唯念仏

2020年7月 3日 (金)

聖教を読む前に日本語のお勉強をして「念仏往生の願」の意味を知りましょう

七高僧で親鸞聖人が直接教えを聞かれた方は、法然上人です。親鸞聖人が法然上人にお遭いできなかったならば流転輪廻を繰り返してきた、と仰ったことは、真宗の関係者ならば誰でも知っていることでしょう。その法然上人が、往生のために念仏を勧められたことは、これまた真宗関係者だけでなく日本史を学んだなら誰でも知っている超常識です。

ここで、一つ質問です。

親鸞聖人は、法然上人が往生のために念仏を勧められたことを間違いだと否定されたと思いますか?

日本語が理解できるならば、そんなことはあり得ないでしょう。ところが、親鸞聖人が法然上人の教えの真髄である「往生のための念仏」を否定されたと言うのが親鸞会などです。日本語が判らないのか、他宗のスパイかと疑ってしまいます。

念のために、法然上人のお言葉を少しだけ紹介しておきます。『選択本願念仏集』には18願のことを著書名通り、「選択本願」と仰っただけではなく「念仏往生の願」と度々仰っています。その1つに

諸師の釈には別して十念往生の願といふ。善導独り総じて念仏往生の願といへり。

とありますが、実は善導大師は「念仏往生の願」とは直接仰っていませんので、「念仏往生の願」は、法然上人の造語になります。意味は説明するまでもなく、「念仏を称えたものを往生させる願」「念仏を称えて往生する願」です。

さて、この法然上人の造語である「念仏往生の願」を親鸞聖人は使われなかったのかと言えば、その逆で、頻繁に使われています。

『教行信証』信巻には、

この心すなはちこれ念仏往生の願より出でたり。

と敢えて、「念仏往生の願」と仰っています。別の言い方ではなく、ここは敢えて使われたとみるべきです。なぜなら信巻の前に、18願を「念仏を称えて往生する願」として繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し仰った行巻があるからです。
同じことで、『浄土文類聚鈔』には

浄信といふは、すなはち利他深広の信心なり。すなはちこれ念仏往生の願より出でたり。

とあります。この直前に18願を「念仏を称えて往生する願」として説明されたからです。
同様の理由で『三経往生文類』には

また真実信心あり。すなはち念仏往生の悲願にあらはれたり。

更には、『如来二種回向文』にも

真実信心といふは、念仏往生の悲願にあらはれたり。

とあります。
これ以外には、『浄土文類聚鈔』にもう一か所、『正像末和讃』にも一か所、『御消息』には多数あります。『御消息』には、「念仏往生の願」の意味が明確に判る箇所があります。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。

念仏往生の願」=「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる

なお、他力の信心とは、

名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じて

念仏往生とふかく信じて

です。他の『御消息』でも

この念仏往生の願を一向に信じてふたごころなきを、一向専修とは申すなり。

とある通り、「念仏を称えて往生する願を疑いなく信じること」が他力の信心です。

この単純明快な教えを捻くり回して、

「念仏を称えて往生する」と教えることは間違いだ!

と喚く者が真宗を名乗る資格があるのかと甚だ疑問に思います。
駄目押しで言うなら、覚如上人も蓮如上人も、「念仏往生の願」という言葉を使われています。親鸞聖人が多用されたのですから当然です。

真宗を名乗るのであれば、聖教を読む前にまずは日本語のお勉強をしましょう。

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2020年7月 1日 (水)

七高僧、親鸞聖人とは異なる信心の人には判らない念仏の話

善導大師、曇鸞大師と、往生と念仏との関係について仰った箇所を紹介してきました。次いでですから、源信僧都が教えられている箇所も紹介しておきます。

『往生要集』に

大文第八に、念仏証拠といふは、問ふ、一切の善業はおのおの利益あり、おのおの往生することを得てん。 なんがゆゑぞ、ただ念仏の一門を勧むる。

答ふ。いま念仏を勧むることは、これ余の種々の妙行を遮するにはあらず。 ただこれ、男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜずして、これを修するに難からず、乃至、臨終に往生を願求するに、その便宜を得たるは念仏にはしかじ。
(中略)
いはんやまた、もろもろの聖教のなかに、多く念仏をもつて往生の業となせり。 その文、はなはだ多し。 略して十の文を出さん。
(中略)
四には、『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

(現代語訳)

大文第八に念仏の証拠とは、 問う。 すべての善業には、 それぞれ利益があり、 それぞれ往生することができるのに、 どういうわけで、 ただ念仏の一門だけを勧めるのか。

答える。 今、 念仏を勧めることは、 決して、 その他の種々のすぐれた行をさえぎるのではない。 ただ男でも女でも、 身分の高いものでも、 低いものでも、 その行住座臥の区別なく、 時とき処ところやいろいろの場合を論ぜず、 これを修めるのに難しくなく、 そして臨終までも往生を願い求めるのに、 その便宜を得ることは、 念仏におよぶものはないからである。
(中略)
まして、 またもろもろの聖教の中には、 多く念仏を往生の業としている。 その文ははなはだ多いが、 略して十文を出そう。
(中略)
四つには、 『観経』に説かれている。
極重の悪人は、 他の方法がない。 ただ弥陀の名号を称念して、 極楽往生を得るばかりである。

