三願転入

2018年11月 9日 (金)

真宗学の基本さえ学んでこなかった高森顕徹会長

19願、定散二善がなぜ「欣慕浄土の善根」と呼ばれるかの理由については、少し説明する必要があります。

実は聖道門で勧められる諸善と、19願の善、定散二善とは、行は同じなのです。違うのは、さとりを得ようとして善をするか、浄土往生を願って善をするのかの違いです。

そのことを『教行信証』化土巻には

五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。

(現代語訳)

五種の正行に対しては、五種の雑行がある。この雑という言葉は、人間や神々に生れる行や菩薩の行などがさまざまにまじっているという意味で雑というのである。これはもとより阿弥陀仏の浄土に往生する因ではなく、浄土を願う心をおこし、これらの行を浄土往生のための善としなければならないから、浄土往生の行としては雑行というのである。

とあります。これは親鸞会でも使う『浄土和讃』の

諸善万行ことごとく
 至心発願せるゆゑに
 往生浄土の方便の
 善とならぬはなかりけり

と同じ意味です。

聖道門で教え勧められている諸善万行はすべて、浄土往生のためとして回心回向したならば、往生浄土の善(=雑行)となる

ということです。
高森顕徹会長の適当創作教義しかしらない会員は、よく判らない話だと思いますので、具体的に言いますと、聖道門で読経という行があります。『般若心経』を読むことでさとりを得るための行としている宗派はいくつもあります。この『般若心経』を読む目的を、さとりを得るためではなく浄土往生としたら、それは「回心回向の善」「往生浄土の方便の善」「雑行」になるということです。

『般若心経』を読むことは聖道門でも浄土門の19願でも共通であっても、その心がさとりを得るためか浄土往生のためかの違いがあるということです。
高森会長が考えた詭弁

雑行を捨てよとは、その心がけが悪いから、悪い心がけを捨てよであって、善をするなではない

が如何に頓珍漢なことか判られるでしょう。雑行の心がけは、浄土往生を目指してということですから、それを捨てたらさとりを得るためという聖道門の善になるのです。
念のため言っておきますと、さとりを得るためでも浄土往生のためでもない善は、倫理道徳の善です。親孝行を浄土往生のために励む人は、あっても極僅かでしょうが、浄土往生のためという心がけを捨てたら倫理道徳の善となるだけのことです。それゆえ倫理道徳の善は、浄土真宗でも大いに勧められますが、雑行は勧められません。当たり前のことです。

mixiでの法論で、この説明をしたら、またまた高森会長と親鸞会は絶句していました。70年間、高森会長は真宗学を何も学んでいないのです。大げさでも何でもなく、高森会長はこんな基本的なことさえ本当に知らないのです。

さて、ここまで理解できると「欣慕浄土」の意味がお判りになるかと思います。聖道門と19願は、行は同じなので、心がけを浄土往生のためと変えるだけで良い、つまり、聖道門の人が19願に入ることに大きな壁はないのです。

聖道門でさとりを得られないと断念した人は、今までやってきた行そのままで浄土往生を目指したなら浄土往生できると誓われた19願を信じやすいです。聖道門からいきなり念仏往生の願である18願に行くことは、今までの行をすべて捨てることになるので、そこには大きな壁がありますが、19願なら入りやすいのです。

ですから、19願は聖道門を断念した人を浄土門に導くための願だと親鸞聖人が仰ったことは、極めて筋の通った理屈になるのです。

それに対して、19願は悪人が18願に入るために絶対に通らなければならないという理屈は、金集め人集め目的の高森会長とマインドコントロールされた脳の中でしか通用しないのです。

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2018年11月 6日 (火)

絶句の連続でも法論に負けていないと強弁するおめでたい親鸞会

聖道門を断念した人を浄土門に導くのが19願の役割であると親鸞聖人が解釈されたのは、明々白々の厳然たる事実なのですが、それを突き付けられて苦し紛れに親鸞会が言うのが、

我々も聖道門の機だ

です。
出来の悪い詭弁に苦笑するしかないのですが、mixiの法論では、親鸞聖人の聖道門の定義、浄土門の定義を明示したら、やはり絶句してしまいました。
その定義とは『教行信証』化土巻に

おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく
安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく

とあります。
今生きているこの人間界で聖者となりさとりを得ることを目指すのが聖道門。
死んだ後に浄土に往ってさとりを開くことを目指すのが浄土門。

明確に違います。
自己の修行によって出離、成仏を目指すか、阿弥陀仏のお力で浄土に往生して、成仏を目指すのかということです。
もっと簡潔に言うと、浄土往生を目指すかどうかの違いです。

浄土を目指しながら聖道門だというのは、矛盾以外の何物でもありません。

尤も、親鸞会は浄土往生を目指さず、かといってさとりを得ることも目指さず、空想の絶対の幸福を目指していますので、浄土門でも聖道門でもなく、単なる外道です。

以上を踏まえると、聖道門から浄土門へ入るのに必要なのは、浄土往生を目指すことです。それを欣慕浄土と言われます。

同じく化土巻に

釈家の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。すなはちこれ顕の義なり。

(現代語訳)

善導大師の解釈された意向にしたがって『観無量寿経』をうかがうと、顕彰隠密の義がある。
その顕とは、定善・散善のさまざまな善を顕わすものであり、往生するものについて上・中・下の三輩を区別し、至誠心・深信・回向発願心の三心を示している。しかし、定善・散善の二善、世福・戒福・行福の三福は、報土に生れるまことの因ではない。三輩のそれぞれがおこす三心は、それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、他力の一心ではない。これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるために示された善である。これが『観無量寿経』の表に説かれている意味であり、すなわち顕の義である。

とありまして、「欣慕浄土の善根」と親鸞聖人は仰っています。
19願、『観無量寿経』の定散二善は、浄土往生を願っていない人に、浄土往生を願わせるための善であり、方便だということです。

浄土往生を願っていないのは聖道門の人で、聖道門の人を浄土門に導くために浄土を願わせる必要があり、それが19願、定散二善だと親鸞聖人が仰っているのです。
それは善導大師の解釈によるものであるとも仰っています。

それでは善導大師の解釈とは何かと言うと、二種深信を含む七深信の中にある第三深信

また決定して、釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して人をして欣慕せしむと深信すと。

です。浄土を願っていない人に浄土を願わせるのが、定散二善である、との解釈です。もちろん、浄土を願っていないのは聖道門の人です。

この「欣慕浄土の善根」をmixiで高森顕徹会長に示したら、何度目かの絶句でした。

総まとめをしますと、
・『大無量寿経』の19願を異訳経でみると、19願は菩薩道を作す聖道門の人に対しての願と明示されている。
・善導大師は『観無量寿経』の定散二善は、浄土を願っていない聖道門の人に浄土を願わせるものだと解釈された。
・法然上人は、19願は聖道門の人を18願に導くための願と仰った。
・親鸞聖人は、19願は聖道門を断念した人を浄土門に導き、18願に引き入れるための願だと断言された。

これだけ決定的な証拠が揃っているのですから、19願が、聖道門とは無関係の一般の人に関係があると考える思考は、あり得ないのです。

決定的な証拠以外にも、状況証拠は山ほどあるのですが、それを示すと、膨大な量のエントリーになりますので、今回はこれくらいで留めておきます。

将棋で言うなら、完全に詰んでしまったのに、勝負を続けて、王を取られ、金銀飛車角を取られ、持ち駒すべて取られているのに、

将棋盤がまだあるから勝負はついていない

と言っているような状態です。

いずれにしましても、聖教を全く読んでいないことが丸判りの高森会長です。

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2018年11月 3日 (土)

超選民思想の高森教と合致する19願

会員の中で一番下の親会員の会費が月5,000円となりました。これは他の宗教団体と比較しても驚く金額です。新聞の頻度が違うとは言え、年会費が5,000円なら他の団体でもあり得るでしょうが、親鸞会では年会費にすると60,000円です。
それだけに留まらず、法礼だの報謝だの財施だのと次から次へとお金を巻き上げられます。これに堪えられる人は、まさに”善人”です。常識的な感覚の持ち主では会員になることすら無理ですから、”全人類が救われる教え”と言いながら、超選民思想が高森教だということです。

ところで、『大無量寿経』はインドにあった経典を漢訳した経典ですが、殆ど同じ内容でも時代や訳者の違いなどの事情により、いわゆる異訳経がありました。現在確認できる漢訳経典は、『大無量寿経』以外に『平等覚経』『大阿弥陀経』『如来会』『荘厳経』があります。親鸞聖人は『荘厳経』以外の3つの経典を『大無量寿経』と対比されて、解釈を試みられてます。
たとえば、『大無量寿経』の18願成就文の「乃至一念」を親鸞聖人は信心と解釈された根拠が、『如来会』であることは有名です。
したがいまして、『大無量寿経』の19願を正しく解釈しようとするなら、異訳経を参照することは、普通の作業と言えます。
そこで、『大無量寿経』19願を異訳経で説明したのが、mixiによる法論でした。

