『なぜ生きる2』

2016年3月12日 (土)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義42

ある幹部会員と街中で会って少し話をした時に私はこう言いました。
高森先生はお聖教を全く読んだことがないですよ
幹部会員は、「それは絶対にありえない」と即座に否定しましたが、私はその証拠の1つとして、『教行信証』で親鸞聖人が最も力を入れて顕わされた部分を、高森会長が全く知らないと伝えました。その幹部会員は絶句でした。
その部分とは、阿闍世の獲信です。『教行信証』6巻の約1割、更には信巻の約4割も費やされたのが、阿闍世の獲信体験記録です。
阿闍世は、三願転入どころか、釈尊から善を勧められてもおらず、善とは無関係で獲信しています。つまり、三願転入の教えなるものを、親鸞聖人御自身が否定なされているのです。

このこと1つだけでも、高森会長が聖教を全く読んでいないと断言できるのです。

もちろん、高森会長は他のことも何も知りませんので、高森会長の無知は退会者にとっては周知の事実となっています。

そんな無知の高森会長が、直接書いたことになっている『なぜ生きる2』ですが、あとがきで、更にまた無知を曝しています。

 普通、体験記は、年月、場所など著者特有の出来事が詳しく記述され、衆目を惹くものである。のぞき見趣味などにも応じて百人百様の体験が多彩に発表されるのが常であろう。

 だが親鸞聖人や覚如上人、蓮如上人などの善知識方には、意外にそのような記録は見られない。まるで、書くべからざることと、箝口令を敷かれていると思えるほどだ。
 ただに善導大師は二河白道の譬喩で表し、親鸞聖人は弥陀の三願で表白されているのみである。
 譬喩や弥陀の本願で説かれていては、庶民の望む具体的な事象は知るよしもない。
 なぜ具体的な記述を頑なに避けられたのだろうか。

最初に述べた通り、具体的な記述を阿闍世の体験記で親鸞聖人は表現されています。『教行信証』に何が書かれてあるか、高森会長は全く知らないのです。恥ずかしいの一言に尽きます。

 そして善知識方の体験の記録も、『教行信証』等に親鸞聖人は記されています。龍樹菩薩と曇鸞大師のことは、『正信偈』にまで書かれているのですから、どんなに無知な高森会長でも文字は読んでいるのでしょうが、その意味を全く理解できていないこともここから判ります。
これまで、親鸞聖人のお言葉でその説明をしてきましたが、今回は蓮如上人の『正信偈大意』を紹介しておきます。

まず、龍樹菩薩の方は、

「釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺 龍樹大士出於世 悉能摧破有無見 宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽」といふは、この龍樹菩薩は八宗の祖師、千部の論師なり。釈尊の滅後五百余歳に出世したまふ。釈尊これをかねてしろしめして、『楞伽経』に説きたまはく、「南天竺国に龍樹といふ比丘あるべし、よく有無の邪見を破して、大乗無上の法を説きて、歓喜地を証して安楽に往生すべし」と未来記したまへり。

です。龍樹菩薩は、聖道門で御修行なされて歓喜地を証されて後に、浄土門に帰依なされて往生なされた、という体験です。

次に曇鸞大師は、

「三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦」といふは、かの曇鸞大師、はじめは四論宗にておはせしが、仏法のそこをならひきはめたりといふとも、いのちみじかくは、ひとをたすくることいくばくならんとて、陶隠居といふひとにあうて、まづ長生不死の法をならひぬ。すでに三年のあひだ仙人のところにしてならひえてかへりたまふ。そのみちにて菩提流支と申す三蔵にゆきあひてのたまはく、「仏法のなかに長生不死の法は、この土の仙経にすぐれたる法やある」と問ひたまへば、三蔵、地につばきを吐きていはく、「この方にはいづくのところにか長生不死の法あらん、たとひ長年を得てしばらく死せずといふとも、つひに三有に輪廻すべし」といひて、すなはち浄土の『観無量寿経』を授けていはく、「これこそまことの長生不死の法なり、これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし」とのたまへば、曇鸞これをうけとりて、仙経十巻をたちまちに焼きすてて、一向に浄土に帰したまひけり。

です。曇鸞大師は聖道門から一時道教に迷われたものの、菩提流支との出遭いによって浄土に帰された、という極めて具体的な記述です。

これ以上解説は不要な程、高森会長は無知を極めているのです。

『なぜ生きる2』を書かなければ、ちょっとおもしろいことをいう変な人、でも通ったかもしれません。しかし、高森会長は自らの意思によってその生ぬるい評判を徹底的に叩き壊しました。
こんな解釈は絶対にあり得ない究極的無知の悪知識、と高森評は完全に地に堕ちました。

これが高森会長の大好きな、悪因悪果、自因自果です。

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2016年2月23日 (火)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義41

最近の親鸞会は、新規会員獲得に血眼になっています。現会員から大金を巻き上げる方法がいつもいつも出てきませんので、入会金5万円が大きな魅力となっているのでしょう。

現会員も新規会員も訳のわからない宿善という言葉に騙されてお金を出していることが多いのですが、その時によく使われるのが『御一代記聞書』の

陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。
弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。
とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。
已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。
昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もありと仰せられしと[云々]。

