「まことに知んぬ、弥勒大士は…」は信心の内容なのか?二種深信以外にこれらが知らされるのか?
親鸞会の会員が、コメント欄でしつこく書いてくるので、エントリーをまた書くことにします。
過去に親鸞会に対して何十回、細かいものを含めれば何百回と法論してきた経験から言いますと、高森顕徹会長、古い講師部員は、話が通じます。しかし、「飛雲」を見るなと言われながら見ている末端会員は、話が通じません。高森会長らを褒めるわけではありませんが、高森会長らは基礎的な学力はあります。一方で親鸞会で統制の効いていない末端会員は基礎的な学力がないために余りにも話が通じなさすぎます。
必堕無間、善の勧め、三願転入などは、そんな末端会員でも反論をし続けることは稀ですが、救われたらハッキリする、という妄想には普通の理屈が通じない傾向にあります。この件でコメントをしつこくしてくる末端会員は以前からあり、皆同じく、話が通じません。
具体例で言うと、「まことに知んぬ」とあれば、救われてハッキリ知らされたことだという高森会長の創作教義は、理性も理論も理屈も通じなくしています。少し落ち着いて考えれば判りますが、「まことに知んぬ」とは、それまでの文章を承けての「まことに知んぬ」ですから、理論的にはこのような結論になることを指して「まことに知んぬ」なのです。
その典型例が『教行信証』信巻の
まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。ゆゑに便同といふなり。
です。この直前に「便同弥勒」等の文を挙げられて、この「まことに知んぬ」と続いています。この「まことに知んぬ」の内容が、
1.弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。
2.念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。
3.ゆゑに便同といふなり。
です。
1については、信心を獲ても知らされることは絶対にありません。弥勒菩薩の成仏がいつかを知る智慧は、弥勒菩薩でもありません。仏でなければ判らないことですが、それを「まことに知んぬ」と親鸞聖人は仰っています。
2については、体験として知らされたことに決まっている、と疑いようのない大大前提で親鸞会会員は話をしてきますが、これもよく考えてみると、信心を獲た人が臨終に往生すると同時に成仏する、とは善知識方の中で親鸞聖人が初めて仰ったことです。七高僧方は往生した後に、浄土で菩薩として修行を積んでから成仏、という経典に書かれてあることそのままの解釈ですので、親鸞聖人とは解釈が異なるのです。
もし信心を獲た人は親鸞聖人と同じ往生即成仏が知らされるのならば、そう知らされていなかった七高僧方は信心が親鸞聖人とは異なることになります。流石に七高僧と親鸞聖人とは信心が異なるという会員はいませんので、往生即成仏と知らされるかどうかは、信心とは無関係となります。結論を言えば、往生即成仏は、親鸞聖人の理論だということです。
3についても、弥勒菩薩のことも判らないし、往生即成仏も判らないので、「便同弥勒」と体験で知らされることも絶対にありません。
高森会長は、信心の判定基準は二種深信だと言っていましたが、機の深信でも法の深信でもないこれらのことが知らされないのはおかしいという発想がおかしいのです。
普通の思考があれば、上記のことは簡単に判ると思うのですが、この簡単に判ることが判らない末端会員には呆れるしかありません。
理解できない末端会員のために、簡単にまとめると
1.弥勒菩薩の成仏の時期が「まことに知んぬ」である。
2.七高僧がどなたも言われていない往生即成仏が「まことに知んぬ」である。
3.便同弥勒が「まことに知んぬ」である。
1・2・3のいずれも、親鸞聖人が理屈で知らされたことであり、信心を獲た人が体験で知らされることではない。
今回は親鸞会の大好きな信巻の文についてのみ書きましたが、他の文については次回以降じっくりと書いていきます。それでも、基礎学力のない人には、理解できないかもしれません。


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