因果の道理

2021年1月12日 (火)

『なぜ生きる2』の出版から7年ー6

親鸞聖人が19願を勧められた根拠も、善を勧められた根拠も全くありません。高森顕徹会長が、勘違いしていた根拠はありますが、その勘違いを指摘すると反論できず沈黙するしかありません。日本語が判るなら、そうせざるを得なくなります。
これですんなり引き下がるのならかわいいのですが、醜態を晒すために最後の奥の手を出してきます。それが因果の道理です。

仏教の根幹は因果の道理だ!

高森会長お得意のフレーズです。
『なぜ生きる2』10章には

 悲しむべきこの実態を見られて釈迦は、諸善を勧める弥陀の十九の願(修諸功徳の願)を生涯、説き明かされた。
 弥陀の十九願は、十方衆生(すべての人)を弥陀の十八願・真実(絶対の幸福)へ導くに、極めて重要な方便願であるからだ。

 まず釈迦は、誰もが納得する三世十方を貫く因果の道理を説き刻まれる。
 因果の道理は釈迦のみならず、大宇宙の諸仏共通の教えである。

諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教
                  (七仏通戒偈)

”諸々の悪を作すこと莫れ、衆の善を奉行し、自ら其の意を浄くせよ、是れ、諸仏の教えなり”
 因果の道理は仏教の入口であり、教えの定規である。仏教の根幹と言われる所以だ。

とあります。ところが、それを聞いて疑問に思われたことがある方もあるでしょう。

仏教の根幹の因果の道理を教えられた親鸞聖人のお言葉は?

そう、親鸞聖人が因果の道理について教えられたお言葉を高森会長は一度も出したことがありません。なぜなら、無いからです。

親鸞聖人が因果の道理について教えられていないと言うことはどういうことか考えてみれば良いですが、普通に考えれば18願の救いには関係ないという結論に達するでしょう。正確には、

因果の道理は18願の救いの妨げになる

が親鸞聖人の教えです。
根拠は山ほどありますが、最も判りやすいのが『正像末和讃』誡疑讃の

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

仏智不思議をうたがひて
 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば
 胎生のものとときたまふ

などです。因果の道理を否定的、それ以上に、仏智の不思議をうたがう心、つまり疑情と親鸞聖人は断言されています。

親鸞聖人が因果の道理を教えられていない理由は、因果の道理を信じることが阿弥陀仏の18願を疑う心そのものだからです。18願を疑う心を無くそうとして、疑心を煽ることをする知識があれば、その知識を悪知識というのです。

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2020年9月21日 (月)

三願転入に対する親鸞会の妄想7

高森顕徹会長が引き籠って、それでも金銭要求だけは際限がなく、会員の士気が探し続けているのは言うまでもありません。
因果の道理を信じているなら、この結果は判っていたはずですが、実際には因果の道理など信じていないので、親鸞会の近未来は真っ暗でしょう。

さて、因果の道理と言っても、大まかに
世間の因果
出世の因果
報土の因果
と分かれます。
出世の因果を聖道の因果化土の因果に分けることもできます。

親鸞聖人は報土の因果を教えられたのであって、出世の因果を信じることを厳しく誡められています。

報土の因果とは『教行信証』信巻に、

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

とあるように、報土往生の因は阿弥陀仏が衆生に与えてくださるものであり、衆生の因は全くありません。
高森会長の炭素とダイヤモンドの譬えを信じている会員は、因は衆生で縁が阿弥陀仏と思っているでしょうが、報土往生の因も縁も阿弥陀仏が100%用意してくだされたものです。
出世の因果を教える聖道門では、衆生の因と仏の因が混在していると考え、報土往生を誓われた阿弥陀仏と雖も、衆生の因が相当の割合必要だとしています。

つまり、高森会長の言う三願転入論も宿善論も、聖道門の理論なのです。ついでに炭素とダイヤモンドの譬えも、聖道門の発想です。

もう一度言いますが、出世の因果と報土の因果は全く別の道理で、親鸞聖人は出世の因果を信じることを厳しく誡められ、それどころか出世の因果を信じることが自力、仏智不思議を疑う心、疑情だと断言されているのです。
何のことはない、高森会長の教えすべてが、自力であり疑情の教えですから、高森会長の教えを捨てることを自力を捨てることになるのです。

どうすれば救われますか?

このように会員や退会者からよく質問されますが、答えは、

高森会長の教えをすべて捨てよ

です。

念のため言っておきますが、高森会長は出世の因果と世間の因果を混同して教えていますので、根本的に因果の道理に疎いのです。

高森会長が因果の道理に疎い事例として会員でも判るようにいうならば、

お金を儲けるには、お金を儲けることをしなければなりません。親鸞会の活動・財施をしてお金が儲かることはありません。会員はここさえ誤解しているでしょうが、当たり前のことです。親鸞聖人の御一生を見れば判りますが、親鸞聖人は亡くなられるまで生活に困窮されるような生活でした。

大学を優秀な成績で卒業するには、勉強するしかありません。親鸞会の活動をしても、成績上昇の何の足しにもなりません。学友部では、この辺りもマインドコントロールされて、卒業できない学生が多くいますが、愚かな思考です。

因果の関係で言えば、お金を儲けることも成績を上げることも、報土に往くことも同じなのですが、全く違うのが、自因自果か他因自果(この場合の他は阿弥陀仏)かということです。

高森会長の教えを信じて得られるものは、貧と恥のみです。

報土往生したいという気が少しでもあるのであれば、まずは高森会長を完全に見限ることです。

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2020年8月30日 (日)

三願転入に対する親鸞会の妄想6

最近の親鸞会は、困ったときの因果の道理だのみで、善の勧めの根拠を出せと迫られると、

仏教の根幹は因果の道理だ

ときます。バカも休み休み言え、と言いたいですが、そもそも親鸞会では因果の道理を本気で信じているのかといえば、ノーです。
理由は簡単で、浄土門で教える最善最高最上の善因は、念仏であるのに、念仏よりも親鸞会の活動が絶対と考えているからです。

