三願転入

2020年12月29日 (火)

『なぜ生きる2』の出版から7年ー5

三願転入の理屈が覆されると次に出てくるのが、宿善です。宿善については、定義が善知識方によって異なってくるので、説明がややこしいのですが、『なぜ生きる2』18章では『御一代記聞書』の

陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。
弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。
とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。
已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。

を出して以下のような意訳を付けています。

陽の当たるところの花は速く咲き、日蔭の花は遅いだろう。
陽の当たるところの花が速く咲くように、弥陀の本願を真剣に聞き速く救われる人もある。聞法を怠れば日蔭の花のように救われるのも遅くなる。
同じく弥陀の光明(聞法)に遇っても、救われるのが速い人と遅い人があるのは、人それぞれの宿善(過去の善根)に遅速(厚薄)があるからだ。
救われている人も、救われていない人も、ともかくも、大事なことは真剣な聴聞である。

としています。ここで最も問題なのが

かように宿善も遅速あり

ですが、この意味は高森顕徹会長は、「人それぞれの宿善(過去の善根)に遅速(厚薄)があるからだ 」としていますが、正しくは

同じく弥陀の光明(聞法)に遇っても、信心を獲るのが速い人と遅い人がある

です。この『御一代記聞書』の基になっているのが蓮如上人が「金を掘り出すような聖教」とまで絶賛されました『安心決定鈔』にあるお言葉です。事実、『御一代記聞書』には、『安心決定鈔』からの引用が多数あります。
ここの関連部分は

かるがゆゑに仏の正覚のほかは凡夫の往生はなきなり。十方衆生の往生の成就せしとき、仏も正覚を成るゆゑに、仏の正覚成りしとわれらが往生の成就せしとは同時なり。仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。機によりて三世は不同なれども、弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり。
(中略)
かくこころうれば、われらは今日今時往生すとも、わがこころのかしこくて念仏をも申し、他力をも信ずるこころの功にあらず。勇猛専精にはげみたまひし仏の功徳、十劫正覚の刹那にわれらにおいて成じたまひたりけるが、あらはれもてゆくなり。覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり。已・今・当の三世の往生は不同なれども、弘願正因のあらはれもてゆくゆゑに、仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり。

です。
ここに書かれてあることは、
阿弥陀仏が十劫の昔に、本願を成就されているのに、人によって往生の時期に前後ができるのはなぜかということについてです。
『御一代記聞書』と比較するとよく判ります。

已今当の往生あり(『御一代記聞書』)

すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり(『安心決定鈔』)

已・今・当の三世の往生は不同なれども(『安心決定鈔』)

このことより、

宿善も遅速あり(『御一代記聞書』)

仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば(『安心決定鈔』)

覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり(『安心決定鈔』)

となります。

に当ります。「ことわりをしる」「あらわす」とありますし、『御一代記聞書』の最後に

昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もあり

とありますので、『御一代記聞書』の「宿善」とは、信心のことを指していることがお判り頂けると思います。

つまり『御一代記聞書』では、信心をうることに遅速があるから、已今当の往生がある、と教えられたお言葉と理解できます。

『安心決定鈔』の「ことわりをしる」「あらわす」ことは、自分のやった善とは全く関係ないのです。『安心決定鈔』の、

弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり

仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり

に、そのことが明確に解説されています。
要するに、『御一代記聞書』の「宿善」には、自力的な意味の善は含まれていないのです。

人それぞれの宿善(過去の善根)に遅速(厚薄)があるからだ。

こんな意味になることは、100%あり得ません。

宿善とは、「善」の文字があるから善と関係があるに違いない

という高森顕徹会長の妄想が生み出した珍釈です。

mixiでの法論の際には、

いづれの経釈によるともすでに宿善に限れり

とだけ述べて、伝家の宝刀を抜いた気持ちだったのでしょうが、あっけなく破邪されています。ここでの宿善は、この前後を見れば

親鸞聖人の教えを聞く気がある

という意味にしかなりません。『御文章』3帖目12通

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本 不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。 このおもむきをくはしく存知して、ひとをば勧化すべし。 