詳しくは関連のエントリーを読んで頂ければ結構ですが、結論だけ言うと、『大無量寿経』19願の「十方衆生」は、

『平等覚経』では

諸佛國人民、有作菩薩道者

『大阿弥陀経』では、

八方上下無央數佛國諸天人民、若善男子善女人有作菩薩道

に当たります。
共に「菩薩道を作す」者のことです。

もう一度言いますと、『大無量寿経』19願の「十方衆生」を異訳経で見ると、「菩薩道を作す」者となっていますので、聖道門で修行している、修行していた人のことを意味します。

これをmixi上で高森顕徹会長に突き付けたところ、高森会長以下取り巻き連中は度肝を抜かれた状態で絶句していました。まさか、異訳経が間違っているとも言えないので、これに関しては親鸞会側は沈黙を貫くしかありませんでした。

一応言っておきますと、親鸞聖人は『大無量寿経』18願について、『教行信証』の中で『平等覚経』『大阿弥陀経』との対比されていますが、19願については直接対比はされていません。しかし、前回のエントリーで紹介した『西方指南抄』と『教行信証』化土巻・要門釈は、聖道門の人(正確には聖道門を断念した人)を念仏往生の18願に導くのが19願だと仰っていて、『平等覚経』『大阿弥陀経』を念頭に置かれていたことは、容易に想像できます。

要するに、親鸞聖人の19願は聖道門を断念した人のための願だという解釈は、根拠のないものではなく、『平等覚経』『大阿弥陀経』という異訳経と合致した正統な解釈をされたに過ぎず、その親鸞聖人の正統な解釈を歪曲して『平等覚経』『大阿弥陀経』とも反する解釈をしている高森会長は、頭がおかしいか他の目的があるかのどちらかになります。

なお後日談としては、当時講師部員だったM氏が

親鸞聖人が、「夫れ真実の教を顕わさば、大無量寿経これなり」と仰言った意味も正しく知らず、教行信証の構成も判らぬ者の、とんでもない横車です。教行信証は「大経」の真実を、より鮮明にするために異訳本を次次と示されているのです。その逆に、異訳本に「こうあるから大経の意味はこうなのだ」まさに帽子にあわせて頭をケズル事をしようとしている者と判ります。逆さまです。

(「親鸞会法論惨敗の記録3~飛雲より」参照)

という詭弁を言ってきましたが、親鸞聖人は『大無量寿経』だけでは判らないところを異訳経と対比されて教義を体系化されたのですから、親鸞聖人と同じ手法にケチを付けられる筋合いはありませんし、親鸞聖人の解釈を補足するために出した根拠だということを忘れ去っているところが、実にお粗末な反論です。

尤も、高森教の超選民思想は19願と合致しますので、そこは筋が通っていると言えます、ただし18願には思いっきり反していますが。

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2018年10月31日 (水)

三願転入の教えを再開した理由が、思考停止の会員でも判る状況になりました

親鸞会で会費の値上げが発表されました。これが何を意味するかは、思考力が少しでもあれば判ると思います。今回は何とか財施の発表とは深刻度が違うということです。

これまで、高森顕徹会長は、全国の会館建設で実際に掛かった金額以上のお金を集めるという錬金術に浮かれてきていました。親鸞会の歴史上で、最も効率の良い集金システムであったと思われます。一地域での集金システムというところが、そのポイントで、会員同士の見栄などの名誉欲を上手く使うことで、想定以上のお金が集まって喜んでいたものの、いつまでも会館を造り続けるには限界があり、次の映画での集金システムに移行しても効果は知れていまして、最後に残された会費の値上げで現在の危機を乗り切ろうとの思惑でしょう。

会費の値上げは、会員の反発を招きますので、できれば避けたいところでしたが、止むを得ない状況に陥っているのです。

今年に入って広告費を大量に投入し、高森会長のビデオ公開まで解禁しての、なり振り構わない人集めである程度の人数を揃えることはできました。しかし、喉から手が出るほど欲しいお金が思うように入ってこないのです。