一応根拠を紹介しておきます。『教行信証』化土巻に

元照律師の『弥陀経の義疏』にいはく、「如来、持名の功勝れたることを明かさんと欲す。まづ余善を貶して少善根とす。いはゆる布施・持戒・立寺・造像・礼誦・座禅・懺念・苦行、一切福業、もし正信なければ、回向願求するにみな少善とす。往生の因にあらず。もしこの経によりて名号を執持せば、決定して往生せん。すなはち知んぬ、称名はこれ多善根・多福徳なりと。むかしこの解をなしし、人なほ遅疑しき。近く襄陽の石碑の経の本文を得て、理冥符せり。はじめて深信を懐く。かれにいはく、〈善男子・善女人、阿弥陀仏を説くを聞きて、一心にして乱れず、名号を専称せよ。称名をもつてのゆゑに、諸罪消滅す。すなはちこれ多功徳・多善根・多福徳因縁なり〉」と。

(現代語訳)

元照律師の『阿弥陀経義疏』にいっている。
「釈尊は、念仏の功徳がすぐれていることを明らかにしようとされ、まず念仏以外の善を劣ったものとしてわずかな功徳しかないといわれる。布施をし、戒律をたもち、あるいは寺を建て、仏像をつくり、仏を礼拝し、経を読み、または座禅をし、懺悔し、苦行するなどのすべての善は、もし正しい信がなかったなら、そのような善によって浄土に往生しようと願っても、みなわずかな功徳しかなく、往生の因ではないのである。もし、『阿弥陀経』の教えにしたがって念仏するなら、間違いなく往生するであろう。だから念仏は多くの功徳があると知ることができる。
かつて、わたしはこのような解釈をしたが、世間の人はなお疑って信じなかった。しかし最近、襄陽の石碑に刻まれた『阿弥陀経』の文を見たところ、わたしの解釈と見事に一致しており、そこではじめて深く信じるようになったのである。その文には次のように説かれている。<善良なものよ、阿弥陀仏について説かれるのを聞いて、心を乱すことなくただひとすじに名号を称えるがよい。名号を称えることにより、あらゆる罪が除かれる。すなわち念仏は多くの功徳をそなえて行である>」

とあります。難しい内容ではないので、読まれた通りですが、念仏は「多功徳・多善根・多福徳因縁」ですが、諸善はその反対で「少功徳・少善根・少福徳因縁」です。
ここで言う念仏は自力の念仏です。

鈍い会員のために譬えで解説します。

1日働いて100円の炎天下での重労働
1日働いて100万円の誰でもできるエアコンの利いた部屋での軽作業

どちらを選択するのか、という話です。
こんな極端なことは世の中にない、と思っている人がいたら、井の中の蛙でしょう。こんなことは世界中で実際によくあります。実例は自分で調べてみてください。

より良い果を求めるなら、より良い因を求めるのが、因果の道理を信じている人の行動でしょう。そして、自力の念仏は諸善とは桁違いの功徳があるのですから、親鸞会の非効率で無意味な活動をしている暇があるのなら、念仏を称えた方が、余程、良い結果を得られるでしょう。それなのに、発展途上国最貧困層の労働環境並みの親鸞会の活動をしている会員は、因果の道理を信じていないか、あるいは今の労働環境が世界最高だと騙されているののどちらかでしょう。

因果の道理を信じている、より良い結果を求めている、更には無常迅速と思っているのであれば、親鸞会の最悪最低最下の活動をすることはあり得ません。

もう一度言います。

自力の念仏は、多功徳・多善根・多福徳因縁
諸善は、少功徳・少善根・少福徳因縁

高森流宿善論が正しいとして、何が最も宿善を厚くすることになるか考えてみましょう。

再度、高森顕徹会長の『なぜ生きる2』11章にある

 無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。

を読んでみてください。
これが、真宗の教えであるかどうか、20願を通ったことのある人物の言葉であるのかどうか、僅かに思考が残っていれば、答えは明々白々です。

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2020年4月26日 (日)

阿弥陀仏、釈尊、諸仏のご苦労を無駄にするのが親鸞会

因果の道理についての親鸞聖人の見解を述べてきましたので、他の根拠も挙げておきます。

蓮如上人が「金をほりいだすやうなる聖教なり」とまで絶賛された『安心決定鈔』にはこうあります。

まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。和尚(善導)はこれを「別異の弘願」とほめたまへり。衆生にかはりて願行を成ずること、常没の衆生をさきとして善人におよぶまで、一衆生のうへにもおよばざるところあらば、大悲の願満足すべからず。面々衆生の機ごとに願行成就せしとき、仏は正覚を成じ、凡夫は往生せしなり。

18願によって報土に往生するということは、「世間・出世の因果のことわりに超異せり」ですので、因果の道理といっても3種類あることになります。

1.世間の因果
2.出世の因果
3.報土の因果

1の世間の因果とは、世間的な倫理道徳の因果です。親鸞会的にいうなら、どう生きるかについての因果になります。善い事をすれば善い結果が来ますよ、悪い事をすれば悪い結果が来ますよ、自分のやったことは自分に返ってきますよ、という親鸞会で教えていることとほとんど同じことです。

2の出世の因果は、迷いの世界を出る因果ということで、聖道門で教えられている因果の道理です。1との違いは、目的の違いだけではありません。難しい話を抜きに突き詰めると煩悩によって苦しみがやってきますので、煩悩を滅するというのが最終的な結論になります。これが通仏教でのいわゆる因果の道理になるのですが、親鸞会の因果の道理は、往生成仏という言葉だけをみると2らしきことも混ぜているので、一見、出世の因果のように思わせるのですが、内容は単なる世間の因果です。

しかし、親鸞聖人が教えられたのは3の報土の因果で、これは1でも2でもない全く違う道理になるのです。これまで述べてきたように、報土往生の因も縁も阿弥陀仏の業です。それを『安心決定鈔』では、「まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。」とありますが、本来、往生という果を受けるには「衆生こそ願をもおこし行をもはげむべき」でありますが、衆生はそのような願も行もない状態で、「願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず」なのです。

