三願転入の復活か?
高森顕徹会長が姿を晦まして、長い時間が経っています。高森会長がいない状態では新しい話が出てこないので、ブログの更新をしてきませんでしたが、昨年11月の顕真の巻頭言に
十九願建立の弥陀の目的
善を励むほど、悪性が見えて来る。
励む善そのものは「雑毒の善」でもなければ
「虚仮の行」でもないのだが、
励む我々の心が邪見であり、虚仮であり、不実だから、
「真実の行」とならないのである。励んでそれを分からせ、他力の名号に向かわせようと、
弥陀が仕組まれたのが十九願建立の願意である。
とありました。これは11年前に高森会長が書いた巻頭言で、ここ数年は表立った三願転入論を展開控えていたのを転換したかもしれないと思いましたので、また少し書いておきます。
11年前と言えば、mixi上で三願転入の法論がなされて、高森会長が完膚なきまでに徹底的に叩きのめされて、それを見た会員が大量に辞めて直後のことです。
直接反論ができないので、一部の会員向けの機関紙でこっそり反論すると言うか言い訳をするのが関の山でした。
その後、『なぜ生きる2』を出して、反論できるんだぞ、パフォーマンスをしたものの、返り討ちに遇い、現在では『なぜ生きる2』はお蔵入りとなっています。
さて、上記の巻頭言についてどこが間違いかと言えば、結論が完全な間違いです。
善を励んで見えてくることは、煩悩が邪魔をしてその程度の善しかできないということです。それを「悪性」というなら良いでしょう。
次は『教行信証』信巻
- 一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。
の言い換えですから、問題ありません。
しかし「励んでそれを分からせ、他力の名号に向かわせようと、弥陀が仕組まれたのが十九願建立の願意である。」の根拠は全くありません。これと反する根拠ならいくつもあります。
行巻に『安楽集』を引かれて
『観仏三昧経』にいはく、〈父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまふ。父の王、仏にまうさく、《仏地の果徳、真如実相、第一義空、なにによりてか弟子をしてこれを行ぜしめざる》と。仏、父の王に告げたまはく、《諸仏の果徳、無量深妙の境界、神通解脱まします。これ凡夫の所行の境界にあらざるがゆゑに、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる》と。
(現代語訳)
『観仏三昧経』に、<世尊は、父である浄飯王に念仏三昧を修めるようにお勧めになった。父の王は世尊に、«仏のさとりの徳は真如実相第一義空とのことでありますが、それを観ずる行を、どうして弟子であるわたしに教えてくださらないのですか»とお尋ねした。世尊は父の王に、«仏がたのさとりの徳は、はかりがたい深い境地であり、仏は神通力や智慧をそなえておいでになります。これはとうてい凡夫が修めることのできる境地ではありません。そこで、父の王に念仏三昧を修めることをお勧めしたのです»と仰せになった。
と教えられています。また同じく行巻に『五会法事讃』を引かれて
如来つねに三昧海のなかにして、網綿の手を挙げたまひて、父の王にいうてのたまはく、〈王いま座禅してただまさに念仏すべし。あに離念に同じて無念を求めんや。生を離れて無生を求めんや。相好を離れて法身を求めんや。文を離れて解脱を求めんや〉と。
(現代語訳)
さて、如来は常に三昧の中にあって、詳しく教えを説き明かされるのである。釈尊は父である浄飯王に、<王よ、今静かに座して念仏すべきであります。念を離れて無念を求め、生を離れて無生を求め、姿かたちを離れて法身を求め、言葉を離れて言葉の及ばない解脱を求めるというような難しいことが、凡夫にどうしてできましょうか>と仰せになる。
と同じことを繰り返し教えられています。浄飯王は、善ができると自惚れていましたが、釈尊は「できないから勧めない」で終わりです。念仏三昧を最初から勧められています。
やらせてみてできないことを知らせてから、というような回りくどいことを釈尊はされず、それを親鸞聖人は二度も繰り返し教えられていますので、高森会長の考えは完全に間違いです。もちろん19願の願意でもありません。
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