宿善

2014年10月25日 (土)

「称名を本願と誓ひたまへる」が「諸善を本願と誓ひたまへる」とすり替わる高森顕徹会長の邪義

私がブログで親鸞会の教えを非難していることに対して、「お前の言動がおかしい」という”反論”をしてくる会員が、最近目につくようになりました。このような”反論”は、私にとりましては大変光栄なことです。なぜなら、「お前の言っていることには反論はできないが、お前の言動は少なくともおかしい」ということで、教義的には降伏を宣言したことと同じなのですから。

さて、親鸞会の知らない浄土門の超常識である下品下生の往生について、これまで詳しく説明してきましたが、もう少し述べておきます。

親鸞聖人が書写されて同行に読むように勧められた『唯信鈔』に、

『観無量寿経』の下品下生の人の相を説くにいはく、「五逆・十悪をつくり、もろもろの不善を具せるもの、臨終のときにいたりて、はじめて善知識のすすめによりて、わづかに十返の名号をとなへて、すなはち浄土に生る」といへり。これさらにしづかに観じ、ふかく念ずるにあらず、ただ口に名号を称するなり。「汝若不能念」といへり、これふかくおもはざるむねをあらはすなり。「応称無量寿仏」と説けり、ただあさく仏号をとなふべしとすすむるなり。「具足十念称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中 除八十億劫生死之罪」といへり。十念といへるは、ただ称名の十返なり。本願の文これになずらへてしりぬべし。 善導和尚はふかくこのむねをさとりて、本願の文をのべたまふに、「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」といへり。十声といへるは口称の義をあらはさんとなり。

とあります。念仏軽視の親鸞会思想では全く理解できないと思いますが、下品下生の往生とは「五逆・十悪をつくり、もろもろの不善を具せるもの、臨終のときにいたりて、はじめて善知識のすすめによりて、わづかに十返の名号をとなへて、すなはち浄土に生る」であり、これが18願の意を顕わされたものだということです。つまり仏法世俗の二種の善を修してこなかった極悪人でも、臨終に初めて仏法を聞いて、善知識の勧められるまま十回の念仏を称えて往生できるのです。それが「口称の義」です。「諸善の義」ではありません。

以上を親鸞聖人が解説なされたのが『唯信鈔文意』です。

「汝若不能念」といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。
「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」といふは、五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫の罪をもてるゆゑに、十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪を消すまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらせんがためなり。「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。

(現代語訳)

『観無量寿経』 に 「汝若不能念 (なんぢもし念ずるあたはずは)」 と説かれているのは、 五逆・十悪の罪を犯した人や、 私利私欲のために教えを説いたものが、 病の苦しみに阻まれて、 心に阿弥陀仏を念じることができなければ、 ただ口に 「南無阿弥陀仏」 と称えよとお勧めになっているお言葉である。 これは称名念仏を本願の行としてお誓いになっていることをあらわそうとされているのである。 続いて 「応称無量寿仏 (まさに無量寿仏を称すべし)」 と説かれているのは、 この意味である。 「応称」 は、 称えよということである。
『観無量寿経』 に 「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念念中 除八十億劫 生死之罪 (十念を具足して南無無量寿仏と称せしむ。 仏名を証するがゆゑに、 念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く)」 と説かれているのは、 五逆の罪を犯した人はその身に八十億*劫の十倍の罪をもつことになるので、 十回 「南無阿弥陀仏」 と称えよとお勧めになっているお言葉である。 一回の念仏で八十億劫の十倍の罪を消すことができないのではないけれども、 五逆の罪がどれほど重いのかを人々に知らせるために、 このようにいわれているのである。 「十念」 というのは、 ただ口に念仏を十回称えよというのである。 このようなわけで、 選択本願に 「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 (もしわれ成仏せんに、 十方の衆生、 わが名号を称せん、 下十声に至るまで、 もし生れずは正覚を取らじ)」 と誓われていると 『往生礼讃』にいわれているのは、 阿弥陀仏の本願は、 念仏するのがたとえ十回ほどであっても、 みな浄土に往生することができることを知らせようと善導大師がお思いになって、 「十声」 といわれているのである。 「念」 と 「声」 とは同じ意味であると心得なさいというのである。 「念」 を離れた 「声」 はなく、 「声」 を離れた 「念」 はないということである。