したがいまして『安心決定鈔』では3の報土の因果を、「世間・出世の因果のことわりに超異せり」と表現なされているのです。

また覚如上人は『改邪鈔』で

しかりといへども、弥陀超世の大願、十悪・五逆・ 四重・謗法の機のためなれば、かの願力の強盛なるに、よこさまに超截せられたてまつりて、三途の苦因をながくたちて猛火洞燃の業果をとどめられたてまつること、おほきに因果の道理にそむけり。もし深信因果の機たるべくんば、植うるところの悪因のひかんところは悪果なるべければ、たとひ弥陀の本願を信ずといふとも、その願力はいたづらごとにて、念仏の衆生、三途に堕在すべきをや。もししかりといはば、弥陀五劫思惟の本願も、釈尊無虚妄の金言も、諸仏誠諦の証誠も、いたづらごとなるべきにや。おほよそ他力の一門においては、釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なりといふは、凡夫の報土に生るるといふをもつてなり。もし因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし。そのゆゑは、たすけましまさんとする十方衆生たる凡夫、因果相順の理に封ぜられて、別願所成の報土に凡夫生るべからざるゆゑなり。

(現代語訳 石田瑞磨著『親鸞全集』より引用)

しかしそうではあっても、いつの世の仏にも見ることができない阿弥陀仏の大願は、十悪・五逆・四重・謗法などの罪を犯すひとのためであるから、阿弥陀仏の願の絶大なはたらきをもって一切の因果を断ち切られ、三つの悪道に堕ちて受ける苦の原因を永遠に断たれて、もえさかる猛火ののようにはげしい悪業の果報を受けないですむならば、それははなはだしく因果の道理に背くわけである。もし「深く因果を信ずる」ものであるためには、前世に植えた悪因が引くものは、悪果でなければならないから、たとい阿弥陀仏の本願を信ずるとしても、そのときは阿弥陀仏の誓いのはたらきも役に立たないし、念仏のひとも三つの悪道に堕ちなければならないのではないか。もしそうだとすれば、阿弥陀仏が五劫という長いあいだ熟思を重ねた末に立てられた本願も、釈尊が真実を示された金言も、所仏が誠をつくして示された証明も、無意味とならなければならないのだろうか。おおよそ他力の教えは、釈尊一代の説法に一度も例がない、通常一般の聖道門の教えとはまったく別のものであって、言語を超絶した、思惟のとどかないものである、といわれるが、それは、愚かなひとが真実の浄土に生れるということから、そういわれるのである。もし因果は相互にめぐりあうという道理にしたがうならば、釈尊と阿弥陀仏と諸仏が骨折られた、他力という、勝れた浄土への特別な教えも空しくなってしまうだろう。その理由は、お助けになろうとする目当てである、生をうけたすべてのものが、因果は相互にめぐりあうという道理にとじこめられて、独自の誓いによってつくられた真実の浄土に生れることができないからである。

と仰っています。

世間の因果の道理と聖道門で教える出世の因果の道理に超越し異なった因果の道理だということです。三悪道にいく衆生が、その因果を断ち切られて報土に往生するというのは、「おほきに因果の道理にそむけり」なのです。また「釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なり」と、出世の因果からは「言語道断」とまで言わざるを得ない程の「不思議」なのです。
更には、「もし因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし」と仰っているように、親鸞会のようなことを言ってると、釈尊、阿弥陀仏、諸仏方が御苦労為されて報土の因果の教えを無駄にしてしまうとまで仰っています。結論としては、「因果相順の理」とは全く次元の違うのが報土の因果ということになります。

善知識方が、ここまで明確に仰って下さっているのに、どう間違ったら、

三世十方を貫く因果の道理から外れたら仏教にならない!!!

という主張になるのかです。一応言っておきますが、

報土の因果も、三世十方を貫く道理

どう間違うも何も、思考能力を高森顕徹会長に奪われてしまっているので、高森会長がそう言っているから正しい、というだけのことです。

哀れ憐れ。

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2020年4月25日 (土)

「深信因果」は散善であり「雑行」の1つだということすら知らない無知な高森顕徹会長と会員達

某会館館長とのやり取りを知りたいという方がありますので、少しだけ紹介します。

当ブログで徹底的に言い返せない内容で書いてきましたので、彼は質問責めに転じてきます。どうすれば救われるのかということについてですが、様々な角度から説明しても納得する様子もなく、質問責めをやめませんので、毎度毎度の揚げ足取りだと判断し、

どうすれば自力の心を捨てられるのか?
その問いを捨てればよい
どうすれば自力の心を捨てられるのかという心を捨てられるのか?
その問いを捨てればよい
こんな感じで返したところ、本性を表わして
それしか言えないことがわかった
ときました。
揚げ足取りに必死で気が付いていないのでしょうが、これは親鸞会で作ったアニメのセリフです。最近突如削除された親鸞聖人の獲信の場面で法然上人が最後に仰ったことは、
一切の自力を捨てよ。全てのはからいを捨てよ。 捨てようとする心も捨てよ。
です。
彼の言葉を使うなら、
法然上人はそれしか言えないことがわかった
もっと言えば、
高森先生はそれしか言えないことがわかった
です。
思考力がなくても、これは理解できたようで、話を逸らしてきました。

