三願転入

2016年4月20日 (水)

釈尊が最初から他力念仏を勧められた御文

親鸞聖人以外の善知識方でどなたも仰っていない上、親鸞聖人が御自身で書写なされて同行に読むように勧められた『唯信鈔』『一念多念分別事』『後世物語聞書』にも全く記されていない三願転入が、万人共通の体験だと考える思考が元々おかしいのですが、思考がおかしい人にはおかしいことが判りません。
親鸞聖人は具体例を挙げられて獲信までの体験をいくつも記されています。直接的な獲信までの体験ではありませんが、浄飯王についても親鸞聖人は紹介されています。

『教行信証』行巻に『安楽集』を引かれて

『安楽集』にいはく、「『観仏三昧経』にいはく、〈父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまふ。父の王、仏にまうさく、《仏地の果徳、真如実相、第一義空、なにによりてか弟子をしてこれを行ぜしめざる》と。仏、父の王に告げたまはく、《諸仏の果徳、無量深妙の境界、神通解脱まします。これ凡夫の所行の境界にあらざるがゆゑに、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる》と。
(以下略)

(現代語訳)

『安楽集』にいわれている。
「『観仏三昧経』に、<世尊は、父である浄飯王に念仏三昧を修めるようにお勧めになった。父の王は世尊に、≪仏のさとりの徳は真如実相第一義空とのことでありますが、それを観ずる行を、どうして弟子であるわたしに教えてくださらないのですか≫とお尋ねした。
 世尊は父の王に、≪仏がたのさとりの徳は、はかりがたい深い境地であり、仏は神通力や智慧をそなえておいでになります。これはとうてい凡夫が修めることのできる境地ではありません。そこで、父の王に念仏三昧を修めることをお勧めしたのです≫と仰せになった。

親鸞会でも『教学聖典』なるものにそれらしき内容が載っていますので、熱心な会員なら知っていると思いますが、釈尊は浄飯王に対して、念仏を勧められているのです。諸善ではありません。浄飯王が不審に思ったのは、なぜ諸善ではなく念仏を釈尊は勧められたのか、という点でした。それは、浄飯王には行じがたい諸善を勧めてもできないことが判られているからです。
浄飯王は、できると自惚れていましたが、釈尊は「ではやってみなさい」とは仰らずに、「できないから念仏を勧めているのだ」と仰っているのです。

できないのにできると自惚れているから実際にやらせてみて、できないことを判らせる

そんな回りくどいことを釈尊はされず、最初から念仏を勧められていることの意味を会員は考えるべきでしょう。道綽禅師も親鸞聖人も、最初から念仏を勧めることの重要性をここで教えられていることは明白です。

ちなみに、これは行巻に引かれてありますので、親鸞聖人はこの念仏三昧を他力念仏と解釈なされていることになります。

つまりは、釈尊は浄飯王に対して最初から他力念仏を勧められていると、親鸞聖人が仰っているのです。

では、釈尊が最初から他力念仏を勧めておられるのに、親鸞聖人はまずは諸善を実践してから、などと仰ることは通常の思考力があればあり得ないでしょう。

要するに、親鸞聖人は三願転入不要の道程を明らかにされているのです。

大体、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人時代の同行で、三願転入について知っていた人はまずいなかったでしょう。『教行信証』を読むことのできた数えるくらいのお弟子だけが知っていた云わば秘事に近い内容を、親鸞聖人の教えの根基とか言っているのは、善鸞と同じです。

高森秘事をいくら信じても、それは「浅ましき外道の法なり」です。

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2016年3月30日 (水)

