観無量寿経

2015年5月28日 (木)

『観無量寿経』を一度も読んだことのない高森顕徹会長6

『観無量寿経』で最も問題となるのが、下品下生の往生です。五逆の罪人が、臨終に善知識から念仏1つを勧められて、10回念仏を称えて往生する、と説かれています。無量寿経』下品下生

下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。
命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。

(現代語訳)

次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。そこで善知識はさらに、<もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい>と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。
そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。

とあります。
五逆罪を犯した極重の悪人が、平生に善をすることもなく、仏法を聞いたこともないのに、臨終になって初めて善知識に遇って、念仏の教えを聞き、念仏を称えようとするも臨終の苦しみのために、心の籠った念仏を称えることさえもできずに、口だけの10回の念仏で往生を遂げた、と説かれているのですから、実に驚くべきことであり、信じがたいことなのです。
しかし、これこそが阿弥陀仏のお力です。『観無量寿経』を読めば判るように、我々が善をする必要は全くないのです。
ここまではっきり説かれているのに、

そんな上手い話がある訳がない

と疑って、救いの一念には善が不要でも、一念に至るまでには善をしなければそこまで辿り着けない、というように考えることを、仏智疑う罪と言われるのです。

『観無量寿経』の下品下生の往生を疑っているのが、聖道門ならば理解できますが、それが浄土真宗を名乗る団体となれば、まるで漫才です。

無二の善知識を気取っている高森会長のために、歴代の善知識方の解釈を紹介しておきます。
善導大師は『玄義分』

下が下とは、「これらの衆生不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。この人悪業をもつてのゆゑに、さだめて地獄に堕して多劫窮まりなからん。命終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむるに遇ふ。この人教によりて仏を称し、念に乗じてすなはち生ず」と。この人もし善に遇はずは、必定して下沈すべし。終りに善に遇ふによりて七宝来迎す。

(現代語訳)

下品下生とは、
これらの衆生は、善くない業おこないである五逆・十悪を造り、いろいろの悪を犯している。この人は悪業によるから必ず地獄に堕ちて多劫のあいだ窮まりない苦しみを受ける人であるが、命終わろうとするとき、善知識が南無阿弥陀仏と称えることを教え、往生を勧めてくださるのに遇う。この人はその教にしたがって念仏し、念仏によって往生する。
とある。この人がもし善知識に遇わなければ必ず地獄に堕ちるところであったが、臨終に善知識に遇うたことによって、七宝の蓮台に迎えられたのである。

と教えられています。
善の勧めは、平生も臨終もありません。
法然上人は『選択本願念仏集』

下品下生はこれ五逆重罪の人なり。しかるによく逆罪を除滅すること、余行の堪へざるところなり。
ただ念仏の力のみありて、よく重罪を滅するに堪へたり。ゆゑに極悪最下の人のために極善最上の法を説くところなり。例するに、かの無明淵源の病は、中道腑臓の薬にあらずはすなはち治することあたはざるがごとし。
いまこの五逆は重病の淵源なり。またこの念仏は霊薬の腑臓なり。この薬にあらずは、なんぞこの病を治せん。

(現代語訳)

下品下生は五逆の重罪を犯した悪人である。しかるによく逆罪を滅ぼすことは、諸行のできないところであって、ただ念仏の力のみが、よくその重罪を滅ぼすことができる。それ故、極悪最下の人のために極善最上の法を説かれるのである。例えば、かの迷いの源である無明の病は、仏法の肝要である中道を観ずる薬でなかったならば、治すことができないようなものである。いまこの五逆は重病の源であり、またこの念仏は霊薬の肝要である。この薬でなかったならば、どうしてこの病を治すことができようか。

と、諸善では何の役にも立たないことを薬に譬えて教えられています。

親鸞聖人も『唯信鈔文意』で、

「汝若不能念」といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。
「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」といふは、五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫の罪をもてるゆゑに、十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪を消すまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらせんがためなり。「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。

(現代語訳)