とあります。往生のために、善ではなく念仏だけを勧める理由を問答形式で教えられています。答えとして、「男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜずして、これを修するに難からず、臨終に往生を願求するに、その便宜を得たるは念仏にはしかじ」とされて、誰でもどんな状況でもできる往生の行は念仏だけ、その根拠を聖教から10挙げられています。その4番目が、

四には、『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

ですが、ここでは明確に、念仏を称えることで往生できる、と教えられているのです。前々回の善導大師、前回の曇鸞大師と同じことを教えられています。信心を獲て往生できる、という言い方ではありませんし、往生が定まった後に報謝の「仏を称念して」でもありません。往生のために、「ただ仏を称念して」です。

往生には念仏不要と思っている親鸞会やその賛同者には、極めて不都合な御文です。

しかも、これは親鸞聖人も大変お気に入りの御文です。

『教行信証』行巻には、そのまま引かれていますし、『正信偈』には、

極重の悪人はただ仏を称すべし。

と仰り、『高僧和讃』では

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

と仰っています。
源信僧都だけではなく、親鸞聖人も全く同じ解釈をされていたからこそ、このように繰り返し仰っているのです。

往生のために善を勧めるのは論外ですが、逆に往生のために念仏を勧めないのも、七高僧、親鸞聖人とは異なった教え方になるのです。

信心と念仏との関係が判っている獲信者ならば今回も簡単に判ることですが、七高僧、親鸞聖人と異なる信心の人には理解できない内容です。

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2020年6月27日 (土)

親鸞会会員の知らない曇鸞大師の念仏

二河白道の譬喩を通して、善導大師が18願意をどのように捉えられているかを紹介してきました。一言で言うならば、

念仏を称えることで往生できる

です。善導大師の著書には、至る所にそのような言い方をされています。もちろん、信心についても詳しく仰っているのですが、念仏の強調の方が目立ちます。
親鸞聖人は七高僧の中でも、善導大師を特に尊敬されていましたので、親鸞聖人が善導大師の教えを否定されることは普通に考えればあり得ないでしょうが、高森顕徹会長のように信心がすべてだという偏屈な思考に凝り固まると、念仏が信心の付属品のように考えるのです。その屁理屈として、親鸞聖人が七高僧の中で善導大師と同じかそれ以上に特に尊敬されていた曇鸞大師を持ち出してくることがあります。『高僧和讃』の数を見ても、善導大師の26首よりも多い34首ですから、親鸞聖人が曇鸞大師から多大なる影響を受けられたことは確かです。

そこで今回は、曇鸞大師の念仏について見てみます。

曇鸞大師が阿弥陀仏の48の願の内、3つの願を選ばれたいわゆる三願的証の文が『浄土論註』にあります。三願とは18願、11願、22願です。18願、19願、20願ではありませんので、親鸞会の会員にとっては、この時点でカルチャーショックを受けると思います。曇鸞大師は18願文を出された後にこう続けておられます。

仏願力によるがゆゑに十念の念仏をもつてすなはち往生を得。往生を得るがゆゑに、すなはち三界輪転の事を勉る。輪転なきがゆゑに、ゆゑに速やかなることを得る一の証なり。

(現代語訳)

この仏の願のはたらきによるから、たとえば十声念仏して往生することができる。往生することができるのだからもはや迷いの世界をさまようことはない。浄土に往生することができ、もはやさまようことがないというのが、速やかに仏となることができるということの第一の証である。

これは『教行信証』行巻にも引かれています。
注目は、「十念の念仏をもつてすなはち往生を得」です。曇鸞大師が18願意を仰った箇所です。親鸞会では、ここもまた受け入れられない文だと思います。

もう一つ

問ひていはく、上に、生は無生なりと知るといふは、まさにこれ上品生のものなるべし。もし下下品の人の、十念に乗じて往生するは、あに実の生を取るにあらずや。ただ実の生を取らば、すなはち二執に堕しなん。一には、 おそらくは往生を得ざらん。二には、おそらくはさらに生ずとも惑ひを生ぜん。

答ふ。たとへば浄摩尼珠を、これを濁水に置けば、水すなはち清浄なるがごとし。もし人、無量生死の罪濁にありといへども、かの阿弥陀如来の至極無生清浄の宝珠の名号を聞きて、これを濁心に投ぐれば、念々のうちに罪滅して心浄まり、すなはち往生を得。
(中略)
また氷の上に火を燃くに、火猛ければすなはち氷解く。氷解くればすなはち火滅するがごとし。かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり。

(現代語訳)

問うていう。 上にいうてあるような生即無生の道理をさとるということは上品の往生者にいうことである。 下品下生の人のごときは、 ただ十念念仏によって往生するので、 こういうのは実生実滅の執着を持っているのではないか。 ただ実生を執ずるならば二つの疑いに堕ちる。 一つに、 恐らくはこういう実生実滅を執ずる凡夫は往生を得ないであろう。 二つに、 往生してもさらに生死相対の惑いを生ずるであろう。

答えていう。 たとえば清浄なる摩尼宝珠を濁った水の中に置けば、 珠の力で水が浄らかになるようなものである。 もし凡夫人が無量劫のあいだ迷わねばならぬ罪があっても、 かの阿弥陀如来の法性真如にかなったこの上なき清浄の名号を聞いて、 これを濁った心の中にいただくならば、 念々の中うちに罪が滅し清浄の徳を得て、 往生が得られる。
(中略)
また、 氷の上で火を燃やすと、 火の勢いが強ければ氷は解け、 氷が解けると火が消えるようなものである。 かの下品の人は生即無生であると知らないけれども、 ただ仏の名号を称えて作願してかの土に生まれようと願うならば、 浄土に至ればかの国は無生の道理にかなった境界であるから、 実生実滅と見る煩悩の火は自然に消えるのである。

