『歎異抄』で最も有名な第三条の
善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。
ですが、高森顕徹会長の誤解がこれまたまた酷いです。
そもそも善人と悪人の定義が間違っています。『歎異抄をひらく』では
私たちは常に、常識や法律、倫理・道徳を頭に据えて、「善人」「悪人」を判断する。だが、聖人の「悪人」は、犯罪者や世にいう悪人だけではない。極めて深く重い意味を持ち、人間観を一変させる。
|いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし (歎異抄)
どんな善行もできぬ親鸞であるから、所詮、地獄の外に行き場がないのだ。
この告白は、ひとり聖人のみならず、古今東西万人の、偽らざる実相であることを、『教行信証』や『歎異抄』には多く強く繰り返される。
|一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し
(教行信証)
すべての人間は、果てしなき昔から今日・今時にいたるまで、邪悪に汚染されて清浄の心はなく、そらごと、たわごとのみで、真実の心は、まったくない。
悠久の先祖より無窮の子孫まで、すべての人は、邪悪に満ちて、そらごとたわごとばかりで、まことの心は微塵もない。しかも、それを他人にも自己にも恥じる心のない無慚無愧の鉄面皮。永久に助かる縁なき者である。
『歎異抄』三章後半も、念を押す。
|煩悩具足の我らはいずれの行にても生死を離るることあるべからざるを憐れみたまいて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば…… (歎異抄)
煩悩にまみれ、どのような修行を励んでも、到底、迷い苦しみから離れ切れない我らを不憫に思い、建てられた本願だから、弥陀の本意は悪人を救うて成仏させるためだったのである。
人間はみな煩悩の塊、永遠に助かる縁なき「悪人」と阿弥陀仏は、知り抜かれたからこそ”必ず救う”と誓われたのだ。これぞ、弥陀の本願の真骨頂なのである。
聖人の言われる「悪人」は、このごまかしの利かない阿弥陀仏に、悪人と見抜かれた全人類のことであり、いわば「人間の代名詞」にほかならない。
では阿弥陀仏は、十方衆生(すべての人間)をどう見て取られているのでしょうか。
五劫に思惟され、我々を骨の髄まで徹底調査された弥陀は、すべての人間を”金輪際助かる縁なき極悪人”と見抜かれています。
ですから親鸞聖人は、弥陀の仰せのまま、「十方衆生」を「悪人」と仰っているのです。 聖人の言われる「悪人」とは、全人類のことであり、「人間」の代名詞にほかなりません。
聖人が常識を完全否定され、すべての人間を「悪人」と断定されたのは、弥陀の本願に根拠があったのです。
このように高森会長は
すべての人間を「悪人」と断定
と断定していますが、仏教における善人・悪人が何を指しているのか学んでいないことがここからも判明します。
まず、『歎異抄』第三条と同内容を伝える『口伝鈔』第二十条を見ておきます。
しかれば御釈にも、「一切善悪凡夫得生者」と等のたまへり。これも悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しかれば善人なほもつて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし
善凡夫とは善人のことであり、悪凡夫とは悪人のことです。
善凡夫(善人)が傍機で悪凡夫(悪人)が正機であるが故に、「善人なほもつて往生す、いかにいはんや悪人をや」と明快な説明をなされています。当然、善人が存在し、別に悪人が存在するということです。
次に
いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし
は「どんな善行もできぬ親鸞であるから、所詮、地獄の外に行き場がないのだ」ではなく、「どんな善行も(出離するには)及ばない親鸞であるから…」です。
言葉の定義として「できない」と「及ばない」は異なります。
これに近いことを善導大師は『散善義』で仰っています。
わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。
「仲間と共に悪を断ち、善を修めて菩薩道を歩んできた。仲間で、命を惜しまずに精進して、出離して聖者となるものは、大地を砕いた砂よりも多くあるのに、われら凡夫は未だ出離することなく流転をしている。」ということです。
「善ができない」ではなく、「善をしてきたがそれで出離できるところまでは及ばない」です。出離してきた聖者が数多くある一方で、出離できない凡夫がいて、善人も悪人も共に存在するということです。
一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し
これは、また少し意味が異なっています。「穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」とは煩悩具足のことを言われたものです。
親鸞会でもおなじみの『教行信証』信巻の
一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。
