三選の文

2020年4月22日 (水)

「因果の道理を知らんのか!」と法然上人・親鸞聖人を攻撃した聖道門、「因果の道理を知らんのか!」と退会者を攻撃する親鸞会、聖道門と同じ土俵で勘違いの親鸞会

釈尊が諸善を説かれたのは、諸善と比較することで念仏が諸善に飛びぬけて優れた行であることを示されるためであったから、諸善は修するためではなく捨てるためもので、念仏だけを修するように釈尊は説かれたのです

このように退会者が言ったら親鸞会会員は、

仏教の土俵にも上がっていない、話にならない仏教を破壊する邪な教え!

と激高するでしょうが、これを仰ったのは法然上人です。『選択本願念仏集』の中で、

諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く。

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。

ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。

ということを繰り返し仰っています。
そして有名な三選の文で

それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。
浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。

と、聖道門を捨て、雑行を捨て、助業を傍らにして、専ら念仏を修しなさい、念仏を称えれば必ず往生できる、それは阿弥陀仏の18願力によるのだ、と念仏だけで往生できることを断言されたのです。

この法然上人のお言葉に激高するのは、親鸞会会員だけではありません、聖道門も同じことを言って法然上人を攻撃しました。

法然上人と親鸞聖人が流刑に遇われるきっかけとなった『興福寺奏状』の「第六に浄土に暗き失」には、

大覚法王の国、凡聖来朝の門、かの九品の階級を授くるに、おのおの先世の徳行を守る。自業自得、その理必然なり。しかるに偏に仏力を憑みて涯分を測らざる、是れ則ち愚癡の過なり。

とあり、『観無量寿経』で上品上生から下品下生までの九品の階級を授けられているが、それは生前になした徳のある善行に応じているのであり、自業自得の因果の道理に叶った仏教の根幹で必然の道理である。しかし、法然上人は往生には念仏を称えるだけと偏に仏力を憑んで、善は無関係と言っているが、それは因果の道理も知らない愚か者の邪な考えだ、と非難しているのです。

このような因果の道理に反しているとの非難に対して、法然上人は「それは誤解だ、因果の道理に則して教えている」と弁解されませんでした。それで法然上人がお亡くなられた後に出した『延暦寺奏状』でも

彼の党類の造悪は、改悔の心なく戒を破し、経に背き師に違すことを望み、依憑在るは誰ぞ、およそ、彼の宗に入る人は、まず万善を棄て、その宗に交る類は即ち大罪を置きて怖れず、仏像経巻に対して敬重の思いを生ぜず、寺塔僧坊に入りて汚穢の行も憚り無し。いかでか懈怠放逸の行を立て、清浄善根の界に生を得べし。
(中略)
しかれば悪を造れば必ず獄に堕し、善を修せば定んで天に生ず、自業自得の報いなり。不亡不失の理なり。
ここをもって、諸悪莫作 諸善奉行、寧ぞ七仏通戒の誠に非ずや。

とあり、法然上人の開かれた浄土宗の人は、悪を造り、懺悔なく、戒を破り、経典にも背いて、すべての善を捨てるなど、仏教の善を否定している。それでどうして懈怠放逸の行である念仏を称えることによって、浄土に生れることができようか。
悪を造れば必ず地獄に堕ち、善を修すれば必ず天に生まれることができる、これが自業自得という仏教の根幹因果の道理である。
だから、諸悪莫作 諸善奉行の七仏通戒が真実ではないか。

と自業自得の因果の道理を通して、法然上人門下を激しく糾弾したのです。

聖道門の言っていることを簡単に言うと、

念仏称えただけで往生できるなんて、法然上人は仏教の土俵である因果の道理を知らんのか!

法然上人の教えられたことは因果の道理に反していると、法然上人の生前からお亡くなりになられた後まで一貫して聖道門からは攻撃材料としたのですから、法然上人は因果の道理に反しているとの非難をその通りだと受け止められたということが判ります。

したがって、親鸞会が退会者を非難するときに使う常套文句の

仏教の土俵である因果の道理を知らんのか!