親鸞会の人にはかなり難しい内容ですが、最後の文中の「かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして」だけでも見てもらえれば、曇鸞大師が、念仏を称えることによる往生を明確に仰っていることが判るというものです。

これ以外にも、念仏を称えて往生する、という表現を曇鸞大師はなされています。

したがって、善導大師も曇鸞大師も、そしてお二人から多大な影響を受けられた親鸞聖人も、

念仏を称えて往生する

と仰っている箇所がいくつもありますから、これが間違いだという発想自体が、浄土真宗から外れています。

くどいようですが念のために言いますと、信心で往生する、聞いて往生する、というような他の表現を持ち出して、念仏を称えて往生するというのは間違いだという理屈は完全な間違いです。善知識方が違う表現をされていても筋は通っているのですから、同じことを表現を変えて仰ったのだと理解しなければなりません。

具体的に言えば、

信心=念仏を称えて往生すると深信したこと
聞=念仏を称えて往生するという18願を疑いなく聞くこと

こういうことです。
単純な話ですが、思考停止の人には理解できないのでしょう。哀れです。

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2020年6月19日 (金)

善導大師の仰る「弥陀の願意」と転教口称の念仏

阿弥陀仏の喚び声について善導大師は譬えで

また西の岸の上に人ありて喚ばひていはく、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と。

と仰り、その意図は

「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。

とされています。「弥陀の願意」ですから、当然18願意のことになります。
『散善義』では、下品上生のところで「願意」についてこう仰っています。

しかるに仏の願意に望むれば、ただ勧めて正念に名を称せしむ。往生の義、疾きこと雑散の業に同じからず。

阿弥陀仏の願意は、「正念に名を称せしむ」だけを勧められたのであり、「雑散の業に同じからず」と雑行とは違うと釘までさしておられます。
善導大師が二河白道で諸善を勧められた、信前の求道について教えられたという妄想は、ここでも簡単に打ち砕くことができます。

なお、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」は、18願の言い換えになりますが、善導大師は他所でも、18願の言い換えをされています。
『往生礼讃』には、

もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ

『観念法門』には、

もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、 わが願力に乗じて、もし生ぜずは、正覚を取らじ

18願ですから善が無いのは言うまでもないのですが、往生のために「わが名号を称すること下十声に至るまで」「わが名字を称すること、下十声に至るまで」と念仏が強調されています。

要するに往生のために念仏を称えることを誓われているのが、阿弥陀仏の「願意」だということになります。

ここで着目したいのが、『往生礼讃』における18願の言い換えには信心に関する言及がありません。善導大師は信心よりも念仏に重きをおかれていたように思われます。

その証拠に、『散善義』の下品下生のところでは、

四に「如此愚人」より下「生死之罪」に至るこのかたは、まさしく法を聞き仏を念じて、現益を蒙ることを得ることを明かす。

すなはちその十あり。
一にはかさねて造悪の人を牒することを明かす。
二には命延久しからざることを明かす。
三には臨終に善知識に遇ふことを明かす。
四には善人安慰して教へて仏を念ぜしむることを明かす。
五には罪人死苦来り逼めて、仏名を念ずることを得るに由なきことを明かす。
六には善友苦しみて失念すと知りて、教を転じて口に弥陀の名号を称せしむることを明かす。
七には念数の多少、声々間なきことを明かす。
八には罪を除くこと多劫なることを明かす。
九には臨終正念にしてすなはち金華来応することあることを明かす。
十には去時の遅疾、ただちに所帰の国に到ることを明かす。

(現代語訳)

四つに、 「かくの如き愚人」 より 「生死の罪」 までは、 まさしく法を聞き仏を念じて、 現に利益を蒙ることを得ることを明かす。 その中に十ある。
一つには、 重ねて造悪の人であることを明かす。
二つには、 寿命があと長くないことを明かす。
三つには、 臨終に善知識にあうことを明かす。
四つには、 善知識が慰め教えて、 仏の徳を念ぜさせることを明かす。
五つには、 罪人は死の苦が逼せまって、 仏の名号のいわれを心に念ずることができないことを明かす。
六つには、 善知識は、 行者が苦のために念ずることができないのを知って、 教えを転じて、 口に弥陀の名号を称えさせることを明かす。
七つには、 称名の数の多少と、 その声がたえまのないことを明かす。
八つには、 多劫の罪を除くことを明かす。
九つには、 臨終に心乱れず、 そこで金蓮華が来たり迎えることを明かす。
十には、 往生に要する時の遅速を明かす。


とあります。
善導大師は、6番目の「教を転じて口に弥陀の名号を称せしむる」のいわゆる転教口称の念仏と教えられています。「罪人死苦来り逼めて、仏名を念ずることを得るに由なき」とあるように、臨終の苦しみから「仏名を念ずること」もできない状態で、善知識が勧められたことが、転教口称の念仏です。阿弥陀仏のことを念ずることも、名号のいわれを念ずることも、善知識から聞いた教えを思い出すことができなくても、口で「南無阿弥陀仏」と称えることで往生できることを教えられた箇所です。