とある通り、善の意味はありません。ちなみに「善本」は親鸞会でも教えているように、念仏のことです。それが判っていたから、mixiでの法論の際には、高森会長は宿善についてこれ以上言いませんでしたし、『なぜ生きる2』でも宿善論を展開しませんでした。

40年前の本願寺との宿善論争が嘘のようです。ハッキリ言えば、嘘だったという結論です。

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2020年12月24日 (木)

『なぜ生きる2』の出版から7年ー4

mixiでの三願転入の法論で、高森顕徹会長が19願の必要性を訴える根拠として出したのが、『一念多念証文』の

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。いま一乗と申すは本願なり。

でした。この御文は、実は某除名元講師部員が三願転入の根拠として主張していたのを、別の除名元講師部員がそれを否定するためにブログで紹介して、それを親鸞会がパクったという経緯です。mixiでの法論が始まる数ヶ月前のことです。

そこで自信満々にこの御文を出して三願転入を声高に叫んだのですが、特に拘ったのが「浄土の方便の善」です。浄土に往生するために必要な善と解釈していたのですが、それを退会者は覆しました。

19願の善、定散二善のことを親鸞聖人が他所でどう仰っているかを出したのです。

『教行信証』信巻には、

また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。

とあり、化土巻には

釈家の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。

とあります。
浄土の方便の善」を「迂回の善」「欣慕浄土の善根」と仰っています。「迂回の善」は文字通り遠回りの善ということで、三願転入が近道という高森会長の主張を完全否定するものです。もう一つの「欣慕浄土の善根」とは、浄土を願い慕う善ということですが、これはどういうことかと言えば、浄土を願っていない人に浄土を願わせるための善という意味です。具体的に言いますと、浄土を願っていない人とは聖道門の人です。聖道門は

この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく

と親鸞聖人が定義されているように、この世で聖者の位に入り出離の果、最終的には成仏の果を得ることを目指すものです。浄土を目指していないのです。浄土を目指していない聖道門の人を浄土門に導くためには方便が必要です。それを「浄土の方便の善」と親鸞聖人が仰ったということなのです。

前々回、前回のエントリーの内容と完全に一致する内容になります。聖道門で修行をしながら、聖者となれない凡夫は、聖道門を断念せざるを得ません。そこに、聖道門と同じ行で、浄土を目指すならば浄土に往生させるという19願を知れば、聖道門を目指しながら途中で断念した人は19願を求めることになるのです。もちろん、阿弥陀仏の本意はあくまで18願の他力念仏ですが、いきなり他力念仏では聖道門とはかけ離れているので、聖道門に近い19願が「方便の善」となると親鸞聖人が仰ったのです。

この「欣慕浄土の善根」は、高森会長にとっても親鸞会の講師部員にとっても、完全に未知の領域であったために、mixiでは呆然とするしかありませんでした。

『なぜ生きる2』においても、「欣慕浄土の善根」については説明も反論もできなかったことから、高森会長の衝撃の大きさが判ります。mixiでの法論では衝撃の連続であったとはいえ、「欣慕浄土の善根」が最も大きな衝撃だったと思われます。

これまでの3回をまとめれば、19願の善は「欣慕浄土の善根」に収まると言っても良いでしょうが、会員には全く理解できない真宗の教義です。

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2020年12月18日 (金)

『なぜ生きる2』の出版から7年ー3

親鸞聖人は、『大無量寿経』の異訳経である『平等覚経』『大阿弥陀経』を引かれて『大無量寿経』をより掘り下げて解釈をされていますが、前回紹介した『大無量寿経』の19願に相当する部分については、異訳経との比較をされていません。そのことを親鸞会は知って、

19願の「十方衆生」は全人類ということだ

とぬか喜びをしたこともありますが、それは親鸞聖人が19願をどう位置付けられているかを知らなかったからです。
mixiでの三願転入の法論の際にも問題になっていたのが、『教行信証』化土巻の

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

でした。高森顕徹会長は前段部分を無視して、後段だけを切り取り、

釈尊は定散二善を顕わされて「群生海」つまり全人類を導き、阿弥陀仏は19願を立てられて「あまねく諸有海」つまり全人類を導かれたのだ

としていました。しかし、ここには前段があるのです。しかも「ここをもつて」で前段と後段が繋がっていますので、前段を無視することはできません。前段は
外道を出て聖道門に入ったといいながら、「」「」なるものは極めて少なく、逆に「」「」なるものは極めて多い
ということですので、聖道門で「」「」なるもののために、釈尊は定散二善を説かれ、阿弥陀仏は19願を立てられた、となります。
もっと簡単に言うならば、

