釈尊が諸善を説かれたのは、諸善と比較することで念仏が諸善に飛びぬけて優れた行であることを示されるためであったから、諸善は修するためではなく捨てるためもので、念仏だけを修するように釈尊は説かれたのです
このように退会者が言ったら親鸞会会員は、
仏教の土俵にも上がっていない、話にならない仏教を破壊する邪な教え!
と激高するでしょうが、これを仰ったのは法然上人です。『選択本願念仏集』の中で、
諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く。
また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。
ということを繰り返し仰っています。
そして有名な三選の文で
それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。
浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。
と、聖道門を捨て、雑行を捨て、助業を傍らにして、専ら念仏を修しなさい、念仏を称えれば必ず往生できる、それは阿弥陀仏の18願力によるのだ、と念仏だけで往生できることを断言されたのです。
この法然上人のお言葉に激高するのは、親鸞会会員だけではありません、聖道門も同じことを言って法然上人を攻撃しました。
法然上人と親鸞聖人が流刑に遇われるきっかけとなった『興福寺奏状』の「第六に浄土に暗き失」には、
大覚法王の国、凡聖来朝の門、かの九品の階級を授くるに、おのおの先世の徳行を守る。自業自得、その理必然なり。しかるに偏に仏力を憑みて涯分を測らざる、是れ則ち愚癡の過なり。
とあり、『観無量寿経』で上品上生から下品下生までの九品の階級を授けられているが、それは生前になした徳のある善行に応じているのであり、自業自得の因果の道理に叶った仏教の根幹で必然の道理である。しかし、法然上人は往生には念仏を称えるだけと偏に仏力を憑んで、善は無関係と言っているが、それは因果の道理も知らない愚か者の邪な考えだ、と非難しているのです。
このような因果の道理に反しているとの非難に対して、法然上人は「それは誤解だ、因果の道理に則して教えている」と弁解されませんでした。それで法然上人がお亡くなられた後に出した『延暦寺奏状』でも
彼の党類の造悪は、改悔の心なく戒を破し、経に背き師に違すことを望み、依憑在るは誰ぞ、およそ、彼の宗に入る人は、まず万善を棄て、その宗に交る類は即ち大罪を置きて怖れず、仏像経巻に対して敬重の思いを生ぜず、寺塔僧坊に入りて汚穢の行も憚り無し。いかでか懈怠放逸の行を立て、清浄善根の界に生を得べし。
(中略)
しかれば悪を造れば必ず獄に堕し、善を修せば定んで天に生ず、自業自得の報いなり。不亡不失の理なり。
ここをもって、諸悪莫作 諸善奉行、寧ぞ七仏通戒の誠に非ずや。
とあり、法然上人の開かれた浄土宗の人は、悪を造り、懺悔なく、戒を破り、経典にも背いて、すべての善を捨てるなど、仏教の善を否定している。それでどうして懈怠放逸の行である念仏を称えることによって、浄土に生れることができようか。
悪を造れば必ず地獄に堕ち、善を修すれば必ず天に生まれることができる、これが自業自得という仏教の根幹因果の道理である。
だから、諸悪莫作 諸善奉行の七仏通戒が真実ではないか。
と自業自得の因果の道理を通して、法然上人門下を激しく糾弾したのです。
聖道門の言っていることを簡単に言うと、
念仏称えただけで往生できるなんて、法然上人は仏教の土俵である因果の道理を知らんのか!
法然上人の教えられたことは因果の道理に反していると、法然上人の生前からお亡くなりになられた後まで一貫して聖道門からは攻撃材料としたのですから、法然上人は因果の道理に反しているとの非難をその通りだと受け止められたということが判ります。
したがって、親鸞会が退会者を非難するときに使う常套文句の
仏教の土俵である因果の道理を知らんのか!
は聖道門と全く同じ論理であり、法然上人の教えとは根本的に異なっているのです。
では親鸞聖人は、法然上人に背いて、教えを修正して因果の道理に順った教義を展開されたのかと言えば、そんなことは絶対にありえないでしょう、高校生並みの知能があれば判る話です。なぜなら、念仏称えて往生できるという法然上人の教えを聞いて、親鸞聖人は往生が定まったのですから。
親鸞聖人は聖道門への反論として『教行信証』信巻に
しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。
(現代語訳)
このようなわけであるから、往生の行も信も、すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。如来より与えられた行信が往生成仏の因であって、それ以外に因があるのではない。よく知るがよい
と仰り、『浄土文類聚鈔』でも全く同じことを仰っています。
往生成仏の因は、すべて阿弥陀仏より与えられたものであり、それ以外の因はない、ということです。往生成仏の因は100%阿弥陀仏で、衆生側に因は、0.00001%もありません。聖道門の言う自業自得に対して、阿弥陀仏の業により我ら衆生が往生の果を得る、ということです。念のため言っておきますが、ここは縁ではなく、因です。もちろんこれは高森顕徹会長の創作炭素とダイヤモンドの譬えとは何の関係もありません。
その証拠が、『教行信証』証巻に
それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。ゆゑに、もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまへるところにあらざることあることなし。因、浄なるがゆゑに果また浄なり。知るべしとなり。
(現代語訳)
さて真宗の教・行・信・証を考えてみると、すべて阿弥陀仏の大いなる慈悲の心から回向された利益である。だから、往生成仏の因も果も、すべてみな阿弥陀仏の清らかな願心の回向が成就したものにほかならない。因が清らかであるから、果もまた清らかである。よく知るがよい。
と仰り、『浄土文類聚鈔』でも同じ文を載せておられます。
「因、浄なるがゆゑに果また浄なり」ですから、衆生が往生成仏する因が「浄」です。「浄」なる因は、衆生には微塵もありません。因も縁も阿弥陀仏で、果を衆生が受け取るのです。
つまり、往生成仏の因果を、我ら衆生の側から親鸞会的な言い方で言えば、
他因自果
であり、阿弥陀仏の側から言えば、
自因他果
になります。しかも、無善で往生成仏するのですから善因善果、悪因悪果、自因自果とは完全に反しているのが阿弥陀仏の救いである、と聖道門に真っ向から反論されたのが、親鸞聖人です。当然、雑行をするという発想は親鸞聖人には微塵もありませんし、根拠もありません。
そんなことも知らないで、法然上人、親鸞聖人を流刑に遇わせた論理で退会者を攻撃してお山の大将を気取っているのが、親鸞会だということです。親鸞会は、聖道門の土俵にいます。聖道門の土俵で、真宗を語っているつもりになっているだけなので、高森顕徹会長の教えは真宗とは無関係です。なお、法然上人、親鸞聖人、蓮如上人が親鸞会で言うような因果の道理について教えられた文証は全くありません。退会者には根拠を出せと偉そうに言いますが、自分たちには根拠なしの妄想だけで正しいのだと言い続けているのです。
今回は真宗において因果の道理がどういう位置にあるのかについて時代的背景を述べました。次回以降、親鸞聖人が仰る具体的な因と縁について、根拠を挙げて説明していきますので、会員の皆さんは最低でも高校生並みの知能と国語力を持って、読んでください。
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