因果の道理

2017年10月29日 (日)

釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途をむなしくする高森顕徹会長と親鸞会

本日の高森顕徹会長の話は、本当の自己を知るのが究極の目的で、本当の自己とは、五逆・謗法・闡提の者だという昔ながらの邪義を垂れ流した内容でした。

この邪義については過去に何十回も書いてきたことで、一口問答でも詳しく書いてきました。

「浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?」
②五逆・謗法・闡提について

ここを読んで頂ければ十分ですが、今回、高森会長が言った「機の真実」という言葉について説明します。

機の真実」という言葉は、『改邪鈔』にあります。

『観無量寿経』は機の真実をあらはして、所説の法は定散をおもてとせり。機の真実といふは、五障の女人・悪人を本として、韋提を対機としたまへり。

(現代語訳 石田瑞磨著『親鸞全集』より引用)

『観無量寿経』は、教えを受けるひとの側の真実の姿を表わし、そこに説かれた教えは定心や散心の善を表としたものである。そしてここに教えを受けるひとの真実というのは、五障を持つ婦人と悪人とが中心で、ここでは韋提希を説法の対象としておられる。

読まれた通りで、「機の真実」とは「五障の女人・悪人を本として、韋提を対機」のことを意味しています。「五障の女人・悪人を本として、韋提を対機」と五逆・謗法・闡提とは意味が違います。理解力の無い親鸞会の会員のために敢えて説明するなら、

悪人の一部に五逆・謗法・闡提がいるということです。

これでも判らないなら、『愚禿鈔』を見てみましょう。

また悪機について七種あり。
一には十悪、        二には四重、
三には破見、        四には破戒、
五には五逆、        六には謗法、
七には闡提なり。

悪人には七種あり、その中の三種が五逆・謗法・闡提だということです。

簡単な話ですが、この簡単な話さえも知らないのが、高森会長なのです。

なぜ知らないのかと言えば、高森会長は聖教を全く読んだことがないのですから当たり前の結果です。

ついでですから、『改邪鈔』の続きを紹介します。

しかりといへども、弥陀超世の大願、十悪・五逆・ 四重・謗法の機のためなれば、かの願力の強盛なるに、よこさまに超截せられたてまつりて、三途の苦因をながくたちて猛火洞燃の業果をとどめられたてまつること、おほきに因果の道理にそむけり。もし深信因果の機たるべくんば、植うるところの悪因のひかんところは悪果なるべければ、たとひ弥陀の本願を信ずといふとも、その願力はいたづらごとにて、念仏の衆生、三途に堕在すべきをや。もししかりといはば、弥陀五劫思惟の本願も、釈尊無虚妄の金言も、諸仏誠諦の証誠も、いたづらごとなるべきにや。おほよそ他力の一門においては、釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なりといふは、凡夫の報土に生るるといふをもつてなり。もし因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし。そのゆゑは、たすけましまさんとする十方衆生たる凡夫、因果相順の理に封ぜられて、別願所成の報土に凡夫生るべからざるゆゑなり。

(現代語訳 石田瑞磨著『親鸞全集』より引用)

しかしそうではあっても、いつの世の仏にも見ることができない阿弥陀仏の大願は、十悪・五逆・四重・謗法などの罪を犯すひとのためであるから、阿弥陀仏の願の絶大なはたらきをもって一切の因果を断ち切られ、三つの悪道に堕ちて受ける苦の原因を永遠に断たれて、もえさかる猛火ののようにはげしい悪業の果報を受けないですむならば、それははなはだしく因果の道理に背くわけである。もし「深く因果を信ずる」ものであるためには、前世に植えた悪因が引くものは、悪果でなければならないから、たとい阿弥陀仏の本願を信ずるとしても、そのときは阿弥陀仏の誓いのはたらきも役に立たないし、念仏のひとも三つの悪道に堕ちなければならないのではないか。もしそうだとすれば、阿弥陀仏が五劫という長いあいだ熟思を重ねた末に立てられた本願も、釈尊が真実を示された金言も、所仏が誠をつくして示された証明も、無意味とならなければならないのだろうか。おおよそ他力の教えは、釈尊一代の説法に一度も例がない、通常一般の聖道門の教えとはまったく別のものであって、言語を超絶した、思惟のとどかないものである、といわれるが、それは、愚かなひとが真実の浄土に生れるということから、そういわれるのである。もし因果は相互にめぐりあうという道理にしたがうならば、釈尊と阿弥陀仏と諸仏が骨折られた、他力という、勝れた浄土への特別な教えも空しくなってしまうだろう。その理由は、お助けになろうとする目当てである、生をうけたすべてのものが、因果は相互にめぐりあうという道理にとじこめられて、独自の誓いによってつくられた真実の浄土に生れることができないからである。

