観無量寿経

2018年8月 1日 (水)

『観無量寿経』を読んだことがない高森顕徹会長と愉快な講師部員のために

『観無量寿経』を読んだことがない高森顕徹会長と愉快な講師部員に少し教えてあげます。

『観無量寿経』には、機に応じた行が勧められて、その行によって往生できると説かれています。具体的には

定善ができる機には、定善をしての往生
散善の行福ができる機には、行福をしての往生
散善の戒福ができる機には、戒福をしての往生
散善の世福ができる機には、世福をしての往生
定善も散善もできない機には、念仏での往生

が勧められています。
最後の
定善も散善もできない機とは、悪人のことで善導大師が『玄義分』で

仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。

と仰った下品上生から下品下生までの悪人です。
ちなみに「仏法の善根」が定善・行福・戒福で、「世俗の善根」が世福です。
定善はおろか散善も全くしてこなかったし今後もしない人のことを悪人と定義されているのです。

ですから大雑把に言うと、善人には善による往生を勧められ、悪人には念仏による往生を勧められたのが『観無量寿経』です。悪人に善を勧められたということは、どこをどう読んでも『観無量寿経』にはないのです。
浄土門においても、聖道門でさえも、そんなヘンテコな解釈をすることはありえません。

ということは、『観無量寿経』の方便の教え、つまり顕説は

善人には善による往生を勧められ、悪人には念仏による往生を勧められた

にしかなりませんので、方便から真実へ、あるいは三願転入という道程を主張するなら

善人:19願の善→20願の念仏→18願の念仏
悪人:19願の念仏→20願の念仏→18願の念仏

というのが隠顕釈となります。

なお、前回紹介した

『観経』には「極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得」

は、下品下生の極重の悪人に対して、念仏のみを勧められたことを示す善知識方の直接の文証ですが、一方で親鸞聖人は善人に対して善を勧められているのかと言えば、そうではありません。
『教行信証』化土巻に

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

と仰り、「定散の諸機」という善人も「極重悪人」同様に「ただ弥陀を称せよと勧励」されたのが『観無量寿経』の真意だと解釈されたのです。
『観無量寿経』の表面では、善人に対して善が勧められていますが、底では善人に対しても念仏だけが勧められている、と解釈されたことを隠彰と言うのです。
当然ですが、「ただ弥陀を称せよ」は18願です。
その証拠にこの直前に

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。

と仰っているからです。

善人に対しても悪人に対しても釈尊が勧められていることは18願の念仏のみで、善人には念仏に導く方便として定散二善が形式上勧められている、これが親鸞聖人の教えです。

間違えようのない明快な理論ですが、それをねじ繰り回して、訳が判らなくなって、何か深い御心があるのだろうと錯覚させているのが高森理論で、それを必死に擁護するのがプライドだけは高いが知能は低い講師部員なのです。

反論があるなら、いつでも法論に応じますので、コメントをくださいね。

もしコメントを拒否されたと言うなら、そのコメントを自分のブログに出せばよいです。そうすれば、誤魔化すことができませんので、安心してコメントしてください。

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2018年7月31日 (火)

屁理屈も矛盾に満ち溢れていることに気付くこともない高森顕徹会長と愉快な講師部員

かの人物が全く進歩なく学習能力のないことは、ここを見ていただければよいです。論点を変え続け、また元に戻っていることが判ります。

退会偽装者のお粗末さが、親鸞会の凋落を象徴している

さて先日の高森顕徹会長の話で、念仏に3つあると言っていました。教学聖典にもありますが、19願の念仏と20願の念仏と18願の念仏ということです。

かの人物も、『観無量寿経』の下品下生にあるのは方便の19願の念仏だと言っています。
一方で方便から真実へが『観無量寿経』の内容に明らかと言っています。

ここが愚かなところですが、それなら自力の念仏から他力の念仏への道を教えられたのが『観無量寿経』であり、三願転入だということになります。方便の諸善を勧めて真実に入ると主張しているなら、方便の念仏から他力に入るも『観無量寿経』の真意になります。

