阿闍世

2016年6月 8日 (水)

親鸞聖人が最重要視されたのに高森会長が全く知らない阿闍世の体験7

高森顕徹会長は自分の過去の説法内容を否定し、聖教の根拠も使わずに、当たり障りのない話に限定して説法をしている状態です。

ビデオ法話を無くし、無常の虎の話も、二河白道の譬えも、その他高森会長のお得意の話は今ではほとんど聞くことができません。

高森会長は判っているのです、自分は親鸞聖人の教えとは関係のない話を今までしてきたということを。それなのに、現会員は未だに高森会長のことを無二の善知識と思っているので、哀れとしか言い様がありません。

さて、阿弥陀仏の18願とは、過去に善をしたこともない五逆の下品下生の者が救われるという、聖道門の論理からは到底理解しえないことです。その実例を親鸞聖人は『涅槃経』にある阿闍世で示されています。

一応言っておきますが、韋提希は親を殺してはいませんので、五逆の者ではありません。阿闍世は父親を殺していますので、五逆の者です。
したがいまして韋提希の獲信について親鸞聖人が紹介説明されていたとしても、下品下生の者が往生することの証明にはなりません。それで、聖道門の経典である『涅槃経』から下品下生の者である阿闍世を親鸞聖人は取り上げられているのです。

なお、親鸞聖人は韋提希の獲信の経緯、求道の道程については、全く言及がありません。言及しても大した意味をなさないとのお考えであったと想像されます。

前置きが長くなりましたが、これまで釈尊は阿闍世に対して、地獄に堕ちないという説明ばかりをされています。地獄に堕ちる説明ばかりする高森会長とは正反対です。
釈尊から地獄に堕ちない理由について懇切丁寧に聞かされて、阿闍世は獲信します。その時の言葉が、親鸞聖人の教えの真髄です。

世尊、われ世間を見るに、伊蘭子より伊蘭樹を生ず。伊蘭より栴檀樹を生ずるをば見ず。われいまはじめて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る。
伊蘭子はわが身これなり。栴檀樹はすなはちこれわが心、無根の信なり。
無根とは、われはじめて如来を恭敬せんことを知らず、法僧を信ぜず、これを無根と名づく。

(現代語訳)

世尊、世間では、伊蘭の種からは悪臭を放つ伊蘭の樹が生えます。伊蘭の種から芳香を放つ栴檀の樹が生えるのを見たことはありません。わたしは今はじめて伊蘭の種から栴檀の樹が生えるのを見ました。伊蘭の種とはわたしのことであり、栴檀の樹とはわたしの心におこった無根の信であります。無根とは、わたしは今まで如来をあつく敬うこともなく、法宝や僧宝を信じたこともなかったので、これを無根というのであります。

とあります。
無根の信」とは、仏法を信じることも求めることもなかったところに生じた信心、ということです。信を生ずる根拠のないことを表した言葉です。言い換えると、無善で信心を頂くのが、18願の真実信心、本願力回向の信心だということで、ここが親鸞聖人の教えの真髄になります。

阿闍世が知らされたことは、

命がけで善をしようとしたが、一つの善もできない者

ではなく、

一つの善もしてこなかったし、しようとも思わなかった者

ということです。
釈尊は阿闍世に善を勧められてもいません。

当たり前のことで、『大無量寿経』『観無量寿経』共に下輩は善を勧められることもすることもなく往生すると説かれているのですから、浄土門では基本中の基本が、

無善で往生できるのが阿弥陀仏の18願

なのです。

理由は
信心は阿弥陀仏から頂くものなので善の有無は無関係
なのです。

ここまで言えばお判りでしょうが、18願に救われるのに、三願転入する必要もなければ、過去世現在世の善根も不要だということです。

高森会長がどんなに隠して修正をしても、

親鸞聖人のみ教えに善の勧めはある

を撤回できませんので、高森会長と親鸞会は真宗界の笑い者として代々語り継がれるでしょう。

| | コメント (26) | トラックバック (0)

2016年5月31日 (火)

親鸞聖人が最重要視されたのに高森会長が全く知らない阿闍世の体験6

退会者にとって映画の評判は酷いものですが、現会員にとっては有難いものと受け取っている人も多いようです。中には冷やかに見ている現会員もいます。
幸福の科学が映画を公開した時と、手法は同じですので、この映画で親鸞会に良い変化が起きることはないでしょう。親鸞会は益々追い込まれていくだけです。