親鸞聖人が大変重要視なされた曇鸞大師の獲信までの体験

曇鸞大師についてはやはり『正信偈』に

三蔵流支、浄教を授けしかば、仙経を焚焼して楽邦に帰したまひき。

とありますし、『高僧和讃』にも、

本師曇鸞和尚は
 菩提流支のをしへにて
 仙経ながくやきすてて
 浄土にふかく帰せしめき

と仰っています。
『正信偈大意』には、

「三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦」といふは、かの曇鸞大師、はじめは四論宗にておはせしが、仏法のそこをならひきはめたりといふとも、いのちみじかくは、ひとをたすくることいくばくならんとて、陶隠居といふひとにあうて、まづ長生不死の法をならひぬ。すでに三年のあひだ仙人のところにしてならひえてかへりたまふ。そのみちにて菩提流支と申す三蔵にゆきあひてのたまはく、「仏法のなかに長生不死の法は、この土の仙経にすぐれたる法やある」と問ひたまへば、三蔵、地につばきを吐きていはく、「この方にはいづくのところにか長生不死の法あらん、たとひ長年を得てしばらく死せずといふとも、つひに三有に輪廻すべし」といひて、すなはち浄土の『観無量寿経』を授けていはく、「これこそまことの長生不死の法なり、これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし」とのたまへば、曇鸞これをうけとりて、仙経十巻をたちまちに焼きすてて、一向に浄土に帰したまひけり。

と詳しく仰っています。
曇鸞大師は聖道門から一時道教に迷われたものの、菩提流支との出遭いによって『観無量寿経』を授けられ、「これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし」と18願に帰された、という極めて具体的な記述です。

もう一度、「これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし」です。気が付かれたと思いますが、道教から「念仏」ですので、諸善の19願は通られていないのです。

曇鸞大師の獲信の道程を簡単に言うと

聖道門 → 道教 → 18願

です。
これを親鸞聖人も蓮如上人も明言されていますので、曇鸞大師は三願転入されていないことの証拠でもあります。

曇鸞大師は道教から浄土教に入られた、と親鸞聖人が曇鸞大師の体験を繰り返し仰っていますので、これも一箇所にしか書かれていない三願転入の文よりも重要な位置にあるのは、言うまでもありません。

ちなみに曇鸞大師は阿弥陀仏の48の願の中で重要な願として3つ挙げられています。

18願・11願・22願

です。
曇鸞大師の御著書のどこにも19願のことは触れられていません。

参考までに『高僧和讃』曇鸞讃の

万行諸善の小路より
 本願一実の大道に
 帰入しぬれば涅槃の
 さとりはすなはちひらくなり

の「万行諸善の小路」は、19願ではありません。なぜなら、曇鸞大師は19願のことを全く仰っていないので、ここは当然聖道門のことです。
高森理論でいう「万行諸善の小路」を必ず通るのならば、聖道門を必ずしなければならないことになってしまいます。

『正信偈』の意味などまるで知らないのに厚顔無恥な高森顕徹会長にも困ったものです。

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2016年3月24日 (木)

親鸞聖人が大変重要視なされた龍樹菩薩の獲信までの体験

前々回のエントリーについて、もう少し詳しく解説してほしいとの御要望がありましたので、再度説明を致します。

まず、親鸞聖人は獲信までの道程について、具体的な例を挙げて説明されている個所がいくつかあります。
七高僧では、龍樹菩薩と曇鸞大師については、『正信偈』でも仰っているくらいですから、親鸞聖人がこのお二方の体験を大変重要視なされたことになります。

他には、阿闍世の獲信までの体験は、親鸞聖人は『涅槃経』を引かれて長々と紹介されています。その長さは、異様とも思えるほどで、その量は『教行信証』全体の約1割にも及び、信巻では約4割を占めています。ここから言えることは、阿闍世の獲信までの体験を通して、親鸞聖人は他力の信心を賜る道程を教えられているということです。

上記の3つの体験は、いずれも三願転入とは無関係です。
従って、親鸞聖人の教えは三願転入の教えではないことは、これだけでも簡単に説明できるのです。

3つの体験を順番に紹介していきますが、今回は龍樹菩薩について述べます。

『正信偈』では、

大乗無上の法を宣説し、歓喜地を証して安楽に生ぜん

とあるのは、さすがに会員でも知っているでしょう。
これを蓮如上人は『正信偈大意』で

「釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺 龍樹大士出於世 悉能摧破有無見 宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽」といふは、この龍樹菩薩は八宗の祖師、千部の論師なり。釈尊の滅後五百余歳に出世したまふ。釈尊これをかねてしろしめして、『楞伽経』に説きたまはく、「南天竺国に龍樹といふ比丘あるべし、よく有無の邪見を破して、大乗無上の法を説きて、歓喜地を証して安楽に往生すべし」と未来記したまへり。