19願は、聖道門を断念したもののための願

ということになります。
これが前回の『平等覚経』『大阿弥陀経』の内容と一致しているのですから、断言まではできませんが、親鸞聖人が『平等覚経』『大阿弥陀経』を基にされてこのように解釈なされたと言えるでしょう。
mixiでの法論の際には、化土巻のお言葉の後に『平等覚経』『大阿弥陀経』を出したのですが、この化土巻のお言葉を巡っても高森会長は何ら反論できませんでした。そして『なぜ生きる2』では10章に

 弥陀は十九願を建てて善を勧め、釈迦が一代、廃悪修善を説かれたのは、知った分かったの観念の遊戯ではなく、実地にやらせるためであったと、聖人は仰せになっている。

以下は、その文証である。

然るに濁世の群萌・穢悪の含識、乃し九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入ると雖も、真なる者は甚だ以て難く、実なる者は甚だ以て希なり、偽なる者は甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋し。
ここを以て、釈迦牟尼仏、福徳蔵(十九願)を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願を発して普く諸有海を化したまう。既にして悲願有す、「修諸功徳の願」と名づく
                              (『教行信証』化身土巻・本)

と書いていますが、もはや口語訳さえも断章取義で誤魔化しているのですから、高森会長の悔しさが感じられる典型的な箇所でもあります。
これで19願が全人類のための願であるという根拠を高森会長は失ったのですが、mixiでの法論の際には駄目押しの根拠がこの後出されて、高森会長は絶句することとなりました。それは次回で。

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2020年12月 9日 (水)

『なぜ生きる2』の出版から7年ー2

高森顕徹会長が信頼していた人が、平均寿命に遠い年齢で、次々と亡くなっています。若くして亡くなった主治医についてはご存知の方も多いでしょうが、今年に入ってからでも、親戚でもないのにプライベートでも特別にかわいがっていた人、そして身内の中でも特別に信頼していた人です。
現生十種の益を得ているはずの高森会長には、現生の災いが降り注いでいます。

このことを取ってみても、高森会長の説明する現生十種の益や絶対の幸福が嘘であったと判るでしょう。高森会長の酷い人格が暴かれ、その上盤石と思われていた教義までもが豆腐のように軟弱であったと周知されたのですから、高森会長は怒りと悔しさに満ち溢れていることでしょう。ただし、思考ができる状態ならばです。

さて、mixiでの三願転入の法論で、19願が万人共通で必要不可欠であるとする最大の根拠が19願文にある「十方衆生」でした。実は、この法論までは、この「十方衆生」の理屈を退会者が直接論破してきませんでした。
ところがmixiでの法論ではこれを覆す根拠が出されたのです。
それが『大無量寿経』の異訳経である『平等覚経』と『大阿弥陀経』でした。親鸞聖人は、『教行信証』において、『大無量寿経』の異訳経を通して、『大無量寿経』を解釈された箇所があります。有名なところでは18願成就文の「乃至一念」を信心と解釈された根拠を『大無量寿経』ではなく『無量寿如来会』とされたところです。
『平等覚経』と『大阿弥陀経』も度々引かれていますので、親鸞聖人が異訳経を重要視されていたことは間違いありません。

そこで退会者は『大無量寿経』の19願文を『平等覚経』と『大阿弥陀経』で出したわけです。すると「十方衆生」の意味が明確になるのです。
その時の説明が

『大無量寿経』18願の「十方衆生
=『平等覚経』17願の「諸天人民蠕動之類者
=『大阿弥陀経』4願の「諸天人民蜎飛蠕動之類
諸々の神々や人々や虫の類

『大無量寿経』19願の「十方衆生
=『平等覚経』18願の「諸佛國人民有作菩薩道者
=『大阿弥陀経』7願の「八方上下無央數佛國諸天人民若善男子善女人有作菩薩道
諸々の仏国土の菩薩の行を行う者

