唯念仏

2021年3月 5日 (金)

親鸞会の根本聖典『歎異抄をひらく』の邪義3

『歎異抄』第一条

弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。

この「ただ信心」については、「ただ念仏して」と同じことであり、弥陀の本願まことをそのまま受け入れていくことである、と前々回のエントリーで説明しました。

ところが高森顕徹会長は、この「信心」を何か特別な能力が備わったことかのように言っています。
『歎異抄をひらく』には、

一般には、金が儲かる、病気が治る、息災延命、家内安全などのゴリヤクを、仏や神に祈念することを「信心」と言われている。
また、神仏を深く信じて「疑わないこと」と考えている人がほとんどだ。
しかし、よく考えると、疑う余地のまったくないことなら信ずることは不要になる。「夫は男だと信じている」と言う妻はないだろう。疑いようがないからである。
ひどい火傷をした人は、「火は熱いものだと信じている」とは言わない。熱かった体験をしたからだ。
疑いようのない明らかなことは「知っている」とは言うが、「信じている」とは言わない。「信じる」のは「疑いの心」があるときである。
難関の受験生は、試験は水もの、発表までハッキリしないから、「合格を信じている」という。「合格を知っている」とは言わない。”ひょっとしたら失敗するかも”の、疑心があるからであろう。
世間でいう信心も同様だ。ハッキリしない疑いの心を抑えつけ、信じ込もうとする信心である。だが親鸞聖人が肝要と言われる「信心」は、根本的に異質のものだ。どこが、どう違うのか。喩えなどで詳述しよう。
乱気流に突っ込んで激しく機体が振動し、しばしば機長のアナウンスが流れる。「大丈夫です。ご安心下さい」。それでも起きる不安や疑心は、無事着陸したときに消滅する。
「助ける」という約束に対する疑いは、「助かった時」に破れる。「与える」という約束の疑いは、「受け取った時」に無くなるように、”摂取不捨の利益(絶対の幸福)を与える”という弥陀の約束(本願)に対する疑いは、「摂取不捨の利益」を私が受け取ったときに晴れるのである。
この「弥陀の本願(誓願)に露チリほどの疑いもなくなった心」を、「信心」とか、「信楽」と聖人はおっしゃるのだ。

まず、この『歎異抄』の御文は法然上人の常々の仰せの言い換えであることを高森会長は知りません。
たとえば『和語灯録』に

心の善悪をもかへり見づ、つみの軽重をも沙汰せず、ただ口に南無阿弥陀仏と申せば、仏のちかひによりて、かならず往生するぞと、决定の心ををこすべき也。その決定の心によりて、往生の業はさだまる也。

とあります。

『歎異抄』の「ただ信心を要とす」が「ただ口に南無阿弥陀仏と申せば、仏のちかひによりて、かならず往生するぞと、决定の心ををこすべき也。その決定の心によりて、往生の業はさだまる也。」にあたります。

もちろん、「信心」「摂取不捨の利益」は「かならず往生するぞと、决定の心」のことです。
往生を誓われた本願に対して、いまだ往生する前に決定の心が起るのが信心です。高森会長のたとえはその点においてもおかしいといえます。

機長のアナウンスに対する不安や疑心が消滅するのは着陸するときですから、弥陀の本願に対する疑心が消滅するのは往生するときでなければなりません。着陸する前に、機長のアナウンスをそのまま受け入れたのが、信心にあたるのです。着陸する前の時点で着陸できるかどうかは、乗客には判りません。まして往生が凡夫に判ることなどあり得ないと『執持鈔』を出して説明した通りです。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

もちろんこれは覚如上人の独創ではありません。親鸞聖人も『御消息』で

如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。(中略)このこころのほかには往生に要るべきこと候はずとこころえて、まかりすぎ候へば、人の仰せごとにはいらぬものにて候ふなり。

と仰っています。

ところが高森会長は「かならず往生するぞと、决定の心」の信心を中心にしてすべてを理解しようとするからおかしな話になるのです。中心は往生であり、往生が定まったことを信心と言われているのです。往生を基にせず、信心でのみ話をするから、信心を超能力でも備わったかのような説明になるわけです。

高森会長は、念仏と信心との関係が理解できていないので、善導大師の『観無量寿経疏』の

一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。

で説明します。
この「一心にもつぱら念じて」が信心であり、これを親鸞聖人は『一念多念証文』で

「一心専念」 といふは、 「一心」 は金剛の信心なり。 「専念」 は一向専修。 一向は、 余の善にうつらず、余の仏を念ぜず。専修は、本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。 修は、 こころの定まらぬをつくろひなほし、 おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり。もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。

と教えられています。「余善・他仏」に心をうすさず、「ただ念仏」となったのが、「ただ信心」なのです。
したがって「余善・他仏」に心をうつす念仏は、「ただ念仏」でもなく「ただ信心」でもありません。
弥陀の本願をはからわず、往生をまかせて称える念仏がそのまま信心になるのです。

これが高森会長をはじめ、親鸞会の面々では全く理解できないところです。

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2021年2月18日 (木)

