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2021年4月12日 (月)

親鸞会の根本聖典『歎異抄をひらく』の邪義8

高森顕徹会長は、二種深信が如何なるものか全く判っていないと思えます。

親鸞会。NET≫ ≫ 『歎異抄』解説書の比較対照【8】『歎異抄』と「二種深信」第8回

には

親鸞聖人の説かれる信心は、我々が「疑うまい」と努める「信心」とは全く違い、”機と法に疑い晴れた心”を弥陀より賜る、超世希有の「二種深信」です。地獄一定と極楽一定が同時にハッキリする、不可称不可説不可思議の「二種深信」一つ解説されたのが、聖人畢生の大著『教行信証』です。

とあり、二種深信を「超世希有」「不可称不可説不可思議」と形容していること自体、完全にずれているでしょう。</p≻「超世希有」「不可称不可説不可思議」は、本願に対して言われるものであって、二種深信に対して言われるものではありません。これは、『教行信証』を一度でも読んだことがあれば判るでしょう。高森会長は『教行信証』を読んだことがないから仕方のないことです。
前回二種深信について以前に少し述べましたが、補足しておきます。
善導大師の仰った機の深信を、詳しく解説されているのが『散善義』の中にある。

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。

と仰っていますが、これは、出離して聖者となった人もある一方で、出離できずにいるのが凡夫であるということを善導大師が御自身の告白として記されたものです。
たとえば、龍樹菩薩は菩薩の道を行じられ、聖を証された方です。曇鸞大師が龍樹菩薩のことを『讃阿弥陀仏偈』において

伏して承るに尊(龍樹)、歓喜地を悟りて、阿弥陀に帰して安楽に生ぜり。

と称賛されている通りで、それを親鸞聖人も『正信偈』で

歓喜地を証して安楽に生ぜん

では曇鸞大師は聖を証された方かと言えば、そうではありません。
道綽禅師は『安楽集』にて曇鸞大師の御言葉を伝えています。

われすでに凡夫にして、智慧浅短なり。いまだ地位に入らざれば、念力すべからく均しくすべけんや。

とあります。これを親鸞聖人は『高僧和讃』曇鸞讃にて

鸞師こたへてのたまはく
 わが身は智慧あさくして
 いまだ地位にいらざれば
 念力ひとしくおよばれず

曇鸞大師も出離を目指されながら、出離できない凡夫であったことを意味しています。曇鸞大師御自身の告白では、『讃阿弥陀仏碍』に、

われ無始より三界に循りて、虚妄輪のために回転せらる。一念一時に造るところの業、足六道に繋がれ三塗に滞まる。

煩悩によって、迷いの世界から抜け出せないでいるということです。これは曇鸞大師の機の深信に相当する御言葉ですが、「三界」「六道」「三塗」は、地獄一定とは明白に異なります。
つまり、菩薩の道を行じられて出離された龍樹菩薩に対して、菩薩の道を行じられたものの出離できなかったのが曇鸞大師、善導大師であったということです。

以上より、凡夫においては、自力では出離できないことを深く信じたのが機の深信となります。
もちろん、出離された龍樹菩薩のような方には、自力では仏に成れないと深く信じたことを、機の深信とすべきでしょう。

そして、機の深信と法の深信とは同じことを仰ったに過ぎません。
出離できない我が身であるから、それを救って出離させてくださるのは阿弥陀仏の本願以外にはない
これが二種深信です。高森会長が言うような「超世希有」でも「不可称不可説不可思議」でもありません。
ただ、出離できない凡夫にも、曇鸞大師、善導大師のように菩薩の道を行じた上で、聖を証ずることができないと嘆かれた方もいれば、我等のように菩薩の道を行じることすらできない人もいるのです。それどころか、五逆謗法を平気で犯す人もある訳で、凡夫といっても様々であすから、凡夫を一括りにして「地獄一定だ」と決めつけるのは論外であるし、それが機の深信であるというのは、的外れです。事実、『教行信証』には、「地獄一定」を示す記述は見当たりません。

親鸞会の会員が自分で『教行信証』を一度でも読んでみれば機の深信が「地獄一定」とイコールでないことくらい気が付くでしょうが、聖教を読んではいけない、と高森会長から禁止されているので、いつまでも騙され続けるのです。

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コメント

会長の教えだけ聞いていても、龍樹菩薩や天親菩薩に地獄一定があり得ないとわかる筈です。(過去記事でも触れられていました。)
それすらも分からなくなってしまうのは会長への信仰心の深さ故でしょうか。
残念なことです。

投稿: ミントスプレー | 2021年4月14日 (水) 19時47分

>会長への信仰心の深さ故でしょうか。

信仰ではなく、依存心の深さのためです。
自分で思考することを放棄し、自分の人生を自分で責任をもつことから逃げ、会長に依存しているからです。
そういう団体です。つまりカルトです

投稿: a | 2021年4月19日 (月) 22時07分

お会いしたこともなく、お名前も存じ上げないBLOG主ですが、3ヶ月近く新しい投稿がないので気になっています。
お仕事が多忙とか、書くことがない、というだけならよいのですが、安否を心配しております。

投稿: 泥凡夫 | 2021年7月 8日 (木) 22時56分

泥凡夫様

ご心配ありがとうございます。
体調の面では問題ありません。
以前にもエントリーで書きましたが、私は高森会長を相手にしてきましたので、高森会長がいない中では、書くことがないという事情です。
今まで散々高森会長の間違いを書いてきまして、新しいネタを提供してくれないと書きにくいというのが本音です。

