唯念仏

2017年5月21日 (日)

「念仏は無碍の一道なり」が判らず否定する高森顕徹会長

本日の講師部講義で、高森顕徹会長はまたまた面白い説明をしていました。

18願を「十方衆生を相手に信楽の身にしてみせる」とするいつもの解釈の説明として、今回は銀行の融資に譬えて、

全ての日本人に対して1億円の融資

と言っていたそうです。
頓珍漢というか、無茶苦茶な譬えです。

まず、なぜ融資なのか。融資とは借金です。当然返済しなければなりません。阿弥陀仏の救いを報恩で返済しろと言いたいのでしょうか。
次に、融資が誰にでも無条件で受けられることはあり得ない話で、どうしてもそう譬えたいのなら、19願の「十方衆生」とは切り離した譬えとすべきです。親鸞聖人の『尊号真像銘文』のお言葉からすると、18願は「五逆誹謗正法」という債務超過に陥っている人にも融資をするが、19願には「五逆誹謗正法」がないので、債務超過の人は融資対象から除かれているとしなければならないからです。
それに、以前の譬えは選挙公約の税金の話だった筈です。もし当選したら税金を撤廃する、あるいは税金を還付する、という公約で譬えていたのですが、これも19願の「十方衆生」との関連で、税金(特に所得税)は払っている人には関係があるが、元々払っていない人には関係ないと私が言ったことで、こっそり修正したつもりなのでしょう。

今までの話を修正するのは結構なことですが、より悪い方向に変えているようでは、話にもなりません。これが、会員に無二の善知識と呼ばせている高森会長の実態です。

さて、今回も絶対の幸福の強調をしていましたが、無碍の一道についてもう少し説明しておきます。

元々は『浄土論註』のお言葉ですが、それを親鸞聖人は『教行信証』行巻に引かれています。

いま〈速得阿耨多羅三藐三菩提〉といへるは、これはやく仏になることを得たまへるなり。〈阿〉をば無に名づく、〈耨多羅〉をば上に名づく、〈三藐〉をば正に名づく、〈三〉をば遍に名づく〈菩提〉をば道に名づく、統ねてこれを訳して、名づけて無上正遍道とす。
(中略)
道は無碍道なり。『経』(華厳経)にいはく、〈十方の無碍人、一道より生死を出でたまへり〉と。〈一道〉は、一無碍道なり。無碍は、いはく、生死すなはちこれ涅槃なりと知るなり。

(現代語訳)

いま<速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得られた>といっているのは、法蔵菩薩が速やかに阿弥陀仏になられたことをいう。<阿>は無と訳し、<耨多羅>は上と訳し、<三藐>は正と訳し、<三>は遍と訳し、<菩提>は道と訳す。まとめてこれを訳すと無上正遍道という。
(中略)
<道>とは、無礙道である。『華厳経』に<すべての世界の無礙人である仏がたは、ただ一つの道によって迷いを出られた>と説かれている。<ただ一つの道>とは、ただ一つの無礙の道のことである。<無礙>とは、迷いとさとりとが本来別なものではないとさとることである。

結論を言うと、無碍人である仏方は、ただ一つの道である念仏によって迷いを出られ仏になられたことを、無碍の一道と親鸞聖人は仰っているのです。

したがいまして、『歎異抄』第7条の

念仏者は無碍の一道なり

は本来の意味では

念仏は無碍の一道なり

であったのを、親鸞聖人が「念仏者は」と敢えて仰ったのか、それとも『歎異抄』の著者が「念仏は」を「念仏者は」と書き間違えたのか、或いは『歎異抄』の原本が残っていないので、書写される過程で間違ったのか、そこは明確にはなっておりません。

いずれにしましても、絶対の幸福なる意味が全くないどころか、高森会長が必死で否定する「ただ念仏」、つまり獲信も往生も成仏にも善が全く不要である根拠にしかならないのです。

高森会長も教えを修正するなら、まずは善の否定からでしょうが、それは教団存続のためには絶対にしないでしょう。そんな高森会長の強欲に振り回されて、同朋の里に映画館まで建てさせられる会員は、哀れとしか言い様がありません。

