歎異抄をひらく

2018年5月13日 (日)

高森顕徹会長の総括?がこの程度の噴飯話

昨日と本日、高森顕徹会長の自己満足話がありました。駄作『歎異抄をひらく』発刊10周年記念という建前で、多額の費用を費やした大々的な広告により、近年にない多数の人が参加したようです。邪教と罵っている他の宗教団体と同様の手法で同様の結果を得たことで、得意の絶頂にいることでしょう。

期待に違わず内容も、創価学会の真似事でした。『歎異抄』にある「無碍の一道」を絶対の幸福と勘違いし、親鸞聖人の教えを現世利益に貶めた話にしていました。珍釈の最たるものが、「無碍の一道」の「一道」を幸福だとしたことです。噴飯物以外の何物でもありません。

一応説明しておきます。

元々は『浄土論註』のお言葉ですが、それを親鸞聖人は『教行信証』行巻に引かれています。

いま〈速得阿耨多羅三藐三菩提〉といへるは、これはやく仏になることを得たまへるなり。〈阿〉をば無に名づく、〈耨多羅〉をば上に名づく、〈三藐〉をば正に名づく、〈三〉をば遍に名づく〈菩提〉をば道に名づく、統ねてこれを訳して、名づけて無上正遍道とす。
(中略)
道は無碍道なり。『経』(華厳経)にいはく、〈十方の無碍人、一道より生死を出でたまへり〉と。〈一道〉は、一無碍道なり。無碍は、いはく、生死すなはちこれ涅槃なりと知るなり。

(現代語訳)

いま<速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得られた>といっているのは、法蔵菩薩が速やかに阿弥陀仏になられたことをいう。<阿>は無と訳し、<耨多羅>は上と訳し、<三藐>は正と訳し、<三>は遍と訳し、<菩提>は道と訳す。まとめてこれを訳すと無上正遍道という。
(中略)
<道>とは、無礙道である。『華厳経』に<すべての世界の無礙人である仏がたは、ただ一つの道によって迷いを出られた>と説かれている。<ただ一つの道>とは、ただ一つの無礙の道のことである。<無礙>とは、迷いとさとりとが本来別なものではないとさとることである。

結論を言うと、無碍人である仏方は、ただ一つの道である念仏によって迷いを出られ仏になられたことを、「無碍の一道」と親鸞聖人は仰っているのです。

一道」とは、同然ながら、ただ一つの道のことで、それは念仏を意味しています。

したがいまして、

念仏者は無碍の一道なり

は本来の意味では

念仏は無碍の一道なり

になるのですが、『歎異抄』では「念仏者は」となっているので、学者の間でも様々な説がでています。いずれにしましても、絶対の幸福なる意味が全くないどころか、高森会長が必死で否定する「ただ念仏」が迷いの世界を出て成仏するたった1つの道だと教えられたのです。

言うまでもないことですが、自力の念仏と他力の念仏の違いも判っていないので、涙のたとえで誤魔化していましたが、信心と念仏の関係も判っていません。
『歎異抄』を使って話をしているなら、『歎異抄』のお言葉を引用して説明すべきでしょう。
第1条には、

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

とあるのは、無知な高森会長でも知っていることです。

信心=往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころ

簡単なことですが、高森会長と取り巻きには理解できないでしょうね。

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2018年3月11日 (日)

真実あること無しの話をするしか能のない高森顕徹会長

本日の高森顕徹会長の話は、

「煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もって空事・たわごと・真実あること無し」について

という質問に答える形でした。いつもいつも同じ話だという、退会者からの嘲笑に堪え切れずに、質問の内容を変えたのでしょう。
何度も言っていますが、高森会長は単純ですので、煽るとすぐに反応します。信念もなく忍耐もできない性格なのです。