親鸞会では全く受け入れられない教えですが、善導大師は究極的にはただ口に称えるだけで往生できると誓われたのが18願だと解釈されたのです。

参考までに親鸞聖人は『唯信鈔文意』で『観無量寿経』下品下生を

「汝若不能念」といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。

と解釈されています。「称名を本願と誓ひたまへる」です。

善導大師が仰る「弥陀の願意」も知らなければ、転教口称の念仏も完全否定する高森顕徹会長が、善導大師の二河白道の譬喩について正しく説明できるはずもありません。

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2020年5月23日 (土)

「雑行をすてて」=「専修専念」と教えられたのが蓮如上人だということも理解できない高森顕徹会長と親鸞会会員

蓮如上人の『正信偈大意』ばかりを取り上げると、

凡夫往生の鏡である『御文章』には信後の念仏しか仰っていない

と、難癖をつけてくる人がいますので、『御文章』で信心と念仏との関係を見てみます。

2帖3通には、

開山親鸞聖人のすすめましますところの弥陀如来の他力真実信心といふは、もろもろの雑行をすてて専修専念一向一心に弥陀に帰命するをもつて、本願を信楽する体とす。

とあります。
他力真実信心」=「もろもろの雑行をすてて専修専念一向一心に弥陀に帰命する
ですが、「専修」は念仏一行を修すること、「専念」も念仏一行ですので、「雑行」を捨てて念仏一行を修して阿弥陀仏に一向一心に帰命することが真実の信心なのです。
念のためもう一度言うと、「専修専念」して「一向一心に弥陀に帰命する」のです。「一向一心に弥陀に帰命する」後に報謝の「専修専念」とは仰っていません。

2帖8通は

それ、当流親鸞聖人のをしへたまへるところの他力信心のおもむきといふは、なにのやうもなく、わが身はあさましき罪ふかき身ぞとおもひて、弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、もろもろの雑行をすてて専修専念なれば、かならず遍照の光明のなかに摂め取られまゐらするなり。これまことにわれらが往生の決定するすがたなり。

と仰っていますが、ここは「弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて」の後に「専修専念」とあるものの、「雑行をすてて」も「専修専念」と同列に扱われていますので、信心を獲た後に、「雑行をすてて」にならないことが判れば、ここも2帖3通と同じ意味と理解できるでしょう。

3帖6通は信心を獲る状態のことを仰っています。

それ南無阿弥陀仏と申すはいかなるこころぞなれば、まづ「南無」といふ二字は、帰命と発願回向とのふたつのこころなり。また「南無」といふは願なり、「阿弥陀仏」といふは行なり。されば雑行雑善をなげすてて専修専念に弥陀如来をたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふ帰命の一念おこるとき、かたじけなくも遍照の光明を放ちて行者を摂取したまふなり。

雑行雑善をなげすてて専修専念に弥陀如来をたのみたてまつりて」は、「雑行」を捨てて「専修専念」する、ということですので、行としての雑行を止めて行としての念仏だけを称える状態を教えられ、そこに「たすけたまへとおもふ帰命の一念おこる」のです。日本語として、信心を獲た時に「雑行」を捨てさせられて、報謝の念仏となる、という意味にはなりません。文章の流れから言うと

1.「雑行」をなげすてる
   ↓
2.「専修専念」
   ↓
3.「帰命の一念おこる」

です。この続きが
4.「御恩報謝の念仏」
です。

今は、時間的に差があるかどうかの話をしているのではなく、説明の順序の話をしています。行としては1と2は同じことになりますが、2の「専修専念」には自力の「専修専念」と他力の「専修専念」がありますので、自力の「専修専念」から他力の「専修専念」になってそれが「帰命の一念おこる」ことなのです。それを

ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、極楽に往生すべきやうにおもひはんべり。それはおほきにおぼつかなきことなり。

と仰っているのです。自力の「専修専念」では「それはおぼつかなきことなり」であって、「専修専念」自体を否定されたのではありません。

こういうと、徹底的に捻くれた親鸞会の会員はこういうでしょう。

「専修専念」と仰っていないお手紙の方が多いから、信前に「専修専念」があるとは蓮如上人は仰っていない!

少なくとも「専修専念」と仰っている箇所があるのですから、それを否定する神経が判りませんが、先ほど言いましたように「雑行」を捨てることと「専修専念」になることは行として同じことですので、「専修専念」となくても、「雑行」を捨てるとは念仏一行になること以外に意味はないのです。

この辺りは国語の問題ですから、理解できなければ、国語の先生に教えてもらってきてください。

今回は国語の問題で、それほど難しい内容ではありませんが、高森顕徹会長の「文法も鉄砲もあるか!」という無茶苦茶な論理を信じる人には理解できないかもしれません。

哀れです。

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2020年5月17日 (日)

真実の信心=「一心専念」=「念仏一行と深信」が理解できない、念仏とは別のものを深信する親鸞会信心

新型コロナに怯えまくって、降誕会を8月の追悼法要と兼ねて開催すると宣言した高森顕徹会長ですが、命がけの布教も命がけの聞法を勧めたのも、口先だけだったと今更ながら判る事例です。

さて、前回紹介しました第七深信

一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに。

の「一心専念」について、親鸞聖人は『教行信証』信巻で解釈されています。

光明寺の和尚は「一心専念」といひ、また「専心専念」といへり。

しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。
(中略)
宗師の「専念」といへるは、すなはちこれ一行なり。「専心」といへるは、すなはちこれ一心なり。
しかれば願成就の「一念」はすなはちこれ専心なり。専心はすなはちこれ深心なり。深心はすなはちこれ深信なり。