親鸞会の根本聖典『歎異抄をひらく』の邪義1

最近、親鸞会は書籍の新聞広告をやたらと出していることに気が付かれた方も多いと思います。その理由は単純なことで、コロナの不況で、新聞広告費が激安になっているからです。週刊誌の新聞広告を見ればよく判りますが、以前の二倍の面積で、しかも回数も複数回だったりします。親鸞会の集金システムから言えば、おいしい話で、新聞広告の回数を増やせば、会員に広告費名目で金集めが頻繁にできるからです。
その新聞広告で力を入れているのが高森顕徹著『歎異抄をひらく』です。平成の『教行信証』と会員に宣伝していた『なぜ生きる2』は、全く宣伝されていません。『なぜ生きる2』は、高森邪義の最たるものであるから、厚顔無恥の親鸞会でも宣伝するのに憚られるのでしょう。

ということで、親鸞会の自信作『歎異抄をひらく』についての邪義を暫く説明していきたいと思います。

今回は第二条の「ただ念仏して」についてです。

親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。

高森会長は「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」の「ただ」を以下の『歎異抄をひらく』にあるように常々言ってきました。


 聖人の教えは一貫して、信心一つの救いだから、「唯信独達の法門」といわれることは、既に詳述した(150ページ)。
『歎異抄』では「ただ信心を要とす」(第一章)と明示し、蓮如上人の証文も多数にのぼる。
ほんの数例、『御文章』から挙げてみよう。

 |往生浄土の為にはただ他力の信心一つばかりなり(二帖目五通)
 |浄土へ往くには、他力の信心一つで、ほかは無用である。

 |信心一つにて、極楽に往生すべし(二帖目七通)
 |信心一つで、極楽に往生するのだ。

 |他力の信心一つを取るによりて、極楽にやすく往生すべきことの、更に何の疑いもなし(二帖目十四通)
 |他力の信心一つ獲得すれば、極楽に往生することに何の疑いもないのである。

最も人口に膾炙されるのは、次の『御文章』だろう。

 |聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候(五帖目十通)
 |親鸞聖人の教えは《信心一つで助かる》という教示である。

蓮如上人は断言されている。

では「ただ念仏して」とは、どんなことなのであろうか。

(中略)

これではならぬと真剣に聞こうとすれば、キョロン、トロン、ボーとした心が腹底にドタ牛のように寝そべっていて、ウンともスンとも聞く気がない。「屍の心」と聖人がいわれたのはこのことか。

金輪際、仏法聞くような奴ではありませんと愚痴れば、そんなお前であることは、とうの昔から万々承知だ、だから〝そのまま任せよ〟の弥陀の仰せに、ただただ、びっくり仰天。

どうせ地獄より行き場のない私だ、どうにでもして下さいと、弥陀に一大事の後生を、ぶちまけた〝ただ〟なのだ。

どんな難聴の者にも届く、不可称不可説不可思議の声なき〝ただ〟であり、弥陀と私が同時に生きた「他力信心」をあらわす〝ただ〟である。

これは、念仏と信心との関係がよく判っていないことを物語る解釈です。

ただ念仏して」の「ただ」は、法然上人の教えられた通り、念仏一行が往生の行だということです。これと他力信心とを混同しているだけのお粗末さです。

法然上人は『選択本願念仏集』の「三選の文」において、


それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、し ばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。正定 の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。


と示されています。親鸞聖人が『教行信証』において唯一法然上人の御言葉を引用された御文であり、『教行信証』はこの「三選の文」の解説書と言われます。

法然上人は、浄土門を選び、正行を選び、正定の業を選びとることで、生死を離れることができる、と仰せられている。念仏一行が往生の行であり、他はそうではないことになります。つまり、法然上人の「名を称すれば、かならず生ずることを得」を、親鸞聖人が「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と言い換えられたに過ぎないのです。

このことから、「ただ念仏を称えて救われる」という阿弥陀仏の本願を高森会長は全く理解していないのでしょう。

なお、これは法然上人が勝手に仰ったことではなく、善導大師の『観無量寿経疏』にある


一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。


に基づいていることは言うまでもありません。
親鸞聖人も『正信偈』において、


極重の悪人はただ仏を称すべし。

と仰っていますが、これは源信僧都の『往生要集』にある


『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

を言い換えられたものです。その基はもちろん『観無量寿経』下品下生にあります。要約すると
一生涯悪を造り通しの極重の悪人が、臨終になって善知識に遇い、念仏を称えることを勧められて、臨終の苦しさの中で十回の念仏を称えて往生を遂げる
ということです。
これらの御文を高森会長は知らず、念仏とは別に信心があるかのように誤解しているのです。基礎知識として「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」を専修念仏といい、それが他力の念仏です。

源信僧都の御言葉を用いるなら、「他の方便なし」(念仏以外の方便はない)となり「ただ念仏して」の念仏一行に定まったこと、すなわち専修念仏がそのまま信心ということです。

結論は、高森会長の言うような、「びっくり仰天」することが「ただ」なのではなく、念仏一行の「ただ」(唯)なのです。

この程度のことも理解していない高森会長を無二の善知識と未だに崇めて『歎異抄をひらく』を根本聖典にしていること自体が教団として終わっています。

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2020年10月22日 (木)