称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり」「弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり」と親鸞聖人が仰っているように、念仏を称えて往生するのが、18願です。善はどこにも出てきませんので、往生に善は不要なのです。もちろん過去世の善根も不要です。

どこをどう読もうが、高森顕徹流宿善論も、三願転入論も完全な間違いなのです。反論があるなら、いつでも根拠を挙げてコメントをください。もちろん、できないことは判っていますが。

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2014年10月21日 (火)

釈尊が臨終の父王に念仏三昧を勧められたと言いながら、会員に諸善を強要する高森顕徹会長

『観無量寿経』の下品下生で臨終の極悪人に勧められているのは、念仏だけです。これは浄土門はもちろん聖道門でも、常識中の常識です。どんな屁理屈を捏ねても、善を勧められているお言葉は出しようがありません。
これとは少し違いますが、『教学聖典』にもこんな問答があります。

(問)
 念仏無間という狂人どもを破る根拠を三つ以上あげよ。

(答)
 ○勿論、一切経に出ていない言葉である。
 ○それどころか「汝好くこの語を持て、この語を
  持てとはすなわちこれ無量寿仏の名(念仏)を持
  てとなり」と観無量寿経にある。
 ○釈尊が臨終の父王に念仏三昧を勧められる訳が
  ない。                 (観仏三昧経)

問いがカルトそのものですが、それはおいておくとして、釈尊が臨終の父親に勧められたことは、諸善ではなく念仏であると親鸞会でも認めているのです。

この根拠は『教行信証』行巻にあります。

『安楽集』にいはく、「『観仏三昧経』にいはく、〈父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまふ。父の王、仏にまうさく、《仏地の果徳、真如実相、第一義空、なにによりてか弟子をしてこれを行ぜしめざる》と。仏、父の王に告げたまはく、《諸仏の果徳、無量深妙の境界、神通解脱まします。これ凡夫の所行の境界にあらざるがゆゑに、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる》と。

(現代語訳)

『安楽集』にいわれている。
『観仏三昧経』に、<世尊は、父である浄飯王に念仏三昧を修めるようにお勧めになった。父の王は世尊に、≪仏のさとりの徳は真如実相第一義空とのことでありますが、それを観ずる行を、どうして弟子であるわたしに教えてくださらないのですか≫とお尋ねした。
世尊は父の王に、≪仏がたのさとりの徳は、はかりがたい深い境地であり、仏は神通力や智慧をそなえておいでになります。これはとうてい凡夫が修めることのできる境地ではありません。そこで、父の王に念仏三昧を修めることをお勧めしたのです≫と仰せになった。

釈尊は、神通力もなく浅い智慧しかない父王に対して、念仏三昧だけを勧められ、観行を勧められることはされませんでした。

これが何を意味するかは、説明するまでもないことです。

父王は過去世の善根が厚いから念仏三昧を勧められた、とは書かれていません。理由は「凡夫の所行の境界にあらざるがゆゑに」ですから、過去世の善根の厚薄は無関係であることも、よく判ります。

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2014年10月13日 (月)

「極難信」の意味さえ知らなかったのに訂正もできない高森顕徹会長と愉快な仲間達

負け惜しみの荒らしコメントをする人物が未だにいて呆れています。
高森顕徹会長以下、親鸞会会員が意味も知らずに使っている仏語や根拠は、山ほどありますが、その1つが前回のエントリーで使った「極難信」です。これは『阿弥陀経』の異訳経である『称讃浄土経』に出てくるお言葉です。念仏1つで往生できると言う世間の常識、聖道門の常識では考えられない教えを「是の世間極難信の法」「是の如きの一切世間極難信の法」とあるのですが、これを『阿弥陀経』では「この一切世間難信の法」とあります。