阿闍世の続きです。

大王、たとへば涅槃は有にあらず、無にあらずしてまたこれ有なるがごとし。殺もまたかくのごとし。非有・非無にしてまたこれ有なりといへども、慚愧の人はすなはち有にあらずとす。無慚愧のものはすなはち無にあらずとす。果報を受くるもの、これを名づけて有とす。空見の人はすなはち有にあらずとす。有見の人はすなはち無にあらずとす。有有見のものはまた名づけて有とす。なにをもつてのゆゑに、有有見のものは果報を得るがゆゑに。無有見のものはすなはち果報なし。常見の人はすなはち非有とす。無常見のものはすなはち非無とす。常常見のものは無とすることを得ず。なにをもつてのゆゑに、常常見のものは悪業の果あるがゆゑに、このゆゑに常常見のものは無とすることを得ず。この義をもつてのゆゑに、非有・非無なりといへども、しかもまたこれ有なり。大王、それ衆生は出入の息に名づく。出入の息を断つ、ゆゑに名づけて殺とす。諸仏、俗に随ひて、また説きて殺とす

(現代語訳)

王よ、 またたとえば、 涅槃が有でもなく無でもなくて、 しかも有であるようなものである。 殺害もまた同じであり、 有でもなく無でもなくて、 しかも有なのである。 慚愧の心がある人には有ではなく、 慚愧の心がない人には無ではないのであって、 その報いを受ける人からいえば有なのである。 また、 すべては空であると知った人には有ではなく、 すべては有であると考える人には無ではないのであって、 この有の考えにとらわれた人からいえば有なのである。 なぜかというと、 有の考えにとらわれた人は報いを受けるからである。 有の考えにとらわれない人は報いを受けない。 また、 涅槃が変ることなく存在していることをさとっている人には有ではなく、 それをさとらない人には無ではないのであって、 涅槃が変ることなく存在していることにとらわれている人からいえば無であるとすることはできない。 なぜかというと、 変ることなく存在していることにとらわれている人には悪い行いの報いがあるからである。 だから、 涅槃が変ることなく存在していることにとらわれている人からいえば無であるとすることができないのである。 このようなわけで、 有でもなく無でもなくて、 しかも有なのである。 王よ、 衆生とは呼吸するもののことである。 呼吸を断つから殺害というのである。 衆生の本来は空であるから殺害も空であるが、 仏がたも世間の考え方に合せて、 殺害と説くのである。

ここも非常に難しい内容です。

釈尊がここで仰っていることは、「空」の思想による罪の説明です。「空」とは、固定的な実体がないことをいいます。罪についても、固定不変的な実体として捉えるのは間違いということです。高森顕徹会長は世間的な考えに合わせて、因果の道理から罪に対する悪果ばかりを強調しますが、仏教では「空」で説かれます。ここでは慚愧の心を発した阿闍世にとっては、父殺しの五逆罪が、そのまま無間地獄に堕ちるという固定的なものではない、と教えられています。

このことを『正像末和讃』には

罪業もとよりかたちなし
 妄想顛倒のなせるなり
 心性もとよりきよけれど
 この世はまことのひとぞなき

(現代語訳)

罪業はもともと形がないものであって、
誤った想いや常に変化して持続しない想いによるものです。
人間の本性は本来清らかであるけれども、
今のこの世に真実の心を持った人はいないのです。

と教えられています。罪にはもともと形があるのではなく、妄想顛倒によって、固定的なものと捉えているだけだと仰っています。

ところが高森会長は罪業を強調することで、それが固定不変な悪果をもたらすと脅しているのですから、高森会長が単に無知だということです。

釈尊が阿闍世に説かれたことは、簡単に言えば、

阿闍世が地獄に堕ちない理由

です。

一方、高森会長が言っていることは

すべての人が地獄に堕ちる理由

です。

これで、高森会長の脅し教義が仏教でも真宗でもないことを、現会員が理解できたのなら、退会は近いでしょうが、釈尊と親鸞聖人のお言葉を軽視する現会員は、一生このままかもしれません。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2016年5月24日 (火)

親鸞聖人が最重要視されたのに高森会長が全く知らない阿闍世の体験5

以前からの傾向ではありますが、当ブログへのアクセスが一番多いのが富山県、二番目が熊本県です。地震の前も後もこれは変わりません。この意味については皆さんの御想像にお任せします。

