「正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。」が絶対に理解できない高森顕徹会長
会館建設による搾取システムも限界が見え始め、新規会員獲得による錬金術を模索している親鸞会ですが、思うように成果があがっていません。親鸞会の情報は至る所にありますので、訳の判らない行事を催しても、主催が親鸞会だとすぐに察知されて逃げられているのが実情です。
さて、高森顕徹会長を筆頭とする異安心集団では、親鸞聖人の教えの基本も基礎も根本も全く判っていないので、お笑い教義となっていますが、親鸞会に毒された会員と退会者が混乱している最大の要因は、念仏と信心との関係でしょう。
これまでに、何十回もこのことについては根拠を挙げて述べてきましたが、今までとは少し違う根拠で説明したいと思います。
親鸞聖人は『尊号真像銘文』で法然上人のお言葉を説明されています。少し長いですが、このように仰っています。
『選択本願念仏集』といふは、聖人(源空)の御製作なり。「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。
またいはく、「夫速欲離生死」といふは、それすみやかに疾く生死をはなれんとおもへとなり。「二種勝法中且閣聖道門」といふは、「二種勝法」は、聖道・浄土の二門なり。「且閣聖道門」は、「且閣」はしばらくさしおけとなり、しばらく聖道門をさしおくべしとなり。「選入浄土門」といふは、「選入」はえらびていれとなり、よろづの善法のなかに選びて浄土門に入るべしとなり。
「欲入浄土門」といふは、浄土門に入らんと欲はばといふなり。「正雑二行中且抛諸雑行」といふは、正雑二行二つのなかに、しばらくもろもろの雑行をなげすてさしおくべしとなり。「選応帰正行」といふは、選びて正行に帰すべしとなり。「欲修於正行正助二業中猶傍於助業」といふは、正行を修せんと欲はば、正行・助業二つのなかに助業をさしおくべしとなり。「選応専正定」といふは、選びて正定の業をふたごころなく修すべしとなり。「正定之業者即是称仏名」といふは、正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。 「称名必得生依仏本願故」といふは、御名を称するはかならず安楽浄土に往生を得るなり、仏の本願によるがゆゑなりとのたまへり。
またいはく、「当知生死之家」といふは、「当知」はまさにしるべしとなり、「生死之家」は生死の家といふなり。「以疑為所止」といふは、大願業力の不思議を疑ふこころをもつて、六道・四生・二十五有・十二類生[類生といふは一、卵生 二、胎生 三、湿生 四、化生 五、有色生 六、無色生 七、有相生 八、無相生 九、非有色生 十、非無色生 十一、非有相生 十二、非無相生]にとどまるとなり、いまにひさしく世に迷ふとしるべしとなり。
「涅槃之城」と申すは、安養浄刹をいふなり、これを涅槃のみやことは申すなり。「以信為能入」といふは、真実信心をえたる人の、如来の本願の実報土によく入るとしるべしとのたまへるみことなり。信心は菩提のたねなり、無上涅槃をさとるたねなりとしるべしとなり。(現代語訳)
『選択本願念仏集』というのは、 法然上人が著された書物である。 「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」 というのは、 安養浄土に往生する正因は本願の念仏を根本とするというお言葉であると知らなければならない。 「正因」 というのは、 浄土に生れて間違いなく仏になる因ということである。
また 「夫速欲離生死」 というのは、 速やかにはやく迷いの世界を離れたいと思えというのである。 「二種勝法中且閣聖道門」 ということについて、 「二種勝法」 とは、 聖道門と浄土門という二つの法門である。 「且閣聖道門」 というのは、 「且閣」 とはまずさしおけということであり、 聖道門をさしおくがよいというのである。 「選入浄土門」 というのは、 「選入」 とは選んで入れということであり、 あらゆる教えの中から浄土門を選んで入らなければならないというのである。 「欲入浄土門」 というのは、 浄土門に入ろうと思うならということである。 「正雑二行中且抛諸雑行」 というのは、 正行と雑行の二つの中から、 さまざまな雑行を捨ててさしおくがよいというのである。 「選応帰正行」 というのは、 正行を選んでこれに依らなければならないというのである。 「欲修於正行正助二業中猶傍於助業」 というのは、 正行を修めようと思うなら、 正定業と助業の二つの中から、 助業をさしおくがよいというのである。 「選応専正定」 というのは、 正定業を選んでひとすじに修めなければならない。 「正定之業者即是称仏名」 というのは、 正定の因となる行いは、 すなわち阿弥陀仏の名号を称えることであるというのである。 正定の因というのは、 必ずこの上ないさとりを開く因ということである。 「称名必得生依仏本願故」 というのは、 名号を称えると間違いなく安楽浄土に往生することができるのであり、 それは阿弥陀仏の本願のはたらきによるからであるというのである。
また 「当知生死之家」 ということについて、 「当知」 とはよく知るがよいということであり、 「生死之家」 とは生れ変り死に変りし続ける迷いの世界のことをいうのである。 「以疑為所止」 というのは、 大いなる本願の思いはかることのできないはたらきを疑う心によって、 六道・四生・二十五有・十二類生という迷いの世界にとどまるというのであり、 今に至るまでの長い間このような世界に迷い続けてきたと知るがよいというのである。 「涅槃之城」 というのは、 安養浄土のことをいうのであり、 これは涅槃の都ということである。 「以信為能入」 というのは、 真実信心を得た人は阿弥陀仏の本願に誓われた真実の浄土に往生することができると知るがよいというお言葉である。 信心はさとりを開く因であり、 この上ない涅槃に至る因であると知るがよいというのである。
いわゆる三選の文と信疑決判ですが、現代語訳を読まれれば文章として難しい内容ではないと思います。念仏一行ということと信心についてまとめられたものですが、ここで注目して頂きたいのが、
「正定之業者即是称仏名」といふは、正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。
信心は菩提のたねなり、無上涅槃をさとるたねなりとしるべしとなり。
です。
「仏名をとなふる」という念仏と信心は共に、「無上涅槃のさとりをひらくたね」だと仰っています。最初にも「安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。」とありますので、念仏正因であり、信心正因でもあるということです。
ところが高森会長の元来の教えだと、
必堕の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり
です。流石に最近はそこまでは言っていないようで、
流転の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり
くらいでしょうが。
高森顕徹流の信行両座の諍論を信じていると全く理解できない親鸞聖人のお言葉になります。しかし、念仏と信心との関係が判っていれば簡単な話です。
いつも言っているように、信心とは念仏称えて往生できると深く信じた心のことです。言葉を換えると、念仏一行と心が定まったことを信心というのです。
つまりは、信行両座の諍論とは念仏の行で救われるのか、念仏の信で救われるのかという微妙な設問であったことになります。それで法然上人のお弟子は
そのとき三百余人の門侶みなその意を得ざる気あり。
という状態なったのだと覚如上人は『御伝鈔』で記されたのです。
まとめると、親鸞聖人の教えは
「正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。」と深く信じた心が、「無上涅槃をさとるたねなりとしるべし」なのです。
念仏を謗り軽視する高森会長の異安心では、絶対に理解できない内容です。
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