ここでは「機の真実」を「十悪・五逆・ 四重・謗法の機」とも言い換えられています。「十悪」と「四重」に、五逆・謗法・闡提の意味はありません。ちなみに、「四重」とは婬・偸盗・殺生・妄語の罪です。

注目すべきは、阿弥陀仏の救いは「おほきに因果の道理にそむけり」ということです。更には、「釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なり」と仰り、「因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし」とまで繰り返されて、阿弥陀仏の救いが因果の道理と相反することを教えられています。

高森会長が聖教を読んだことがないと、これでハッキリしましたかね。

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2014年8月31日 (日)

「因果の大道理を深信する親鸞学徒は極重の悪人」と寝惚けた妄言を吐く高森顕徹会長

以前にも何回かエントリーやコメントで言いましたが、私は、「本願寺あるいは伝統教学が正しくて、親鸞会は間違っている」という前提で親鸞会を非難したことはありませんし、するつもりもありません。私が言っていることは、親鸞会が大前提としている「親鸞聖人・覚如上人・蓮如上人が絶対に正しい」とするなら、高森顕徹会長と親鸞会は親鸞聖人・覚如上人・蓮如上人の仰せと全く違うことを教えている、という単純明快な話です。

したがいまして、親鸞聖人が正しいことを教えられている、覚如上人・蓮如上人が親鸞聖人の教えられた通りに教えられている、という検証はしていませんし、ましてや本願寺や伝統教学を鵜呑みにすることは一切しません。

補足しますと、「親鸞聖人・覚如上人・蓮如上人が絶対に正しい」という親鸞会の大前提を基に、親鸞聖人・覚如上人・蓮如上人が間違いない方と仰る七高僧と聖覚法印・隆寛律師・存覚上人と浄土三部経によって、高森会長と親鸞会の教義的矛盾について述べているだけです。

さて、未だに「因果の大道理を深信する親鸞学徒」なることを恥ずかしくもなく親鸞会は言っていますが、こんな単純明快な矛盾を平気で言わざるを得ないほど、親鸞会も追い詰められているのでしょう。

簡単に解説しておきますと、「因果の大道理を深信する」ことは散善三福の行福にあたるものです。

元々は『観無量寿経』にある「深信因果」ですが、これを善導大師は『序分義』

四に「深信因果」といふはすなはちその二あり。 一には世間の苦楽の因果を明かす。 もし苦の因を作ればすなはち苦の果を感じ、もし楽の因を作ればすなはち楽の果を感ず。 印をもつて泥に印するに、印壊れて文成ずるがごとし。 疑ふことを得ず。

(現代語訳)

四つに、「深く因果を信じ」というのは、これに二つある。一つには世間の苦楽の因果を明かす。もし苦のための因を作るならば苦の結果を受け、もし楽のための因を作れば楽の結果を受ける。あたかも臘印をもって泥に押して、これに金をとかして入れると蝋印が壊れて鋳物ができるようなものである。因果が相続することは疑うことができない。

とあり、更には『散善義』上品中生

三には深く世・出世の苦楽二種の因果を信じ、これらの因果およびもろもろの道理に疑謗を生ぜざることを明かす。

(現代語訳)

三つには、深く迷いとさとりとの苦楽二種の因果を信じて、これらの因果およびそのほか仏法のいろいろの道理を疑いそしらないことを明かす。

とあります。
要するに、因果の道理を深信する人は上品中生の1つの条件を満たした善人になります。

参考までに上品下生では

一には所信の因果不定なることを明かす。 あるいは信じ信ぜず。 ゆゑに名づけて「亦」となす。 あるいはまた前の〔上品中生の〕深信に同じかるべし。 また信ずといへども深からず。 善心しばしば退し、悪法しばしば起る。 これすなはち深く苦楽の因果を信ぜざるによりてなり。 もし深く生死の苦を信ずるものは、罪業畢竟じてかさねて犯さず。

(現代語訳)

一つには、因果を信ずることが定まらないことを明かす。すなわち、あるいは信じたり、あるいは信じないから、「亦」というのである。あるいは、亦た、上品中生に出る「深く因果を信ず」に同じといってもよい。亦た、信ずるといっても深くなくて、善心がしばしば退いて、悪い行いがしばしば起こる。これは、深く苦楽の因果を信じないからである。もし深く迷いの苦を信ずるならば、罪業を、ついに重ねては犯さない。

