難信

2014年5月 8日 (木)

高森会長の戯言を完全否定したなら「易信」

親鸞聖人は『教行信証』序

ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。

と仰っています。
4月号の顕真では、この御言葉を以って、

真実の信心は、五十年や百年で獲られる信心ではなかったと、「多生にも値いがたく」「億劫にも獲がたし」と言われています。

と説明していますが、浅はかな詭弁です。少しでも思考をはたらかせることができれば、この詭弁を見抜くことができると思います。
念のために説明しておきますと、これは親鸞聖人が、多生の間、聖道門に迷い続けてきて、18願を信じようとしなかったことを振り返って仰ったものであり、18願での救いを求めてから長い時間がかかることを仰ったものではありません。

その証拠に、この前の1文が

穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。

(現代語訳)

煩悩に汚けがれた世界を捨てて清らかなさとりの世界を願いながら、行に迷い信に惑い、心が暗く知るところが少なく、罪が重くさわりが多いものは、 とりわけ釈尊のお勧めを仰ぎ、必ずこのもっともすぐれたまことの道に帰して、ひとえにこの行につかえ、ただこの信を尊ぶがよい。

です。
親鸞会でも知っている根拠を挙げるなら『正像末和讃』

三恒河沙の諸仏の
 出世のみもとにありしとき
 大菩提心おこせども
 自力かなはで流転せり

でもそれは判ります。

まあ、親鸞会を聖道門に含めるなら、親鸞会に属していれば「真実の信心は、五十年や百年で獲られる信心ではなかった」となるのは筋が通ります。
要するに、親鸞会を離れて初めて

ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。

と知らされるのです。

さて、前回紹介した元照律師の『阿弥陀経義疏』に続いて信巻で親鸞聖人は、

『聞持記』にいはく、「〈愚智を簡ばず〉といふは、[性に利鈍あり。]〈豪賤を択ばず〉といふは、[報に強弱あり。]〈久近を論ぜず〉といふは、[功に浅深あり。]〈善悪を選ばず〉といふは、[行に好醜あり。]〈決誓猛信を取れば臨終悪相なれども〉といふは、[すなはち『観経』下品中生に地獄の衆火、一時にともに至ると等いへり。]〈具縛の凡愚〉といふは、[二惑まつたくあるがゆゑに。]〈屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり。一切世間甚難信といふべきなり〉といふは、[屠はいはく、殺を宰る。沽はすなはち醞売。かくのごとき悪人、ただ十念によりてすなはち超往を得、あに難信にあらずや。]

(現代語訳)

『聞持記』にいっている。「『阿弥陀経義疏』の文に、<愚者と智者のへだてなく>とあるのは、人々の性質に賢愚の違いがあることをいう。<富めるものと貧しいもののへだてなく>とあるのは、人々の生活に貧富の違いがあることをいう。<修行期間の長短を論じることなく>とあるのは、修行の功に浅深の違いがあることをいう。<行いの善し悪しを論じることなく>とあるのは、行いに善悪の違いがあることをいう。<決定の信心を得れば、臨終に悪相をあらわしても>とあるのは、『観無量寿教』の下品下生の文に<地獄の猛火が一斉に押し寄せてくる>などと説かれているありさまをいう。<煩悩に縛られた愚かな凡夫>とあるのは、見惑と思惑の煩悩をすべて持っているものをいう。<生きものを殺し、酒を売って生活し、賤しいとされるものであっても、たちどころにすべてを飛び超えて仏になる教えである。まことに世間の常識を超えた信じがたい尊い教えというべきである>とあるのは、生きものを殺すもの、酒を売るものなど、このような悪人でも、たとえば十声念仏して、たちまち飛び超えて浄土に往生することができるのであって、まことに信じがたいすぐれた教えではないか、という意味である。

と紹介されています。最後の一文「かくのごとき悪人、ただ十念によりてすなはち超往を得、あに難信にあらずや。」に全て集約されています。
過去世にも現在世でも善のしたことのない、悪しかしてこなかった悪人でも、「十念」だけで浄土往生できるのが18願ですから、「難信」なのです。