この程度の知識など有る筈もない高森会長と会員ですが、善もせずして阿弥陀仏に救われることなど考えられない、というこを

難信

と教えられているのです。長い長い求道が必要だから難信なのではなく、求道の要らない教えであるから難信なのです。

このことを親鸞聖人は元照律師の『阿弥陀経義疏』を引いて『教行信証』信巻

元照律師のいはく(阿弥陀経義疏)、「他のなすことあたはざるがゆゑに甚難なり。世挙つていまだ見たてまつらざるがゆゑに希有なり」と。
またいはく(同)、「念仏法門は、愚智豪賤を簡ばず、久近善悪を論ぜず、ただ決誓猛信を取れば臨終悪相なれども、十念に往生す。これすなはち具縛の凡愚、屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり。世間甚難信といふべきなり」と。

(現代語訳)

元照律師が『阿弥陀経義疏』にいっている。
「『阿弥陀経』には、釈尊がこの五濁の世に出られて仏となり、阿弥陀仏の教えを説かれたことを<甚難希有>と示されているが、他の仏がたのできないことであるから甚難であり、この世で今までになかったことであるから希有である」
また次のようにいっている。
「念仏の教えは、愚者と智者、富めるものと貧しいもののへだてなく、修行期間の長短や行の善し悪しを論じることなく、ただ決定の信心さえ得れば、臨終に悪相をあらわしても、たとえば十声念仏して往生をとげる。これこそは、煩悩に縛られた愚かな凡夫でも、また、生きものを殺し、酒を売って生活し、賤しいとされるものであっても、たちどころにすべてを跳び超えて仏になる教えである。まことに世間の常識を超えた信じがたい尊い教えというべきである」

と教えられています。「世間甚難信」については更に、元照律師の弟子の顕した『聞持記』を引かれて

『聞持記』にいはく、「〈愚智を簡ばず〉といふは、[性に利鈍あり。]〈豪賤を択ばず〉といふは、[報に強弱あり。]〈久近を論ぜず〉といふは、[功に浅深あり。]〈善悪を選ばず〉といふは、[行に好醜あり。]〈決誓猛信を取れば臨終悪相なれども〉といふは、[すなはち『観経』下品中生に地獄の衆火、一時にともに至ると等いへり。]〈具縛の凡愚〉といふは、[二惑まつたくあるがゆゑに。]〈屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり。一切世間甚難信といふべきなり〉といふは、[屠はいはく、殺を宰る。沽はすなはちコ売。かくのごとき悪人、ただ十念によりてすなはち超往を得、あに難信にあらずや。]

(現代語訳)

『聞持記』にいっている。
「『阿弥陀経義疏』の文に、<愚者と智者のへだてなく>とあるのは、人々の性質に賢愚の違いがあることをいう。<富めるものと貧しいもののへだてなく>とあるのは、人々の生活に貧富の違いがあることをいう。<修行期間の長短を論じることなく>とあるのは、修行の功に浅深の違いがあることをいう。<行いの善し悪しを論じることなく>とあるのは、行いに善悪の違いがあることをいう。<決定の信心を得れば、臨終に悪相をあらわしても>とあるのは、『観無量寿教』の下品下生の文に<地獄の猛火が一斉に押し寄せてくる>などと説かれているありさまをいう。<煩悩に縛られた愚かな凡夫>とあるのは、見惑と思惑の煩悩をすべて持っているものをいう。<生きものを殺し、酒を売って生活し、賤しいとされるものであっても、たちどころにすべてを飛び超えて仏になる教えである。まことに世間の常識を超えた信じがたい尊い教えというべきである>とあるのは、生きものを殺すもの、酒を売るものなど、このような悪人でも、たとえば十声念仏して、たちまち飛び超えて浄土に往生することができるのであって、まことに信じがたいすぐれた教えではないか、という意味である。

と解説なされています。「屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法」である18願は、「甚難信」の法ということです。「善悪を選ばず」であり「ただ十念によりてすなはち超往を得」とは、18願の救いには善が全く必要がないのです。従って、「甚難信」の法とは、「世間の常識を超えた信じがたい尊い教え」という意味です。

親鸞会の幹部会員が救われないのは、財施などの善が足りないからでも、高森会長の話を真剣に聞いていないからでもなく、「世間甚難信」つまり「世間の常識を超えた信じがたい尊い教え」を「世間甚易信」つまり「自分の常識で判断した信じやすい卑しい教え」に貶めているからです。