は聖道門と全く同じ論理であり、法然上人の教えとは根本的に異なっているのです。

では親鸞聖人は、法然上人に背いて、教えを修正して因果の道理に順った教義を展開されたのかと言えば、そんなことは絶対にありえないでしょう、高校生並みの知能があれば判る話です。なぜなら、念仏称えて往生できるという法然上人の教えを聞いて、親鸞聖人は往生が定まったのですから。

親鸞聖人は聖道門への反論として『教行信証』信巻に

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

(現代語訳)

このようなわけであるから、往生の行も信も、すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。如来より与えられた行信が往生成仏の因であって、それ以外に因があるのではない。よく知るがよい

と仰り、『浄土文類聚鈔』でも全く同じことを仰っています。
往生成仏の因は、すべて阿弥陀仏より与えられたものであり、それ以外の因はない、ということです。往生成仏の因は100%阿弥陀仏で、衆生側に因は、0.00001%もありません。聖道門の言う自業自得に対して、阿弥陀仏の業により我ら衆生が往生の果を得る、ということです。念のため言っておきますが、ここは縁ではなく、因です。もちろんこれは高森顕徹会長の創作炭素とダイヤモンドの譬えとは何の関係もありません。
その証拠が、『教行信証』証巻に

それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。ゆゑに、もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまへるところにあらざることあることなし。因、浄なるがゆゑに果また浄なり。知るべしとなり。

(現代語訳)

さて真宗の教・行・信・証を考えてみると、すべて阿弥陀仏の大いなる慈悲の心から回向された利益である。だから、往生成仏の因も果も、すべてみな阿弥陀仏の清らかな願心の回向が成就したものにほかならない。因が清らかであるから、果もまた清らかである。よく知るがよい。

と仰り、『浄土文類聚鈔』でも同じ文を載せておられます。

因、浄なるがゆゑに果また浄なり」ですから、衆生が往生成仏する因が「」です。「」なる因は、衆生には微塵もありません。因も縁も阿弥陀仏で、果を衆生が受け取るのです。
つまり、往生成仏の因果を、我ら衆生の側から親鸞会的な言い方で言えば、

他因自果

であり、阿弥陀仏の側から言えば、

自因他果

になります。しかも、無善で往生成仏するのですから善因善果、悪因悪果、自因自果とは完全に反しているのが阿弥陀仏の救いである、と聖道門に真っ向から反論されたのが、親鸞聖人です。当然、雑行をするという発想は親鸞聖人には微塵もありませんし、根拠もありません。

そんなことも知らないで、法然上人、親鸞聖人を流刑に遇わせた論理で退会者を攻撃してお山の大将を気取っているのが、親鸞会だということです。親鸞会は、聖道門の土俵にいます。聖道門の土俵で、真宗を語っているつもりになっているだけなので、高森顕徹会長の教えは真宗とは無関係です。なお、法然上人、親鸞聖人、蓮如上人が親鸞会で言うような因果の道理について教えられた文証は全くありません。退会者には根拠を出せと偉そうに言いますが、自分たちには根拠なしの妄想だけで正しいのだと言い続けているのです。

今回は真宗において因果の道理がどういう位置にあるのかについて時代的背景を述べました。次回以降、親鸞聖人が仰る具体的な因と縁について、根拠を挙げて説明していきますので、会員の皆さんは最低でも高校生並みの知能と国語力を持って、読んでください。

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2018年1月19日 (金)

「正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。」が絶対に理解できない高森顕徹会長

会館建設による搾取システムも限界が見え始め、新規会員獲得による錬金術を模索している親鸞会ですが、思うように成果があがっていません。親鸞会の情報は至る所にありますので、訳の判らない行事を催しても、主催が親鸞会だとすぐに察知されて逃げられているのが実情です。

さて、高森顕徹会長を筆頭とする異安心集団では、親鸞聖人の教えの基本も基礎も根本も全く判っていないので、お笑い教義となっていますが、親鸞会に毒された会員と退会者が混乱している最大の要因は、念仏と信心との関係でしょう。
これまでに、何十回もこのことについては根拠を挙げて述べてきましたが、今までとは少し違う根拠で説明したいと思います。

