心と体

2010年1月21日 (木)

間違いを教えてくれたブログの内容4

様々なブログを読むことで、必堕無間の恐れと会長への畏敬の念が失せました。

そこで元講師の方や華光会や本願寺等で話を聞き求めたのですが、どうしても馴染めないところがありました。それが華光会です。なぜなら、せっかく必堕無間の呪縛から開放されたと思っていたところが、華光会では地獄を強調されるからです。法座では地獄の話はほとんどなくても、座談会では、「悪しかしていないんだから地獄しか行き場がないじゃないの」と華光会の人が口を揃えていわれるのです。親鸞聖人は地獄のことを教えておられなくとも、やっぱり地獄往きと思わなければ救われないのかとも考えたりしていました。

そんなとき「21世紀の浄土真宗を考える会」で二種深信について書かれてあるのを読んで、目から鱗が落ちるような感じがしました。以下に一部だけを紹介します。

機の深信についてのよくある間違いは、「自己の罪悪を掘り下げていき、徹し切ったところに、いわゆる機の深信が立ち、救いがある」といった類のものです。
簡単に言えば罪悪観と機の深信との混同です。
浄土真宗の異安心の歴史で言いますと、江戸時代、近江(滋賀県)の光常寺で起きた「地獄秘事」などはその典型です。

機の深信とは
煩悩具足・罪悪深重の私は、迷いの世界から出離するのに間に合うものは一つも持ってはおらず、過去も現在も未来も、生死流転から抜け出せる自分でない、と信知する。
となります。
機の深信とは極悪最下の者とすべての人が知らされることではありません。

「二つの正反対のことが一念同時に知らされる」という人がいますが、二種深信は二つの心ではなく一つの心であり、前後があるのでも、並んで起きるのでも、いずれか一方が他方の条件であるのでもありません。

二種深信は機法二種一具の深信であり、図示しますと
 機の深信=自力無功=捨自
 法の深信=他力全託=帰他

となります。
そして、初起の一念より臨終まで一貫します。

親鸞会でも華光会でも言われていることも同じでしたので、地獄一定と知らされることが機の深信と思い込んでおりましたが、それは罪悪観であり、機の深信とは違うことがこれを読んで判りました。

そんなこともあり、頭の中で華光会で言われている言葉を翻訳しながら聞いていたものですから、積極的に華光会の行事に参加する気持ちはそれほどありませんでした。

ただ、華光会でも罪悪観と機の深信の違いはしっかりと教えられているものの、教学を学ぶことを排斥する傾向にある同人には、この2つの区別がついていないのでしょう。

それは「真宗 と カウンセリング」というブログの二種深信 - 聞かない姿に書かれてある内容でも判ります。以下抜粋です。

今日は華光の京都支部法座。
増井悟朗師をお招きして、「二種深信」のお話をしていただいた。
このテーマは、3月にあった講習会で1泊2日で話されたテーマだったが、「最後のほうが時間が無かったのでぜひもう一度」という世話役さんの希望で実現した集まり。
世間の法座は良く知らないが、講師の先生にテーマを指定してお願いするって言うのは、そうそう無いんじゃないだろうか。
それが出来る華光のよさと、受けてくださる先生の深さが身に染みる。

「二種深信」の中身についてはここでは述べないが、その渦中で「二種深信」に対する異安心・邪義を話してくださった上で、もう一度そういう間違いを超えた領解を示してくださった気がする。

そのあとの質疑・座談で話す方の姿を通して、まさに今話していただいた「聞きそこね」ということを感じた。

「機の深信」をたずねいていく過程で、「まだ罪悪”感”がたりません、もっと深めないといけないのか」という人がよくいる。
自分で機を深めようとするのは、自力の所作で、「機法一具」ではない。
法に照らされるからこそ、自分で都合よく見つめる「罪悪」ではなく、本当に流転し続けている我が身の本当の姿がわかるというのに。

また、「地獄行きだという事がわかりました」とそれで一丁上がりだと喜ぶ人もよくいる。
確かに、罪悪観を突きつけられても「自分のこととは思えない」という人よりは一歩進んでいるようにも思える。
しかし、そんな軽い地獄行きで知ったつもりになっているのは、「なんのために、これほどまでの願を立てられたのか」というところも軽くしてしまい、「救うとおっしゃってるんだから、任せとけば大丈夫ですわ、わっはっは」と、阿弥陀様を尻にいしいて高上がりしている姿でしかない。