これと宿善との関連で言えば、

覚如上人の新定義「宿善あつきもの」「宿善のある機」は「難信」の教えを素直に信じている人のこと、
覚如上人の新定義「宿福なきもの」「宿善なき機」は善が必要だとする「易信」の教えを信じている人のこと

です。

これだけ懇切丁寧に説明しても、未だに「難信」の教えを平気で誹謗する「無宿善の機」のコメンテーターの相手はしません。当たり前のことです。

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2014年10月11日 (土)

ちょっと話がややこしくなるだけで理解不能に陥る高森顕徹会長

親鸞会では宿善厚い人(宿世に善根を多くしてきた人)が救われて、宿善薄い人(宿世に善を余りしてこなかった人)はそのままでは救われないし、ましてや無宿善の人(宿世に善を全くしてこなかった人)が救われることはあり得ない、としています。

この考え方自体が聖道門の発想であり、それを徹底的に否定されたのが善導大師、法然上人、聖覚法印、親鸞聖人、覚如上人であることをこれまで述べてきました。このことは、親鸞会が全く反論できない内容です。

ところが覚如上人は、上記のことを踏まえられた上で、敢えて、宿善の意味を替えて教えられていますので、そこで話がややこしくなって、高森顕徹会長のようなトンデモ邪義がでてきたのです。

『口伝鈔』には

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。
しかるに宿善開発する機のしるしには、善知識にあうて開悟せらるるとき、一念〔も〕疑惑を生ぜざるなり。

とあり、また『改邪鈔』には、

かつはまた宿善のある機は正法をのぶる善知識に親しむべきによりて、まねかざれどもひとを迷はすまじき法灯にはかならずむつぶべきいはれなり。宿善なき機は、まねかざれどもおのづから悪知識にちかづきて善知識にはとほざかるべきいはれなれば、むつびらるるもとほざかるも、かつは知識の瑕瑾もあらはれしられぬべし。所化の運否、宿善の有無も、もつとも能・所ともに恥づべきものをや

とありまして、「宿善あつきもの」「宿善のある機」は善知識に遇って18願の法を聞くことができますが、「宿福なきもの」「宿善なき機」は善知識から遠ざかって悪知識に近付いて18願の法を聞くことができないと教えられています。

ここで、やはり宿世に善をしてきたかどうかで善知識に遇えるか遇えないか、聞くか聞かないかが決まってくるではないか、と早とちりするのが単純思考の親鸞会ですが、そうではないことは、少しでも思考能力があれば判る筈です。

ここで覚如上人が仰っていることは

宿善あつきもの
=「宿善のある機
=「浄土教を信受する機
=「今生にこの教にあうてまさに信楽す
=「善知識に親しむべき

宿福なきもの
=「宿善なき機
=「浄土教を信受せざる機
=「この教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし
=「悪知識にちかづきて善知識にはとほざかるべきいはれ

になります。
要するに、18願の教えを信じる人が「宿善あつきもの」「宿善のある機」であり、18願を信じる気の無い人が「宿福なきもの」「宿善なき機」になるのです。

これを前回までのことと併せて言うならば、あくまで傾向として以下のことが言えます。

宿世の善根厚き機」(善人)≒「宿福なきもの」「宿善なき機
宿世の善根薄き機」・「宿世の善根無き機」(悪人)≒「宿善あつきもの」「宿善のある機

です。これが『歎異抄』

善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。

になるのです。ここで悪人正機・善人傍機が18願だということに繋がってくる訳です。

弥勒菩薩を初めとして、聖道門の修行に勤しむ善人は、18願のことを知りながら、信じる気がないのです。知らないのではありません、知っていても自分とは関係ないと考えるのです。もちろん18願に「十方衆生」とあることは当然知っていますが、それでも関係ないと考えるのが、聖道門の常識なのです。

簡単に救われる教えであるが故に、善人には18願を信じる気が起きないのです。宿世に多くの善根を積んできた人ほど、18願を疑います。だから極難信なのです。

浄土真宗の教えは、話がすべて繋がっています。ただ、宿善に関しては、覚如上人が二つの定義を並立させて説明されたが故に、聖教を読んだことのない無知の高森会長が誤解したという結末なのです。