親鸞会の会員とのやり取りには、教義に詳しいだけではだめで、討論のテクニックが必要です。

さて、因果の道理を信じるように勧めるのが親鸞会ですが、「因果の道理を深信する」は、散善の行福に当たります。
『観無量寿経』には、散善の行福について

三つには菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進す。

とあります。
また上品中生においては

深く因果を信じて大乗を謗らず。

とあり、上品下生では

また因果を信じ大乗を謗らず。

と説かれています。
これを善導大師は『散善義』でそれぞれ解説なされています。
まず

三福ともに行ぜざるものをすなはち十悪・邪見・闡提の人と名づく。

とある通り、因果を深信していれば、「十悪・邪見・闡提の人」ではありません。
上品中生については

深く世・出世の苦楽二種の因果を信じ、これらの因果およびもろもろの道理に疑謗を生ぜざることを明かす。

とあります。因果の道理を深信しているなら、上品中生の1つの条件を満たしています。
次に上品下生については、『観無量寿経』の「また因果を信じ」について

所信の因果不定なることを明かす。 あるいは信じ信ぜず。 ゆゑに名づけて「亦」となす。 あるいはまた前の〔上品中生の〕深信に同じかるべし。 また信ずといへども深からず。 善心しばしば退し、悪法しばしば起る。 これすなはち深く苦楽の因果を信ぜざるによりてなり。

とあります。簡単に言えば、因果の道理を信じる時もあれば信じない時もある、深信ではないが浅くでも信じていることをいいます。

ということは因果の道理を信じている会員は、少なくとも悪人ではないし、上品下生の善人だと言えます。

ここで質問です。
親鸞会の会員は、
1.極重の悪人
2.上品下生以上の善人
どちらですか?

答えに窮するでしょう。
矛盾と気が付いていないのでしょうが、完全な矛盾です。軽々しく、因果の道理を信じるとか言わないことです。

もちろん、「深信因果」は散善ですから「雑行」です。
雑行」の行を捨てるということは、「深信因果」の行も捨てることですから、因果の道理を話をしている時点で、真宗とは無関係なのです。

一応言っておきますが、世俗的な因果を18願の救いと無関係と思って信じていれば雑行ではありません。一生懸命勉強をしたら成績が上がる、遊んでばかりいたら成績が下がる、これをどれだけ信じようが「雑行」にはなりません。

しかし高森顕徹会長のように、因果の道理を深信して、三願転入の道を進むだの宿善を厚くするだの信仰云々と言っている時点で「雑行」です。「仏智不思議を疑う心」であり「疑情」と親鸞聖人は仰って厳しく誡められました。その「一切の自力を捨てよ。全てのはからいを捨てよ。

まともな知能があれば理解できる内容ですが、マインドコントロールの会員には思考力がないので、負け犬の遠吠えをするしか能がないのです。

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2020年4月24日 (金)

因果の道理を信じることが阿弥陀仏の本願を疑う心だと仰った親鸞聖人を全否定する親鸞会

親鸞聖人は因果の道理を重んじる聖道門に向けての反論として、因果の道理を信じることを自力と仰っています。『教行信証』化土巻に

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。

とあります。高森顕徹会長の説明では「自力」が曖昧ですが、親鸞聖人は「自力」が「罪福を信ずる心」だと仰っています。つまり、因果の道理を信じるように勧めることは「自力」を助長するだけです。救われないように話をしているのが、高森会長だということです。この根拠がこの後に引かれています。

またのたまはく、「この諸智において疑惑して信ぜず、しかるになほ罪福を信じて、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生ず」と。

これは『大無量寿経』の化土往生についての一部分です。
前後を併せて紹介すると、

そのときに慈氏菩薩、仏にまうしてまうさく、「世尊、なんの因、なんの縁ありてか、かの国の人民、胎生・化生なる」と。仏、慈氏に告げたまはく、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修してかの国に生れんと願はん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ善本を修習して、その国に生れんと願ふ。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の聖衆を見たてまつらず。このゆゑに、かの国土においてこれを胎生といふ。

(現代語訳)

そのとき弥勒菩薩がお尋ねした。
「世尊、いったいどういうわけで、その国の人々に胎生と化生の区別があるのでしょうか」
釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「さまざまな功徳を積んでその国に生れたいと願いながら疑いの心を持っているものがいて、無量寿仏の五種の智慧を知らず、この智慧を疑って信じない。それでいて悪の報いを恐れ、善の果報を望んで善い行いをし、功徳を積んでその国に生れたいと願うのであれば、これらのものはその国に生れても宮殿の中にとどまり、五百年の間まったく仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができず、菩薩や声聞たちを見ることもできない。そのため、無量寿仏の国土ではこれをたとえて胎生というのである。」

化土往生について釈尊が弥勒菩薩の問いに答えられる形で説かれた内容です。
七高僧でここに着目されたのが源信僧都です。阿弥陀仏の18願を疑うことについて3つに分けて教えられています。『往生要集』に

問ふ。 不信のもの、なんの罪報をか得る。
答ふ。
『称揚諸仏功徳経』の下巻にのたまはく、「それ、阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀するものは、五劫のうちに、まさに地獄に堕して、つぶさにもろもろの苦を受くべし」と。

問ふ。 もし深信なくして疑念をなすものは、つひに往生せざるや。
答ふ。
まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるものは、理として生るべからず。 もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。 『双巻経』にのたまふがごとし、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了せず、このもろもろの智において疑惑して信ぜず、しかもなほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。 このもろもろの衆生は、かの宮殿に生じて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の衆を見たてまつらず、このゆゑにかの国土においては、これを胎生といふ」と。 {以上}仏の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。 しかも願に随ひて往生するは、これ仏の悲願の力なり。

(現代語訳)

問う。 信じない者は、 どのような罪の報を得るのであるか。
答える。 『称揚諸仏功徳経』の下巻に説かれている。
もし、 阿弥陀仏の名号の功徳を讃めたたえることを信じないで、 謗りこぼつ者があるならば、 五劫のあいだ地獄に堕ちて、 つぶさにもろもろの苦を受けねばならぬ。

問う。 もし深心がなくて、 疑念を生ずる者は、 結局往生できないのであるか。
答える。 もし、 全く信ぜず、 往生の業を修めず、 浄土を願い求めない者は、 道理として往生するはずがない。 しかしながら、 もし仏智を疑うけれども、 それでもやはり、 かの浄土に生まれたいと願い、 往生の業を修める者は、 これもまた往生することができるのである。
『無量寿経』に説かれているとおりである。(以下省略)

とありますが、3つを簡単に説明すると

謗毀するもの」―地獄
まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるもの」―六道
仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するもの」―化土往生

