法論

2020年4月21日 (火)

真宗の教えの真髄も根基も知らない高森顕徹会長から逃れられない憐れな会員達

mixiでの法論で、「雑行」の勘違いについて高森顕徹会長でも理解できたのでしょう、ここで苦し紛れに伝家の宝刀を抜きました。

未信の人が、18願だけで導かれるということですか?
19願力も、20願力も不要と言われるのでしょうか?
もしそうでしたら、19願力や20願力以外の、
18願力に方便(信前)もある、ということになりますが、
そのようなことを、親鸞聖人はどこにおっしゃっているのでしょう?

困ったときの方便です。これには答えられないだろうと思っていたのでしょうが、こちらも満を持して根拠を出しました。
『教行信証』行巻に『往生要集』を引かれて

『観経』には「極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得」

とあります。これが『正信偈』では、

極重悪人唯称仏

であり、『高僧和讃』には

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

と親鸞聖人が繰り返し教えられています。
極重の悪人」とは、下品下生の機のことですが、下品下生の機には「他の方便なし」、つまり19願力は不要と教えられています。そして18願力の「ただ弥陀を称して」で「極楽に生ずることを得」ることができると親鸞聖人は明言されています。

なお、蓮如上人も『正信偈大意』に

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と教えられています。19願の方便も「雑行」の方便も不要、18願だけで往生できるというのが、真宗の基本中の基本、真宗の真髄、親鸞聖人の教えの根基です。

高森会長は、この一言でまた絶句しました。そしてこれで法論は完全終結となりました。いうまでもなく高森会長の大惨敗で逃走の末、この法論の場の管理者が会員であったため、法論の記録を抹殺させました。もちろん、こちらは控えを取っていますので、当時のやり取りは再現できます。

マインドコントロールされた会員は、高森会長が聖教をすべて読んでいると思っているでしょうが、実際は全く読んでいません。この「他の方便なし」という基本中の基本さえ知らずに、

そのようなことを、親鸞聖人はどこにおっしゃっているのでしょう?

と寝とぼけたことを平気で言えるのですから。高森会長がこんなのですから会員も同じで、自分で根拠は出せないが、相手には根拠を出せと言ってくるのです。尤もこちらはいくらでも根拠が出せますから、根拠を出されてから、親鸞会は絶句するか小学生のような妄想解釈を喚き散らすかのどちらかしかできません。

なお、10年前の法論の際には出しませんでしたが、往生するのに19願や「雑行」は不要という決定的な根拠はいくつもあります。

判りやすいのが行巻にあります、浄飯王に対する釈尊の御説法の内容です。念仏を勧められた釈尊に対して、善ができると自惚れていた浄飯王が「なぜ善を勧めないのですか」と言ったことに対する釈尊のお答えは、「父王には善ができないから念仏を勧めているのです」でした。善ができないのに善ができると自惚れているから善をさせてみてできないことを知らせて、などという回りくどい教えは真宗にはありません。

また信巻の大半を占める阿闍世の物語では、釈尊は阿闍世に善を全く勧められることなく阿闍世は獲信しています。阿闍世の信心を「無根の信」と書かれていますが、根拠のない信心、つまり清らかな善をしていないので清らかな信心が獲られる道理がないのに清らかな信心が獲られた、という意味です。この阿闍世の物語は『教行信証』全体の約1割も占めているほど、親鸞聖人が最も仰りたかったことです。

mixiでの法論の中で、こちらの質問に高森会長が一度だけ答えたことがありました。

質問は、

親鸞聖人が19願を勧められた根拠は?

で、高森会長の答えが

『教行信証』全体

これで判りましたね、高森会長は『教行信証』を全く読んでいないことが。阿闍世の物語のことを、高森会長は知らないのです。学生時代に講義で聞いたことはあったでしょうが、それが『教行信証』の中心である信巻で、その大半が阿闍世の「無根の信」についての内容であることを覚えていないのです。

18願の救いについての重要なキーワードである、「他の方便なし」「無根の信」さえも知らない高森会長のことを無二の善知識と崇めさせられ、金と時間を毟り取られ続ける会員が本当に憐れです。

ふざけるな!ここまで高森先生を侮辱されて黙っておれるか!

という会員はいないのでしょうか?

きっと会員は、ブラック企業と知りながらブラック企業を辞めることができない状態なのでしょう。やっぱり憐れです。

| | コメント (5)

2020年4月20日 (月)

「雑行」に関するお粗末な詭弁

10年前のmixiでの法論で高森顕徹会長に「欣慕浄土の善根」を教えたら絶句したのですが、この「欣慕」は善導大師の『散善義』にある第三深信

また決定して深く、釈迦仏この『観経』に三福九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと信ず。

のことを指しています。
『観無量寿経』の定散二善および19願は浄土を「欣慕」、つまり願い慕わせ、聖道門から浄土門へ導くという方便の役割を説明されています。念のために説明しておきますと、浄土を願わせるのですから、浄土を願っていない人、つまりは聖道門の人のため、正確には聖道門を断念した人のために、『観無量寿経』の定散二善および19願という方便があるのだ、ということです。

高森会長にとって、これは衝撃だったのでしょう。法論で負けた悔しさから書いた『なぜ生きる2』では17章に、突如七深信を載せていますが、この第三深信について説明できなかったことからもそれが判ります。

mixiでの法論ではこの後、独り言をつぶやき始めます。

「雑行を捨てよ」とは、善をするなということではなく、悪い心がけを捨てよということである

前回までの説明を理解できたなら、このつぶやきが如何に頓珍漢なことかお判りかと思います。

「雑行」=聖道門の「行」+浄土往生のためという「心がけ」

ここから悪い「心がけ」を捨てたらどうなるか?