察しの悪い人のためにもう一度

下品下生の念仏が方便の19願意で、方便から真実へ明らかにされたのが『観無量寿経』なら、方便の自力の念仏から真実の他力の念仏に入ると教えられたのが『観無量寿経』

これが結論にしかなりません。

これまで何十回と紹介してきた『往生要集』のお言葉で『教行信証』行巻にも引かれている

『観経』には「極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得」

ですが意味は

『観無量寿経』には、極重の悪人(下品下生)には諸善ではなくただ念仏だけを勧められて極楽に往生できると教えられている

ということです。それに対して

飛雲は方便の自力の念仏から他力入ると言っている

と非難してきたのがかの人物です。

間違いだと非難した内容を今度は自分が言っているのですから、お粗末とかいうより、よくできたギャグです。

重要なところですので、何度でも説明しておきます。

『往生要集』のこのお言葉は、『高僧和讃』源信讃にも

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

と親鸞聖人は仰っています。

もちろん『正信偈』には、

極重悪人唯称仏

と書いておられます。

以上を承けられて蓮如上人は『正信偈大意』に

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と仰っています。

源信僧都、親鸞聖人、蓮如上人は読解力の乏しい親鸞会会員のために、「極重の悪人」に対しては、「他の方便なし」と定散二善は不要と、直接的な表現で仰っています。

この「ただ弥陀を称して」が自力であろうと他力であろうと、念仏しか勧められていないという事実は何も変わりません。

かの人物のように自力の念仏だとするなら、

極重の悪人には方便の諸善はなく方便の自力の念仏を称えることで極楽に往生できる

となりますし、他力の念仏だとするなら、

極重の悪人には方便は要らない、最初から真実の他力の念仏で極楽に往生できる

となります。

いずれにしても、極重の悪人には諸善など要らないのです。

どんなに屁理屈を考えようが矛盾に満ち溢れているのが親鸞会です。

異論があるなら、いつでもコメントください。根拠を元にした法論なら、拒否はしません。誰かのような卑怯なことはしませんので安心してコメントをください。

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2018年7月22日 (日)

よく知りもしない『観無量寿経』の内容を知ったかぶりで話をする高森顕徹会長と愉快な仲間達

本日の高森顕徹会長の講義では、二河白道の譬えについての話がありました。というと、詳しく話があったのかと思われるかもしれませんが、かなり省略した話で結論として、

二河は煩悩を表わし、その間の細い白道が聞法心だ。
聞く一本道だ。

というものでした。

間違いを指摘されていることを誤魔化しながら、過去に高森会長が話をしてきたこととの整合性をはかるには、極力話を削ることだと判断したのでしょう。

もちろん真宗において、白道を自力の聞法心とすることなどあり得ません。

ただ概ね想定通りの展開で、高森会長が退会者からの指摘に怯えきっていることが良く判ります。

ところで今回も韋提希が「実凡の人」だと善導大師お一人が明らかにされたことを、くどくどと説明していました。

どうせ知らないでしょうから、親鸞聖人が韋提希のことをどう仰っているかについて、教えて差し上げます。

『教行信証』化土巻で、前回の隠顕釈について仰っている中で、『観無量寿経』の御文を13文挙げられて以下のように解釈しておられます。

ここをもつて『経』(観経)には、「教我観於清浄業処」といへり。
「清浄業処」といふは、すなはちこれ本願成就の報土なり。
「教我思惟」といふは、すなはち方便なり。
「教我正受」といふは、すなはち金剛の真心なり。
「諦観彼国浄業成者」といへり、本願成就の尽十方無碍光如来を観知すべしとなり。
「広説衆譬」といへり、すなはち十三観これなり。
「汝是凡夫心想羸劣」といへり、すなはちこれ悪人往生の機たることを彰すなり。
「諸仏如来有異方便」といへり、すなはちこれ定散諸善は方便の教たることを顕すなり。
「以仏力故見彼国土」といへり、これすなはち他力の意を顕すなり。
「若仏滅後諸衆生等」といへり、すなはちこれ未来の衆生、往生の正機たることを顕すなり。
「若有合者名為粗想」といへり、これ定観成じがたきことを顕すなり。
「於現身中得念仏三昧」といへり、すなはちこれ定観成就の益は、念仏三昧を獲るをもつて観の益とすることを顕す。すなはち観門をもつて方便の教とせるなり。
「発三種心即便往生」といへり。
また「復有三種衆生当得往生」といへり。これらの文によるに、三輩について三種の三心あり、また二種の往生あり。
 まことに知んぬ、これいましこの『経』(観経)に顕彰隠密の義あることを。

19願の内容と18願の内容が『観無量寿経』の中で混在していることを親鸞聖人が示された箇所ですが、この中の

「汝是凡夫心想羸劣」といへり、すなはちこれ悪人往生の機たることを彰すなり。

が韋提希のところです。
釈尊が韋提希に対して「なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣なり」と仰った真意は、18願は、悪人往生だということを示されたものだと親鸞聖人は、解釈なされたということです。
もちろん定散二善の19願は善人往生ですから、「なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣なり」の文を以って、19願の教えが大半の中で、18願の教えを釈尊が顕かになされたと親鸞聖人は教えられているのです。

他に明確なところでは

「清浄業処」といふは、すなはちこれ本願成就の報土なり。
「教我正受」といふは、すなはち金剛の真心なり。
「以仏力故見彼国土」といへり、これすなはち他力の意を顕すなり。

などは、『観無量寿経』の中に18願の教えが顕わされていることを親鸞聖人が明示されている箇所です。

考え違いをしているかわいそうな人がいますが、『観無量寿経』の表面部分に18願の教えが少しではあってもあることを親鸞聖人が明示されることで、表面上は少ない18願の教えが、釈尊の本意、真意であると解釈なされたのが、隠顕釈です。

