観無量寿経

2021年2月 1日 (月)

『なぜ生きる2』の出版から7年ー8

『なぜ生きる2』には、韋提希の話が書かれていますが、この話は『観無量寿経』にはない創作話です。

細かい話まで言うとキリが無いので、ポイントだけ言うと、

釈尊は韋提希に定善をさせてみて、韋提希ができないことを知らされて阿弥陀仏に救われた、ということは全くの出鱈目

ということです。
釈尊は、韋提希に定善をしなさいと仰っていませんし、韋提希も定善をしようとも思っていませんでした。
この経緯は『観無量寿経』を読めば誰でも判る内容です。

釈尊が定善を説かれる経緯について、

仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣にして、いまだ天眼を得ざれば、遠く観ることあたはず。諸仏如来に異の方便ましまして、なんぢをして見ることを得しむ」と。ときに韋提希、仏にまうしてまうさく、「世尊、わがごときは、いま仏力をもつてのゆゑにかの国土を見る。もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」と。

(現代語訳)

さらに釈尊は韋提希に仰せになった。
「そなたは愚かな人間で、力が劣っており、まだ天眼通を得ていないから、はるか遠くを見とおすことができない。しかし仏には特別な手だてがあって、そなたにも極楽世界を見させることができるのである 」
そのとき韋提希が釈尊に申しあげた。
「世尊、わたしは今、仏のお力によってその世界を見ることができます。でも、世尊が世を去られた後の世の人々は、さまざまな悪い行いをして善い行いをすることがなく、多く苦しみに責められることでしょう。そういう人たちは、いったいどうすれば阿弥陀仏の極楽世界を見ることができるでしょうか 」

とあり、この後、釈尊は定善を説かれます。
簡単に言えば、韋提希の能力では浄土を見ることのできないことを釈尊は宣告された上で、釈尊のお力によって浄土を見ることのできた韋提希が、釈尊入滅後の衆生を心配して、衆生が自分の力で浄土を見る方法を釈尊に尋ねたということです。

つまり、すでに浄土をみている韋提希にとっては、定善はする必要もなく、できるとも最初から思っていなかったのです。韋提希にとっては定善は他人事です。

なお、定善のできる人とできない人との違いにつて善導大師は、『定善義』で次のように仰っています。

ただ万事ともに捨てて、なほ失意・聾盲・痴人のごとくなれば、この定かならずすなはち得やすし。もしかくのごとくならざれば、三業縁に随ひて転じ、定想波を逐ひて飛ぶ。 たとひ千年の寿を尽せども、法眼いまだかつて開けず。

(現代語訳)

ただよろずの事をともにすてることが、 失意の人・聾・盲・無智の人のようになれば、 この定は必ず成じやすい。 もしこのようにしなければ、 身口意業が所縁の境にしたがって移り、 禅定の想も波のように動いて、 たとい千年の命をかけても智慧の眼は開けない。

世間から隔離されたところで、五感を停止させることができれば定善は簡単にできるが、そうでなければできない、ということです。したがって世俗の中にいる韋提希には到底無理なこととです。

それに定善十三観は、日想観ができたら水想観、水想観ができたら地想観というようにステップアップしていくものです。日想観ができなかったら水想観、水想観ができなかったら地想観ではありません。
実際『観無量寿経』には

この想成ずるとき、一々にこれを観じて、きはめて了々ならしめよ。

地想成じをはりなば、次に宝樹を観ぜよ。

等とあります。もし韋提希が日想観を実践しようとしてできなかったとするのなら、水想観は韋提希とは完全に無関係に説かれたことになります。

なお、親鸞聖人は韋提希の獲信の道程の話は全く紹介されていません。韋提希がどこで獲信したかも言及がありません。ところが、阿闍世に対しては事細かに『涅槃経』を引かれて、どのような状況で、いつ獲信したかも、明確に判るようにされています。

要するに、高森顕徹会長は親鸞聖人の教えを何も知らないと言っても過言ではありません。

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2021年1月18日 (月)

『なぜ生きる2』の出版から7年ー7

12年前のmixiでの三願転入の法論で高森顕徹会長が最後に言ったのが、

未信の人が、18願だけで導かれるということですか?
19願力も、20願力も不要と言われるのでしょうか?
もしそうでしたら、19願力や20願力以外の、
18願力に方便(信前)もある、ということになりますが、
そのようなことを、親鸞聖人はどこにおっしゃっているのでしょう?