「雑行」-「悪い心がけ」=聖道門の「行」

答えは、単なる聖道門の「」になるだけです。つまり、「雑行」は「」が間違っているから「」を捨てよという意味でしか、親鸞聖人も蓮如上人も仰っていません。

高森会長の言っていることは詭弁なので、聖教を読んだなら簡単に詭弁を見破ることができますが、会員は聖教を読んでいないので、詭弁に騙され続けているだけなのです。

雑行」に関するもう一つの詭弁は、こんなものです。

私がW講師に法論を申し込んで突き付けた高森会長の間違いの1つに

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 定散二善をせよ

がありますが、これを親鸞会は私には直接反論せずに『顕真』平成24年11月号に「ひと口問答」として内輪向けに反論したというパフォーマンスを示したのが、

問い

親鸞聖人は定散二善を捨てよと仰っているのに、定散二善を勧めるのは間違い、という人がありますが、如何でしょうか。

答え

 煙草をのまない人に煙草を捨てよと言う人はありません。素っ裸の人に何かを捨てよと言う人もありません。結婚もしていない者に離婚ということがないのと同じです。
 親鸞聖人が定散二善を捨てよと仰っているのは、定散二善を行っている人に仰っているのです。
(後略)

でした。

捨てるためには持っていないと捨てることができないから、まずは持つことを勧めるのは当然だ!

という詭弁です。
これは聖教を読まなくても簡単に論破できます。私はこの”反論”を入手後、即座に再反論しました。

問い

煙草をのまない人に煙草を捨てよと言う人はありません。素っ裸の人に何かを捨てよと言う人もありません。結婚もしていない者に離婚ということがないのと同じです。
親鸞聖人が定散二善を捨てよと仰っているのは、定散二善を行っている人に仰っているのです。

答え

中学高校の頃、先生からよく言われませんでしたか、「煙草をのむな」と。大半の生徒は煙草をのんだことがないですが。温泉にいくと、「服や水着を着て入らないでください」と注意書きしてあるところがあります。99%以上の人は素っ裸ですが。聖道門では結婚を禁じています。日本は別として他国の僧侶は誰も結婚していませんが。
親鸞聖人が定散二善を行っていない人に、定散二善をせよと仰ったお言葉を示してください。

ここには書きませんでしたが、私がこの詭弁に対していつも言うのが、

自殺をするなと国が呼びかけていますが、その意図は、
自殺をしていない人に自殺をするなとは言われないので、まずは自殺をさせてみるということですか?

少し考えれば判りそうな、お粗末な詭弁です。私が会員の時でもこれは詭弁だと思っていましたが、今の会員はこの詭弁を真実と本気で思っているようで、びっくりします。

なお、「雑行」、定散二善を行っている会員は、今からまだ「雑行」、定散二善を行う意味は何でしょうか?
会員がすでに持っている「雑行」を捨てれば済む話ですが、更に「雑行」を増やす理由は何ですか?
答えは簡単です。
会員に金集め、人集めをさせるため。

| | コメント (2)

2020年4月19日 (日)

「雑行」の定義を知らずに大恥を晒した高森顕徹会長

雑行」とは、善導大師、法然上人のお言葉から、

正行を除く往生の行である諸善

ということが、高校生並みの国語力があれば判ると思います。
親鸞聖人は、これを更に詳しく説明されています。『教行信証』化土巻に

それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。

(現代語訳)

さて、雑行と雑修とは同じような言葉であるが、意味は違っている。雑という言葉には、すべての行をおさめてしまうのである。五種の正行に対しては、五種の雑行がある。この雑という言葉は、人間や神々に生れる行や菩薩の行などがさまざまにまじっているという意味で雑というのである。これはもとより阿弥陀仏の浄土に往生する因ではなく、浄土を願う心をおこし、これらの行を浄土往生のための善としなければならないから、浄土往生の行としては雑行というのである。

とあります。『愚禿鈔』にもほぼ同じ説明で

雑行の言は人・天・菩薩等の解行雑するがゆゑに雑といふなり。もとよりこのかた浄土の業因にあらず、これを発願の行と名づく、また回心の行と名づく、ゆゑに浄土の雑行と名づく、これを浄土の方便仮門と名づく、また浄土の要門と名づくるなり。