前回同様ですが、親鸞会の教えていることとは正反対で、何の条件もなく、過去世の善根の有無も、19願を実践するか否かに関わらず、救われるのが18願ですから、「難信」なのです。もっと端的に言えば、高森顕徹会長の戯言を信じているから「難信」なのであり、高森会長の戯言を完全否定したなら「易信」です。

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2014年5月 3日 (土)

高森邪義を完全否定する救いであるから「甚難希有」

善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。

この意味については、何度も何度も述べてきた通りです。
定善・散善を実践している善人でさえも往生できるのだから、それらを実践できない悪人は尚更往生できる、ということです。この意味が理解できれば、これは親鸞会の会員にも当てはまると判ると思いますが、如何でしょうか。

熱心に求道している会員(熱心に求道していた元会員)なおもって往生をとぐ、いはんや求道についていけない会員(ついていけなかった元会員)をや。

親鸞会で熱心に求道している会員、あるいは熱心に求道していた元会員は、求道できない会員、できなかった元会員よりも、明らかに”善人”です。親鸞会の求道が善かどうかは別として、善であるなら、そこに”善人”と”悪人”の差ができます。

そうでありますから、結果的に、親鸞会にいた時に熱心でなかった元会員の方が、熱心であった元会員よりも往生を遂げやすい、信心決定しやすい傾向にあります。

なぜなら、求道だとか、善だとか、自力にいつまでもいつまでも拘るのは、ほぼ間違いなく前者です。

雑行・雑修・自力を捨てよ

としか教えられていないのに、捨てるためには命懸けでしなければならない、とか捻くれた理屈をいうのも前者です。捨てよと教えられているから、捨てました、と素直に従うのが後者です。

私が会員、元会員の皆さんに言いたいことは、親鸞会で教えられてきたこと、高森顕徹会長が言っていたことはすべて否定してから、親鸞聖人の教えを聞き直してください、ということです。高森会長の言ったことでも、半分くらいは合っている、部分的には正しい、とか思うから、いつまで経っても、邪義が抜けずに、自力を肯定し続けるのです。

親鸞聖人は元照律師の『阿弥陀経義疏』を引いて『教行信証』信巻で

元照律師のいはく(阿弥陀経義疏)、「他のなすことあたはざるがゆゑに甚難なり。世挙つていまだ見たてまつらざるがゆゑに希有なり」と。
またいはく(同)、「念仏法門は、愚智豪賤を簡ばず、久近善悪を論ぜず、ただ決誓猛信を取れば臨終悪相なれども、十念に往生す。これすなはち具縛の凡愚、屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり。世間甚難信といふべきなり」と。

(現代語訳)

元照律師が『阿弥陀経義疏』にいっている。
「『阿弥陀経』には、釈尊がこの五濁の世に出られて仏となり、阿弥陀仏の教えを説かれたことを<甚難希有>と示されているが、他の仏がたのできないことであるから甚難であり、この世で今までになかったことであるから希有である」
また次のようにいっている。
「念仏の教えは、愚者と智者、富めるものと貧しいもののへだてなく、修行期間の長短や行の善し悪しを論じることなく、ただ決定の信心さえ得れば、臨終に悪相をあらわしても、たとえば十声念仏して往生をとげる。これこそは、煩悩に縛られた愚かな凡夫でも、また、生きものを殺し、酒を売って生活し、賤しいとされるものであっても、たちどころにすべてを跳び超えて仏になる教えである。まことに世間の常識を超えた信じがたい尊い教えというべきである」

と教えられています。「愚智豪賤を簡ばず」「久近善悪を論ぜず」ということは、熱心な会員、熱心だった元会員が見下している、不真面目な会員、不真面目だった会員も隔てなく救われるのですから、親鸞会での熱心な求道など、往生とは無関係だと早く気が付くべきです。

「いや、そう言われてもなかなかそう思えない」となるから、「甚難希有」と『阿弥陀経』に説かれているのです。命懸けの求道がなかなかできないから「甚難希有」ではなく、求道できない人でも往生できると高森邪義を完全否定する救いであるから「甚難希有」なのです。

再度言います。
高森会長の言っていることは全て間違っていると思ってください。親鸞聖人の教えをそのまま聞いていく中で、極めて希に高森会長の言っていることと合致する部分があったと発見する、これくらいの思いで丁度よいです。