ここまで説明すればお判りでしょう、三願転入の教えを再開した理由が。

ところで70年間の高森会長の布教で、高森会長自身が三願転入したと告白したことがあったでしょうか。このように善に励んで19願を通ってきたと高森会長が話をしたことがあるということを、古い会員からも講師部員からも聞いたことがありません。

理由は簡単です。高森会長自身が、19願を通ってきたとは思っていないからです。

歴代の善知識方がまともに言及されされていない19願ですが、実は法然上人は僅かに仰ったことがあります。親鸞聖人が法然上人の法話の内容を記された『西方指南抄』に

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也

とあります。
諸行之人」とは、「無行之人」ではありません。もともと諸行をしている人のことですから、当然、聖道門の人を指していることになります。19願は、聖道門の人を引き入れて念仏の願である18願に帰せしめるのがその目的である、と法然上人が仰り、親鸞聖人が記されたのです。

つまりは、聖道門での修行をしようとも思っていない一般の人とは関係のない願だというのが、法然上人、親鸞聖人の認識であったということです。

親鸞聖人の直接のお言葉でいうなら、『教行信証』化土巻・要文釈

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。 偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

です。外道から「半満・権実の法門」と呼ばれる聖道門に入ったものの、修行を全うすることができない「」「」なるものが甚だ多いので、「ここをもって」釈尊は『観無量寿経』定善散善を説かれ、阿弥陀仏は19願を建てられたのだ、ということです。
本来浄土門を信じようとしない聖道門の人達も浄土門に引き入れようという御慈悲を仰ったのです。
あまねく諸有海」とあるから、全人類無関係なものはない、と思考停止の会員はワンパターンで言ってきますが、聖道門の人も漏れないようにするから「あまねく」なのです。前半で聖道門の人の話をしているのに、聖道門と関係ない人も19願の対象にするから「あまねく」だというのは、国語の試験では完全な零点です。部分点ももらえません。

法然上人・親鸞聖人は思い付きで、このようなことを仰ったのではありません。経典にもその根拠がありますし、善導大師の解釈からもそのような結論に達したのです。

このことが、mixiでの三願転入の法論の概要です。ここで法論は終わっていたのですが、誤魔化しのために、話を逸らし続けてきただけのことで、実質、以上の内容で法論は決着しています。

せっかくですから経典と善導大師の解釈は次回紹介します。

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2018年10月26日 (金)

19願を無視された歴代の獲信者、一方で19願を重要視する聖道門と高森顕徹会長

思考停止と国語力の劣った高森顕徹会長と愉快な仲間達のために、今回は簡単な話をします。

18願で救われるために、必ず19願を通らなければならないとするならば、歴代の獲信者は、19願を通ったと告白するか、19願を通りましょうと勧める言葉のどちらかがあってしかるべきです。

まず韋提希に関しては、親鸞会では定善をしようとしたというお伽噺を信じているので、19願を通ったというかもしれませんが、韋提希は定善をしようともしていませんし、散善を説かれる前に獲信していますので、韋提希も19願を通っていません。
しかし、ここは少し説明が必要なので、とりあえずこの程度に留めておきます。

この後は単純です。

阿闍世 釈尊に善を勧められてさえいない。
龍樹菩薩 19願の言及なし。
天親菩薩 19願の言及なし。
曇鸞大師 19願の言及なし。
道綽禅師 19願の言及なし。
善導大師 19願は往生を誓われた願の1つとして紹介されたのみで、それ以上の説明なし。
源信僧都 19願は臨終来迎を誓われた願として紹介されたのみで、それ以上の説明なし。
法然上人 『選択本願念仏集』に19願の言及なし。(故に、「19願を無視するとは何事か」と聖道門から激しい非難攻撃をされる)
覚如上人 19願は臨終来迎と諸行往生を誓われた願と仰ったのみで、それ以上の説明なし。
蓮如上人 19願の言及なし。
庄松 19願の言及なし。
おかる 19願の言及なし。

如何でしょうか。この状況で18願で救われるためには必ず19願を通らなければならないという理屈は成り立たないのです。

例外として親鸞聖人だけが、19願の説明を詳しくされたのですが、それも『教行信証』化土巻と『三経往生文類』の二か所だけです。『教行信証』をまとめられた『浄土文類聚鈔』には19願の言及はありませんし、『正信偈』にも19願はありません。また『三経往生文類』は、19願では化土往生しかできないという説明であり、18願や20願との関連はないです。
法然上人の項目でも述べましたが、聖道門から「19願を無視している」と非難攻撃され、その上弾圧までされた親鸞聖人は、聖道門への反論として、19願の説明をせざるを得なかったという経緯があるのです。