とあります。
雑行」とは、「もとより往生の因種にあらず」「もとよりこのかた浄土の業因にあらず」なのです。もともとは浄土往生の因となる行ではないのですが、「回心回向」すると「雑行」になるのです。
高森顕徹会長の話しか聞いたことがないと、全く理解できないと思いますが、簡単に言うと、もともと聖道門で教えられている「」は聖道門で教えられるさとりを得ようと思ってするのですが、それを「回心回向」したら、つまりさとりを得るためではなく浄土往生のためにしたならば、「雑行」になるということです。

言葉の関係は

雑行」=「浄土の雑行」=「回心回向の善」=「浄土の方便仮門」=「浄土の要門

です。

高森会長はこれを全く知りませんでした。その証拠が『浄土和讃』

諸善万行ことごとく
 至心発願せるゆゑに
 往生浄土の方便の
 善とならぬはなかりけり

の意味を完全に間違えて善の勧めだと吹聴してしまったことです。

現代語訳は

諸善万行は、 本来、 聖道門の行である。
けれども、 この行によって浄土往生を願わせたいと、 阿弥陀如来が至心発願の誓いをお立てくださったので、
浄土往生のための方便の
善とならないものはなかったのである。

です。「雑行」の意味を知っていたら、簡単にこの和讃の意味は判るのですが、これを善の勧めの文証とした前代未聞の高森会長の解釈により、高森会長と親鸞会は真宗界での笑いものになったのです。

察しの悪い会員のために

雑行」=「浄土の雑行」=「回心回向の善」=「浄土の方便仮門」=「浄土の要門」=「往生浄土の方便の善

こういうことです。

親鸞聖人が、この「雑行」の説明で何を仰りたかったかというと、「雑行」は聖道門と同じ「」での心を、さとりを得るためから浄土往生するためと切り替えるだけなので、聖道門の人を浄土門に導きやすい要の門(教え)だということです。完全にイコールではありませんがほとんど同じ意味なので「雑行」を19願と置き換えてみるともっとはっきりします。19願は、聖道門の人を、正確には聖道門を断念した人を浄土門に導き入れるための願だと親鸞聖人は仰っているのです。

それが丁度10年前に、mixiで高森会長と三願転入の法論をした時の最大の論点でした。

長くなるので、今回は詳しく述べませんが、その時に高森会長が絶句した親鸞聖人のお言葉が、化土巻の

釈家の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。

(現代語訳)

善導大師の解釈された意向にしたがって『観無量寿経』をうかがうと、顕彰隠密の義がある。
その顕とは、定善・散善のさまざまな善を顕わすものであり、往生するものについて上・中・下の三輩を区別し、至誠心・深心・回向発願心の三心を示している。しかし、定善・散善の二善、世福・戒福・行福の三福は、報土に生れるまことの因ではない。三輩のそれぞれがおこす三心は、それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、他力の一心ではない。これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるために示された善である。これが『観無量寿経』の表に説かれている意味であり、すなわち顕の義である。

でした。「欣慕浄土の善根」とは、浄土を願っていない人に浄土を願わせるための善根ということです。19願であり、定散二善であり、「雑行」です。

10年前の法論で高森会長の大惨敗を決定付けたのが「欣慕浄土の善根」でした。

そんなの嘘だ!高森先生が法論で負けるはずがない!

という元気な会員のコメントをお待ちしています。講師部員は師匠同様、逃げまくってコメントできないようなので。

| | コメント (1)

2020年2月23日 (日)

最近の親鸞会との法論13

若不生者」について、親鸞聖人がどう仰っているのかの根拠を列記しておきます。「往生」とか「生まれる」だけで、「どこに」「どんな身に」が記されていない御文は除いています。

まずは『教行信証』行巻より

諸天・人民・蜎飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。この願を得ずは、つひに作仏せじ

諸天・人民・蠕動の類、わが名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、わが国に来生せしめん。しからずはわれ作仏せじ


前者は『大無量寿経』の異訳経である『大阿弥陀経』、後者は同じく異訳経の『平等覚経』で、共に18願の異訳で「わが国」ですから、浄土に生まれるという意味です。

もう一つ行巻より

『双巻経』(大経)の三輩の業、浅深ありといへども、しかるに通じてみな「一向専念無量寿仏」といへり。三つに四十八願のなかに、念仏門において別して一つの願を発してのたまはく、「乃至十念 若不生者 不取正覚」と。四つに『観経』には「極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得」

これは『往生要集』を引かれたものですが、直接「若不生者」についての解釈を仰っているのではありません。しかし、最後の文が18願文の「」がどこかを明確にされています。「極楽」。

次に『尊号真像銘文』です。

「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。

これはよく知られていますので、解説は要らないでしょう。「浄土」。

もう一つ

「若不生者不取正覚」といふは、ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは、仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。

ですが、これは18願文を言い換えられた善導大師の『観念法門』にある

若我成仏 十方衆生 願生我国 称我名字 下至十声 乗我願力 若不生者 不取正覚

の「若不生者」についてですが、当然、18願文の「若不生者」そのままですから、18願文の「若不生者」の解釈と同じです。「もし本願の実報土に生れずは」ですから、「本願の実報土」です。