三願転入に対する親鸞会の妄想9

高森顕徹会長は、今後会員の前に、元気な姿を見せることはないでしょう。
そのことに関連してではありませんが、高森会長が寵愛していた幹部が自殺しました。
「彼はノーベル賞を取れないのか?」
と高森会長が言うほどでしたが、高森会長に近すぎたが故に、残念なことになってしまいました。
公私共に、高森会長に親近し、高森会長に服従してきた結果がこれです。

会員からは高森会長との距離が近いと思われている講師部員ですが、実際は、圧倒的多数の講師は、高森会長と話をしたことすらないし、随行以外で高森会長と少人数で会うこともない、言葉だけの直弟子ばかりですから、適度に服従し、適度に求道の真似事して、年月を積み重ねているだけです。そんな講師部員はいつでも高森会長から逃れられるので、離脱の準備をすべきでしょう。一般会員は尚更です。

さて普通の頭があれば判ると思いますが、親鸞聖人の教えに、善の勧めがある筈がないのです。自力念仏の勧めがあるかどうかの議論なら判りますが、善の勧めがあるかどうかなど、浄土真宗において議論の余地など全くありません。

その証拠が、源信僧都の『往生要集』にある、

『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

を親鸞聖人は『教行信証』行巻に引かれ、『正信偈』には、

極重の悪人はただ仏を称すべし。

と簡潔に仰り、『高僧和讃』にも

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

と仰っているくらい、親鸞聖人お気に入りのお言葉です。

一言で説明するなら、

善は不要、念仏一つで浄土往生できる

です。
先ほど言いましたように、この念仏が自力念仏かどうかは議論の余地があるかもしれませんが、少なくとも、念仏を称えて往生する、ということ以外に解釈の仕様がありません。

念仏ではない、信心1つで助かるんだ!

という反論をする人もあるでしょうが、親鸞聖人がこのように仰っていることを否定するのか肯定するのかを、まず考えた方が良いです。
否定するなら、これ以上議論をするだけ無駄です。
肯定するなら、念仏と信心との関係を考えましょうという話です。

信心とは、『正信偈』でいうなら、「極重の悪人はただ仏を称すべし」と信じた心ですし、『高僧和讃』なら「ひとへに弥陀を称してぞ 浄土にうまる」と信じた心です。

この説明で判る人は真実の信心を獲ている人でしょう。

これに反発するなら、信心とは何を信じる心なのかの説明を聖教を基にしてもらいたいものですが、お気楽講師部員、会員では、そこまで考えたこともないでしょう。
三願転入すれば自ずから判ると妄想しているようですが、善に心が掛かっているうちは、永遠に判りません。

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2020年7月19日 (日)

念仏の信心も信心正因称名報恩の意味も知らない相伝もなきしらぬくせ法門

念仏往生」は蓮如上人も仰っていますが、それと「信心正因称名報恩」との関係がどうなっているのか、よく判るのが『御文章』3帖13通です。
少し長いですが、全文載せておきます。

それ、当流門徒中において、すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こころうべき次第は、まづほかには王法を本とし、諸神・諸仏・菩薩をかろしめず、また諸宗・諸法を謗ぜず、国ところにあらば守護・地頭にむきては疎略なく、かぎりある年貢所当をつぶさに沙汰をいたし、そのほか仁義をもつて本とし、また後生のためには内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして、一念も疑心なく信じまゐらせば、かならず真実の極楽浄土に往生すべし。

このこころえのとほりをもつて、すなはち弥陀如来の他力の信心をえたる念仏行者のすがたとはいふべし。かくのごとく念仏の信心をとりてのうへに、なほおもふべきやうは、さてもかかるわれらごときのあさましき一生造悪の罪ふかき身ながら、ひとたび一念帰命の信心をおこせば、仏の願力によりてたやすくたすけたまへる弥陀如来の不思議にまします超世の本願の強縁のありがたさよと、ふかくおもひたてまつりて、その御恩報謝のためには、ねてもさめてもただ念仏ばかりをとなへて、かの弥陀如来の仏恩を報じたてまつるべきばかりなり。

このうへには後生のためになにをしりても所用なきところに、ちかごろもつてのほか、みな人のなにの不足ありてか、相伝もなきしらぬくせ法門をいひて人をもまどはし、また無上の法流をもけがさんこと、まことにもつてあさましき次第なり。よくよくおもひはからふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

前段は、これまでに度々取り上げたところで、信前信後を問わずに、法律・倫理道徳の善に心がけて、往生のためには雑行・雑善を捨てよとありますので、真宗における善の扱いについて明確にされています。
問題は、「内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて」が何を意味しているかです。当然、信心のことですが、このようになった人のことを中段で、「弥陀如来の他力の信心をえたる念仏行者のすがた」と仰り、その信心を「かくのごとく念仏の信心をとりて」と仰っていることです。

