『なぜ生きる2』

2020年8月30日 (日)

三願転入に対する親鸞会の妄想6

最近の親鸞会は、困ったときの因果の道理だのみで、善の勧めの根拠を出せと迫られると、

仏教の根幹は因果の道理だ

ときます。バカも休み休み言え、と言いたいですが、そもそも親鸞会では因果の道理を本気で信じているのかといえば、ノーです。
理由は簡単で、浄土門で教える最善最高最上の善因は、念仏であるのに、念仏よりも親鸞会の活動が絶対と考えているからです。

一応根拠を紹介しておきます。『教行信証』化土巻に

元照律師の『弥陀経の義疏』にいはく、「如来、持名の功勝れたることを明かさんと欲す。まづ余善を貶して少善根とす。いはゆる布施・持戒・立寺・造像・礼誦・座禅・懺念・苦行、一切福業、もし正信なければ、回向願求するにみな少善とす。往生の因にあらず。もしこの経によりて名号を執持せば、決定して往生せん。すなはち知んぬ、称名はこれ多善根・多福徳なりと。むかしこの解をなしし、人なほ遅疑しき。近く襄陽の石碑の経の本文を得て、理冥符せり。はじめて深信を懐く。かれにいはく、〈善男子・善女人、阿弥陀仏を説くを聞きて、一心にして乱れず、名号を専称せよ。称名をもつてのゆゑに、諸罪消滅す。すなはちこれ多功徳・多善根・多福徳因縁なり〉」と。

(現代語訳)

元照律師の『阿弥陀経義疏』にいっている。
「釈尊は、念仏の功徳がすぐれていることを明らかにしようとされ、まず念仏以外の善を劣ったものとしてわずかな功徳しかないといわれる。布施をし、戒律をたもち、あるいは寺を建て、仏像をつくり、仏を礼拝し、経を読み、または座禅をし、懺悔し、苦行するなどのすべての善は、もし正しい信がなかったなら、そのような善によって浄土に往生しようと願っても、みなわずかな功徳しかなく、往生の因ではないのである。もし、『阿弥陀経』の教えにしたがって念仏するなら、間違いなく往生するであろう。だから念仏は多くの功徳があると知ることができる。
かつて、わたしはこのような解釈をしたが、世間の人はなお疑って信じなかった。しかし最近、襄陽の石碑に刻まれた『阿弥陀経』の文を見たところ、わたしの解釈と見事に一致しており、そこではじめて深く信じるようになったのである。その文には次のように説かれている。<善良なものよ、阿弥陀仏について説かれるのを聞いて、心を乱すことなくただひとすじに名号を称えるがよい。名号を称えることにより、あらゆる罪が除かれる。すなわち念仏は多くの功徳をそなえて行である>」

とあります。難しい内容ではないので、読まれた通りですが、念仏は「多功徳・多善根・多福徳因縁」ですが、諸善はその反対で「少功徳・少善根・少福徳因縁」です。
ここで言う念仏は自力の念仏です。

鈍い会員のために譬えで解説します。

1日働いて100円の炎天下での重労働
1日働いて100万円の誰でもできるエアコンの利いた部屋での軽作業

どちらを選択するのか、という話です。
こんな極端なことは世の中にない、と思っている人がいたら、井の中の蛙でしょう。こんなことは世界中で実際によくあります。実例は自分で調べてみてください。

より良い果を求めるなら、より良い因を求めるのが、因果の道理を信じている人の行動でしょう。そして、自力の念仏は諸善とは桁違いの功徳があるのですから、親鸞会の非効率で無意味な活動をしている暇があるのなら、念仏を称えた方が、余程、良い結果を得られるでしょう。それなのに、発展途上国最貧困層の労働環境並みの親鸞会の活動をしている会員は、因果の道理を信じていないか、あるいは今の労働環境が世界最高だと騙されているののどちらかでしょう。

因果の道理を信じている、より良い結果を求めている、更には無常迅速と思っているのであれば、親鸞会の最悪最低最下の活動をすることはあり得ません。

もう一度言います。

自力の念仏は、多功徳・多善根・多福徳因縁
諸善は、少功徳・少善根・少福徳因縁

高森流宿善論が正しいとして、何が最も宿善を厚くすることになるか考えてみましょう。

再度、高森顕徹会長の『なぜ生きる2』11章にある

 無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。

を読んでみてください。
これが、真宗の教えであるかどうか、20願を通ったことのある人物の言葉であるのかどうか、僅かに思考が残っていれば、答えは明々白々です。

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2020年8月22日 (土)

三願転入に対する親鸞会の妄想5

10年前のmixiでの最大の論点は、

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉があるなら出して

でした。
答えは、無い、ですので、最初から決着していましたが、ごちゃごちゃ誤魔化し続けていただけで、それは『なぜ生きる2』でも変わりませんでした。
6章にこうあります。

 もし三願転入の弥陀の救いが、親鸞聖人や一部の人に限定されることならば、十九願の人々に、折れず曲がらず速やかに二十願に進めよの、聖人の励ましは『教行信証』になかったであろう。
 それが幾たびも見かけるのだ。

 総ての人々よ。十九の願から二十願に進んでおくれ。必ず十八願・選択の願海へ転入させて頂けるのだから。

 以下は、その文証である。

  それ濁世の道俗(すべての人)、速に円修至徳の真門(二十願)に入りて、難思往生を願うべし」(『教行信証』化身土巻・末)