親鸞聖人は『尊号真像銘文』で法然上人のお言葉を説明されています。少し長いですが、このように仰っています。

 『選択本願念仏集』といふは、聖人(源空)の御製作なり。「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。
 またいはく、「夫速欲離生死」といふは、それすみやかに疾く生死をはなれんとおもへとなり。「二種勝法中且閣聖道門」といふは、「二種勝法」は、聖道・浄土の二門なり。「且閣聖道門」は、「且閣」はしばらくさしおけとなり、しばらく聖道門をさしおくべしとなり。「選入浄土門」といふは、「選入」はえらびていれとなり、よろづの善法のなかに選びて浄土門に入るべしとなり。
「欲入浄土門」といふは、浄土門に入らんと欲はばといふなり。「正雑二行中且抛諸雑行」といふは、正雑二行二つのなかに、しばらくもろもろの雑行をなげすてさしおくべしとなり。「選応帰正行」といふは、選びて正行に帰すべしとなり。「欲修於正行正助二業中猶傍於助業」といふは、正行を修せんと欲はば、正行・助業二つのなかに助業をさしおくべしとなり。「選応専正定」といふは、選びて正定の業をふたごころなく修すべしとなり。「正定之業者即是称仏名」といふは、正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。 「称名必得生依仏本願故」といふは、御名を称するはかならず安楽浄土に往生を得るなり、仏の本願によるがゆゑなりとのたまへり。
 またいはく、「当知生死之家」といふは、「当知」はまさにしるべしとなり、「生死之家」は生死の家といふなり。「以疑為所止」といふは、大願業力の不思議を疑ふこころをもつて、六道・四生・二十五有・十二類生[類生といふは一、卵生 二、胎生 三、湿生 四、化生 五、有色生 六、無色生 七、有相生 八、無相生 九、非有色生 十、非無色生 十一、非有相生 十二、非無相生]にとどまるとなり、いまにひさしく世に迷ふとしるべしとなり。
「涅槃之城」と申すは、安養浄刹をいふなり、これを涅槃のみやことは申すなり。「以信為能入」といふは、真実信心をえたる人の、如来の本願の実報土によく入るとしるべしとのたまへるみことなり。信心は菩提のたねなり、無上涅槃をさとるたねなりとしるべしとなり。

(現代語訳)

『選択本願念仏集』というのは、 法然上人が著された書物である。 「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」 というのは、 安養浄土に往生する正因は本願の念仏を根本とするというお言葉であると知らなければならない。 「正因」 というのは、 浄土に生れて間違いなく仏になる因ということである。
 また 「夫速欲離生死」 というのは、 速やかにはやく迷いの世界を離れたいと思えというのである。 「二種勝法中且閣聖道門」 ということについて、 「二種勝法」 とは、 聖道門と浄土門という二つの法門である。 「且閣聖道門」 というのは、 「且閣」 とはまずさしおけということであり、 聖道門をさしおくがよいというのである。 「選入浄土門」 というのは、 「選入」 とは選んで入れということであり、 あらゆる教えの中から浄土門を選んで入らなければならないというのである。 「欲入浄土門」 というのは、 浄土門に入ろうと思うならということである。 「正雑二行中且抛諸雑行」 というのは、 正行と雑行の二つの中から、 さまざまな雑行を捨ててさしおくがよいというのである。 「選応帰正行」 というのは、 正行を選んでこれに依らなければならないというのである。 「欲修於正行正助二業中猶傍於助業」 というのは、 正行を修めようと思うなら、 正定業と助業の二つの中から、 助業をさしおくがよいというのである。 「選応専正定」 というのは、 正定業を選んでひとすじに修めなければならない。 「正定之業者即是称仏名」 というのは、 正定の因となる行いは、 すなわち阿弥陀仏の名号を称えることであるというのである。 正定の因というのは、 必ずこの上ないさとりを開く因ということである。 「称名必得生依仏本願故」 というのは、 名号を称えると間違いなく安楽浄土に往生することができるのであり、 それは阿弥陀仏の本願のはたらきによるからであるというのである。
 また 「当知生死之家」 ということについて、 「当知」 とはよく知るがよいということであり、 「生死之家」 とは生れ変り死に変りし続ける迷いの世界のことをいうのである。 「以疑為所止」 というのは、 大いなる本願の思いはかることのできないはたらきを疑う心によって、 六道・四生・二十五有・十二類生という迷いの世界にとどまるというのであり、 今に至るまでの長い間このような世界に迷い続けてきたと知るがよいというのである。 「涅槃之城」 というのは、 安養浄土のことをいうのであり、 これは涅槃の都ということである。 「以信為能入」 というのは、 真実信心を得た人は阿弥陀仏の本願に誓われた真実の浄土に往生することができると知るがよいというお言葉である。 信心はさとりを開く因であり、 この上ない涅槃に至る因であると知るがよいというのである。