でした。18願の「十方衆生」は、文字通りすべての衆生ですが、19願の「十方衆生」は、菩薩道を歩む者、つまりは聖道門で修行している人もしくは聖道門で修行をしてきた人の意味になるのです。18願と19願では同じ「十方衆生」でも意味が明確に違うのです。
高森会長には想定外の「十方衆生」の反論に、茫然自失状態でした。

mixiでの法論に反論したことになっている『なぜ生きる2』でも、このことについては全く触れていませんし、未だにこれに対する反論がないので、高森会長にとっては、この一発が如何に効いたかが判ると思います。高森会長でも、さすがに経典を否定することはできなかったのです。

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2020年11月 7日 (土)

三願転入に対する親鸞会の妄想10

このブログを始めるより少し前の今から12年前は、高森顕徹会長のことを、人間性、教義とも正しいと信じている人が、退会者でも結構ありました。高森会長を追及するなど無謀だという空気が退会者にも漂っていました。ところが、高森会長の人間性が暴かれ、絶対に間違いないと信じられてきた教義までも出鱈目と判明すると、流れは変わりました。そしてmixi上での三願転入の法論で、高森会長の善知識像は、あっけなく崩壊し、退会者が続出することとなりました。
雲の上のアンタッチャブル的存在であった高森会長は、地に落ちましたが、高森会長が人を近づけさせないために、よく判らない人物のまま消えてゆくことになるでしょう。

高森会長が元気なうちに、親鸞会を名実ともに崩壊させたかったのですが、それが実現できなかったことは残念ですが、遠からず親鸞会は縮小分裂することになるでしょう。

さて、高森会長は三願転入の妄想を垂れ流して、組織維持に努めてきたわけですが、本来、三願転入とは何かを今回述べておきます。

歴史上名を残す獲信者で、三願転入を語った、もしくは三願転入したであろう証拠のあるのは、親鸞聖人だけです。
七高僧方は、聖道門から18願に入られたという方ばかりです。曇鸞大師だけが途中で道教を信じられたという経緯がありますが、19願、20願を通られたとは仰っていませんし、言及さえ無いに等しいです。
覚如上人、蓮如上人は、親鸞聖人の三願転入の文を引用されたり、説明された箇所がありませんし、御自身が19願、20願を通ったとも仰っていません。19願文、20願文さえ紹介されていません。

この状況で、三願転入が万人共通の道程だなどと言える理屈が通るわけもないでしょう。

mixiでの三願転入の法論の際に、苦し紛れに、

三願転入は心の道程だ

と高森会長は言っていましたが、それなら善をする必要はないのかと質問すると、

善をしなければ信仰は進まない

と心の道程ではなく、身の道程である本音が出てしまったのです。

結局のところ、三願転入と言いながら、19願の善、正確には、財施という金集め、法施という人集めをさせる口実だったと暴露したようなものでした。

では、親鸞聖人はなぜ三願転入、19願と20願の詳説をなされたのかということですが、それには時代的な背景があったのです。

法然上人が聖道門から猛烈な非難を受けられた中に、19願をなぜ無視するのか、というものがありました。

承元の法難の直接の切っ掛けとなった『興福寺奏状』には、

ここに専修、此のごときの難を蒙らんの時、万事を顧みず、ただ一言に答へん、「是れ弥陀の本願に四十八あり、念仏往生は第十八の願なり」と。何ぞ爾許の大願を隠して、ただ一種を以て本願と号せんや。

とあり、阿弥陀仏の本願は48あるのに、18願だけというのはおかしいと言っています。
また法然上人が亡くなられた後、明恵上人高弁が『摧邪輪』を著して、

解して曰く、発菩提心は、是れ仏道の正因、是れ体声なり。専念弥陀は、是れ往生の別行、是れ業声なり。汝が体を捨てて業を取るは、火を離れて煙を求むるがごとし。咲ふべし、咲ふべし。まさに知るべし。これらの解釈の文は、皆菩提心においては、置いてこれを論ぜず、ただ所起の諸行についてこれを判ず。しかるに本願の中にさらに菩提心等の余行なしと言うは、何が故ぞ。第十九の願に云く、「発菩提心、修諸功徳」等と云々。是れ本願にあらずや。