『観無量寿経』に「汝若不能念」と説かれているのは、五逆・十悪の罪を犯した人や、私利私欲のために教えを説いたものが、病の苦しみに阻まれて、心に阿弥陀仏を念じることができなければ、ただ口に「南無阿弥陀仏」と称えよとお勧めになっているお言葉である。これは称名念仏を本願の行としてお誓いになっていることをあらわそうとされているのである。続いて「応称無量寿仏」と説かれているのは、この意味である。「応称」は、称えよということである。
『観無量寿経』に「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」と説かれているのは、五逆の罪を犯した人はその身に八十億劫の十倍の罪をもつことになるので、十回「南無阿弥陀仏」と称えよとお勧めになっているお言葉である。一回の念仏で八十億劫の十倍の罪を消すことができないのではないけれども、五逆の罪がどれほど重いのかを人々に知らせるために、このようにいわれているのである。「十念」というのは、ただ口に念仏を十回称えよというのである。このようなわけで、選択本願に「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」と誓われていると『往生礼讃』にいわれているのは、阿弥陀仏の本願は、念仏するのがたとえ十回ほどであっても、みな浄土に往生することができることを知らせようと善導大師がお思いになって、「十声」といわれているのである。「念」と「声」とは同じ意味であると心得なさいというのである。「念」を離れた「声」はなく、「声」を離れた「念」はないということである。

と仰っています。善など、何の関係もありません。

18願での救いにあずかるまでの道程に善が要るとか、19願を必ず通るとか、宿善が厚くならねばとか、善のできないものと知らされるまで善をしなければならないとか、妄想以外の何物でもありません。

自分の目で善知識方の聖教を読んで、自分の頭で考えてみれば、誰でも判断できる明白な教えです。高森会長が以下に無知かもはっきり判ります。

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2015年5月26日 (火)

『観無量寿経』を一度も読んだことのない高森顕徹会長5

前回、『観無量寿経』に説かれた10種類の機について書きましたが、これを違う見方をすれば、

定善の機に定善を勧め
上品上生・上品中生・上品下生に行福を勧め
中品上生・中品中生に戒福を勧め
中品下生に世福を勧め
下品上生・下品中生・下品下生に念仏を勧められた

ということです。
一言で言えば、

善人に善を勧め、悪人に念仏を勧められた

ということになります。
従いまして、自分が悪人だと思うのであれば、念仏という行を選択するしかないのですが、それを悪人に善を勧められたという頓珍漢なことを言っているのが高森顕徹会長です。

親鸞聖人は『浄土和讃』

臨終現前の願により
 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして
 定散諸機をすすめけり

と仰り、19願によって釈尊は『観無量寿経』に諸善をすべて顕わされて、「定散諸機」に勧められた、と教えられています。善人に諸善を勧められたと。

一方で、『高僧和讃』には、

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

とありまして、極悪深重の衆生には、諸善と言う他の方便がなく、ひとえに念仏して、浄土に往生すると源信僧都が仰った、と教えられています。悪人には念仏一つを勧められたのだということです。

当たり前の論理ですが、これが判らずに、訳の判らないヘンテコ理論でトンデモ教義を拵えたのが高森会長です。最近出していませんが、いつもの14項目のほとんどが、『観無量寿経』を読めば判ることなのです。

いつもの14項目

 

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.法の深信について

親鸞聖人 往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず
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高森会長 浄土往生が火に触ったよりも明らかに知らされる

11.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

12.因果の道理について

親鸞聖人 罪福の因果を信じることは自力・仏智不思議を疑う心
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高森会長 因果の道理を深信しなければならない

13.三願転入について

親鸞聖人 聖道門の人を浄土門に導く方便が19願であり、19願の勧めはない
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高森会長 全人類は19願から始めなければならない

14.「一向専念無量寿仏」について

親鸞聖人 諸善を廃して念仏1つになること
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高森会長 阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む

 

『歎異抄』について

 

第1章

1.「ただ信心を要とす」の「信心」とは

親鸞聖人 「ただ念仏で往生できる」と信じた心
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高森会長 「助かった」とハッキリした心

2.「本願を信ぜんには他の善も要にあらず」とは

親鸞聖人 本願に救われるには善は不要
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高森会長 救われたなら善は不要だが、救われる前には善が勧められている

3.「悪をもおそるべからず」とは

親鸞聖人 本願に救われるのに、悪が妨げになることはない
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高森会長 悪を恐れ不安になるのは、地獄一定の悪人と知らされていないからだ