です。『なぜ生きる2』18章でも最後の2文を除いて取り上げられています。
ただし、この意味がまた無茶苦茶です。この意訳として

陽の当たるところの花は速く咲き、日蔭の花は遅いだろう。
陽の当たるところの花が速く咲くように、弥陀の本願を真剣に聞き速く救われる人もある。聞法を怠れば日蔭の花のように救われるのも遅くなる。
同じく弥陀の光明(聞法)に遇っても、救われるのが速い人と遅い人があるのは、人それぞれの宿善(過去の善根)に遅速(厚薄)があるからだ。
救われている人も、救われていない人も、ともかくも、大事なことは真剣な聴聞である。

としています。
かなり無理な訳にしていることがお判りでしょうか。
最も問題なのが

かように宿善も遅速あり

ですが、この意味は高森顕徹会長の言葉を使うなら、

同じく弥陀の光明(聞法)に遇っても、救われるのが速い人と遅い人がある

です。

人それぞれの宿善(過去の善根)に遅速(厚薄)があるからだ

の意味はありません。
その証拠をお見せしましょう。

このお言葉は蓮如上人が「金を掘り出すような聖教」とまで絶賛されました『安心決定鈔』にあるお言葉を言い換えられたものです。事実、『御一代記聞書』には、『安心決定鈔』からの引用が多数あります。
ここの関連部分は

かるがゆゑに仏の正覚のほかは凡夫の往生はなきなり。十方衆生の往生の成就せしとき、仏も正覚を成るゆゑに、仏の正覚成りしとわれらが往生の成就せしとは同時なり。仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。機によりて三世は不同なれども、弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり。
(中略)
かくこころうれば、われらは今日今時往生すとも、わがこころのかしこくて念仏をも申し、他力をも信ずるこころの功にあらず。勇猛専精にはげみたまひし仏の功徳、十劫正覚の刹那にわれらにおいて成じたまひたりけるが、あらはれもてゆくなり。覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり。已・今・当の三世の往生は不同なれども、弘願正因のあらはれもてゆくゆゑに、仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり。

です。
ここに書かれてあることは、
阿弥陀仏が十劫の昔に、本願を成就されているのに、人によって往生の時期に前後ができるのはなぜかということについてです。
『御一代記聞書』と比較するとよく判ります。

已今当の往生あり(『御一代記聞書』)

すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり(『安心決定鈔』)

已・今・当の三世の往生は不同なれども(『安心決定鈔』)

このことより、

宿善も遅速あり(『御一代記聞書』)

仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば(『安心決定鈔』)

覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり(『安心決定鈔』)

となります。

に当ります。「ことわりをしる」「あらわす」とありますし、『御一代記聞書』の最後に

昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もあり

とありますので、『御一代記聞書』の「宿善」とは、信心のことを指していることがお判り頂けると思います。

つまり『御一代記聞書』では、信心をうることに遅速があるから、已今当の往生がある、と教えられたお言葉と理解できます。

『安心決定鈔』の「ことわりをしる」「あらわす」ことは、自分のやった善とは全く関係ないのです。『安心決定鈔』の、

弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり

仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり

に、そのことが明確に解説されています。
要するに、『御一代記聞書』の「宿善」には、自力的な意味の善は含まれていないのです。

結局

人それぞれの宿善(過去の善根)に遅速(厚薄)があるからだ。

こんな意味になることは、100%あり得ません。
高森会長が妄想で築き上げた砂上の楼閣など、聖教の前では瞬時に崩れ去る本当に脆いものなのです。

悔しければ、いつでも法論をしますので、遠慮なく申し出てください。ただし、聖教上での法論しかしませんので、体験談のごり押しは拒絶します。

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2016年2月11日 (木)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義40

先日、親鸞会の自称獲信者と、法論をしました。厳密には、法論といえるようなレベルではなく、相手が体験談を延々と述べ続けるだけでした。5年前にも、同人物とやりあっていますので、最初から結果は判っていましたが、数回のやり取りであっけなく逃亡してしまいました。ここに紹介するまでもない内容ですが、簡単に報告だけしておきます。

さて、高森顕徹会長も自称獲信者も、二種深信を、地獄一定と極楽一定が同時に知らされることという、異教徒のような体験と説明していますが、そうではないことを前回説明しました。

ところで今日の真宗では、二種深信を、自力無功、他力全託と説明しますが、これは存覚上人の『六要鈔』にある二種深信の解説によっています。

「無有」等とは、正しく有善・無善を論ぜず、自の功を仮らず、出離は偏に他力に在ることを明かす。聖道の諸教は盛んに生仏一如の理を談ず。今の教は自力の功なきことを知るに依りて、偏に仏力に帰す。これに依りて、この信は殊に最要なり。
「無疑」等とは、「若不生者不取正覚」、正覚既に成ず、故に無疑という。「即得往生住不退転」一念誤ることなし、故に無慮という。