とありますから、因果の道理を深信はできなくても浅信していて、善を行ったり悪を行ったりしている人は、上品下生の条件の1つを満たした善人になります。

実に単純な話で、「因果の大道理を深信する親鸞学徒」は間違いなく善人でありますから、「全人類は極重の悪人と阿弥陀仏が見抜かれた」といっている高森会長の話とは完全に矛盾するということです。もちろん、「微塵の善もできない者」と知らされることは永久にありませんから、永久に救われないことになります。

この程度のことさえ理解できなくして、会員を金集め人集めに利用するのが親鸞会のマインドコントロールです。これを哀れと言わすして何と言うのでしょうか。

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2014年6月22日 (日)

「報土往生の因は善行、でなければ悪行」と愚かなことを平気でいう無知な高森顕徹会長

前回の復習です。

報土往生の因は、念仏という行と他力の信心です。

ということは、報土往生するための行は念仏しかないのですから、諸善を勧めるのは、全く無意味だということです。高森顕徹会長が、如何に無知で異安心であるか、ここだけでも判断できると言うものです。

ところで、無知で異安心の高森会長がよくいう詭弁の1つに、「雑行を捨てよ」の曲解があります。

『なぜ生きる2』には

「雑行を捨てよ」とは、この悪い「自力の心」を捨てよということである。
 七高僧方が捨てよと言われるのも、「諸善」や「万行」のことではなく「自力の心」のことなのだ。
(中略)
「雑行を捨てよ」を「諸善は捨て物、必要ない」と曲解するのは、十九の願の門戸も知らず、弥陀・釈迦の「方便の善」もご存じない印象は覆いようもない。

とありますが、前回のことを踏まえれば、この詭弁を見抜くことができると思います。

一応解説しておくと、「雑行を捨てよ」とは、報土往生の行ではないから「諸善は捨て物、必要ない」ということです。「自力の心」という信の前に、間違った行である「諸善を捨てよ」なのです。更には、化土往生しかできない19願を捨てよです。
もう1つ、「方便の善」は方便化土往生の因となる行だから、報土往生の因ではない「方便の善」を捨てよです。

実に簡単な話です。因果の道理を信じているなら、報土往生するには報土往生の種以外は蒔いても無意味だと判るでしょうに。

それを徹底的に誤魔化して、会員に善の勧めという名目で、お金を巻き上げる高森会長の魂胆がみえみえです。

それとも、報土往生の種である念仏を蒔くには化土往生の種である諸善を蒔かないといけないとでもいうのでしょうか。スイカを収穫するためにはスイカの種を蒔かないといけませんが、スイカの種を蒔くためには、まず大根の種を蒔かないといけない、と言っているようなものです。

それで苦し紛れに、

では悪をすれば救われると言うのか

とこれまた愚かな詭弁を弄する高森会長と親鸞会ですが、これこそ、無知の証明です。

報土往生の因となる行は、念仏です。

これが根本的に判っていないのです。
愚かな質問をしてくる高森会長、講師部員、幹部会員を、鼻で笑って言い換えしてあげましょう。

悪行が報土往生の因だと思っているのですか。

本当に恥ずかしい指導者と団体です。

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2014年6月14日 (土)

親鸞聖人の教えられた因果の道理と正反対の高森顕徹流因果の道理

高森顕徹会長は、因果の道理を知りません。正確に言えば、世間や外道の因果の道理は知っていますが、親鸞聖人が教えられた因果の道理には無知です。
親鸞聖人は、浄土の因果、往生の因果を教えられています。
前々回、前回と『三経往生文類』を紹介してきましたが、そこにも教えられています。

諸善という行と自力の信を因とする果は、化土往生である。(19願)

念仏という行と自力の信を因とする果は、化土往生である。(20願)

念仏という行と他力の信を因とする果は、報土往生である。(18願)

古文が理解できない人のために、別の観点から説明をすると、『教行信証』の行巻で報土往生の行である念仏を、信巻で報土往生の信である他力の信心について教えられ、化土巻で化土往生の行である諸善と自力の信心について教えられています。

一方、高森会長はどう教えているでしょうか。

諸善という行と自力の信を因とする果は、必堕無間である。

念仏という行と自力の信を因とする果は、必堕無間である。

諸善という行と他力の信を因とする果は、報土往生である。(三願転入)

これが親鸞聖人の教えと同じかどうかは、小学生でも判断できるでしょう。ちなみに、最近は必堕無間をぼかしてはいますが、それに近いことを未だに言っていますし、化土往生は否定しています。
念仏を軽視し、諸善という行を宿善として積み重ねて報土往生できるという、奇妙奇天烈な珍釈を公言しているのですから、実に恥ずかしいことです。「浄土真宗」とか「親鸞聖人の教え」と言わなければ、おもしろい宗教を考えた変な人が富山にいたものだ、で終わるでしょう。