簡単にまとめると

19願が必要だ、と言っていたのは聖道門であり、19願は不要と教えられたのが獲信者だということです。

それでは納得しない聖道門のために、親鸞聖人が説明されたのが、

19願は18願へ導くための方便の願だ

ということです。

当時の仏教界の情勢と歴代の獲信者の告白・教えを見たら、実に単純な話なのです。
三願転入という言葉自体、後世の学者が名付けただけで、蓮如上人までそんな言葉は存在しなかったのです。

高森会長も、今回のエントリーの内容については理解しているのですが、そんなことはお構いなしで三願転入を会員に押し付けないといけない事情があるのです。

金集め人集めに窮しているのです。

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2018年10月21日 (日)

再開した三願転入の妄想話

本日の高森顕徹会長の話は、三願転入でした。長らく表沙汰にしてこなかった三願転入を会員に向けて話をしたということは、それだけ善の勧めを言わないといけない状況になっているということです。

三願転入についての法論はすでに完全に決着しています。
2010年3月にmixi上で始まった法論ですが、すぐに決着しました。

詳細は

「親鸞会法論惨敗の記録~飛雲より」

をご覧ください。

全部説明すると長くなりますので、結論だけ簡潔に述べますと、

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉がない

ということを高森会長が認めざるを得なかったということです。
どういうことかと言えば、

三願転入が全人類必然の道であるならば、親鸞聖人はその最初の19願を信じて実践することを勧められている筈です。当たり前の話です。

高森会長が親鸞聖人のお言葉を出せなかったという証拠は『なぜ生きる2』6章にこうあります。

 もし三願転入の弥陀の救いが、親鸞聖人や一部の人に限定されることならば、十九願の人々に、折れず曲がらず速やかに二十願に進めよの、聖人の励ましは『教行信証』になかったであろう。
 それが幾たびも見かけるのだ。

 総ての人々よ。十九の願から二十願に進んでおくれ。必ず十八願・選択の願海へ転入させて頂けるのだから。

 以下は、その文証である。

それ濁世の道俗(すべての人)、速に円修至徳の真門(二十願)に入りて、難思往生を願うべし」(『教行信証』化身土巻・末)

 特定の人を「濁世の道俗」とは言われない。三願転入は、すべての人の道程だから「濁世の道俗」と言われているのである。

如何でしょうか。この詭弁を詭弁と見抜くかどうかが、会員と退会者との差になるのかもしれません。

ここは、親鸞聖人が20願を勧められたお言葉についてです。それは高森会長も認めるところですが、肝心要の19願を勧められたお言葉がないのです。親鸞聖人は「濁世の道俗」に20願を勧められているから、三願転入はすべての人の道程だ、という理屈です。

20願は果遂の誓いですから、20願から18願という道程は親鸞聖人も仰っています。

『浄土和讃』には、

定散自力の称名は
 果遂のちかひに帰してこそ
 をしへざれども自然に
 真如の門に転入する

とあるのも同様です。

しかし、19願を必ず通るかどうかについては、ここでは関係のない話です。

20願への入り方でいえば、

1.外道・無宗教から20願に入る
2.聖道門から20願へ入る
3.19願から20願へ入る

という3通りがあります。
この中で1と2はなく、なぜ3だけが必須の道程になるのか、根拠がないのです。

親鸞聖人も七高僧も覚如上人も蓮如上人も19願を勧められたお言葉がないのですから、当然、19願から始めなければならないという理屈は消滅します。

19願を勧められた親鸞聖人のお言葉はなく、20願は勧められた親鸞聖人のお言葉はある

この事実が、三願転入は、すべての人の道程とならないことを証明する最大の根拠になります。

親鸞会の誇る高学歴集団を駆使しても、この程度の詭弁が限界なのです。

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2016年4月20日 (水)

釈尊が最初から他力念仏を勧められた御文

親鸞聖人以外の善知識方でどなたも仰っていない上、親鸞聖人が御自身で書写なされて同行に読むように勧められた『唯信鈔』『一念多念分別事』『後世物語聞書』にも全く記されていない三願転入が、万人共通の体験だと考える思考が元々おかしいのですが、思考がおかしい人にはおかしいことが判りません。
親鸞聖人は具体例を挙げられて獲信までの体験をいくつも記されています。直接的な獲信までの体験ではありませんが、浄飯王についても親鸞聖人は紹介されています。