理解力の乏しい会員の為に再度まとめると

「(通仏教)宿善厚き機」≒「(覚如上人の新定義)宿善なきもの
「(通仏教)宿善薄き機」「(通仏教)宿善無き機」≒「(覚如上人の新定義)宿善あつきもの

です。

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2014年9月30日 (火)

宿善厚き弥勒菩薩と宿悪重き耳四郎の矛盾に気が付いている高森顕徹会長

親鸞会では、宿善の定義として『口伝鈔』

宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。

をよく使いますが、これをそのまま信じているとはとても思えません。たとえば、親鸞会でも有名な『教行信証』信巻

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

とが同時に信じられるのなら、思考が相当におかしいです。
等覚の弥勒菩薩は、「宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる」の代表です。もしこれを否定するなら、もはや仏教徒ではありません。
一方で、親鸞会が宿善の厚かったと認めている耳四郎はどうですか。法然上人御説法を聞くまでは殺人、強盗を平気で行ってきて、獲信後も盗みを止めることができなかった人物ですので、「宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし」の代表です。

ここまできたら、普通の人は誰でも親鸞会の矛盾に気が付くと思います。
宿善あつき弥勒菩薩は、18願での救いを求める気持ちがありませんが、宿悪おもき耳四郎は、18願での救いを聞くつもりが無くてたまたま聞いたところ、たちどころに救われた。

ここまで書いてもまだ高森顕徹会長の言っていることが正しいと思うなら、思考できないのでしょう。

一応『口伝鈔』の御言葉の意味を述べると、この後の文章と併せて再度紹介すると、

宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

となっていまして、「宿善あつきひと」「宿悪おもきもの」では「往生の得否を定むべからず」なのです。宿善が厚いか薄いかと往生できるかどうかは関係がないのです。

よって、弥勒菩薩が往生できず、耳四郎が往生しても、何の矛盾も無いのです。

高森邪義は、どこをどうみても矛盾に満ち溢れていますが、浄土真宗、親鸞聖人の教えは筋が通っているのです。

これまでの法論連戦連敗記録更新中の高森会長は、自己の矛盾に気が付いているのですが、それを永遠に訂正しないでしょう。

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2014年9月23日 (火)

浄なる果は衆生の因なくして得られないとする高森顕徹会長のトンデモ邪義

因果の道理による聖道門の論理では、阿弥陀仏の救いは理解できないことを、善導大師、源信僧都、法然上人、聖覚法印は指摘されてきたのですが、その因果の道理による論理で阿弥陀仏の救いを説明するのが高森顕徹会長と親鸞会です。

では親鸞聖人はどう仰っているかですが、当然ながら、上記の方々の解釈を継承されています。
『教行信証』序には、

たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。

とありますが、まさに、「たまたま」なのです。これは源信僧都の「生死の因縁は不可思議なり」「この義、知りがたし」に通じるところがありますが、親鸞聖人は、更に踏み込んで以下のように仰っています。

『教行信証』信巻

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

『浄土文類聚鈔』

しかれば、もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因、浄なるがゆゑに、果また浄なり、知るべし。

ともに「知るべし」で結んでおられますが、それだけ間違えやすいところであり、重要なところだということです。
ここで仰っていることは、阿弥陀仏の救いは、行も信も、因も果もすべて阿弥陀仏が回向されたものだということです。なぜなら、浄なる果は、浄なる因、行と信でなければ得られないからです。要するに、衆生の行も信も、因も果も全く関係ないということです。高森会長がいつも否定する他因自果が、阿弥陀仏の救いですから、因果の道理とは相容れないのです。それで源信僧都は「道理に違せり」と仰ったのですが、高森会長に言わせれば、「道理に順ぜり」でなければ間違いだ、と言うのでしょう。