『唯信鈔文意』には、

「来迎」といふは、「来」は浄土へきたらしむといふ、これすなはち若不生者のちかひをあらはす御のりなり。穢土をすてて真実報土にきたらしむとなり、すなはち他力をあらはす御ことなり。

とあり、ここでも「浄土」です。

もう一つ

「乃至十念 若不生者 不取正覚」といふは、選択本願の文なり。この文のこころは、「乃至十念の御なをとなへんもの、もしわがくにに生れずは仏に成らじ」とちかひたまへる本願なり。

です。「わがくに」です。

次に『愚禿鈔』ですが、これは18願文を二河白道の譬えで言い換えられた

汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん

で「若不生者」にあたる「来れ」の解釈で

「来」の言は、去に対し往に対するなり。また報土に還来せしめんと欲してなり。

と仰っておられます。「報土」です。

最後は『末灯鈔』で親鸞聖人が18願文をご自身のお言葉で言い換えられた

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる

です。「極楽」です。

これで

1.「浄土に生まれる」と仰った根拠

教行信証行巻 3文
尊号真像銘文 2文
唯信鈔文意 2文
愚禿鈔 1文
末灯鈔 1文

計 9文

です。これ以外にもあるかもしれませんが、思いつくものとして挙げた9文です。
信楽に生まれる」という解釈をされた箇所は、全くないのです。

理屈でどうこういうのではなく、

親鸞聖人がどう仰っているか

論点はこの一点で、高森会長が親鸞聖人とは違う教え方しかしていない、という結論に達するのです。

これで某講師は完全に沈黙しました。

| | コメント (3)

2020年2月15日 (土)

最近の親鸞会との法論12

他に講師との法論では、「若不生者」についてのこともありました。かなり議論尽くされた内容ですので、取り上げるかどうか迷いましたが、ポイントだけ紹介しておきます。

親鸞会の主張は、

信楽に生まれさせる

というものです。これは明確な間違いであり、このことについては当ブログで何度か言及しています。「信楽」とは仏心そのものですので、「信楽」に生まれたら仏になったことと同じことですので、そのような言い方は言葉の定義からして間違いです。

他力の信心を「信楽」と言われますが、「信楽」を頂くことと「信楽」になることとは違います。「信楽」を頂くのは、あくまで「信楽」になる種つまり仏になる種を頂くのであって、芽も花も実もない状態です。

高森顕徹会長は、自分が体験したこともないのに、話を創作して会員を騙しているだけなのです。

次に親鸞会が言ってくるのが、

本願成就文には現益しか説かれていない。
現益がないというのか!

ですが、浄土真宗なら現益をいうのが当然ですが、問題は、

親鸞聖人が「若不生者」をどのように解釈されているか

の一点です。

曲がりなりにも親鸞学徒を名乗るのなら、親鸞聖人が仰ったお言葉で説明し、理屈を捏ね繰り回す必要はないのです。

結論は以下の通りで終了でした。

「若不生者」についてのまとめ

1.「浄土に生まれる」と仰った根拠

教行信証行巻 3文
尊号真像銘文 2文
唯信鈔文意 2文
愚禿鈔 1文
末灯鈔 1文

計 9文

2.「信楽に生まれる」と仰った根拠

ゼロ

0
皆無

つまり、高森会長は親鸞聖人とは違う教え方をしている。

根拠については、次回以降紹介していきます。

| | コメント (3)

2020年2月 2日 (日)

最近の親鸞会との法論10

親鸞会で”お聖教”とされている書の中には、親鸞会の主張する名号本尊の根拠はないので、この時点で、

どんな「史料」にどんな「史実」が書いてあっても、お聖教が物差しで、お聖教に反していたら「史実」は根拠にならない。

が破綻するのですが、『弁述名体鈔』も”お聖教”としています。しかし、高森顕徹会長も含めて親鸞会で『弁述名体鈔』を読んだことのある人はいないのに、どこかで名号本尊について書いてあるという噂で根拠としていただけのようです。

『弁述名体鈔』とは、存覚上人が光明本尊について書かれたものですが、光明本尊とは名号本尊の一種で、名号の周りに光明を放射状に描いた本尊です。したがいまして、親鸞会の本尊とは異なっているのですが、そんなことさえも知らないのでしょう。

さて、親鸞会が断章取義しているであろう文は、

高祖親鸞聖人御在生のとき、末代の門弟等、安置のためにさだめおかるる本尊あまたあり、いわゆる六字の名号、不可思議光如来、无碍光仏等なり。梵漢ことなれども、みな弥陀一仏の尊号なり。