もう一度いうと、『観無量寿経』の表面に18願の教えは少ないですがあるのです。『観無量寿経』の表面上が全て19願の教えだったら、18願が隠されているというより、無い18願をでっち上げたことになります。そんな強引な解釈をされたのではないのですが、それが判らずに『観無量寿経』には18願はないと珍釈を書き連ねている講師が親鸞会に存在していることをみると、親鸞会ももう終わりだと思われます。
話を省略して誤魔化そうとしている高森会長の方が、まだましです。

トップがトップですから、その下はなお酷くなるのも当然ではありますが。

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2018年7月21日 (土)

隠顕釈を知らない高森顕徹会長と愉快な仲間達のための解説

『興福寺奏状』第七の「念仏を誤る失」にはこのようにあります。

もし然らずは、観経の疏を作り、また観念法門を作る。本経と云ひ、別草と云ひ、題目に何ぞ観の字を表せんや。しかるに、観経付属の文、善導一期の行、ただ仏名に在らば、下機を誘ふるの方便なり。

善導大師は『観無量寿経疏』を著わされ、また『観念法門』を著わされていますが、元の『観無量寿経』と共に題名に「観」の字があるので、「観法」という諸善が『観無量寿経』と善導大師の教えられたことの中心であって、いわゆる観経付属の文にある念仏は、下輩である悪人を仏法に導くための単なる方便ではないか。

ということを言って法然上人を糾弾したのが聖道門の学僧でした。これを読まれると判りますが、
念仏称えて往生するというのは『観無量寿経』の方便の教えだ
と親鸞会の愉快な仲間が言っていることと、殆ど同じです。
聖道門の理解で『観無量寿経』を説明しているお粗末さに、笑いを堪えられないのですが、親切心で親鸞聖人における『観無量寿経』の解釈の基本を教えてさしあげます。

『観無量寿経』には、『興福寺奏状』でもある通り、「観法」という善による往生が説かれている箇所と、念仏による往生が説かれている箇所があります。もっと簡単に言うと、往生の道は諸善によるものと念仏によるもの2通りがあることを教えられているのが『観無量寿経』です。
ただし、『観無量寿経』の文字の割合からすれば、圧倒的に諸善による往生が多いし、経典の題名に「観」の字が付けられている程ですので、念仏による往生はオマケ程度と考えたのが聖道門の学僧です。

それに対して反論をされた親鸞聖人の解釈が有名な隠顕釈です。
結論を言うと、『観無量寿経』の表面に顕れているのは諸善による往生ですが、陰に隠れているように見える念仏による往生が釈尊の本意であるということです。間違えてはならないのが、念仏による往生が『観無量寿経』に説かれていないのではなく、オマケ程度の扱いでしか説かれていないように思われる念仏による往生が『観無量寿経』の本意であり、表面上の大勢を占める諸善は、聖道門の行者を浄土門に導く方便であり、最終的には念仏による往生が勧められている、というのが、隠顕釈です。

聖道門が言っているような「念仏は悪人を導く方便」を完全否定されて、「諸善は聖道門らの善人を導く方便」とされたのが親鸞聖人です。
ここでも間違えてはいけませんが、「諸善は善人を導く方便」であって「諸善は悪人を導く方便」ではありません。

このことはmixiでの三願転入の法論で、完膚なきまでに高森顕徹会長が叩きのめされた内容でした。

『教行信証』化土巻の最初にある

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

から始まった法論ですが、その意味を顕わしている重要なお言葉が同じく化土巻にある

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。

と、七深信の第三深信

また決定して、釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して人をして欣慕せしむと深信すと。

です。
これによって、
半満・権実の法門に入るといへども、偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
そんな聖道門を脱落した者のために『観無量寿経』が説かれ19願が建てられた。
『観無量寿経』の中心と思われた「定散諸善」「二善・三福」「三福・九品・定散二善」は、「欣慕浄土の善根」という方便、浄土を願っていない人に浄土を願わせる方便だということが明確になったのです。

まとめると、
浄土を願っていない「半満・権実の法門に入るといへども、偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。」という聖道門の脱落者に浄土を願わせる方便が「定散諸善」であり、「半満・権実の法門に入る」ことのない悪人には関係のない方便が「定散諸善」だと親鸞聖人が教えられたのだ、
がmixiでの法論の結論で、高森会長以下親鸞会の講師面々が逃走し、法論の証拠隠滅まで謀って終わったのです。

念のため言っておきますと、聖道門では浄土に往生することは考えていないので、浄土往生を求めている浄土門とは完全に分けられているのが親鸞聖人です。浄土を願っていない浄土門の人などという定義はありません。親鸞会は、絶対の幸福を願っていて浄土を願っていないので、浄土門とは言えないですが、かといって聖道門のようにさとりを求めてもいないので、親鸞会の会員に対して「欣慕浄土の善根」という方便は、無関係になります。

悔しい気持ちは判りますが、聖道門が法然上人・親鸞聖人を弾圧した時と同じ主張をしていて、「これこそが親鸞聖人の本当の教えだ」とか未だに恥ずかしくもなく言える神経の持ち主に、益々憐みを感じます。

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2018年7月20日 (金)