と解説なされています。
龍樹菩薩は、聖道門で御修行なされて歓喜地を証されて後に、浄土門に帰依なされて往生なされた、という体験です。
また『教行信証』真仏土巻に曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』を引かれて

尊語を伏承して歓喜地にして、阿弥陀に帰して安楽に生ぜしむ。

(現代語訳)

釈尊のお言葉を承り、歓喜地の位にあって、阿弥陀仏に帰依して浄土に往生された。

と仰っています。
龍樹菩薩は、聖道門で歓喜地を証されて後に阿弥陀仏に帰依された体験をなされている、と親鸞聖人が仰っています。
念のため『高僧和讃』にも同様のことを仰っていますので、そちらも紹介します。

本師龍樹菩薩は
 大乗無上の法をとき
 歓喜地を証してぞ
 ひとへに念仏すすめける

親鸞聖人は龍樹菩薩の体験を殊更強調されています。一箇所しか書かれていない三願転入の文よりも重要だと親鸞聖人は見做されているのは明らかです。
龍樹菩薩は三願転入をされたという表現は、どこにもありません。
判りやすく表現すると

聖道門 → 18願

こういうことです。
聖道門で歓喜地まで至られ出離された龍樹菩薩が、今更19願の実践をされる理由は全くありません。龍樹菩薩は、定善も散善も当然ながらできた方です。聖道門の修行によって歓喜地まで至られた方が、定善も散善もできなかったら、聖道門はギャグでしょう。

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2015年6月22日 (月)

高森顕徹会長が大惨敗し逃亡した三願転入の法論8

法論の負けを自覚した時に、親鸞会が呟き始めるのが、高森顕徹流ヘンテコな雑行釈です。mixiでは

「雑行を捨てよ」とは、「自力の心を捨てよ」であって、「善をするな」ではない

と何度も一人で呟いていましたが、これは『なぜ生きる2』でもおなじです。

「雑行を捨てよ」とは、この悪い「自力の心」を捨てよということである。
 七高僧方が捨てよと言われるのも、「諸善」や「万行」のことではなく「自力の心」のことなのだ。
(中略)
「雑行を捨てよ」を「諸善は捨て物、必要ない」と曲解するのは、十九の願の門戸も知らず、弥陀・釈迦の「方便の善」もご存じない印象は覆いようもない。

とあります。
浄土真宗を少しでも学んだならば、一笑に伏す内容でしょう。

まず雑行の定義ですが、親鸞聖人は『教行信証』化土巻に

雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。

と仰っています。雑行とは、正行以外の行で、「横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。」ということですから、19願ともいえます。

ですから、

「雑行を捨てよ」は「19願を捨てよ」とほぼ同じ意味です。

また法然上人は『選択本願念仏集』で次のように仰っています。

いはく諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。

とか、あるいは

また念仏はこれ本願の行なり。諸行はこれ本願にあらず。

です。「諸善は捨て物、必要ない」と法然上人が仰っているのもご存じない印象は覆いようもないです。
親鸞聖人は『教行信証』行巻で念仏と諸善とを比較し、相対して論じられた中に

順逆対(念仏は本願に順じているが、諸善は本願に背いている)
選不選対(念仏は如来が選び取られた法であり、諸善は選び捨てられた法である)
有願無願対(念仏は本願の行であり、諸善は本願の行ではない)

があります。18願の行は念仏のみであり、諸善は18願の行ではない、つまり18願に背いた行であるということです。18願に背いた行であるから、捨てなければならないのは、言うまでもありません。