です。親鸞聖人が六字の名号を含む数種の名号を本尊とされていたことを記されたことですが、名号本尊だけ、という内容ではありません。事実、他所には

あるひは形像を図し、あるひは文字をあらはして、真仮ともにしめし、梵漢ならべて存するなり。いづれも弥陀一仏の体なりとしりて、ふかく帰敬したてまつるべきなり。

とありますので、これは絵像木像本尊も「いづれも弥陀一仏の体なりとしりて、ふかく帰敬したてまつるべきなり」という意味以外にどんな解釈ができるのか教えてください。

と某講師に問いかけたところ、返答はありませんでした。

この前の部分も示しますと、

まづ弥陀の形像は、観経の像観のこころなり。かの経に、十三定善をとくなかに、第八の観は像観なり、これ形像なり。第九の観は真身観なり、これ浄土の如来なり。これすなはち衆生、さはりをもくしてはじめより、六十萬億の身量を観すること、かなふベからざるがゆへに、まづこころを形像にとどめて、次第に転入して、浄土の如来を観ぜしめんとなり。これあさきよりふかきをおしへ、仮より真にいる義門なり。かるがゆへに、かの説相にまかせて、まず形像を体として、その阿弥陀仏の真実の体は、不可思議光無碍光の体なりと、さとらしめんがためなり。絵像にかき、木像につくれるは、ちゐさくかけばちゐさきかたち、おほきにつくればおほきなるすがたなり。ただその分をまもるがゆへに、真実にあらず。不可思議光如来とも、無碍光如来ともいひて、文字にあらはせるときは、分量をさささるゆへに、これ浄土の真実の仏体をあらはせるなり。しかれども、凡夫はまどひふかく、さとりすくなきがゆへに、あさきによらずば、ふかきをしるベからず。方便をはなれては、真実をさとるベからざれば、ふかきもあさきも、みな如来の善巧真実も方便も、ともに行者の依怙なり。このゆへに、あるひは形像を図し、あるひは文字をあらはして、真仮ともにしめし、梵漢ならべて存するなり。いづれも弥陀一仏の体なりとしりて、ふかく帰敬したてまつるべきなり。

です。

簡単に解説します。
『観無量寿経』に説かれている定善の第八の像観は、仏像を観ることで、第九の真身観は、阿弥陀仏が浄土にまします真実のお姿とされる「六十萬億の身量」を観ることです。ところが「六十萬億の身量」を観ることは極めて難しい行ですので、まずは仮である通常目にする大きさの仏像を観ることから始めて、真の阿弥陀仏の「六十萬億の身量」を観ることができるようにするということです。親鸞会の大好きな”方便からしか真実に入れず”と同様の「方便をはなれては、真実をさとるベからざれば」と存覚上人は仰って、大きさとは無関係の文字による名号本尊も含めて、「あるひは形像を図し、あるひは文字をあらはして、真仮ともにしめし、梵漢ならべて存するなり。いづれも弥陀一仏の体なりとしりて、ふかく帰敬したてまつるべきなり。」なのです。

名号本尊は最善といえますが、絵像と木像を本尊としてはならない、という意味になりえないのは、マイコン真っただ中の某講師にも理解できたようです。

| | コメント (0)

2020年1月28日 (火)

最近の親鸞会との法論9

論点をずらさせないようにするために、基本的なことを言っておきますと、互いの主張が

1.Aのみ
2.AでもBでもCでも良い
で議論すべきは、Aのみと限定された根拠があるかどうかです。BでもCでも良いという根拠を示すことがなくても、Aのみと限定された根拠がなければ2が正しいとなります。

某講師の反論はまさにこれが理解できず、

本尊が絵像でも木像でも良いと仰った根拠を出せ

と息巻いていましたが、名号のみという根拠がないことが根拠になるのです。
簡単な理屈です。
これを踏まえて今回のエントリーも見てください。

名号本尊の根拠として、最近の顕真などでは『改邪鈔』の

本尊なほもつて『観経』所説の十三定善の第八の像観より出でたる丈六八尺随機現の形像をば、祖師あながち御庶幾御依用にあらず。天親論主の礼拝門の論文、すなはち「帰命尽十方無礙光如来」をもつて真宗の御本尊とあがめましましき。

を使っています。そしてご丁寧に

※「あながちに」の正しい意味

古語辞典では、「否定文の副詞としての『あながちに』は、『決して、絶対に』の意味になる」と解説されている

と強調しています。

某講師も同様でしたが、これが嘘だということは辞書を調べれば一目瞭然です。
以下はネットでも見ることができるので、実際に調べてみてください。

『語源由来辞典』
あながちとは、下に打消しの語を伴い、断定しきれない気持ちを表す。必ずしも。一概に。まんざら。

『学研全訳古語辞典』
〔下に打消の語を伴って〕決して。必ずしも。むやみに。

『三省堂 大辞林』
(下に打ち消しの語を伴う) (1)一概に。まんざら。必ずしも。 (2)決して。むやみに。 (形動ナリ) (4)必ずしも。

『旺文社 古語辞典』
打ち消しの語を伴って「必ずしも・・・でない」の意を表わす

このようになっています。
大まかに言うと、「決してない」の意味と、「必ずしもそうではない」の二つの意味があります。
前者しかない、という親鸞会の主張は、辞書を調べるだけで簡単に崩れるのです。

親鸞会の主張は、この限定が多いので、限定の根拠がないこと、もしくは限定外の例を出したら、簡単に論破できるのです。ですから絵像木像の史実で本来は終わりなのですが、史実を認めないという訳の判らない理屈を言ってきましたので、聖教でも良いですよ、と余裕の議論をしたまでです。