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2017年4月 7日 (金)

無常と罪悪にせめ立てられてマインドコントロールされた高森会会員

最近の親鸞会は、映画への拘りが異常です。会員と会員が誘った人しか見ていない映画を、ロングセラーだと言って会員に宣伝するその感覚も異常です。教義は高森顕徹会長が創るものであり、親鸞聖人の名前を単に借りただけとも、会員は気が付いているでしょう。それでも会員を続けざるを得ない精神状態に追い込まれている、まさにマインドコントロールです。それは何によってか、無常と罪悪にせめ立てられて

さて、無常観と罪悪観に関しては、今年の年頭所感に高森会長がこんなことを書いています。

 親鸞聖人が七高僧の一人に挙げられる、道綽禅師の『安楽集』に、こんな例話が説かれている。
「旅人が、果てしない荒野を一人で歩いていると、後ろから刀を振りかざす怨賊が、殺そうと追いかけて来る。
 一目散に逃げる前方には、大河があって進めない。そこで旅人は大いに迷う。
『あの河にぶつかったら、着物を脱いで渡ろうか、着たまま泳ごうか。脱いで渡ろうとすれば、堅く締まった帯が解けず、迫る危機に間に合わない。脱がずに飛び込めば、泳げぬから沈むだけ』
 そんな時、ただ大河を渡る方法だけを考えて外は何も考えない。
 弥陀の救いを求める時も同じこと。河の大事に一心専念して、外のことは一瞬として考えないのである」
 これは何を例えられたものなのか。
 旅人の後ろから、剣を抜き殺そうと追いかけてくる怨賊とは、刻々と我々に迫る激しい無常の嵐のことである。
 必死に逃げる前方には、怒涛逆巻く大河が現れて進めない。
 そこで旅人は、着物を脱いで渡ろうか、着たまま飛び込もうか、と大混乱する。
 着物を脱いで渡ろうとすれば、堅く締まって帯が解けず、危機に間に合わない。着たまま河に飛び込めば、泳げないから溺れ死ぬだけ。絶体絶命に追い込まれる。
 帯が堅く締まっていて着物が脱げないとは、重い罪悪に苦しんでいる様を例えられたものである。
 この旅人のように”無常と罪悪にせめ立てられて、仏法は聞きなさいよ”と教誡された道綽禅師の例えである。

前半は概ね正しいですが、高森会長の解説は間違いです。
まずは原文を見てみましょう。

 また問ひていはく、いま勧めによりて念仏三昧を行ぜんと欲す。 いまだ知らず、計念の相状はなににか似たる。
 答へていはく、たとへば人ありて空曠のはるかなる処において、怨賊の刀を抜き勇を奮ひてただちに来りて殺さんと欲するに値遇す。 この人ただちに走るに、一の河を度らんとするを視る。 いまだ河に到るに及ばざるに、すなはちこの念をなす。
「われ河の岸に至らば、衣を脱ぎて渡るとやせん、衣を着て浮ぶとやせん。 もし衣を脱ぎて渡らば、ただおそらくは暇なからん。 もし衣を着て浮ばば、またおそらくは首領全くしがたからん」と。
 その時、ただ一心に河を渡る方便をなすことのみありて、余の心想間雑することなきがごとし。 行者もまたしかなり。
 阿弥陀仏を念ずる時、またかの人の渡ることのみを念じて、念々あひ次いで余の心想間雑することなきがごとし。 あるいは仏の法身を念じ、あるいは仏の神力を念じ、あるいは仏の智慧を念じ、あるいは仏の毫相を念じ、あるいは仏の相好を念じ、あるいは仏の本願を念ず。 名を称することもまたしかなり。 ただよく専至に相続して断えざれば、さだめて仏前に生ず。

(現代語訳)