では、親鸞聖人の御言葉を示しておきましょう。
『教行信証』信巻

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださった行と信以外には、報土往生の因は何一つない、ということです。数字の好きな高森会長に合わせていうなら、行も信も100%阿弥陀仏から賜るものです。衆生の側の行と信は0%です。1%も、0.001%もないのです。衆生の為した諸善を宿善として、とか寝恍けたことは仰っていません。高森会長は、信心のことしか頭にないようですが、行も100%阿弥陀仏から賜ったものです。

次に自力の信心についてですが、これは上記の親鸞聖人の御言葉に反発する信心です。
親鸞聖人の御言葉を示せば、『教行信証』化土巻

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。

とありますように、「罪福を信ずる心」が自力の信心になります。「善いことをしたら善い運命が返ってくる、悪いことをしたら悪い運命が返ってくる、自分のやった行為は自分の運命として返ってくる」を信じる心が自力の信心です。何のことはない、高森会長の教えている因果の道理そのままが自力の信心なのです。
『正像末和讃』誡疑讃にも

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

仏智不思議をうたがひて
 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば
 胎生のものとときたまふ

とありますが、高森会長の教える因果の道理を信じることは仏智不思議を疑う心、疑情そのものです。

要するに、高森会長は親鸞聖人の教えられる因果の道理を知らないだけではなく、親鸞聖人の教えられる因果の道理と正反対のことを教えているだけなのです。

高森会長の話を聞いて信心決定できないのですか、と会員からよく尋ねられますが、答えるまでもないことです。ただし、高森会長の話を誤解して正反対に理解する聞き方をすれば、信心決定はできるでしょうが。

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2014年4月22日 (火)

自身と親鸞会の利益になる因だけを勧めている高森顕徹会長

親鸞会の際限のない財施要求により、昔からの会員は蓄えもなく、出せる金額も細っているため、非会員を倫理道徳的な話で誘いこみ、因果の道理でマインドコントロールして入会させ、お金をむしり取るという構造ができあがっています。
倫理道徳を無視した団体が、倫理道徳を語ること自体矛盾していますが、親鸞聖人がこの世の幸せを得るための話をされているかを考えてみる必要があります。
造悪無碍を誡められたお言葉はいくつもあります。しかし、仏法の善にしても、倫理道徳の善にしても、勧められた御言葉はありません。罪福の因果の道理にしても、積極的に信じるように、と仰ったお言葉はありません。

親鸞聖人が教えられたことは、報土の因果についてです。会員には罪福の因果との違いがよく判らないでしょうが、全く別であるというのが、親鸞聖人の教えです。世俗的なことも含めて会員でも判るようにいうならば、

お金を儲けるには、お金を儲けることをしなければなりません。親鸞会の活動・財施をしてお金が儲かることはありません。会員はここさえ誤解しているでしょうが、当たり前のことです。

大学を優秀な成績で卒業するには、勉強するしかありません。親鸞会の活動をしても、成績上昇の何の足しにもなりません。学友部では、この辺りもマインドコントロールされて、卒業できない学生が多くいますが、愚かな思考です。

同様に、報土に往くには報土に往く因が必要ですが、その因は100%阿弥陀仏が用意されている、と教えられたのが親鸞聖人です。それだけでなく、我々の方で何かを加えることは不要、というよりも、何かを加えることが報土に往けなくする因だ、と教えられているのです。
因果の関係で言えば、お金を儲けることも成績を上げることも、報土に往くことも同じなのですが、全く違うのが、自因自果か他因自果(この場合の他は阿弥陀仏)かということです。

このことだけを知っても、親鸞聖人が倫理道徳の善、罪福の因果を勧められていない理由が判るでしょう。積極的に勧めれば、報土の因果との関係で誤解するからです。かといって、造悪無碍になっても困るので、誡めという形でしか仰っていないのです。

大体、親鸞聖人の御一生を見れば判りますが、親鸞聖人は亡くなられるまで生活に困窮されるような生活でした。世俗的な幸福とは程遠い御一生と言っても過言でないかもしれません。そんな親鸞聖人が親鸞会のいう因果の道理を強調されて、説得力があるかを考えてみたら宜しいでしょう。

高森顕徹会長の考えていることは、親鸞聖人とは全て反対です。高森会長の教えは、全て、自身と親鸞会の利益になる因を勧めているだけです。会員の不利益にしかなりません。この世も、来世も棒に振る前に、会員はよくよく思案すべきでしょう。