信巻の阿闍世の物語について述べてきましたが、その続きです。

 大王、たとへば幻師の四衢道の頭にして、種々の男女・象・馬・瓔珞・衣服を幻作するがごとし。愚痴の人は謂うて真実とす。有智の人は真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂へり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。
大王、たとへば山谷の響きの声のごとし。愚痴の人はこれを実の声と謂へり、有智のひとはそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂へり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。
大王、人の怨あるが、詐り来りて親付するがごとし。愚痴の人は謂うてまことに親しむとす、智者は了達してすなはちそれ虚しく詐れりと知らん。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂ふ、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。
大王、人鏡を執りてみづから面像を見るがごとし。愚痴の人は謂うて真の面とす、智者は了達してそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂ふ、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。
大王、熱の時の炎のごとし。愚痴の人はこれはこれ水と謂はん、智者は了達してそれ水にあらずと知らん。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂はん、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。
大王、乾闥婆城のごとし。愚痴の人は謂うて真実とす、智者は了達してそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂へり、諸仏世尊はそれ真にあらずと了知したまへり。
大王、人の夢のうちに五欲の楽を受くるがごとし。愚痴の人はこれを謂うて実とす、智者は了達してそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂へり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。
大王、殺法・殺業・殺者・殺果および解脱、われみなこれを了れり、すなはち罪あることなけん。王、殺を知るといへども、いかんぞ罪あらんや。
大王、たとへば人主ありて酒を典れりと知れども、もしそれ飲まざれば、すなはちまた酔はざるがごとし。また火と知るといへども焼燃せず。王もまたかくのごとし。また殺を知るといへども、いかんぞ罪あらんや。
大王、もろもろの衆生ありて、日の出づるときにおいて種々の罪を作る、月の出づるときにおいてまた劫盗を行ぜん。日月出でざるにすなはち罪を作らず。日月によりて、それ罪を作らしむといへども、しかるにこの日月実に罪を得ず。殺もまたかくのごとし。

(現代語訳)

 王よ、たとえば幻術師が、街の四つ角でさまざまな男女、象や馬、飾り物や衣服などの幻を見せるようなものである。愚かな人はそれを真実と思うが、賢い人は真実ではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また山びこのようである。愚かな人は真実の声と思うが、賢い人はそれが真実の声ではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また怨みをいだいているものがいつわって親しげに近づいてくるようなものである。愚かな人は本当に親しくなったように思うが、賢い人はそれが嘘いつわりであると知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また人が鏡を持って自分の顔を見るようなものである。愚かな人はそれが真実の顔と思うが、賢い人はそれが真実の顔ではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また逃げ水のようである。愚かな人はこれを水であると思うが、賢い人はそれが水ではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また蜃気楼のようである。愚かな人は真実と思うが、賢い人はそれが真実のものではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また夢の中で五欲の楽しみを受けるようなものである。愚かな人はこれを真実と思うが、賢い人はそれが真実ではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。
 王よ、殺害の方法も殺害の行為も殺害する人も殺害の結果も、そしてそれからの逃れ方もわたしはすべて知っているが、わたしに罪があるのではない。王が殺害のことを知っていても、どうして罪があろうか。王よ、たとえば人が酒についてよく知っていても、のまなければ酔わないようなものである。王もまた同じである。殺害のことを知っていても、どうして罪があろうか。王よ、ある人が太陽の出ているときにはさまざまな罪を犯し、また月の出ているときには盗みを働き、そして、太陽や月が出ていないときには罪を犯さないとしよう。この場合、太陽や月によって罪を犯すけれども、しかしこの太陽や月には罪があるのではない。殺害もまた同じである。

長いので、簡潔に言うと、

幻術師、山びこ、恨みを持った人が親しげに近づいてくること、鏡、逃げ水、蜃気楼、夢では、愚かな人はそれらが真実と思っても賢い人はそれらは真実でないものと知っている。
殺害も同じで、凡夫は殺害を真実と思っているが、仏は殺害を真実でないと知っておられる。
殺害の方法も殺害の行為も殺害する人も殺害の結果も、そしてそれからの逃れ方も釈尊は御存知でも、罪にはならない。
それは酒についてよく知っていても、酒を呑まなければ酔わないようなものである。
同じことで阿闍世が殺害の方法を知っていても、罪にならない。