 特定の人を「濁世の道俗」とは言われない。三願転入は、すべての人の道程だから「濁世の道俗」と言われているのである。

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉はありませんので、参考までに親鸞聖人が20願を勧められたお言葉をmixiで教えてあげたのですが、それを『なぜ生きる2』では19願を勧められたお言葉であるかのように偽装したのです。

偽装しようが詭弁を使おうがまとめるとこうなります。

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉はない。
親鸞聖人が20願を勧められたお言葉はある。

この事実を普通に判断するなら、親鸞聖人が三願転入の道程を全人類に当て嵌められていないことと、20願から18願への転入という親鸞会的言い方をするなら二願転入を積極的か消極的かは別として認められていたことが判ります。

言葉を代えてまとめると、

親鸞聖人は三願転入を否定的に看做されていた。
親鸞聖人は二願転入を肯定的に看做されていた。

こうとしか言えないのです。
一応言っておきますが、親鸞聖人は上記のように20願を一応は勧められていますが、三願転入の直前に仰った20願の結論として

悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。

(現代語訳)

悲しいことに、煩悩にまみれた愚かな凡夫は、はかり知れない昔から、迷いの世界を離れることがない。果てしなく迷いの世界を生れ変り死に変りし続けていることを考えると、限りなく長い時を経ても、本願力に身をまかせ、信心の大海にはいることはできないのである。まことに悲しむべきことであり、深く嘆くべきことである。大乗や小乗の聖者たちも、またすべての善人も、本願の名号を自分の功徳として称えるから、他力の信心を得ることができず、仏の智慧のはたらきを知ることがない。すなわち阿弥陀仏が浄土に往生する因を設けられたことを知ることができないので、真実報土に往生することがないのである。

と仰っているので、親鸞聖人が積極的に20願を勧められているとは言えません。

つまりは20願の勧めは微妙でありますが、19願の勧めは明確に否定されているのです。

この単純な理屈をmixiで知らされた高森顕徹会長が、mixiで絶句した悔しさを『なせ生きる2』でぶつけたという訳です。

益々評価を下げた高森会長でした。

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2020年8月15日 (土)

三願転入に対する親鸞会の妄想4

前回、『教行信証』行巻に二か所も取り上げられている釈尊の浄飯王に対する御説法について述べました。
ここだけ見ても、親鸞聖人が三願転入という道程を否定されていることが普通の知能を持っていれば理解できることです。
釈尊は、レベルの高い善ができると自惚れていた浄飯王に対して、その善はもちろんですが、もっとレベルを下げた善さえも勧められずに、いきなり念仏を勧められています。そのことを親鸞聖人は『安楽集』と『五会法事讃』の2つの根拠を出されているのですから、往生のためにいきなり念仏を勧めることが、親鸞聖人の教えであり、『教行信証』の内容だと言えます。

このように言うと、

親鸞聖人は信心1つで往生できることを教えられた
親鸞聖人は聞く1つで助かることを教えられた

このように反論する人が、親鸞会も含めて他にもあると思います。
これまで何度も言っていますが、ここで親鸞聖人が仰っていることは、すべて同じ意味なのです。信心、聞くことを勧めるのは正しいが、念仏を勧めるのは間違いだ、という発想が根拠のない考えなのです。

高森顕徹会長の『なぜ生きる2』11章にある

 無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。

がその典型でしょう。釈尊の浄飯王に対する御説法、そしてそれを二度も紹介された親鸞聖人のことを「平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である」と痛烈に非難しているのです。

一応説明しておきますが、行巻にある念仏とは他力の念仏のことです。

つまりは、最初から他力の念仏を勧めるのが親鸞聖人の教え、言い換えると18願だけを勧めるのが親鸞聖人の教えだと言うことになるのです。

ただし、皆さんが懸念されるように最初から他力念仏を称えることは、極めて稀ですので、結果的には他力念仏を勧められながら自力念仏になってしまうだけです。ここで捻くれた考え方をすると、他力念仏になるまで自力念仏は称えなくてよい、となるのですが、それは他力念仏を称えるつもりでも自力念仏になっていることはありますが、他力念仏になったことを確認するまで念仏を称えなければ、いつまで経っても他力念仏を称えることはありません。
昔、高森会長が言っていた聴聞に近いことで、この一座で信心を獲ると思って法話を聞くと、信心を獲た、ということがあるのですが、信心を獲るまでは自力の聴聞だから聞かない、と言っていたら法話を聞いて信心を獲ることがないのと同じです。

親鸞聖人は他力念仏を最初から勧められています、だから自力念仏の勧めのお言葉は探さないと見つからないほどしかありません。
それは、自力念仏に留まることを誡められたのであって、自力念仏自体を否定されたのではありません。

『浄土和讃』には

定散自力の称名は
 果遂のちかひに帰してこそ
 をしへざれども自然に
 真如の門に転入する

とありますように、自力念仏から他力念仏への転入を教えられています。言い換えると20願から18願への転入ですが、19願に関しては無視されているのです。

これをこれまで何度も言ってきたのですが、これに対する高森会長の会員向け反論が、

それでは三願転入ではなく二願転入ではないか

でした。その通りで、基本、親鸞聖人は二願転入を教えられていて、御自身も含めて三願転入という人も稀にある、くらいの話なのです。
したがいまして、三願転入という言葉を、親鸞聖人も覚如上人、蓮如上人も仰ったことがなく、後の学者が創作した言葉であり、三願転入という概念もそこから発生したことです。そんなことも知らずに三願転入を声高に叫ぶことが愚かです。