何のことか判りにくいかもしれませんが、前半が機の深信の説明で、後半が法の深信の説明です。
善導大師、親鸞聖人の仰っている内容を深く掘り下げて、

機の深信を「自の功を仮らず」
「自力の功なきこと」
法の深信を「出離は偏に他力に在る」「偏に仏力に帰す」

とまとめられています。

もちろん存覚上人の解釈にも、高森会長や親鸞会の自称獲信者の体験に合うようなことはどこにもありません。

それでは、お待ちかねの第三深信について述べます。

『散善義』にある第三深信

また決定して深く、釈迦仏この『観経』に三福九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと信ず。

を親鸞聖人は『教行信証』信巻と化土巻で引かれています。

『観無量寿経』の定散二善および19願は浄土を「欣慕」、つまり願い慕わせるためだけで捨て去るべきものという意味と、聖道門から浄土門へ導くという方便の役割を説明されていることになります。念のために説明しておきますと、浄土を願わせるのですから、浄土を願っていない人、つまりは聖道門の人のために、『観無量寿経』の定散二善および19願という方便があるのだ、ということです。

親鸞聖人は、同じ化土巻で

如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。

と仰っています。

存覚上人は『六要鈔』でこの解説を

『観経』の所説は定・散・弘願の三門なり。而るに定散を説くことは弘願を顕わさんが為なり。『選択集』に云わく「また定散を説くことは、念仏の余善に超過せることを顕さんが為なり。もし定散なくは、何ぞ念仏の特に秀たることを顕さん。例せば法華の三説の上に秀でたるが如し。もし三説なくは、何ぞ法華の第一なることを顕さん。故に今定散は廃のために而も説き、念仏三昧は立のために而も説く」已上。故に定善を請するは随他の教を顕わす。その定善の外に、仏は散善を開して散動の機に応ず。その散機の中に、なお廃悪修善に堪えざるあり。仏はその機の為に念仏の行を説く。この義に依るが故に、初に微咲する所は、定機に約すといえども、仏の本懐は遂に念仏に在り。今この解釈はこの義を顕わすなり。

とされています。

判りにくいかもしれませんが、簡単に言うと、『選択本願念仏集』の「また定散を説くことは、念仏の余善に超過せることを顕さんが為なり。もし定散なくは、何ぞ念仏の特に秀たることを顕さん。」の意味ということす。

更には「定善の外に、仏は散善を開して散動の機に応ず。その散機の中に、なお廃悪修善に堪えざるあり。仏はその機の為に念仏の行を説く。」と、善人に定散二善を説かれ、廃悪修善のできない悪人のために念仏は説かれたとの解説もつけられています。

6年前のmixiでの三願転入の法論では、ここが最大のウイークポイントでした。今でもそれは変わりません。

第三深信についてまとめると、

19願諸善は聖道門の善人のために建てられて、その意義は、聖道門の人を浄土門に導きいれるための方便。
一方で、廃悪修善のできない悪人には、19願諸善は関係なく、18願念仏を最初から説かれて勧められている。

こういうことです。

親鸞聖人の教えられていることはどこを読んでも同じですが、それを故意に捻じ曲げているのが高森会長なのです。

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2016年2月 6日 (土)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義39

高森顕徹会長は、自分の摩訶不思議な体験をもって、真実の信心だと思い込んでいるようですが、とんだ誤解です。高森会長が真実の信心を説明するときに必ず出すのが二種深信ですが、この内容が顕わされた文章と高森会長の信心は違います。

『なぜ生きる2』17章には、知りもしない七深信が説明もなく出されて、結論として

「七深信」を要約すると、こうである。
 第一の深信は「機の深信」と言われる。
 第二の深信を「法の深信」と言う。
「法の深信」を五つに開かれたのが[三]から[七]の深信であるから、「七深信」は「機・法、二種の深信」となる。

と説明しているだけです。

法話や講義、そして著書の中で七深信について触れたことがないので、これ以上の説明は不可能でしょう。
というよりも、元々は6年前のmixiでの三願転入の法論の中で、高森会長が全く知らなかった七深信の中の第三深信を出されて、高森会長がしどろもどろになった大失態を、『なぜ切る2』に載せておいて、本当は前から知っていたんだぞ、と誤魔化したいだけのことです。

第三深信については次回述べることとして、今回は根本の二種深信について、高森会長の摩訶不思議な体験とは明らかに異なっていることを説明します。

二種深信については、親鸞会でも引用されるのが、『教行信証』信巻にだけある

一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。

です。
ところが善導大師は他の表現でも二種深信を仰っていて、それは『教行信証』の行巻と信巻の二か所に引かれています。

自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。
いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。

前者が一か所で、後者が二か所で紹介されているから、単純に後者の方が重要という話ではありませんが、少なくとも、親鸞聖人は後者の二種深信を重要視されていたので、それを知らない高森会長は、『教行信証』を全く読んだことがないとここでも判明します。