 また問うていう。 今、 勧めによって、 念仏三昧を行じようと思うが、 その念仏の相状はどのようであるか。
 答えていう。 たとえば、 人が広々とした所において、 恐ろしい賊が刀を抜き、 勇をふるってまっすぐに襲い来り殺そうとするのに値あうとする。 この人はただちに走って、 渡らねばならぬ一つの河があるのを見た。 まだ河に到らぬうちに、 こういう思いをした。 わたしは、 河の岸についたならば、 衣を脱いでわたろうか、 衣をきて泳ごうか。 もし衣を脱いで渡ろうとすれば、 恐らく暇がないであろう。 もし衣をつけたままで泳ごうとすれば、 またおそらく溺れるであろうと。 その時にはただ一心に河を渡る方法を考えるばかりで、 ほかの思いのまじわることがないようなものである。
 行者もまたそのとおりである。 阿弥陀仏を念ずる時も、 かの人が河を渡ることを思って念々に相続し、 ほかの思いをまじえないように、 あるいは仏の法身を念じ、 あるいは仏の威神力を念じ、 あるいは仏の智慧を念じ、 あるいは仏の白毫相を念じ、 あるいは仏の相好を念じ、 あるいは仏の本願を念じて称名する場合もそのとおりである。 ただよくもっぱら相続して絶えなかったならば、 まちがいなく仏の前に生れる。

道綽禅師が仰っていることは、念仏三昧を行じる上での相状、つまり心のことを仰ったものです。それは高森会長の言葉を使えば、「ただ大河を渡る方法だけを考えて外は何も考えない。」です。つまり、往生する方法だけを考えて外は何も考えない、状態の念仏が念仏三昧の相状だということなのです。

”無常と罪悪にせめ立てられて、仏法は聞きなさいよ”

の意味はありません。
道綽禅師の結論は

名を称することもまたしかなり。 ただよく専至に相続して断えざれば、さだめて仏前に生ず。

で、念仏に専念し相続すれば、浄土に往生できます、ということです。言葉を換えると、念仏一行と一心になりなさい、と道綽禅師が勧められている内容なのです。

日頃使わない根拠を出して、得意満面なのかもしれませんが、高森会長の主張を破邪する根拠でしかないのです。大沼法竜師の著書をパクって、『会報』にも載せていますが、意味も意図も判らず恥さらしを再現しているところが、無知の高森会長らしいところです。

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2016年12月 2日 (金)

念仏軽視の高森顕徹会長には理解できない蓮如上人の教え

念仏否定であった高森顕徹会長も、最近は信前の念仏を否定まではしなくはなったものの、念仏軽視の姿勢は未だ変わりません。
高森会長が念仏を軽視している根拠が蓮如上人のお言葉です。
『御文章』5帖目11通

それ人間に流布してみな人のこころえたるとほりは、なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなき次第なり。

がよく使われましたが、他にも同じ内容のお言葉はあります。

3帖目2通

されば世間に沙汰するところの念仏といふは、ただ口にだにも南無阿弥陀仏ととなふれば、たすかるやうにみな人のおもへり。それはおぼつかなきことなり。

3帖目4通

しかれば世のなかにひとのあまねくこころえおきたるとほりは、ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、極楽に往生すべきやうにおもひはんべり。それはおほきにおぼつかなきことなり。

3帖目5通

まづ世間にいま流布してむねとすすむるところの念仏と申すは、ただなにの分別もなく南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、みなたすかるべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなきことなり。

ここで共通するのが、「おぼつかなき」です。不確実なことを意味しているのですが、往生できない、という断言ではなく、往生できるかどうか不確実である、ということに注意する必要があります。
逆に言うと、往生できるかもしれない、ということです。

結論を言うと、蓮如上人がここで仰っていることは、「口にただ称名ばかりをとなへ」ることを否定されているのではなく、「なにの分別もなく」という信心のないことを問題にされているということです。

それどころか「口にただ称名ばかりをとなへ」ることを推奨されているのが蓮如上人です。

蓮如上人が書かれた『正信偈大意』から見ていきます。

「印度西天之論家 中夏日域之高僧 顕大聖興世正意 明如来本誓応機」といふは、印度西天といふは天竺なり、中夏といふは唐土なり、日域といふは日本のことなり。この三国の祖師等、念仏の一行をすすめ、ことに釈尊出世の本懐は、ただ弥陀の本願をあまねく説きあらはして、末世の凡夫の機に応じたることをあかしましますといへるこころなり。