高森会長はよく、随喜同業と教えていましたが、釈尊や親鸞聖人の教えに、殺生について随喜同業という発想自体が存在しないと言えます。

私が調べた範囲内では、高森会長の言う随喜同業という教えは、真宗にも仏教にもありませんが、ひょっとして外道の教えにあるものなのかもしれません。

罪悪を殊更に問題にし、親のことを邪魔だと心で思っただけでも五逆罪で無間業だなどいうのは、仏教や親鸞聖人の教えからはあり得ないことは、以前に書いた通りです。

因みに『末灯鈔』のお言葉は、そんな意味ではないことは、後の文章を読めば明らかですよね。

おやをそしるものをば五逆のものと申すなり、同座せざれと候ふなり。

五逆罪の者がいるからそんな者とは席を同じくするな、つまりこの手紙を受け取っている皆さんは五逆罪ではないですよ、でも五逆罪の人が近くにいるから親しくしてはいけません、ということです。
もし、全人類が五逆罪なら、家庭を持つことも「同座せざれ
学校や会社に行くことも「同座せざれ
それどころか親鸞会で集まることも「同座せざれ

結局、誰とも接してはいけないことになってしまいますよね。

高森会長の言うことは、悉く、釈尊、親鸞聖人の教えと正反対なのですが、どういうことか会員の皆さんは説明できるのでしょうか。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2016年5月16日 (月)

親鸞聖人が最重要視されたのに高森会長が全く知らない阿闍世の体験4

親鸞会の降誕会では、映画の試写会は行われませんでした。それは、試写会を行ったら、映画館で観る人が減るからです。映画の前売りチケットを大量に割り当てられて買わされて、捌ききれずに困っている会員がたくさんいます。また、勉強会に初めて参加した非会員に、いきなり入会を勧めて半強制的に5万円を取ったりして、会員からも顰蹙をかうなど、ますます親鸞会は困窮しているようです。

ところで、釈尊が阿闍世に対して仰っていることは対機説法だから我々には関係ないことだ、という人がいますが、もし関係ないことなら親鸞聖人は敢えて事細かに紹介されることはなかったでしょう。くどいようですが、『教行信証』全体の約1割、信巻の約4割も阿闍世のことに費やされている意味を、よく考えてみるべきです。

前回の続きです。

 大王、衆生の狂惑におほよそ四種あり。一つには貪狂、二つには薬狂、三つには呪狂、四つには本業縁狂なり。大王、わが弟子のなかに、この四狂あり。
多く悪を作るといへども、われつひにこの人、戒を犯せりと記せず。この人の所作三悪に至らず。もし還つて心を得ば、また犯といはず。王もと国を貪してこの父の王を逆害す。貪狂の心をもつてためになせり。いかんぞ罪を得ん。大王、人の耽酔してその母を逆害せん、すでに醒悟しをはりて、心に悔恨を生ぜんがごとし。まさに知るべし、この業また報を得じ。王いま貪酔せり。本心のなせるにあらず。もし本心にあらずは、いかんぞ罪を得んや。

(現代語訳)

王よ、 衆生の錯乱に総じて四通りがある。 一つには貪欲によるもの、 二つには薬によるもの、 三つには呪われたことによるもの、 四つには過去の行いによるものである。 王よ、 わたしの弟子たちの中にも、 この四つの錯乱がある。 錯乱したものが多くの悪をつくったとしても、 わたしはこの人が戒律を犯したとはしない。 錯乱したものが作った悪は地獄や餓鬼や畜生の世界に至る罪とはならない。 もし正気に戻ったなら、 そのものが戒律を犯したとはいわないのである。 王は、 かつて国王の位につきたいという心から父王を殺害した。 それは貪欲による錯乱からしたのであるから、 どうして罪になろうか。 王よ、 人が酒によって母を殺し、 酔いが醒めてから後悔するようなものである。 この行いもまた報いを受けないものと知るがよい。 王は今貪欲による錯乱から王を殺害したのであって、 正気でしたことではない。 正気でしたことでないのなら、 そうして罪になろうか。

これまた親鸞会で教えられたこととは真逆の内容で驚くべきことです。
簡単に言うと、

衆生の錯乱には総じて四通りある。
貪欲によるもの、薬によるもの、呪われたことによるもの、過去の行いによるものである。
衆生が錯乱してつくった悪は地獄や餓鬼や畜生の世界に至る罪とはならない。
阿闍世が国王につきたいという心から父王を殺害したのであって、それは貪欲による錯乱からしたことであるから罪ではない。

多く悪を作るといへども、われつひにこの人、戒を犯せりと記せず。この人の所作三悪に至らず。
と最後の
王いま貪酔せり。本心のなせるにあらず。もし本心にあらずは、いかんぞ罪を得んや。
は、目から鱗が落ちる思いではないでしょうか。

