雑行

2014年12月 2日 (火)

高森顕徹会長の知らない雑行のイロハ

五雑行はものがらが悪いから捨てよ、諸善万行はものがらはよいが心がけが悪いからその悪い心がけを捨てよ

という頓珍漢なことを言っているのが、高森顕徹会長です。この言葉だけ見ても、高森会長の無知がハッキリ判ります。

高森会長の妄言しか知らない会員の為に、雑行のイロハを根拠を基に説明します。

親鸞聖人は『教行信証』化土巻・雑行釈

それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。

(現代語訳)

さて、雑行と雑修とは同じような言葉であるが、意味は違っている。雑という言葉には、すべての行をおさめてしまうのである。五種の正行に対しては、五種の雑行がある。この雑という言葉は、人間や神々に生れる行や菩薩の行などがさまざまにまじっているという意味で雑というのである。これはもとより阿弥陀仏の浄土に往生する因ではなく、浄土を願う心をおこし、これらの行を浄土往生のための善としなければならないから、浄土往生の行としては雑行というのである。

少し理解しづらいかもしれませんが、簡単に言えば、「もとより往生の因種にあらず」の善を「回心回向」したものを雑行というのです。つまり、往生とはもともと関係の無い善である聖道門で教えられる善(倫理道徳の善も含む)を、浄土往生の為と思ってしたならば、それが雑行になるのです。

これと同じことを仰ったのが、高森会長が善の勧めの根拠に利用している『浄土和讃』

諸善万行ことごとく
 至心発願せるゆゑに
 往生浄土の方便の
 善とならぬはなかりけり

(現代語訳)

諸善万行は、 本来、 聖道門の行である。
けれども、 この行によって浄土往生を願わせたいと、 阿弥陀如来が至心発願の誓いをお立てくださったので、
浄土往生のための方便の
善とならないものはなかったのである。

この御和讃は善を勧められたのではなく、雑行の説明をされただけのことです。

会員は頭が混乱していると思いますので、別の根拠を挙げるなら、『選択本願念仏集』

初めに往生の行相を明かすといふは、善導和尚の意によらば、往生の行多しといへども大きに分ちて二となす。一には正行、二には雑行なり。

(現代語訳)

初めに往生の行相を明かすというのは、善導和尚の意によると、往生の行は多いけれども大きく分けて二つとする。一つには正行、二つには雑行である。

如何でしょうか。雑行とは「往生の行」です。「往生の行」でないものは、雑行ではありません。

ここまでくれば、最初の妄言が妄言と理解できると思いますが、一応解説しますと、高森会長がものがらが悪いとして捨てよと言っている五雑行も、ものがらがよいと言っている諸善万行も、ものがらは同じ聖道門の行(倫理道徳の善を含む)なのです。具体的に言えば、さとりを求めて法華経を読誦すれば、それは聖道門の行であり雑行ではありません。しかし、往生のために法華経を読誦すれば雑行になります。さとりを求めて布施をすれば、それは聖道門の行であり雑行ではありません。しかし、往生のために布施をすれば雑行になります。
要するに、五雑行と諸善万行とは同じものがらで、諸善万行の中に五雑行と呼ばれる善行があるに過ぎません。

ここでもう少し思考を働かせれば、自らの意思でものがらの悪い五雑行を捨てるのですから、同様に自らの意思で同じく悪いものがらの諸善万行を捨てることができるのです。

ちなみに高森会長の言う「心がけが悪い」に当たるのが、「回心回向」「至心発願」です。つまり、往生の為に、という心がけです。この心がけを捨てたなら、五雑行も諸善万行も聖道門の行(倫理道徳の善を含む)になるのですから、18願での往生を願う行者は、往生とは無関係と思って倫理道徳の善に大いに励めば宜しいでしょう。
もし本気で往生したいと思うのなら、往生の為にと思って布施に励むことは直ちに止めましょう。

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2014年11月22日 (土)

お粗末な雑行詐欺を続けざるを得ない稀代の悪知識

親鸞会では、未だに雑行を強く勧めている頓珍漢な教義、というよりも、金集め人集めのための詐欺教義に徹しています。

10月1日号の顕正新聞には、雑行について

 煙草のまない人に”煙草のむな”と言う人がいないように、”煙草を止めよ”、と言われるのは、煙草をのんでいる人にである。
 同じく、雑行を棄てよ、と言われるのは、雑行をやっている人にである。

などと進歩も向上もない低レベルの詭弁を言い続けています。

高森顕徹会長の信者でなければ、こんな詭弁に引っ掛かる人はほとんどいないでしょうが、高森会長を唯一無二の善知識と信じ切っている会員は、この低レベルの詭弁を信じるより仕方がないのです。

これまで何度も何度も言ってきましたが、煙草のまない人にも”煙草のむな”と普通に言います。学生にも言いますし、喫煙習慣のない一般の人も含めて、煙草の害について説明して、”煙草を止めよ”と推進しています。
他の例を挙げれば、危険ドラッグを止めよ、と言われていますが、危険ドラッグを吸ってから止めよう、と思う愚か者はいません。
自殺を止めよ、と国挙げて言われていますが、それは自殺をした人に止めよ、と言われていると考えているなら、日本で普通に生活することは無理でしょう。自殺をする人が後を絶たないから、まだ自殺していない人に、自殺を止めよ、と言われるのです。当たり前過ぎる話です。

同じく、雑行をやっていない人に対しても、雑行を棄てよ、と言われます。

もし、私の言うことに反論したいのであれば、雑行をやっていない人にまず雑行をせよ、と教えられている歴代の善知識の御言葉を1つでも示せばいいのですが、それは絶対にできません。無いのですから。

前回のエントリーで書いた内容を再度掲示します。

19願--修善(行)+自力(信心)
20願--念仏(行)+自力(信心)
18願--念仏(行)+他力(信心)

雑行とは19願に属しますが、19願の外に聖道門があり、その外に外道があります。

高森詭弁通りなら、聖道門を棄てよ、と教えられますが、聖道門を信じ求めたことのない人は、まず聖道門を求めてから聖道門を棄てよ、です。
その前に、外道を棄てよ、と教えられますが、外道を信じたことのない人には、まず外道を信じてから外道を棄てよ、です。

しかし、外道も聖道門も信じ求めよとは、絶対に言わないことが、高森詭弁のお粗末さを表わしています。

行も信心も異なる19願雑行を問題にしていること自体、高森教義は、親鸞聖人の教えと対極の位置にあるのです。

実に簡単な理屈です。

振り込め詐欺よりも低レベルの詐欺師、稀代の悪知識に、いつまで騙され続ければ気が付くのでしょうか?

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