でした。方便からしか真実に入れない、という詭弁です。

『なぜ生きる2』5章にもこうあります。

聖人の方便とは、市中で使われる「ウソも方便」などとは全く異なり、真実まで導くに必要不可欠の教えをいう。

親鸞会でしか通用しないであろう詭弁です。仏教各宗では通常他宗を非難する時に、あの経は方便だから真実のこの経を信ずればよい、と言って、自分の宗の正統性を主張し、方便≒不要という意味で使われます。
大沼法竜師が同様の言葉をよく使われていたので、その言葉だけをパクって意図を変えたのが高森会長です。

これに対しての退会者の反論として出したのが『教行信証』行巻にある『往生要集』の

極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得

と『高僧和讃』の

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

でした。「極重の悪人」には「他の方便なし」と否定のしようのない根拠を突き付けられて、高森会長は絶句し、惨敗が確定しました。

少し解説しておくと、善人には「他の方便」があります。『玄義分』に九品の説明がありますが、上品上生から中品下生までを

上品上生……まさしくこれ仏世を去りたまひて後の大乗極善の上品の凡夫、日数少なしといへども、業をなす時は猛し
上品中生……またこれ仏世を去りたまひて後の大乗の凡夫、行業やや弱くして
上品下生……ただこれ仏世を去りたまひて後の一切の大乗心を発せる衆生、行業強からずして
中品上生……またこれ仏世を去りたまひて後の小乗戒を持てる凡夫なり。
中品中生……ただこれ仏世を去りたまひて後の無善の凡夫、命延ぶること日夜、小縁のその小戒を授くるに逢遇ひて、回して往生を願ず。
中品下生……ただこれ仏法に遇はざる人、孝養を行ずといへども、またいまだ心に出離を希求することあらず。ただこれ臨終に善の勧めて往生せしむるに遇ふ。この人勧めによりて回心してすなはち往生を得。またこの人世にありて自然に孝を行ず、また出離のためのゆゑに孝道を行ぜず。

と解説されています。
簡単にまとめると

上品上生・上品中生・上品下生が、行福のできる凡夫です。
中品上生・中品中生が、戒福のできる凡夫です。
中品下生が、世福のできる凡夫です。

善人に行福・戒福・世福という方便があるのですが、下品上生・下品中生・下品下生という悪人には善という方便がないのです。善という方便なしで、「ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得」が18願だと親鸞聖人は教えられているのです。

通仏教でも、真宗でも通用しない詭弁を使っても、親鸞聖人のお言葉で反論すれば、それで終わりです。

数百年に一人という無二の善知識の正体が、mixiの法論と『なぜ生きる2』を通して白日の下に晒されました。

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2020年1月15日 (水)

最近の親鸞会との法論5

次に某講師が言ってきたことは、

「19願を勧められた善知識はおられない」と言うが、善導大師は「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ。」(散善義)と仰っているではないか。

というものでした。
何でも、善の勧めだと勘違いしているのが親鸞会ですが、これもこの文の前後を読めば簡単に論破できます。

このお言葉は、『観無量寿経』の上品上生に説かれた三心である至誠心・深心・回向発願心の至誠心について、善導大師が解釈なされた一文です。

『散善義』の中では上品上生のことを

これすなはち大乗を修学する上善の凡夫人なり。

と解釈され、また『玄義分』では

まさしくこれ仏世を去りたまひて後の大乗極善の上品の凡夫、日数少なしといへども、業をなす時は猛し

とも仰っています。大乗仏教で教えられる善を行ずる最上の凡夫で、その日数は少ないけれども行業を修める時は非常に勇猛であるということです。

つまり、この「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ。」の前提が、上品上生という「大乗極善の上品の凡夫」のことについてのお言葉であることを知れば、我々のような者と関係があるのかないのか、判りそうなものですが、上品上生のところで仰ったお言葉だとは、高森顕徹会長をはじめ、講師部員は知らないので、的外れなことを平気で言えるのです。

更には、善導大師が至誠心についての解釈をなされたところですので、至誠心の内容です。前後を紹介しますと、

一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。貪瞋・邪偽・奸詐百端にして、悪性侵めがたく、事蛇蝎に同じきは、三業を起すといへども名づけて雑毒の善となし、また虚仮の行と名づく。 真実の業と名づけず。
もしかくのごとき安心・起行をなすものは、たとひ身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく。
この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。

です。
外に賢善精進の相を現じ」るのが、上品上生の機です。これ前提で、たとえ善をしていても、内が虚仮では、「雑毒の善となし、また虚仮の行と名づく。 真実の業と名づけず。」と仰っています。
更には、このような内が虚仮でする善では、「かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。」と断言されています。「上善の凡夫人」「大乗極善の上品の凡夫」ではあっても、内が虚仮であっては、往生できないという善導大師の解釈です。
なぜ往生できないのかの理由が次にあります。

まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちになしたまひ、おほよそ施為・趣求したまふところ、またみな真実なるによりてなり。

阿弥陀仏は法蔵菩薩の時に「真実心」で菩薩の行を行じられたのだから、法蔵菩薩と同じ「真実心」でなければ、阿弥陀仏の浄土に往くことはできないという理屈です。

簡単に言うと、難しい善のできる凡夫であっても、法蔵菩薩と同じ「真実心」で善を修しなければ往生できない、ということです。

ここまでくればお判りかと思いますが、「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。」は、善を勧められたお言葉ではなく、「真実心」を勧められたお言葉なのです。