親鸞会ではよく、

獲信には善は「間に合わぬから捨てよ」とは徹底して教えられていますが、どこにも「不要」とは教えられていません。

と言いますが、親鸞聖人は、衆生の行と因である善は「不要」と教えられているのです。

どんな詭弁を使おうとも、親鸞聖人の教えからは、往生・獲信のために善が必要だと言う概念は出てきようがありません。

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2014年9月20日 (土)

高森顕徹会長の小智は菩提のさまたげといへる

『浄土十疑論』の

能臨終遇善知識十念成就者、皆是宿善業強、始得遇善知識十念成就。

について、善導大師は完全に否定なされたのですが、法然上人も善導大師の解釈を継承なされています。

『往生浄土用心』

宿善によりて、往生すべしと人の申候らん、ひが事にては候はず。かりそめの此世の果報だにも、さきの世の罪、功徳によりて、よくもあしくもむまるる事にて候へば、まして往生程の大事、かならす宿善によるへしと、聖教にも候やらん。
ただし念仏往生は、宿善のなきにもより候はぬやらん。父母をころし、仏身よりちをあやしたるほとの罪人も、臨終に十念申て往生すと、観経にも見えて候。しかるに宿善あつき善人は、をしへ候はねども、悪にをそれ仏道に心すすむ事にて候へは、五逆なんどは、いかにもいかにもつくるまじき事にて候也。それに五逆の罪人、念仏十念にて往生をとげ候時に、宿善のなきにもより候ましく候。

往生は必ず宿善によるのだという聖教のあることを踏まえられて、念仏往生は宿善がなくても往生できることを教えておられます。下品下生の往生については「父母をころし、仏身よりちをあやしたるほとの罪人も、臨終に十念申て往生す」とまとめられています。

また

弥陀は、悪業深重の者を来迎し給ふちからましますとおぼしめしとりて、宿善のありなしも沙汰せず、つみのふかきあさきも返りみず、ただ名号となふるものの、往生するぞと信じおぼしめすべく候。

とも仰っています。宿善が有るか無いかに関係なく、「ただ名号となふるものの、往生する」のです。

このように善導大師、源信僧都、法然上人が『浄土十疑論』を否定されたのを承けて聖覚法印は『唯信鈔』に

つぎにまた人のいはく、「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生することを得んや」と。
これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。

(現代語訳 「21世紀の浄土真宗を考える会」宿善の厚薄 唯信鈔の言葉より)

次にまたある人が言うには「五逆罪を犯したような罪の深いものでも、10回の念仏で浄土に往生するというのは宿善(過去世の善根)によるものだ。私の場合、過去世に善根を積んできたとは思えない。どうして往生することができましょうか」と。
これもまた愚かなはからいによって、いたずらに阿弥陀仏の本願を疑っているのです。それはどうしてかというと、過去世の善根の積み重ねが多かった人は、今生においても善根を修め悪業を造ることを恐れますし、過去世に善根を積み重ねることが少なかった人は、今生においても悪を好み善をしようとしません。その人の過去世に善をしてきたかどうかは、今生のありさまから、明らかに知られるのです。我が身を振り返ると、善い心がありません。宿善が少ないということが思い知らされます。しかし、そんな罪の深い者ですが五逆の重罪は犯していませんし、善根が少ないといっても、阿弥陀仏の本願を信じさせて頂いています。五逆の者の10回の念仏でさえも宿善のおかげです。ましてや一生涯念仏を称えさせて頂けるのは宿善(阿弥陀仏の方からのお手廻し)のおかげであり、有り難いことです。五逆の重罪を犯した者が10回の念仏を称えるのが宿善によるとし、私たちが念仏を称えるのは宿善が浅いと思うのはどういう訳でしょうか。浅薄な分別心が往生成仏の妨げになるというのはこういう考えのことでしょう。

と書かれています。これは『浄土十疑論』の矛盾を説明したものです。

宿善を過去世の善根とする『浄土十疑論』によれば、五逆の者は、「今生に悪業をこのみ善根をつくらず」の「宿善すくなきもの」になる筈ですが、「逆者の十念すら宿善による」ならば、五逆罪を犯していない我々は、「宿善あさしとおもふべき」ではないし、平生から念仏の教えを聞いている人は五逆の罪人よりもより救われるということです。