高森会長が雑行を説明する時に、よく言っていたのが、

五雑行は物柄が悪いから行自体を捨てなければならないが、諸善万行は物柄は良いが心がけが悪いから、その心がけを捨てなければならない

ですが、ここが根本的におかしいところです。高森会長の言葉を使うなら、

雑行は物柄が悪いから行自体を捨てなければならないが、自力念仏は物柄は良いが心がけが悪いから、その心がけを捨てなければならない

となります。行自体を捨てるのは雑行です。もちろん、五雑行を自分で捨てることができるのですから、諸善万行も自分で捨てることができるに決まっているではないですか。なぜなら、行なのですから、しなければいいだけのことです。簡単なことです。

そう言うと、

ではやりたい放題してもいいということか

と愚かな反論をしてくるのが親鸞会ですが、往生と無関係にする倫理道徳の善は大いに励むべきでしょう。往生と無関係なのですから、雑行ではありません。

高森会長も『なぜ生きる2』で言っていますよ。

「雑行」とは「弥陀の救いを求めて行う諸善(もろもろの善)」をいう。

では、弥陀の救いを求めて19願を実践したり、布施行をするのを止めて、弥陀の救いとは無関係に親孝行などをすればいいのです。

要するに、

「雑行を捨てよ」とは「親鸞会で勧める善を捨てよ」であって、「倫理道徳の善をするな」ではない。

こういうことです。

三願転入の法論は、名実ともにこれで完全終了でした。その後、この法論が行われたところは親鸞会の会員が管理していたことから、やり取りはすべて削除され、法論自体がなきものにされました。

もちろん、いたるところで法論の痕跡は残っていますので、法論自体がなかったことにはできず、追い詰められて『なぜ生きる2』を書いて、更に恥を晒したのは、言うまでもありません。

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2015年6月18日 (木)

高森顕徹会長が大惨敗し逃亡した三願転入の法論7

出す根拠すべてが完全に裏目に出ていますので、ここで高森顕徹流の珍理論の方便を持ち出します。

未信の人が、18願だけで導かれるということですか?
19願力も、20願力も不要と言われるのでしょうか?
もしそうでしたら、19願力や20願力以外の、
18願力に方便(信前)もある、ということになりますが、
そのようなことを、親鸞聖人はどこにおっしゃっているのでしょう?

方便の意味を知っていれば、何と的外れなことを言っているのか、と嘲笑されるでしょうが、本人は本気で言っているのです。

簡単に間違いを説明すれば、親鸞会では

方便だからしなければならない

などと自信満々に主張していますが、親鸞聖人は

方便だから捨てよ

としか仰っていないのです。

例を挙げれば、

聖道門は方便だから捨てよ
化土は方便だから願うな

です。同じように、

19願(諸善)、20願(自力念仏)は方便だから捨てよ

です。

19願、諸善だけは方便だからせよ

になる訳がないです。小学生でも理解できることです。

もっといえば、方便が方便と信じられず、方便を真実と信じているから方便になるのです。
親鸞聖人は真実と方便を教えられました。しかし、親鸞聖人の真実18願の仰せを信じられず、方便と仰った聖道門、19願、20願をそれぞれ真実だと信じている人がたくさんあるのです。信じている人にとってはそれが真実ですが、そういう人にそれが真実ではないと説いても信じられないから、暫く機に応じて用いられる随他意の法門を説かれたのです。それが真実でなかったと理解できたならば、真実に誘引する権仮方便となるのです。

親鸞会の人は、仏教界のことを知らなさ過ぎますが、浄土門の人でも18願が真実と思えず、19願での往生、20願での往生を信じ願っている人が親鸞聖人の時代も、今もたくさんいるのです。18願での往生を信じられる人は少ないのです。
だからこそ、親鸞聖人は、19願は聖道門の人を浄土門に誘引する願であり、19願を実践しても化土往生しかできない方便の願だから、真実18願を信じなさい、と仰っているのです。

さて、珍問の答えはと言えば、源信僧都が『往生要集』に仰り、親鸞聖人が『教行信証』行巻に引かれた

『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

です。
『高僧和讃』にも、

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

とあります。
念仏以外の方便は、極重の悪人にはないのです。
他の方便」とは、19願であり、諸善のことです。

19願も諸善も、不要だという親鸞聖人のお言葉です。

これも一撃でした。

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2015年6月15日 (月)