上記ほど詳しい説明はしませんでしたが、「真実心」を勧められているのであって、19願を勧められたのでも、善を勧められたお言葉でもないと言ったら、それ以降は沈黙でした。

至誠心についてはもう少し説明しないと判らないと思いますので、次回に補足します。

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2018年8月 1日 (水)

『観無量寿経』を読んだことがない高森顕徹会長と愉快な講師部員のために

『観無量寿経』を読んだことがない高森顕徹会長と愉快な講師部員に少し教えてあげます。

『観無量寿経』には、機に応じた行が勧められて、その行によって往生できると説かれています。具体的には

定善ができる機には、定善をしての往生
散善の行福ができる機には、行福をしての往生
散善の戒福ができる機には、戒福をしての往生
散善の世福ができる機には、世福をしての往生
定善も散善もできない機には、念仏での往生

が勧められています。
最後の
定善も散善もできない機とは、悪人のことで善導大師が『玄義分』で

仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。

と仰った下品上生から下品下生までの悪人です。
ちなみに「仏法の善根」が定善・行福・戒福で、「世俗の善根」が世福です。
定善はおろか散善も全くしてこなかったし今後もしない人のことを悪人と定義されているのです。

ですから大雑把に言うと、善人には善による往生を勧められ、悪人には念仏による往生を勧められたのが『観無量寿経』です。悪人に善を勧められたということは、どこをどう読んでも『観無量寿経』にはないのです。
浄土門においても、聖道門でさえも、そんなヘンテコな解釈をすることはありえません。

ということは、『観無量寿経』の方便の教え、つまり顕説は

善人には善による往生を勧められ、悪人には念仏による往生を勧められた

にしかなりませんので、方便から真実へ、あるいは三願転入という道程を主張するなら

善人:19願の善→20願の念仏→18願の念仏
悪人:19願の念仏→20願の念仏→18願の念仏

というのが隠顕釈となります。

なお、前回紹介した

『観経』には「極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得」

は、下品下生の極重の悪人に対して、念仏のみを勧められたことを示す善知識方の直接の文証ですが、一方で親鸞聖人は善人に対して善を勧められているのかと言えば、そうではありません。
『教行信証』化土巻に

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

と仰り、「定散の諸機」という善人も「極重悪人」同様に「ただ弥陀を称せよと勧励」されたのが『観無量寿経』の真意だと解釈されたのです。
『観無量寿経』の表面では、善人に対して善が勧められていますが、底では善人に対しても念仏だけが勧められている、と解釈されたことを隠彰と言うのです。
当然ですが、「ただ弥陀を称せよ」は18願です。
その証拠にこの直前に

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。

と仰っているからです。

善人に対しても悪人に対しても釈尊が勧められていることは18願の念仏のみで、善人には念仏に導く方便として定散二善が形式上勧められている、これが親鸞聖人の教えです。

間違えようのない明快な理論ですが、それをねじ繰り回して、訳が判らなくなって、何か深い御心があるのだろうと錯覚させているのが高森理論で、それを必死に擁護するのがプライドだけは高いが知能は低い講師部員なのです。

反論があるなら、いつでも法論に応じますので、コメントをくださいね。

もしコメントを拒否されたと言うなら、そのコメントを自分のブログに出せばよいです。そうすれば、誤魔化すことができませんので、安心してコメントしてください。

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2018年7月31日 (火)

屁理屈も矛盾に満ち溢れていることに気付くこともない高森顕徹会長と愉快な講師部員

かの人物が全く進歩なく学習能力のないことは、ここを見ていただければよいです。論点を変え続け、また元に戻っていることが判ります。

退会偽装者のお粗末さが、親鸞会の凋落を象徴している

さて先日の高森顕徹会長の話で、念仏に3つあると言っていました。教学聖典にもありますが、19願の念仏と20願の念仏と18願の念仏ということです。

かの人物も、『観無量寿経』の下品下生にあるのは方便の19願の念仏だと言っています。
一方で方便から真実へが『観無量寿経』の内容に明らかと言っています。

ここが愚かなところですが、それなら自力の念仏から他力の念仏への道を教えられたのが『観無量寿経』であり、三願転入だということになります。方便の諸善を勧めて真実に入ると主張しているなら、方便の念仏から他力に入るも『観無量寿経』の真意になります。