「仏教は心を重視している」の意味が、高森会長が言っていることとは、180度違います。どんな心の状態であっても、いかなる動機でも、悪いことを思ったらそれは、地獄行きの罪だと脅すだけの高森会長が、仏教と言えるのかどうか、少し考えてみれば判るでしょう。

会員に問いたいです。

釈尊の仰ることすべてが仏教の”常識”というのが仏教徒の筈ですが、釈尊の仰せと高森会長の言っていることは、全く違います。ならば、

A.釈尊の仰せが仏教の”常識”

B.高森会長の言うことが仏教の”常識”

どちらなのか、明確に答えてください。

| | コメント (11) | トラックバック (0)

2016年5月 9日 (月)

親鸞聖人が最重要視されたのに高森会長が全く知らない阿闍世の体験3

高森顕徹会長が読んだことのない『教行信証』信巻で引用された阿闍世の物語は、親鸞会の会員には信じられない内容の連続です。前回も言いましたが、親鸞聖人が省略されずに紹介されている個所は、阿弥陀仏の救いを理解する上で、大変に重要だと親鸞聖人が判断なされたところです。

釈尊は前回に続けてこう説かれました。

 大王、頻婆沙羅むかし悪心ありて、毘富羅山にして遊行し、鹿を射猟して曠野に周遍しき。ことごとく得るところなし。ただひとりの仙の五通具足せるを見る。見をはりてすなはち瞋恚悪心を生じき。《われいま遊猟す。得ざるゆゑんは、まさしくこの人の駆逐して去らしむるに坐る》と。すなはち左右に勅してこれを殺さしむ。
その人終りに臨んで瞋を生ず。悪心あつて神通を退失して誓言をなさく、《われ実に辜なし。なんぢ心口をもつて横に戮害を加す。われ来世において、またまさにかくのごとく還つて心口をもつてして、なんぢを害すべし》と。
ときに王、聞きをはりて、すなはち悔心を生じて死屍を供養しき。先王かくのごとくなほ軽く受くることを得て、地獄に堕ちず。いはんや王しからずして、まさに地獄の果報を受くべけんや。先王みづから作りて、還つてみづからこれを受く。いかんぞ王をして殺罪を得しめん。王のいふところのごとし。父の王辜なくは、大王いかんぞ、失なきに罪ありといはば、すなはち罪報あらん。悪業なくはすなはち罪報なけん。なんぢが父先王、もし辜罪なくは、いかんぞ報あらん。頻婆沙羅現世のなかにおいて、また善果および悪果を得たり。このゆゑに先王またまた不定なり。不定なるをもつてのゆゑに殺もまた不定なり。殺不定ならば、いかんしてかさだめて地獄に入らんといはん。

(現代語訳)

王よ、頻婆娑羅王は昔、悪い心をおこしたことがある。すなわち毘富羅山に猟にでかけ、鹿を射ようとして広野を歩きまわったことがあり、そのとき、一頭の鹿も得ることができなかった。そこにはただ五つの神通力をそなえた仙人が一人いるだけだった。頻婆娑羅王はこの仙人を見て大いに怒り、悪い心をおこしたのである。≪わたしが今猟に来ているのに獲物が得られないのは、このものが追い払って逃したからだ≫と思い、そこで家来に命じてこの仙人を殺させてしまった。仙人は命が終るときに怒りの心をおこして神通力を失い、≪わたしには何の罪もない。それなのにお前は心と口とで非道にもわたしを殺す。わたしも来世では、またお前がしたように、心と口とできっとお前を殺す≫と誓いをたてた。父王はこれを聞いて後悔の念にかられ、その亡骸を供養したのである。父王はこのようなわけで、罪が軽くなって地獄には堕ちなかった。まして王は殺せと命じたわけでもないのに、地獄に堕ちるはずがあろうか。父王は自分で罪をつくって、自分でその報いを受けたのである。王には父を殺したという罪はない。王は、父王に罪がないというけれども、どうして罪がないといえようか。罪があれば罪の報いがあり、罪がなければ罪の報いもないであろう。そなたの父に罪がないなら、どうして殺されるという報いがあろうか。頻婆娑羅王はこの世で、王になるという善の果報と、殺されるという悪の報いとを得た。だから、父王は、善とも悪ともいえない。善悪不定であるから、これを殺してもそれは善悪不定である。殺したことが善悪不定なら、どうして間違いなく地獄に堕ちるといえようか。