親鸞会の会員にとっては気が付かないことでしょうが、「阿弥陀如来を一心一向」が念仏のことを指しているのです。これまでにも述べたように

善を捨てよ=念仏一行

ということですから、「阿弥陀如来を一心一向」になったことを「念仏行者」「念仏の信心」と仰っても手紙を読んだ同行にとっては普通に理解できたことなのです。

念のために言っておきますが、信後の報恩念仏のことではありません。なぜなら、「かくのごとく念仏の信心をとりてのうへに、なほおもふべきやうは」の後に報恩念仏の説明があるからです。

ここまでをまとめると、

・往生と善とは無関係
・往生のために善を捨てたならば念仏一行になる
・信前に念仏一行になった行者が「阿弥陀如来を一心一向」の信心を獲て「念仏行者」となる
・「阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて」のことを「念仏の信心」という
・信後の念仏は御恩報謝の念仏となる

往生のための善の勧めは論外ですが、信前の念仏を否定されたのではなく、念仏一行となった行者の「念仏の信心」を蓮如上人は強調されているのであり、信心と念仏とは密接不離の関係にあるということです。

蓮如上人が「念仏往生」と仰っているのはこういうことであり、「信心正因称名報恩」の意味もここから判ると思います。

以上のことを理解できない親鸞会などを蓮如上人は、「相伝もなきしらぬくせ法門をいひて人をもまどはし、また無上の法流をもけがさんこと、まことにもつてあさましき次第なり」と厳しく非難されているのです。

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2020年7月 3日 (金)

聖教を読む前に日本語のお勉強をして「念仏往生の願」の意味を知りましょう

七高僧で親鸞聖人が直接教えを聞かれた方は、法然上人です。親鸞聖人が法然上人にお遭いできなかったならば流転輪廻を繰り返してきた、と仰ったことは、真宗の関係者ならば誰でも知っていることでしょう。その法然上人が、往生のために念仏を勧められたことは、これまた真宗関係者だけでなく日本史を学んだなら誰でも知っている超常識です。

ここで、一つ質問です。

親鸞聖人は、法然上人が往生のために念仏を勧められたことを間違いだと否定されたと思いますか?

日本語が理解できるならば、そんなことはあり得ないでしょう。ところが、親鸞聖人が法然上人の教えの真髄である「往生のための念仏」を否定されたと言うのが親鸞会などです。日本語が判らないのか、他宗のスパイかと疑ってしまいます。

念のために、法然上人のお言葉を少しだけ紹介しておきます。『選択本願念仏集』には18願のことを著書名通り、「選択本願」と仰っただけではなく「念仏往生の願」と度々仰っています。その1つに

諸師の釈には別して十念往生の願といふ。善導独り総じて念仏往生の願といへり。

とありますが、実は善導大師は「念仏往生の願」とは直接仰っていませんので、「念仏往生の願」は、法然上人の造語になります。意味は説明するまでもなく、「念仏を称えたものを往生させる願」「念仏を称えて往生する願」です。

さて、この法然上人の造語である「念仏往生の願」を親鸞聖人は使われなかったのかと言えば、その逆で、頻繁に使われています。

『教行信証』信巻には、

この心すなはちこれ念仏往生の願より出でたり。

と敢えて、「念仏往生の願」と仰っています。別の言い方ではなく、ここは敢えて使われたとみるべきです。なぜなら信巻の前に、18願を「念仏を称えて往生する願」として繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し仰った行巻があるからです。
同じことで、『浄土文類聚鈔』には

浄信といふは、すなはち利他深広の信心なり。すなはちこれ念仏往生の願より出でたり。

とあります。この直前に18願を「念仏を称えて往生する願」として説明されたからです。
同様の理由で『三経往生文類』には

また真実信心あり。すなはち念仏往生の悲願にあらはれたり。

更には、『如来二種回向文』にも

真実信心といふは、念仏往生の悲願にあらはれたり。

とあります。
これ以外には、『浄土文類聚鈔』にもう一か所、『正像末和讃』にも一か所、『御消息』には多数あります。『御消息』には、「念仏往生の願」の意味が明確に判る箇所があります。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。

念仏往生の願」=「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる

なお、他力の信心とは、

名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じて

念仏往生とふかく信じて

です。他の『御消息』でも

この念仏往生の願を一向に信じてふたごころなきを、一向専修とは申すなり。

とある通り、「念仏を称えて往生する願を疑いなく信じること」が他力の信心です。

この単純明快な教えを捻くり回して、

「念仏を称えて往生する」と教えることは間違いだ!

と喚く者が真宗を名乗る資格があるのかと甚だ疑問に思います。
駄目押しで言うなら、覚如上人も蓮如上人も、「念仏往生の願」という言葉を使われています。親鸞聖人が多用されたのですから当然です。

真宗を名乗るのであれば、聖教を読む前にまずは日本語のお勉強をしましょう。

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2020年7月 1日 (水)

七高僧、親鸞聖人とは異なる信心の人には判らない念仏の話

善導大師、曇鸞大師と、往生と念仏との関係について仰った箇所を紹介してきました。次いでですから、源信僧都が教えられている箇所も紹介しておきます。

『往生要集』に

大文第八に、念仏証拠といふは、問ふ、一切の善業はおのおの利益あり、おのおの往生することを得てん。 なんがゆゑぞ、ただ念仏の一門を勧むる。

答ふ。いま念仏を勧むることは、これ余の種々の妙行を遮するにはあらず。 ただこれ、男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜずして、これを修するに難からず、乃至、臨終に往生を願求するに、その便宜を得たるは念仏にはしかじ。
(中略)
いはんやまた、もろもろの聖教のなかに、多く念仏をもつて往生の業となせり。 その文、はなはだ多し。 略して十の文を出さん。
(中略)
四には、『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

