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2021年10月 7日 (木)

W氏は日本語基礎講座で墓穴を掘りW氏は引き下がりましたが、末端会員には理解不能の「まことに知んぬ」

前回の

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

について、普通の思考であれば、全員が納得する内容ですが、意地でも納得してはならないということで、かつて必死に抵抗してきたのがW氏でした。W氏は私との法論は避け続けていますが、かつての部下のブログ

「宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)へ」

に現われて、長いコメントを書きまくっていました。とにかく長いので、前回のことを踏まえた上での反論部分から決着までを紹介しておきます。「ゼロ」「JB」が共にW氏で、青字部分です。赤字部分が私です。

JB

宮田教の信者の言語はほんとに凄いですね(笑)
念のため日本語と比較しておきましょうか。

■宮田語基礎講座■

【1】

昨年、A君がインフルエンザにかかって、とてもつらい思いをした。(A)
今年、私もインフルエンザにかかり、とてもつらかった。(B)

(A)と(B)は、ともに断言していますが、同じレベルの断言でしょうか、違うレベルでしょうか? 正しいと思う方の( )に○を入れてください。

(答え)

1:同じ(○)
2:違う( )

【2】

Mくんは3年間の勉強の末、T高校に合格して、春から高校生になる。
(C)
私は、喜ばしいことに、中高一貫校だから、すでに高校進学が決まっている。
(D)

(C)の文章と(D)の文章と、より言いたいことはどちらの文章でしょう?
正しいと思う( )に○を入れてください。

1:C( )
2:D( )
3:どちらも同じくらい言いたい(○)

【3】

「断定文」は「疑問文」である。

【4】

「まことに知んぬ」は、「信じるに過ぎない」という意味である。

■日本語基礎講座■

【1】

昨年、A君がインフルエンザにかかって、とてもつらい思いをした。(A)
今年、私もインフルエンザにかかり、とてもつらかった。(B)

(A)と(B)は、ともに断言していますが、同じレベルの断言でしょうか、違うレベルでしょうか? 正しいと思う方の( )に○を入れてください。

(答え)

1:同じ( )
2:違う(○)他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。

【2】

Mくんは3年間の勉強の末、T高校に合格して、春から高校生になる。
(C)
私は、喜ばしいことに、中高一貫校だから、すでに高校進学が決まっている。
(D)

(C)の文章と(D)の文章と、より言いたいことはどちらの文章でしょう?
正しいと思う( )に○を入れてください。

1:C( )
2:D(○) 「C]の文章は、引き合いに出して比較したもの。
3:どちらも同じくらい言いたい( )

【3】

「断定文」が「疑問文」になることは決してない。

【4】

「まことに知んぬ」が、「信じるに過ぎない」という意味にはならない。

=============================

※義務教育をちゃんと受けた人は誰でも分かることですよね。
 宮田教の信者さんからすると驚かれるかもしれませんが!

宮田語しか分からない人には、

> 宮田さんの主張は、誰が読んでも良く分かります。
>
> でも、ゼロさんの言っていることは、チンプンカンプンなのです。

となるでしょう。お気持ちよく分かります。

ですが、『教行信証』をはじめ、親鸞聖人のご著書が、宮田語で書かれているという説は見たことがないですね。(当たり前・笑)

「真に知んぬ」が、弥勒菩薩のことと、念仏の衆生と同等だと主張するのは、

宮田教内部にしか通用しない理屈です。日本語で、他人のことと自分のことを同じレベル

で、「本当だったと知らされた」などありえませんから!(【1】参照)

なので、ゼロさんも前に書いていたとおり、弥勒菩薩は、比較の対象として

引き合いに出されただけで、メインではないのです。

これも日本語基礎講座【2】にあるとおりで、普通の日本人なら皆、分かる

ことなので、逆にいえば、宮田語しか分からない人には毛頭わからないことですね。

なので、お互い言語が違うとしかいいようがないです。

★反論があるなら、【1】~【4】について、宮田語のほうが正しいという

国語辞典なりの根拠をお示しくださいな(^^)

まったくもって、法論レベルまでいかない人たち相手に、ゼロさんも忍耐で

がんばられたことと思います!