察しの悪い人のためにもう一度

下品下生の念仏が方便の19願意で、方便から真実へ明らかにされたのが『観無量寿経』なら、方便の自力の念仏から真実の他力の念仏に入ると教えられたのが『観無量寿経』

これが結論にしかなりません。

これまで何十回と紹介してきた『往生要集』のお言葉で『教行信証』行巻にも引かれている

『観経』には「極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得」

ですが意味は

『観無量寿経』には、極重の悪人(下品下生)には諸善ではなくただ念仏だけを勧められて極楽に往生できると教えられている

ということです。それに対して

飛雲は方便の自力の念仏から他力入ると言っている

と非難してきたのがかの人物です。

間違いだと非難した内容を今度は自分が言っているのですから、お粗末とかいうより、よくできたギャグです。

重要なところですので、何度でも説明しておきます。

『往生要集』のこのお言葉は、『高僧和讃』源信讃にも

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

と親鸞聖人は仰っています。

もちろん『正信偈』には、

極重悪人唯称仏

と書いておられます。

以上を承けられて蓮如上人は『正信偈大意』に

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と仰っています。

源信僧都、親鸞聖人、蓮如上人は読解力の乏しい親鸞会会員のために、「極重の悪人」に対しては、「他の方便なし」と定散二善は不要と、直接的な表現で仰っています。

この「ただ弥陀を称して」が自力であろうと他力であろうと、念仏しか勧められていないという事実は何も変わりません。

かの人物のように自力の念仏だとするなら、

極重の悪人には方便の諸善はなく方便の自力の念仏を称えることで極楽に往生できる

となりますし、他力の念仏だとするなら、

極重の悪人には方便は要らない、最初から真実の他力の念仏で極楽に往生できる

となります。

いずれにしても、極重の悪人には諸善など要らないのです。

どんなに屁理屈を考えようが矛盾に満ち溢れているのが親鸞会です。

異論があるなら、いつでもコメントください。根拠を元にした法論なら、拒否はしません。誰かのような卑怯なことはしませんので安心してコメントをください。

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2018年7月22日 (日)

よく知りもしない『観無量寿経』の内容を知ったかぶりで話をする高森顕徹会長と愉快な仲間達

本日の高森顕徹会長の講義では、二河白道の譬えについての話がありました。というと、詳しく話があったのかと思われるかもしれませんが、かなり省略した話で結論として、

二河は煩悩を表わし、その間の細い白道が聞法心だ。
聞く一本道だ。

というものでした。

間違いを指摘されていることを誤魔化しながら、過去に高森会長が話をしてきたこととの整合性をはかるには、極力話を削ることだと判断したのでしょう。

もちろん真宗において、白道を自力の聞法心とすることなどあり得ません。

ただ概ね想定通りの展開で、高森会長が退会者からの指摘に怯えきっていることが良く判ります。

ところで今回も韋提希が「実凡の人」だと善導大師お一人が明らかにされたことを、くどくどと説明していました。

どうせ知らないでしょうから、親鸞聖人が韋提希のことをどう仰っているかについて、教えて差し上げます。

『教行信証』化土巻で、前回の隠顕釈について仰っている中で、『観無量寿経』の御文を13文挙げられて以下のように解釈しておられます。

ここをもつて『経』(観経)には、「教我観於清浄業処」といへり。
「清浄業処」といふは、すなはちこれ本願成就の報土なり。
「教我思惟」といふは、すなはち方便なり。
「教我正受」といふは、すなはち金剛の真心なり。
「諦観彼国浄業成者」といへり、本願成就の尽十方無碍光如来を観知すべしとなり。
「広説衆譬」といへり、すなはち十三観これなり。
「汝是凡夫心想羸劣」といへり、すなはちこれ悪人往生の機たることを彰すなり。
「諸仏如来有異方便」といへり、すなはちこれ定散諸善は方便の教たることを顕すなり。
「以仏力故見彼国土」といへり、これすなはち他力の意を顕すなり。
「若仏滅後諸衆生等」といへり、すなはちこれ未来の衆生、往生の正機たることを顕すなり。
「若有合者名為粗想」といへり、これ定観成じがたきことを顕すなり。
「於現身中得念仏三昧」といへり、すなはちこれ定観成就の益は、念仏三昧を獲るをもつて観の益とすることを顕す。すなはち観門をもつて方便の教とせるなり。
「発三種心即便往生」といへり。
また「復有三種衆生当得往生」といへり。これらの文によるに、三輩について三種の三心あり、また二種の往生あり。
 まことに知んぬ、これいましこの『経』(観経)に顕彰隠密の義あることを。

19願の内容と18願の内容が『観無量寿経』の中で混在していることを親鸞聖人が示された箇所ですが、この中の

「汝是凡夫心想羸劣」といへり、すなはちこれ悪人往生の機たることを彰すなり。

が韋提希のところです。
釈尊が韋提希に対して「なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣なり」と仰った真意は、18願は、悪人往生だということを示されたものだと親鸞聖人は、解釈なされたということです。
もちろん定散二善の19願は善人往生ですから、「なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣なり」の文を以って、19願の教えが大半の中で、18願の教えを釈尊が顕かになされたと親鸞聖人は教えられているのです。