(現代語訳)

大文第八に念仏の証拠とは、 問う。 すべての善業には、 それぞれ利益があり、 それぞれ往生することができるのに、 どういうわけで、 ただ念仏の一門だけを勧めるのか。

答える。 今、 念仏を勧めることは、 決して、 その他の種々のすぐれた行をさえぎるのではない。 ただ男でも女でも、 身分の高いものでも、 低いものでも、 その行住座臥の区別なく、 時とき処ところやいろいろの場合を論ぜず、 これを修めるのに難しくなく、 そして臨終までも往生を願い求めるのに、 その便宜を得ることは、 念仏におよぶものはないからである。
(中略)
まして、 またもろもろの聖教の中には、 多く念仏を往生の業としている。 その文ははなはだ多いが、 略して十文を出そう。
(中略)
四つには、 『観経』に説かれている。
極重の悪人は、 他の方法がない。 ただ弥陀の名号を称念して、 極楽往生を得るばかりである。

とあります。往生のために、善ではなく念仏だけを勧める理由を問答形式で教えられています。答えとして、「男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜずして、これを修するに難からず、臨終に往生を願求するに、その便宜を得たるは念仏にはしかじ」とされて、誰でもどんな状況でもできる往生の行は念仏だけ、その根拠を聖教から10挙げられています。その4番目が、

四には、『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

ですが、ここでは明確に、念仏を称えることで往生できる、と教えられているのです。前々回の善導大師、前回の曇鸞大師と同じことを教えられています。信心を獲て往生できる、という言い方ではありませんし、往生が定まった後に報謝の「仏を称念して」でもありません。往生のために、「ただ仏を称念して」です。

往生には念仏不要と思っている親鸞会やその賛同者には、極めて不都合な御文です。

しかも、これは親鸞聖人も大変お気に入りの御文です。

『教行信証』行巻には、そのまま引かれていますし、『正信偈』には、

極重の悪人はただ仏を称すべし。

と仰り、『高僧和讃』では

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

と仰っています。
源信僧都だけではなく、親鸞聖人も全く同じ解釈をされていたからこそ、このように繰り返し仰っているのです。

往生のために善を勧めるのは論外ですが、逆に往生のために念仏を勧めないのも、七高僧、親鸞聖人とは異なった教え方になるのです。

信心と念仏との関係が判っている獲信者ならば今回も簡単に判ることですが、七高僧、親鸞聖人と異なる信心の人には理解できない内容です。

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2020年6月27日 (土)

親鸞会会員の知らない曇鸞大師の念仏

二河白道の譬喩を通して、善導大師が18願意をどのように捉えられているかを紹介してきました。一言で言うならば、

念仏を称えることで往生できる

です。善導大師の著書には、至る所にそのような言い方をされています。もちろん、信心についても詳しく仰っているのですが、念仏の強調の方が目立ちます。
親鸞聖人は七高僧の中でも、善導大師を特に尊敬されていましたので、親鸞聖人が善導大師の教えを否定されることは普通に考えればあり得ないでしょうが、高森顕徹会長のように信心がすべてだという偏屈な思考に凝り固まると、念仏が信心の付属品のように考えるのです。その屁理屈として、親鸞聖人が七高僧の中で善導大師と同じかそれ以上に特に尊敬されていた曇鸞大師を持ち出してくることがあります。『高僧和讃』の数を見ても、善導大師の26首よりも多い34首ですから、親鸞聖人が曇鸞大師から多大なる影響を受けられたことは確かです。

そこで今回は、曇鸞大師の念仏について見てみます。

曇鸞大師が阿弥陀仏の48の願の内、3つの願を選ばれたいわゆる三願的証の文が『浄土論註』にあります。三願とは18願、11願、22願です。18願、19願、20願ではありませんので、親鸞会の会員にとっては、この時点でカルチャーショックを受けると思います。曇鸞大師は18願文を出された後にこう続けておられます。

仏願力によるがゆゑに十念の念仏をもつてすなはち往生を得。往生を得るがゆゑに、すなはち三界輪転の事を勉る。輪転なきがゆゑに、ゆゑに速やかなることを得る一の証なり。

(現代語訳)

この仏の願のはたらきによるから、たとえば十声念仏して往生することができる。往生することができるのだからもはや迷いの世界をさまようことはない。浄土に往生することができ、もはやさまようことがないというのが、速やかに仏となることができるということの第一の証である。

これは『教行信証』行巻にも引かれています。
注目は、「十念の念仏をもつてすなはち往生を得」です。曇鸞大師が18願意を仰った箇所です。親鸞会では、ここもまた受け入れられない文だと思います。