もう、これ以上はどれだけ頑張っても、宮田教の信者さんたちには理解不能だと思いますね、ハッキリいってこれらの人は、言語が違うのですから。

> 2.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、仏の智慧を以ってしか断言できないことであるので、親鸞聖人御自身が智慧を体得せられて知らされたのではない。
> >
> >は、そうでしょうね。

については、まだ話が早いと思いましたので、とりあえず、善意に解釈した上で、「そうでしょうね」とぼかした返事にしておきました。

厳密にいうと、「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は【仏】にならないと本当の意味で分からないことです。

親鸞聖人は、南無阿弥陀仏の智恵をいただかれ、仏説まこと、仏語に虚妄なしと知らされたことです。

そういう意味では、

2.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、成仏しないと断言できないことであるので、親鸞聖人御自身がハッキリと知らされたのではない。
>
となります。

つまりゼロさんと同じ意味と理解しておりますが? いつもの調子で「ゼロさんと違う!」という妄想が多いですね、宮田教の人々は。

まとめると

「真に知んぬ」は、まことだったとハッキリ知らされること(「信じるに過ぎない」という意味は日本語にない)ですから、

その内容は、日本語の基礎、【1】【2】に基づき「念仏の衆生は~」のお言葉にかかっている。

「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」も【1】【2】の日本語の大前提にもとづき、

ご自身のことではありませんから、まことだったとハッキリ知らされたわけではない。

(※もう少し詳しく解説しますと、これは日本語レベルを超えて教学が必要となりますが、「仏語に虚妄なし」と知らされたお言葉)

これが中学生レベルでもわかる文章の構造です。ごくフツーです。

自分の体験や、自分の都合に合わせてよむと、「真に知んぬ」が「信じるに過ぎない」とまでなってしまうので驚きです!

これが宮田教の教義。

じゃあ、

「まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり」

などはどうなるんだ!こんな教学的なことがハッキリ知らされるのか!と叫びたいのが宮田教の信者さんでしょうから、これも答えておきますね。

親鸞聖人は、弥陀に救われた体験に裏付けられた教えを明らかにされて書いておられるのです。
だから、「まことに知んぬ」なのです。

「まことに知んぬ」に、「信じるに過ぎない」という意味がない大原則は変わりようがありません。

もし「信じるに過ぎない」なら、「思う」「味わう」などの表現をなされるはずです。日本語を無視なされるはずがありません。

それでも、納得されないのでしたら、親鸞聖人は、そのお言葉を読まれて、「お聖教にあるから信じよう」と思われたのですか?

根拠を示してください。なるほど、パッと拝読して、このお言葉とピッタリ同じだな、というお聖教のお言葉です。

★もし、そのようなご文がないのに「お聖教にあるから信じよう」とはなられないですから。

パッと拝読しても、私たちにはそうは読めないところを、聖人は、体験を通して知らされたのです。
そうでないと、「まことに知んぬ」の強烈な断言はできません。
(あ、日本語では、強烈な断言なんですよ、「まことに知んぬ」は。信じるに過ぎないのは、宮田語ですからね)

★根拠を示せなければ、あなたの妄想ということになりますね。
(きっと、ここを無視して、好き勝手なことをいうのでしょうけれど、根拠がなければ、どんなに強がっても、
 自信いっぱいに見せかけても【ムダ】ですからね。
 根拠なく騒げば騒ぐほど、痛いところを突かれたことが丸分かりになるということを教えてあげておきましょう)

あと、「浄土往生できることは弥勒菩薩でも分かられないのに、凡智で分かるのか!」といまだに言っている人がありますが、

凡智で分かるなどと、ゼロさんがいつそんなことを言われましたでしょうか?