こういうことですから、報土往生も含めて現代語でまとめると

1.18願を謗るもの―地獄
2.18願を謗ってはいないが信じないもの―六道
3.18願を疑いながらも浄土往生を願って往生行を修するもの―化土往生
4.18願を深信するもの―報土往生

こういうことです。
大雑把に言うと、1は外道、2は無宗教もくしは聖道門、3は19願と20願の行者となります。
高森顕徹会長が昔よく言っていた、「一切衆生必堕無間」など妄想であることが明白が、疑情についても高森会長は知らないことが判ります。
疑情は19願と20願の人の心は18願よりも19・20願を優先させていることを指しています。それに加えて18願での救いを求めながら深信できていない信前の人の心についてもです。

この源信僧都の解釈を基にされて親鸞聖人は疑情の定義を更に明確にされます。
それが『三経往生文類』です。

願(第二十願)成就の文、『経』にのたまはく、「それ、胎生のものの処するところの宮殿、あるいは百由旬、あるいは五百由旬なり。おのおのそのなかにしてもろもろの快楽を受くること、?利天上のごとし。またみな自然なり。そのときに慈氏菩薩、仏にまうしてまうさく、〈世尊、なんの因なんの縁にか、かの国の人民、胎生・化生なる〉と。仏、慈氏に告げたまはく、〈もし衆生あつて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修し、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じて善本を修習して、その国に生れんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳ならん。つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞・聖衆を見ず、このゆゑにかの国土、これを胎生といふ。{乃至}弥勒まさに知るべし。かの化生のものは智慧勝れたるがゆゑに。その胎生のものはみな智慧なし〉。

先の『大無量寿経』の御文を20願成就文、疑情を「諸智において疑惑して信ぜず」「罪福を信じて」とされました。
『正像末和讃』誡疑讃ではもっと明快に

不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

仏智の不思議をうたがう」=「罪福信ずる
となされています。
したがいまして、
疑情」=「自力の心」=「仏智の不思議をうたがう」=「罪福信ずる
ということになります。

鈍い会員のためにもっとハッキリ書くと、

因果の道理を信じることが、阿弥陀仏の本願を疑う心

です。19願、20願の行者はまさに因果の道理を信じて善を行ずるか念仏を称えています。そして18願での救いを求めながら深信できていない信前の人も、その心は自分の称えた功徳で報土往生をという根底には因果の道理を信じる心がありますので、それが因も縁もすべて阿弥陀仏が用意されているから衆生が何もする必要がないという仏智不思議を疑う心になるのです。

したがいまして、因果の道理の話をし、因果の道理について聞くことは、どんな状況であれ、報土往生の妨げにしかなりません。

なお、親鸞会の会員は、「仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するもの」と言えるのかですが、浄土を願わず、絶対の幸福という創価学会の信心を願って、念仏を貶めているので、これではないと言えそうですから、化土往生も無理でしょう。
親鸞聖人のお言葉を示しても完全無視で高森理論を喚くだけの姿勢も目立ちますので、「謗毀するもの」かもしれません。

会員の後生が心配です。

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2020年4月23日 (木)

報土往生の因縁果を全く知らない憐れな親鸞会会員

最近のエントリーは、親鸞会の某会館の館長へのメッセージとして書き始めたものです。本日もやり取りしていましたが、聖教をそのまま読むのは間違いだという言い訳ばかりで、暗号解読できる高森顕徹会長と会員だけが聖教の意味がわかっているというようなカルトを通り越して、オカルトになってきています。

ではその聖教のお言葉を説明して、といっても絶対に説明はしません。「今までのやり取りを読めば判る」の一点張り。説明などできるわけがないのです。mixiでの法論の時もそうでした。

本当に幼稚園児の喧嘩です。レベルが低すぎて話になりません。

前回注意書きした通り、高校生並みの知能をもった会員向けにエントリーを書きますので、幼稚園児並みの人は、「読めば判る」とだけ叫んでいてください。

往生成仏の因を、すべて阿弥陀仏が用意なされ、往生成仏の果を我ら衆生が受け取る、これが本願力回向という親鸞聖人の教えの根幹です。

聖教を読まない親鸞会でも一部は聞いたことがあるであろう『教行信証』信巻の信楽釈

しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。
一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。
如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。

(現代語訳)

すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに修めた自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。
なぜかというと、阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまで、どのような疑いの心もまじることがなかったからである。この心、すなわち信楽は、阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、必ず真実報土にいたる正因となるのである。
如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、この上ない功徳をおさめた清らかな信を、迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。

ここにも、聖道門の因果の道理に反するという非難への反論を仰っています。
凡夫が「急作急修して頭燃を灸ふがごとく」善を修しても、その程度の善ではとてもではないが報土往生はできない。なぜなら、阿弥陀仏の報土に往くには、法蔵菩薩と同じ清らかな心にならなければならないからである。だから、阿弥陀仏は報土往生の因である清らかな信心を衆生に与えてくださるのだ。

往生の因は、衆生の行に関係しているとするのが因果の道理であり、聖道門の考え方です。それとは全く違うのが阿弥陀仏の18願の救いだと親鸞聖人は教えられているのです。聖道門の行者が命がけで定散二善に励んでも、報土往生を遂げることは不可能なので、不可能を可能にするには、阿弥陀仏から因を頂く以外にはない、というのが親鸞聖人の結論です。

これを具体的に教えられたのが、親鸞会でも言葉だけは聞いたことがあるであろう、両重因縁です。
『教行信証』行巻に

まことに知んぬ、徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなはち内因とす。光明名の父母、これすなはち外縁とす。内外の因縁和合して報土の真身を得証す。ゆゑに宗師は、「光明名号をもつて十方を摂化したまふ、ただ信心をして求念せしむ」とのたまへり。
また「念仏成仏これ真宗」といへり。また「真宗遇ひがたし」といへるをや、知るべしと。

(現代語訳)