あながちに」の意味の説明だけでも良いのですが、親鸞会のいつもの断章取義をここでも教えてあげました。

『改邪鈔』の該当箇所全文は

一 絵系図と号して、おなじく自義をたつる条、謂なき事。

 それ聖道・浄土の二門について生死出過の要旨をたくはふること、経論章疏の明証ありといへども、自見すればかならずあやまるところあるによりて、師伝口業をもつて最とす。これによりて意業にをさめて出要をあきらむること、諸宗のならひ勿論なり。いまの真宗においては、もつぱら自力をすてて他力に帰するをもつて宗の極致とするうへに、三業のなかには口業をもつて他力のむねをのぶるとき、意業の憶念帰命の一念おこれば、身業礼拝のために、渇仰のあまり瞻仰のために、絵像・木像の本尊をあるいは彫刻しあるいは画図す。しかのみならず、仏法示誨の恩徳を恋慕し仰崇せんがために、三国伝来の祖師・先徳の尊像を図絵し安置すること、これまたつねのことなり。その ほかは祖師聖人(親鸞)の御遺訓として、たとひ念仏修行の号ありといふとも、「道俗男女の形体を面々各々図絵して所持せよ」といふ御掟、いまだきかざるところなり。

しかるにいま祖師・先徳のをしへにあらざる自義をもつて諸人の形体を安置の条、これ渇仰のためか、これ恋慕のためか、不審なきにあらざるものなり。本尊なほもつて『観経』所説の十三定善の第八の像観より出でたる丈六八尺随機現の形像をば、祖師あながち御庶幾御依用にあらず。天親論主の礼拝門の論文、すなはち「帰命尽十方無礙光如来」をもつて真宗の御本尊とあがめましましき。いはんやその余の人形において、あにかきあがめましますべしや。末学自己の義すみやかにこれを停止すべし。

です。タイトルにもありますように「絵系図」についての邪義を説明されたところです。
予備知識として絵系図とは、これもネットで調べられますが、以下紹介しておきます。

『精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典』

浄土真宗の一派で用いた絵図。阿彌陀如来の名号「南無不可思議光如来」を中心に、祖師先徳等の像、また、一般信者の姿もえがいて相承の系譜を示したもの。光明本尊と名帳の影響を受けたもので、覚如はこれを邪義としたが、仏光寺系では長く用いられた。
※改邪鈔(1337頃)「絵系図と号して、おなじく自義をたつる条、謂なき事」

これを基にして読まれれば良いと思いますが、内容を簡単に説明すると、親鸞聖人の御遺訓として、

たとひ念仏修行の号ありといふとも、「道俗男女の形体を面々各々図絵して所持せよ」といふ御掟、いまだきかざるところなり。

とは仰っていますが、「阿弥陀仏の木像絵像を本尊としてはならない」という御遺訓は書かれていません。
しかも「絵像・木像の本尊をあるいは彫刻しあるいは画図す」と「三国伝来の祖師・先徳の尊像を図絵し安置すること、これまたつねのことなり。」と、阿弥陀仏そして祖師・先徳のお姿を絵像や木像にすることは一般的なことであって、それを否定されてはいません。そのあとの「道俗男女の形体を面々各々図絵して所持せよ」に対してのみ「祖師・先徳のをしへにあらざる自義をもつて諸人の形体を安置の条」と仰っているので、木像絵像を本尊とすることと、祖師方の尊像を図絵し安置することは「祖師・先徳のをしへ」であることになります。

このように某講師に説明したら、それでこの件は終わりました。あっけないものです。

参考までに石田瑞磨著『親鸞全集』の現代語訳を示しておきます。

いまの真宗においては、もっぱら地力を捨てて、すべて他力に帰結することをもって、教えの極致とするが、その上でさらに、身に行い、口に言い、心に想い、まことを捧げる真実の信心がおこるから、身には仏を礼拝するために、渇仰の心をもって仰ぎ見るための絵像や木像を絵に画き、あるいは彫刻する。そればかりでなく、仏法を説き聞かせられたご恩を恋い慕い、崇め仰ぐために、インド・シナ・日本と〔浄土の教を〕伝来された祖師・先徳の尊いお姿を絵に画いて安置することも、これまた一般のことである。しかしこのほかに、たといそれが念仏修行のためであるとしても、祖師親鸞聖人が残しおかれたお訓しとして、「出家・在家の男女がそれぞれ、ひとりひとりの姿を画いて所持せよ」という掟があるとは、まだ聞いたことがない。ところがいま、祖師や先徳の教えに見られない自説によって、それぞれの像を安置するということは、これは渇仰のためか、恋慕のためか、不審なくすごすことはできない。
本尊でさえも、『観無量寿経』が説く十三種の仏を観想する方法のうち、第八の像観にもとづいて、〔礼拝する}ひとの能力にかなうように一丈六尺や八尺の仏像{がつくられたが、これ}さえ祖師は強いてみずから望んでお用いになってはいない。〔むしろ}『浄土論』を著わされた世親が、礼拝について述べられた言葉、すなわち「帰命尽十方無碍光如来」という言葉をもって、真宗のご本尊とあがめられたのである。まして、これ以外の人の姿を、どうして画き、崇められるわけがありうか。学問の末に連なるものがたてた自分の一個の説は、すみやかに停めなければならない。

| | コメント (0)

2020年1月26日 (日)

最近の親鸞会との法論8

親鸞会が名号本尊の根拠として最初に出すのが、『御一代記聞書』の

他流には、「名号より絵像、絵像よりは木像」と、云うなり。当流には、「木像よりは絵像、絵像よりは名号」と、いうなり。

です。

蓮如上人が名号本尊を強調されているではないか!