もう一つ

問ひていはく、上に、生は無生なりと知るといふは、まさにこれ上品生のものなるべし。もし下下品の人の、十念に乗じて往生するは、あに実の生を取るにあらずや。ただ実の生を取らば、すなはち二執に堕しなん。一には、 おそらくは往生を得ざらん。二には、おそらくはさらに生ずとも惑ひを生ぜん。

答ふ。たとへば浄摩尼珠を、これを濁水に置けば、水すなはち清浄なるがごとし。もし人、無量生死の罪濁にありといへども、かの阿弥陀如来の至極無生清浄の宝珠の名号を聞きて、これを濁心に投ぐれば、念々のうちに罪滅して心浄まり、すなはち往生を得。
(中略)
また氷の上に火を燃くに、火猛ければすなはち氷解く。氷解くればすなはち火滅するがごとし。かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり。

(現代語訳)

問うていう。 上にいうてあるような生即無生の道理をさとるということは上品の往生者にいうことである。 下品下生の人のごときは、 ただ十念念仏によって往生するので、 こういうのは実生実滅の執着を持っているのではないか。 ただ実生を執ずるならば二つの疑いに堕ちる。 一つに、 恐らくはこういう実生実滅を執ずる凡夫は往生を得ないであろう。 二つに、 往生してもさらに生死相対の惑いを生ずるであろう。

答えていう。 たとえば清浄なる摩尼宝珠を濁った水の中に置けば、 珠の力で水が浄らかになるようなものである。 もし凡夫人が無量劫のあいだ迷わねばならぬ罪があっても、 かの阿弥陀如来の法性真如にかなったこの上なき清浄の名号を聞いて、 これを濁った心の中にいただくならば、 念々の中うちに罪が滅し清浄の徳を得て、 往生が得られる。
(中略)
また、 氷の上で火を燃やすと、 火の勢いが強ければ氷は解け、 氷が解けると火が消えるようなものである。 かの下品の人は生即無生であると知らないけれども、 ただ仏の名号を称えて作願してかの土に生まれようと願うならば、 浄土に至ればかの国は無生の道理にかなった境界であるから、 実生実滅と見る煩悩の火は自然に消えるのである。

親鸞会の人にはかなり難しい内容ですが、最後の文中の「かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして」だけでも見てもらえれば、曇鸞大師が、念仏を称えることによる往生を明確に仰っていることが判るというものです。

これ以外にも、念仏を称えて往生する、という表現を曇鸞大師はなされています。

したがって、善導大師も曇鸞大師も、そしてお二人から多大な影響を受けられた親鸞聖人も、

念仏を称えて往生する

と仰っている箇所がいくつもありますから、これが間違いだという発想自体が、浄土真宗から外れています。

くどいようですが念のために言いますと、信心で往生する、聞いて往生する、というような他の表現を持ち出して、念仏を称えて往生するというのは間違いだという理屈は完全な間違いです。善知識方が違う表現をされていても筋は通っているのですから、同じことを表現を変えて仰ったのだと理解しなければなりません。

具体的に言えば、

信心=念仏を称えて往生すると深信したこと
聞=念仏を称えて往生するという18願を疑いなく聞くこと

こういうことです。
単純な話ですが、思考停止の人には理解できないのでしょう。哀れです。

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2020年6月19日 (金)

善導大師の仰る「弥陀の願意」と転教口称の念仏

阿弥陀仏の喚び声について善導大師は譬えで

また西の岸の上に人ありて喚ばひていはく、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と。

と仰り、その意図は

「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。

とされています。「弥陀の願意」ですから、当然18願意のことになります。
『散善義』では、下品上生のところで「願意」についてこう仰っています。

しかるに仏の願意に望むれば、ただ勧めて正念に名を称せしむ。往生の義、疾きこと雑散の業に同じからず。

阿弥陀仏の願意は、「正念に名を称せしむ」だけを勧められたのであり、「雑散の業に同じからず」と雑行とは違うと釘までさしておられます。
善導大師が二河白道で諸善を勧められた、信前の求道について教えられたという妄想は、ここでも簡単に打ち砕くことができます。

なお、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」は、18願の言い換えになりますが、善導大師は他所でも、18願の言い換えをされています。
『往生礼讃』には、

もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ

『観念法門』には、

もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、 わが願力に乗じて、もし生ぜずは、正覚を取らじ

18願ですから善が無いのは言うまでもないのですが、往生のために「わが名号を称すること下十声に至るまで」「わが名字を称すること、下十声に至るまで」と念仏が強調されています。

要するに往生のために念仏を称えることを誓われているのが、阿弥陀仏の「願意」だということになります。

ここで着目したいのが、『往生礼讃』における18願の言い換えには信心に関する言及がありません。善導大師は信心よりも念仏に重きをおかれていたように思われます。

その証拠に、『散善義』の下品下生のところでは、

四に「如此愚人」より下「生死之罪」に至るこのかたは、まさしく法を聞き仏を念じて、現益を蒙ることを得ることを明かす。

すなはちその十あり。
一にはかさねて造悪の人を牒することを明かす。
二には命延久しからざることを明かす。
三には臨終に善知識に遇ふことを明かす。
四には善人安慰して教へて仏を念ぜしむることを明かす。
五には罪人死苦来り逼めて、仏名を念ずることを得るに由なきことを明かす。
六には善友苦しみて失念すと知りて、教を転じて口に弥陀の名号を称せしむることを明かす。
七には念数の多少、声々間なきことを明かす。
八には罪を除くこと多劫なることを明かす。
九には臨終正念にしてすなはち金華来応することあることを明かす。
十には去時の遅疾、ただちに所帰の国に到ることを明かす。