他に明確なところでは

「清浄業処」といふは、すなはちこれ本願成就の報土なり。
「教我正受」といふは、すなはち金剛の真心なり。
「以仏力故見彼国土」といへり、これすなはち他力の意を顕すなり。

などは、『観無量寿経』の中に18願の教えが顕わされていることを親鸞聖人が明示されている箇所です。

考え違いをしているかわいそうな人がいますが、『観無量寿経』の表面部分に18願の教えが少しではあってもあることを親鸞聖人が明示されることで、表面上は少ない18願の教えが、釈尊の本意、真意であると解釈なされたのが、隠顕釈です。

もう一度いうと、『観無量寿経』の表面に18願の教えは少ないですがあるのです。『観無量寿経』の表面上が全て19願の教えだったら、18願が隠されているというより、無い18願をでっち上げたことになります。そんな強引な解釈をされたのではないのですが、それが判らずに『観無量寿経』には18願はないと珍釈を書き連ねている講師が親鸞会に存在していることをみると、親鸞会ももう終わりだと思われます。
話を省略して誤魔化そうとしている高森会長の方が、まだましです。

トップがトップですから、その下はなお酷くなるのも当然ではありますが。

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2018年7月21日 (土)

隠顕釈を知らない高森顕徹会長と愉快な仲間達のための解説

『興福寺奏状』第七の「念仏を誤る失」にはこのようにあります。

もし然らずは、観経の疏を作り、また観念法門を作る。本経と云ひ、別草と云ひ、題目に何ぞ観の字を表せんや。しかるに、観経付属の文、善導一期の行、ただ仏名に在らば、下機を誘ふるの方便なり。

善導大師は『観無量寿経疏』を著わされ、また『観念法門』を著わされていますが、元の『観無量寿経』と共に題名に「観」の字があるので、「観法」という諸善が『観無量寿経』と善導大師の教えられたことの中心であって、いわゆる観経付属の文にある念仏は、下輩である悪人を仏法に導くための単なる方便ではないか。

ということを言って法然上人を糾弾したのが聖道門の学僧でした。これを読まれると判りますが、
念仏称えて往生するというのは『観無量寿経』の方便の教えだ
と親鸞会の愉快な仲間が言っていることと、殆ど同じです。
聖道門の理解で『観無量寿経』を説明しているお粗末さに、笑いを堪えられないのですが、親切心で親鸞聖人における『観無量寿経』の解釈の基本を教えてさしあげます。

『観無量寿経』には、『興福寺奏状』でもある通り、「観法」という善による往生が説かれている箇所と、念仏による往生が説かれている箇所があります。もっと簡単に言うと、往生の道は諸善によるものと念仏によるもの2通りがあることを教えられているのが『観無量寿経』です。
ただし、『観無量寿経』の文字の割合からすれば、圧倒的に諸善による往生が多いし、経典の題名に「観」の字が付けられている程ですので、念仏による往生はオマケ程度と考えたのが聖道門の学僧です。

それに対して反論をされた親鸞聖人の解釈が有名な隠顕釈です。
結論を言うと、『観無量寿経』の表面に顕れているのは諸善による往生ですが、陰に隠れているように見える念仏による往生が釈尊の本意であるということです。間違えてはならないのが、念仏による往生が『観無量寿経』に説かれていないのではなく、オマケ程度の扱いでしか説かれていないように思われる念仏による往生が『観無量寿経』の本意であり、表面上の大勢を占める諸善は、聖道門の行者を浄土門に導く方便であり、最終的には念仏による往生が勧められている、というのが、隠顕釈です。

聖道門が言っているような「念仏は悪人を導く方便」を完全否定されて、「諸善は聖道門らの善人を導く方便」とされたのが親鸞聖人です。
ここでも間違えてはいけませんが、「諸善は善人を導く方便」であって「諸善は悪人を導く方便」ではありません。

このことはmixiでの三願転入の法論で、完膚なきまでに高森顕徹会長が叩きのめされた内容でした。

『教行信証』化土巻の最初にある

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

から始まった法論ですが、その意味を顕わしている重要なお言葉が同じく化土巻にある

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。

と、七深信の第三深信

また決定して、釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して人をして欣慕せしむと深信すと。

です。
これによって、
半満・権実の法門に入るといへども、偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
そんな聖道門を脱落した者のために『観無量寿経』が説かれ19願が建てられた。
『観無量寿経』の中心と思われた「定散諸善」「二善・三福」「三福・九品・定散二善」は、「欣慕浄土の善根」という方便、浄土を願っていない人に浄土を願わせる方便だということが明確になったのです。

まとめると、
浄土を願っていない「半満・権実の法門に入るといへども、偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。」という聖道門の脱落者に浄土を願わせる方便が「定散諸善」であり、「半満・権実の法門に入る」ことのない悪人には関係のない方便が「定散諸善」だと親鸞聖人が教えられたのだ、
がmixiでの法論の結論で、高森会長以下親鸞会の講師面々が逃走し、法論の証拠隠滅まで謀って終わったのです。