と言ってきますが、本当にそうなのかです。
『御一代記聞書』の読み方については「親鸞会教義の誤り」でまとめられている通りですが、書かれてある内容を大別すると

1.蓮如上人の直のお言葉
2.蓮如上人のお言葉の聞き書き
3.実如上人、法敬、道宗等の言葉
4.著者もしくは発言者不明の言葉

になります。
1は、『御文章』をそのまま引用されているもので、間違いなく蓮如上人のお言葉と言えます。
2は、蓮如上人のお言葉を聞いた人が、記憶に任せて書き記したものですので、聞き間違いがあるかもしれませんが、蓮如上人の仰ったこととしての信憑性はあると言えます。ここに当てはまるのは、蓮如上人が仰った、と書かれてある場合です。言葉を語られた主語が「蓮如上人」「前々住上人」となっている、もしくは「仰せられ候」等の尊敬語があることで判別できます。
3は、主語が蓮如上人以外の名前である場合ですので、明らかに蓮如上人のお言葉ではありません。
4は、主語がない、そして尊敬語もない、言いっ放しの文章です。これは1でも2でも3でもないことが普通に判る話です。
中学校の国語レベルの問題です。

では

他流には、「名号より絵像、絵像よりは木像」と、云うなり。当流には、「木像よりは絵像、絵像よりは名号」と、いうなり。

はどれに当たるのか考えてみましょう。

発言者の名前がなく、「仰せられ候」とも書かれてありませんので、答えとしては4に当たります。つまり、蓮如上人のお言葉という根拠にはなりません。もしこれが蓮如上人のお言葉であると主張するのであれば、その理由を他の蓮如上人のお言葉で補うしかありませんが、これが唯一の蓮如上人のお言葉ですから、それを指摘したら、某講師は反論できませんでした。

なお、親鸞会でも知っている『御一代記聞書』の

前々住上人の御時、あまた御流にそむき候ふ本尊以下、御風呂のたびごとに焼かせられ候ふ。

は、何が「御流にそむき候ふ本尊」であるかは書かれていませんが、蓮如上人が本願寺を継がれた際には、本願寺は、天台宗の有力寺院である青蓮院の単なる一末寺でしかありませんでした。天台宗の一末寺ですから、天台宗の本尊も本願寺にあったので、「御流にそむき候ふ本尊」とは天台宗の本尊のことと言われています。

史実では、蓮如上人は木像本尊、絵像本尊にされているので、木像と絵像を焼かれたという発想は、流石に親鸞会でもできないようです。

ということで、名号本尊最大の根拠を親鸞会は失いました。

| | コメント (0)

2020年1月22日 (水)

最近の親鸞会との法論7

親鸞会が声高に主張していることで、これまで当ブログで話題にしてこなかったものに、本尊論があります。なぜ取り上げなかったのかといいますと、根拠がないからです。親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人も、名号のみを本尊とせよ、と仰った聖教上の根拠もないし、絵像・木像でも良い、と仰った聖教上の根拠もありません。つまり、親鸞会と法論して、白黒ハッキリ付けられるものではないので、敢えて話題にしてきませんでした。

それで気を大きくしたのか、自信満々に、

浄土真宗の正しい本尊は名号だ、それを実践しているのは親鸞会だけだ

と宣伝しまくっています。

そして、このことで某講師と法論になりました。

親鸞会の言ってくることは、30年以上前に本願寺との本尊論の法論で言った以上のことはありませんので、親鸞会の言っている根拠を一つ一つ潰していけば、根拠のないことが明確になります。

しかしながら、結論は30年以上前にすでに出ていますので、ほとんどは以下を詳しく説明するだけでした。

山田行雄著『真宗の本尊について』

この論文を示した上で、最初の導入として

本尊のまとめ

A)教えとして
1.七高僧は名号本尊とせよとは仰っていない。
2.親鸞聖人は名号本尊とせよとは仰っていない。
3.覚如上人は名号本尊とせよとは仰っていない。
4.蓮如上人は名号本尊とせよとは仰っていない。

つまり、教えとして名号本尊でなければならないとはどこにもない。

B)史実として
1.七高僧は木像絵像を本尊とせられた。
2.親鸞聖人は木像絵像を本尊とせられた。
3.覚如上人は木像絵像を本尊とせられた。
4.蓮如上人は木像絵像を本尊とせられた。