『観無量寿経』下品下生の往生を18願のことだと仰った親鸞聖人を絶対に認めない高森顕徹会長と愉快な仲間達

偽退会者が私を必死になって攻撃しているそうですが、そのお陰で、このブログに辿り着く方もいらっしゃいますので、大いに非難攻撃してほしいものです。ただし、かの人物は過去に徹底的に叩きのめされて暫く大人しくせざるを得なかったため、陰でこそこそとしか非難攻撃できないので、私は憐みの心で見ててあげます。

さて、『観無量寿経』の下品下生について、親鸞聖人は18願を顕わされたものだと仰ったお言葉が『唯信鈔文意』にあります。

「汝若不能念」(観経)といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」(観経)とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。
「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」(観経)といふは、五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫の罪をもてるゆゑに、十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪を消すまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらせんがためなり。「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願(第十八願)には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃)と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。

(現代語訳)

『観無量寿経』 に 「汝若不能念 (なんぢもし念ずるあたはずは)」 と説かれているのは、 五逆・十悪の罪を犯した人や、 私利私欲のために教えを説いたものが、 病の苦しみに阻まれて、 心に阿弥陀仏を念じることができなければ、 ただ口に 「南無阿弥陀仏」 と称えよとお勧めになっているお言葉である。 これは称名念仏を本願の行としてお誓いになっていることをあらわそうとされているのである。 続いて 「応称無量寿仏 (まさに無量寿仏を称すべし)」 と説かれているのは、 この意味である。 「応称」 は、 称えよということである。
『観無量寿経』 に 「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念念中 除八十億劫 生死之罪 (十念を具足して南無無量寿仏と称せしむ。 仏名を証するがゆゑに、 念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く)」 と説かれているのは、 五逆の罪を犯した人はその身に八十億*劫の十倍の罪をもつことになるので、 十回 「南無阿弥陀仏」 と称えよとお勧めになっているお言葉である。 一回の念仏で八十億劫の十倍の罪を消すことができないのではないけれども、 五逆の罪がどれほど重いのかを人々に知らせるために、 このようにいわれているのである。 「十念」 というのは、 ただ口に念仏を十回称えよというのである。 このようなわけで、 選択本願に 「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 (もしわれ成仏せんに、 十方の衆生、 わが名号を称せん、 下十声に至るまで、 もし生れずは正覚を取らじ)」 と誓われていると 『往生礼讃』にいわれているのは、 阿弥陀仏の本願は、 念仏するのがたとえ十回ほどであっても、 みな浄土に往生することができることを知らせようと善導大師がお思いになって、 「十声」 といわれているのである。 「念」 と 「声」 とは同じ意味であると心得なさいというのである。 「念」 を離れた 「声」 はなく、 「声」 を離れた 「念」 はないということである。

これは、『唯信鈔』で引用された『観無量寿経』下品下生のご文を親鸞聖人が解説なされたところです。

「汝若不能念」「応称無量寿仏」「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」

これが『観無量寿経』の御文です。

これに対して親鸞聖人は

称名を本願と誓ひたまへることをあらはさん

と本願=18願の念仏のことだと明言されていますし、また

しかれば選択本願(第十八願)には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃)と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。

と18願とその言い換えである善導大師のお言葉を出されて説明なされています。

念仏1つで往生できることを親鸞聖人が断言されている箇所でもあります。

くどいようですが、そこには信心というものが必ず具わっているというのが前提にあります。

『末灯鈔』にある

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。

がそのことを最も端的に顕わされています。

念仏1つで助かる
信心1つで助かる

も同じことなのですが、この2つが同じことだと永久に理解できないというより、理解しないように必死に努力しているのが高森顕徹会長と愉快な仲間達です。

憐みの目で見続けてあげましょう。

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2018年6月30日 (土)

聖道門でさえ知っている浄土門の基礎さえ知らない高森顕徹会長と愉快な仲間達

聖道門が曲解した下品下生の往生について、善導大師がその間違いを正されたのですが、高森顕徹会長、その取り巻き、愉快な仲間達も、下品下生の往生がどんなことかさえ、何も知らないのです。聖道門でさえ知っていることを親鸞会の輩は知らないのに、19願がどうだ、求道がなんちゃら、宿善が云々と、的外れなことを未だに言っているのですから、真宗史に残る無知異安心集団です。

善導大師が下品下生の往生についてどう教えられているか、参考までに下品上生の往生と併せて紹介しておきます。

『玄義分』には、前回の「なんとなれば、この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。」に続いてこうあります。

なにをもつてか知ることを得る。下が上の文に説くがごとし。 「ただ五逆と謗法とを作らず、自余の諸悪はことごとくみなつぶさに造りて、慚愧すなはち一念に至るまでもあることなし。 命終らんと欲する時、善知識の、ために大乗を説き、教へて仏を称せしむるに遇ひて一声す。 その時阿弥陀仏、すなはち化仏・菩薩を遣はしてこの人を来迎し、すなはち往生を得しめたまふ」と。 ただかくのごとき悪人目に触るるにみなこれなり。 もし善縁に遇へば、すなはち往生を得。 もし善に遇はざれば、さだめて三塗に入りていまだ出づべからず。

