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2021年4月 1日 (木)

親鸞会の根本聖典『歎異抄をひらく』の邪義7

高森顕徹会長の『歎異抄』の解釈は、間違いばかりなのですが、その中でも特に酷いのが第一条の

しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと

です。この前半については、すでに述べましたが、後半についても、高森会長は大いに誤解しています。『歎異抄をひらく』には以下のようにあります。

弥陀の本願を信じ救われれば、疑いなく助からぬ地獄一定の自己と、疑いなく救われる極楽一定の自己が同時に知らされる、不可思議な、いわゆる二種深信の世界に生かされるから、「悪をもおそるべからず」の告白は当然である。悪を恐れ不安になるのは、地獄一定の悪人と知らされていないからだ。

二種深信を不思議な体験と印象付けたいのでしょうが、根本から間違っています。

『歎異抄』のこの部分は、『口伝鈔』第四条に覚如上人が詳しく記されています。

上人[親鸞]仰せにのたまはく、「某はまつたく善もほしからず、また悪もおそれなし。善のほしからざるゆゑは、弥陀の本願を信受するにまされる善なきがゆゑに。悪のおそれなきといふは、弥陀の本願をさまたぐる悪なきがゆゑに。

(中略)

しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや。さればこそ、悪もおそろしからずともいひ善もほしからずとはいへ」。
現代語訳(梯實圓著『聖典セミナー 口伝鈔』より)
親鸞聖人はこのように仰せられました。 「私は往生のために、善を欲しいとも、また悪を恐ろしいとも全く思わない。善を欲しいと思わないのは、阿弥陀仏の本願を疑いなく受け入れる信心に勝る善はないからである。悪を恐れないのは、阿弥陀仏の本願の救いを妨げるような悪は存在しないからである。

(中略)

それゆえ生れつきの能力でなした善も悪も、報土に往生するための役にも立たず、邪魔にもならないことはいうまでもない。だからこの善人・悪人の上に与えられている阿弥陀仏の智慧の現れである本願の名号をたよりとしなかったならば、どうして凡夫に浄土に生れるに足る徳があろうか。だからこそ[善もほしくない]悪も恐ろしくないといったのである」と仰せられました。

地獄一定と知らされるとか知らされないとか、そんな話ではありません。阿弥陀仏の本願での救いには、善が役立たないのと同様、悪が妨げになることもありません。

それを親鸞聖人が説明なされている訳ですが、高森会長にはそれが理解できないのです。
ついでに言っておくと、二種深信とは

疑いなく助からぬ地獄一定の自己と、疑いなく救われる極楽一定の自己が同時に知らされる、不可思議な、いわゆる二種深信の世界に生かされる

ことではありません。

高森会長のいう二種深信の機の深信に相当する「地獄一定」については、『執持鈔』第二条で覚如上人が記しておられ、その内容もすでに述べている通りです。

『執持鈔』における親鸞聖人の仰せをピックアップしてみる。

 最初に

このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。

とありますが、その後に

明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑに

と「地獄」から「悪道」へと言い換えられています。

更には第三条で

おのれが悪業のちから、三悪・四趣の生をひくよりほか
六趣・四生よりほかはすみかもなくうかむべき期なきがために
すみやかにかの十悪・五逆・四重・謗法の悪因にひかれて三途・八難にこそしづむべけれ

と言い換えられています。

我らが死んだ後どうなるかについて親鸞聖人の御言葉を再度列記すると

 

  1. かならず地獄におつべし
  2. 決定悪道へゆく
  3. 三悪・四趣の生をひく
  4. 六趣・四生よりほかはすみかもなく
  5. 三途・八難にこそしづむべけれ

となっています。

高森会長のいう機の深信「疑いなく助からぬ地獄一定の自己」に当てはまるのは、1だけです。
2~5は「疑いなく助からぬ地獄一定の自己」から外れることになります。
つまり、親鸞聖人の機の深信は、「疑いなく助からぬ地獄一定の自己」とならず、罪悪観です。

二種深信は元は善導大師が仰ったものです。『観無量寿経疏』の機の深信は、

一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。

ですが、『往生礼讃』にも機の深信を記されています。

自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し

善導大師の御言葉の中に「疑いなく助からぬ地獄一定の自己」に相当する語句は見当たりません。

ということは、高森会長のいう不思議な二種深信は、高森会長個人の体験談なのか、伊藤康善師・大沼法竜師のパクリかのどちらかになります。

いずれにしても確実なのは、善導大師、親鸞聖人、覚如上人は、高森会長の言う不思議な体験をなされていないと言うことです。  

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