(阿弥陀仏という名は、念仏の衆生を摂取して捨てないといういわれを顕しているということによって)次のような事柄を知ることができました。阿弥陀仏の徳のすべてがこもっている慈父に譬えられるような名号がましまさなかったならば、往生を可能にする因が欠けるでしょう。また念仏の衆生を摂取して護りたまう悲母に譬えられるような光明がましまさなかったならば、往生を可能にする縁がないことになりましょう。
 しかしこれらの因と緑とが揃っていたとしても、もし念仏の衆生を摂取して捨てないという光明・名号のいわれを疑いなく信受するという信心がなければ、さとりの境界である光明無量の浄土に到ることはできません。信心は個体発生の根元である業識に譬えられるようなものです。それゆえ、往生の真因を機のうえで的示するならば、真実の信心を業識のように内に開ける因とし、母なる光明と父なる名号とは、外から加わる法縁とみなすべきです。これら内外の因縁がそろって、真実の報土に往生し、仏と同体のさとりを得るのです。
 それゆえ善導大師は『往生礼讃』の前序に、「阿弥陀仏は、光明と名号をもって十方の世界のあらゆる衆生を育て導いてくださいます。そのお陰で私たちは、その救いのまことであることを疑いなく信受して往生一定と浄土を期するばかりです」といわれ、また『五会法事讃』には、「念仏して成仏することこそ真実の仏法である」といわれ、また『観経疏』には、「真実のみ教えには、私のはからいで遇うことは決してできない」といわれています。よく知るべきです。

現代語訳を読んでも難しいと思いますが、簡単に説明すると、

因―名号
縁―光明
果―往生

という因縁果の関係と、もう一つ

因―信心
縁―名号・光明
果―往生

という因縁果があり、二重の因縁果であるので、両重因縁と呼ばれています。

いずれの場合においても、我ら衆生が往生する果の因も縁も阿弥陀仏から頂くものです。炭素とダイヤモンドの関係が間違いであることは、高校生並みの知能があれば理解できると思います。
18願の救いとは、ダイヤモンドの元となる炭素元素があるのではありません。全く違う元素、たとえば鉄がダイヤモンドになるようなものです。化学では絶対にあり得ない話です。

これに近い表現が行巻に引かれている『五会法事讃』にあります。

ただ回心して多く念仏せしむれば、よく瓦礫をして変じて金と成さんがごとくせしむ。

(現代語訳)

ただ信を得て念仏すれば、瓦や小石を黄金に変えるようにしてお救いくださるのである。

この親鸞聖人の解釈は『唯信鈔文意』にありますので、興味がある方はそちらを読んでください。

善をしないで念仏だけで往生成仏する、聖道門、因果の道理ではは絶対にあり得ない教えですから、聖道門が法然上人を激しく攻撃した気持ちは判ります。しかし、その絶対にあり得ない救いが阿弥陀仏の18願なのだ、と親鸞聖人は説明されているのです。

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2020年4月22日 (水)

「因果の道理を知らんのか!」と法然上人・親鸞聖人を攻撃した聖道門、「因果の道理を知らんのか!」と退会者を攻撃する親鸞会、聖道門と同じ土俵で勘違いの親鸞会

釈尊が諸善を説かれたのは、諸善と比較することで念仏が諸善に飛びぬけて優れた行であることを示されるためであったから、諸善は修するためではなく捨てるためもので、念仏だけを修するように釈尊は説かれたのです

このように退会者が言ったら親鸞会会員は、

仏教の土俵にも上がっていない、話にならない仏教を破壊する邪な教え!

と激高するでしょうが、これを仰ったのは法然上人です。『選択本願念仏集』の中で、

諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く。

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。

ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。

ということを繰り返し仰っています。
そして有名な三選の文で

それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。
浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。

と、聖道門を捨て、雑行を捨て、助業を傍らにして、専ら念仏を修しなさい、念仏を称えれば必ず往生できる、それは阿弥陀仏の18願力によるのだ、と念仏だけで往生できることを断言されたのです。

この法然上人のお言葉に激高するのは、親鸞会会員だけではありません、聖道門も同じことを言って法然上人を攻撃しました。

法然上人と親鸞聖人が流刑に遇われるきっかけとなった『興福寺奏状』の「第六に浄土に暗き失」には、

大覚法王の国、凡聖来朝の門、かの九品の階級を授くるに、おのおの先世の徳行を守る。自業自得、その理必然なり。しかるに偏に仏力を憑みて涯分を測らざる、是れ則ち愚癡の過なり。

とあり、『観無量寿経』で上品上生から下品下生までの九品の階級を授けられているが、それは生前になした徳のある善行に応じているのであり、自業自得の因果の道理に叶った仏教の根幹で必然の道理である。しかし、法然上人は往生には念仏を称えるだけと偏に仏力を憑んで、善は無関係と言っているが、それは因果の道理も知らない愚か者の邪な考えだ、と非難しているのです。

このような因果の道理に反しているとの非難に対して、法然上人は「それは誤解だ、因果の道理に則して教えている」と弁解されませんでした。それで法然上人がお亡くなられた後に出した『延暦寺奏状』でも

彼の党類の造悪は、改悔の心なく戒を破し、経に背き師に違すことを望み、依憑在るは誰ぞ、およそ、彼の宗に入る人は、まず万善を棄て、その宗に交る類は即ち大罪を置きて怖れず、仏像経巻に対して敬重の思いを生ぜず、寺塔僧坊に入りて汚穢の行も憚り無し。いかでか懈怠放逸の行を立て、清浄善根の界に生を得べし。
(中略)
しかれば悪を造れば必ず獄に堕し、善を修せば定んで天に生ず、自業自得の報いなり。不亡不失の理なり。
ここをもって、諸悪莫作 諸善奉行、寧ぞ七仏通戒の誠に非ずや。

とあり、法然上人の開かれた浄土宗の人は、悪を造り、懺悔なく、戒を破り、経典にも背いて、すべての善を捨てるなど、仏教の善を否定している。それでどうして懈怠放逸の行である念仏を称えることによって、浄土に生れることができようか。
悪を造れば必ず地獄に堕ち、善を修すれば必ず天に生まれることができる、これが自業自得という仏教の根幹因果の道理である。
だから、諸悪莫作 諸善奉行の七仏通戒が真実ではないか。

と自業自得の因果の道理を通して、法然上人門下を激しく糾弾したのです。

聖道門の言っていることを簡単に言うと、

念仏称えただけで往生できるなんて、法然上人は仏教の土俵である因果の道理を知らんのか!