(現代語訳)

善導大師は『観経疏』に「一心専念」(散善義)といわれ、また「専心専念」(散善義)といわれている。

ところで『無量寿経』に「聞」と説かれているのは、わたしたち衆生が、仏願の生起本末を聞いて、疑いの心がないのを聞というのである。「信心」というのは、如来の本願力より与えられた信心である。「歓喜」というのは、身も心もよろこびに満ちあふれたすがたをいうのである。「乃至」というのは、多いのも少ないのも兼ねおさめる言葉である。「一念」というのは、信心は二心がないから一念という。これを一心というのである。この一心が、すなわち清らかな報土に生れるまことの因である。
(中略)
善導大師が「専念」といわれたのは、念仏一行である。「専心」といわれたのは、二心のない一心のことである。
すなわち、本願成就の文に「一念」とあるのは二心のない心、すなわち専心である。この専心は深い心、すなわち深心である。この深心は深く信じる心、すなわち深信である。

以上から「一心専念」とは

一心」=「一念」=「二心なき」=「専心」=「深心」=「深信

専念」=「一行

です。何に「一心」「深信」なのかと言えば、「一行」にです。つまり真実の信心とは、念仏一行で往生できると二心なく深く信じることという意味になります。

これは蓮如上人も同じです。たとえば『領解文』の

もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。

は、信心の内容について仰ったものですが、前回の『正信偈大意』と比較しながらみていくと

雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり。また専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。

雑行雑修」はそのままですから、「雑行雑修」をふりすてると、「専修正行」になります。ただし、「専修正行」でも「なりきはまる」かどうかで他力と自力に分かれます。ですから、「自力のこころをふりすてて」とは「専修正行になりきはま」っていない信心をふりすてることです。
それで「雑行雑修自力のこころをふりすて」るとどうなるのかが、「一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ」ですが、これは『正信偈大意』だと「専修正行になりきはまるかたの執心」になることに当たります。

要するに、蓮如上人が「一心に弥陀に帰命せよ」と度々仰っているのは、「専修正行になりきはまるかたの執心」になれということであり、親鸞聖人のお言葉で言うなら「一心専念」のことです。

まとめると、親鸞聖人、蓮如上人が仰る真実の信心とは、

一心専念
=「専修正行になりきはまるかたの執心
念仏一行で往生できると二心なく深く信じること

です。念仏の抜けた信心ではないし、念仏とは別の信心でもありません。「念仏の信心」と蓮如上人が仰っているのは、言葉通りで、裏読みの必要もないし、暗号を解く必要もないのです。

その上での信心正因称名報恩だということを知らないと、親鸞会のように信心はいつまで経っても判りません。

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2020年5月15日 (金)

「念仏を称えて往生する」を否定する高森顕徹会長と親鸞会は、真宗に非ず

最近、信心と念仏との関係について、質問を頂くことが多いので、まとめておきます。

18願の往生について、表現としては3通りあります。

1.信心を獲て往生する
2.念仏を称えて往生する
3.信心を伴った念仏を称えて往生する

この3つのうちで、1だけが正しくて、2は間違い、3の念仏は信後の報謝の念仏というのが、親鸞会の教えです。
しかし、普通に考えれば、親鸞聖人も蓮如上人も2で仰っている箇所があるのですから、2が間違いだという発想自体が、完全な間違いです。

2の代表的な根拠としては『正信偈』の

極重の悪人はただ仏を称すべし

でこの元が『教行信証』行巻に『往生要集』を引かれて

極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得

とあります。
極重の悪人は、念仏を称えることによって極楽に生まれることができると断言されています。

『高僧和讃』源信讃にも、

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

とありますし、蓮如上人も『正信偈大意』で

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と仰っています。

『尊号真像銘文』には

「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。

とあり、往生の正因は念仏であるともされています。
これは法然上人の『選択本願念仏集』のお言葉を親鸞聖人が解説されたものですが、同じく『選択本願念仏集』の三選の文を『教行信証』行巻に引かれて、その最終結論が

称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに。

とあり、念仏を称えている者が、必ず往生できるというのが18願です。
行巻には念仏によって往生できるという七高僧方の文がたくさんありますが、曇鸞大師の『浄土論註』の

かの安楽国土は、阿弥陀如来の正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆゑに

も真宗では有名です。高森顕徹会長は知らないでしょうが。念仏して往生するという道以外にはないとされています。

また『唯信鈔文意』にも

「但有称名皆得往」といふは、「但有」はひとへに御なをとなふる人のみ、みな往生すとのたまへるなり、かるがゆゑに「称名皆得往」といふなり。

と仰り、念仏を称える人だけが往生できるとまで断言されています。
同じく『唯信鈔文意』には18願を解釈されて

「乃至十念 若不生者 不取正覚」といふは、選択本願の文なり。この文のこころは、「乃至十念の御なをとなへんもの、もしわがくにに生れずは仏に成らじ」とちかひたまへる本願なり。