親鸞会で教えている宿善論は、明らかに『浄土十疑論』に沿っています。善導大師、源信僧都、法然上人、聖覚法印が否定なされたものを肯定して、”これこそが親鸞聖人の正しいみ教えだ”と言っているのですから、「小智は菩提のさまたげといへる」の元凶が高森顕徹会長であることは疑いようがありません。

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2014年9月15日 (月)

高森顕徹流宿善論は、みづから失し他を誤りて害をなすことこれはなはだし

天台大師が顕したと伝えられる『浄土十疑論』の

能臨終遇善知識十念成就者、皆是宿善業強、始得遇善知識十念成就。

について、善導大師はその誤りを正されています。親鸞会でも有名な『正信偈』の一文

善導独明仏正意

ですが、これが自分の首を絞める御言葉と知りません。
善導大師は、聖道門の言う宿善論の誤りを正された、つまり高森顕徹会長の宿善論を完全に否定されたのです。

会員には信じられないことでしょうから、具体的に御文を紹介しておきます。

五逆罪の者が臨終に念仏を10回称えて往生する、と説かれた『観無量寿経』下品下生の往生を、文面通りに受け取れなかった聖道門の諸師は、過去世における善業が強いが故に、善知識に遇って10回の念仏で往生を遂げたのだと解釈しました。そのことを『玄義分』の中で、下品下生を含む下輩について、当時の聖道門の解釈をまとめて以下のように仰っています。

下輩の三人はこれ大乗始学の凡夫なり。 過の軽重に随ひて分ちて三品となす。 ともに同じく一位にして往生を求願す

臨終に初めて往生を願ったのではなく、過去世から大乗を学び始めて往生を願っていた凡夫だという解釈です。

それに対して善導大師は反論なされました。

『玄義分』

次に下輩の三人を対せば、諸師のいふ、「これらの人はすなはちこれ大乗始学の凡夫なり。過の軽重に随ひて分ちて三品となす。いまだ道位にあらず。 階降を弁ちがたし」とは、まさに謂ふにしからず。なんとなれば、この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。
(中略)
下品の三人はこれ悪に遇へる凡夫なり。悪業をもつてのゆゑなり。終りに臨みて善によりて、仏の願力に乗じてすなはち往生を得。かしこに到りて華開けてまさにはじめて発心す。なんぞこれ始学大乗の人といふことを得んや。

(現代語訳)

つぎに下輩の三種の人を対破するならば、他師らは、これらの人は大乗始学の十信位の凡夫であって、罪の軽重にしたがって三品に分けるが、まだ修行をしていないから、その上下を区別しがたいといっているが、そうではなかろうと思う。何となれば、この三種の人は、仏法につけ、世間につけ、いずれの善根もなく、ただ悪を作ることだけを知っている。
(中略)
下品の三種の人は悪縁に遇うた凡夫であって、悪業があるから、臨終に善知識により、弥陀の願力に乗託してすなわち往生することができ、かの国に至って華が開けて、そこで始めて菩提心をおこすのである。どうしてこれが大乗始学の十信位の人ということができようか。

と仰っています。

高森理論で言うところの”宿善の厚い者”は、「大乗始学の凡夫」「始学大乗の人」のことになり、これを善導大師は「なんぞこれ始学大乗の人といふことを得んや」と一刀両断に斬り捨てられています。
下品上生、下品中生、下品下生は、「この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。」と明言なされていますので、過去世にも、仏道修行したことがないだけでなく、倫理道徳の善さえもしてこなかった、過去世の善根がない人のことです。過去世の善根がないのですから、高森理論では”無宿善の者”です。

要するに、高森理論での”無宿善の者”が、臨終の念仏のみで往生を遂げることを善導大師が断言なされて、それを「善導独明仏正意」と親鸞聖人が仰ったのです。ところが、そんなことさえ知らずに、聖道諸師と同じことを親鸞聖人が教えられたとか喚いているのが高森会長だということです。

この後善導大師は

もしこの見をなさば、みづから失し他を誤りて害をなすことこれはなはだし。

と続けられ、もし高森流宿善論に拘るなら、自らの利益を失い、他人を誤まらせ、害をなすことが甚だしい、とまで厳しく非難なされています。
それでもまだ高森流宿善論を信じますか。