地獄一定という罪悪観を持たれている方なら、華光会の座談会に出られてもよいでしょうが、私のようにそこまでの罪悪観も懺悔もない人には、「あなたの後生は地獄しか行き場がないでしょう」といわれると、「それは親鸞聖人の教えと違う」という反発心が出てくると思いますので、座談会は出られない方がよいように思います。

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2010年1月19日 (火)

間違いを教えてくれたブログの内容2

私の会員歴よりも長い講師部歴のSさんが書かれた「私の白道」を初めて読んだ時は、大変な衝撃を受けました。

衝撃的なことは幾つもありましたが、教えの面では三願転入についての記述で、その当時のことを思い出しました。

35周年とその直後の教学講義で三願転入について、突如話をし始め、三願転入は親鸞聖人の教えの根基といわれ、これまで聞いたことがなかった内容だったので、なぜ今までそんな大事な教えを隠していたのかと不審に思ったものでした。しかし、何か深い御心があるのだろうと不審を拭いさる努力を必至にしたものです。

関連部分を「私の白道」から抜粋しておきます。

・大沼氏の本を読んでいて思い出したことがある。

 先輩の親鸞会元講師に岐阜県の寺の出身者で龍谷大学卒業の佐藤講師がおられた。(退部後、交通事故で亡くなられたと聞いた)
 その佐藤講師から忘れられない話を30数年前に聞いた。
「僕は龍大へ行って親鸞聖人の教えを学んだけれど、今の本願寺では無帰命安心で駄目だと思ったよ。
 それで、本願寺が駄目なら、その本願寺に破門された人なら本当の方かもしれないと思って、当時本願寺と喧嘩していた大沼さんのところへ聞きに行った。
 大変な学者でもあり、話も真剣だったから聞いた。
 しかし、三願転入の話になり、真剣に求めている人は、信前の19願、20願の人だから信心決定していなくても皆、化土往生だといわれて驚いた。
 これでは、極楽は無理でも化土往生なら有難いと座ってしまい、求めようとする気にならない人も多くなる。
 聞いている人には、獲信してなくても後生の一大事がないことになる。これではあかんと思った。
 もうお一人、本願寺を非難している人が高森先生だった。
 本(会報)にも化土往生を言うものは正法の怨敵とあったので高森先生より聞かせて頂くことにした」

 ここまでは、随行文を聞いた方なら覚えておられるでしょう。
 そして話を続けて
「これは内緒だよ、誰にも言わんといてほしい。
 まさかと思うけど、高森先生の生きておられる時には、ありえんと思うけど、三願転入を言い出す者が現れて化土往生出来ると言う者が出て来ないとも限らん。
 お聖教上は、化土往生は説かれているからね。
 実は高森先生の話や、書かれたものに大沼さんの本からのものが多くて気になるんや。気になる。ここだけの話やよ」

 えーと驚いた。具体的にここが盗作とは聞かなかったが、当時はカチン、カチンに高森先生を信じていたから、絶対そんな心配はない、三重廃立しか話されていないからと思っていた。



○三願転入の説法始まる

・しかし平成5年の「親鸞会結成35周年大会」で遂に、三願転入の説法が開始されたのである。驚いた人はどれだけあったでしょうか。

「親鸞聖人の教行信証は三願転入が説かれている。
我々に19願、20願いらぬ、18願だけでいいと公然という学者もいるが、皆三願転入を根基として書かれている。御和讃もそうだ。十方衆生が選択の願海(18願)に救われるのは、19、20願通ってであり、通らねばアリ一匹救われぬ」
(平成18年4月30日教学講義にもそう言われた)


・佐藤講師の心配が的中してゆくのだろうか。

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2010年1月18日 (月)

間違いを教えてくれたブログの内容1

私が親鸞会の教えに疑問を持ち、正しい教えを求めていたときに読んで非常に心に残ったのが浄土宗の僧侶の方が書かれていた「清森問答」の親鸞会教義の相対化でした。

その中でも

「清森問答」親鸞会教義の相対化・10

は私にとっては衝撃的な内容でした。「一切衆生必堕無間」の教えに苦しんでいた私が、この中の法然上人の慈愛溢れる御言葉を読んで救われる思いがし、浄土宗に改宗しようと本気で思ったくらいでした。

読んだことのない方もあるかも知れませんので、少し長いですが、全文紹介します。

『教学聖典』(4)【問49】


「後生の一大事」とは、死後永く地獄で苦しむことであると明示された、蓮如上人のお言葉と、その根拠を示せ。

○後生という事は、ながき世まで地獄におつることなれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし。(帖外御文)



これは、蓮如上人の言葉なので、責任は蓮如上人にあるのかもしれませんが、
こういうことをあたかも「客観的事実」のように教えてしまうのは、
ものすごく配慮に欠ける行為だと思います。