高森顕徹会長が大惨敗し逃亡した三願転入の法論6

高森顕徹会長に対して、1か月以上質問し続けていたのですが、ようやく答えたのが以下の2つでした。

1.「親鸞聖人の三願転入の教え」という親鸞聖人のお言葉については、

『教行信証』全体

4.『一念多念証文』にある「浄土の方便の善」が「宿善」という根拠

これは、確かに申し上げました。
根拠は、

「いずれの経釈によるとも、すでに宿善に限れりと見えたり」(御文章)

の一言で充分でありましょう。

1は、論外です。根拠がないことをこのように表現したというのは、誰でも判る話です。
4については、親鸞会の現会員、元会員の人は、納得してしまうかもしれません。しかし、大変な間違いです。

まず、蓮如上人が仰ったところの前後は、『御文章』3帖目第12通

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。

です。宿善の機と無宿善の機があり、宿善の機には話をしてもよいが、無宿の機には話をしてはいけない、という内容です。親鸞会とは逆のことを仰っています。
親鸞会では、無宿の機だから話を聞かせなければならないし、無宿善の機の立場から言えば聞かなければならない、と教えます。しかし、蓮如上人は、無宿善の機には聞かせるな、ですから、親鸞会で言うところの宿善と蓮如上人が仰る宿善とは意味が違うということです。

蓮如上人が仰る宿善の機とは、18願1つを勧められた法然上人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを受け入れられる人のことです。一方で無宿善の機は、聖道門の教えを信じて、また聖道門から浄土門に入りながらも法然上人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えを素直に信じられない人のことになります。

したがって、蓮如上人の仰る「宿善にかぎれり」とは、18願1つを勧められた法然上人、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の教えられたことを受け入れられるかどうかにかかっていることを仰ったに過ぎません。

もちろん、「いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり」と、「浄土の方便の善」とは、直接の繋がりがないのです。

しかし、

『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。

とあるから、過去に行ってきた善ではないのか、と思われる方があるかも知れませんが、これは「善本」の意味を考えられれば判られると思います。親鸞会でも「善本」とは、名号と教えています。根拠は、『教行信証』化土巻に

善本とは如来の嘉名なり。この嘉名は万善円備せり、一切善法の本なり。ゆゑに善本といふなり。

とある通りです。また「若人無善本不得聞此経」のお言葉を、親鸞聖人は化土巻の真門釈のところで引いておられます。要門釈ではありません。
高森会長も『会報 第三集』に

係念の宿善というのは過去に於て自力ながらも心を阿弥陀仏一仏にかけて念仏してきた善根をいい、諸仏の浄土を願わず、ただ弥陀一仏に念を係けて来たのだから係念といわれる。
『大無量寿経』には、これを「若人無善本」といい、二十願には「植諸徳本」と説かれている。『定善義』に「過去已曾・修習此法・今得重聞」とあるのも、この係念の宿善を示すものである。

と書いています。参考までに「係念の宿善」という言葉は、浄土宗の鎮西派で使われるものです。
ですから、蓮如上人がここで仰っている「宿善」には、諸善の意味は含まれていないのです。

結局のところ蓮如上人が仰っているのは

宿善の機=過去世に念仏を称えてきた人
無宿善の機=過去世に念仏を称えてこなかった人

ということです。

このように指摘されて、高森会長は完全に詰みました。

後はお決まりの論点ずらしで、雑行の珍釈、方便の珍釈を一方的に言い出すしか手がなくなりました。

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2015年6月12日 (金)

高森顕徹会長が大惨敗し逃亡した三願転入の法論5

退会者のブログを盗作して、近年に親鸞会が重要視するようになった『一念多念証文』の

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

ですが、これは、もともと『教行信証』化土巻の

宗師(善導)の意によるに、「心によりて勝行を起せり。門八万四千に余れり。漸・頓すなはちおのおの所宜に称へり。縁に随ふものすなはちみな解脱を蒙る」(玄義分)といへり。
しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義)といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」(同)といへり。
「門余」といふは、「門」はすなはち八万四千の仮門なり、「余」はすなはち本願一乗海なり。