さて、これは『歎異抄』の後序にある親鸞聖人が仰ったとされるお言葉の一節ですが、肝心要の後のお言葉が抜けています。

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします

お判りの方もあるでしょうが、これは二種深信の内容と同じです。
二種深信とは、善導大師の『散善義』を『教行信証』信巻に引かれてある

一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。

で、親鸞会の会員でも知っている有名な御文です。
ところが言葉を換えられて、親鸞聖人はもう一つの表現を引かれています。

自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。
いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。

これは『教行信証』の行巻と信巻に2回も引かれていますので、親鸞聖人が極めて重要視されたお言葉と言えます。
比較のために『歎異抄』のお言葉と並べてみます。

まずは機の深信から。

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき

自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし

自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でず

同じ内容です。

高森会長は、汝自身を知れ・名利の二艘・蜘蛛の糸などの話をして、得意の絶頂であったようですが、それが実に薄っぺらい内容だということが、ここからも判ります。「煩悩具足の凡夫」が因で、「出離の縁あることなし」「三界に流転して火宅を出でず」が果になることが重要なのです。

これに法の深信の

ただ念仏のみぞまこと

かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得

いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむ

が対句になるのです。「さだめて往生を得」という果の因は何になるのかは言うまでもなく、「ただ念仏のみ」「かの願力に乗じて」「名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで」です。

以上を簡単に言うなら、

煩悩具足の凡夫」だから「出離の縁あることなし」なので、「ただ念仏のみ」で「さだめて往生を得

なのです。

ついでに言っておきますと、高森会長は一番の極悪人の私を救うのが弥陀の本願と言っていましたが、機の深信には「善根薄少にして」とあって、「善根有ること無し」となっていないのです。善導大師が悪人として定義されているのは、『玄義文』の

仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。

ですから、一番の極悪人などと善導大師は知らされたのでもないし、それを引かれている親鸞聖人も一番の極悪人だとは思われていなかったでしょう。

薄っぺらい内容に加えて、実際とは異なる自己の機を無理やり知らされる必要があるというヘンテコ理論を聞いて、会員は何一つ得るもののない無駄な一日を過ごしただけです。

会員は、金と時間と体力を消耗して、「みなもつてそらごとたはごと、まことあることなし」の高森会長の話をいつまで聞こうというのでしょうか。

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2017年5月21日 (日)

「念仏は無碍の一道なり」が判らず否定する高森顕徹会長

本日の講師部講義で、高森顕徹会長はまたまた面白い説明をしていました。

18願を「十方衆生を相手に信楽の身にしてみせる」とするいつもの解釈の説明として、今回は銀行の融資に譬えて、

全ての日本人に対して1億円の融資

と言っていたそうです。
頓珍漢というか、無茶苦茶な譬えです。

まず、なぜ融資なのか。融資とは借金です。当然返済しなければなりません。阿弥陀仏の救いを報恩で返済しろと言いたいのでしょうか。
次に、融資が誰にでも無条件で受けられることはあり得ない話で、どうしてもそう譬えたいのなら、19願の「十方衆生」とは切り離した譬えとすべきです。親鸞聖人の『尊号真像銘文』のお言葉からすると、18願は「五逆誹謗正法」という債務超過に陥っている人にも融資をするが、19願には「五逆誹謗正法」がないので、債務超過の人は融資対象から除かれているとしなければならないからです。
それに、以前の譬えは選挙公約の税金の話だった筈です。もし当選したら税金を撤廃する、あるいは税金を還付する、という公約で譬えていたのですが、これも19願の「十方衆生」との関連で、税金(特に所得税)は払っている人には関係があるが、元々払っていない人には関係ないと私が言ったことで、こっそり修正したつもりなのでしょう。