長いので簡単にまとめると、

昔、父王が鹿狩に出かけたとき、一頭も獲物を得ることができなかったことを、仙人がいたからだとして家来に命じて仙人を殺させてしまった。
仙人が死ぬ間際に残した言葉を聞いて父王は後悔して、仙人の亡骸を供養した。
その功徳で父王は地獄に堕ちなかったのである。
まして阿闍世は殺せと命じたわけではないので地獄に堕ちるはずがない。
父王は自分の罪の報いを受けたのである。
阿闍世には父王を殺したという罪はない。
父王はこの世で王になるという善果と、殺されるという悪果を得た。
善悪不定であるから、父王を殺してもそれは善悪不定である。
殺したことが善悪不定だから地獄に堕ちることはない。

如何でしょうか。
高森会長が話している因果の道理とはまるで違う内容です。特に、

不定なるをもつてのゆゑに殺もまた不定なり。殺不定ならば、いかんしてかさだめて地獄に入らんといはん。

ここは衝撃的な内容だと思います。

過失であろうが故意であろうが、動機を無視して、殺生ということだけですべて判断して、その報いは動機も背景も関係なく同じ悪果の地獄だとしか教えないのが高森会長ですが、高森会長が何を根拠にして高森流の因果の道理を教えているのか会員には考えてもらいたいものです。
高森流の因果の道理は、珍しく盗作ではなく、創作ではないかと思いますが、ひょっとしたら外道の因果の道理を盗作したのかもしれません。

いずれにしても、真宗とは無関係の因果の道理を、法話で毎回話をする高森会長は、外道からなら善知識と崇められてもいいでしょう。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2016年5月 5日 (木)

親鸞聖人が最重要視されたのに高森会長が全く知らない阿闍世の体験2

以前から何度も言っていますが、私に対して反論のコメントを書かれるのは大いに結構なことですが、根拠を基にして仰って頂かないと、議論にはなりません。個人的な理論や想像が、仏教や真宗の教えと関係なければ、それはその人の教え、もしくは高森会長の教えであって、親鸞聖人の教えではないのです。

判り易く言えば、イスラム教の教えではこうだと言われても困りますし、日蓮宗ではこう教えていると言われても困ります。同様に、私の考えではこうだとか、高森会長が判り易く話を変えたとか言われても、高森教では正しくても真宗では間違いとしか言いようがありません。

したがいまして、コメントは真宗の聖教を基にしないものは受け付けませんので、ご了承ください。

さて、『教行信証』信巻に引文された『涅槃経』の内容と読み比べられれば、高森会長の説く教えが、本当の仏法でないことは、誰の目にも明らかです。
心を重視しているのが仏法であることを高森会長は利用していますが、その内容は全く違います。
判らない方の為に、『涅槃経』の阿闍世の話を通して少し解説しておきます。

なお、『涅槃経』で省略されているところもありますので、省略されずに引文されている部分は親鸞聖人が重要視された部分ということです。

阿闍世は父親を殺したことで、自分は間違いなく無間地獄に堕ちると怯えていたのですが、その時に釈尊が阿闍世に仰った内容が『涅槃経』に詳しく説かれています。親鸞聖人は『教行信証』信巻に引かれています。

〈いかんぞ説きてさだめて地獄に入らんといはん。大王、一切衆生の所作の罪業におほよそ二種あり。一つには軽、二つには重なり。もし心と口とに作るはすなはち名づけて軽とす。身と口と心とに作るはすなはち名づけて重とす。大王、心に念ひ口に説きて、身になさざれば、得るところの報、軽なり。大王、むかし口に殺せと勅せず、ただ足を削れといへりき。大王、もし侍臣に勅せましかば、たちどころに王の首を斬らまし。坐のときにすなはち斬るとも、なほ罪を得じ。いはんや王勅せず、いかんぞ罪を得ん。王もし罪を得ば、諸仏世尊もまた罪を得たまふべし。なにをもつてのゆゑに。なんぢが父、先王頻婆沙羅、つねに諸仏においてもろもろの善根を種ゑたりき。このゆゑに今日、王位に居することを得たり。諸仏もしその供養を受けたまはざらましかば、すなはち王たらざらまし。もし王たらざらましかば、なんぢすなはち国のために害を生ずることを得ざらまし。もしなんぢ父を殺してまさに罪あるべくは、われら諸仏また罪ましますべし。もし諸仏世尊、罪を得たまふことなくは、なんぢ独りいかんぞ罪を得んや。

(現代語訳)