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2014年9月14日 (日)

聖道門と同じ発想で宿善論を叫ぶ無恥な高森顕徹会長

親鸞会では、『観無量寿経』の下品下生の往生自体を知りませんし、知っても認めません。それで浄土真宗を名乗るのですから、お笑いです。
この下品下生の往生から聖道門が宿善という概念を生み出したのですが、それと同じことを言っているのが親鸞会です。無知とは恐ろしいものです。

過去現在善をやったこともなく、五逆・十悪を造っている悪人が、平生に仏法をきくこともなく、臨終になって初めて仏法を聞きたいと言う気持ちになり、善知識から勧められたのは念仏1つで、勧められるまま念仏を十回称えて往生する、ということを信じられない聖道門は、様々に強引な解釈をしてきました。その代表が天台大師智顗が著したとされる『浄土十疑論』です。

能臨終遇善知識十念成就者、皆是宿善業強、始得遇善知識十念成就。

とあります。臨終に善知識に遇って十回の念仏で往生を遂げる五逆罪を犯した者は、宿世に善を行ってきた宿善業の強い人であったので、往生できるのだと解釈したのです。ここに宿善という言葉が見られますが、単純に宿世の善根という意味で使われています。

これを承けて『往生要集』には

かの一生に悪業を作りて、臨終に善友に遇ひて、わづかに十たび仏を念じて、すなはち往生することを得。かくのごとき等の類は、多くこれ前世に、浄土を欣求してかの仏を念ぜるものの、宿善うちに熟していま開発するのみ。 ゆゑに『十疑』にいはく、「臨終に善知識に遇ひて十念成就するものは、ならびにこれ宿善強くして、善知識を得て十念成就するなり」と。

(現代語訳)

かの一生涯の悪業を作ったものでも、臨終に善知識に遇い、わずかに十たび念仏して、ただちに往生することができる。このような人たちは、多くは前世に浄土を欣い求めて、かの阿弥陀仏を念じていた者で、その宿善が内に熟して、いま開発したのに外ならぬ。
それ故に《十疑論》にいわれている。
臨終に、善知識に遇うて、十念が成就する者は、みな宿善が強いので、始めて善知識に遇うことができて、十念が成就するのである。

と源信僧都は宿善の解説をなされています。『浄土十疑論』を引用しながら、意味を変えられ、宿善を

前世に、浄土を欣求してかの仏を念ぜる

と定義されています。

これは『大無量寿経』に

もし人、善本なければ、この経を聞くことを得ず。

とあることや『定善義』

この人は過去にすでにかつてこの法を修習して、いまかさねて聞くことを得てすなはち歓喜を生じ、正念に修行してかならず生ずることを得

と説かれているのも同様のことです。

ところがそのことを踏まえられた上で源信僧都は

まさに知るべし、生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。

(現代語訳)

これによってわかるであろう。生死の因縁は不可思議なものである。功徳が少ないものでありながら、聞くことができるのは、そのわけを知ることが難しい。

とか、

問ふ。仏、往昔に、つぶさに諸度を修したまひしに、なほ八万歳にこの法を聞きたまふことあたはざりき。いかんぞ、薄徳のたやすく聴聞することを得る。 たとひ希有なりと許せども、なほ道理に違せり。

答ふ。この義、知りがたし。

(現代語訳)

問う。仏は昔つぶさに諸の菩薩の行を修めたもうたが、八万年に及んでも、この法を聞くことができなかったという。どうして、功徳の少ないものが、たやすく聴聞することができようか。たとい、それは稀な例であると認めても、やはり道理に違うであろう。

答える。この義は、なかなか難しい。

とも仰っているように、下品下生の往生を遂げる者の過去世がどうであったのかを知ることは源信僧都でも判らなかったのです。

源信僧都でさえ判らないことを判ったふりをして大上段に構えて宿善論を言いふらしているのが高森顕徹会長ですが、高森会長は源信僧都以上の善知識ですか、あるいはハッタリの悪知識ですか。よくよく考えてみましょう。

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