と具体的に19願を出しています。

要するに、聖道門は19願を最も重要な願と位置付けていて、法然上人が18願だけで良いと仰ったことに対して痛烈に非難したのです。

それに対する親鸞聖人の反論が三願転入なのです。聖道門が最重要な願と看做した19願は、聖道門の人を浄土門へ導き入れるための願であるから、聖道門と浄土門を分岐する要の門とされた上で、最終的には18願まで導くための仮の門だと仰ったのです。その証拠がこの親鸞だ、ということで三願転入の文になったのです。

もう一度言いますと、聖道門が19願を最重要視したので、親鸞聖人が19願は聖道門から浄土門へ最終18願へ導くための願とされて、それを親鸞聖人ご自身の体験で証明されたということです。

これで、三願転入の意味がすっきりすると思いますが、未だにマインドコントロール真っただ中の会員は、理解したくないと必死に否定する理屈を考えるでしょう。ご苦労なことです。

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2020年10月22日 (木)

三願転入に対する親鸞会の妄想9

高森顕徹会長は、今後会員の前に、元気な姿を見せることはないでしょう。
そのことに関連してではありませんが、高森会長が寵愛していた幹部が自殺しました。
「彼はノーベル賞を取れないのか?」
と高森会長が言うほどでしたが、高森会長に近すぎたが故に、残念なことになってしまいました。
公私共に、高森会長に親近し、高森会長に服従してきた結果がこれです。

会員からは高森会長との距離が近いと思われている講師部員ですが、実際は、圧倒的多数の講師は、高森会長と話をしたことすらないし、随行以外で高森会長と少人数で会うこともない、言葉だけの直弟子ばかりですから、適度に服従し、適度に求道の真似事して、年月を積み重ねているだけです。そんな講師部員はいつでも高森会長から逃れられるので、離脱の準備をすべきでしょう。一般会員は尚更です。

さて普通の頭があれば判ると思いますが、親鸞聖人の教えに、善の勧めがある筈がないのです。自力念仏の勧めがあるかどうかの議論なら判りますが、善の勧めがあるかどうかなど、浄土真宗において議論の余地など全くありません。

その証拠が、源信僧都の『往生要集』にある、

『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

を親鸞聖人は『教行信証』行巻に引かれ、『正信偈』には、

極重の悪人はただ仏を称すべし。

と簡潔に仰り、『高僧和讃』にも

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

と仰っているくらい、親鸞聖人お気に入りのお言葉です。

一言で説明するなら、

善は不要、念仏一つで浄土往生できる

です。
先ほど言いましたように、この念仏が自力念仏かどうかは議論の余地があるかもしれませんが、少なくとも、念仏を称えて往生する、ということ以外に解釈の仕様がありません。

念仏ではない、信心1つで助かるんだ!

という反論をする人もあるでしょうが、親鸞聖人がこのように仰っていることを否定するのか肯定するのかを、まず考えた方が良いです。
否定するなら、これ以上議論をするだけ無駄です。
肯定するなら、念仏と信心との関係を考えましょうという話です。

信心とは、『正信偈』でいうなら、「極重の悪人はただ仏を称すべし」と信じた心ですし、『高僧和讃』なら「ひとへに弥陀を称してぞ 浄土にうまる」と信じた心です。

この説明で判る人は真実の信心を獲ている人でしょう。

これに反発するなら、信心とは何を信じる心なのかの説明を聖教を基にしてもらいたいものですが、お気楽講師部員、会員では、そこまで考えたこともないでしょう。
三願転入すれば自ずから判ると妄想しているようですが、善に心が掛かっているうちは、永遠に判りません。

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2020年10月11日 (日)

三願転入に対する親鸞会の妄想8

親鸞会の会員の考える三願転入とは

善をすれば善のできないことが知らされて、機の深信が立ち、同時に法の深信が立って18願の信心が頂ける

というようなものです。
しかし、善をして善のできないことが知らされるという理屈が最初から破綻しています。善をしたのであれば、善ができたと知らされるのです。その善がどの程度のかは人それぞれでしょうが、善をしたのに1つの善もできなかったということは、言葉からしておかしいです。
理屈が通るように言いたいのであれば、