と仰っています。念仏を称えた者を浄土に生まれさせる、というのが18願ということです。

蓮如上人も『正信偈大意』の中で曇鸞大師が菩提流支から

これこそまことの長生不死の法なり、これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし

と言われたとされています。曇鸞大師は菩提流支の言葉にしたがって、念仏して生死を逃れられたと教えられています。

もっと単純には、18願のことを「念仏往生の願」と、親鸞聖人も蓮如上人も仰っているのですから、「念仏を称えて往生する」はどんなに頑張っても否定できないのです。

この他にも、「念仏を称えて往生する」との表現はたくさんあります。

そうであるなら、「信心を獲て往生する」ということと、「念仏を称えて往生する」こと、更には「信心を伴った念仏を称えて往生する」とは、すべて同じ意味であると考えるのが、当然なのでしょうが、その当然の思考ができないのです。

このように言うと、信心と念仏は違う、という頓珍漢な反論を平気でしてくる人がいますので、次回は、信心とは何かについて述べます。

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2020年5月10日 (日)

「少善根・少功徳・少福徳因縁」の諸善を勧め、「多善根・多功徳・多福徳因縁」の念仏を侮蔑する親鸞会

親鸞聖人は18願他力の信心を勧められていることは、これまで何十回と述べてきた通りですが、一方で20願自力念仏を親鸞聖人はどう見られているのかを紹介しておきます。

『教行信証』化土巻に

『観経』に准知するに、この『経』にまた顕彰隠密の義あるべし。
顕といふは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。ここをもつて『経』には「多善根・多功徳・多福徳因縁」と説き

(現代語訳)

『観無量寿経』に準じて考えてみると、『阿弥陀経』にも顕彰隠密の義があると知られる。その顕についていうと、釈尊は、念仏以外のどのような善を修めてもわずかな功徳しか積めないとしてこれを退け、善本・徳本の真門を説き示し、自力の一心をおこすようにと励まされ、難思往生を勧めておられる。このようなわけで、『阿弥陀経』には、「念仏は多くの功徳をそなえた行である」と説かれ

とありまして、20願自力念仏の行者とは、善を嫌われ貶されて念仏だけに一心となった人を言います。その20願自力念仏は何の意味も功徳もないのかと言えば、全く違います。「多善根・多功徳・多福徳因縁」と仰っています。これは諸善の「少善根・少功徳・少福徳因縁」との対比になっていますので、因果の道理を信じているのであれば、諸善を捨てて念仏一行に励むのが筋というものです。それをしないのは、念仏が「多善根・多功徳・多福徳因縁」と思わず、諸善よりも劣る「少善根・少功徳・少福徳因縁」としか見做していないことになります。

なお、この根拠を親鸞聖人はこの後紹介されています。

元照律師の『弥陀経の義疏』にいはく、「如来、持名の功勝れたることを明かさんと欲す。まづ余善を貶して少善根とす。いはゆる布施・持戒・立寺・造像・礼誦・座禅・懺念・苦行、一切福業、もし正信なければ、回向願求するにみな少善とす。往生の因にあらず。もしこの経によりて名号を執持せば、決定して往生せん。すなはち知んぬ、称名はこれ多善根・多福徳なりと。むかしこの解をなしし、人なほ遅疑しき。近く襄陽の石碑の経の本文を得て、理冥符せり。はじめて深信を懐く。かれにいはく、〈善男子・善女人、阿弥陀仏を説くを聞きて、一心にして乱れず、名号を専称せよ。称名をもつてのゆゑに、諸罪消滅す。すなはちこれ多功徳・多善根・多福徳因縁なり〉」と。

(現代語訳)

元照律師の『阿弥陀経義疏』にいっている。
「釈尊は、念仏の功徳がすぐれていることを明らかにしようとされ、まず念仏以外の善を劣ったものとしてわずかな功徳しかないといわれる。布施をし、戒律をたもち、あるいは寺を建て、仏像をつくり、仏を礼拝し、経を読み、または座禅をし、懺悔し、苦行するなどのすべての善は、もし正しい信がなかったなら、そのような善によって浄土に往生しようと願っても、みなわずかな功徳しかなく、往生の因ではないのである。もし、『阿弥陀経』の教えにしたがって念仏するなら、間違いなく往生するであろう。だから念仏は多くの功徳があると知ることができる。
かつて、わたしはこのような解釈をしたが、世間の人はなお疑って信じなかった。しかし最近、襄陽の石碑に刻まれた『阿弥陀経』の文を見たところ、わたしの解釈と見事に一致しており、そこではじめて深く信じるようになったのである。その文には次のように説かれている。<善良なものよ、阿弥陀仏について説かれるのを聞いて、心を乱すことなくただひとすじに名号を称えるがよい。名号を称えることにより、あらゆる罪が除かれる。すなわち念仏は多くの功徳をそなえて行である>」

20願自力念仏は「多善根・多功徳・多福徳因縁」であるのですから、当然その利益は素晴らしいものです。具体的には、化土往生だと親鸞聖人は教えられています。信心のない自力念仏であってでも、化土往生をさせて頂けるのです。
もう一度言いますと、

信心がなくてでも化土に往生させて頂けるのが「多善根・多功徳・多福徳因縁」の20願自力念仏です。

したがいまして、自力念仏を軽視したり、侮蔑するようなことは真宗ではあり得ないのです。

ただし、報土往生ではないので、親鸞聖人は信心のある念仏を勧められているのです。念仏を無視した信心ではなく、念仏の上に信心を獲ることを強調されているのですから、信心と言っても念仏を称えるのは前提になります。

これは信行両座の諍論もそういうことで、念仏の信と念仏の行という選択肢であったのです。念仏の行では自力念仏か他力念仏かの区別がつきませんが、そこに念仏の信心の有無で報土往生か化土往生か分かれるという諍論です。念仏と信心という対立ではないことをよく知らなければなりません。