今までの話を修正するのは結構なことですが、より悪い方向に変えているようでは、話にもなりません。これが、会員に無二の善知識と呼ばせている高森会長の実態です。

さて、今回も絶対の幸福の強調をしていましたが、無碍の一道についてもう少し説明しておきます。

元々は『浄土論註』のお言葉ですが、それを親鸞聖人は『教行信証』行巻に引かれています。

いま〈速得阿耨多羅三藐三菩提〉といへるは、これはやく仏になることを得たまへるなり。〈阿〉をば無に名づく、〈耨多羅〉をば上に名づく、〈三藐〉をば正に名づく、〈三〉をば遍に名づく〈菩提〉をば道に名づく、統ねてこれを訳して、名づけて無上正遍道とす。
(中略)
道は無碍道なり。『経』(華厳経)にいはく、〈十方の無碍人、一道より生死を出でたまへり〉と。〈一道〉は、一無碍道なり。無碍は、いはく、生死すなはちこれ涅槃なりと知るなり。

(現代語訳)

いま<速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得られた>といっているのは、法蔵菩薩が速やかに阿弥陀仏になられたことをいう。<阿>は無と訳し、<耨多羅>は上と訳し、<三藐>は正と訳し、<三>は遍と訳し、<菩提>は道と訳す。まとめてこれを訳すと無上正遍道という。
(中略)
<道>とは、無礙道である。『華厳経』に<すべての世界の無礙人である仏がたは、ただ一つの道によって迷いを出られた>と説かれている。<ただ一つの道>とは、ただ一つの無礙の道のことである。<無礙>とは、迷いとさとりとが本来別なものではないとさとることである。

結論を言うと、無碍人である仏方は、ただ一つの道である念仏によって迷いを出られ仏になられたことを、無碍の一道と親鸞聖人は仰っているのです。

したがいまして、『歎異抄』第7条の

念仏者は無碍の一道なり

は本来の意味では

念仏は無碍の一道なり

であったのを、親鸞聖人が「念仏者は」と敢えて仰ったのか、それとも『歎異抄』の著者が「念仏は」を「念仏者は」と書き間違えたのか、或いは『歎異抄』の原本が残っていないので、書写される過程で間違ったのか、そこは明確にはなっておりません。

いずれにしましても、絶対の幸福なる意味が全くないどころか、高森会長が必死で否定する「ただ念仏」、つまり獲信も往生も成仏にも善が全く不要である根拠にしかならないのです。

高森会長も教えを修正するなら、まずは善の否定からでしょうが、それは教団存続のためには絶対にしないでしょう。そんな高森会長の強欲に振り回されて、同朋の里に映画館まで建てさせられる会員は、哀れとしか言い様がありません。

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2013年5月 8日 (水)

余りにも無教学な高森顕徹会長

覚如上人の御著書には、『歎異抄』と重なる内容の記述がいくつも見られます。そのために、以前は、覚如上人が『歎異抄』の著者ではないかとの説があったくらいです。しかし、その説は否定されて、『歎異抄』の著者は唯円というのが定説になっています。
覚如上人は、その唯円に会って直接話を聞かれていますので、『歎異抄』とはやや異なる表現をされています。

したがって、『歎異抄』の解釈をしようとするならば、覚如上人の御著書との比較が必要になりますが、高森会長はそれをしていません。

なぜなら、読んでいないからです。

このこと1つとってみても、高森会長が如何に無教学であるかがよく判ります。

覚如上人の御著書でさえ読んでいないのですから、難しい『教行信証』を読んでいることは絶対にない、と断言できます。『教行信証』を読んでいたら、あそこまで愚かな教義にはならなかったでしょう。

高森会長は、大沼師と伊藤師の著書を読んで、そこに引用されていた聖教上の文を書き留めて、それを使いまわすことで大学者を装っているに過ぎません。もちろん、その御文の意味も知らずにです。

『歎異抄をひらく』に出てくる根拠も全く同様です。『教行信証』をもって解釈したとか言いながら、ほとんど関係のない『教行信証』の御文の引用で支離滅裂の解釈になっています。

