているはずです。19願を通らずして20願そして18願に入ることができないのですから、まずは19願を実践しましょう、と親鸞聖人がどこかに仰っていなければ、高森流三願転入論は破綻するのです。
ですから、
親鸞聖人が19願を勧められたお言葉
この問い一つで、高森会長の嘘が見抜けるのです。
ただし、一度だけこの問いに答えたことがありました。その答えは、
『教行信証』全体
でした。これは、親鸞聖人のお言葉はありません、と白状した返答です。『教行信証』のお言葉を1つも出していないので、子供の悔し紛れの返答レベルでしかないのです。
さて、親鸞会の諸君は、この事実をどう判断するのでしょうか。会員に尋ねてみたことがありますが、ある幹部は「19願を勧められたお言葉などあるわけない」と開き直って、それで三願転入論を語るのです。こんな破綻思考の幹部よりも高森会長の方が余程賢いでしょう、少なくとも高森会長はこちらの意図を理解できているのですから。
なお、『教行信証』全体に書かれてあることは、18願で救われるのに、三願転入する必要はない、ということです。
簡単な例で言えば、行巻にある釈尊が浄飯王に念仏三昧を勧められたところや、信巻にある阿闍世の物語です。この2つのエピソードは、親鸞聖人が『教行信証』の中で、かなり力を入れて書かれている箇所でもあります。釈尊が実在の人物に対してどのように導かれたかですので、七高僧の解釈や理論、親鸞聖人独自の解釈や理論ではない、仏の説法として親鸞聖人が紹介された阿弥陀仏の救いの真髄なのです。
この2つのエピソードに共通することは、釈尊が浄飯王と阿闍世に、善を勧められていないことです。浄飯王は、善をする気満々であったのに、釈尊は「できないから、念仏三昧を勧めるのだ」とあっさりした説明をされただけです。自惚れている人には一度、やらせてみてできないことを知らせてから、という回りくどい話は全くありません。
原文は以下
父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまふ。父の王、仏にまうさく、「仏地の果徳、真如実相、第一義空、なにによりてか弟子をしてこれを行ぜしめざる」と。仏、父の王に告げたまはく、「諸仏の果徳、無量深妙の境界、神通解脱まします。これ凡夫の所行の境界にあらざるがゆゑに、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる」と。
(現代語訳)
世尊は、父である浄飯王に念仏三昧を修めるようにお勧めになった。父の王は世尊に、「仏のさとりの徳は真如実相第一義空とのことでありますが、それを観ずる行を、どうして弟子であるわたしに教えてくださらないのですか」とお尋ねした。 世尊は父の王に、「仏がたのさとりの徳は、はかりがたい深い境地であり、仏は神通力や智慧をそなえておいでになります。これはとうてい凡夫が修めることのできる境地ではありません。そこで、父の王に念仏三昧を修めることをお勧めしたのです」と仰せになった。
如来つねに三昧海のなかにして、網綿の手を挙げたまひて、父の王にいうてのたまはく、「王いま座禅してただまさに念仏すべし。あに離念に同じて無念を求めんや。生を離れて無生を求めんや。相好を離れて法身を求めんや。文を離れて解脱を求めんや」と。
(現代語訳)
釈尊は父である浄飯王に、「王よ、今静かに座して念仏すべきであります。念を離れて無念を求め、生を離れて無生を求め、姿かたちを離れて法身を求め、言葉を離れて言葉の及ばない解脱を求めるというような難しいことが、凡夫にどうしてできましょうか」と仰せになる。
次に阿闍世ですが、阿闍世は信を獲た後にこう告白しています。
世尊、われ世間を見るに、伊蘭子より伊蘭樹を生ず。伊蘭より栴檀樹を生ずるをば見ず。われいまはじめて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る。伊蘭子はわが身これなり。栴檀樹はすなはちこれわが心、無根の信なり。無根とは、われはじめて如来を恭敬せんことを知らず、法僧を信ぜず、これを無根と名づく。
(現代語訳)
世尊、世間では、伊蘭の種からは悪臭を放つ伊蘭の樹が生えます。伊蘭の種から芳香を放つ栴檀の樹が生えるのを見たことはありません。わたしは今はじめて伊蘭の種から栴檀の樹が生えるのを見ました。伊蘭の種とはわたしのことであり、栴檀の樹とはわたしの心におこった無根の信であります。無根とは、わたしは今まで如来をあつく敬うこともなく、法宝や僧宝を信じたこともなかったので、これを無根というのであります。
善の勧めはありませんから、もちろん19願の勧めもありません。
『教行信証』全体を読んだことが無いどころか、『教行信証』の一部も読んだことが無いから、寝とぼけた三願転入論を口にできるのでしょう。
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