いつもの13項目

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

11.因果の道理について

親鸞聖人 罪福の因果を信じることは自力・仏智不思議を疑う心
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高森会長 因果の道理を深信しなければならない

12.三願転入について

親鸞聖人 聖道門の人を浄土門に導く方便が19願であり、19願の勧めはない
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高森会長 全人類は19願から始めなければならない

13.「一向専念無量寿仏」について

親鸞聖人 諸善を廃して念仏1つになること
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高森会長 阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む

『歎異抄』について

第1章

1.「ただ信心を要とす」の「信心」とは

親鸞聖人 「ただ念仏で往生できる」と信じた心
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高森会長 「助かった」とハッキリした心

2.「本願を信ぜんには他の善も要にあらず」とは

親鸞聖人 本願に救われるには善は不要
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高森会長 救われたなら善は不要だが、救われる前には善が勧められている

3.「悪をもおそるべからず」とは

親鸞聖人 本願に救われるのに、悪が妨げになることはない
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高森会長 悪を恐れ不安になるのは、地獄一定の悪人と知らされていないからだ

第2章

4.「ただ念仏して」の「ただ」とは

親鸞聖人 念仏一行
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高森会長 びっくり仰天

5.「総じてもつて存知せざるなり」とは

親鸞聖人 念仏が浄土に生れる因なのか地獄に行く因なのかを知る智慧を持っていない
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高森会長 知り過ぎた知らん

6.「弥陀の本願まことにおわしまさば」は仮定か断定か

親鸞聖人 仮定
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高森会長 断定

第3章

7.「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」とは

親鸞聖人 善人ではなく悪人のために18願を建てられた
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高森会長 「悪人」とは、全人類のことであり、「人間」の代名詞にほかならない

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2013年8月28日 (水)

宿善論が間違っているのは、破綻した因果の道理によるからだと気付かない高森顕徹会長

因果の道理で阿弥陀仏の18願を理解しようとすること自体が仏智不思議を疑う心なのですが、救いに遇うまでの道程を因果の道理で説明しようというのが、高森流宿善論です。

高森流宿善論が間違っているのも、高森流因果の道理を根拠にしているからです。

源信僧都は『往生要集』に教えておられます。

問ふ。もししからば、聞くものは決定して信ずべし。なんがゆゑぞ、聞くといへども、信じ信ぜざるものある。

答ふ。 『無量清浄覚経』にのたまはく、「善男子・善女人ありて、無量清浄仏の名を聞きて、歓喜し踊躍して、身の毛起つことをなし、抜け出づるがごとくなるものは、みなことごとく宿世宿命に、すでに仏事をなせるなり。それ人民ありて、疑ひて信ぜざるものは、みな悪道のなかより来りて、殃悪いまだ尽きざるなり。これいまだ解脱を得ざるなり」と。{略抄}

また『大集経』の第七にのたまはく、「もし衆生ありて、すでに無量無辺の仏の所にしてもろもろの徳本を殖ゑたるものは、すなはちこの如来の十力・四無所畏・不共の法・三十二相を聞くことを得ん。{乃至}下劣の人は、かくのごとき正法を聞くことを得ることあたはじ。たとひ聞くことを得とも、いまだかならずしもよく信ぜず」と。{以上}

まさに知るべし、生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。

(現代語訳)

問う。もしそうであるならば、聞く者はかならず信ずるはずである。どういうわけで、聞いても信ずるものと信じないものとがあるのか。

答える。《平等覚経》に説かれている。

善男・善女があって、無量清浄仏のみ名を聞いて、喜び踊り、身の毛がよだって抜けるように思う人は、みな悉く過去世にすでに仏道を修めているものである。もしまた人があって、仏を疑って信じないものは、みな悪道から来て、その罪がまだ尽きないもので、なおまだ解脱を得ることができないのである。

また《大集経》の第七巻に説かれている。

もし衆生があって、すでに無量無辺の仏の所において、もろもろの徳本を植えたものは、この如来の十力・四無所畏・十八不共法・三十二相を聞くことができるのである。中略 下劣の人はこのような正法を聞くことができない。たとい聞くことができたとしても、まだ必ずしも信ずることはできないのである。

これによってわかるであろう。生死の因縁は不可思議なものである。功徳が少ないものでありながら、聞くことができるのは、そのわけを知ることが難しい。

生死の因縁は不可思議なり」です。五逆の者のように、「薄徳のもの」でも「聞くことを得るも、その縁知りがたし」で、過去世の功徳が少ない者であっても、18願念仏往生を聞いて信じることができるので、その理由を知ることは難しいと源信僧都でさえ仰っています。

