論点をずらさせないようにするために、基本的なことを言っておきますと、互いの主張が
1.Aのみ
2.AでもBでもCでも良い
で議論すべきは、Aのみと限定された根拠があるかどうかです。BでもCでも良いという根拠を示すことがなくても、Aのみと限定された根拠がなければ2が正しいとなります。
某講師の反論はまさにこれが理解できず、
本尊が絵像でも木像でも良いと仰った根拠を出せ
と息巻いていましたが、名号のみという根拠がないことが根拠になるのです。
簡単な理屈です。
これを踏まえて今回のエントリーも見てください。
名号本尊の根拠として、最近の顕真などでは『改邪鈔』の
本尊なほもつて『観経』所説の十三定善の第八の像観より出でたる丈六八尺随機現の形像をば、祖師あながち御庶幾御依用にあらず。天親論主の礼拝門の論文、すなはち「帰命尽十方無礙光如来」をもつて真宗の御本尊とあがめましましき。
を使っています。そしてご丁寧に
※「あながちに」の正しい意味
古語辞典では、「否定文の副詞としての『あながちに』は、『決して、絶対に』の意味になる」と解説されている
と強調しています。
某講師も同様でしたが、これが嘘だということは辞書を調べれば一目瞭然です。
以下はネットでも見ることができるので、実際に調べてみてください。
『語源由来辞典』
あながちとは、下に打消しの語を伴い、断定しきれない気持ちを表す。必ずしも。一概に。まんざら。
『学研全訳古語辞典』
〔下に打消の語を伴って〕決して。必ずしも。むやみに。
『三省堂 大辞林』
(下に打ち消しの語を伴う) (1)一概に。まんざら。必ずしも。 (2)決して。むやみに。 (形動ナリ) (4)必ずしも。
『旺文社 古語辞典』
打ち消しの語を伴って「必ずしも・・・でない」の意を表わす
このようになっています。
大まかに言うと、「決してない」の意味と、「必ずしもそうではない」の二つの意味があります。
前者しかない、という親鸞会の主張は、辞書を調べるだけで簡単に崩れるのです。
親鸞会の主張は、この限定が多いので、限定の根拠がないこと、もしくは限定外の例を出したら、簡単に論破できるのです。ですから絵像木像の史実で本来は終わりなのですが、史実を認めないという訳の判らない理屈を言ってきましたので、聖教でも良いですよ、と余裕の議論をしたまでです。
「あながちに」の意味の説明だけでも良いのですが、親鸞会のいつもの断章取義をここでも教えてあげました。
『改邪鈔』の該当箇所全文は
一 絵系図と号して、おなじく自義をたつる条、謂なき事。
それ聖道・浄土の二門について生死出過の要旨をたくはふること、経論章疏の明証ありといへども、自見すればかならずあやまるところあるによりて、師伝口業をもつて最とす。これによりて意業にをさめて出要をあきらむること、諸宗のならひ勿論なり。いまの真宗においては、もつぱら自力をすてて他力に帰するをもつて宗の極致とするうへに、三業のなかには口業をもつて他力のむねをのぶるとき、意業の憶念帰命の一念おこれば、身業礼拝のために、渇仰のあまり瞻仰のために、絵像・木像の本尊をあるいは彫刻しあるいは画図す。しかのみならず、仏法示誨の恩徳を恋慕し仰崇せんがために、三国伝来の祖師・先徳の尊像を図絵し安置すること、これまたつねのことなり。その ほかは祖師聖人(親鸞)の御遺訓として、たとひ念仏修行の号ありといふとも、「道俗男女の形体を面々各々図絵して所持せよ」といふ御掟、いまだきかざるところなり。
しかるにいま祖師・先徳のをしへにあらざる自義をもつて諸人の形体を安置の条、これ渇仰のためか、これ恋慕のためか、不審なきにあらざるものなり。本尊なほもつて『観経』所説の十三定善の第八の像観より出でたる丈六八尺随機現の形像をば、祖師あながち御庶幾御依用にあらず。天親論主の礼拝門の論文、すなはち「帰命尽十方無礙光如来」をもつて真宗の御本尊とあがめましましき。いはんやその余の人形において、あにかきあがめましますべしや。末学自己の義すみやかにこれを停止すべし。