 念仏の行者の存じ候ふべき様は、後世を畏れ、往生を願いて念仏すれば、
 終わるとき、必ず来迎せさせ給うよしを存じて、念仏申すより外の事候はず。

『勅伝』巻二十四、
「法性寺左京大夫の伯母なりける女房に遣はす御返事」(昭法全五八九頁)


というように、法然上人にも「後世」と言う言葉がありますが、
この場合は、今の命が終わって死後に生まれる世界、来世のことであって、
全ての人が地獄に堕ちるような意味ではありません。

もちろん、


 知らず地獄八熱の底にや、すみけん。
 恥ずるべし恥ずるべし、悲しむべし悲しむべし。
『勅伝』巻三十二、「登山状」(昭法全四一六頁)


と言う言葉はありますが、これは自分自身を内省した結果出てきた言葉であって、
それを他に当てはめて、恐怖を煽るような言葉ではないと思います。


 いづれの行もおよびがたき身なれば、
 とても地獄は一定すみかぞかし。
(『歎異抄』2章)


も、そういうコンテキストで理解すべきだと思います。


もちろん仏教では、輪廻・死後の世界を認めています。
「最初期の仏教は輪廻を認めていなかった」と主張する学者の方もいますが、
輪廻がないということは、死んだらそれでおしまいということになってしまって、
そうしたら最初期の仏教徒が、何から解脱するために
懸命に修行を行っていたかもわからなくなってしまいます。

インド思想の大きな流れからしても、
「兄弟宗教」とされるジャイナ教の教義からしても、
最初期の仏教が輪廻を認めていなかったというのはありえない話だと思います。

仏教経典でも最古層の韻文資料であるといわれている、
スッタニパータ(Sn.)の第四章や第五章でも、

「想いということを完全に知って、激流を渡るとよい。
 沈黙の聖者は、さまざまな所有物に汚されることなく、
 煩悩の矢を抜き去って、修行につとめ励んで、
 この世もかの世に対しても望まない」(Sn.779)

「両極端の中において、種々の生存に対しては、
 この世に対しても、また他の世に対しても、
 いまここで願うことがない」(Sn.801ab)

「愛し好むことが世にはびこったり、
 あるいは貪りが世にはびこったりすることは、
 欲望にもとづいて起こる。また、人が来世に関していだく希望と目的も、
 それにもとづいて起る」(Sn.865)

という表現が見られ、「この世もかの世に対しても」
「この世に対しても、他の世に対しても」「来世に関して」は、
いずれも輪廻そのものを表現する語句ではありませんが、
現世と来世という両世界が用いられている点から判断して、
輪廻という世界観を前提として表現であると考えることができます。

また、

「ピンギヤよ。それ故に、あなたは怠ることなくはげみ、
 再び迷いの生存にもどらないように、物質的存在を捨てよ」(Sn.1121cd)

「ピンギヤよ。それ故に、あなたは怠ることなくはげみ、
 再び迷いの生存にもどらないように、妄執を捨てよ」(Sn.1123cd)

という表現が見られ、どちらも再生することがないように戒めたものですが、
この「再生」という表現も、明らかに輪廻を想定できるものです。


さらに古層の韻文資料であるといわれている、
スッタニパータ(Sn.)の第一章から第三章には、

「全宇宙の生滅や生きる物の死して生まれる輪廻を考察し、
 塵から離れ、汚れなく、清浄で、二度と生まれを繰り返すことがなくなった人、
 その人こそがブッダといわれる」(Sn.517)

「この無明とは最大の無知であり、それによって永い間このように輪廻してきた。
 しかし、明知に至った生きとし生ける者は、再び迷いの生存に戻ることがない」
(Sn.730)

という「輪廻」という言葉そのものや、

「悪口を言いまた悪意を起こして聖者をそしる者は、
 10万ニラッブッダと36ニラッブッダの間、また5アッブッダの間、
 地獄に堕ちる」(Sn.660)

「正しい法に従って得た財をもって母と父を養え。
 正しい商売を行え。つとめ励んでこのように怠ることなく暮らしている在家者は、
 死後にみずから光を放つという天界に赴く」(Sn.404)

など、死後に赴く世界についても書かれています。

でも、それは全ての人が地獄に堕ちるということではありません。



善導大師の、

「自身は現に是れ、罪悪生死の凡夫、
 曠劫よりこのかた、常に没し、常に流転して、
 出離の縁有ること無し」

という言葉は、
信後に「深信因果」の深い内省でもって、
自分自身が罪悪深重の身であることを告白された言葉で、

現在の我が身を見た時に、「因果の道理」からいったら、
これから未来に渡っても
絶対に生死を出離することができないことを告白されていて、
【現在~未来】を見た場合は、
「このままでは生死を出離することができない!」という自覚となりますが、