釈尊が仰せになる。<どうして、きっと地獄に堕ちてしまうというのか。王よ、すべての衆生がつくる罪には、総じて二つある。一つには軽いもの、二つには重いものである。心と口につくる罪は軽く、身と口と心とにつくる罪は重いのである。王よ、心に思い、口にいうだけで、身に行わないなら、その報いは軽い。王は昔、父王を殺せと口で命じたのではなく、ただ足を傷つけて幽閉せよといったのである。王がもし家来に、父王の首を切れと命じたなら、家来はただちにそのようにしたであろう。そのとき父王の首を切ったとしても、命じただけでは王の罪にはならない。まして王はそのように命じてはいないのだから、どうして罪になろうか。王にもし罪があるなら、仏がたにもまた罪があるであろう。なぜなら、そなたの父である頻婆娑羅王は、いつも仏がたを供養して多くの功徳を積んでいたから王位につくことができたのであって、仏がたがその供養をお受けにならなかったなら、王位につくことはなかったのである。王位につかなかったなら、そなたが国を奪うために父王を殺害するということもなかったであろう。そなたが父を殺し、それが罪に成るのなら、わたしを含めて仏がたにもまた罪があるはずである。仏がたに罪がないのなら、そなただけにどうして罪があろうか。

高森会長とは、全く違うことを釈尊は仰っています。阿闍世が父親の頻婆娑羅を殺したといっても、阿闍世が手にかけて殺したのではないから、罪は軽いというのです。「心と口とに作るはすなはち名づけて軽とす。身と口と心とに作るはすなはち名づけて重とす。」と釈尊が仰ったことは、心に思っただけで重罪と説明する高森会長とは真逆です。殺すという強い意志を持って、実際に親を殺したのが五逆罪です。心で思っただけなら、五逆罪にはなりませんし、無間業でもありません。

釈尊は説明を続けられています。頻婆娑羅が王位に就いたことにより、頻婆娑羅は殺されたのだから、頻婆娑羅が王位に就く原因にまで言及されて、阿闍世に頻婆娑羅殺害のすべての罪がある訳ではないとまで仰っています。

これまでのことは、親鸞会の会員にとっては衝撃的な内容でしょう。仏教で心を重視するのは、心で造る罪を重視しているということではなく、体で造る罪のその時の心を重視するということです。

親殺しを例に挙げれば、

A.多くの人から慕われ、感謝され、尊敬されている父親を妬んで、父親を殺した子供
B.何人もの人を次から次へと殺していく連続殺人犯の父親に悲嘆し、これ以上犠牲者を増やす訳にいかないと父親を殺した子供

が同じ五逆罪というのが、高森会長の考えです。高森会長は、動機という心を軽視しているからです。一方で、仏教ではとは、罪が全く違うと教えられます。これが、心を重視しているということです。
こんなことは仏教を持ち出さなくても、現代の日本の裁判でも、高森会長の歪んだ考えなど、一蹴されるでしょう。
実際に殺さなくても同じことです。心で「死んでくれたら」と思う場合でも、

C.多くの人から慕われ、感謝され、尊敬されている父親を妬んで、父親に死んでほしいと思う子供
D.何人もの人を次から次へと殺していく連続殺人犯の父親に悲嘆し、これ以上犠牲者を増やしたくないから、父親に死んでほしいと思う子供

高森会長の考えでは、とは同じ五逆罪になり、動機という心を軽視しているのです。仏教では、とは明らかに異なると教えられます。心を重視しているからです。常識的に考えてもには違いがあると判断します。

ところが、高森会長の考えでは、A・B・C・Dはすべて同じ五逆罪で無間業であると教えるのです。とは、天と地ほど違いますが、これを一律に同じ五逆罪と定義するのが高森会長です。これで、高森会長が如何に心を軽視しているかが、お判りいただけたと思います。

要するに、高森会長は「法律や倫理道徳と違い、仏教では心を重視している」、と説明することで、高森会長の話が崇高な内容に思えるように装っているだけです。実際は、法律で罰する際の動機という心さえも軽視どころか無視している、極めて低俗な話だということです。

高森会長は東南アジアの仏教国を馬鹿にしていますが、心を軽視した高森会長の教えなど外道だ、と東南アジアの仏教国は見做すでしょう。

高森会長には、本当の仏法とかいう前に、世の中の常識的な考えを学んでほしいものです。

| | コメント (15) | トラックバック (0)

2016年5月 1日 (日)