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2020年8月 6日 (木)

三願転入に対する親鸞会の妄想3

10年前のmixiでの法論で、退会者が最初から最後まで一貫して高森顕徹会長に問い続けたことは、

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉

でした。そして最初から最後まで高森会長は根拠を出しませんでした。いや、出せませんでした。無いからです。
法論で負けた悔しさから書いた『なぜ生きる2』でも、

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉

は当然出していません。書いていることは、高森流創作譬喩ばかりです。
一応言っておきますが、三願転入は全人類共通の道で必ず19願を通らなければならないのならば、親鸞聖人が19願を勧められているはずです。19願を通らずして20願そして18願に入ることができないのですから、まずは19願を実践しましょう、と親鸞聖人がどこかに仰っていなければ、高森流三願転入論は破綻するのです。

ですから、

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉

この問い一つで、高森会長の嘘が見抜けるのです。
ただし、一度だけこの問いに答えたことがありました。その答えは、

『教行信証』全体

でした。これは、親鸞聖人のお言葉はありません、と白状した返答です。『教行信証』のお言葉を1つも出していないので、子供の悔し紛れの返答レベルでしかないのです。

さて、親鸞会の諸君は、この事実をどう判断するのでしょうか。会員に尋ねてみたことがありますが、ある幹部は「19願を勧められたお言葉などあるわけない」と開き直って、それで三願転入論を語るのです。こんな破綻思考の幹部よりも高森会長の方が余程賢いでしょう、少なくとも高森会長はこちらの意図を理解できているのですから。

なお、『教行信証』全体に書かれてあることは、18願で救われるのに、三願転入する必要はない、ということです。
簡単な例で言えば、行巻にある釈尊が浄飯王に念仏三昧を勧められたところや、信巻にある阿闍世の物語です。この2つのエピソードは、親鸞聖人が『教行信証』の中で、かなり力を入れて書かれている箇所でもあります。釈尊が実在の人物に対してどのように導かれたかですので、七高僧の解釈や理論、親鸞聖人独自の解釈や理論ではない、仏の説法として親鸞聖人が紹介された阿弥陀仏の救いの真髄なのです。

この2つのエピソードに共通することは、釈尊が浄飯王と阿闍世に、善を勧められていないことです。浄飯王は、善をする気満々であったのに、釈尊は「できないから、念仏三昧を勧めるのだ」とあっさりした説明をされただけです。自惚れている人には一度、やらせてみてできないことを知らせてから、という回りくどい話は全くありません。

原文は以下

父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまふ。父の王、仏にまうさく、「仏地の果徳、真如実相、第一義空、なにによりてか弟子をしてこれを行ぜしめざる」と。仏、父の王に告げたまはく、「諸仏の果徳、無量深妙の境界、神通解脱まします。これ凡夫の所行の境界にあらざるがゆゑに、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる」と。

(現代語訳)

世尊は、父である浄飯王に念仏三昧を修めるようにお勧めになった。父の王は世尊に、「仏のさとりの徳は真如実相第一義空とのことでありますが、それを観ずる行を、どうして弟子であるわたしに教えてくださらないのですか」とお尋ねした。 世尊は父の王に、「仏がたのさとりの徳は、はかりがたい深い境地であり、仏は神通力や智慧をそなえておいでになります。これはとうてい凡夫が修めることのできる境地ではありません。そこで、父の王に念仏三昧を修めることをお勧めしたのです」と仰せになった。

如来つねに三昧海のなかにして、網綿の手を挙げたまひて、父の王にいうてのたまはく、「王いま座禅してただまさに念仏すべし。あに離念に同じて無念を求めんや。生を離れて無生を求めんや。相好を離れて法身を求めんや。文を離れて解脱を求めんや」と。

(現代語訳)

釈尊は父である浄飯王に、「王よ、今静かに座して念仏すべきであります。念を離れて無念を求め、生を離れて無生を求め、姿かたちを離れて法身を求め、言葉を離れて言葉の及ばない解脱を求めるというような難しいことが、凡夫にどうしてできましょうか」と仰せになる。

次に阿闍世ですが、阿闍世は信を獲た後にこう告白しています。

世尊、われ世間を見るに、伊蘭子より伊蘭樹を生ず。伊蘭より栴檀樹を生ずるをば見ず。われいまはじめて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る。伊蘭子はわが身これなり。栴檀樹はすなはちこれわが心、無根の信なり。無根とは、われはじめて如来を恭敬せんことを知らず、法僧を信ぜず、これを無根と名づく。

(現代語訳)

世尊、世間では、伊蘭の種からは悪臭を放つ伊蘭の樹が生えます。伊蘭の種から芳香を放つ栴檀の樹が生えるのを見たことはありません。わたしは今はじめて伊蘭の種から栴檀の樹が生えるのを見ました。伊蘭の種とはわたしのことであり、栴檀の樹とはわたしの心におこった無根の信であります。無根とは、わたしは今まで如来をあつく敬うこともなく、法宝や僧宝を信じたこともなかったので、これを無根というのであります。

善の勧めはありませんから、もちろん19願の勧めもありません。

『教行信証』全体を読んだことが無いどころか、『教行信証』の一部も読んだことが無いから、寝とぼけた三願転入論を口にできるのでしょう。

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2020年7月29日 (水)