いわゆる三選の文と信疑決判ですが、現代語訳を読まれれば文章として難しい内容ではないと思います。念仏一行ということと信心についてまとめられたものですが、ここで注目して頂きたいのが、

「正定之業者即是称仏名」といふは、正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。

信心は菩提のたねなり、無上涅槃をさとるたねなりとしるべしとなり。

です。
仏名をとなふる」という念仏と信心は共に、「無上涅槃のさとりをひらくたね」だと仰っています。最初にも「安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。」とありますので、念仏正因であり、信心正因でもあるということです。

ところが高森会長の元来の教えだと、

必堕の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり

です。流石に最近はそこまでは言っていないようで、

流転の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり

くらいでしょうが。

高森顕徹流の信行両座の諍論を信じていると全く理解できない親鸞聖人のお言葉になります。しかし、念仏と信心との関係が判っていれば簡単な話です。
いつも言っているように、信心とは念仏称えて往生できると深く信じた心のことです。言葉を換えると、念仏一行と心が定まったことを信心というのです。
つまりは、信行両座の諍論とは念仏の行で救われるのか、念仏の信で救われるのかという微妙な設問であったことになります。それで法然上人のお弟子は

そのとき三百余人の門侶みなその意を得ざる気あり。

という状態なったのだと覚如上人は『御伝鈔』で記されたのです。

まとめると、親鸞聖人の教えは

正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。」と深く信じた心が、「無上涅槃をさとるたねなりとしるべし」なのです。

念仏を謗り軽視する高森会長の異安心では、絶対に理解できない内容です。

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2017年7月23日 (日)

「往生の正因は念仏を本とす」という親鸞聖人のお言葉を全否定する高森顕徹会長

高森顕徹会長は必死になって、聖教にない理屈を捏ね繰り回して、訳の判らない超珍しき法を生み出して、真宗界から鼻で笑われているのですが、それを知ってか知らずか、親鸞会の会員は高森会長のヘンテコ理屈に輪を掛けた???理屈で反論してくることが多いです。
師匠があんなのですから、弟子がこうなるのも無理はありませんが、少なくとも、親鸞聖人が仰ったことを否定するような理屈は止めておかないと、恥を何重にも上塗りするだけです。

さて、信心と念仏の関係に無知な高森会長と愉快な会員達に、もう少し親鸞聖人のお言葉を紹介したいと思います。

親鸞聖人は法然上人の念仏一行で救われるという教えを聞いて、救われたのは、マインドコントロールの良く効いている会員でも認めることと思います。

法然上人は『選択本願念仏集』の結論で

正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。

(現代語訳)

正定の業とは、 すなわち仏のみ名を称えることである。 称名する者はかならず往生を得る。 阿弥陀仏の本願にもとづくからである。

と仰って、その通りに救われたのが親鸞聖人です。
この法然上人のお言葉を親鸞聖人は『尊号真像銘文』で

「正定之業者即是称仏名」といふは、正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。 「称名必得生依仏本願故」といふは、御名を称するはかならず安楽浄土に往生を得るなり、仏の本願によるがゆゑなりとのたまへり。

(現代語訳)

「正定之業者即是称仏名」 というのは、 正定の因となる行いは、 すなわち阿弥陀仏の名号を称えることであるというのである。 正定の因というのは、 必ずこの上ないさとりを開く因ということである。  「称名必得生依仏本願故」 というのは、 名号を称えると間違いなく安楽浄土に往生することができるのであり、 それは阿弥陀仏の本願のはたらきによるからであるというのである。

と解説しておられます。
仏名をとなふる」つまり念仏を称えることが「正定の因」「無上涅槃のさとりをひらくたね」だと明言されているのです。

こういうと、親鸞聖人のお言葉を否定するために

親鸞聖人の教えは「信心正因」だ、「念仏正因」ではない!