法然上人の教えられたことは因果の道理に反していると、法然上人の生前からお亡くなりになられた後まで一貫して聖道門からは攻撃材料としたのですから、法然上人は因果の道理に反しているとの非難をその通りだと受け止められたということが判ります。

したがって、親鸞会が退会者を非難するときに使う常套文句の

仏教の土俵である因果の道理を知らんのか!

は聖道門と全く同じ論理であり、法然上人の教えとは根本的に異なっているのです。

では親鸞聖人は、法然上人に背いて、教えを修正して因果の道理に順った教義を展開されたのかと言えば、そんなことは絶対にありえないでしょう、高校生並みの知能があれば判る話です。なぜなら、念仏称えて往生できるという法然上人の教えを聞いて、親鸞聖人は往生が定まったのですから。

親鸞聖人は聖道門への反論として『教行信証』信巻に

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

(現代語訳)

このようなわけであるから、往生の行も信も、すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。如来より与えられた行信が往生成仏の因であって、それ以外に因があるのではない。よく知るがよい

と仰り、『浄土文類聚鈔』でも全く同じことを仰っています。
往生成仏の因は、すべて阿弥陀仏より与えられたものであり、それ以外の因はない、ということです。往生成仏の因は100%阿弥陀仏で、衆生側に因は、0.00001%もありません。聖道門の言う自業自得に対して、阿弥陀仏の業により我ら衆生が往生の果を得る、ということです。念のため言っておきますが、ここは縁ではなく、因です。もちろんこれは高森顕徹会長の創作炭素とダイヤモンドの譬えとは何の関係もありません。
その証拠が、『教行信証』証巻に

それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。ゆゑに、もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまへるところにあらざることあることなし。因、浄なるがゆゑに果また浄なり。知るべしとなり。

(現代語訳)

さて真宗の教・行・信・証を考えてみると、すべて阿弥陀仏の大いなる慈悲の心から回向された利益である。だから、往生成仏の因も果も、すべてみな阿弥陀仏の清らかな願心の回向が成就したものにほかならない。因が清らかであるから、果もまた清らかである。よく知るがよい。

と仰り、『浄土文類聚鈔』でも同じ文を載せておられます。

因、浄なるがゆゑに果また浄なり」ですから、衆生が往生成仏する因が「」です。「」なる因は、衆生には微塵もありません。因も縁も阿弥陀仏で、果を衆生が受け取るのです。
つまり、往生成仏の因果を、我ら衆生の側から親鸞会的な言い方で言えば、

他因自果

であり、阿弥陀仏の側から言えば、

自因他果

になります。しかも、無善で往生成仏するのですから善因善果、悪因悪果、自因自果とは完全に反しているのが阿弥陀仏の救いである、と聖道門に真っ向から反論されたのが、親鸞聖人です。当然、雑行をするという発想は親鸞聖人には微塵もありませんし、根拠もありません。

そんなことも知らないで、法然上人、親鸞聖人を流刑に遇わせた論理で退会者を攻撃してお山の大将を気取っているのが、親鸞会だということです。親鸞会は、聖道門の土俵にいます。聖道門の土俵で、真宗を語っているつもりになっているだけなので、高森顕徹会長の教えは真宗とは無関係です。なお、法然上人、親鸞聖人、蓮如上人が親鸞会で言うような因果の道理について教えられた文証は全くありません。退会者には根拠を出せと偉そうに言いますが、自分たちには根拠なしの妄想だけで正しいのだと言い続けているのです。

今回は真宗において因果の道理がどういう位置にあるのかについて時代的背景を述べました。次回以降、親鸞聖人が仰る具体的な因と縁について、根拠を挙げて説明していきますので、会員の皆さんは最低でも高校生並みの知能と国語力を持って、読んでください。

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2019年12月22日 (日)

最近の親鸞会との法論2

因果の道理について、親鸞聖人は『正像末和讃』誡疑讃にて次のように仰っています。

不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

など他にもありますが、「仏智の不思議をうたがふ」とは「罪福信ずる」こととされています。
罪福信ずる」とは「自業自得の道理」でもあり、自分に起きる禍福は自分に因があるというものです。
これと阿弥陀仏の救いとは相いれません。なぜなら、衆生が往生し成仏する果の因は、すべて阿弥陀仏の因であるからです。それ以外にはありません。
宿善を厚くして救われる、というような理屈ですと、それは衆生に因があることになります。

『教行信証』信巻に、

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

と仰っていますが、行も信も阿弥陀仏から回向されたもので、その阿弥陀仏から回向された行と信を因として往生成仏するのですから、阿弥陀仏の回向された行と信以外には因はないのです。

これは聖道門では考えられない道理になります。
それで覚如上人は『改邪鈔』に

もしいまの凡夫所犯の現因によりて当来の果を感ずべくんば、三悪道に堕在すべし。人中・天上の果報なほもつて五戒・十善まつたからずは、いかでか望みをかけんや。いかにいはんや、出過三界の無漏無生の報国・報土に生るる道理あるべからず。
しかりといへども、弥陀超世の大願、十悪・五逆・ 四重・謗法の機のためなれば、かの願力の強盛なるに、よこさまに超截せられたてまつりて、三途の苦因をながくたちて猛火洞燃の業果をとどめられたてまつること、おほきに因果の道理にそむけり。もし深信因果の機たるべくんば、植うるところの悪因のひかんところは悪果なるべければ、たとひ弥陀の本願を信ずといふとも、その願力はいたづらごとにて、念仏の衆生、三途に堕在すべきをや。もししかりといはば、弥陀五劫思惟の本願も、釈尊無虚妄の金言も、諸仏誠諦の証誠も、いたづらごとなるべきにや。おほよそ他力の一門においては、釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なりといふは、凡夫の報土に生るるといふをもつてなり。もし因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし。そのゆゑは、たすけましまさんとする十方衆生たる凡夫、因果相順の理に封ぜられて、別願所成の報土に凡夫生るべからざるゆゑなり。いま報土得生の機にあたへまします仏智の一念は、すなはち仏因なり。かの仏因にひかれてうるところの定聚の位、滅度に至るといふは、すなはち仏果なり。この仏因仏果においては、他力より成ずれば、さらに凡夫のちからにてみだすべきに あらず、また撥無すべきにあらず。