第2章

4.「ただ念仏して」の「ただ」とは

親鸞聖人 念仏一行
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高森会長 びっくり仰天

5.「総じてもつて存知せざるなり」とは

親鸞聖人 念仏が浄土に生れる因なのか地獄に行く因なのかを知る智慧を持っていない
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高森会長 知り過ぎた知らん

6.「弥陀の本願まことにおわしまさば」は仮定か断定か

親鸞聖人 仮定
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高森会長 断定

第3章

7.「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」とは

親鸞聖人 善人ではなく悪人のために18願を建てられた
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高森会長 「悪人」とは、全人類のことであり、「人間」の代名詞にほかならない

 

『観無量寿経』を読んだことがなくても、真宗学を少しでも学べば、こんな間違いはしないでしょう。

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2015年5月13日 (水)

『観無量寿経』を一度も読んだことのない高森顕徹会長4

『観無量寿経』には、10種類の機について説かれています。そのことは退会者のブログで知ったのか、親鸞会でも近年になって言うようになりましたが、もちろん意味が違います。
まず、10種類の機とは

定善の機―──定善のできる機
上品上生─┐
上品中生  ├─行福のできる機
上品下生─┘
中品上生─┐
中品中生─┴─戒福のできる機
中品下生───世福のできる機
下品上生───無善十悪の機
下品中生───無善破戒の機
下品下生───無善五逆の機

ということです。
高森顕徹会長は、10の機といっても、真実は下品下生の逆謗の一機だと言っていますが、根本的に間違っています。敢えて書きましたが、定善の機は定善の【できる】機ですし、上品の三機は、行福の【できる】機です。定善・散善のできる機は存在しないのではなく、存在するから分けて説かれているのです。

ところで、念仏弾圧のきっかけとなった『興福寺奏状』第六には以下のようにあります。

もし専念なき故に往生せずとならば、智覚禅師は毎日一百箇の行を兼修せり、何ぞ上品上生を得たるや。

智覚禅師は、諸善を修して上品上生の往生を遂げられた、と書いていますが、これも含めて、法然上人の教えに徹底的な攻撃を聖道門の諸寺は加えて、承元の法難となりました。それに対して法然上人も親鸞聖人も、智覚禅師のことを次のように仰っています。

法然上人は『勅伝』

達磨宗の祖師、智覚禅師は、上品上生の往生人なり。

親鸞聖人は『教行信証』信巻

禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。

(現代語訳)

高玉や智覚ほど禅定に入って自己の本性を見たものはいない。彼らもまた仲間とともに念仏し、すぐれた往生をとげた。

親鸞聖人も法然上人と同様に、智覚禅師は上品上生の往生をされた方との見方をされていることが判ります。

要するに、法然上人も親鸞聖人も更には聖道門でも、智覚禅師が行福のできた上品上生の方だとの認識で一致しているのです。

全人類が逆謗の一機だなどという考えは、聖道門にも法然上人にも親鸞聖人にも全くないことがお判り頂けると思います。
念のため言っておきますが、法然上人も親鸞聖人も、御自身のことでさえも、逆謗の機、下品下生だとまでは仰っていません。

高森会長の主張の根拠が大沼師にあることは、言うまでもありません。

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2015年5月 4日 (月)

『観無量寿経』を一度も読んだことのない高森顕徹会長3

親鸞会が大好きな善導大師の御文の代表が、「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。」、「二種深信」、「二河白道の譬喩」です。しかし、高森顕徹会長をはじめとして、講師部員、会員も、これが『観無量寿経』上品上生で説かれた三心の解釈であることを知りません。

釈尊は定善を一通り説かれた後、散善・九品について説かれます。そこにある、

一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず。

わずかこれだけの御文に、善導大師は着目せられて、信心について『観無量寿経疏』の中で、最も力を入れられ、非常に詳しく解釈をなされました。

上の3つはそれぞれ、至誠心についての解釈の一部が、「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。」、深心についての解釈の一部が「二種深信」、回向発願心についての解釈の一部が「二河白道の譬喩」です。この3つが揃って真実の信心となり、必ず往生できると教えられた方が善導大師で、『往生礼讃』でも