(現代語訳)

善導大師の説かれた『観経疏』によれば、「衆生の心にしたがって釈尊はすぐれた行をお説きになった。その教えは八万四千を超えている。漸教も頓教もそれぞれ衆生の資質にかなったものであり、縁にしたがってその行を修めればみな迷いを離れることができる」(玄義分)といわれている。
しかし、はかり知れない昔から迷い続けてきた愚かな凡夫は、定善の行を修めることができない。心を乱さず思いを一つに集中して浄土の相を観ずる行だからである。散善の行も修めることができない。悪い行いをやめて善い行いをすることだからである。このようなわけで、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することさえできないのだから、『観経疏』には、「たとえ千年という長い寿命を費やしても、真実を見る智慧の眼が開かない」(定善義)といわれている。ましてすべての相を離れ、真如法性をそのまま観ずることなど決してできない。だから、『観経疏』には、「釈尊は、はるかに遠く、末法の世の煩悩に汚れた衆生のことを、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することなどできないと見通しておられる。ましてすべての相を離れて真如法性を観じようとするなら、それは、神通力のないものが空中に家を建てようとするようなものであり、決してできるはずがない」(定善義)といわれている。
『観経疏』に「その教えは八万四千を超えている」(玄義文)といわれているのは、「教え」とは八万四千の方便の教えであり、自力聖道門のことである。「超えている」のは本願一乗海の教えであり、他力浄土門のことである。

を視点を変えて仰ったものです。

意味は、機に応じて釈尊は「八万四千の法門」を説かれました。その教え通りに如実に修行できれば解脱することができるのですが、そんな者は甚だ少ないのです。それで、『観無量寿経』で、定散二善を説かれたのですが、「常没の凡愚」には、定善も散善もできないので、そんな「常没の凡愚」のために、「八万四千の仮門」の他に「本願一乗海」である真実の法門、弘願があることを教えられている、ということです。

一言で言えば、化土巻では、仏教を

「門」はすなはち八万四千の仮門なり、
「余」はすなはち本願一乗海なり。

の二つに分けて教えられているだけですが、これを『一念多念証文』では、

八万四千の法門」を「本願一乗円融無碍真実功徳大宝海」に導くための方便という解釈で仰ったのです。つまり、聖道門と19願は、18願に導くための方便、ということですが、ポイントは、聖道門です。聖道門抜きの「八万四千の法門」はあり得ませんので、もし、全人類が必ず「八万四千の法門」を通って「本願一乗円融無碍真実功徳大宝海」に入るのならば、聖道門を通る必要があるということになります。

要するに、19願と言うのは、聖道門との関係抜きでは語ることができないのです。

八万四千の法門」とは、ほとんど聖道門と同義語といっても過言ではありませんが、聖道門から19願に誘引して、18願に導く、という以上のことは仰っていないことになります。

ですから、どんな屁理屈を使っても、『一念多念証文』の御文は、浄土門の人も含めた全人類は19願を必ず通って18願に入る、という意味にはなりません。

聖道門を19願に誘引する「浄土の方便の善」=「欣慕浄土の善根」を裏づける根拠でしかないのです。

鈍い高森顕徹会長も、この辺で自己矛盾に気が付いたようで、起死回生の詭弁を捻りだしてきます。もちろん、簡単に返り討ちにあいます。

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2015年6月 9日 (火)

高森顕徹会長が大惨敗し逃亡した三願転入の法論4

欣慕浄土の善根」というのは、親鸞聖人が19願を説明なされる中で、最重要キーワードと言えますが、高森顕徹会長も講師部員も、全く聞いたことがなかったため、mixiでの法論では完全に意表を突かれた形になりました。難しい話ではないのですが、こんなことさえ知らない無二の善知識なのです。

前回述べた第三深信ですが、この善導大師の解釈について『教行信証』化土巻に

これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。

(現代語訳)