三願転入に対する親鸞会の妄想2

とくよしみねさんからのコメントがありましたように、8月29日に愛知県刈谷市で勉強会を開催予定です。
詳細は
とくよしみねの「なぜ生きる」
で確認して、参加を希望される方は、とくよしみねさんにメールで連絡をしてください。

こういう時期で人数制限があり、当日突然参加ということは難しいと思われますので、事前に連絡をお願いします。

さて、高森顕徹会長は18願の「唯除五逆誹謗正法」を「十方衆生」の実機を顕わされた箇所として説明していますが、出鱈目です。結論を先に言いますと、親鸞聖人の教えを真面目に聞いている皆さんは、五逆でも謗法の者でもありません。
唯除五逆誹謗正法」の直接の解釈は『尊号真像銘文』にしかありません。

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

です。
つまり、18願には「唯除五逆誹謗正法」というお言葉があるから、18願の「十方衆生」から洩れたものはないと仰っているのです。逆にいえば、「唯除五逆誹謗正法」のない19願・20願の「十方衆生」には、洩れているものがいるということです。
要するに、「十方衆生」の中に五逆誹謗正法の者がいるという意味にしかなりません。
前回も述べましたが、19願の「十方衆生」は聖道門の行ができる人であり、聖道門の行のできない我々は19願の「十方衆生」には含まれていないのです。

では、「唯除五逆誹謗正法」が「十方衆生」の実機、機の深信だというのは、高森会長の創作かといえば違います。そんな高度な創作ができるほどの知恵は高森会長にはないでしょう。
もうお判りかと思いますが、大沼法竜師からのパクリです。
『本派本願寺の危機 どちらが異安心か』にはこのようにあります。

 本願寺の総長を始め勧学のお歴歴から頭の切り替えをやらなければ真宗の復興は望めない。君達は第十八願や成就の文を有難がって見て居るのであって十八願の身になる事を忘れて居るのだ、至心信楽の文に陶酔し、至心に廻向せしめ給えりに酩酊して麻痺状態となり、阿片やヒロポンに中毒されて萎靡沈滞して活動能力を失うて居るのだ、第十八願の文を見て自分は至心信楽己を忘れて乃至十念の称名を称えて居るから死にさえすれば往生に間違いはない、仏様が若し生れささずんば正覚を取らずと仰せられたのが、既に十劫の昔に正覚を成就して居らるるから十劫の昔に助かって居るのだと安心して居るが、君達は文面を見て裏面を読んで居ないのだ。唯除五逆誹謗正法とは誰の事かい、勧学だと威張って居る君達の事だぞ、除かれて居るとも知らずにのさばりかえって居るが、それだから開発の一念を知らないのだ、若不生者不取正覚とは生れさすとは死後の事しか知らないのだろう、心命終を忘れたか、君の逆謗の屍を今心命終ささなければ正覚を投げ出すぞと言うことだよ。成就の文にしても至心に廻向して貰ったか、不可称不可説不可思議の功徳は行者の身に満てりと有るが、三千世界の果報者は自分一人と言う満足が有るか、観念の遊戯だけして居るのだからそんなはっきりした事は有るまい、何を廻向されたか、上に向えば法体の大行、下に向えば当果決定、誰が頂くのだ、諸有衆生、その腹底は、唯除逆謗、おいおい君達、素直に聞いて居ればよいと言うような対岸の火事のような話ではないぞ、君が邪見驕慢の逆謗の屍ではないか、その機に久遠劫から付き纏い、至心に廻向し給いいて聞即信の一念に法体の大行を全領し同時に住不退転の当果を決定さして頂くのだが、文面を読んで眺めて通って居るのだから何とも有るまい、これが実地に諦得出来たのなら信前信後の水際鮮かに今こそ明らかに知られたりと大慶喜せずには居られないのだ、その初起の一念を信一念と名前を付けるのだ、時尅に何の関係が有るのだ、味に用事が有るのだ、本当に大満足の出来た人なら実時は判らないが仮時ならあの時であったと言えるのだ、君達にはあの時もこの時もないのだ、御経やお聖教を読んで通って見て感じただけだから自分の実機とは無関係だから観念の遊戯に過ぎないのだ、勧学で有りながら実地の体験がないのだから、晴れたのやら暮れたのやら、水際もなければ角目もない、……

当時の本願寺派勧学を批判した内容です。当然ながら、大沼師の味わいであり、聖教上に根拠のあることではありません。

高森会長は、大沼師の独特の味わいと聖教の内容との区別が全くついていません。なぜなら、聖教を読んだことがないからです。

「十方衆生」=全人類

というちょっとおっちょこちょいな解釈をしているのも、すべて、聖教を読んでいないことが原因です。

なお、私は聖教に書かれてあることをそのまま述べているに過ぎませんので、私の言っていることが間違いだと反論するのであれば、それは聖教が間違っているか、もしくは聖教の解釈が間違っていることを証明してください。

味わいと聖教上の根拠とは違いますので、その程度の分別はもってもらいたいものです。

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2020年7月26日 (日)

三願転入に対する親鸞会の妄想1

10年前にmixi上での三願転入の法論が行われました。結果は、高森顕徹会長の大惨敗で、逃亡の後、トピックスを管理人に削除させるという、親鸞会史上最悪の結末でした。
これを見た親鸞会会員は、親鸞会を辞めて、高森会長の評価は地に堕ちました。この屈辱を晴らすべく書いたのが『なぜ生きる2』でした。その内容は、mixiでの法論そのままで、成長も進歩もなく、当然ながら、退会者から集中砲火を浴びた上、それまで親鸞会のことを知らなかった真宗10派の関係者に、高森会長と親鸞会の無知と出鱈目創作教義が広く知らされる結果となりました。現在、『なぜ生きる2』は、親鸞会内部でも話題にされることがなくなっています。