(中略)

下が下とは、「これらの衆生不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。 この人悪業をもつてのゆゑに、さだめて地獄に堕して多劫窮まりなからん。 命終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむるに遇ふ。 この人教によりて仏を称し、念に乗じてすなはち生ず」と。 この人もし善に遇はずは、必定して下沈すべし。 終りに善に遇ふによりて七宝来迎す。

(現代語訳)

どうしてそれが知られるかというと、 下品上生の文に説かれている通りである。
「ただ五逆と謗法を作らないだけで、 そのほかの悪は皆ことごとく造り、 わずか一念も慚愧する心がない。 そういう者が命終わろうとする時、 善知識がその人のために大乗を説き、 教えて念仏させるのに遇う。 一声すると、 そのとき阿弥陀仏は化仏・菩薩をつかわして、 この人を来迎し、 そこで往生を得る。」
このような悪人は、 すべて人の常に見るところである。 もし善知識の縁に遇えば往生を得るが、 善知識の縁に遇わなければ必ず三途に沈んで出ることができない。

(中略)

下品下生とは、
「これらの衆生は、 善くない業である五逆・十悪を造り、 いろいろの悪を犯している。 この人は悪業によるから必ず地獄に堕ちて多劫のあいだ窮まりない苦しみを受ける人であるが、 命終わろうとするとき、 善知識が南無阿弥陀仏と称えることを教え、 往生を勧めてくださるのに遇う。 この人はその教にしたがって念仏し、 念仏によって往生する。」
とある。 この人がもし善知識に遇わなければ必ず地獄に堕ちるところであったが、 臨終に善知識に遇うたことによって、 七宝の蓮台に迎えられたのである。

仏法・世俗の二種の善根あることなし」の高森理論でいうところの無宿善の者が、臨終になって初めて善知識から仏法を聞いて念仏を勧められて念仏して往生するのだと善導大師が教えられているのです。

言い換えると、
過去世現在世で善をしてこなかった悪人が、臨終に初めて聞いた念仏称えて往生できるという教えの通りに念仏して往生する
ということです。

高森会長が回避した二河白道の譬えで、白道を自力だとか求道だとか善導大師が仰る訳がないです。諸善も19願も三願転入も完全に否定されて念仏だけで往生できると教えられたのが善導大師です。

どんな屁理屈を考えようが、

過去世現在世で善をしてこなかった悪人が、臨終に初めて聞いた念仏称えて往生できるという教えの通りに念仏しして往生する

が理解できるかどうかの話です。

このことは、一貫して私が書いてきたことですし、浄土門の根幹であり、聖道門の学僧でさえ知っている基本中の基本です。

小学生程度の国語の理解力があるなら、高森会長の邪義は明白ですし、幼稚園児程度の国語の理解力しかない人が高森邪義を称賛しているのです。

高森会長が紹介しない根拠を私が出すと、「難しい根拠で誤魔化す」とか幼稚園児並の負け惜しみしか言えないのも、恥ずかしいことですね。

悔しいという思いがあるのなら、下品下生の往生のどこに諸善が勧められていて、高森流の求道がどこにあるのか、善導大師のお言葉をもって説明しましょう。

幼稚園児並の捨て台詞しか言えないなら、黙っていた方が恥は少し軽減されるということです。その程度の思考もないのなら好きに負け惜しみを陰で言い続けましょう。冷やかな目で見続けてあげます。

法論をする元気があるなら、いつでも受け付けています。もちろん、小学生並の国語の理解力と聖教上の根拠を揃えての話ですがね。

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2018年6月24日 (日)

二河白道の譬えを回避した話で、更に恥の上塗りをして収拾のつかない無知ぶりを発揮する高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の講義では、予想通り二河白道の譬えについて話をしませんでした。敢えて避けたのでしょう。二河白道の譬えは、『教行信証』を読んだことがあれば、間違える筈のないストーリーなので、根本的に違うストーリーを平気で話す高森会長が『教行信証』を読んだことがないことはこのことだけでも断言できます。

さて、二河白道の譬えを避けてまで何の話をしたのかと言えば、『観無量寿経』の韋提希のことを、聖道門では権化の人と解釈していたのを善導大師が実凡の人だと明らかになされ、それで親鸞聖人が「善導独明仏正意」と仰ったのだということでした。

それ自体は間違いではありませんが、『観無量寿経疏』を読んでいたらもう少しまともな話ができるのでしょうが、『教行信証』さえ読んだことがないのに『観無量寿経疏』など読む以前に中の文字を見たこともないでしょうから、その程度の話を一日かけて得意満面で話ができるのです。

無知極まりない高森会長に、親切心で少し教えてあげます。

聖道門の学僧が『観無量寿経』で最も注目したことは、下品下生の極重の悪人が臨終に初めて善知識から仏法を聞いて、善知識に勧められた念仏を10回称えて往生するところです。韋提希よりも更に下の下品下生の極悪人がわずか10回の念仏で往生すると説かれていることが聖道門では考えられない話であるからです。聖道門だけでなく、親鸞会でも高森会長でも信じられない話でしょう。