内容については、前者よりも後者の方が、より明確になっています。
簡単にまとめると

機の深信は、自分が今までやってきた程度の善では出離できない、と信知すること。
法の深信は、阿弥陀仏の本願は念仏で必ず往生できる、と信知すること。

こういうことです。もっと簡潔に言うと、

善では出離できない、念仏によってのみ出離し往生できる、と信知する

これが真実の信心だと言うことです。
善導大師のことを念頭におけば、

聖道門では出離できない、阿弥陀仏の18願念仏によってのみ往生できる、と信知する

と言い換えることもできます。

高森会長の言うような、摩訶不思議な体験とは大いに異なっていることがお判りでしょうか。

要するに、念仏1つで助かる、と深信したのが二種深信だということです。

ですから、念仏1つで助かると言っても、信心1つで助かると言っても、同じことなのです。念仏と信心が別ものとしか考えられないから、摩訶不思議な信心が、突然どこからか自分の心の中に飛び込んでくるとしか思えないのでしょう。
まるで神の啓示のようにしか説明していないところが、親鸞会は異安心集団だという証明になります。

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2016年1月31日 (日)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義38

親鸞会をネット上で非難している人は、表に出てこれなくて陰でこそこそしている

と親鸞会は的外れのことを言って、会内だけの陰でこそこそしています。
書籍は表の世界だと言いたいのでしょうが、ネットこそが世界中に公表された最も開かれた世界です。
私の正体も、親鸞会の上層部では十二分に知れ渡っていますが、高森顕徹会長も講師部員も幹部会員も、一人として、直接私に反論してくることはありません。

私のことが怖くて怖くて仕方がないようですが、親鸞会とはそんな臆病者の集団だということです。

因みに、当ブログへのアクセスが一番多い県は、富山県です。他県を圧倒しています。これが何を意味しているかは、言うまでもないでしょう。

さて、『なぜ生きる2』16章にこんなことが書かれています。

 なぜ十八願のみを真実の願と言われるのか。
 十八願には阿弥陀仏の本心が誓われている、唯一の願であるからだ。
 十八願は弥陀が自らの心(自意)を、そのまま(随)誓われた願であるから「随自意の願」と言われる。
 いわゆる「真実の願」のことである。
(中略)
 こんな十方衆生を真実の十八願まで、どう導き救おうか。
 弥陀が五劫の思惟をなされた末に、一時相手の程度(他意)に合わせて(随)誘導する十九・二十願を建てられたのだ。
 よって十九・二十の願を「随他意の願」と言われる。いわゆる「方便の願」である。
(中略)
 では釈迦の善巧方便とは、何だろう。
『観無量寿経』と『阿弥陀経』の釈迦の教説である。
 弥陀の十九願の御心を釈迦は『観無量寿経』にどう解説されたか、すでに述べてきた。
 二十願の弥陀の御心は『阿弥陀経』に釈迦が解説されている。
『観無量寿経』も『阿弥陀経』も、弥陀の真実・十八願へ導く、釈迦の善巧方便に他ならない。

実は、これを書くための元があります。これまで何回も紹介してきた教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)』の補註です。

 方便とは、仏が衆生を救済するときに用いられるたくみな方法をいう。その中に真実と権仮とがある。真実の方便とは、仏の本意にかなって用いられる教化の方法で、随自意の法門をいう。それは、大智を全うじた大悲が巧みな方法便宜をもって衆生を済度されるというので、善巧方便ともいう。阿弥陀仏を方便法身というときの方便がそれである。
 権仮方便とは、未熟な機は直ちに仏の随自意真実の法門を受けとれないから、その機に応じて、仮に暫く誘引のために用いられる程度の低い教えをいう。機が熟すれば真実の法門に入らしめて、権仮の法門は還って廃せられる。このように暫く用いるが、後には還って廃するような随他意の法門を権仮方便という。「方便化身土」といわれるときの方便がそれである。
 親鸞聖人は四十八願の中で、往生の因を誓われた第十八願、第十九願、第二十願のうち第十八願のみが真実願であり、第十九願、第二十願は方便願であるとされた。第十八願は、他力回向の行信によって、真実報土の果を得しめられる真実願であり、第十九願は、自力諸行によって往生を願うものを、臨終に来迎して方便化土に往生せしめることを誓われたものであり、第二十願は、自力念仏によって往生を願うものを、方便化土に往生せしめることを誓われた方便願であるといわれるのである。そしてこの三願は、聖道門の機を浄土門に誘うために第十九願が、自力諸行の機を念仏の法門に導き、さらにその自力心を捨てしめて第十八願の他力念仏往生の法門に引き入れるために第二十願が誓われたとされている。

如何でしょうか。

随自意」「随他意」「真実願」「方便願」、ここまで真似しながら肝心な「善巧方便」の意味を故意に曲げています。「権仮方便」は隠しています。

三つの願の関係を正しくまとめると

18願=「随自意の願」=「真実願」=「善巧方便」
19願・20願=「随他意の願」=「方便願」=「権仮方便」

です。
19願は権仮方便です。

根拠は、『教行信証』化土巻

これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。

今回の邪義は、高森会長の無知が理由ではありません。高森会長の悪意そのものです。

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2016年1月23日 (土)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義37

自慢できるものは体験談しかない、と華光会を批判している親鸞会ですが、親鸞会こそ、体験談しか自慢できるものがないです。高森顕徹会長の摩訶不思議な体験をもって、高森会長が唯一無二の善知識の証と吹聴しており、更には親鸞聖人が御自身の体験として仰った三願転入の文を、親鸞聖人の教えの根基といっている矛盾に気が付かない現会員も、酷い思考状態です。