『教行信証』行巻に『安楽集』を引かれて

『安楽集』にいはく、「『観仏三昧経』にいはく、〈父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまふ。父の王、仏にまうさく、《仏地の果徳、真如実相、第一義空、なにによりてか弟子をしてこれを行ぜしめざる》と。仏、父の王に告げたまはく、《諸仏の果徳、無量深妙の境界、神通解脱まします。これ凡夫の所行の境界にあらざるがゆゑに、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる》と。
(以下略)

(現代語訳)

『安楽集』にいわれている。
「『観仏三昧経』に、<世尊は、父である浄飯王に念仏三昧を修めるようにお勧めになった。父の王は世尊に、≪仏のさとりの徳は真如実相第一義空とのことでありますが、それを観ずる行を、どうして弟子であるわたしに教えてくださらないのですか≫とお尋ねした。
 世尊は父の王に、≪仏がたのさとりの徳は、はかりがたい深い境地であり、仏は神通力や智慧をそなえておいでになります。これはとうてい凡夫が修めることのできる境地ではありません。そこで、父の王に念仏三昧を修めることをお勧めしたのです≫と仰せになった。

親鸞会でも『教学聖典』なるものにそれらしき内容が載っていますので、熱心な会員なら知っていると思いますが、釈尊は浄飯王に対して、念仏を勧められているのです。諸善ではありません。浄飯王が不審に思ったのは、なぜ諸善ではなく念仏を釈尊は勧められたのか、という点でした。それは、浄飯王には行じがたい諸善を勧めてもできないことが判られているからです。
浄飯王は、できると自惚れていましたが、釈尊は「ではやってみなさい」とは仰らずに、「できないから念仏を勧めているのだ」と仰っているのです。

できないのにできると自惚れているから実際にやらせてみて、できないことを判らせる

そんな回りくどいことを釈尊はされず、最初から念仏を勧められていることの意味を会員は考えるべきでしょう。道綽禅師も親鸞聖人も、最初から念仏を勧めることの重要性をここで教えられていることは明白です。

ちなみに、これは行巻に引かれてありますので、親鸞聖人はこの念仏三昧を他力念仏と解釈なされていることになります。

つまりは、釈尊は浄飯王に対して最初から他力念仏を勧められていると、親鸞聖人が仰っているのです。

では、釈尊が最初から他力念仏を勧めておられるのに、親鸞聖人はまずは諸善を実践してから、などと仰ることは通常の思考力があればあり得ないでしょう。

要するに、親鸞聖人は三願転入不要の道程を明らかにされているのです。

大体、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人時代の同行で、三願転入について知っていた人はまずいなかったでしょう。『教行信証』を読むことのできた数えるくらいのお弟子だけが知っていた云わば秘事に近い内容を、親鸞聖人の教えの根基とか言っているのは、善鸞と同じです。

高森秘事をいくら信じても、それは「浅ましき外道の法なり」です。

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2016年3月30日 (水)

親鸞聖人が大変重要視なされた曇鸞大師の獲信までの体験

曇鸞大師についてはやはり『正信偈』に

三蔵流支、浄教を授けしかば、仙経を焚焼して楽邦に帰したまひき。

とありますし、『高僧和讃』にも、

本師曇鸞和尚は
 菩提流支のをしへにて
 仙経ながくやきすてて
 浄土にふかく帰せしめき

と仰っています。
『正信偈大意』には、

「三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦」といふは、かの曇鸞大師、はじめは四論宗にておはせしが、仏法のそこをならひきはめたりといふとも、いのちみじかくは、ひとをたすくることいくばくならんとて、陶隠居といふひとにあうて、まづ長生不死の法をならひぬ。すでに三年のあひだ仙人のところにしてならひえてかへりたまふ。そのみちにて菩提流支と申す三蔵にゆきあひてのたまはく、「仏法のなかに長生不死の法は、この土の仙経にすぐれたる法やある」と問ひたまへば、三蔵、地につばきを吐きていはく、「この方にはいづくのところにか長生不死の法あらん、たとひ長年を得てしばらく死せずといふとも、つひに三有に輪廻すべし」といひて、すなはち浄土の『観無量寿経』を授けていはく、「これこそまことの長生不死の法なり、これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし」とのたまへば、曇鸞これをうけとりて、仙経十巻をたちまちに焼きすてて、一向に浄土に帰したまひけり。