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2014年4月29日 (火)

親鸞聖人を馬鹿にする高森顕徹会長と親鸞会

いわゆる三大諍論を通して、高森顕徹会長は親鸞会会員に、

信心決定は極めて難しいことで、その希有な体験をしたのがほかならぬワシだ

との洗脳を必死に行っています。
4月号の顕真には、体失不体失往生の諍論についての妄想解釈と共に、「顕正一口メモ」が載っています。

◎ある人
  親鸞会には救われている者が、
  いないのではないか②
◎親鸞学徒
  貴方たちの程度の信仰を
  求めているのではない。
  我々の求めているのは
  他力真実の信心なのだ。

最後の一行を「高森真実の信心なのだ」と修正すれば、全くその通りでしょう。しかし、「他力真実の信心」と「高森真実の信心」とは、全く異なるものです。

まず、親鸞会で言う「他力真実の信心」が、宝くじに当たるよりも低い割合の人にしか、賜らないものというのは、根拠のないことです。尤もらしく根拠を出していますが、高森会長一流の勘違いです。

親鸞聖人は、「難信」について『教行信証』信巻で次のように教えられています。

しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。
なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。

(現代語訳)

ところで、常に迷いの海に沈んでいる凡夫、迷いの世界を生れ変り死に変りし続ける衆生は、この上もない証を開くことが難しいのではなく、そのさとりに至る真実の信心を得ることが実に難しいのである。なぜなら、信心を得るのは、如来が衆生のために加えられるすぐれた力によるものであり、如来の広大ですぐれた智慧の力によるものだからである。

とあります。
真実の信楽まことに獲ること難し」の理由は「如来の加威力」と「大悲広慧の力」によって獲られるものであるからだと親鸞聖人は仰っています。
つまり、衆生の方で何かをする必要は全くないにもかかわらず、自分で何かをしなければならないという愚かな計らいを入れるから、「真実の信楽まことに獲ること難し」なのです。
具体的には、高森会長の説く因果の道理と「真実の信楽」とが関係あるとか、過去に行ってきた善やこれから行うであろう善と「真実の信楽」とが関係あるとか、19願を通らなければ「真実の信楽」を獲られない、とかいう愚かな計らいです。
如来の加威力」と「大悲広慧の力」とは、衆生に何か用意してくることを期待したものではありません。世間的な発想や、聖道門的な発想とは別次元であるのが「如来の加威力」と「大悲広慧の力」ですが、それを同次元に思うから「真実の信楽まことに獲ること難し」なのです。逆にいえば、親鸞会で聞いてきたような世間的な発想や、聖道門的な発想をすべて捨てされば、「真実の信楽まことに獲ること難し」ではなくなります。

信巻には、また

律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』(大経・下)に〈易往而無人〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」と。

(現代語訳)

律宗の用欽がいっている。
「阿弥陀仏の教えを信じることが難しいと説くのは、まことにこの教えは、凡夫を転じて仏とすることが、ちょど手のひらを返すようだからである。きわめてたやすいから、かえって浅はかな衆生は多くの疑いを生じる。そこで『無量寿経』には、<浄土は往生しやすいにもかかわらず、往生する人がまれである>と説かれている。このようなわけで信じることが難しいと知られる」

とあります。高森会長の邪説を払拭すれば、「凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなる」です。高森会長の邪説をいつまでも引き摺っていることを、「おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん」と言われているのです。聖教に書かれた通りにそのまま従えば、「凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなる」ですが、聖教を額面通りに受け取らず、裏を詮索するのを「おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん」と非難されているのです。

まとめると、衆生の方で何かをしたり準備する必要がないと阿弥陀仏が誓われた本願に背いて、善をしなければ、因果の道理を信じなければ、との高森邪説を信じてしまうから「真実の信楽まことに獲ること難し」なのです。高森邪説を捨て去ったならば、「凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなる」と知らされるのです。

再度「顕正一口メモ」を修正するなら

◎ある人
  親鸞会には救われている者が、
  いないのではないか②
◎高森学徒
  親鸞聖人の程度の信仰を
  求めているのではない。
  我々の求めているのは
  高森真実の信心なのだ。

親鸞聖人を馬鹿にする高森会長と親鸞会です。

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