念のため言っておきますと、聖道門では浄土に往生することは考えていないので、浄土往生を求めている浄土門とは完全に分けられているのが親鸞聖人です。浄土を願っていない浄土門の人などという定義はありません。親鸞会は、絶対の幸福を願っていて浄土を願っていないので、浄土門とは言えないですが、かといって聖道門のようにさとりを求めてもいないので、親鸞会の会員に対して「欣慕浄土の善根」という方便は、無関係になります。

悔しい気持ちは判りますが、聖道門が法然上人・親鸞聖人を弾圧した時と同じ主張をしていて、「これこそが親鸞聖人の本当の教えだ」とか未だに恥ずかしくもなく言える神経の持ち主に、益々憐みを感じます。

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2018年7月20日 (金)

『観無量寿経』下品下生の往生を18願のことだと仰った親鸞聖人を絶対に認めない高森顕徹会長と愉快な仲間達

偽退会者が私を必死になって攻撃しているそうですが、そのお陰で、このブログに辿り着く方もいらっしゃいますので、大いに非難攻撃してほしいものです。ただし、かの人物は過去に徹底的に叩きのめされて暫く大人しくせざるを得なかったため、陰でこそこそとしか非難攻撃できないので、私は憐みの心で見ててあげます。

さて、『観無量寿経』の下品下生について、親鸞聖人は18願を顕わされたものだと仰ったお言葉が『唯信鈔文意』にあります。

「汝若不能念」(観経)といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」(観経)とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。
「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」(観経)といふは、五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫の罪をもてるゆゑに、十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪を消すまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらせんがためなり。「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願(第十八願)には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃)と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。

(現代語訳)

『観無量寿経』 に 「汝若不能念 (なんぢもし念ずるあたはずは)」 と説かれているのは、 五逆・十悪の罪を犯した人や、 私利私欲のために教えを説いたものが、 病の苦しみに阻まれて、 心に阿弥陀仏を念じることができなければ、 ただ口に 「南無阿弥陀仏」 と称えよとお勧めになっているお言葉である。 これは称名念仏を本願の行としてお誓いになっていることをあらわそうとされているのである。 続いて 「応称無量寿仏 (まさに無量寿仏を称すべし)」 と説かれているのは、 この意味である。 「応称」 は、 称えよということである。
『観無量寿経』 に 「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念念中 除八十億劫 生死之罪 (十念を具足して南無無量寿仏と称せしむ。 仏名を証するがゆゑに、 念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く)」 と説かれているのは、 五逆の罪を犯した人はその身に八十億*劫の十倍の罪をもつことになるので、 十回 「南無阿弥陀仏」 と称えよとお勧めになっているお言葉である。 一回の念仏で八十億劫の十倍の罪を消すことができないのではないけれども、 五逆の罪がどれほど重いのかを人々に知らせるために、 このようにいわれているのである。 「十念」 というのは、 ただ口に念仏を十回称えよというのである。 このようなわけで、 選択本願に 「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 (もしわれ成仏せんに、 十方の衆生、 わが名号を称せん、 下十声に至るまで、 もし生れずは正覚を取らじ)」 と誓われていると 『往生礼讃』にいわれているのは、 阿弥陀仏の本願は、 念仏するのがたとえ十回ほどであっても、 みな浄土に往生することができることを知らせようと善導大師がお思いになって、 「十声」 といわれているのである。 「念」 と 「声」 とは同じ意味であると心得なさいというのである。 「念」 を離れた 「声」 はなく、 「声」 を離れた 「念」 はないということである。

これは、『唯信鈔』で引用された『観無量寿経』下品下生のご文を親鸞聖人が解説なされたところです。

「汝若不能念」「応称無量寿仏」「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」

これが『観無量寿経』の御文です。

これに対して親鸞聖人は

称名を本願と誓ひたまへることをあらはさん

と本願=18願の念仏のことだと明言されていますし、また

しかれば選択本願(第十八願)には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃)と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。

と18願とその言い換えである善導大師のお言葉を出されて説明なされています。

念仏1つで往生できることを親鸞聖人が断言されている箇所でもあります。

くどいようですが、そこには信心というものが必ず具わっているというのが前提にあります。

『末灯鈔』にある

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。

がそのことを最も端的に顕わされています。

念仏1つで助かる
信心1つで助かる

も同じことなのですが、この2つが同じことだと永久に理解できないというより、理解しないように必死に努力しているのが高森顕徹会長と愉快な仲間達です。

憐みの目で見続けてあげましょう。

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2018年6月30日 (土)