(現代語訳)

四つに、 「かくの如き愚人」 より 「生死の罪」 までは、 まさしく法を聞き仏を念じて、 現に利益を蒙ることを得ることを明かす。 その中に十ある。
一つには、 重ねて造悪の人であることを明かす。
二つには、 寿命があと長くないことを明かす。
三つには、 臨終に善知識にあうことを明かす。
四つには、 善知識が慰め教えて、 仏の徳を念ぜさせることを明かす。
五つには、 罪人は死の苦が逼せまって、 仏の名号のいわれを心に念ずることができないことを明かす。
六つには、 善知識は、 行者が苦のために念ずることができないのを知って、 教えを転じて、 口に弥陀の名号を称えさせることを明かす。
七つには、 称名の数の多少と、 その声がたえまのないことを明かす。
八つには、 多劫の罪を除くことを明かす。
九つには、 臨終に心乱れず、 そこで金蓮華が来たり迎えることを明かす。
十には、 往生に要する時の遅速を明かす。


とあります。
善導大師は、6番目の「教を転じて口に弥陀の名号を称せしむる」のいわゆる転教口称の念仏と教えられています。「罪人死苦来り逼めて、仏名を念ずることを得るに由なき」とあるように、臨終の苦しみから「仏名を念ずること」もできない状態で、善知識が勧められたことが、転教口称の念仏です。阿弥陀仏のことを念ずることも、名号のいわれを念ずることも、善知識から聞いた教えを思い出すことができなくても、口で「南無阿弥陀仏」と称えることで往生できることを教えられた箇所です。

親鸞会では全く受け入れられない教えですが、善導大師は究極的にはただ口に称えるだけで往生できると誓われたのが18願だと解釈されたのです。

参考までに親鸞聖人は『唯信鈔文意』で『観無量寿経』下品下生を

「汝若不能念」といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。

と解釈されています。「称名を本願と誓ひたまへる」です。

善導大師が仰る「弥陀の願意」も知らなければ、転教口称の念仏も完全否定する高森顕徹会長が、善導大師の二河白道の譬喩について正しく説明できるはずもありません。

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2020年5月23日 (土)

「雑行をすてて」=「専修専念」と教えられたのが蓮如上人だということも理解できない高森顕徹会長と親鸞会会員

蓮如上人の『正信偈大意』ばかりを取り上げると、

凡夫往生の鏡である『御文章』には信後の念仏しか仰っていない

と、難癖をつけてくる人がいますので、『御文章』で信心と念仏との関係を見てみます。

2帖3通には、

開山親鸞聖人のすすめましますところの弥陀如来の他力真実信心といふは、もろもろの雑行をすてて専修専念一向一心に弥陀に帰命するをもつて、本願を信楽する体とす。

とあります。
他力真実信心」=「もろもろの雑行をすてて専修専念一向一心に弥陀に帰命する
ですが、「専修」は念仏一行を修すること、「専念」も念仏一行ですので、「雑行」を捨てて念仏一行を修して阿弥陀仏に一向一心に帰命することが真実の信心なのです。
念のためもう一度言うと、「専修専念」して「一向一心に弥陀に帰命する」のです。「一向一心に弥陀に帰命する」後に報謝の「専修専念」とは仰っていません。

2帖8通は

それ、当流親鸞聖人のをしへたまへるところの他力信心のおもむきといふは、なにのやうもなく、わが身はあさましき罪ふかき身ぞとおもひて、弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、もろもろの雑行をすてて専修専念なれば、かならず遍照の光明のなかに摂め取られまゐらするなり。これまことにわれらが往生の決定するすがたなり。

と仰っていますが、ここは「弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて」の後に「専修専念」とあるものの、「雑行をすてて」も「専修専念」と同列に扱われていますので、信心を獲た後に、「雑行をすてて」にならないことが判れば、ここも2帖3通と同じ意味と理解できるでしょう。

3帖6通は信心を獲る状態のことを仰っています。

それ南無阿弥陀仏と申すはいかなるこころぞなれば、まづ「南無」といふ二字は、帰命と発願回向とのふたつのこころなり。また「南無」といふは願なり、「阿弥陀仏」といふは行なり。されば雑行雑善をなげすてて専修専念に弥陀如来をたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふ帰命の一念おこるとき、かたじけなくも遍照の光明を放ちて行者を摂取したまふなり。

雑行雑善をなげすてて専修専念に弥陀如来をたのみたてまつりて」は、「雑行」を捨てて「専修専念」する、ということですので、行としての雑行を止めて行としての念仏だけを称える状態を教えられ、そこに「たすけたまへとおもふ帰命の一念おこる」のです。日本語として、信心を獲た時に「雑行」を捨てさせられて、報謝の念仏となる、という意味にはなりません。文章の流れから言うと