1.善をしようと試みたが善ができなかった
2.善をしたが僅かな善しかできなかった

のどちらかになります。
高森顕徹会長の詭弁として出す例が、親孝行ですが、

親孝行をすればするほど親孝行ができないと知らされる

と説明しますが、これを正確にいうならば、

親孝行をすればするほど親が喜ぶような孝行ができないと知らされる

です。つまり、親孝行はしているけれども、大した親孝行ができていないと知らされるということで、上記の2と同じことになります。

高森会長も認めている通り、雑毒の善はできるのですから、善はできるのです。ただし、その程度の雑毒の善では往生できない、というのが正解です。

では、往生できるだけの善(=真実の善)ができると思っている会員が一人でもいるのかについては、誰一人そんなことは思っていないでしょう。もしそんなことを思っているならば、親鸞聖人の教えで救われよう、18願で救われようとは考えないでしょう。聖道門を目指すか、少なくとも19願で往生することを目指すでしょう。

少し具体的なことを言うと、大無量寿経を含む浄土三部経の聴衆は、菩薩、阿羅漢、お弟子など聖道門ばりばりの行者です。18願のことを釈尊から聞きながら、聖道門から浄土門に転向して18願に転入したとはどこにも説かれていませんし、親鸞聖人もその認識です。

『教行信証』信巻の

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

ここから、弥勒菩薩は聖道門を続け、念仏の衆生にはなっていないと親鸞聖人は解釈されています。

つまり、浄土三部経の聴衆であった聖道門の行者は、我々とは桁違いの善をしてきましたが、善ができないと知らされることもなく、この程度の善では往生もしくは成仏できないと知らされることもなかったのです。では我々がわずかな善をしたところで、何の意味があるのかです。まさか、弥勒菩薩以上の善をしなければ三願転入できないというのなら、その人は出離は楽々できるでしょう。

同じく信巻に

また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。

と仰っているように、19願、定散二善は、「迂回の善」、つまり遠回りの善でしかないのです。

三願転入という妄想に憑りつかれている会員は、18願を知っている菩薩方や聖道門の行者のことを思い出すとよいでしょう。あれだけの善をしても18願に転入できていない現実を。

金集めが年々酷くなる中で、それに耐えたところで得られるものは、貧と恥のみです。

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2020年9月21日 (月)

三願転入に対する親鸞会の妄想7

高森顕徹会長が引き籠って、それでも金銭要求だけは際限がなく、会員の士気が探し続けているのは言うまでもありません。
因果の道理を信じているなら、この結果は判っていたはずですが、実際には因果の道理など信じていないので、親鸞会の近未来は真っ暗でしょう。

さて、因果の道理と言っても、大まかに
世間の因果
出世の因果
報土の因果
と分かれます。
出世の因果を聖道の因果化土の因果に分けることもできます。

親鸞聖人は報土の因果を教えられたのであって、出世の因果を信じることを厳しく誡められています。

報土の因果とは『教行信証』信巻に、

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

とあるように、報土往生の因は阿弥陀仏が衆生に与えてくださるものであり、衆生の因は全くありません。
高森会長の炭素とダイヤモンドの譬えを信じている会員は、因は衆生で縁が阿弥陀仏と思っているでしょうが、報土往生の因も縁も阿弥陀仏が100%用意してくだされたものです。
出世の因果を教える聖道門では、衆生の因と仏の因が混在していると考え、報土往生を誓われた阿弥陀仏と雖も、衆生の因が相当の割合必要だとしています。

つまり、高森会長の言う三願転入論も宿善論も、聖道門の理論なのです。ついでに炭素とダイヤモンドの譬えも、聖道門の発想です。

もう一度言いますが、出世の因果と報土の因果は全く別の道理で、親鸞聖人は出世の因果を信じることを厳しく誡められ、それどころか出世の因果を信じることが自力、仏智不思議を疑う心、疑情だと断言されているのです。
何のことはない、高森会長の教えすべてが、自力であり疑情の教えですから、高森会長の教えを捨てることを自力を捨てることになるのです。

どうすれば救われますか?