と、間の抜けたことを言うでしょうが、親鸞聖人は同じく『尊号真像銘文』で法然上人のお言葉を解説して

「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。

(現代語訳)

「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」 というのは、 安養浄土に往生する正因は本願の念仏を根本とするというお言葉であると知らなければならない。 「正因」 というのは、 浄土に生れて間違いなく仏になる因ということである。

と親鸞会を完膚なきまでに否定されています。

往生の正因は念仏を本とす

ここまできても、信心と念仏の関係が高森会長の言っている通りだと思うようなら、思考が完全に停止している状態です。

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2014年8月17日 (日)

高森顕徹会長、教に昏くして浄土門の門戸を知らず

高森顕徹会長の求心力の低下が、顕著になってきました。言っていることが度々変わり、出版直後は大絶賛していた『なぜ生きる2』は会員以外にはほとんど売れず、外部の評価は最低であり、そこに高森会長の年齢的な衰えが加わっているのですから、当然の流れです。

初期の顕正新聞には、すでに高森流宿善論が出ていますので、高森会長は親鸞会を作ってから、一貫して善の勧めを言い続けてきたことが判ります。華光会、大沼師が言われていない善の勧めは、親鸞会を維持・拡大する上で必須の邪義であり、高森会長や側近が独自に編み出したものと考えられます。高森会長の意図は、金集め・人集めであったことは言うまでもありませんが、高森会長が念仏を理解できなかったことがその原因とも言えます。

親鸞聖人は法然上人の教えを継承された方ですが、『教行信証』には『選択本願念仏集』の御文は2つしか引用されていません。なぜなら、それが法然上人の教えられたことの結論であるからです。

行巻に、

 『選択本願念仏集』[源空集]にいはく、
「南無阿弥陀仏[往生の業は念仏を本とす]」と。
 またいはく、「それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正・助二業のなかに、なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに」と。

と引用されています。

往生の業は念仏を本とす」「称名はかならず生ずることを得」を高森会長が知っていれば、念仏軽視というより念仏否定の邪義など、恥ずかしくて言えない筈です。
また、念仏に対する業は、諸善であることを強調されたのが、法然上人と親鸞聖人であることを知っていれば、善の勧めなど、人前で言えない筈です。

『選択本願念仏集』

諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く。

定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。

行巻

しかるに教について念仏諸善比挍対論するに、難易対、頓漸対、横竪対、超渉対、順逆対、大小対、多少対、勝劣対、親疎対、近遠対、深浅対、強弱対、重軽対、広狭対、純雑対、径迂対、捷遅対、通別対、不退退対、直弁因明対、名号定散対、理尽非理尽対、勧無勧対、無間間対、断不断対、相続不続対、無上有上対、上上下下対、思不思議対、因行果徳対、自説他説対、回不回向対、護不護対、証不証対、讃不讃対、付属不属対、了不了教対、機堪不堪対、選不選対、真仮対、仏滅不滅対、法滅利不利対、自力他力対、有願無願対、摂不摂対、入定聚不入対、報化対あり。

などです。

こんなことは、浄土門の門戸ですが、それさえも知らないのです。それでいて「真仮の門戸」を知っているのは、高森会長ただ一人と、高森会長自身も会員も最近まで信じ切っていたのですから、喜劇以外の何物でもありません。
しかし、喜劇も間もなく幕引きとなるでしょう。願わくば、高森会長が会員の目を醒ます形で幕を引いてもらいたいものです。

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2014年1月31日 (金)

高森邪義は、「真宗の廃立にそむき、祖師の御遺訓に違せり」

親鸞会が勧めているのは、間違いなく雑行です。どんな屁理屈をつけても、六度万行は雑行です。
雑行は行ですから、自らその行を選択して捨てるだけです。

このことについて、蓮如上人が「金をほりいだすやうなる聖教なり」とまで仰った『安心決定鈔』にこうあります。

かるがゆゑに念仏三昧になりかへりて、もつぱらにしてまたもつぱらなれといふなり。専の字、二重なり。まづ雑行をすてて正行をとる、これ一重の専なり。そのうへに助業をさしおきて正定業になりかへる、また一重の専なり。またはじめの専は一行なり、のちの専は一心なり、一行一心なるを「専復専」といふなり。