と詳しく仰っています。
曇鸞大師は聖道門から一時道教に迷われたものの、菩提流支との出遭いによって『観無量寿経』を授けられ、「これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし」と18願に帰された、という極めて具体的な記述です。

もう一度、「これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし」です。気が付かれたと思いますが、道教から「念仏」ですので、諸善の19願は通られていないのです。

曇鸞大師の獲信の道程を簡単に言うと

聖道門 → 道教 → 18願

です。
これを親鸞聖人も蓮如上人も明言されていますので、曇鸞大師は三願転入されていないことの証拠でもあります。

曇鸞大師は道教から浄土教に入られた、と親鸞聖人が曇鸞大師の体験を繰り返し仰っていますので、これも一箇所にしか書かれていない三願転入の文よりも重要な位置にあるのは、言うまでもありません。

ちなみに曇鸞大師は阿弥陀仏の48の願の中で重要な願として3つ挙げられています。

18願・11願・22願

です。
曇鸞大師の御著書のどこにも19願のことは触れられていません。

参考までに『高僧和讃』曇鸞讃の

万行諸善の小路より
 本願一実の大道に
 帰入しぬれば涅槃の
 さとりはすなはちひらくなり

の「万行諸善の小路」は、19願ではありません。なぜなら、曇鸞大師は19願のことを全く仰っていないので、ここは当然聖道門のことです。
高森理論でいう「万行諸善の小路」を必ず通るのならば、聖道門を必ずしなければならないことになってしまいます。

『正信偈』の意味などまるで知らないのに厚顔無恥な高森顕徹会長にも困ったものです。

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2016年3月24日 (木)

親鸞聖人が大変重要視なされた龍樹菩薩の獲信までの体験

前々回のエントリーについて、もう少し詳しく解説してほしいとの御要望がありましたので、再度説明を致します。

まず、親鸞聖人は獲信までの道程について、具体的な例を挙げて説明されている個所がいくつかあります。
七高僧では、龍樹菩薩と曇鸞大師については、『正信偈』でも仰っているくらいですから、親鸞聖人がこのお二方の体験を大変重要視なされたことになります。

他には、阿闍世の獲信までの体験は、親鸞聖人は『涅槃経』を引かれて長々と紹介されています。その長さは、異様とも思えるほどで、その量は『教行信証』全体の約1割にも及び、信巻では約4割を占めています。ここから言えることは、阿闍世の獲信までの体験を通して、親鸞聖人は他力の信心を賜る道程を教えられているということです。

上記の3つの体験は、いずれも三願転入とは無関係です。
従って、親鸞聖人の教えは三願転入の教えではないことは、これだけでも簡単に説明できるのです。

3つの体験を順番に紹介していきますが、今回は龍樹菩薩について述べます。

『正信偈』では、

大乗無上の法を宣説し、歓喜地を証して安楽に生ぜん

とあるのは、さすがに会員でも知っているでしょう。
これを蓮如上人は『正信偈大意』で

「釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺 龍樹大士出於世 悉能摧破有無見 宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽」といふは、この龍樹菩薩は八宗の祖師、千部の論師なり。釈尊の滅後五百余歳に出世したまふ。釈尊これをかねてしろしめして、『楞伽経』に説きたまはく、「南天竺国に龍樹といふ比丘あるべし、よく有無の邪見を破して、大乗無上の法を説きて、歓喜地を証して安楽に往生すべし」と未来記したまへり。

と解説なされています。
龍樹菩薩は、聖道門で御修行なされて歓喜地を証されて後に、浄土門に帰依なされて往生なされた、という体験です。
また『教行信証』真仏土巻に曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』を引かれて

尊語を伏承して歓喜地にして、阿弥陀に帰して安楽に生ぜしむ。

(現代語訳)

釈尊のお言葉を承り、歓喜地の位にあって、阿弥陀仏に帰依して浄土に往生された。

と仰っています。
龍樹菩薩は、聖道門で歓喜地を証されて後に阿弥陀仏に帰依された体験をなされている、と親鸞聖人が仰っています。
念のため『高僧和讃』にも同様のことを仰っていますので、そちらも紹介します。