親鸞聖人が最重要視されたのに高森会長が全く知らない阿闍世の体験1

親鸞会が映画を作って映画館で上映するということが、会員と退会者でのみ話題になっています。高森顕徹会長がボケていないなら、その意図は某国の核実験・ミサイル発射と同じです。高森会長自身と会の”偉大さ”を演出することと、会員に対して命懸けの求道という刷り込みで求心力を保ち、更なる金集めを目論んでいるだけのことです。

映画がヒットするなんて、上層部は思ってもいないでしょう。

核実験・ミサイル発射を連発する国が豊かな国だと皆さん思いますか。貧しいからこそそういった方法を使うのです。親鸞会も全く同じです。かなり苦しいことは目に見えています。

ところで、親鸞聖人が最も重要視した獲信の体験は、阿闍世の話です。高森会長がアニメまで作って必死に宣伝した韋提希の話は、親鸞聖人の御著書のどこにも紹介されていません。一方で高森会長が全く話したことのない阿闍世の獲信については、『教行信証』信巻の約4割を割いて長々と紹介されています。

この一点を見ただけでも、高森会長が親鸞聖人の教えに疎いことが判ります。

親鸞聖人が阿闍世について紹介された意図は、下品下生の者が10回の念仏を臨終に称えて往生するという、聖道門の論理からは考えられない阿弥陀仏の救いについて、その実例が阿闍世だからです。

韋提希は下品下生ではありません。下品下生とは、五逆の者です。韋提希は親を殺してはいません。阿闍世は父親を殺しています。

韋提希の獲信について親鸞聖人が紹介説明されても、下品下生の者が往生することの証明はできませんので、下品下生の者である阿闍世を親鸞聖人は取り上げられているのです。


もう一度言いますと、下品下生の者でさえも往生できることを証明する実例は、阿闍世しかいないのです。

それと阿闍世の話は、高森会長の邪義をあぶりだした根拠にもなっています。以下の多くが、阿闍世の話が説かれた『涅槃経』からも言えます。

いつもの14項目

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
- - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.法の深信について

親鸞聖人 往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 浄土往生が火に触ったよりも明らかに知らされる

11.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善知識に無条件服従せよ

12.因果の道理について

親鸞聖人 罪福の因果を信じることは自力・仏智不思議を疑う心
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 因果の道理を深信しなければならない

13.三願転入について

親鸞聖人 聖道門の人を浄土門に導く方便が19願であり、19願の勧めはない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 全人類は19願から始めなければならない

14.「一向専念無量寿仏」について

親鸞聖人 諸善を廃して念仏1つになること
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む


阿闍世の話は長いので、順番に説明していきますが、最初になぜ親鸞聖人は阿闍世を取り上げたのかです。

それについては阿闍世の話に信巻でこう仰っています。

それ諸大乗によるに、難化の機を説けり。いま『大経』には「唯除五逆誹謗正法」といひ、あるいは「唯除造無間悪業誹謗正法及諸聖人」(如来会・上)とのたまへり。『観経』には五逆の往生を明かして謗法を説かず。『涅槃経』には難治の機と病とを説けり。これらの真教、いかんが思量せんや。

(現代語訳)

さて、さまざまな大乗の教典によると、救われがたい人々について説かれている。いま『無量寿経』には、「ただし、五逆の罪を犯したり、正しい法を謗るものだけは除かれる」と説かれ、『如来会』には、「ただし、無間地獄に堕ちるような悪い行いの罪をつくったり、正しい法および聖者たちを謗るものだけは除かれる」と説かれている。また『観無量寿経』には、五逆のものの往生は説かれているが、謗法のものについては説かれていない。『涅槃経』には、治しがたい病の人々とその病とが説かれている。これらの仏の教えについて、どのように考えたらよいであろうか。

18願だけを読んでそのまま解釈すると五逆、謗法のものは救われないという結論になってしまいます。しかし、『観無量寿経』には五逆のものの救いが説かれていますので、五逆のものでも救われることが判ります。更には阿闍世の獲信によって実際に父殺しの五逆罪を犯した阿闍世が、実際に救われることが説かれています。

逆に言えば、『観無量寿経』と『涅槃経』によらなければ、五逆のものの救われることを経典上では証明できないのです。
ということは、五逆謗法の者とそうでないがいることが大前提だということです。
具体的にいえば、阿闍世は五逆の者ですが、韋提希は五逆の者ではないということです。

まあ、親鸞会の邪義など、聖教のどこを読んでも簡単に証明できますがね。

| | コメント (13) | トラックバック (0)