昨日、三願転入についてコメントしてきた会員らしき人がありましたので、少し解説しておきます。

『なぜ生きる2』10章に

 弥陀は十九願を建てて善を勧め、釈迦が一代、廃悪修善を説かれたのは、知った分かったの観念の遊戯ではなく、実地にやらせるためであったと、聖人は仰せになっている。

以下は、その文証である。

然るに濁世の群萌・穢悪の含識、乃し九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入ると雖も、真なる者は甚だ以て難く、実なる者は甚だ以て希なり、偽なる者は甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋し。
ここを以て、釈迦牟尼仏、福徳蔵(十九願)を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願を発して普く諸有海を化したまう。既にして悲願有す、「修諸功徳の願」と名づく
                              (『教行信証』化身土巻・本)

mixiでも最初に出してきた高森会長の完全な妄想です。

まず学問的な知識として。

半満」とは、半字教と満字教のことです。『涅槃経』に、子供に文字を教える時に、最初は半字を教えて、後で満字を教えるということから、釈尊もお弟子に半字教から満字教を教えていかれた、とあります。ここで、半字教は小乗教、満字教は大乗教という意味になります。
権実」とは、権教と実教のことです。満字教(大乗教)の中で、権仮方便の教えと真実の教えとがあるということです。
半満・権実」は、二双四重の教判でいえば、竪出・竪超のことです。
『教行信証』化土巻に

おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。

(現代語訳)

総じて釈尊が説かれた教えの中で、この世界で聖者となってさとりを得るのを聖道門といい、難行道という。この聖道門の中に、大乗と小乗、漸教と頓教、一乗と二乗と三乗、権教と実教、顕教と密教、竪出と竪超がある。これらはすべて自力の教えであり、衆生を真実に導くための、仮の手だてとして説かれた教えである。

あり、この「半満・権実」が「大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超」です。

『愚禿鈔』では

一には大乗の教、二には小乗の教なり。
大乗教について、二教あり。
 一には頓教、        二には漸教なり。

難行聖道の実教なり。いはゆる仏心・真言・法華・華厳等の教なり。

難行道 聖道権教、法相等、歴劫修行の教なり。

小乗教について、二教あり。
 一には縁覚教    一に麟喩独覚、二に部行独覚。
 二には声聞教なり。 初果・預流向、第二果・一来向、第三果・不還向、
           第四果・阿羅漢向、八輩なり。

にあたります。

権実」というと18願が実と思われるかもしれませんが、「難行聖道の実教」を指しています。従って、「半満・権実」で、聖道門のことを総称して仰っているのです。

聖道門の人が親鸞聖人のこの御文を読めば、聖道門の修行をしている人のことを指すというのが、常識としてあります。

その上で、親鸞聖人は、「真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。」と仰っているので、聖道門の中でこうだという話です。
この親鸞聖人の思想の根本にあるのが、

法然上人の『西方指南抄』(親鸞聖人御真筆)に

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也。

とあることです。法然上人が仰ったことは、「諸行之人」です。「無行之人」ではないです。

また親鸞聖人が間違いない人と尊敬されていた隆寛律師は

先師律師つねにのたまはく、隆寛こそ十九願の機よ。其故は、本と円宗の菩提心を発して、聖道の出離を期せしほどに、末法に生をうけたる身、涯分をしる故に、聖道の出離の叶ふまじきいはれを心得て、浄土門に入れるなり。

と言われていたと弟子の記した『広疑瑞決集』にあります。隆寛律師御自身の体験から、聖道門から浄土門に入ることができたのは、19願の権仮方便によるものと味わわれたのです。

更には、大経の異訳経に

『大無量寿経』19願の「十方衆生
=『平等覚経』18願の「諸佛國人民有作菩薩道者
=『大阿弥陀経』7願の「八方上下無央數佛國諸天人民若善男子善女人有作菩薩道
諸々の仏国土の菩薩の行を行う者

とあることから、こう仰ったわけです。

もちろん、「半満・権実の法門」に浄土門の人が含まれるというのは、妄想以外の何物でもないということです。

結局のところ、聖道門で出離して成仏を目指しながら、それができないことで聖道門を断念した人のために、19願が建てられ、定散二善が説かれたという内容にしかなりません。

学問的素養もなく、文法も無視したヘンテコ解釈が通用する訳もなく、mixiでは全く反論もできずに最初から高森会長は窮地に立たされたのです。

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2020年4月18日 (土)

「雑行を捨てよ」を「間違った行を捨てよ」と理解できない珍思考

「雑行」は「行」ではない自力の心だ!