『なぜ生きる2』16章に、三願転入の文の意訳を載せた後、
 この三願転入のご文は、個人の告白でありながら、阿弥陀仏の誓願で表現なされている。
 十方衆生(すべての人)相手の弥陀の救いの過程は、万人に通ずる金言でなければならないからであろう。
 百人百様の言い分では、弊害はあっても、三世十方を貫く普遍の教えとはならず、書き遺す主意を失うからと推測される。
 そして、こう表白されている。
 |親鸞、大悲の願船(十八願)に乗じて明らかに知らされたのは、これまで
 |阿弥陀仏の種々のご方便(十九願・二十願)があったことである。
 この三願転入のご文から、阿弥陀仏の善巧方便とは、弥陀の十九・二十の二願であることが明瞭となる。
と実に愚かなことを書いています。
他の体験文は万人に通じていないが、三願転入の文だけは万人に通じているとする理由が判りません。親鸞聖人が、三願転入の文だけは万人共通の体験だ、と仰っているなら別ですが、そのようなお言葉は全くありません。

親鸞聖人は七高僧の体験についても仰っているところがあります。
龍樹菩薩については『正信偈』で、

大乗無上の法を宣説し、歓喜地を証して安楽に生ぜん

とあるのは、会員でも知っているでしょう。
また『教行信証』真仏土巻に『讃阿弥陀仏偈』を引かれて

尊語を伏承して歓喜地にして、阿弥陀に帰して安楽に生ぜしむ。

(現代語訳)

釈尊のお言葉を承り、歓喜地の位にあって、阿弥陀仏に帰依して浄土に往生された。

と仰っています。
龍樹菩薩は、聖道門で歓喜地を証されて後に阿弥陀仏に帰依された体験をなされている、と親鸞聖人が仰っています。『高僧和讃』にも同様のことを仰っていますから、親鸞聖人は龍樹菩薩の体験を殊更強調されています。一箇所しか書かれていない三願転入の文よりも重要だと親鸞聖人は見做されているのは明らかです。

曇鸞大師についてはやはり『正信偈』に

三蔵流支、浄教を授けしかば、仙経を焚焼して楽邦に帰したまひき。

とありますし、『高僧和讃』にも、

本師曇鸞和尚は
 菩提流支のをしへにて
 仙経ながくやきすてて
 浄土にふかく帰せしめき

と仰っています。
曇鸞大師は道教から浄土教に入られた、と親鸞聖人が曇鸞大師の体験を繰り返し仰っていますので、これも一箇所にしか書かれていない三願転入の文よりも重要な位置にあるのは、言うまでもありません。
龍樹菩薩と曇鸞大師の体験については、親鸞聖人が一字一涙の思いで書かれたと高森会長が説明している『正信偈』にあるくらいですから、当然な結論です。

それと、親鸞聖人が善巧方便と仰った信巻には、阿闍世の獲信の体験談が長々と紹介されています。

親鸞聖人御自身の一箇所の体験文の方が、龍樹菩薩や曇鸞大師の複数箇所の体験文、信巻に長々と紹介された阿闍世の体験よりも格上だ

と訳の判らない屁理屈を言ってきそうですが、それならば、その最も重要な親鸞聖人の三願転入の体験文を覚如上人、蓮如上人が紹介されていないのはなぜでしょうか。

答えは、重要ではないし、知る必要がないからです。

高森会長の詭弁を論破することなど、赤子の手を捻るくらい容易いことです。

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2016年1月16日 (土)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義36

本願寺の報恩講で親鸞会批判の話が長々とあったことが、退会者の間で話題になっています。今まで無視され続けてきた本願寺に、相手にされてもらって、高森顕徹会長も本望だと思います。
尤も、本願寺は親鸞会を浄土真宗だとは見做していませんので、直接相手にすることは今後もないでしょう。

さて、6年近く前のmixiでの三願転入の法論で、最初から最後まで一貫して、高森会長に質問し続けてきたことの1つが、

19願を勧められた親鸞聖人のお言葉

でした。
そしてこれは最後の最後まで、全く答える気配もありませんでした。ないのですから答えることができないのは、当然なことです。19願の勧めがなければ、三願転入は始まりません。
そこで『なぜ生きる2』では必死になって無い知恵を絞って、お笑い詭弁を考え出したのですが、そのお笑い根拠が15章にあります。

『正像末和讃』の

如来の諸智を疑惑して
 信ぜずながらなをもまた
 罪福ふかく信ぜしめ
 善本修習すぐれたり

を出してきて、この解説を

”十八願・真実は信じられてはいないが[如来の諸智を疑惑して]、十九の願を深く信じて[罪福ふかく信ぜしめ]弥陀に向かって善に努めている。
 そして、二十願の南無阿弥陀仏の名号[善本]を称える[修習]身にまで進んだのは、なんと素晴らしいことであろうか”と声価されている。
 その上で、二十願は目的を果たさせる「果遂の誓」だから、行くてに待つ大悲の願船(十八願)まで進めよ、と激励されている『和讃』である。
 聖人の教えが、まさに三願転入である明証でもあろう。