この三心を具すれば、かならず生ずることを得。もし一心も少けぬれば、すなはち生ずることを得ず。

と仰っています。至誠心・深心・回向発願心の三つが揃えば必ず往生できるが、一つでも欠けると往生できない、ということです。

それを更に詳しく解説なされたのが親鸞聖人です。

この基本的なことすら高森会長は知りません。なぜなら、『観無量寿経』も『観無量寿経疏』も『教行信証』も、どれ一つとして読んだことがないからです。

ただし、無知な高森会長でも、『教行信証』の最低限の構成については知っているようで、教巻・行巻・信巻・証巻・真仏土巻は真実について、化土巻だけが方便について書かれている、と一応は教えています。これ自体は、珍しく正しいのですが、それならば、高森会長が19願に関連していると言っている「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。」と二河白道の譬喩が、何巻に引かれているかも知っているでしょうか。会員の方が知っていると思いますが、読み替えがあっても共に信巻です。化土巻には全くありません。

まとめると

至誠心釈「外に賢善精進の相を現じ、…」-信巻=真実(≠方便
回向発願心釈「二河白道の譬喩」-信巻=真実(≠方便)

要するに、どんな屁理屈をつけようが、「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。」も「二河白道の譬喩」も、真実の信心、他力の信心を顕わされたとしか親鸞聖人は見做されていない訳で、19願とは無関係です。

親鸞聖人の言い方ではそうだが、善導大師は19願のことを仰っている

とかなんとか、ヘンテコな詭弁を近年思いついて言ってみたものの、その矛盾を私が指摘すると黙ってしまうお粗末さです。

高森会長の思いつき、行き当たりばったりの詭弁が通用するほど、退会者は甘くありません。

せめて、『観無量寿経』くらいは、一通り目を通してから出てきなさい、と言いたいところですが、高森会長や講師部員程度の日本語能力では、百回読んでも現代語訳もできないでしょう。

悔しいと思う高学歴の講師部員でも幹部会員でもいるなら、いつでも法論に応じますので、遠慮なく仰ってください。

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2015年4月28日 (火)

『観無量寿経』を一度も読んだことのない高森顕徹会長2

高森顕徹会長は、釈尊が韋提希に定善をやらせてみた、ということを言っていますが、これまた『観無量寿経』を読んだことがない証拠の1つです。

釈尊が定善を説かれる経緯について、『観無量寿経』では、

仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣にして、いまだ天眼を得ざれば、遠く観ることあたはず。諸仏如来に異の方便ましまして、なんぢをして見ることを得しむ」と。ときに韋提希、仏にまうしてまうさく、「世尊、わがごときは、いま仏力をもつてのゆゑにかの国土を見る。もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」と。

(現代語訳)

さらに釈尊は韋提希に仰せになった。
「 そなたは愚かな人間で、力が劣っており、まだ天眼通を得ていないから、はるか遠くを見とおすことができない。しかし仏には特別な手だてがあって、そなたにも極楽世界を見させることができるのである 」
そのとき韋提希が釈尊に申しあげた。
「 世尊、わたしは今、仏のお力によってその世界を見ることができます。でも、世尊が世を去られた後の世の人々は、さまざまな悪い行いをして善い行いをすることがなく、多く苦しみに責められることでしょう。そういう人たちは、いったいどうすれば阿弥陀仏の極楽世界を見ることができるでしょうか 」

とあり、この後、釈尊は定善を説かれます。
簡単に言えば、韋提希の能力では浄土を見ることのできないことを釈尊は宣告された上で、釈尊のお力によって浄土を見ることのできた韋提希が、釈尊入滅後の衆生を心配して、衆生が自分の力で浄土を見る方法を釈尊に尋ねたということです。

つまり、すでに浄土をみている韋提希にとっては、定善はする必要もなく、できるとも最初から思っていなかったのです。

この定善のできる人とできない人との違いにつて善導大師は、『定善義』で次のように仰っています。

ただ万事ともに捨てて、なほ失意・聾盲・痴人のごとくなれば、この定かならずすなはち得やすし。もしかくのごとくならざれば、三業縁に随ひて転じ、定想波を逐ひて飛ぶ。 たとひ千年の寿を尽せども、法眼いまだかつて開けず。

(現代語訳)

ただよろずの事をともにすてることが、 失意の人・聾・盲・無智の人のようになれば、 この定は必ず成じやすい。 もしこのようにしなければ、 身口意業が所縁の境にしたがって移り、 禅定の想も波のように動いて、 たとい千年の命をかけても智慧の眼は開けない。