これは善導大師の『法事讃』にある「専復専」についての解釈です。
ここに二重の「」がありますが、それを2通りの解釈をしています。

1つは、まず雑行を捨てて正行に帰し、その次に助業を捨てて念仏一行になる、という二段階の「」です。法然上人の三選の文と同じです。
もう1つは、行において念仏一行となる「」と、心において他力の一心になる「」ということです。これは親鸞聖人が『唯信鈔文意』

「専復専」といふは、はじめの「専」は一行を修すべしとなり。「復」はまたといふ、かさぬといふ。しかれば、また「専」といふは一心なれとなり、一行一心をもつぱらなれとなり。「専」は一つといふことばなり、もつぱらといふはふたごころなかれとなり、ともかくもうつるこころなきを「専」といふなり。

と仰ったのと同じです。

どちらの解釈においてでも、雑行は行です。もちろん、捨てるべきものとしてです。

では正行は、勧められている行なのかと言えば、それも間違いです。
『改邪鈔』には

しかるをいま風聞の説のごとくんば、「(中略)〈まづ雑行をさしおきて正行を修すべし〉とすすむ」と[云々]。これをもつて一流の至要とするにや。この条、総じては真宗の廃立にそむき、別しては祖師の御遺訓に違せり。正行五種のうちに、第四の称名をもつて正定業とすぐりとり、余の四種をば助業といへり。正定業たる称名念仏をもつて往生浄土の正因とはからひつのるすら、なほもつて凡夫自力の企てなれば、報土往生かなふべからずと[云々]。

とあります。雑行を捨てて正行を修するように勧められたのが、親鸞聖人の教えだ、と言うのは、「総じては真宗の廃立にそむき、別しては祖師の御遺訓に違せり」と完全に否定されています。その理由は、正定業である念仏でさえ、自力の行であるなら報土往生できないと親鸞聖人は教えられているのに、ましてや助業を勧められたことはない、ということです。当然ながら、雑行を勧めるなどもっての外の邪義です。

親鸞会は、なにかと屁理屈を付けて、善の勧めを正当化しようとしますが、そんな屁理屈など、聖教を一度読めば、完全に粉砕されてしまします。

高森顕徹会長も、講師部員も、会員も、屁理屈ばかりを並べて退会者に反撃を試みてきますが、何も恐れることはありません。粛々と聖教の御文を示せば、それで終わりです。
ただし、聖教に書かれたことを信じる気の無い親鸞会の面々には、何を言っても無駄でしょうが。

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2014年1月26日 (日)

「なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし」とは。

正行について、言葉だけは親鸞会でも教えているので御存知の方ばかりでしょうが、法然上人の説明を紹介すると、『選択本願念仏集』

一には読誦正行、二には観察正行、三には礼拝正行、四には称名正行、五には讃歎供養正行なり。
第一の読誦正行は、もつぱら『観経』等を読誦するなり。すなはち文(散善義)に、「一心にもつぱらこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦す」といふこれなり。
第二に観察正行は、もつぱらかの国の依正二報を観察するなり。すなはち文(同)に、「一心にもつぱら思想を注めてかの国の二報荘厳を観察し憶念す」といふこれなり。
第三に礼拝正行は、もつぱら弥陀を礼するなり。すなはち文(同)に、「もし礼せばすなはち一心にもつぱらかの仏を礼す」といふこれなり。
第四に称名正行は、もつぱら弥陀の名号を称するなり。すなはち文(同)に、「もし口称せばすなはち一心にもつぱらかの仏を称す」といふこれなり。
第五に讃歎供養正行は、もつぱら弥陀を讃歎供養するなり。すなはち文(同)に、「もし讃歎供養せばすなはち一心にもつぱら讃歎供養す、これを名づけて正となす」といふこれなり。

とあります。説明は不要と思いますが、一応前回のことも踏まえて言っておきますと、布施に代表される六度万行は雑行です。
この正行の中で正定業と助業とに分かれることも、御存知とは思いますが、法然上人のお言葉で