このように会員や退会者からよく質問されますが、答えは、

高森会長の教えをすべて捨てよ

です。

念のため言っておきますが、高森会長は出世の因果と世間の因果を混同して教えていますので、根本的に因果の道理に疎いのです。

高森会長が因果の道理に疎い事例として会員でも判るようにいうならば、

お金を儲けるには、お金を儲けることをしなければなりません。親鸞会の活動・財施をしてお金が儲かることはありません。会員はここさえ誤解しているでしょうが、当たり前のことです。親鸞聖人の御一生を見れば判りますが、親鸞聖人は亡くなられるまで生活に困窮されるような生活でした。

大学を優秀な成績で卒業するには、勉強するしかありません。親鸞会の活動をしても、成績上昇の何の足しにもなりません。学友部では、この辺りもマインドコントロールされて、卒業できない学生が多くいますが、愚かな思考です。

因果の関係で言えば、お金を儲けることも成績を上げることも、報土に往くことも同じなのですが、全く違うのが、自因自果か他因自果(この場合の他は阿弥陀仏)かということです。

高森会長の教えを信じて得られるものは、貧と恥のみです。

報土往生したいという気が少しでもあるのであれば、まずは高森会長を完全に見限ることです。

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2020年8月30日 (日)

三願転入に対する親鸞会の妄想6

最近の親鸞会は、困ったときの因果の道理だのみで、善の勧めの根拠を出せと迫られると、

仏教の根幹は因果の道理だ

ときます。バカも休み休み言え、と言いたいですが、そもそも親鸞会では因果の道理を本気で信じているのかといえば、ノーです。
理由は簡単で、浄土門で教える最善最高最上の善因は、念仏であるのに、念仏よりも親鸞会の活動が絶対と考えているからです。

一応根拠を紹介しておきます。『教行信証』化土巻に

元照律師の『弥陀経の義疏』にいはく、「如来、持名の功勝れたることを明かさんと欲す。まづ余善を貶して少善根とす。いはゆる布施・持戒・立寺・造像・礼誦・座禅・懺念・苦行、一切福業、もし正信なければ、回向願求するにみな少善とす。往生の因にあらず。もしこの経によりて名号を執持せば、決定して往生せん。すなはち知んぬ、称名はこれ多善根・多福徳なりと。むかしこの解をなしし、人なほ遅疑しき。近く襄陽の石碑の経の本文を得て、理冥符せり。はじめて深信を懐く。かれにいはく、〈善男子・善女人、阿弥陀仏を説くを聞きて、一心にして乱れず、名号を専称せよ。称名をもつてのゆゑに、諸罪消滅す。すなはちこれ多功徳・多善根・多福徳因縁なり〉」と。

(現代語訳)

元照律師の『阿弥陀経義疏』にいっている。
「釈尊は、念仏の功徳がすぐれていることを明らかにしようとされ、まず念仏以外の善を劣ったものとしてわずかな功徳しかないといわれる。布施をし、戒律をたもち、あるいは寺を建て、仏像をつくり、仏を礼拝し、経を読み、または座禅をし、懺悔し、苦行するなどのすべての善は、もし正しい信がなかったなら、そのような善によって浄土に往生しようと願っても、みなわずかな功徳しかなく、往生の因ではないのである。もし、『阿弥陀経』の教えにしたがって念仏するなら、間違いなく往生するであろう。だから念仏は多くの功徳があると知ることができる。
かつて、わたしはこのような解釈をしたが、世間の人はなお疑って信じなかった。しかし最近、襄陽の石碑に刻まれた『阿弥陀経』の文を見たところ、わたしの解釈と見事に一致しており、そこではじめて深く信じるようになったのである。その文には次のように説かれている。<善良なものよ、阿弥陀仏について説かれるのを聞いて、心を乱すことなくただひとすじに名号を称えるがよい。名号を称えることにより、あらゆる罪が除かれる。すなわち念仏は多くの功徳をそなえて行である>」

とあります。難しい内容ではないので、読まれた通りですが、念仏は「多功徳・多善根・多福徳因縁」ですが、諸善はその反対で「少功徳・少善根・少福徳因縁」です。
ここで言う念仏は自力の念仏です。

鈍い会員のために譬えで解説します。

1日働いて100円の炎天下での重労働
1日働いて100万円の誰でもできるエアコンの利いた部屋での軽作業

どちらを選択するのか、という話です。
こんな極端なことは世の中にない、と思っている人がいたら、井の中の蛙でしょう。こんなことは世界中で実際によくあります。実例は自分で調べてみてください。