としました。

ここは本願寺の僧侶からも、鼻で笑われています。高森会長はここまで愚か者だったのかと。

こんな愚かな会長を信じている会員は実に哀れですが、稀代の悪知識を無二の善知識と信じている現会員のために本願寺の一般の僧侶でさえ知っている正しい意味を教えてあげましょう。

これは親鸞聖人が20願成就文と仰った『大無量寿経』の一節を言い換えられたものです。

『三経往生文類』

願(第二十願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「(中略)仏、慈氏に告げたまはく、〈もし衆生あつて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修し、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じて善本を修習して、その国に生れんと願ぜん。

とありますが、御和讃と比較してみると判りやすいです。

{和讃}如来の諸智を疑惑して ――{成就文}この諸智において疑惑して
{和讃}信ぜずながらなをもまた ――{成就文}信ぜず。しかるになほ
{和讃}罪福ふかく信ぜしめ ――{成就文}罪福を信じて
{和讃}善本修習すぐれたり ――{成就文}善本を修習して、その国に生れんと願ぜん

見事に対応しています。
実はこの御和讃は次の御和讃もむくめて、20願成就文を顕わされています。
『正像末和讃』

仏智を疑惑するゆゑに
 胎生のものは智慧もなし
 胎宮にかならずうまるるを
 牢獄にいるとたとへたり

『三経往生文類』20願成就文後半

このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳ならん。つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞・聖衆を見ず、このゆゑにかの国土、これを胎生といふ。{乃至}弥勒まさに知るべし。かの化生のものは智慧勝れたるがゆゑに。その胎生のものはみな智慧なし〉

これでお判りと思いますが、20願成就文を言い換えられただけで19願とは無関係の御和讃であり、20願を勧められたのでもありません。その逆で、20願では化土往生にしかならないから、20願を願うことすら誡められているのです。

これはmixiでの三願転入の法論の直前に、当ブログ上で某講師部員となされた法論の内容です。
詳しくは

親鸞会法論惨敗の記録4~飛雲より

にありますので、併せてご覧ください。

19願を勧められた歴代の善知識は皆無です。
19願を実践せよと必死に説いて勧める高森会長は、どこをどうフォローしても真宗史上最悪の悪知識として、名を残すでしょう。

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2016年1月 8日 (金)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義35

親鸞会を非難すると、以前は必死になって親鸞会の正当性を主張してきました。ところが今では、親鸞会を非難すると、非難したことに抗議してきます。つまり、自分たちが正しいことをしているという自信がなく、他人を非難することは悪いことだと喚き散らすだけです。親鸞会は落ちるところまで落ちたという感じです。

それはそのまま、親鸞会のトップである高森顕徹会長の自信のなさを反映したものです。

2年前には高森会長の自信作であった『なぜ生きる2』ですが、15章にはこんなことも書いています。

 本気で善に向かうと、ぞくりとするような横顔が見えて自己嫌悪感を懐かせる。ゆるがず真面目に自己と対峙しないと、知り得ぬ心の相であろう。

 以下は、その文証である。
悪業をば恐れながら、すなわち起こし、善根をばあらませども、得ること能わざる凡夫なり」        (『口伝鈔』上・四)

「悪業を恐れる心」が、どうして起きるのか。「善根をあらます心」が、どうして現れ、「得ること能わざる凡夫(人間)」と知らされるのだろう。
 すべては弥陀の修諸功徳の願力(十九願)であり、たゆまぬ釈迦の廃悪修善の教導からである。
 弥陀の十九願の光明が「善根をあらませども得ること能わざる」人間の実態を照らしだされるのだ。

ここまで根拠もない話を創作するには、書いた当時は自信に満ち溢れていたのかもしれません。しかし、完全な妄想です。

実際に『口伝鈔』の前後を見れば、一目瞭然です。少し長いですが、覚如上人が親鸞聖人のお言葉として書かれた部分です。

上人[親鸞]仰せにのたまはく、
「某はまつたく善もほしからず、また悪もおそれなし。
善のほしからざるゆゑは、弥陀の本願を信受するにまされる善なきがゆゑに。悪のおそれなきといふは、弥陀の本願をさまたぐる悪なきがゆゑに。
しかるに世の人みなおもへらく、善根を具足せずんば、たとひ念仏すといふとも往生すべからずと。またたとひ念仏すといふとも、悪業深重ならば往生すべからずと。
このおもひ、ともにはなはだしかるべからず。
もし悪業をこころにまかせてとどめ、善根をおもひのままにそなへて生死を出離し浄土に往生すべくは、あながちに本願を信知せずともなにの不足かあらん。
そのこといづれもこころにまかせざるによりて、悪業をばおそれながらすなはちおこし、善根をばあらませどもうることあたはざる凡夫なり。
かかるあさましき三毒具足の悪機として、われと出離にみちたえたる機を摂取したまはんための五劫思惟の本願なるがゆゑに、ただ仰ぎて仏智を信受するにしかず。
しかるに善機の念仏するをば決定往生とおもひ、悪人の念仏するをば往生不定と疑ふ。
本願の規模ここに失し、自身の悪機たることをしらざるになる。
おほよそ凡夫引接の無縁の慈悲をもつて修因感果したまへる別願所成の報仏報土へ五乗ひとしく入ることは、諸仏いまだおこさざる超世不思議の願なれば、たとひ読誦大乗・解第一義の善機たりといふとも、おのれが生得の善ばかりをもつてその土に往生することかなふべからず。
また悪業はもとよりもろもろの仏法にすてらるるところなれば、悪機また悪をつのりとしてその土へのぞむべきにあらず。

 しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや。
さればこそ、悪もおそろしからずともいひ善もほしからずとはいへ」。

(石田瑞磨著『親鸞全集』の現代語訳)

聖人が仰せられたことには、
「わたしは決して、善を行ないたいとも思わないし、また悪を犯すことも恐れはしない。
善を行いたいとも思わないわけは、阿弥陀仏の本願を頂いて信ずる以上に勝れている善はないからであり、悪を恐れないというのは、阿弥陀仏の本願のはたらきをさまたげる悪は無いからである。
ところが世間のひとはつねに「善のたねをたくわえなければ、たとい念仏を称えるとしても、浄土に生れることはできない」と思い、また「たとい念仏を称えるとしても、罪悪が重ければ、浄土に生れることはできない」と思っている。
しかし、この考えは二つともはなはだしく間違っている。
もし、心のままに悪事をとどめ、思いどおりに善のたねをそなえて、この生死をくりかえす迷いから逃れ出て、浄土に生れることができるときは、強いて阿弥陀仏の本願を信じ、納得しなくても、なんの不足があろうか。
しかしこれがいずれも意のままにならないために、罪を恐れながらも、恐れる心のはしからこれを犯し、善のたねをたくわえたいと願っても、そうすることができない愚かなものなのである。
こうした、貪りと怒りと心の暗い愚かさとにまみれ、罪悪を犯す素質だけしかもたない、自分の力では迷いから逃れ出る途の絶えた素質のひとを救い取るために、五劫という永いあいだ、熟思に熟思を重ねた末、たてられた本願であるから、ただ仰いで、この阿弥陀仏の智恵を信ずるよりほかにはない。
ところが、善を行える素質をもったものが念仏を称えるのを見ると、かならず浄土に生れることができると思い、悪人が念仏するのを見ると、生れるとはかぎらないと疑うから、
ここに本願の面目は失われ、また自分が悪しか行えないことが素質のものであることを知らないで終わるのである。
おおよそ、愚かなものを救おうとする絶対平等の慈悲をもって、修行の結果、その目的のとおりに、成就することができた真実の仏の浄土に、どんな教えを奉ずるものもすべて等しく導きいれようという阿弥陀仏の誓いは、阿弥陀仏以外の諸仏のいまだかつておこしたことのない、どのような世界にもなかった、思惟を超えた誓いであるから、たといつねに大乗の経典を読み、勝れた教えを理解することができる素質のよいひとであっても、生れつきそなわっている善だけで、その浄土に生れることは許されない。
また悪い行為は、もともと仏の教えからは捨てられるものであるから、罪悪を犯す素質だけしかもたないものが悪をますます重ねることによって、その浄土に行くというものでもない。

こうしたわけだから、生れつき素質としてそなえている善・悪のいずれも、真実の浄土に生れるための好条件にも悪条件にもならないということは、もちろんである。
したがって、この善・悪の素質をそなえたままで、与えられたところの阿弥陀仏の智恵をますますはげしくたのむよりほかに、愚かなものにどうして浄土に生れるための好条件があるだろうか。あるはずがないのである。
だからこそ、「悪を犯すことも恐れはしない」ともいい、「善を行いたいとも思わない」ともいったのである。」

如何でしょうか。
親鸞会の考えはまさしく

善根を具足せずんば、たとひ念仏すといふとも往生すべからずと。またたとひ念仏すといふとも、悪業深重ならば往生すべからずと。

これです。善が間に合わないと教えてはいますが、善をせずしては救われない、19願を実践せずしては救われないというその心は、これです。それを親鸞聖人は完全に否定されています。

このおもひ、ともにはなはだしかるべからず。

親鸞聖人が完全否定された理由が

悪業をばおそれながらすなはちおこし、善根をばあらませどもうることあたはざる凡夫なり。

です。
善に向かうことを否定されているのに、善に向かったらこれが判るとかという話ではありません。もし、高森会長の言う自己嫌悪感を懐かないと救われないのであれば、「読誦大乗・解第一義の善機」は、救われません。というより、高森理論では「読誦大乗・解第一義の善機」が存在することはあり得ない話になっていますが、親鸞聖人は、その存在を認めておられます。
善に向かおうともしない、廃悪修善をする気の起こらない者でも、何の障りもなく、平等にそのまま救うために、阿弥陀仏が五劫の思惟をされて、善悪関係なく救う本願を建てられたのです。

しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。

善をしたとかしないとか、往生には何の関係もないのです。

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2015年12月30日 (水)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義34

『なぜ生きる2』が出版されてから2年が経ちますが、非会員に対して売る気がありません。読んでほしくない、というよりも、本の存在を知ってほしくない、というのが高森顕徹会長の本音でしょう。教義的に、親鸞会は完全に終わっています。