とあります。七高僧方が教えられたことについて、「念仏の一行をすすめ」です。一行ですから、他の行である善は勧められていないということです。

龍樹菩薩のところでは、

かの龍樹の『十住毘婆沙論』に、念仏をほめたまふに二種の道をたてたまふ。

天親菩薩のところでは、

この菩薩、大乗経によりて真実を顕す、その真実といふは念仏なり。

と仰っています。蓮如上人が仰っているのは、念仏なのです。

このようにいうと反論するのが、

念仏とは本願のことだ

とか、

念仏とは信後の念仏のことだ

とか文脈を無視して適当なことを言ってくるのが親鸞会です。

最も判りやすいのが曇鸞大師のところで

「三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦」といふは、かの曇鸞大師、はじめは四論宗にておはせしが、仏法のそこをならひきはめたりといふとも、いのちみじかくは、ひとをたすくることいくばくならんとて、陶隠居といふひとにあうて、まづ長生不死の法をならひぬ。すでに三年のあひだ仙人のところにしてならひえてかへりたまふ。そのみちにて菩提流支と申す三蔵にゆきあひてのたまはく、「仏法のなかに長生不死の法は、この土の仙経にすぐれたる法やある」と問ひたまへば、三蔵、地につばきを吐きていはく、「この方にはいづくのところにか長生不死の法あらん、たとひ長年を得てしばらく死せずといふとも、つひに三有に輪廻すべし」といひて、すなはち浄土の『観無量寿経』を授けていはく、「これこそまことの長生不死の法なり、これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし」とのたまへば、曇鸞これをうけとりて、仙経十巻をたちまちに焼きすてて、一向に浄土に帰したまひけり。

とあります。菩提流支三蔵が曇鸞大師に勧めた内容が、「これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし」です。
念仏して出離するのです。善をしてどうのこうのという説明はもちろんありません。

源信僧都のところでは、

専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。

とあります。
報土に往生する人とは、「専修正行になりきはまるかたの執心あるひと」ですから、「専修正行」つまり「口にただ称名ばかりをとなへ」と心が成り極まった信心の人です。

結局、蓮如上人が仰っているのは、中途半端な「口にただ称名ばかりをとなへ」という信心ではなく、「口にただ称名ばかりをとなへ」と「なりきはまるかたの執心あるひと」になりなさいというのことなのです。

何も難しい話ではありませんが、信心と念仏の関係が全く判らない高森会長には理解できないでしょうし、親鸞会会員にも理解しがたい内容かもしれません。

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2014年12月21日 (日)

高森顕徹会長にとって”最も難しい根拠”

前々回、前回と、「極重悪人唯称仏」について述べてきましたが、この元は『往生要集』であり、更にその元は『観無量寿経』下品下生です。

ちなみに、高森顕徹会長の”最も難しい根拠”は、『観無量寿経疏』でしょう。
知ったかぶって『観無量寿経』を解説しているように必死に演技していますが、『観無量寿経』は高森会長にとって”難しい根拠”の代表例であり、その解説書の『観無量寿経疏』に至っては、何が書かれてあるかすら、高森会長は全く知らないと言っても過言ではありません。

当ブログでは、これまで『観無量寿経』下品下生について、かなりしつこく述べてきたと思います。それで今回は、高森会長のために、”最も難しい根拠”の『観無量寿経疏』から、下品下生について紹介します。
『観無量寿経疏』の1巻である『玄義分』に、

下が下とは、「これらの衆生不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。 この人悪業をもつてのゆゑに、さだめて地獄に堕して多劫窮まりなからん。命終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむるに遇ふ。この人教によりて仏を称し、念に乗じてすなはち生ず」(観経・意)と。この人もし善に遇はずは、必定して下沈すべし。 終りに善に遇ふによりて七宝来迎す。

(現代語訳)