世間から隔離されたところで、五感を停止させることができれば簡単にできるが、そうでなければできない、ということです。したがって世俗の中にいる韋提希には到底無理なこととです。

それに定善十三観は、日想観ができたら水想観、水想観ができたら地想観というようにステップアップしていくものです。日想観ができなかったら水想観、水想観ができなかったら地想観ではありません。
実際『観無量寿経』には

この想成ずるとき、一々にこれを観じて、きはめて了々ならしめよ。

地想成じをはりなば、次に宝樹を観ぜよ。

等とあります。もし韋提希が日想観を実践しようとしてできなかったとするのなら、水想観は韋提希とは完全に無関係に説かれたことになります。

これくらいのことは読めば判るでしょうに。

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2015年4月22日 (水)

『観無量寿経』を一度も読んだことのない高森顕徹会長1

19願について何も知らないのが高森顕徹会長ですが、もちろん『観無量寿経』の内容も知りません。高森会長は『観無量寿経』を一度も読んだこともないのですから、当然でしょう。

『観無量寿経』の初めに頻婆娑羅王について説かれています。釈尊は目連と富楼那とを頻婆娑羅王の元に遣わして、王の求めに応じて八戒を授けられています。その後、頻婆娑羅王は亡くなりますが、その際に

一々の光、頻婆娑羅の頂を照らす。そのとき大王、幽閉にありといへども心眼障なく、はるかに世尊を見たてまつりて頭面、礼をなし、〔王の心は〕自然に増進して阿那含と成る。

と説かれていますように、頻婆娑羅王は阿那含という小乗仏教のさとりを獲ています。

『序分義』には

いまこの光口より出でてただちに王頂を照らすは、すなはちその小果を授くることを明かす。
(中略)
まさしく父の王、光の頂を照らすことを蒙りて心眼開くることを得て、障隔多しといへども自然にあひ見る。 これすなはち光によりて仏を見たてまつるは、意の期するところにあらず、敬を致し帰依するにすなはち第三の果を超証することを明かす。

(現代語訳)

今この光明が口から出てただちに王の頂を照らすのは、 すなわちその小乗のさとりを授けられることを明かすのである。
(中略)
まさしく父の王が、 仏の光明が頂を照らすのを受けて心眼が開け、 いろいろ妨げは多いけれども、 自然に仏と相見ることを明かす。 これは、 仏の光明によって仏を見たてまつることが、 王の予期したところではない。 そこで、 つつしんで敬い帰依して、 とび超えて第三の不還果をさとったのである。

と善導大師は解説なされています。

釈尊は頻婆娑羅王に浄土のことさえ説かれておらず、小乗仏教(聖道仏教)を説かれたのです。

一方で韋提希は『観無量寿経』で

やや、願はくは世尊、わがために広く憂悩なき処を説きたまへ。われまさに往生すべし。
(中略)
世尊、このもろもろの仏土、また清浄にしてみな光明ありといへども、われいま極楽世界の阿弥陀仏の所に生ぜんことを楽ふ。やや、願はくは世尊、われに思惟を教へたまへ、われに正受を教へたまへ

等と釈尊に申し上げているように、浄土を願ったのですから、頻婆娑羅王とは違います。
『序分義』でも

これ如来夫人の極楽に生ぜんと願じ、さらに得生の行を請ずるを見たまふに、仏の本心に称ひ、また弥陀の願意を顕すをもつて、この二請によりて広く浄土の門を開けば、

(現代語訳)

これは如来が韋提希夫人を見られるのに、 極楽に往生しようと願い、 さらに往生を得るための行を請うことが、 釈迦仏の本心にかない、 また弥陀の願意を顕わすことを明かすのである。 この韋提希の二つの願いによって広く浄土の法門をあらわされた。

とされ、韋提希の願いに応じて釈尊が浄土の教えを初めて説かれたのです。

これが対機説法です。頻婆娑羅王と韋提希とは機が違い、できる行が違うので、違う教えを説かれたということです。

判りやすく言えば、聖道門の行のできる人には聖道門を説かれ、浄土を願った人には浄土門を説かれた、ということです。聖道門が無意味な教えでないことは、『観無量寿経』中の頻婆娑羅王を通してでも判ります。

『観無量寿経』の最初の部分だけでも、高森顕徹会長の邪義というか無知が明白になります。

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