聖道門でさえ知っている浄土門の基礎さえ知らない高森顕徹会長と愉快な仲間達

聖道門が曲解した下品下生の往生について、善導大師がその間違いを正されたのですが、高森顕徹会長、その取り巻き、愉快な仲間達も、下品下生の往生がどんなことかさえ、何も知らないのです。聖道門でさえ知っていることを親鸞会の輩は知らないのに、19願がどうだ、求道がなんちゃら、宿善が云々と、的外れなことを未だに言っているのですから、真宗史に残る無知異安心集団です。

善導大師が下品下生の往生についてどう教えられているか、参考までに下品上生の往生と併せて紹介しておきます。

『玄義分』には、前回の「なんとなれば、この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。」に続いてこうあります。

なにをもつてか知ることを得る。下が上の文に説くがごとし。 「ただ五逆と謗法とを作らず、自余の諸悪はことごとくみなつぶさに造りて、慚愧すなはち一念に至るまでもあることなし。 命終らんと欲する時、善知識の、ために大乗を説き、教へて仏を称せしむるに遇ひて一声す。 その時阿弥陀仏、すなはち化仏・菩薩を遣はしてこの人を来迎し、すなはち往生を得しめたまふ」と。 ただかくのごとき悪人目に触るるにみなこれなり。 もし善縁に遇へば、すなはち往生を得。 もし善に遇はざれば、さだめて三塗に入りていまだ出づべからず。

(中略)

下が下とは、「これらの衆生不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。 この人悪業をもつてのゆゑに、さだめて地獄に堕して多劫窮まりなからん。 命終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむるに遇ふ。 この人教によりて仏を称し、念に乗じてすなはち生ず」と。 この人もし善に遇はずは、必定して下沈すべし。 終りに善に遇ふによりて七宝来迎す。

(現代語訳)

どうしてそれが知られるかというと、 下品上生の文に説かれている通りである。
「ただ五逆と謗法を作らないだけで、 そのほかの悪は皆ことごとく造り、 わずか一念も慚愧する心がない。 そういう者が命終わろうとする時、 善知識がその人のために大乗を説き、 教えて念仏させるのに遇う。 一声すると、 そのとき阿弥陀仏は化仏・菩薩をつかわして、 この人を来迎し、 そこで往生を得る。」
このような悪人は、 すべて人の常に見るところである。 もし善知識の縁に遇えば往生を得るが、 善知識の縁に遇わなければ必ず三途に沈んで出ることができない。

(中略)

下品下生とは、
「これらの衆生は、 善くない業である五逆・十悪を造り、 いろいろの悪を犯している。 この人は悪業によるから必ず地獄に堕ちて多劫のあいだ窮まりない苦しみを受ける人であるが、 命終わろうとするとき、 善知識が南無阿弥陀仏と称えることを教え、 往生を勧めてくださるのに遇う。 この人はその教にしたがって念仏し、 念仏によって往生する。」
とある。 この人がもし善知識に遇わなければ必ず地獄に堕ちるところであったが、 臨終に善知識に遇うたことによって、 七宝の蓮台に迎えられたのである。

仏法・世俗の二種の善根あることなし」の高森理論でいうところの無宿善の者が、臨終になって初めて善知識から仏法を聞いて念仏を勧められて念仏して往生するのだと善導大師が教えられているのです。

言い換えると、
過去世現在世で善をしてこなかった悪人が、臨終に初めて聞いた念仏称えて往生できるという教えの通りに念仏して往生する
ということです。

高森会長が回避した二河白道の譬えで、白道を自力だとか求道だとか善導大師が仰る訳がないです。諸善も19願も三願転入も完全に否定されて念仏だけで往生できると教えられたのが善導大師です。

どんな屁理屈を考えようが、

過去世現在世で善をしてこなかった悪人が、臨終に初めて聞いた念仏称えて往生できるという教えの通りに念仏しして往生する

が理解できるかどうかの話です。

このことは、一貫して私が書いてきたことですし、浄土門の根幹であり、聖道門の学僧でさえ知っている基本中の基本です。

小学生程度の国語の理解力があるなら、高森会長の邪義は明白ですし、幼稚園児程度の国語の理解力しかない人が高森邪義を称賛しているのです。

高森会長が紹介しない根拠を私が出すと、「難しい根拠で誤魔化す」とか幼稚園児並の負け惜しみしか言えないのも、恥ずかしいことですね。

悔しいという思いがあるのなら、下品下生の往生のどこに諸善が勧められていて、高森流の求道がどこにあるのか、善導大師のお言葉をもって説明しましょう。

幼稚園児並の捨て台詞しか言えないなら、黙っていた方が恥は少し軽減されるということです。その程度の思考もないのなら好きに負け惜しみを陰で言い続けましょう。冷やかな目で見続けてあげます。

法論をする元気があるなら、いつでも受け付けています。もちろん、小学生並の国語の理解力と聖教上の根拠を揃えての話ですがね。

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2018年6月24日 (日)