一には正業、二には助業なり。初めの正業は、上の五種のなかの第四の称名をもつて正定の業となす。

とあります。これも説明は不要でしょう。

ですから三選の文の

正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。

もそのままです。
しかし、親鸞聖人はこの部分を少し変えておられます。
『尊号真像銘文』には

「欲修於正行正助二業中猶傍於助業」といふは、正行を修せんと欲はば、正行・助業二つのなかに助業をさしおくべしとなり。「選応専正定」といふは、選びて正定の業をふたごころなく修すべしとなり。

とあり、法然上人よりも強い表現となっています。
念仏を専らにするということは、助業を捨てて、念仏一つと心を定めることだということです。
従って、親鸞聖人は、この念仏を真実信心の念仏、つまり他力の念仏となされているのですが、真宗ではこんなことは常識だと思います。それを取りたてて、「この念仏が自力か他力か」と質問する方が、おかしいでしょう。

それでこれまでのことをまとめると、

聖道門を捨てよ=聖道門の行を捨てよ=自力でさとりを開こうとする道を捨てよ

雑行を捨てよ=往生行の中で、正行以外の定散二善を捨てよ

助業を捨てよ=念仏一行を選べ=念仏1つと心を定めよ

ということです。
大きくは3段階に分けられているのですが、細かく分けると最後の

念仏一行を選べも、

自力の念仏を捨てて他力の念仏に帰せ

ということになります。
聖道門を捨てるのは、簡単にできます。同様に、雑行を捨てることも簡単です。助業を捨てて念仏一行も、親鸞聖人の教えを信じているなら簡単です。しかし、念仏一行となっても、信心が自力か他力かが問題ですので、ここが難しいのです。自力の信心から他力の信心へとなるのと、行において念仏一行となることとは同じではありません。
三願転入をしなければならないというものでもありません。最初から念仏一行を選択することはもちろん可能です。

ところが、法然上人、親鸞聖人の仰せを捻じ曲げて、いつまでも雑行である布施を強要しているのが高森顕徹会長だということをよく知るべきでしょう。

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2014年1月23日 (木)

「しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし」とは。

前々回と前回で、聖道門の行を雑行とは言わないことを説明しました。その違いを簡単に整理すると、

聖道門の行--自力でさとりを開くために修する善
雑行--聖道門の行と行自体は同じでも、往生の為にする善

ということです。
結局2つの違いは、親鸞会風に言うなら、心がけの違いになります。
したがって、聖道門で修行をしている人にとっては、雑行というのは親しみのある行になる訳です。

たとえば、承元の法難のきっかけになった『興福寺奏状』には

かの観念の中に、散位より定位に至り、有漏より無漏に及ぶ。浅深重重、前は劣、後は勝なり。

観念を以て本として、下口称に及び、多念を以て先として、十念を捨てず、是れ大悲の至って深く、仏力尤も大なるなり。

とあります。口称念仏は劣行で観念の行こそが勝れた行だと、法然上人を批判した内容です。ここでの「観念」とは、『観無量寿経』の定善十三観を指していますが、聖道門においての観念も、勝れた行として考えられていて、諸仏に対する観念は盛んに修されています。これを往生の為に修すれば、雑行になります。ただし、阿弥陀仏に対しての観念は正行です。

また、経典を読誦することも聖道門では大いに奨励される行です。
『選択本願念仏集』には、散善行福の読誦大乗について以下のように説明されています。

また読誦大乗の行あり。人みなおもへらく、大乗経を読誦してすなはち往生すべし。もし読誦の行なくは、往生すべからずと。
これにつきて二あり。一には持経、二には持呪なり。持経とは、「般若」・『法華』等の諸大乗経を持するなり。
持呪とは随求・尊勝・光明・阿弥陀等のもろもろの神呪を持するなり。

(現代語訳)

また大乗を読誦する行がある。人はみな、大乗経を読誦して往生できるので、もし読誦の行がなければ往生できないと思っている。
この読誦について二つがある。一つには持経、二つには持呪である。持経とは『般若経』・『法華経』などのもろもろの大乗経を読むことである。
持呪とは、「随求陀羅尼」・「尊勝陀羅尼」・「光明真言」・「阿弥陀真言」などのもろもろの尊い呪文をとなえることである。