凡智では分からないけれど、南無阿弥陀仏の智恵で分かるとハッキリ書かれてますでしょう。

そうすると今度は、「仏さまになったのか」と宮田教の信者さん理解しますが、あまりにも極端ですね。

「南無阿弥陀仏の智恵」をいただくのであって、仏になることとは違います。

「令諸衆生」の仏智満入して不成の迷心を他力より成就して、「願入弥陀界」の往生の正業成ずるときを、「能発一念喜愛心」とも、「不断煩悩得涅槃」とも、「入正定聚之数」とも、聖人釈しましませり。これすなわち「即得往生」の時分なり。(改邪鈔)

とあるように、仏智満入して信心決定するのです。(でも仏になったのではありません)

宮田教では、仏智満入しないのでしょうか?

もし、「仏智満入する」と言ったとしても、独自の解釈をして、【満入】の意味と正反対の理解をしてそうですけどね。

大体、想像つくというもの。
(満入しても、満ちない、入ってない、とか。かな? 日本語の正反対な理解が得意ですものね、宮田教の皆さんは)

「仏心と凡心と一つになるところをさして、信心獲得の行者とはいふなり」
                          (御文章 二帖目第九通)

仏心と凡心がひとつになるから、仏心のお働きで、凡夫にも「往生一定」とハッキリするのです。(でも、仏になったのではありません。正定聚の菩薩になったのです)

それは、浄土がアリアリと見えるのでもなければ、仏が見えるのでもありません。文字通り、浄土へ往生できることがハッキリ(一定)するのです。
それ以上でも以下でもありません。

これも、宮田教の人たちは、根拠のない解釈をして、
「仏心と凡心と一つになったら、心じゃなくなる」、とかいう珍釈でしょうか?

ちょっと、ここはまだ、あなた方の妄想を破るには字数が足らないかも知れませんね。
将来、分かる日がくることを念じておきますね。

紅楳英顕氏の根拠を出したこと自体に、何か凄く反応してますけど、

「紅楳英顕氏【でさえ】分かっていることが、宮田教の人々には分かってない」

という意味で出されているのは明らかではないですか。

宮田教の人々には、その流れが分かってないようですが、

日本語が分かる人には誰でもわかることです。分からないのは、宮田教信者の証です。

分かるのは、普通の日本人。

ちなみに、「信じるに過ぎない」なら、「自覚する」の言葉は出てきようがないんじゃないですか?

紅楳英顕氏があれほど「自覚」「確信」を連発していますが、それでもこの場合は、「自覚」「確信」と言っていいなんて、それこそ【詭弁!】ですね。

間接的、それっぽい反論はたくさんしてくるでしょうが、直接的な反論はきっとムリでしょうね。

本願寺とも違う、宮田教の珍しき解釈、ということがここで明らかになっているのです。
別に紅楳英顕氏を敬ってのことでないのは、日本人なら誰でも理解できるゼロさんの文章です。

まあ、これが最後かも知れないと思ってたくさん書かせてもらいました。

本当なら、もっと議論をしたかったのですが、いかんせん言語が違うとこれ以上どれだけやりとりしても、進展は望めませんからね。
残念です。

日本語が理解できるようになったら、またお話しするかもしれませんが、それまでは議論は無理ですね。

すでに、【1】~【4】をもとに説明しましたが、宮田語しか解せない方々には、とても受け入れられなかったでしょう?

言語が違うからです。

では、以下の理解ができるようになったら連絡ください。
それまでは「議論不可能」というのが私の結論です。

だって、文法も単語の意味も違うのですから。

どれだけ、煽ったり、あざけっても【ムダ】ですから、そんな時間があったら、日本語の勉強してくださいね。

以下の【1】~【4】の日本語が理解できるようになったら連絡ください。

もしくは、宮田語辞典などがネットや書店で購入できるようでしたら、教えてくださいな。
興味あるので勉強してみます。
ないのなら、議論は残念ながら不可能ということです。

★議論したいのなら、【1】~【4】の日本語が理解したむねを伝えるか、宮田語辞典の存在を教えてください!