より良い果を求めるなら、より良い因を求めるのが、因果の道理を信じている人の行動でしょう。そして、自力の念仏は諸善とは桁違いの功徳があるのですから、親鸞会の非効率で無意味な活動をしている暇があるのなら、念仏を称えた方が、余程、良い結果を得られるでしょう。それなのに、発展途上国最貧困層の労働環境並みの親鸞会の活動をしている会員は、因果の道理を信じていないか、あるいは今の労働環境が世界最高だと騙されているののどちらかでしょう。

因果の道理を信じている、より良い結果を求めている、更には無常迅速と思っているのであれば、親鸞会の最悪最低最下の活動をすることはあり得ません。

もう一度言います。

自力の念仏は、多功徳・多善根・多福徳因縁
諸善は、少功徳・少善根・少福徳因縁

高森流宿善論が正しいとして、何が最も宿善を厚くすることになるか考えてみましょう。

再度、高森顕徹会長の『なぜ生きる2』11章にある

 無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。

を読んでみてください。
これが、真宗の教えであるかどうか、20願を通ったことのある人物の言葉であるのかどうか、僅かに思考が残っていれば、答えは明々白々です。

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2020年8月22日 (土)

三願転入に対する親鸞会の妄想5

10年前のmixiでの最大の論点は、

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉があるなら出して

でした。
答えは、無い、ですので、最初から決着していましたが、ごちゃごちゃ誤魔化し続けていただけで、それは『なぜ生きる2』でも変わりませんでした。
6章にこうあります。

 もし三願転入の弥陀の救いが、親鸞聖人や一部の人に限定されることならば、十九願の人々に、折れず曲がらず速やかに二十願に進めよの、聖人の励ましは『教行信証』になかったであろう。
 それが幾たびも見かけるのだ。

 総ての人々よ。十九の願から二十願に進んでおくれ。必ず十八願・選択の願海へ転入させて頂けるのだから。

 以下は、その文証である。

  それ濁世の道俗(すべての人)、速に円修至徳の真門(二十願)に入りて、難思往生を願うべし」(『教行信証』化身土巻・末)

 特定の人を「濁世の道俗」とは言われない。三願転入は、すべての人の道程だから「濁世の道俗」と言われているのである。

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉はありませんので、参考までに親鸞聖人が20願を勧められたお言葉をmixiで教えてあげたのですが、それを『なぜ生きる2』では19願を勧められたお言葉であるかのように偽装したのです。

偽装しようが詭弁を使おうがまとめるとこうなります。

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉はない。
親鸞聖人が20願を勧められたお言葉はある。

この事実を普通に判断するなら、親鸞聖人が三願転入の道程を全人類に当て嵌められていないことと、20願から18願への転入という親鸞会的言い方をするなら二願転入を積極的か消極的かは別として認められていたことが判ります。

言葉を代えてまとめると、

親鸞聖人は三願転入を否定的に看做されていた。
親鸞聖人は二願転入を肯定的に看做されていた。

こうとしか言えないのです。
一応言っておきますが、親鸞聖人は上記のように20願を一応は勧められていますが、三願転入の直前に仰った20願の結論として

悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。

(現代語訳)

悲しいことに、煩悩にまみれた愚かな凡夫は、はかり知れない昔から、迷いの世界を離れることがない。果てしなく迷いの世界を生れ変り死に変りし続けていることを考えると、限りなく長い時を経ても、本願力に身をまかせ、信心の大海にはいることはできないのである。まことに悲しむべきことであり、深く嘆くべきことである。大乗や小乗の聖者たちも、またすべての善人も、本願の名号を自分の功徳として称えるから、他力の信心を得ることができず、仏の智慧のはたらきを知ることがない。すなわち阿弥陀仏が浄土に往生する因を設けられたことを知ることができないので、真実報土に往生することがないのである。

と仰っているので、親鸞聖人が積極的に20願を勧められているとは言えません。

つまりは20願の勧めは微妙でありますが、19願の勧めは明確に否定されているのです。

この単純な理屈をmixiで知らされた高森顕徹会長が、mixiで絶句した悔しさを『なせ生きる2』でぶつけたという訳です。

益々評価を下げた高森会長でした。

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