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2021年10月11日 (月)

親鸞聖人が判らないと仰る往生が判る親鸞会の会員は、上品の智者のつもりなのでしょう

信心を獲ても、阿弥陀仏や浄土が判るようになるのではありません。その根本的な理由は『正像末和讃』の最後の「自然法爾章」にあります。

無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときは、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめに弥陀仏とぞききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。

(現代語訳)

「無上仏」 というのは、 かたちを超えたこの上ないさとりものをいうのであり、 かたちを離れているから、 「自然」 というのである。 かたちがあると示すときは、 この上ないさとりとはいわない。 かたちを離れたこの上ないさとりを知らせようとして示されているのが、 阿弥陀仏であるとお聞かせいただいている。

ほぼ同様の文章は『末灯鈔』にもあります。ここでは阿弥陀仏のお姿について仰っていますが、浄土も同様で、形がないので我々には認識できないのです。認識できないのに阿弥陀仏や浄土が判るようになることはありません。

それで『正信偈』には、

われまたかの摂取のなかにあれども、
煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、
大悲、倦きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり。

とある通りです。この元は『往生要集』です。
源信僧都でさえ信心を獲ても、煩悩によって阿弥陀仏のお姿を観ることはできないと仰っているのです。浄土についても同じで、経典にある方便として説かれた具現化された浄土の荘厳は知っていても、かたちのない真実の浄土は認識できません。

したがって、親鸞聖人が、阿弥陀仏や浄土について知らされた内容を御自身の言葉で語られてはいません。事実、真仏・真土について解説された『教行信証』真仏土巻には、経典と高僧方の文を延々と引かれただけで、親鸞聖人の知らされた内容は結論として、

しかれば如来の真説、宗師の釈義、あきらかに知んぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕す。
惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに。『経』(涅槃経・迦葉品)には、「われ十住の菩薩、少分、仏性を見ると説く」とのたまへり。ゆゑに知んぬ、安楽仏国に到れば、すなはちかならず仏性を顕す。本願力の回向によるがゆゑに。また『経』(涅槃経・迦葉品)には「衆生未来に清浄の身を具足し荘厳して、仏性を見ることを得」とのたまへり。

(現代語訳)

このようなわけであるから、釈尊が説かれた真実の教えや、祖師方が示された解釈には、阿弥陀仏の浄土は真実報土であることが顕されていると、明らかに知ることができた。煩悩にまみれた衆生は、この世界では仏性を見ることができない。それは煩悩におおわれているからである。『涅槃経』には「わたしは第十地の菩薩でも仏性を少ししか見ないと説く」と説かれている。このようなわけで知ることができる。浄土に往生すれば、そこで必ず仏性をあらわすのである。それは阿弥陀仏の本願力の回向によるからである。また『涅槃経』には「衆生は未来に法性にかなった清浄の身となって、仏性を見ることができる」と説かれている。

と仰っただけです。親鸞聖人の阿弥陀仏と浄土に関する結論は、

煩悩に覆われているから判らない

です。
ここまで説明しても苦し紛れの反論で、

形は認識できなくても、仏智を頂くから判るんだ!

という意味不明なことを親鸞会は言ってきそうですが、それについて曇鸞大師が『浄土論註』でこう仰っています。

問ひていはく、上に、生は無生なりと知るといふは、まさにこれ上品生のものなるべし。もし下下品の人の、十念に乗じて往生するは、あに実の生を取るにあらずや。ただ実の生を取らば、すなはち二執に堕しなん。一には、 おそらくは往生を得ざらん。二には、おそらくはさらに生ずとも惑ひを生ぜん。

答ふ。たとへば浄摩尼珠を、これを濁水に置けば、水すなはち清浄なるがごとし。もし人、無量生死の罪濁にありといへども、かの阿弥陀如来の至極無生清浄の宝珠の名号を聞きて、これを濁心に投ぐれば、念々のうちに罪滅して心浄まり、すなはち往生を得。またこれ摩尼珠を玄黄の幣をもつて裹みて、これを水に投ぐれば、水すなはち玄黄にしてもつぱら物の色のごとくなり。かの清浄仏土に阿弥陀如来無上の宝珠まします。無量の荘厳功徳成就の帛をもつて裹みて、これを往生するところのひとの心水に投ぐれば、あに生見を転じて無生の智となすことあたはざらんや。
また氷の上に火を燃くに、火猛ければすなはち氷解く。氷解くればすなはち火滅するがごとし。かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり。

(現代語訳)

問うていう。 上にいうてあるような生即無生の道理をさとるということは上品の往生者にいうことである。 下品下生の人のごときは、 ただ十念念仏によって往生するので、 こういうのは実生実滅の執着を持っているのではないか。 ただ実生を執ずるならば二つの疑いに堕ちる。 一つに、 恐らくはこういう実生実滅を執ずる凡夫は往生を得ないであろう。 二つに、 往生してもさらに生死相対の惑いを生ずるであろう。

答えていう。 たとえば清浄なる摩尼宝珠を濁った水の中に置けば、 珠の力で水が浄らかになるようなものである。 もし凡夫人が無量劫のあいだ迷わねばならぬ罪があっても、 かの阿弥陀如来の法性真如にかなったこの上なき清浄の名号を聞いて、 これを濁った心の中にいただくならば、 念々の中うちに罪が滅し清浄の徳を得て、 往生が得られる。
また、 この清浄なる摩尼宝珠を玄や黄の幣につつんで水の中に入れると、 水がすなわちつつんだ物である幣の色と同じ玄や黄になるようなものである。 かの清浄仏土には、 阿弥陀如来の無上功徳の宝がある。 これをいろいろの荘厳功徳という幣でつつんで、 往生した人の心の水の中に入れたならば、 どうして実生実滅の心を転じて無生の智慧とすることができないはずがあろうか。
また、 氷の上で火を燃やすと、 火の勢いが強ければ氷は解け、 氷が解けると火が消えるようなものである。 かの下品の人は生即無生であると知らないけれども、 ただ仏の名号を称えて作願してかの土に生まれようと願うならば、 浄土に至ればかの国は無生の道理にかなった境界であるから、 実生実滅と見る煩悩の火は自然に消えるのである。

智慧のない者は「法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり。」とある通り、往生について理屈も実感も何もないまま、念仏称えて往生できるのです。

信心を獲て、往生が判ると主張する親鸞会の会員は、上品で智慧のある上等の人間のつもりなのでしょう。おめでたいです。

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