下品下生とは、「これらの衆生は、善くない業である五逆・十悪を造り、いろいろの悪を犯している。この人は悪業によるから必ず地獄に堕ちて多劫のあいだ窮まりない苦しみを受ける人であるが、命終わろうとするとき、善知識が南無阿弥陀仏と称えることを教え、往生を勧めてくださるのに遇う。この人はその教にしたがって念仏し、念仏によって往生する。」(観経・意)とある。この人がもし善知識に遇わなければ必ず地獄に堕ちるところであったが、臨終に善知識に遇うたことによって、七宝の蓮台に迎えられたのである。

とあります。
臨終に善知識から勧められたことは念仏だけです。これが『往生要集』の「ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」であり、「他の方便なし」なのです。

過去世や平生に善をしてきた筈だ

と聖道門と同じ強引な理屈を捏ねるでしょうが、それについてこの前に下品を総称して

この三品の人ひと、 仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知しるのみ。

(現代語訳)

この三種の人は、仏法につけ、世間につけ、いずれの善根もなく、ただ悪を作ることだけを知っている。

と仰っています。高森会長の好きな「あることなし」ですから、善根は過去世にも平生にもなかったし、勧められてもいません。

このように下品下生の極重の悪人には、善の勧めは全くないのです。唯念仏によって往生できる、としか釈尊も七高僧も親鸞聖人も教えられていなのです。

浄土真宗を語る上では、基礎の基礎です。

無二の善知識を演じたいのであれば、『観無量寿経』『観無量寿経疏』を”難しい根拠”と敬遠せすに、一度くらいは読んでみては如何でしょうか。真宗学の基礎がなければ、読んでもチンプンカンプンでしょうけど。

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2014年12月18日 (木)

高森顕徹会長の知らない根拠は”難しい根拠”だそうです

一年前に発刊した『なぜ生きる2』ですが、amazonのレビュー等で退会者から教義内容についての猛攻撃にあって、いとも簡単に撃沈し、広告費を会員から出させたものの、まともに広告すら出せない状況です。
余りにもお粗末というか、先が読め無さ過ぎるというか、はたまた”無二の善知識”と本気で思い込んでいたのか、いずれにしても、『なぜ生きる2』の発刊が大失敗であったことは、高森顕徹会長も判っているようです。

ところで、親鸞会内部では、私のことを、難しい根拠を出して煙にまいているだけだ、と評しているそうです。その”難しい根拠”の解釈をしないのが、高森会長と親鸞会らしいところです。
普通なら、相手が出してきた根拠に対しての自分の見解を述べますが、しません。というより、できません。
大体、”難しい根拠”とは何のことでしょうか。高森会長が知らない根拠のことを、”難しい根拠”と言っているのでしょう。単なる無知を公表しているに過ぎないのですが、こんなことを言って恥ずかしくないのでしょうか。

それでは、前回御約束した「極重悪人唯称仏」について、無知の高森会長には”難しい根拠”を出して説明しておきます。
この元は源信僧都の『往生要集』にある

『観経』に「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」と。

です。
『往生要集』のこのお言葉は、『教行信証』行巻にも引かれていますが、『高僧和讃』源信讃にも

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

と親鸞聖人は仰っています。
更には蓮如上人は『正信偈大意』

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と仰っています。

これは『観無量寿経』にある下品下生の往生についてのことを仰ったものです。下品が悪人で、悪人の中の最低が下品下生であり、それを「極重の悪人」と表現なされています。最低の悪人には、念仏以外の方便である善は全くないことを仰ったものです。
逆の言い方をすれば、上品と中品の善人には、念仏以外の方便である善が勧められています。『観無量寿経』を少しでも勉強したことがあれば、超常識です。
このことを親鸞聖人は『浄土和讃』