これらはみな自力の行であって、 辺地・疑城胎宮・懈慢界といわれる方便の浄土に生れる因なのである。 だから、 浄土に生れても仏を見たてまつることができず、 教えを聞くことができず、 菩薩や声聞たちを見ることもできない。 阿弥陀仏の光明は自力の行をまじえるものを照らしおさめることはないのである。第十九願を方便の願とするのは、まことに意味深いことである。釈尊が『観無量寿経』に定善・散善を説かれ、善導大師がこれは浄土を慕い願わせるための方便の教えであると解釈されたおこころが、いよいよ明らかに知られるのである。

とあります。19願、定散二善の実践に励んでも化土往生しかできないが、ではなぜそんな教えを説かれたのかと言えば、欣慕のためである、ということです。

また『三経往生文類』にも、

観経往生といふは、修諸功徳の願(第十九願)により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。

とやはり同じことを仰っています。
浄土を願っていない聖道門の人には、浄土を願わせる「欣慕浄土善根」が必要です。浄土を願わない者が往生することはないからです。そのための19願、定散二善という方便だと親鸞聖人は繰り返し仰っているのです。

念のため、聖道門と浄土門の定義を『教行信証』化土巻から

この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく
安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく

浄土を願っていない人が聖道門浄土を願っている人が浄土門ということです。

それを先程の『三経往生文類』のお言葉を使って説明するなら、

万善諸行の自善を回向しないで、浄土を欣慕しないのが聖道門、
万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕するのが19願

となります。同じ善ですが、回向するかしないか、浄土を欣慕するかしないかの差が、聖道門と19願の違いになるのです。

ところが、これを敢えて捻くれた解釈をして誤魔化そうと、最近は

定散二善をすることで、十方衆生が浄土を願うのだ

と訳のわからないことを言っています。前後を反対にしたのです。

浄土を願って善を行えば、その人を19願の行者といい定散二善を修するという

が正しいのです。浄土を願っていなければ、定散二善にはなりません。聖道門の善です。

まとめて言いますと、

浄土を願っていない人とは聖道門の人のことであり、浄土を願って聖道門と同じ善を修すると、19願になり定散二善になるので、聖道門から浄土門へ導く方便の願が19願であり、方便の善が定散二善なのです。

浄土をすでに願っている浄土門の人に、「欣慕浄土の善根」は関係ないのが、親鸞聖人の教えです。

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2015年6月 6日 (土)

高森顕徹会長が大惨敗し逃亡した三願転入の法論3

浄土門の人にも19願が必要であるという根拠として親鸞会が出したのが、『一念多念証文』

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。 この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

です。「浄土の方便の善」とあるから、18願に入るには絶対に必要な「浄土の方便の善」なのだ、という訳のわからない理屈です。

現代語訳は

総じて八万四千といわれる釈尊の教えは、みな浄土の教えに導く方便としての善なのである。これを要門といい、これを仮門と名づけるのである。この要門・仮門というのは、すなわち『観無量寿経』にお説きになっている定善・散善の教えである。定善とは、心を一つに定めて修める十三の観察の行であり、散善とは、散漫な心のまま修める三福の行であり、九品のものの修めるさまざまな善である。これらはみな浄土の教えに導く方便としての要門であり、これを仮門ともいうのである。この要門・仮門により、さまざまな衆生を導き育んで、阿弥陀仏の本願すなわち一乗円融無礙の真実功徳の大宝海に導き入れてくださるのであるから、すべての自力の善は、これを方便の教えというのである。

ですが、「浄土の方便の善」とは、「浄土の教えに導く方便としての善」ということです。聖道門の人を浄土門に導くのが、「浄土の方便の善」ということで、浄土門の人を18願に導く「浄土の方便の善」ではありません。

親鸞会でしか話を聞いたことがなければ判りにくいと思いますが、これは、『教行信証』化土巻・隠顕釈

釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。

(現代語訳)