という会員は少ないでしょうが、高森顕徹会長の言った通りに信じている会員はほとんどでしょう。
『なぜ生きる2』14章の

「雑行を捨てよ」とは、この悪い「自力の心」を捨てよということである。
 七高僧方が捨てよと言われるのも、「諸善」や「万行」のことではなく「自力の心」のことなのだ。

がその一つですが、これとて完璧に間違いです。添削すると

「雑行を捨てよ」とは、この間違った「行」を捨てよということである。
 七高僧方が捨てよと言われるのも、「諸善」や「万行」の「行」そのもののことなのだ。

です。
解説しておきます。
まず善導大師がされた雑行の定義は、『教行信証』化土巻に引かれています。

雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。

正行以外の諸善を雑行というのが定義です。

更に前回示した『教行信証』化土巻の雑行釈

おほよそ浄土の一切諸行において、綽和尚は「万行」といひ、導和尚は「雑行」と称す。感禅師は「諸行」といへり。信和尚は感師により、空聖人は導和尚によりたまふ。

(現代語訳)

浄土門で説かれるすべての自力の行について、道綽禅師は『安楽集』に「万行」といわれ、善導大師は『観経疏』に「雑行」(散善義)といわれている。懐感禅師は『群疑論』に「諸行」といっている。源信和尚は懐感師により、源空上人は善導大師によっておられる。

より

万行」=「雑行」=「諸行」=「諸善

ですが、善導大師のお言葉通りここでの「万行」「諸行」「諸善」には「正行」が含まれていませんので、念のため言っておきます。以前にこう但し書きをしたのに、理解できない会員がいたので、懇切丁寧に正確に書くと

雑行」=「万行(正行を除く)」=「諸行(正行を除く)」=「諸善(正行を除く)

です。

最終結論を簡潔に言うなら

親鸞聖人が捨てよと言われるのも、「諸善(正行を除く)」や「万行(正行を除く)」のことなのだ。

ですから、高森会長はまるっきり反対なことを、言っているのです。

鈍い会員のために言い方を変えて再度言うと、

「雑行を捨てよ」とは、「自力の心」以前に、「諸善(正行を除く)」という「行」を捨てよ、するなと、親鸞聖人は教えられている

こういうことですが、こういうと単純な思考の会員は、

では悪いことをすればいいのか!

と間抜けた返答を高森会長から吹き込まれて反論してきますが、前回紹介した法然上人の

善導和尚の意によらば、往生の行多しといへども大きに分ちて二となす。一には正行、二には雑行なり。

を読めないのかという話です。「往生の行」に、「悪行」に相当する言葉が入っているかどうか、中学生にでも教えてもらえば宜しいでしょう。

それとこれも前回の蓮如上人のお言葉通りで、信前も信後も「仁義」という倫理道徳の善には心がけなければなりませんが、往生のためには「雑行」「雑善」を捨てなさいです。この「仁義」と「雑行」の違いさえ親鸞会は知らないのです。

雑行」の具体的な内容も、会員どころか高森会長も当然理解していないでしょうから、次回はそのことについて述べます。

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2017年12月13日 (水)

学術論文である『教行信証』を体験記と見做す体験至上主義の高森顕徹会長

高森顕徹会長が、mixiでの法論で大惨敗を喫してより、当ブログで煽りまくった結果『なぜ生きる2』を出版したのが丁度4年前です。もちろん更なる失態を重ねて、今では、会の中で話題にさえしない駄作です。

『なぜ生きる2』は、三願転入についてがメインテーマで、
親鸞聖人の教えの根基は三願転入の教え
という、トンデモ邪義満載です。当時は三願転入を毎回話をしていた高森会長ですが、最近は根基である筈の三願転入の話を全くしません。間違いを認めざるを得なくなった高森会長の苦悩が手に取るように判ります。

さて、『なぜ生きる2』の前半には現生十種の益について書かれていますが、総益である入正定聚の益について、少し述べておきます。

親鸞会で有名な御文である『教行信証』信巻の

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

ですが、これを『なぜ生きる2』では

「真に知んぬ」とは、「あまりにも明らかに知らされた」聖人の驚嘆である。
「今は弥勒と肩を並べるけれども、死ねば先に仏のさとりを得るのだ」
「入正定聚の大益」を讃える、聖人の大慶喜である。

と書いています。この御文をもって、信心を獲たら絶対の幸福になると親鸞聖人が知らされたことを仰ったのだ、という寝惚けたことを高森会長は言っていますが、高森会長は『教行信証』が体験記だという認識しかないのでしょう。高森会長の愛読書である伊藤康善師の『仏敵』や大沼法竜師の著書の多くは、体験記や随筆に近いものですが、それと『教行信証』とは全く異なります。『教行信証』は学術論文です。
高森会長は、学問とは縁遠いでしょうから、学術論文の表現が体験にしか認識できないのも仕方のないことです。

学術論文には、多くの資料や引用文献があり、それらをまとめて私見を述べていくのです。親鸞聖人が「まことに知んぬ」と仰っているのは、体験から知らされた内容ではなく、経典や七高僧方や先哲の釈文から、理屈の上で知らされた内容なのです。

高森会長の嘘に騙されきっている会員には、信じがたいことでしょうが、親鸞聖人が断言されている内容の大半は、体験ではなく、理論的なことです。

この御文だけでもそれが証明できます。
まことに知んぬ」にかかっているのは「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」だけではありません。「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」にもかかっています。弥勒菩薩の成仏の時期を、親鸞聖人が体験で知らされたのなら、親鸞聖人は仏の智慧を得られたことになります。しかし、親鸞聖人はこの時に仏智を得られていないことは御自身も仰っているし、常識的に考えてもないことです。ではなぜ「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし」が「まことに知んぬ」であったのかと言えば、経典にそのように説かれているからです。
同じことで、「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」も経典や釈文を読み解くとこの結論になるだと明らかになったことを「まことに知んぬ」と仰っているのです。