本師龍樹菩薩は
 大乗無上の法をとき
 歓喜地を証してぞ
 ひとへに念仏すすめける

親鸞聖人は龍樹菩薩の体験を殊更強調されています。一箇所しか書かれていない三願転入の文よりも重要だと親鸞聖人は見做されているのは明らかです。
龍樹菩薩は三願転入をされたという表現は、どこにもありません。
判りやすく表現すると

聖道門 → 18願

こういうことです。
聖道門で歓喜地まで至られ出離された龍樹菩薩が、今更19願の実践をされる理由は全くありません。龍樹菩薩は、定善も散善も当然ながらできた方です。聖道門の修行によって歓喜地まで至られた方が、定善も散善もできなかったら、聖道門はギャグでしょう。

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2015年6月22日 (月)

高森顕徹会長が大惨敗し逃亡した三願転入の法論8

法論の負けを自覚した時に、親鸞会が呟き始めるのが、高森顕徹流ヘンテコな雑行釈です。mixiでは

「雑行を捨てよ」とは、「自力の心を捨てよ」であって、「善をするな」ではない

と何度も一人で呟いていましたが、これは『なぜ生きる2』でもおなじです。

「雑行を捨てよ」とは、この悪い「自力の心」を捨てよということである。
 七高僧方が捨てよと言われるのも、「諸善」や「万行」のことではなく「自力の心」のことなのだ。
(中略)
「雑行を捨てよ」を「諸善は捨て物、必要ない」と曲解するのは、十九の願の門戸も知らず、弥陀・釈迦の「方便の善」もご存じない印象は覆いようもない。

とあります。
浄土真宗を少しでも学んだならば、一笑に伏す内容でしょう。

まず雑行の定義ですが、親鸞聖人は『教行信証』化土巻に

雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。

と仰っています。雑行とは、正行以外の行で、「横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。」ということですから、19願ともいえます。

ですから、

「雑行を捨てよ」は「19願を捨てよ」とほぼ同じ意味です。

また法然上人は『選択本願念仏集』で次のように仰っています。

いはく諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。

とか、あるいは

また念仏はこれ本願の行なり。諸行はこれ本願にあらず。

です。「諸善は捨て物、必要ない」と法然上人が仰っているのもご存じない印象は覆いようもないです。
親鸞聖人は『教行信証』行巻で念仏と諸善とを比較し、相対して論じられた中に

順逆対(念仏は本願に順じているが、諸善は本願に背いている)
選不選対(念仏は如来が選び取られた法であり、諸善は選び捨てられた法である)
有願無願対(念仏は本願の行であり、諸善は本願の行ではない)

があります。18願の行は念仏のみであり、諸善は18願の行ではない、つまり18願に背いた行であるということです。18願に背いた行であるから、捨てなければならないのは、言うまでもありません。

高森会長が雑行を説明する時に、よく言っていたのが、

五雑行は物柄が悪いから行自体を捨てなければならないが、諸善万行は物柄は良いが心がけが悪いから、その心がけを捨てなければならない

ですが、ここが根本的におかしいところです。高森会長の言葉を使うなら、

雑行は物柄が悪いから行自体を捨てなければならないが、自力念仏は物柄は良いが心がけが悪いから、その心がけを捨てなければならない

となります。行自体を捨てるのは雑行です。もちろん、五雑行を自分で捨てることができるのですから、諸善万行も自分で捨てることができるに決まっているではないですか。なぜなら、行なのですから、しなければいいだけのことです。簡単なことです。

そう言うと、

ではやりたい放題してもいいということか

と愚かな反論をしてくるのが親鸞会ですが、往生と無関係にする倫理道徳の善は大いに励むべきでしょう。往生と無関係なのですから、雑行ではありません。

高森会長も『なぜ生きる2』で言っていますよ。

「雑行」とは「弥陀の救いを求めて行う諸善(もろもろの善)」をいう。

では、弥陀の救いを求めて19願を実践したり、布施行をするのを止めて、弥陀の救いとは無関係に親孝行などをすればいいのです。

要するに、

「雑行を捨てよ」とは「親鸞会で勧める善を捨てよ」であって、「倫理道徳の善をするな」ではない。

こういうことです。

三願転入の法論は、名実ともにこれで完全終了でした。その後、この法論が行われたところは親鸞会の会員が管理していたことから、やり取りはすべて削除され、法論自体がなきものにされました。

もちろん、いたるところで法論の痕跡は残っていますので、法論自体がなかったことにはできず、追い詰められて『なぜ生きる2』を書いて、更に恥を晒したのは、言うまでもありません。

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