また

問ふ。仏、往昔に、つぶさに諸度を修したまひしに、なほ八万歳にこの法を聞きたまふことあたはざりき。いかんぞ、薄徳のたやすく聴聞することを得る。 たとひ希有なりと許せども、なほ道理に違せり。

答ふ。この義、知りがたし。
(中略)
ゆゑに上人のなかにもまた聞くこと難きものあり、凡愚のなかにもまた聞くものあり。これまたいまだ決せず。 後賢、取捨せよ。

(現代語訳)

問う。仏は昔つぶさに諸の菩薩の行を修めたもうたが、八万年に及んでも、この法を聞くことができなかったという。どうして、功徳の少ないものが、たやすく聴聞することができようか。たとい、それは稀な例であると認めても、やはり道理に違うであろう。

答える。この義は、なかなか難しい。
(中略)
故に、すぐれた人の中にも、仏法を聞くことの難しいものがあり、愚かな人の中にも、仏法を聞くものがある。ところで、この義は、まだ決定したものではないから、後の賢い方々は取捨していただきたい。

源信僧都のような方でさえも、過去世の因縁について知ることは難しい、と繰り返し仰っています。「道理に違せり」「これまたいまだ決せず。 後賢、取捨せよ。」と明言をさけておられます。宿善とは、過去世において善をしてきたかどうか、という単純なことではないと、源信僧都は仰っているのです。
そんなことなど、もちろん知らない高森会長は因果の道理で、未だに信心決定までの道程を説明してます。

一応言っておきますが、全人類が極重の悪人ならば、全人類は「薄徳のもの」になります。「薄徳の」全人類が18願の教えに遇うのですから、高森流因果の道理はここでも破綻しています。

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2013年8月23日 (金)

世間事の範疇でしか18願を理解できない高森顕徹会長

高森顕徹会長は、阿弥陀仏の救いを因果の道理で説明する際に、たとえで話をします

二束三文の炭素が、高温高圧という強い縁によってダイヤに変わるようなものだ。

この話を聞くと、納得する人が多いと思います。しかし、納得するということは、不可思議でもなければ、超世希有でもありません。凡夫の智慧で思議できることであり、世の中に例のある話になってしまいます。ここで大問題は、因はあくまで我々にあるということです。

往生の因、成仏の因を、我々が持っているというのは、親鸞聖人の教えではありません。

『教行信証』信巻に親鸞聖人は

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

(現代語訳)

このようなわけであるから、往生の行も信も、すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。如来より与えられた行信が往生成仏の因であって、それ以外に因があるのではない。よく知るがよい

と仰っています。
ここを、当然ながら高森会長は読んだこともないでしょう。

往生の因、成仏の因になる行と信は、阿弥陀仏が用意なされて、それを我々に回向し与えてくださっているのです。我々に因がないのを阿弥陀仏が因を与えて下さる、これを本願力回向というのです。

このことを象徴的に顕わされたのが白道であり、親鸞聖人は白道を「本願力の回向の大信心海」と仰っています。
あるいは、信巻に引かれた『涅槃経』の阿闍世の物語に出てくる「無根の信」です。

ダイヤの譬えでいうなら、炭素を持っていないのにダイヤができるのです。
だから、不可思議の願力であり、超世希有の正法になるのです。

高森会長のいうような因果の道理に完全に反しているのが、18願ですから、18願で救われたいと思うなら、高森会長の因果の道理の話を聞いてはならないのです。聞けば聞くほど、本願力回向を疑い、仏智不思議を疑うことになるからです。

本願力回向が全く理解できていないから、高森会長は、白道を自力の求道心とか、我々のなした善を宿善に変えて下さる、とか愚かな珍釈を連発するのです。

以前に何度も出しましたが、『安心決定鈔』の以下のところを何度も読んでみてください。

まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。和尚(善導)はこれを「別異の弘願」とほめたまへり。

異安心集団の親鸞会から、身も心も解放されなければ、この『安心決定鈔』も理解できないでしょう。

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2013年8月20日 (火)

雑行・自力の心・仏智不思議を疑う心を必死に勧める高森顕徹会長

ここ最近、高森顕徹会長が話をしていることは、因果の道理です。因果の道理なら、誰でも納得し、非難されることもないだろう、という考えでしょうが、この考え方こそが、異安心の証拠です。

「深信因果」が何を意味するのかさえも全く知らない無二の善知識

でも述べましたが、まず、因果の道理を信じることは行福の1つになります。因果の道理を深信することは、上品中生の条件の1つであり、因果の道理を浅信することでも、上品下生の条件の1つになります。当然ながら、これは雑行です。
因果の道理を浅くでも信じていれば、十悪・邪見・闡提の人ではありません。つまり、善人です。