二河白道の譬えを回避した話で、更に恥の上塗りをして収拾のつかない無知ぶりを発揮する高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の講義では、予想通り二河白道の譬えについて話をしませんでした。敢えて避けたのでしょう。二河白道の譬えは、『教行信証』を読んだことがあれば、間違える筈のないストーリーなので、根本的に違うストーリーを平気で話す高森会長が『教行信証』を読んだことがないことはこのことだけでも断言できます。

さて、二河白道の譬えを避けてまで何の話をしたのかと言えば、『観無量寿経』の韋提希のことを、聖道門では権化の人と解釈していたのを善導大師が実凡の人だと明らかになされ、それで親鸞聖人が「善導独明仏正意」と仰ったのだということでした。

それ自体は間違いではありませんが、『観無量寿経疏』を読んでいたらもう少しまともな話ができるのでしょうが、『教行信証』さえ読んだことがないのに『観無量寿経疏』など読む以前に中の文字を見たこともないでしょうから、その程度の話を一日かけて得意満面で話ができるのです。

無知極まりない高森会長に、親切心で少し教えてあげます。

聖道門の学僧が『観無量寿経』で最も注目したことは、下品下生の極重の悪人が臨終に初めて善知識から仏法を聞いて、善知識に勧められた念仏を10回称えて往生するところです。韋提希よりも更に下の下品下生の極悪人がわずか10回の念仏で往生すると説かれていることが聖道門では考えられない話であるからです。聖道門だけでなく、親鸞会でも高森会長でも信じられない話でしょう。

聖道門ではどのように解釈していたのかということについて2種類『観無量寿経疏』には紹介されていますが、高森会長が何かの一つ覚えで言っている天台大師らの説について、『玄義分』の中で、下品下生を含む下輩のことを

下輩の三人はこれ大乗始学の凡夫なり。 過の軽重に随ひて分ちて三品となす。 ともに同じく一位にして往生を求願すとは、いまだかならずしもしからず、知るべし。

と善導大師は示されています。下輩の三人は、臨終に初めて仏教を聞いて往生を願ったとしているが実はそうではなく、過去世および平生に大乗を学び始めた凡夫だという解釈です。高森流宿善論と同じ発想です。

それに対して善導大師は反論なされました。

『玄義分』で
次に下輩の三人を対せば、諸師のいふ、「これらの人はすなはちこれ大乗始学の凡夫なり。過の軽重に随ひて分ちて三品となす。いまだ道位にあらず。 階降を弁ちがたし」とは、まさに謂ふにしからず。なんとなれば、この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。
(中略)
下品の三人はこれ悪に遇へる凡夫なり。悪業をもつてのゆゑなり。終りに臨みて善によりて、仏の願力に乗じてすなはち往生を得。かしこに到りて華開けてまさにはじめて発心す。なんぞこれ始学大乗の人といふことを得んや。もしこの見をなさば、みづから失し他を誤りて害をなすことこれはなはだし。

(現代語訳)

つぎに下輩の三種の人を対破するならば、他師らは、これらの人は大乗始学の十信位の凡夫であって、罪の軽重にしたがって三品に分けるが、まだ修行をしていないから、その上下を区別しがたいといっているが、そうではなかろうと思う。何となれば、この三種の人は、仏法につけ、世間につけ、いずれの善根もなく、ただ悪を作ることだけを知っている。
(中略)
下品の三種の人は悪縁に遇うた凡夫であって、悪業があるから、臨終に善知識により、弥陀の願力に乗託してすなわち往生することができ、かの国に至って華が開けて、そこで始めて菩提心をおこすのである。どうしてこれが大乗始学の十信位の人ということができようか。もし他師らのような考えをするならば、みずから利益を失い他をあやまらせて、害をなすことがいよいよ甚だしい。

と仰っています。

下品上生、下品中生、下品下生について「この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。」と明言なされています。
過去世にも、仏道修行したことがないだけでなく、倫理道徳の善さえもしてこなかった、つまり、下品上生、下品中生、下品下生の悪人は、過去世の善根がないのです。過去世の善根がないのですから、高森理論では”無宿善の者”です。

簡単にまとめると

下輩の悪人はどんなものか?

善導大師 過去世・現在世で無善根の者
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天台大師 過去世で善根を積んできた者
高森会長 過去世で善根を積んできた者(宿善の厚い者)

高森会長の理論は、善導大師に論破された天台大師らの聖道門の学僧の理論そのままです。

二河白道の譬えを話しなければ恥をかかなくて済むと考えたのでしょうが、高森会長の言っていることのほとんどすべてが善導大師・親鸞聖人の仰ったこととかけ離れているのです。

話をすればするほど恥の上塗りになります。齢90にして晩節を徹底的に汚し尽くしたいのなら話を続ければよいでしょうが、ビデオで悪知識の証拠を残して更にインターネットで宣伝するという愚行には、呆れを通り越して敬意を表したいと思います。

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