そんな状況を誤魔化そうと、またアニメを作っています。アニメはもう作らないと言っていたのに、お得意の方針転換です。アニメなら、教義的な批判を受けることが少ないので、幸福の科学の真似をして、映画館で放映しようと目論んでいます。高森会長の思考は相変わらずのパクリのみです。

さて、どんなに方針転換を繰り返しても、絶対に変えないのが善の勧めです。『なぜ生きる2』14章にはここまで愚かなことを言っています。

「雑行を捨てよ」を「諸善は捨て物、必要ない」と曲解するのは、十九の願の門戸も知らず、弥陀・釈迦の「方便の善」もご存じない印象は覆いようもない。

浄土真宗の門戸もしらず、弥陀・釈迦の善巧方便もご存じない印象は覆いようもないです。
少しでも教義の勉強をしていたら口が裂けても言えない内容です。

法然上人は『選択本願念仏集』で次のように仰っています。

いはく諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。

とか、あるいは

また念仏はこれ本願の行なり。諸行はこれ本願にあらず。

です。「諸善は捨て物、必要ない」と法然上人が仰っているのもご存じない印象は覆いようもないです。
親鸞聖人は『教行信証』行巻で念仏と諸善とを比較し、相対して論じられた中に

順逆対念仏は本願に順じているが、諸善は本願に背いている
選不選対念仏は如来が選び取られた法であり、諸善は選び捨てられた法である
有願無願対念仏は本願の行であり、諸善は本願の行ではない

があります。18願の行は念仏のみであり、諸善は18願の行ではない、つまり18願に背いた行であるということです。18願に背いた行であるから、捨てなければならないのは、言うまでもありません。

高森会長が雑行を説明する時に、よく言っていたのが、

五雑行は物柄が悪いから行自体を捨てなければならないが、諸善万行は物柄は良いが心がけが悪いから、その心がけを捨てなければならない

ですが、ここが根本的におかしいところです。高森会長の言葉を使うなら、

雑行は物柄が悪いから行自体を捨てなければならないが、自力念仏は物柄は良いが心がけが悪いから、その心がけを捨てなければならない

となります。行自体を捨てるのは雑行です。もちろん、五雑行を自分で捨てることができるのですから、諸善万行も自分で捨てることができるに決まっているではないですか。なぜなら、行なのですから、しなければいいだけのことです。簡単なことです。

そう言うと、

ではやりたい放題してもいいということか

と愚かな反論をしてくるのが親鸞会ですが、往生と無関係にする倫理道徳の善は大いに励むべきでしょう。往生と無関係なのですから、雑行ではありません。

高森会長も『なぜ生きる2』で言っていますよ。

「雑行」とは「弥陀の救いを求めて行う諸善(もろもろの善)」をいう。

では、弥陀の救いを求めて19願を実践したり、布施行をするのを止めて、弥陀の救いとは無関係に親孝行などをすればいいのです。

要するに、

「雑行を捨てよ」とは「親鸞会で勧める善を捨てよ」であって、「倫理道徳の善をするな」ではない。

こういうことです。

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2015年12月23日 (水)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義33

ここ数年封印していた「一切衆生必堕無間」ですが、また復活させたそうです。高森顕徹会長の深いみ心は、

会員に恐怖心を与えないと、金集め人集めに必死にならないから

でしょう。カルト共通の単純明快な理屈です。

脅しもさることながら、雑行の定義さえも高森会長は正しく理解していません。
『なぜ生きる2』14章の

「雑行を捨てよ」とは、この悪い「自力の心」を捨てよということである。
 七高僧方が捨てよと言われるのも、「諸善」や「万行」のことではなく「自力の心」のことなのだ。

でも判ります。
結論を先に言えば、

「雑行を捨てよ」=「諸善を捨てよ」=「万行を捨てよ」

です。
善導大師が雑行の定義をされて、親鸞聖人も『教行信証』化土巻に引かれています。

雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。

正行以外の諸善を雑行というのが定義です。

更に親鸞聖人は『教行信証』化土巻の雑行釈に

おほよそ浄土の一切諸行において、綽和尚は「万行」といひ、導和尚は「雑行」と称す。感禅師は「諸行」といへり。信和尚は感師により、空聖人は導和尚によりたまふ。
経家によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。

(現代語訳)

浄土門で説かれるすべての自力の行について、道綽禅師は『安楽集』に「万行」といわれ、善導大師は『観経疏』に「雑行」(散善義)といわれている。懐感禅師は『群疑論』に「諸行」といっている。源信和尚は懐感師により、源空上人は善導大師によっておられる。釈尊の経説にもとづき、祖師方の解釈を見てみると、雑行の中には、雑行雑心、雑行専心、専行雑心があり、また正行の中には、専修専心、専修雑心、雑修雑心がある。これらはみな自力の行であって、辺地・疑城胎宮・懈慢界といわれる方便の浄土に生れる因なのである。

と教えられています。
まとめると

「万行」=「雑行」=「諸行」=「諸善(正行を除く)」

ですが、それも知らないのです。

要するに

七高僧方が捨てよと言われるのも、「諸善」や「万行」のことである。

まるっきり反対なことを、言っていたのです。

高森会長は余りにも無知でありながら、ここまで愚かなことを堂々と書いていることは、尊敬に値するかもしれません。

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