聖道門の経典を読誦することで往生できると思っていれば、それは散善であり、読誦雑行でもあります。それどころか、密教で唱えられる呪文を、これで往生できると思って唱えれば、それも散善であり、読誦雑行になります。
もちろん、浄土三部経を読誦すれば読誦正行です。

親鸞会の大好きな六度万行も、もちろん雑行です。

法然上人の法語を親鸞聖人が編纂された『西方指南抄』には

さてこの正定の業と助業とをのぞきて、そのほかの諸行おば、布施・持戒・忍辱・精進等の六度万行も、法華経おもよみ、真言おもおこなひ、かくのごとくの諸行おば、みなことごとく雑行となづく。

とあります。五雑行と諸善とは別の雑行だ、とか考えていること自体が、雑行を知らない証拠になります。

このように聖道門の行と雑行とは、心がけの違いだけですので、聖道門を捨てたなら、次は同様に雑行を捨てなさい、となります。もちろん、諸善の雑行です。

それが三選の文

浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。

です。
当然ながら、諸善の行である雑行は、信前に捨てることができます。

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2014年1月22日 (水)

「しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし」とは。

親鸞会では、三願転入の文ばかり強調していますが、浄土真宗において強調すべきは法然上人の書かれた三選の文です。

それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。
浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。

は、浄土宗はもちろんのこと浄土真宗でも極めて重要な御文です。
なぜなら『教行信証』は、この三選の文の解説書とも言われますし、『尊号真像銘文』でも解説がなされています。存覚上人も『浄土真要鈔』で引用されています。
一方で、三願転入の文は、『教行信証』化土巻以外では、全く見かけません。

にもかかわらず、親鸞会で三選の文を紹介することは極めて稀で、三願転入の文ばかり取り上げます。私の記憶では、三選の文を高森顕徹会長が説法で紹介したのは30年程前の1度だけです。

さて、三選の文は、文章としては難しくないので、普通に読めば普通に理解できる筈ですが、親鸞会の人は、普通に読まずに、高森邪義を絡めてとんでもない読み方をします。その典型例が南風さんでしょう。

まず、「しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。」は、そのまま、聖道門を捨てて浄土門に入れ、です。
聖道門とは、自分の力でさとりを開いて、最終的には仏になるという教えです。それに対して浄土門とは、浄土に往生して仏のさとりを開かせて頂くという教えです。
明らかに道が違います。浄土門を選ぶということは、諸善によってさとりを開く道をとらないことを意味します。

前回も言いましたが、聖道門における諸善は、雑行ではありません。なぜなら、往生の為にする善ではないからです。

再度紹介すると、『選択本願念仏集』

善導和尚の意によらば、往生の行多しといへども大きに分ちて二となす。一には正行、二には雑行なり。

とあるからです。
親鸞聖人も『教行信証』化土巻で以下のように仰っています。

それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。

雑行は、「もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。」とあるように、もともとは往生の因ではない諸善を、浄土往生の為に修するのが雑行ということです。つまり、聖道門での諸善を、行はそのままで往生の為に修すると、雑行になるのです。

ということは、他の仏に向かっての諸善もそのまま往生の為にすれば雑行になるのですから、五雑行だけが特別な扱いになるのではありません。

『愚禿鈔』には、

上よりこのかた一切の定散の諸善ことごとく雑行と名づく、六種の正に対して六種の雑あるべし。雑行の言は人・天・菩薩等の解行雑するがゆゑに雑といふなり。もとよりこのかた浄土の業因にあらず

と同じことが書かれています。
定善と散善の行自体は、元々聖道門で教え勧められる諸善ですが、それを往生の為にすると雑行になります。
ただし、正行になるものもありますので、それは除いてです。そのようにコメントもしたのに、敢えて無視する人がいますので、念の為書いておきました。

まとめると、聖道門を捨てて浄土門に入るとは、簡単に言えば、自力でさとりを開くことを断念して、浄土往生を目指すことをいいます。

雑行は聖道門の行」「散善である布施・持戒は雑行ではない」「定散二善は五雑行と対立する」という発想は、雑行の最低限の定義すら知らないところからくる誤解です。聖浄廃立云々言える立場にさえないのです。

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