善導大師の解釈された意向にしたがって 観無量寿経をうかがうと、 顕彰隠密の義がある。その顕とは、 定善・散善のさまざまな善を顕わすものであり、 往生するものについて上・中・下の三輩を区別し、 至誠心・深心・回向発願心の三心を示している。 しかし、 定善・散善の二善、 世福・戒福・行福の三福は、 報土に生れるまことの因ではない。 三輩のそれぞれがおこす三心は、 それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、 他力の一心ではない。 これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、 浄土往生を願わせるために示された善である。 これが観無量寿経の表に説かれている意味であり、 すなわち顕の義である。

にある、「如来の異の方便、欣慕浄土の善根」のことを指しています。

これは更に、善導大師の『散善義』深心釈の第三深信を指して仰ったものです。

また決定して深く、釈迦仏、この『観経』の三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまふと信ず。

(現代語訳)

また釈迦仏がこの《観経》に、阿弥陀仏の依正二報を讃嘆せられて、三福・九品・定散二善の行を説かれてあるのは、衆生を誘引したもう方便の善である、と決定して深く信ずる。

『観無量寿経』に説かれている善は、「欣慕浄土の善根」、浄土往生を願わせるために示された善なのです。つまり、浄土を願っていない人に対して浄土を願わせるための善ということで、結局は、浄土を願っていない聖道門の人に対しての方便の善ということです。

元々の『教行信証』化土巻・要門釈

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

が、聖道門の人に対して19願が建てられ、定散二善が説かれた、という解釈の正しさを裏付ける根拠になっただけです。

高森顕徹会長は完全に墓穴を掘ったのです。

これによって、高森会長はますます追い詰められます。

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2015年6月 4日 (木)

高森顕徹会長が大惨敗し逃亡した三願転入の法論2

18願の「十方衆生」と19願の「十方衆生」は、当然同じ意味だ、というのが親鸞会の理屈です。一見、まともなことを言っているように思えますが、よく調べてみると実は意味が違うのです。

mixiの法論で出たのが、『尊号真像銘文』

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

です。

これは、「唯除五逆誹謗正法」という抑止のお言葉によって、抑止すべき五逆罪、謗法罪を造っている極悪人も含めた一切の衆生が18願の救いの対象になっていると親鸞聖人は教えられています。念の為申しますと、一切の衆生が五逆罪、謗法罪の者という意味ではありませんので、間違われないようにしてください。

一方で、19・20願にはこの抑止のお言葉がありませんので、抑止する必要のない善人のみを対象とされているということです。

つまり、三願には共通の「十方衆生」と誓いの対象が同じお言葉で表現されていても、その内容が異なっているのです。18願の「十方衆生」は「唯除五逆誹謗正法」とセットになってすべての人が対象で、漏れている人はありません。しかし、19・20願の「十方衆生」は「唯除五逆誹謗正法」と無関係の善人が対象ということになるのです。

このことは『大無量寿経』の異訳経を確認すると、更によく判ります。『大無量寿経』での18願と19願の対機は、共に「十方衆生」と表現されていますが、『平等覚経』『大阿弥陀経』では、救いの対象、対機が明らかに異なっています。

『大無量寿経』18願の「十方衆生
=『平等覚経』17願の「諸天人民蠕動之類者
=『大阿弥陀経』4願の「諸天人民飛蠕動之類
諸々の神々や人々や虫の類

『大無量寿経』19願の「十方衆生
=『平等覚経』18願の「諸佛國人民有作菩薩道者
=『大阿弥陀経』7願の「八方上下無央數佛國諸天人民若善男子善女人有作菩薩道
諸々の仏国土の菩薩の行を行う者

つまり、『大無量寿経』18願は、すべての生物です。漏れているものはいません。一方、『大無量寿経』19願は、菩薩の行を行える人と限定されています。虫も入っていませんし、人間でも菩薩の行を行えない悪人は入りません。ですから同じ「十方衆生」でも『大無量寿経』の18願と19願とでは対機が大きく異なるのです。

親鸞会は、全く反論できませんでした。これで完全終了なのですが、今まで無敗を装ってきた高森顕徹会長にとって、このまま終わる訳にはいかず、詭弁の反撃が試みられますが、すべて返り討ちにされ、醜態を曝すことになりました。

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