まとめると、親鸞聖人は20願自力念仏を「多善根・多功徳・多福徳因縁」とまで仰っていますが、それ以上なのが18願他力念仏なので、18願他力念仏を勧められたということです。
蓮如上人も全く同じです。

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2020年5月 6日 (水)

「まことにこのたび往生をとげんとおもはんひとは、かならず一向専修の念仏を行ずべき」です。「念仏のちからをあやぶむ」人は残念です。

存覚上人は『持名鈔』という書も著わされていますが、内容は題名の通りで、執持名号、つまり念仏を称えることを勧められた書です。少し紹介すると

ここに念仏往生の一門は末代相応の要法、決定往生の正因なり。この門にとりて、また専修・雑修の二門あり。専修といふは、ただ弥陀一仏の悲願に帰し、ひとすぢに称名念仏の一行をつとめて他事をまじへざるなり。雑修といふは、おなじく念仏を申せども、かねて他の仏・菩薩をも念じ、また余の一切の行業をもくはふるなり。このふたつのなかには、専修をもつて決定往生の業とす。

とありますが、念仏一行を専ら修する「専修」が「決定往生の業」だと仰っています。「雑修」は念仏に加えて諸善を修することです。親鸞会では念仏を疎かにして、諸善を修することばかり言っていますので、「雑修」ではなく「雑行」そのものでしょう。

ここで、「専修」の説明が「ただ弥陀一仏の悲願に帰し、ひとすぢに称名念仏の一行をつとめて他事をまじへざるなり」となっているところから、
信心を獲た後の報謝の念仏一行のこと
と勘違いする人も出て来そうですので、そのような意味でないことは、この後を見ると判ります。

おほよそ「一向専念無量寿仏」といへるは、『大経』の誠説なり。諸行をまじふべからずとみえたり。「一向専称弥陀仏名」(散善義)と判ずるは、和尚(善導)の解釈なり。念仏をつとむべしときこえたり。このゆゑに源空聖人このむねををしへ、親鸞聖人そのおもむきをすすめたまふ。 一流の宗義さらにわたくしなし。まことにこのたび往生をとげんとおもはんひとは、かならず一向専修の念仏を行ずべきなり。

最後の文の「まことにこのたび往生をとげんとおもはんひと」がどうすべきかについて、「かならず一向専修の念仏を行ずべきなり」ですので、信前の人に対して往生したいと願うのならば、念仏一行を行じなさいと言われているのです。これは存覚上人の勝手な解釈ではなく、釈尊も善導大師も、法然上人も親鸞聖人も「念仏をつとむべし」という「そのおもむきをすすめたまふ」なのです。信前の人に対して念仏を称えることだけを勧められている、ということです。

真宗の教えとはこれ以外にはないのです。
この次に念仏と信心との関係に言及されています。

しかるにうるはしく一向専修になるひとはきはめてまれなり。「難きがなかに難し」といへるは、『経』(大経)の文なれば、まことにことわりなるべし。 そのゆゑを案ずるに、いづれの行にても、もとよりつとめきたれる行をすてがたくおもひ、日ごろ功をいれつる仏・菩薩をさしおきがたくおもふなり。 これすなはち、念仏を行ずれば諸善はそのなかにあることをしらず、弥陀に帰すれば諸仏の御こころにかなふといふことを信ぜずして、如来の功徳を疑ひ、念仏のちからをあやぶむがゆゑなり。

信心を獲た人というのは、「うるはしく一向専修になるひと」のことです。ところが「うるはしく一向専修になるひと」が「きはめてまれ」なのです。それを「難きがなかに難し」とされて、その理由の結論が最後の文で、「念仏を行ずれば諸善はそのなかにあることをしらず、弥陀に帰すれば諸仏の御こころにかなふといふことを信ぜずして、如来の功徳を疑ひ、念仏のちからをあやぶむがゆゑなり」なのです。諸善に心が掛かっているのは、「如来の功徳を疑ひ、念仏のちからをあやぶむ」からです。疑情、自力のこころとは、まさに「念仏のちからをあやぶむ」ことです。念仏は信後の報謝に限るのであれば、「念仏のちからをあやぶむ」という言い方をされることはあり得ません。
信心とは、「念仏のちから」を信じていることなのですが、それが判らない人が多いので、「難きがなかに難し」なのです。

なお、「難きがなかに難し」についての説明を親鸞聖人は『教行信証』信巻でされています。

律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』(大経)に〈易往而無人〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」と。

(現代語訳)

律宗の用欽がいっている。
「阿弥陀仏の教えを信じることが難しいと説くのは、まことにこの教えは、凡夫を転じて仏とすることが、ちょど手のひらを返すようだからである。きわめてたやすいから、かえって浅はかな衆生は多くの疑いを生じる。そこで『無量寿経』には、<浄土は往生しやすいにもかかわらず、往生する人がまれである>と説かれている。このようなわけで信じることが難しいと知られる」

この法」とは、念仏を称えて往生するという教えです。念仏を称えるという手のひらを反すように極めて容易い行で往生できると聞くと、そんな容易い行で往生できるかという疑いが浅はかな衆生には生じるから「難信」なのです。
一応、国語の問題ですが、信心を信じることが難しいのではありません。念仏を信じることが難しいのです。信心を信じる信心では日本語にならないのです。念仏を信じる信心です。
この当たり前のことが判らないと、親鸞会のように、

念仏で助かるのではない、信心一つで助かるのだ!