全人類は極重の悪人とか言いながら、因果の道理を信じている親鸞会会員は極重の悪人ではないことになります。

次に、親鸞聖人はこの因果の道理についてどのように考えられていたのかを見てみます。

『教行信証』化土巻・真門釈

定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。

と仰っています。20願自力念仏のことを仰ったものです。『愚禿鈔』にも

また弥陀念仏について、二種あり。
 一には正行定心念仏、
 二には正行散心念仏なり。
  弥陀定散の念仏、これを浄土の真門といふ、また一向専修と名づくるなりと、知るべし。

とあります。念仏でさえも、「罪福を信ずる心」で称えたならば、「自力の専心」とされた訳です。つまり、因果の道理を信じる心は自力なのですから、捨てものです。

『正像末和讃』誡疑讃には、

不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

罪福ふかく信じつつ
 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆゑに
 方便化土にとまるなり

仏智不思議をうたがひて
 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば
 胎生のものとときたまふ

仏智の不思議を疑惑して
 罪福信じ善本を
 修して浄土をねがふをば
 胎生といふとときたまふ

などと教えられています。19願自力諸善、20願自力念仏ともに、因果の道理を信じているから、化土にしか往生できないのであり、それは仏智不思議を疑う心だと言いきっておられます。

以上をまとめると、因果の道理を信じることは雑行であり、自力の心であり、仏智不思議を疑う心ということになります。すべて、「捨てよ」と言われているものです。

18願は、因果の道理に超異しているので、因果の道理の範疇で考えているうちは18願の意味すら理解することができません。

高森会長は、常に、親鸞聖人の教えと正反対のことを教えます。親鸞聖人が「捨てよ」と仰ったものを、高森会長は「せよ」と拾わせます。
高森会長の話を聞いて、救われないのは当然なことでしょう。

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2013年8月14日 (水)

本願力回向を知らず、仏智不思議を否定し、超選民思想宝くじ信心の高森教

親鸞会では、会員のことを、「選ばれた人の中の選ばれた人の中の選ばれた人」というように言うことがあります。獲信者においては、その会員の中で、理不尽な指導のふるい落としに耐え忍び、サバイバルゲームで最後まで生き残った中で更に選ばれたスーパーエリートだけがなれるものだと皆思い込んでいます。完全な超選民思想です。

高森顕徹会長の出身である華光会を非難する時に使う、「バーゲン信心」がそれを如実に物語っています。

しかし、この「バーゲン信心」という非難こそ、阿弥陀仏の仏智不思議を疑う心であり、親鸞聖人の教えのまさに根基ともいえる本願力回向を破壊するものです。

まず、「バーゲン信心」とは、大安売りで容易く手に入れることのできる信心、ということで、親鸞会のような宝くじ信心とは対極に当たるといいたいのでしょうが、親鸞聖人の教えを少しでも学んだならば、高森会長の異安心に気が付くでしょう。

なぜなら、他力信心は「バーゲン信心」どころか「無料配給信心」といっても過言ではありません。「バーゲン」では全員が買える訳ではありません。限られた品しかありませんし、そもそもそれを買うだけのお金を持っていない人は買えません。
これでは「十方衆生」を救うと誓われた18願と相違しています。
ましてや、親鸞会の宝くじ信心では、18願の「十方衆生」など大嘘です。
親鸞聖人は18願の「唯除五逆誹謗正法」を解釈なされて、『尊号真像銘文』

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

と仰っています。
18願から漏れているものはいない、ということで、18願の「十方衆生」の意を「唯除五逆誹謗正法」で補足なされていることが判ります。
ちなみに、19願には「唯除五逆誹謗正法」がありませんので、19願には「十方衆生」とあっても漏れている悪人がいることになります。
3年前のmixiでの法論で、高森会長が大惨敗した内容です。

阿弥陀仏は嘘偽りなく、誰彼関係なく救うために、「バーゲン」ではなく、無料で配給なされたのが、本願力回向なのです。

この回向とは、仏が修行をなされて得られる功徳を、我がものとなされることなく、衆生に分け与えることをいいます。つまり、親鸞会のいう他因自果、自因他果を教えられたのが、回向です。

阿弥陀仏が超載永劫の御修行によって得られた功徳を、誰彼関係なく条件なく無料で分け与えて下されることを、本願力回向というのです。

従って、獲信者がたくさんいることを「バーゲン信心」とか言っている時点で、外道なのです。

これが高森教の教義の実態です。

いつもの10項目

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

『歎異抄』について

第1章

1.「ただ信心を要とす」の「信心」とは

親鸞聖人 「ただ念仏で往生できる」と信じた心
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高森会長 「助かった」とハッキリした心