1.「雑行」をなげすてる
   ↓
2.「専修専念」
   ↓
3.「帰命の一念おこる」

です。この続きが
4.「御恩報謝の念仏」
です。

今は、時間的に差があるかどうかの話をしているのではなく、説明の順序の話をしています。行としては1と2は同じことになりますが、2の「専修専念」には自力の「専修専念」と他力の「専修専念」がありますので、自力の「専修専念」から他力の「専修専念」になってそれが「帰命の一念おこる」ことなのです。それを

ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、極楽に往生すべきやうにおもひはんべり。それはおほきにおぼつかなきことなり。

と仰っているのです。自力の「専修専念」では「それはおぼつかなきことなり」であって、「専修専念」自体を否定されたのではありません。

こういうと、徹底的に捻くれた親鸞会の会員はこういうでしょう。

「専修専念」と仰っていないお手紙の方が多いから、信前に「専修専念」があるとは蓮如上人は仰っていない!

少なくとも「専修専念」と仰っている箇所があるのですから、それを否定する神経が判りませんが、先ほど言いましたように「雑行」を捨てることと「専修専念」になることは行として同じことですので、「専修専念」となくても、「雑行」を捨てるとは念仏一行になること以外に意味はないのです。

この辺りは国語の問題ですから、理解できなければ、国語の先生に教えてもらってきてください。

今回は国語の問題で、それほど難しい内容ではありませんが、高森顕徹会長の「文法も鉄砲もあるか!」という無茶苦茶な論理を信じる人には理解できないかもしれません。

哀れです。

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2020年5月17日 (日)

真実の信心=「一心専念」=「念仏一行と深信」が理解できない、念仏とは別のものを深信する親鸞会信心

新型コロナに怯えまくって、降誕会を8月の追悼法要と兼ねて開催すると宣言した高森顕徹会長ですが、命がけの布教も命がけの聞法を勧めたのも、口先だけだったと今更ながら判る事例です。

さて、前回紹介しました第七深信

一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに。

の「一心専念」について、親鸞聖人は『教行信証』信巻で解釈されています。

光明寺の和尚は「一心専念」といひ、また「専心専念」といへり。

しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。
(中略)
宗師の「専念」といへるは、すなはちこれ一行なり。「専心」といへるは、すなはちこれ一心なり。
しかれば願成就の「一念」はすなはちこれ専心なり。専心はすなはちこれ深心なり。深心はすなはちこれ深信なり。

(現代語訳)

善導大師は『観経疏』に「一心専念」(散善義)といわれ、また「専心専念」(散善義)といわれている。

ところで『無量寿経』に「聞」と説かれているのは、わたしたち衆生が、仏願の生起本末を聞いて、疑いの心がないのを聞というのである。「信心」というのは、如来の本願力より与えられた信心である。「歓喜」というのは、身も心もよろこびに満ちあふれたすがたをいうのである。「乃至」というのは、多いのも少ないのも兼ねおさめる言葉である。「一念」というのは、信心は二心がないから一念という。これを一心というのである。この一心が、すなわち清らかな報土に生れるまことの因である。
(中略)
善導大師が「専念」といわれたのは、念仏一行である。「専心」といわれたのは、二心のない一心のことである。
すなわち、本願成就の文に「一念」とあるのは二心のない心、すなわち専心である。この専心は深い心、すなわち深心である。この深心は深く信じる心、すなわち深信である。

以上から「一心専念」とは

一心」=「一念」=「二心なき」=「専心」=「深心」=「深信

専念」=「一行

です。何に「一心」「深信」なのかと言えば、「一行」にです。つまり真実の信心とは、念仏一行で往生できると二心なく深く信じることという意味になります。

これは蓮如上人も同じです。たとえば『領解文』の

もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。

は、信心の内容について仰ったものですが、前回の『正信偈大意』と比較しながらみていくと

雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり。また専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。

雑行雑修」はそのままですから、「雑行雑修」をふりすてると、「専修正行」になります。ただし、「専修正行」でも「なりきはまる」かどうかで他力と自力に分かれます。ですから、「自力のこころをふりすてて」とは「専修正行になりきはま」っていない信心をふりすてることです。
それで「雑行雑修自力のこころをふりすて」るとどうなるのかが、「一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ」ですが、これは『正信偈大意』だと「専修正行になりきはまるかたの執心」になることに当たります。

要するに、蓮如上人が「一心に弥陀に帰命せよ」と度々仰っているのは、「専修正行になりきはまるかたの執心」になれということであり、親鸞聖人のお言葉で言うなら「一心専念」のことです。

まとめると、親鸞聖人、蓮如上人が仰る真実の信心とは、

一心専念
=「専修正行になりきはまるかたの執心
念仏一行で往生できると二心なく深く信じること

です。念仏の抜けた信心ではないし、念仏とは別の信心でもありません。「念仏の信心」と蓮如上人が仰っているのは、言葉通りで、裏読みの必要もないし、暗号を解く必要もないのです。

その上での信心正因称名報恩だということを知らないと、親鸞会のように信心はいつまで経っても判りません。

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