【過去~現在】を見た場合は、過去世の業因による果報は、
現在まで生死を輪廻して凡夫として生まれた時点で受けていますので、
現在の在り方に、これ以上過去の業因が作用することはありません。

「善因楽果・悪因苦果」「自業自得」の業思想において、
悪業が苦を招くことはありますが、
苦果を受けたあと、その苦果が原因になって、
更なる苦を招くことは決してありません。

従って「深信因果」によって知らされることは、

●【過去】の悪因によって、
輪廻を繰り返し凡夫として生まれたという苦果を【現在】受けた。

●【現在】積み重ねている業が悪因となるので、
このままでは【未来】においては再び輪廻してしまうという苦果を受ける。

ということであって、それ以外の不条理に関しては、
決して過去の種蒔きというわけではなく、
個人ではどうしようもない、「悪縁」としか呼びようのないものの作用ということになるのではないかと思うのです。


過去の歴史において、仏教の業思想が、
現実の不条理に苦しんでいる人に、
「それは過去の悪業だ!」と言って、
更なる苦しみを与えた歴史が残念ながら存在しました。

この事実は、仏教者として真摯に受けとめて、
しっかりと反省していかないといけないと思うし、
そのことに対する批判は、
最終的に阿弥陀仏による無条件の救済を説く浄土門であっても、
避けることはできないと思います。


法然上人は深い懺悔の言葉を沢山残されておられますが、
同時にこういう問題に関しても、とても勇気付けられる
大切な言葉を残しておられるんです。

「正如房へ遣わす御文」において、

「五逆十悪の重き罪造りたる悪人なお十声一声の念仏によりて往生しそうらわんに、
まして罪造らせおわします御事は何事かそうろうべき。
たといそうろうべきにても幾程の事かはそうろうべき。
この『経』に説かれてそうろう罪人にはいい比ぶべくやはそうろう」

と述べおられるように、現実の不条理に苦しんでいる人に対して、

あなた方は自分が罪深い、罪深いと考えているが、
実際に何をしたというのか。
親を殺したのか、仏を傷つけたのか、
何もしていないではないか。
経典に述べられるような罪人と比べると、
大した罪など犯していないではないか。

というように過剰な罪業観に悩むことがないことを、
はっきりとお説きになっています。

さらに「十二問答」においては、

「かの三宝滅尽の時の念仏者と当時の御房達と比ぶれば、
当時の御坊達は仏のごとし」

というように、
末法万年後の人間と比べたならば
今のあなた方は仏のような存在である。

と語って、不当な罪意識から民衆の心を解き放っておられます。


だから私は、「因果の道理」というもは、
現在の種蒔きが未来に花開く根拠として説いていかなければなりませんが、
それでもって現在苦しんでいる人を裁き、更なる苦しみを与えることは、
決してあってはいけないと思います。

ですから上記のような蓮如上人の言葉は、
十分な配慮もなく「事実」のように軽々しく語ってはならないと思います。

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2010年1月17日 (日)

本当の親鸞学徒として

昨年、20数年に及ぶ親鸞会会員歴に幕を降ろしました。

会員のときは、親鸞会の幹部として必死になって活動し、我こそは親鸞学徒なりの誇りをもっておりましたが、ある切っ掛けで教義の誤りを知りました。

それからというもの、元講師の方、華光会、本願寺等多くの方々から親鸞聖人の教えを聞かせて頂き、自分でも親鸞聖人の御著書を拝読して、会長の教えていることが、ここまでデタラメばかりであったのかと呆れ果て、20数年、偽の親鸞学徒であったことにようやく気が付きました。

それから私の本当の求道が始まり、昨年末に本当の親鸞学徒とならせて頂きました。

親鸞会での道のりは、苦難の連続でした。命懸けとまではいわないまでも人生をかけた求道のつもりであり、おこがましくも、親鸞聖人の比叡山時代と重なって感じらます。そして間違った教えをきっぱり捨て去り、正しい教えに巡り遇えた喜びは、体験したものにしか味わえないでしょう。

現在では親鸞会時代とは全く違った人間関係を構築できた一方で、かつて苦楽を共にした仲間が未だ迷っているのをこのまま見過ごすことはできません。

微力ながらも、このブログを通じて大悲伝普化ができたらいいと思っています。

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