聖道門ではどのように解釈していたのかということについて2種類『観無量寿経疏』には紹介されていますが、高森会長が何かの一つ覚えで言っている天台大師らの説について、『玄義分』の中で、下品下生を含む下輩のことを

下輩の三人はこれ大乗始学の凡夫なり。 過の軽重に随ひて分ちて三品となす。 ともに同じく一位にして往生を求願すとは、いまだかならずしもしからず、知るべし。

と善導大師は示されています。下輩の三人は、臨終に初めて仏教を聞いて往生を願ったとしているが実はそうではなく、過去世および平生に大乗を学び始めた凡夫だという解釈です。高森流宿善論と同じ発想です。

それに対して善導大師は反論なされました。

『玄義分』で
次に下輩の三人を対せば、諸師のいふ、「これらの人はすなはちこれ大乗始学の凡夫なり。過の軽重に随ひて分ちて三品となす。いまだ道位にあらず。 階降を弁ちがたし」とは、まさに謂ふにしからず。なんとなれば、この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。
(中略)
下品の三人はこれ悪に遇へる凡夫なり。悪業をもつてのゆゑなり。終りに臨みて善によりて、仏の願力に乗じてすなはち往生を得。かしこに到りて華開けてまさにはじめて発心す。なんぞこれ始学大乗の人といふことを得んや。もしこの見をなさば、みづから失し他を誤りて害をなすことこれはなはだし。

(現代語訳)

つぎに下輩の三種の人を対破するならば、他師らは、これらの人は大乗始学の十信位の凡夫であって、罪の軽重にしたがって三品に分けるが、まだ修行をしていないから、その上下を区別しがたいといっているが、そうではなかろうと思う。何となれば、この三種の人は、仏法につけ、世間につけ、いずれの善根もなく、ただ悪を作ることだけを知っている。
(中略)
下品の三種の人は悪縁に遇うた凡夫であって、悪業があるから、臨終に善知識により、弥陀の願力に乗託してすなわち往生することができ、かの国に至って華が開けて、そこで始めて菩提心をおこすのである。どうしてこれが大乗始学の十信位の人ということができようか。もし他師らのような考えをするならば、みずから利益を失い他をあやまらせて、害をなすことがいよいよ甚だしい。

と仰っています。

下品上生、下品中生、下品下生について「この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。」と明言なされています。
過去世にも、仏道修行したことがないだけでなく、倫理道徳の善さえもしてこなかった、つまり、下品上生、下品中生、下品下生の悪人は、過去世の善根がないのです。過去世の善根がないのですから、高森理論では”無宿善の者”です。

簡単にまとめると

下輩の悪人はどんなものか?

善導大師 過去世・現在世で無善根の者
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天台大師 過去世で善根を積んできた者
高森会長 過去世で善根を積んできた者(宿善の厚い者)

高森会長の理論は、善導大師に論破された天台大師らの聖道門の学僧の理論そのままです。

二河白道の譬えを話しなければ恥をかかなくて済むと考えたのでしょうが、高森会長の言っていることのほとんどすべてが善導大師・親鸞聖人の仰ったこととかけ離れているのです。

話をすればするほど恥の上塗りになります。齢90にして晩節を徹底的に汚し尽くしたいのなら話を続ければよいでしょうが、ビデオで悪知識の証拠を残して更にインターネットで宣伝するという愚行には、呆れを通り越して敬意を表したいと思います。

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2015年5月28日 (木)

『観無量寿経』を一度も読んだことのない高森顕徹会長6

『観無量寿経』で最も問題となるのが、下品下生の往生です。五逆の罪人が、臨終に善知識から念仏1つを勧められて、10回念仏を称えて往生する、と説かれています。無量寿経』下品下生

下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。
命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。

(現代語訳)

次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。そこで善知識はさらに、<もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい>と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。
そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。

とあります。
五逆罪を犯した極重の悪人が、平生に善をすることもなく、仏法を聞いたこともないのに、臨終になって初めて善知識に遇って、念仏の教えを聞き、念仏を称えようとするも臨終の苦しみのために、心の籠った念仏を称えることさえもできずに、口だけの10回の念仏で往生を遂げた、と説かれているのですから、実に驚くべきことであり、信じがたいことなのです。
しかし、これこそが阿弥陀仏のお力です。『観無量寿経』を読めば判るように、我々が善をする必要は全くないのです。
ここまではっきり説かれているのに、

そんな上手い話がある訳がない

と疑って、救いの一念には善が不要でも、一念に至るまでには善をしなければそこまで辿り着けない、というように考えることを、仏智疑う罪と言われるのです。

『観無量寿経』の下品下生の往生を疑っているのが、聖道門ならば理解できますが、それが浄土真宗を名乗る団体となれば、まるで漫才です。

無二の善知識を気取っている高森会長のために、歴代の善知識方の解釈を紹介しておきます。
善導大師は『玄義分』

下が下とは、「これらの衆生不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。この人悪業をもつてのゆゑに、さだめて地獄に堕して多劫窮まりなからん。命終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむるに遇ふ。この人教によりて仏を称し、念に乗じてすなはち生ず」と。この人もし善に遇はずは、必定して下沈すべし。終りに善に遇ふによりて七宝来迎す。