前回出した7項目については、これまで当ブログで何度も言ってきたことですから、読者の皆さんはお判りのことでしょう。

これまで言及してこなかったことで「高森親鸞会の誤りと浄土真宗の正義」にも取り上げられていることの中に、「無碍の一道」があります。

『歎異抄をひらく』に見る親鸞会の間違い【11】《念仏者は無碍の一道なり》

です。

「無碍の一道」については、『教行信証』を読んでいたら、『浄土論註』更には『華厳経』との関連に気が付く筈です。しかし、それが全くないのですから、高森会長も講師部員も『教行信証』を全く読んでいないことが判ります。

親鸞聖人は『教行信証』の中で、『華厳経』を直接あるいは間接的に多く引用されていますので、親鸞聖人の教えを語る上で、『華厳経』は重要な経典と言えます。

ところが高森会長から話を聞いたことのある方なら判ると思いますが、高森会長は七大経という創作教義の中で、『華厳経』を最初に説かれた最も難解な経典というだけです。

それを聞いたなら、『華厳経』は親鸞聖人の教えとは関係ない、と思うでしょう。高森会長も直接は言いませんが、そう思い込んでいることは間違いないです。なぜなら、菩薩しか理解できない最も難解な経典なのですから、知る必要がないと勘違いしているでしょう。

ただ、今回「高森親鸞会の誤りと浄土真宗の正義」に『華厳経』のことが書かれたため、突如、したり顔で『華厳経』の話がでてくるかもしれません。

その際は100%パクリですから、著作権侵害で訴えられるかも?

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2013年5月 5日 (日)

『歎異抄をひらく』の反論まとめ

5年以上も誰も反論できないと宣伝されている『歎異抄をひらく』ですが、皆さん御存知のように本格的な反論が、”本願寺でもかなりの学者に違いない”方によってなされています。

「高森親鸞会の誤りと浄土真宗の正義」

です。

当ブログでも、断片的に『歎異抄をひらく』の間違いを指摘してきましたが、上記のブログでは体系的にまとめられていますので、もし読まれていない方は一度読んでおかれれば、高森会長が如何に文法に疎く、教学に昏いか判ることでしょう。

ただし、学術論文ですから、高森会長をはじめ、講師部員、幹部会員が読んでも理解できないところも多いと思います。

それで特に重要なところだけ、簡潔にまとめておきました。

第1章

1.「ただ信心を要とす」の「信心」とは

親鸞聖人 「ただ念仏で往生できる」と信じた心
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高森会長 「助かった」とハッキリした心

2.「本願を信ぜんには他の善も要にあらず」とは

親鸞聖人 本願に救われるには善は不要
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高森会長 救われたなら善は不要だが、救われる前には善が勧められている

3.「悪をもおそるべからず」とは

親鸞聖人 本願に救われるのに、悪が妨げになることはない
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高森会長 悪を恐れ不安になるのは、地獄一定の悪人と知らされていないからだ

第2章

4.「ただ念仏して」の「ただ」とは

親鸞聖人 念仏一行
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高森会長 びっくり仰天

5.「総じてもつて存知せざるなり」とは

親鸞聖人 念仏が浄土に生れる因なのか地獄に行く因なのかを知る智慧を持っていない
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高森会長 知り過ぎた知らん

6.「弥陀の本願まことにおわしまさば」は仮定か断定か

親鸞聖人 仮定
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高森会長 断定

第3章

7.「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」とは

親鸞聖人 善人ではなく悪人のために18願を建てられた
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高森会長 「悪人」とは、全人類のことであり、「人間」の代名詞にほかならない

これなら、高森会長でも親鸞聖人の仰っていることとの違いが判るでしょう。

私がいつも示している10項目には答えられないのですから、この7項目について先に反論してもらっても構いません。反論とは、親鸞会お得意の体験至上主義ではなく、聖教上の根拠をもってのことです。

聖教を読んだことがないし、読めない高森会長には無理でしょうけど。

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