ですが、これは煩悩具足では善を修しても「雑毒の善」にしかならず、「真実の善」はできないという意味です。
「真実の善」ができるのは煩悩を滅した仏であり、煩悩を具足したままする「雑毒の善」しかできない人が善人です。「雑毒の善」さえもできない人が悪人となります。
善導大師は悪人の定義を『玄義分』で
仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。
とされたのです。
要するに、弥陀の本願は、出離した聖者や善人を目当てにして本願を建てられたのではなく、煩悩具足で悪しかできない悪人を救わんがために本願を建てられた、ということになります。それを言われたのが以下です。
煩悩具足の我らはいずれの行にても生死を離るることあるべからざるを憐れみたまいて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば…
親鸞会では、高森会長の見解に沿って、すべての教義が成立していますので、高森会長の間違った見解がそのまま会内で修正されることなく語られているという構造です。
「悪人は人間の代名詞」というのも同様です。
親鸞会のサイト
親鸞会.NET≫ ≫ 『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点《「悪人」は人間の代名詞》 第21回
にはこのようなことが書かれています。
まず親鸞聖人の「善人」「悪人」の認識を正しく知らねば、三章はもちろん、『歎異抄』をどれだけ熟読しても、論語読みの論語知らずに終わることでしょう。 常識的な見方では、人類は「善人」と「悪人」に二分され、悪人より善人が救われて当然と考えます。ですがそれは、「本願他力の意趣」(本願を建てられた弥陀の御心)に反していると、三章では明言されています。
親鸞聖人が説かれるのは、常に弥陀の御心であって、世人の常識でもなければ、独断でも新説でもありません。
では阿弥陀仏は、十方衆生(すべての人間)をどう見て取られているのでしょうか。
五劫に思惟され、我々を骨の髄まで徹底調査された弥陀は、すべての人間を”金輪際助かる縁なき極悪人”と見抜かれています。
ですから親鸞聖人は、弥陀の仰せのまま、「十方衆生」を「悪人」と仰っているのです。
聖人の言われる「悪人」とは、全人類のことであり、「人間」の代名詞にほかなりません。
聖人が常識を完全否定され、すべての人間を「悪人」と断定されたのは、弥陀の本願に根拠があったのです。
恥ずかしい適当教義です。
親鸞聖人が、すべての人間を「悪人」と断定された箇所はただの1箇所もないし、阿弥陀仏が「すべての人間を”金輪際助かる縁なき極悪人”」と見抜かれてもいません。
それは『教行信証』を読めば明白な事実です。
『正信偈』に
一切善悪の凡夫人
定散と逆悪とを矜哀して
善悪の凡夫人を憐愍せしむ
とあります。善凡夫と悪凡夫、定散の機と逆悪の機、いずれも善人と悪人のことです。
信巻には、
禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。
とあります。高玉・智覚は、共に上品の往生を遂げた、とあり、二人は紛れもない善人と親鸞聖人は認められたのです。
また『往生礼讃』にある
自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。
と機の深信を行巻と信巻に引かれています。善根が薄く少ないのであって、善根が無いのではありません。
悪人の定義は前回述べたように、「仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。」(玄義分)ですので、機の深信を以って悪人ということはできません。阿弥陀仏の本願は、悪人を救うことを目当てとしているのであって、「すべての人間を”金輪際助かる縁なき極悪人”」と見抜かれてはいないのです。
このことを法然上人は『選択本願念仏集』で
下品下生はこれ五逆重罪の人なり。しかるによく逆罪を除滅すること、余行の堪へざるところなり。 ただ念仏の力のみありて、よく重罪を滅するに堪へたり。ゆゑに極悪最下の人のために極善最上の法を説くところなり。
と解説なされ、更には、
念仏三昧は重罪なほ滅す。いかにいはんや軽罪をや。
とも仰っています。
極悪最下の人のために阿弥陀仏は念仏の力で五逆罪を除滅なされるのです。重罪でも除滅できるのであるから、軽罪はなおさら除滅できると教えられています。
これは『歎異抄』の
善人なおもって往生をとぐ、いはんや悪人をや。
と言葉の上では反対ですが、見方を変えただけのことです。
阿弥陀仏の本願念仏は重罪を除滅して悪人を往生させるため、という見方と、そのお力は重罪の悪人に効力があるなら軽罪の悪人や善人にも当然効力がある、という見方です。結局は同じことになります。
いずれにしても、阿弥陀仏の御心からも、親鸞聖人の御著書の中からも、そして善導大師・法然上人の思想からも、
「悪人」とは、全人類のことであり、「人間」の代名詞にほかなりません。
は有り得ないことで、それを未だに言っている恥ずかしい団体が親鸞会です。
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