それは七高僧方の仰っていることは異なります。信心を獲た人が死ぬと同時に仏になるとは、七高僧のどなたも仰っていません。もし「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」が知らされなかったなら、信心を獲ていないのだとするなら、七高僧方は異安心になります。

もう一つ言うと、親鸞聖人は御自身のことはたとえ体験で知らされたとしても、他人のことまで体験で知らされることはありません。「念仏の衆生は」であって「親鸞は」でないところが重要です。親鸞聖人以外の「念仏の衆生」も「横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」と体験で知らされることはあり得ません。
ついでに言うなら、『高僧和讃』で曇鸞大師について

六十有七ときいたり
 浄土の往生とげたまふ
 そのとき霊瑞不思議にて
 一切道俗帰敬しき

と仰り、法然上人についても

本師源空命終時
  建暦第二壬申歳
 初春下旬第五日
 浄土に還帰せしめけり

と断言されています。遭われたこともない曇鸞大師の往生や、臨終に立ち会われなかった法然上人の往生を親鸞聖人は体験で知らされたのかという話です。
あるいは御消息で

明法御房の往生のこと、おどろきまうすべきにはあらねども、かへすがへすうれしく候ふ。

またひらつかの入道殿の御往生のこときき候ふこそ、かへすがへす申すにかぎりなくおぼえ候へ。

明法御房の御往生のことをまのあたりきき候ふも、うれしく候ふ。

などと、仰っていて、お弟子達の往生も断言されています。
体験上の断言ではなく、理論上の断言ですが、それが体験至上主義の高森会長には理解できなかったのでしょう。学術的素養もなく、聖教を読んだこともない高森会長には、幼稚な発想で無知な会員を騙すことしかできません。これが高森会長の実像です。

ここまで侮辱されて黙っておれるかと憤る元気があるのなら、高森会長自身でも講師でも会員でも問いませんので、学術的に反論をしてきてください。

どうぞ遠慮なく。

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2016年3月12日 (土)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義42

ある幹部会員と街中で会って少し話をした時に私はこう言いました。
高森先生はお聖教を全く読んだことがないですよ
幹部会員は、「それは絶対にありえない」と即座に否定しましたが、私はその証拠の1つとして、『教行信証』で親鸞聖人が最も力を入れて顕わされた部分を、高森会長が全く知らないと伝えました。その幹部会員は絶句でした。
その部分とは、阿闍世の獲信です。『教行信証』6巻の約1割、更には信巻の約4割も費やされたのが、阿闍世の獲信体験記録です。
阿闍世は、三願転入どころか、釈尊から善を勧められてもおらず、善とは無関係で獲信しています。つまり、三願転入の教えなるものを、親鸞聖人御自身が否定なされているのです。

このこと1つだけでも、高森会長が聖教を全く読んでいないと断言できるのです。

もちろん、高森会長は他のことも何も知りませんので、高森会長の無知は退会者にとっては周知の事実となっています。

そんな無知の高森会長が、直接書いたことになっている『なぜ生きる2』ですが、あとがきで、更にまた無知を曝しています。

 普通、体験記は、年月、場所など著者特有の出来事が詳しく記述され、衆目を惹くものである。のぞき見趣味などにも応じて百人百様の体験が多彩に発表されるのが常であろう。

 だが親鸞聖人や覚如上人、蓮如上人などの善知識方には、意外にそのような記録は見られない。まるで、書くべからざることと、箝口令を敷かれていると思えるほどだ。
 ただに善導大師は二河白道の譬喩で表し、親鸞聖人は弥陀の三願で表白されているのみである。
 譬喩や弥陀の本願で説かれていては、庶民の望む具体的な事象は知るよしもない。
 なぜ具体的な記述を頑なに避けられたのだろうか。

最初に述べた通り、具体的な記述を阿闍世の体験記で親鸞聖人は表現されています。『教行信証』に何が書かれてあるか、高森会長は全く知らないのです。恥ずかしいの一言に尽きます。

 そして善知識方の体験の記録も、『教行信証』等に親鸞聖人は記されています。龍樹菩薩と曇鸞大師のことは、『正信偈』にまで書かれているのですから、どんなに無知な高森会長でも文字は読んでいるのでしょうが、その意味を全く理解できていないこともここから判ります。
これまで、親鸞聖人のお言葉でその説明をしてきましたが、今回は蓮如上人の『正信偈大意』を紹介しておきます。

まず、龍樹菩薩の方は、

「釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺 龍樹大士出於世 悉能摧破有無見 宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽」といふは、この龍樹菩薩は八宗の祖師、千部の論師なり。釈尊の滅後五百余歳に出世したまふ。釈尊これをかねてしろしめして、『楞伽経』に説きたまはく、「南天竺国に龍樹といふ比丘あるべし、よく有無の邪見を破して、大乗無上の法を説きて、歓喜地を証して安楽に往生すべし」と未来記したまへり。