(現代語訳)

下品下生とは、
これらの衆生は、善くない業おこないである五逆・十悪を造り、いろいろの悪を犯している。この人は悪業によるから必ず地獄に堕ちて多劫のあいだ窮まりない苦しみを受ける人であるが、命終わろうとするとき、善知識が南無阿弥陀仏と称えることを教え、往生を勧めてくださるのに遇う。この人はその教にしたがって念仏し、念仏によって往生する。
とある。この人がもし善知識に遇わなければ必ず地獄に堕ちるところであったが、臨終に善知識に遇うたことによって、七宝の蓮台に迎えられたのである。

と教えられています。
善の勧めは、平生も臨終もありません。
法然上人は『選択本願念仏集』

下品下生はこれ五逆重罪の人なり。しかるによく逆罪を除滅すること、余行の堪へざるところなり。
ただ念仏の力のみありて、よく重罪を滅するに堪へたり。ゆゑに極悪最下の人のために極善最上の法を説くところなり。例するに、かの無明淵源の病は、中道腑臓の薬にあらずはすなはち治することあたはざるがごとし。
いまこの五逆は重病の淵源なり。またこの念仏は霊薬の腑臓なり。この薬にあらずは、なんぞこの病を治せん。

(現代語訳)

下品下生は五逆の重罪を犯した悪人である。しかるによく逆罪を滅ぼすことは、諸行のできないところであって、ただ念仏の力のみが、よくその重罪を滅ぼすことができる。それ故、極悪最下の人のために極善最上の法を説かれるのである。例えば、かの迷いの源である無明の病は、仏法の肝要である中道を観ずる薬でなかったならば、治すことができないようなものである。いまこの五逆は重病の源であり、またこの念仏は霊薬の肝要である。この薬でなかったならば、どうしてこの病を治すことができようか。

と、諸善では何の役にも立たないことを薬に譬えて教えられています。

親鸞聖人も『唯信鈔文意』で、

「汝若不能念」といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。
「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」といふは、五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫の罪をもてるゆゑに、十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪を消すまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらせんがためなり。「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。

(現代語訳)

『観無量寿経』に「汝若不能念」と説かれているのは、五逆・十悪の罪を犯した人や、私利私欲のために教えを説いたものが、病の苦しみに阻まれて、心に阿弥陀仏を念じることができなければ、ただ口に「南無阿弥陀仏」と称えよとお勧めになっているお言葉である。これは称名念仏を本願の行としてお誓いになっていることをあらわそうとされているのである。続いて「応称無量寿仏」と説かれているのは、この意味である。「応称」は、称えよということである。
『観無量寿経』に「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」と説かれているのは、五逆の罪を犯した人はその身に八十億劫の十倍の罪をもつことになるので、十回「南無阿弥陀仏」と称えよとお勧めになっているお言葉である。一回の念仏で八十億劫の十倍の罪を消すことができないのではないけれども、五逆の罪がどれほど重いのかを人々に知らせるために、このようにいわれているのである。「十念」というのは、ただ口に念仏を十回称えよというのである。このようなわけで、選択本願に「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」と誓われていると『往生礼讃』にいわれているのは、阿弥陀仏の本願は、念仏するのがたとえ十回ほどであっても、みな浄土に往生することができることを知らせようと善導大師がお思いになって、「十声」といわれているのである。「念」と「声」とは同じ意味であると心得なさいというのである。「念」を離れた「声」はなく、「声」を離れた「念」はないということである。

と仰っています。善など、何の関係もありません。

18願での救いにあずかるまでの道程に善が要るとか、19願を必ず通るとか、宿善が厚くならねばとか、善のできないものと知らされるまで善をしなければならないとか、妄想以外の何物でもありません。

自分の目で善知識方の聖教を読んで、自分の頭で考えてみれば、誰でも判断できる明白な教えです。高森会長が以下に無知かもはっきり判ります。

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2015年5月26日 (火)

『観無量寿経』を一度も読んだことのない高森顕徹会長5

前回、『観無量寿経』に説かれた10種類の機について書きましたが、これを違う見方をすれば、

定善の機に定善を勧め
上品上生・上品中生・上品下生に行福を勧め
中品上生・中品中生に戒福を勧め
中品下生に世福を勧め
下品上生・下品中生・下品下生に念仏を勧められた

ということです。
一言で言えば、

善人に善を勧め、悪人に念仏を勧められた

ということになります。
従いまして、自分が悪人だと思うのであれば、念仏という行を選択するしかないのですが、それを悪人に善を勧められたという頓珍漢なことを言っているのが高森顕徹会長です。