2.「本願を信ぜんには他の善も要にあらず」とは

親鸞聖人 本願に救われるには善は不要
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高森会長 救われたなら善は不要だが、救われる前には善が勧められている

3.「悪をもおそるべからず」とは

親鸞聖人 本願に救われるのに、悪が妨げになることはない
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高森会長 悪を恐れ不安になるのは、地獄一定の悪人と知らされていないからだ

第2章

4.「ただ念仏して」の「ただ」とは

親鸞聖人 念仏一行
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高森会長 びっくり仰天

5.「総じてもつて存知せざるなり」とは

親鸞聖人 念仏が浄土に生れる因なのか地獄に行く因なのかを知る智慧を持っていない
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高森会長 知り過ぎた知らん

6.「弥陀の本願まことにおわしまさば」は仮定か断定か

親鸞聖人 仮定
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高森会長 断定

第3章

7.「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」とは

親鸞聖人 善人ではなく悪人のために18願を建てられた
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高森会長 「悪人」とは、全人類のことであり、「人間」の代名詞にほかならない

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2013年7月28日 (日)

「深信因果」が何を意味するのかさえも全く知らない無二の善知識

高森顕徹会長は何かの一つ覚えで、”因果の道理”を連呼していますが、浄土門において因果の道理を信じることが何を意味するかさえ知らないのです。

7月1日号の顕正新聞の論説には、

信前信後を問わず、因果の道理を深信する親鸞学徒は、光に向かって日々、努力精進するのは当然であろう。

とあります。「因果の道理を深信する親鸞学徒」と断言していますが、これは言い換えると「上品中生の親鸞学徒」、もっと判りやすく言えば、「善人の親鸞学徒」ということです。全人類は闡提(=因果を撥無する機)を完全に否定していますが、それにも気が付いていないようです。

まず、「因果の道理を深信する」は、散善の行福に当たります。
『観無量寿経』には、行福について

三つには菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進す。

とあります。
また上品中生においては

深く因果を信じて大乗を謗らず。

とあり、上品下生では

また因果を信じ大乗を謗らず。

と説かれています。
これを善導大師は『散善義』でそれぞれ解説なされています。
まず

三福ともに行ぜざるものをすなはち十悪・邪見・闡提の人と名づく。

とある通り、因果を深信していれば、「十悪・邪見・闡提の人」ではありません。
上品中生については

深く世・出世の苦楽二種の因果を信じ、これらの因果およびもろもろの道理に疑謗を生ぜざることを明かす。

とあります。因果の道理を深信しているなら、上品中生の1つの条件を満たしています。
次に上品下生については、『観無量寿経』の「また因果を信じ」について

所信の因果不定なることを明かす。 あるいは信じ信ぜず。 ゆゑに名づけて「亦」となす。 あるいはまた前の〔上品中生の〕深信に同じかるべし。 また信ずといへども深からず。 善心しばしば退し、悪法しばしば起る。 これすなはち深く苦楽の因果を信ぜざるによりてなり。

とあります。簡単に言えば、因果の道理を信じる時もあれば信じない時もある、深信ではないが浅くでも信じていることをいいます。「因果の道理を深信する親鸞学徒」に当てはまらない、言わば「落ちこぼれの親鸞学徒」ということです。

上品下生でさえ、「因果の道理を深信する親鸞学徒」失格なのですから、況や中品上生・中生・下生の善人は、幽霊会員のことでしょうし、下品上生・中生・下生の悪人など、会員を除名されるでしょう。

しかし、極重の悪人である下品下生が全人類の実機であるとも断言しているのですから、話にならないです。それとも信前は「因果の道理を深信する親鸞学徒」で、信後は「因果の道理を撥無する親鸞学徒」という苦しい言い訳でもいうのでしょうかね。それなら「信前信後を問わず」も嘘になります。

もちろん、「深信因果」は雑行です。信前も信後も必死に雑行を勧めて、いつ雑行を捨てるつもりなのでしょうか?

一応言っておきますが、世俗の因果を18願の救いと無関係と思って信じていれば雑行ではありません。
しかし高森顕徹会長のように、因果の道理を深信して、三願転入の道を進むだの宿善を厚くするだの信仰云々と言っている時点で雑行です。これを親鸞聖人は「仏智不思議を疑う心」と仰って厳しく誡められました

少しは整合性のとれる創作話を考えてください、無二の善知識高森顕徹会長。

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