です。龍樹菩薩は、聖道門で御修行なされて歓喜地を証されて後に、浄土門に帰依なされて往生なされた、という体験です。

次に曇鸞大師は、

「三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦」といふは、かの曇鸞大師、はじめは四論宗にておはせしが、仏法のそこをならひきはめたりといふとも、いのちみじかくは、ひとをたすくることいくばくならんとて、陶隠居といふひとにあうて、まづ長生不死の法をならひぬ。すでに三年のあひだ仙人のところにしてならひえてかへりたまふ。そのみちにて菩提流支と申す三蔵にゆきあひてのたまはく、「仏法のなかに長生不死の法は、この土の仙経にすぐれたる法やある」と問ひたまへば、三蔵、地につばきを吐きていはく、「この方にはいづくのところにか長生不死の法あらん、たとひ長年を得てしばらく死せずといふとも、つひに三有に輪廻すべし」といひて、すなはち浄土の『観無量寿経』を授けていはく、「これこそまことの長生不死の法なり、これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし」とのたまへば、曇鸞これをうけとりて、仙経十巻をたちまちに焼きすてて、一向に浄土に帰したまひけり。

です。曇鸞大師は聖道門から一時道教に迷われたものの、菩提流支との出遭いによって浄土に帰された、という極めて具体的な記述です。

これ以上解説は不要な程、高森会長は無知を極めているのです。

『なぜ生きる2』を書かなければ、ちょっとおもしろいことをいう変な人、でも通ったかもしれません。しかし、高森会長は自らの意思によってその生ぬるい評判を徹底的に叩き壊しました。
こんな解釈は絶対にあり得ない究極的無知の悪知識、と高森評は完全に地に堕ちました。

これが高森会長の大好きな、悪因悪果、自因自果です。

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2016年2月23日 (火)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義41

最近の親鸞会は、新規会員獲得に血眼になっています。現会員から大金を巻き上げる方法がいつもいつも出てきませんので、入会金5万円が大きな魅力となっているのでしょう。

現会員も新規会員も訳のわからない宿善という言葉に騙されてお金を出していることが多いのですが、その時によく使われるのが『御一代記聞書』の

陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。
弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。
とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。
已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。
昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もありと仰せられしと[云々]。

です。『なぜ生きる2』18章でも最後の2文を除いて取り上げられています。
ただし、この意味がまた無茶苦茶です。この意訳として

陽の当たるところの花は速く咲き、日蔭の花は遅いだろう。
陽の当たるところの花が速く咲くように、弥陀の本願を真剣に聞き速く救われる人もある。聞法を怠れば日蔭の花のように救われるのも遅くなる。
同じく弥陀の光明(聞法)に遇っても、救われるのが速い人と遅い人があるのは、人それぞれの宿善(過去の善根)に遅速(厚薄)があるからだ。
救われている人も、救われていない人も、ともかくも、大事なことは真剣な聴聞である。

としています。
かなり無理な訳にしていることがお判りでしょうか。
最も問題なのが

かように宿善も遅速あり

ですが、この意味は高森顕徹会長の言葉を使うなら、

同じく弥陀の光明(聞法)に遇っても、救われるのが速い人と遅い人がある

です。

人それぞれの宿善(過去の善根)に遅速(厚薄)があるからだ

の意味はありません。
その証拠をお見せしましょう。

このお言葉は蓮如上人が「金を掘り出すような聖教」とまで絶賛されました『安心決定鈔』にあるお言葉を言い換えられたものです。事実、『御一代記聞書』には、『安心決定鈔』からの引用が多数あります。
ここの関連部分は

かるがゆゑに仏の正覚のほかは凡夫の往生はなきなり。十方衆生の往生の成就せしとき、仏も正覚を成るゆゑに、仏の正覚成りしとわれらが往生の成就せしとは同時なり。仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。機によりて三世は不同なれども、弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり。
(中略)
かくこころうれば、われらは今日今時往生すとも、わがこころのかしこくて念仏をも申し、他力をも信ずるこころの功にあらず。勇猛専精にはげみたまひし仏の功徳、十劫正覚の刹那にわれらにおいて成じたまひたりけるが、あらはれもてゆくなり。覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり。已・今・当の三世の往生は不同なれども、弘願正因のあらはれもてゆくゆゑに、仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり。

です。
ここに書かれてあることは、
阿弥陀仏が十劫の昔に、本願を成就されているのに、人によって往生の時期に前後ができるのはなぜかということについてです。
『御一代記聞書』と比較するとよく判ります。

已今当の往生あり(『御一代記聞書』)

すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり(『安心決定鈔』)

已・今・当の三世の往生は不同なれども(『安心決定鈔』)

このことより、

宿善も遅速あり(『御一代記聞書』)

仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば(『安心決定鈔』)

覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり(『安心決定鈔』)

となります。

に当ります。「ことわりをしる」「あらわす」とありますし、『御一代記聞書』の最後に

昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もあり

とありますので、『御一代記聞書』の「宿善」とは、信心のことを指していることがお判り頂けると思います。

つまり『御一代記聞書』では、信心をうることに遅速があるから、已今当の往生がある、と教えられたお言葉と理解できます。

『安心決定鈔』の「ことわりをしる」「あらわす」ことは、自分のやった善とは全く関係ないのです。『安心決定鈔』の、

弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり

仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり

に、そのことが明確に解説されています。
要するに、『御一代記聞書』の「宿善」には、自力的な意味の善は含まれていないのです。

結局

人それぞれの宿善(過去の善根)に遅速(厚薄)があるからだ。

こんな意味になることは、100%あり得ません。
高森会長が妄想で築き上げた砂上の楼閣など、聖教の前では瞬時に崩れ去る本当に脆いものなのです。

悔しければ、いつでも法論をしますので、遠慮なく申し出てください。ただし、聖教上での法論しかしませんので、体験談のごり押しは拒絶します。

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