親鸞聖人は『浄土和讃』

臨終現前の願により
 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして
 定散諸機をすすめけり

と仰り、19願によって釈尊は『観無量寿経』に諸善をすべて顕わされて、「定散諸機」に勧められた、と教えられています。善人に諸善を勧められたと。

一方で、『高僧和讃』には、

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

とありまして、極悪深重の衆生には、諸善と言う他の方便がなく、ひとえに念仏して、浄土に往生すると源信僧都が仰った、と教えられています。悪人には念仏一つを勧められたのだということです。

当たり前の論理ですが、これが判らずに、訳の判らないヘンテコ理論でトンデモ教義を拵えたのが高森会長です。最近出していませんが、いつもの14項目のほとんどが、『観無量寿経』を読めば判ることなのです。

いつもの14項目

 

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.法の深信について

親鸞聖人 往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず
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高森会長 浄土往生が火に触ったよりも明らかに知らされる

11.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

12.因果の道理について

親鸞聖人 罪福の因果を信じることは自力・仏智不思議を疑う心
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高森会長 因果の道理を深信しなければならない

13.三願転入について

親鸞聖人 聖道門の人を浄土門に導く方便が19願であり、19願の勧めはない
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高森会長 全人類は19願から始めなければならない

14.「一向専念無量寿仏」について

親鸞聖人 諸善を廃して念仏1つになること
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高森会長 阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む

 

『歎異抄』について

 

第1章

1.「ただ信心を要とす」の「信心」とは

親鸞聖人 「ただ念仏で往生できる」と信じた心
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高森会長 「助かった」とハッキリした心

2.「本願を信ぜんには他の善も要にあらず」とは

親鸞聖人 本願に救われるには善は不要
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高森会長 救われたなら善は不要だが、救われる前には善が勧められている

3.「悪をもおそるべからず」とは

親鸞聖人 本願に救われるのに、悪が妨げになることはない
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高森会長 悪を恐れ不安になるのは、地獄一定の悪人と知らされていないからだ

第2章

4.「ただ念仏して」の「ただ」とは

親鸞聖人 念仏一行
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高森会長 びっくり仰天

5.「総じてもつて存知せざるなり」とは

親鸞聖人 念仏が浄土に生れる因なのか地獄に行く因なのかを知る智慧を持っていない
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高森会長 知り過ぎた知らん

6.「弥陀の本願まことにおわしまさば」は仮定か断定か

親鸞聖人 仮定
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高森会長 断定

第3章

7.「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」とは

親鸞聖人 善人ではなく悪人のために18願を建てられた
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高森会長 「悪人」とは、全人類のことであり、「人間」の代名詞にほかならない

 

『観無量寿経』を読んだことがなくても、真宗学を少しでも学べば、こんな間違いはしないでしょう。

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2015年5月13日 (水)

『観無量寿経』を一度も読んだことのない高森顕徹会長4

『観無量寿経』には、10種類の機について説かれています。そのことは退会者のブログで知ったのか、親鸞会でも近年になって言うようになりましたが、もちろん意味が違います。
まず、10種類の機とは

定善の機―──定善のできる機
上品上生─┐
上品中生  ├─行福のできる機
上品下生─┘
中品上生─┐
中品中生─┴─戒福のできる機
中品下生───世福のできる機
下品上生───無善十悪の機
下品中生───無善破戒の機
下品下生───無善五逆の機

ということです。
高森顕徹会長は、10の機といっても、真実は下品下生の逆謗の一機だと言っていますが、根本的に間違っています。敢えて書きましたが、定善の機は定善の【できる】機ですし、上品の三機は、行福の【できる】機です。定善・散善のできる機は存在しないのではなく、存在するから分けて説かれているのです。

ところで、念仏弾圧のきっかけとなった『興福寺奏状』第六には以下のようにあります。

もし専念なき故に往生せずとならば、智覚禅師は毎日一百箇の行を兼修せり、何ぞ上品上生を得たるや。

智覚禅師は、諸善を修して上品上生の往生を遂げられた、と書いていますが、これも含めて、法然上人の教えに徹底的な攻撃を聖道門の諸寺は加えて、承元の法難となりました。それに対して法然上人も親鸞聖人も、智覚禅師のことを次のように仰っています。

法然上人は『勅伝』

達磨宗の祖師、智覚禅師は、上品上生の往生人なり。

親鸞聖人は『教行信証』信巻

禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。

(現代語訳)

高玉や智覚ほど禅定に入って自己の本性を見たものはいない。彼らもまた仲間とともに念仏し、すぐれた往生をとげた。

親鸞聖人も法然上人と同様に、智覚禅師は上品上生の往生をされた方との見方をされていることが判ります。

要するに、法然上人も親鸞聖人も更には聖道門でも、智覚禅師が行福のできた上品上生の方だとの認識で一致しているのです。

全人類が逆謗の一機だなどという考えは、聖道門にも法然上人にも親鸞聖人にも全くないことがお判り頂けると思います。
念のため言っておきますが、法然上人も親鸞聖人も、御自身のことでさえも、逆謗の機、下品下生だとまでは仰っていません。

高森会長の主張の根拠が大沼師にあることは、言うまでもありません。

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