と判っているのかいないのか判らない説明になってしまうのです。

くどいようですが信心とは「念仏の信心」です。別の言い方をすれば、「念仏のちから」を信じることです。

本気で往生したい人は「かならず一向専修の念仏を行ずべき」で、それを疑いなく信じてください。

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2020年5月 2日 (土)

「念仏の信心」を否定すると釈尊、勢至菩薩の否定になり、歴代の善知識方と安心が異なることになるので、ご注意を

親鸞聖人は当然のこととして、蓮如上人も「念仏の信心」を教えられた方であることは、前回述べました。蓮如上人が特別に尊敬されていたのが、存覚上人です。

『御一代記聞書』には、

前々住上人、南殿にて、存覚御作分の聖教ちと不審なる所の候ふを、いかがとて、兼縁、前々住上人へ御目にかけられ候へば、仰せられ候ふ。名人のせられ候ふ物をばそのままにて置くことなり。これが名誉なりと仰せられ候ふなり。

(現代語訳)

蓮悟さまが、蓮如上人のおられる南殿へおうかがいし、存覚上人の著わされたお聖教に少し疑問に思うところがあるのを書き出して「どういうことでしょうか」と、上人にお見せしました。
すると上人は、「名人がお書きになったものは、そのままにしておきなさい。
こちらの考えが及ばない深い思し召しのあるところが、名人の名人たるすぐれたところなのである」と仰せになりました。

あるいは、

存覚は大勢至の化身なり

さては釈迦の化身なり

とまで仰っています。
その存覚上人の『真要鈔』には、こうあります。

それ一向専修の念仏は、決定往生の肝心なり。これすなはち『大経』のなかに弥陀如来の四十八願を説くなかに、第十八の願に念仏の信心をすすめて諸行を説かず、「乃至十念の行者かならず往生を得べし」と説けるゆゑなり。しかのみならず、おなじき『経』の三輩往生の文に、みな通じて「一向専念無量寿仏」と説きて、「一向にもつぱら無量寿仏を念ぜよ」といへり。「一向」といふはひとつにむかふといふ、ただ念仏の一行にむかへとなり。「専念」といふはもつぱら念ぜよといふ、ひとへに弥陀一仏を念じたてまつるほかに二つをならぶることなかれとなり。

一向専修の念仏」を「決定往生の肝心」と最初に仰っています。そして18願について「念仏の信心をすすめて諸行を説かず」と仰っています。ここに「念仏の信心」とあります。18願の内容はこの後に「乃至十念の行者かならず往生を得べし」とされました。念仏の行者は必ず往生できる、ということです。これが「念仏の信心」になります。
更には、『大無量寿経』の三輩の文にある「一向専念無量寿仏」について、「一向」は「ただ念仏の一行にむかへ」であり、「専念」は「ひとへに弥陀一仏を念じたてまつるほかに二つをならぶることなかれ」と仰っていますので、「一向専念無量寿仏」とは、ただ念仏だけを称えて、阿弥陀仏を念じよ、ということになります。

ですから、ここでの「念仏の信心」とは、念仏一行になり極まったことになりますので、前回紹介した『正信偈大意』の「専修正行になりきはまるかたの執心」と一致しています。

また『真要鈔』では法然上人の三選の文を引用されてその結論として

決定往生のこころざしあらんひとは、念仏の一行をもつぱらにして、専修専念・一向一心なるべきこと、祖師の解釈はなはだあきらかなるものをや。

とも仰っています。
往生したいと強く願っている人は、「念仏の一行をもつぱらにして、専修専念・一向一心なるべきこと」で往生できるのだと教えられています。「念仏の一行をもつぱらにして」も「専修」も「一向」も皆、同じ意味です。念仏一行抜きの信心も往生もありません。信後に報謝の念仏一行になれという意味でないことは、明白です。

更には

釈迦・弥陀および十方の諸仏の御こころにしたがひて 念仏を信ぜんひと、かならず往生の大益を得べしといふこと、疑あるべからず。

ともありますし、18願成就文の解釈を

一切の衆生、無礙光如来の名をきき得て、生死出離の強縁ひとへに念仏往生の一道にあるべしと、よろこびおもふこころの一念おこるとき往生は定まるなり。これすなはち弥陀如来、因位のむかし、至心に回向したまへりしゆゑなり

とまでされています。18願成就文の「信心」は、「生死出離の強縁ひとへに念仏往生の一道にあるべし」です。

親鸞会ではどうすれば助かるかについて

成就文には念仏がないから信心一つ

とか言っていますが、この「信心」に念仏があるのです。

ついでにこの後には

念仏の行者、一念の信心定まるとき

とも仰っていますが、これも『正信偈大意』の「一心念仏の行者、一念慶喜の信心さだまりぬれば」と同じです。
念仏の行者」に「一念の信心定まる」のです。「一念の信心定ま」った後に「念仏の行者」になるのではありません。

蓮如上人が『正信偈大意』で「念仏の信心」を教えられたのは、存覚上人の影響が大きかったと言えます。それは当然で、親鸞聖人も「念仏の信心」を教えられていますので、今更説明するまでもないことなのですが、成就文には念仏がないとか信前行後に拘って、「念仏の信心」を否定すると釈尊、勢至菩薩の否定であり、法然上人、親鸞聖人、存覚上人、蓮如上人と異なる安心になりますので、ご注意を。

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