親鸞会の根本聖典『歎異抄をひらく』の邪義3
『歎異抄』第一条
弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。
この「ただ信心」については、「ただ念仏して」と同じことであり、弥陀の本願まことをそのまま受け入れていくことである、と前々回のエントリーで説明しました。
ところが高森顕徹会長は、この「信心」を何か特別な能力が備わったことかのように言っています。
『歎異抄をひらく』には、
一般には、金が儲かる、病気が治る、息災延命、家内安全などのゴリヤクを、仏や神に祈念することを「信心」と言われている。
また、神仏を深く信じて「疑わないこと」と考えている人がほとんどだ。
しかし、よく考えると、疑う余地のまったくないことなら信ずることは不要になる。「夫は男だと信じている」と言う妻はないだろう。疑いようがないからである。
ひどい火傷をした人は、「火は熱いものだと信じている」とは言わない。熱かった体験をしたからだ。
疑いようのない明らかなことは「知っている」とは言うが、「信じている」とは言わない。「信じる」のは「疑いの心」があるときである。
難関の受験生は、試験は水もの、発表までハッキリしないから、「合格を信じている」という。「合格を知っている」とは言わない。”ひょっとしたら失敗するかも”の、疑心があるからであろう。
世間でいう信心も同様だ。ハッキリしない疑いの心を抑えつけ、信じ込もうとする信心である。だが親鸞聖人が肝要と言われる「信心」は、根本的に異質のものだ。どこが、どう違うのか。喩えなどで詳述しよう。
乱気流に突っ込んで激しく機体が振動し、しばしば機長のアナウンスが流れる。「大丈夫です。ご安心下さい」。それでも起きる不安や疑心は、無事着陸したときに消滅する。
「助ける」という約束に対する疑いは、「助かった時」に破れる。「与える」という約束の疑いは、「受け取った時」に無くなるように、”摂取不捨の利益(絶対の幸福)を与える”という弥陀の約束(本願)に対する疑いは、「摂取不捨の利益」を私が受け取ったときに晴れるのである。
この「弥陀の本願(誓願)に露チリほどの疑いもなくなった心」を、「信心」とか、「信楽」と聖人はおっしゃるのだ。
まず、この『歎異抄』の御文は法然上人の常々の仰せの言い換えであることを高森会長は知りません。
たとえば『和語灯録』に
心の善悪をもかへり見づ、つみの軽重をも沙汰せず、ただ口に南無阿弥陀仏と申せば、仏のちかひによりて、かならず往生するぞと、决定の心ををこすべき也。その決定の心によりて、往生の業はさだまる也。
とあります。
『歎異抄』の「ただ信心を要とす」が「ただ口に南無阿弥陀仏と申せば、仏のちかひによりて、かならず往生するぞと、决定の心ををこすべき也。その決定の心によりて、往生の業はさだまる也。」にあたります。
もちろん、「信心」「摂取不捨の利益」は「かならず往生するぞと、决定の心」のことです。
往生を誓われた本願に対して、いまだ往生する前に決定の心が起るのが信心です。高森会長のたとえはその点においてもおかしいといえます。
機長のアナウンスに対する不安や疑心が消滅するのは着陸するときですから、弥陀の本願に対する疑心が消滅するのは往生するときでなければなりません。着陸する前に、機長のアナウンスをそのまま受け入れたのが、信心にあたるのです。着陸する前の時点で着陸できるかどうかは、乗客には判りません。まして往生が凡夫に判ることなどあり得ないと『執持鈔』を出して説明した通りです。
往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
もちろんこれは覚如上人の独創ではありません。親鸞聖人も『御消息』で
如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。(中略)このこころのほかには往生に要るべきこと候はずとこころえて、まかりすぎ候へば、人の仰せごとにはいらぬものにて候ふなり。
と仰っています。
ところが高森会長は「かならず往生するぞと、决定の心」の信心を中心にしてすべてを理解しようとするからおかしな話になるのです。中心は往生であり、往生が定まったことを信心と言われているのです。往生を基にせず、信心でのみ話をするから、信心を超能力でも備わったかのような説明になるわけです。
高森会長は、念仏と信心との関係が理解できていないので、善導大師の『観無量寿経疏』の
一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。
で説明します。
この「一心にもつぱら念じて」が信心であり、これを親鸞聖人は『一念多念証文』で
「一心専念」 といふは、 「一心」 は金剛の信心なり。 「専念」 は一向専修。 一向は、 余の善にうつらず、余の仏を念ぜず。専修は、本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。 修は、 こころの定まらぬをつくろひなほし、 おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり。もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。
と教えられています。「余善・他仏」に心をうすさず、「ただ念仏」となったのが、「ただ信心」なのです。
したがって「余善・他仏」に心をうつす念仏は、「ただ念仏」でもなく「ただ信心」でもありません。
弥陀の本願をはからわず、往生をまかせて称える念仏がそのまま信心になるのです。
これが高森会長をはじめ、親鸞会の面々では全く理解できないところです。
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