その他、どれだけ煽ってもムダです。

■日本語基礎講座■

【1】

昨年、A君がインフルエンザにかかって、とてもつらい思いをした。(A)
今年、私もインフルエンザにかかり、とてもつらかった。(B)

(A)と(B)は、ともに断言していますが、同じレベルの断言でしょうか、違うレベルでしょうか? 正しいと思う方の( )に○を入れてください。

(答え)

1:同じ( )
2:違う(○)他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。

【2】

Mくんは3年間の勉強の末、T高校に合格して、春から高校生になる。
(C)
私は、喜ばしいことに、中高一貫校だから、すでに高校進学が決まっている。
(D)

(C)の文章と(D)の文章と、より言いたいことはどちらの文章でしょう?
正しいと思う( )に○を入れてください。

1:C( )
2:D(○) 「C]の文章は、引き合いに出して比較したもの。
3:どちらも同じくらい言いたい( )

【3】

「断定文」が「疑問文」になることは決してない。

【4】

「まことに知んぬ」が、「信じるに過ぎない」という意味にはならない。

=============================

では、【1】~【4】の勉強、がんばってください!


JB

ちょっと修正

それでも、納得されないのでしたら、親鸞聖人は、【どのお言葉】を読まれて、「お聖教にあるから信じよう」と思われたのですか?

根拠を示してください。なるほど、パッと拝読して、このお言葉とピッタリ同じだな、というお聖教のお言葉です。

 


id:shinrankaiuso

ではもう1つ教えてあげましょう。

「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」

について
**********************************************
【1】

昨年、A君がインフルエンザにかかって、とてもつらい思いをした。(A)
今年、私もインフルエンザにかかり、とてもつらかった。(B)

(A)と(B)は、ともに断言していますが、同じレベルの断言でしょうか、違うレベルでしょうか? 正しいと思う方の( )に○を入れてください。

(答え)

1:同じ( )
2:違う(○)他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。
**********************************************

これを往生即成仏について言い換えてみると

**********************************************
【1】

昨年、A君が臨終に往生し即成仏した。(A)
今年、私も往生が定まり、臨終に往生し即成仏する。(B)

(A)と(B)は、ともに断言していますが、同じレベルの断言でしょうか、違うレベルでしょうか? 正しいと思う方の( )に○を入れてください。

(答え)

1:同じ( )
2:違う(○)他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。
**********************************************

こうなりますが如何ですか?

「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」

主語は「念仏の衆生は」

つまり、私だけでなく、A君とその他多くの人が含まれる。

もう一度答えは、

2:違う(○)他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。

でしょ。

愚かですね。

それと、「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」と七高僧も聖覚法印も仰っていない。
知らされ方が違うんですよ。


id:shinrankaiuso

鈍いJBさんのためにもう少し説明

「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」

これをインフルエンザに置き換えると、

「インフルエンザにかかった人は、とてもつらい」

わかりましたか?

他人の体験も含まれています。


id:shinrankaiuso

JBさんの日本語講座を受講して以下のことが真に知らされました。

「他人の体験は、自覚はできない。自分の体験は自覚している。だから違う。」

親鸞聖人以外の念仏の衆生の体験は、自覚はできない。親鸞聖人御自身の体験は自覚している。だから違う。

親鸞聖人の「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。」を分りやすく言うと、

 私以外の念仏の衆生について、臨終に往生即成仏できると自覚できない。
 私の体験は自覚している。
 だからこの2つは違うが、一緒に「真に知んぬ」

このように真に知らされました。


id:shinrankaiuso

一応解説しておくと、「弥勒大士は…」を出されたのは、聖道門での成仏と18願での成仏を比較されるため。

よって

真に知らされた、聖道門では弥勒菩薩でさえ成仏するのに五十六億七千万年かかるのに、18願の救いは臨終に成仏できる。

親鸞聖人の個人的な体験を仰ったのではなく、教義解釈についての話です。

往生即成仏と、経典にもなく、七高僧方も仰っていないが、論理的にそうならないとおかしいと真に知らされた

これがこの御文の意味。自覚の問題ではないから、七高僧方と違ったことを仰っていても、信心が同じかどうかには関係しない話。


JB

おはようございます。

shinrankaiusoさん、遅くまで詭弁を展開していただき有難うございます。

でも、その努力は日本語習得のために使ってほしいものですね。

宮田さんもshinrankaiusoさんと同じ意見でしょうか?