臨終現前の願により
 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして
 定散諸機をすすめけり

と仰っています。
まとめると

善人(定散諸機)には、諸善(他の方便)が勧められている
極重の悪人には、諸善(他の方便)がなく、唯念仏で極楽に生れる

こう言うことです。
ですから、日本語上も教義上でも「極重悪人唯称仏」は、「念仏を称えさえすれば、誰でも死んだら極楽だ」という意味にしかならないのです。

ちなみに善人(定散諸機)は、諸善(他の方便)を実践してどうなるのかについて親鸞聖人は『教行信証』化土巻・要門釈で化土往生しかできないと仰った結論として

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

と仰っています。

定散の諸機」には他の方便はありますが、極楽に生れるには「極重悪人」同様、「ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり」なのです。

再度まとめると
他の方便のある善人も、他の方便のない悪人も、「ただ弥陀を称せよ」が結論なのです。

高森会長の知らない”難しい根拠”をいくつか出しましたが、”難しい根拠”に対する高森流解釈を是非とも聞きたいものです。

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2014年12月16日 (火)

日本語の能力が著しく欠けている高森顕徹会長の珍釈

12月1日号の顕正新聞の論説に「極重の悪人は唯仏を称すべし」(正信偈)についての珍釈が載っています。

「私は煩悩具足の凡夫であった」と、自己の真実が知らされると同時に、そんな極悪人を無条件で救う本願に疑い晴れ、念仏称えずにおれない身になった人のことを、源信僧都は「極重の悪人は唯、念仏を称えなさい」と言われているのである。
「私が極悪人なものか、アイツよりはマシだ」とうぬぼれ、自分を善のカケラもない煩悩具足の巨魁とは少しも思っていない者に、「念仏を称えさえすれば、誰でも死んだら極楽だ」と仰ったのではない。

読者の皆さんなら、間違いをすぐに指摘できると思いますが、高森顕徹会長の珍しき法しか聞いたことが無い会員には、おかしなところが判らないかもしれません。

まず、日本語が少しでも理解できるのならば、「極重の悪人は唯仏を称すべし」は、親鸞会が否定する「念仏を称えさえすれば、誰でも死んだら極楽だ」という意味になります。親鸞会では日本語をまともに使えないので、こんなおかしなことを平気でいうのです。親鸞聖人の教えられたことを正確に言うならば、「念仏を称えさえすれば、誰でも死んだら報土か化土だ」ということになります。根拠は沢山ありますが、たとえば『浄土和讃』の一番最初の

弥陀の名号となへつつ
 信心まことにうるひとは
 憶念の心つねにして
 仏恩報ずるおもひあり

誓願不思議をうたがひて
 御名を称する往生は
 宮殿のうちに五百歳
 むなしくすぐとぞときたまふ

信心を獲た念仏は報土、信心を獲ていない念仏は化土と親鸞聖人は明言されています。

次に「煩悩具足の凡夫」と「極重の悪人」とは、意味が違います。2つの関係を判りやすく言えば、「煩悩具足の凡夫」の中に「極重の悪人」に分類される人がいると言うことです。嘘だと思う会員のために根拠を挙げておきます。蓮如上人の書かれた『正信偈大意』

「善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪」といふは、浄土門の祖師その数これおほしといへども、善導にかぎり独り仏証をこうて、あやまりなく仏の正意を明かしたまへり。されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり。

五逆の機」(=「極重の悪人」)とは別に「定散の機」があります。言うまでもありませんが、「もらさずあはれみたまひけり」ですから、「五逆の機」も「定散の機」も共に信前の機です。
本願に疑い晴れ、念仏称えずにおれない身になった人のこと」を「極重の悪人」と言うような愚かな解釈ができる筈もありません。

同様に「自分を善のカケラもない煩悩具足の巨魁とは少しも思っていない者」も、大きな勘違いです。これも「煩悩具足の凡夫」の中に「極重の悪人」のような「善のカケラもない」者がいるのですが、一方で善のできる「定散の機」もいます。

まとめると、「極重の悪人は唯仏を称すべし」とは、善のできない「極重の悪人」は唯念仏しか往生の道はない、ということです。

今回は簡単な説明をしておきましたが、次回は「極重の悪人は唯仏を称すべし」の御言葉自体の解説を根拠を基にします。それは、根拠のない妄想珍釈の高森会長との違いをはっきりさせるためです。

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