と仰っています。
因果の道理にしたがえば、凡夫は死後に三悪道に堕ちるしかなく、報土に往くことなどあり得ないことになります。なぜなら阿弥陀仏の本願を信じたと言っても、悪因は悪果にしかなりません。もしそうなら、本願も釈尊の教えられた浄土の教えも嘘になります。
したがいまして、阿弥陀仏の救いというのは、釈尊の聖道門の教えからは、その例がない全く異なった道理になります。もし因果の道理の通りであるなら、阿弥陀仏、釈尊、諸仏方がご苦労なされて教えられた他力の教えが無駄になります。この道理は、阿弥陀仏の願行の因により阿弥陀仏を仏に成す果であり、衆生の側から言えば、阿弥陀仏の願行の因によって、衆生が往生成仏する果となるのです。

この根本にあるのが回向の考え方です。自因が自果に限らず、他果にもなる、つまり利益を自分以外の人にも与えることができるという考え方です。

以上から、因果の道理を聞いて信じることは、この回向を否定することでありますから、「仏智の不思議をうたがふ」ことになり、因果の道理に反する回向の話を聞いて疑いなく信じたことが他力の信心になるのです。

因果相順の理に封ぜられて、別願所成の報土に凡夫生るべからざる」状況に押し込んでいるのが、高森顕徹会長なのです。

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2019年12月15日 (日)

最近の親鸞会との法論1

親鸞会では、講師部員に向けて高森顕徹会長による法論禁止令が長らく出されていまして、退会者との法論を避け続けてきました。しかし、多数の退会者が出そうな状況や大きな行事前の誘いのために、思わず法論をしてしまうことがあります。
今年もそんなことが何回かありましたので、一部を紹介します。
ただし、講師部員の主張をそのまま掲載すると、顧問弁護士から著作権侵害等で訴えられる可能性があり、直接的な文章は紹介しませんので、その点はご了解ください。

まずは、因果の道理についてです。

因果の道理を否定したら、仏教の否定になり、阿弥陀仏の救いもないことになります。

というようなことを言ってきました。
これに対する反論は実に簡単にできます。

ボランティアをする人で、この善が往生のために、もしくは信仰のためにプラスになると思うことは、普通はありません。浄土往生を目指していても、親孝行と往生とを関連付けることも普通はありません。つまり、世間的な因果の道理をどれだけ信じようとも、それと往生とが無関係なら、何の問題もありません。問題となるのは、世間的な善、そして仏教で教える善を往生と関連付けること、つまり因果の道理と往生とは密接不利な関係にあるという考えです。

以下の蓮如上人のお言葉が最も判りやすいでしょう。
『御文章』5帖目13通

それ、当流門徒中において、すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こころうべき次第は、まづほかには王法を本とし、諸神・諸仏・菩薩をかろしめず、また諸宗・諸法を謗ぜず、国ところにあらば守護・地頭にむきては疎略なく、かぎりある年貢所当をつぶさに沙汰をいたし、そのほか仁義をもつて本とし、また後生のためには内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして、一念も疑心なく信じまゐらせば、かならず真実の極楽浄土に往生すべし。

信前の人も信後の人も心得るべきことは、「王法を本とし」(国の法律を守り)、「仁義をもつて本とし」(倫理道徳の善に心がけ)です。一方で「後生のためには」(往生のためには)、「自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして」(仏教で教える善に心を留めない)です。

世間的なこととしては、世間的な因果の道理を信じて、法律を守り、倫理道徳の善をしましょう、だけど、往生のためには仏教で教えられる雑行・雑善は捨てましょう。

こういうことです。
もっと簡潔に言うなら、

世間的な因果の道理は信じるべきですが、仏教で教える因果の道理を信じると往生の妨げになります。

なぜなら、仏教で教えられる因果の道理と阿弥陀仏の救いとは相反するからです。

僅かこれだけで、講師部員は沈黙しました。

この後、まだ説明しようと思っていたのですが、あっけなく終わりました。
一応、ここではもう少し説明しておきます。

仏教で教えられる因果の道理と阿弥陀仏の救いが相反することを最も端的に表現されているのが、蓮如上人の愛読書であった『安心決定鈔』にあります。

まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。

判りやすく訳すと、

仏教で教えられる因果の道理からは、往生しようと思うならば、衆生一人一人が願を発して、衆生一人一人が行を励むことになるはずですが、その願と行を法蔵菩薩が衆生の代わりになされて、その果は衆生が受けることになります。これは世間の因果の道理、仏教の因果の道理をはるかに超えて異なっているのです。

ということです。世間の因果の道理、仏教で教えられる因果の道理と、阿弥陀仏の救いとは全く別なのです。つまり、仏教の因果の道理を信じることが阿弥陀仏の救いを疑うことになるのです。

なぜなら、我々が往生するという果に対する因は、阿弥陀仏の願と行だからです。我々は何一つしなくても良いように、阿弥陀仏がすべての因そして縁も用意して下されているのですから、自因自果、自業自得の道理とは、相反するからです。

したがいまして、自力、疑情について親鸞聖人は「罪福信ずる心」という言い方を多くされているのです。
親鸞会でも知っている御文ならば、『教行信証』化土巻の

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。

です。

この他にも因果の道理に関する御文はたくさんありますが、それは次回に紹介します。

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