と突き付けました。
山田師の論文の全体を読んだことがなかったので、動揺していましたが、これで某講師が引き下がることはなく、言ってきたことが、

どんな「史料」にどんな「史実」が書いてあっても、お聖教が物差しで、お聖教に反していたら「史実」は根拠にならない。

というものです。実は、これが後々自らの首を絞めることになりますので、覚えておいてください。
親鸞会が根拠とする書を列記しておくと
『改邪鈔』
『慕帰絵詞』
『弁述名体鈔』
『御一代記聞書』
です。

論破は簡単ですが、すべてのやりとりを紹介するとかなり長くなりますので、途中のまとめを以下としました。


【本尊について】

・親鸞聖人は、「名号のみを本尊とせよ」と仰ったお言葉はない。
・覚如上人は、「親鸞聖人が名号のみを本尊とせよと仰った」とも書かれていないし、御自身の見解としてそう仰った箇所がない。
・覚如上人は、『改邪鈔』で「親鸞聖人はあながち木像絵像を本尊とされなかった」と仰ってはいても、これが「親鸞聖人は決して木像絵像を本尊とされなかった」という意味に勝手に解釈しているだけで、その根拠が明示できない。
・『慕帰絵詞』では、「善鸞が名号のみを本尊としていた」とある史実に対して、「親鸞聖人も名号のみを本尊としていた」と推論しているだけで、その根拠がない。史実以下で、仮説でしかない。
・『慕帰絵詞』に、覚如上人が絵像本尊とされていた絵については、間違いだと断言されていますが、その根拠がないし、『慕帰絵詞』の絵を見た覚如上人のことをよく知る多くの人が異論を唱えていない。
・存覚上人は、『弁述名体鈔』で木像絵像本尊も認められている。
・蓮如上人は、『御文章』『正信偈大意』で、「名号のみを本尊とせよ」とも仰っていないし、「親鸞聖人が名号のみを本尊とせよと仰った」とも書かれていない。
・『御一代記聞書』で、主語もなく、尊敬語もない文章に対して、蓮如上人のお言葉という理由も推論の域を出ない。

※結論 「名号のみを本尊とせよ」という教え自体が存在せず、そうした事実すらないから、「名号のみを本尊とせよ」は妄想に過ぎない。

山田師の論文に加えたのが『慕帰絵詞』に描かれた覚如上人が絵像本尊にされている絵 と、「親鸞会教義の誤り」の1つのエントリーです。

これでも必死に抵抗してきましたので、そこについては、次回以降、紹介していきます。

| | コメント (0)

2020年1月18日 (土)

最近の親鸞会との法論6

『観無量寿経』に説かれた上品上生の機について、聖道門の諸師は、以下のような解釈をしていたと善導大師は『玄義分』に紹介されています。

上品上生の人は、これ四地より七地に至るこのかたの菩薩なり

これを善導大師は否定なされて仰ったのが、前回も紹介した

まさしくこれ仏世を去りたまひて後の大乗極善の上品の凡夫、日数少なしといへども、業をなす時は猛し

です。
上品上生の機は、四地から七地までの菩薩とする聖道門の諸師に対して、大乗極善の凡夫と善導大師は断言されました。もっと簡単に言うと、上品上生の機は菩薩ではなく凡夫だということです。

ここで前回紹介した『散善義』至誠心釈で善導大師が仰った

まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちになしたまひ、おほよそ施為・趣求したまふところ、またみな真実なるによりてなり。

が何を意味しているかですが、阿弥陀仏の浄土に往くには、法蔵菩薩の真実心と同じ真実心なければならない、ということを考えてみますと、法蔵菩薩の真実心は、四地から七地までの菩薩なら自ら発すことはできるかもしれませんが、菩薩になれない凡夫が発すことは不可能です。上品上生の機は菩薩ではなく凡夫だと解釈された善導大師が、法蔵菩薩と同じ真実心を凡夫に発せと仰ったのかという疑問が出てきます。そこで別の解釈として、至誠心は阿弥陀仏から真実心を頂くこととすることもできます。

なお、この至誠心は、九品全部に共通する信心と善導大師はされていますので、尚更、自分で発す心ではあり得ません。

それで親鸞聖人はそのことを明確になされるために、善導大師の至誠心釈の読み替えをなされるのです。その一つが親鸞会でも有名な『愚禿鈔』の

外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐ければなり。

です。善の勧めどころか、善の抑止とも採れる表現です。
それを元の『散善義』の

外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。

が善の勧めであったなら、善導大師と親鸞聖人は正反対のことを仰ったことになります。
普通に考えたなら、そんなことはないと判断して、明らかに善の勧めではない親鸞聖人のお言葉を基に善導大師のお言葉を理解しようとするのでしょうが、高森顕徹会長の頭では、善導大師と親鸞聖人の教えられたことは反対でも平気なのです。尤も、最終的には親鸞聖人も善を勧められたとするのですから、高森会長の理屈は滅茶苦茶です。

思考が少しでも残っているなら、人並みの判断をして、高森会長の詭弁に気付き、思考停止の講師を見限ってもらいたいものです。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