です。タイトルにもありますように「絵系図」についての邪義を説明されたところです。
予備知識として絵系図とは、これもネットで調べられますが、以下紹介しておきます。
『精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典』
浄土真宗の一派で用いた絵図。阿彌陀如来の名号「南無不可思議光如来」を中心に、祖師先徳等の像、また、一般信者の姿もえがいて相承の系譜を示したもの。光明本尊と名帳の影響を受けたもので、覚如はこれを邪義としたが、仏光寺系では長く用いられた。
※改邪鈔(1337頃)「絵系図と号して、おなじく自義をたつる条、謂なき事」
これを基にして読まれれば良いと思いますが、内容を簡単に説明すると、親鸞聖人の御遺訓として、
たとひ念仏修行の号ありといふとも、「道俗男女の形体を面々各々図絵して所持せよ」といふ御掟、いまだきかざるところなり。
とは仰っていますが、「阿弥陀仏の木像絵像を本尊としてはならない」という御遺訓は書かれていません。
しかも「絵像・木像の本尊をあるいは彫刻しあるいは画図す」と「三国伝来の祖師・先徳の尊像を図絵し安置すること、これまたつねのことなり。」と、阿弥陀仏そして祖師・先徳のお姿を絵像や木像にすることは一般的なことであって、それを否定されてはいません。そのあとの「道俗男女の形体を面々各々図絵して所持せよ」に対してのみ「祖師・先徳のをしへにあらざる自義をもつて諸人の形体を安置の条」と仰っているので、木像絵像を本尊とすることと、祖師方の尊像を図絵し安置することは「祖師・先徳のをしへ」であることになります。
このように某講師に説明したら、それでこの件は終わりました。あっけないものです。
参考までに石田瑞磨著『親鸞全集』の現代語訳を示しておきます。
いまの真宗においては、もっぱら地力を捨てて、すべて他力に帰結することをもって、教えの極致とするが、その上でさらに、身に行い、口に言い、心に想い、まことを捧げる真実の信心がおこるから、身には仏を礼拝するために、渇仰の心をもって仰ぎ見るための絵像や木像を絵に画き、あるいは彫刻する。そればかりでなく、仏法を説き聞かせられたご恩を恋い慕い、崇め仰ぐために、インド・シナ・日本と〔浄土の教を〕伝来された祖師・先徳の尊いお姿を絵に画いて安置することも、これまた一般のことである。しかしこのほかに、たといそれが念仏修行のためであるとしても、祖師親鸞聖人が残しおかれたお訓しとして、「出家・在家の男女がそれぞれ、ひとりひとりの姿を画いて所持せよ」という掟があるとは、まだ聞いたことがない。ところがいま、祖師や先徳の教えに見られない自説によって、それぞれの像を安置するということは、これは渇仰のためか、恋慕のためか、不審なくすごすことはできない。
本尊でさえも、『観無量寿経』が説く十三種の仏を観想する方法のうち、第八の像観にもとづいて、〔礼拝する}ひとの能力にかなうように一丈六尺や八尺の仏像{がつくられたが、これ}さえ祖師は強いてみずから望んでお用いになってはいない。〔むしろ}『浄土論』を著わされた世親が、礼拝について述べられた言葉、すなわち「帰命尽十方無碍光如来」という言葉をもって、真宗のご本尊とあがめられたのである。まして、これ以外の人の姿を、どうして画き、崇められるわけがありうか。学問の末に連なるものがたてた自分の一個の説は、すみやかに停めなければならない。
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