この先の二つのコメントについてです。

日本語について少し触れてきましたので、今回はお答えしようと思っていますが、宮田さんの意見を聞いてからにしたいと思います。

あと、私の言葉遣い云々についてのコメントがいくつかありますね。

これについては、もう少し落ち着いてからお話ししようと思っていましたが、ちょっとだけ話しておきましょう。

言葉遣いのまずさは、自分や自分の仲間に関してはなかなか気づかないものです。特に反対意見を述べているときには。
そして議論をかわしているときには、あまりお上品にもやっておれませんので、ある程度、激しくなることはやむをえないものもあるでしょう。

ですが、度を越してはなりません。

例えば、たびたび取り上げられるこのような言葉です。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。
>
> 何度でも言ってやるよ 馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿
> 馬鹿を誹謗したところで功徳になりすれ、悪にはならないから
>
> 。。。。。。。。。。。。。。。。。。
>
> 高森教の邪義しか聞いていないゼロさんのことですから、「二つの心が同時に起こる。」などと、
> ど~せトンデモナイ説明で済ますんでしょうけどね。
> そんな人が実際にいたら、それこそ“【精神病患者】”ですよ。
>
> 。。。。。。。。。。。。。。。。。。
>
> 二千年かけて、どうぞ“無間地獄”に堕ちていって下さい。
>
> 。。。。。。。。。。。。。。。。。。

特に世間一般にみて、【精神病患者】発言は看過さるべきではものではないですね。
見てみぬふりをしては同罪になってしまいます。
管理人である宮田さんは、この発言についてどう思われますか?

このことについてはお尋ねしたく思います。

通りすがりさんは、通りすがりのわりに何度も通られるのですね(笑)
そして第三者の目で見て、【精神病患者】は問題なしだそうですが、一体どこの国の第三者の目なのでしょうね。

朝から笑いを提供してくださり有難うございました。


id:shinrankaiuso

おはようございます、笑いを提供しておきます。

JBさんの日本語基礎講座受講を踏まえて整理し直しました。

1.「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」と七高僧は、仰っていない。(親鸞聖人とは異なる知らされ方)

2.親鸞聖人以外の念仏の衆生の体験について、親鸞聖人は自覚できない。親鸞聖人御自身の体験については自覚できる。だからこの2つは違う。

3.「弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、仏の智慧を以ってしか断言できないことであるので、親鸞聖人御自身が智慧を体得せられて知らされたのではない。

4.弥勒菩薩の成仏と親鸞聖人以外の念仏の衆生が臨終に往生即成仏できることについて、親鸞聖人が自覚できることではないが、親鸞聖人御自身の体験と併せて、「真に知んぬ」と一括りで仰っている。

よって結論は、
「念仏の衆生は…」は、親鸞聖人御自身が実感として知ることができたのではなく、阿弥陀仏に救われたのだから、往生即成仏できるに違いない、とお聖教の解釈をされたに過ぎない。

W氏の詭弁を破ると、いとも簡単にW氏は引き下がりました。なぜなら、私の言うことを理解したからです。一方で、末端会員は「まことに知んぬ」は体験で知らされたことに決まっている、の一点貼りで、上記の内容を全く理解できないのです。
W氏のトーンが明らかに変わったことさえも末端会員は理解できないくらいほどおめでたい頭なのでしょう。

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コメント

生田さんと渡部さんとでは大きな差があることがわかりました。その渡部さんも、詭弁は優秀でしたが、所詮は詭弁。生田さんのは詭弁でなく、単なる恥ずかしい勘違いです。
皆さん、お聖教を読みましょう。

投稿: OS | 2021年10月 7日 (木) 22時57分

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