もしリクエストが有れば、書きますので、おっしゃってください。

投稿: 飛雲 | 2021年7月 9日 (金) 20時05分

お元気そうで何よりです。安心いたしました。
リクエスト……直ぐには思付きませんが、考えておきます。
最近の話題ではなく、過去の刊行物の内容に関する話になるかもしれません。

投稿: 泥凡夫 | 2021年7月14日 (水) 20時42分

親鸞学徒(会員とは意味が違います)です。このブログをみた人は動揺して聞法を躊躇する方も数多くあると思います。しかし、人間界に生を受けながら救いの道を閉ざしていいものでしょうか。阿弥陀仏の救いを求めたら善をしなければ助からないのではないか、悪をしたら助からないのではないかという心が出てきます。出てこないのは救いを求めていない単なる学問として仏教をとらえているからではないでしょうか。19願20願は関係ない18願だけで信前信後の水際がたつのだという教えしかないように思います。救いの道を閉ざしたり、躊躇させる言動は慎んでいただきたいと念じております。因果の通りに狂いはありませんので、結果は返ってくるでしょう。親鸞会の会員であろうがなかろうが関係ありません。このブログがあろうがなかろうが関係ありません。救いの道を閉ざす言動はお辞めください。このブログは煩悩具足の凡夫には引き込まれてしまう内容がたくさんあります。しかし、だからといってこのブログをみて聞法を躊躇するようなことだけはないようにしていただきたいと思わずにおれません。本名を明らかにして私の主張を述べさせていただきました。ブログの性質上、文脈にあわない投稿ですが、このブログ全体に対してコメントしております。
迷いの世界で苦しんでいる私達はどうすれば救われるのか明らかにしていただきたいと切に願っております。18願で救われるのであればなぜいまなお迷いの世界で苦しんでいるのでしょうか。

投稿: 生田英明 | 2021年9月 1日 (水) 23時35分

生田英明 様

 安心問答のブログにもコメントされてましたが、こちらのコメントでは最後の2行が追加されてますね。
 18願で救われるのになぜいまなお迷いの世界で苦しんでいるのかとの真摯な疑問です。
 苦しい思いをしてみえるとお察しいたします。

 生田さまがご自身で吐露されているように、18願だけでは救われないと疑ってみえるからです。
 19願が必要だと、善をしなければ助からないと、悪をしたら助からないと。因果の通りになってしまうと。まさに18願を疑っているからです。
 まずはここの理解が違うと、浄土真宗に入れませんので、ここから理解を修正されてください。

投稿: YGM | 2021年9月 3日 (金) 17時15分

あはれあはれ、存命のうちに皆々信心決定あれかしと、朝夕思ひはんべり。
まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころ暫くも止むことなし。
御文章四帖目第十五通

投稿: 生田英明 | 2021年9月 5日 (日) 21時09分

生田英明さま

昭和の時代から高森親鸞会で聴聞し、破邪顕正に勤しみ、親鸞会教学を真剣に学んでこられた貴殿から見れば、飛雲に記載されている内容は到底受け入れられる内容ではないでしょう。

親鸞会会員ではなく、親鸞学徒として
問題提起された貴殿ですので、お聖教を根拠に議論されることを期待いたします。

先ずは飛雲の記事を過去半年分で結構ですので目を通した上で、納得できないところを一点挙げて、聖教の根拠とあわせて反論されてはいかがでしょうか?

投稿: 昭和の時代の会員 | 2021年9月 8日 (水) 07時21分

まず、目的は真実を明らかにすることなので、飛雲と親鸞会とどちらが正しいか争うことを意図しておりません。
阿弥陀仏の救いは平等なのに、私達の業は阿弥陀仏の救いと無縁だということになると、早く救われる人と遅く救われる人の違いは何でしょうか。

投稿: 生田英明 | 2021年9月 8日 (水) 19時35分

生田様

早く救われる人と遅く救われる人の差は、善とは無関係です。

『往生要集』に

問ふ。 仏、往昔に、つぶさに諸度を修したまひしに、なほ八万歳にこの法を聞きたまふことあたはざりき。 いかんぞ、薄徳のたやすく聴聞することを得る。 たとひ希有なりと許せども、なほ道理に違せり。

答ふ。

この義、知りがたし。 (中略)ゆゑに上人のなかにもまた聞くこと難きものあり、凡愚のなかにもまた聞くものあり。 これまたいまだ決せず。 後賢、取捨せよ。


とあります。
判りやすい例で言うならば、弥勒菩薩は、仏でない衆生では最高の善人ですが、阿弥陀仏の本願を信じていません。釈尊から直接大経の御説法を聞いたにもかかわらずです。
しかし、底下の凡夫で救われた人はたくさんいます。
これこそが悪人正機です。

投稿: 飛雲 | 2021年9月 8日 (水) 19時48分

引用されているお言葉から、倫理・道徳や聖道門でいわれる善と無関係なのは明らかです。では、私達の業とは無関係でしょうか。例えば、阿弥陀仏の救いを求めて阿弥陀仏を思い浮かべたり、念じたり、阿弥陀仏の御心をきかせていただくこととは無関係でしょうか。

投稿: 生田英明 | 2021年9月 8日 (水) 22時39分

知りがたしです。
源信僧都より賢い方なら判ると思います。

投稿: 飛雲 | 2021年9月 9日 (木) 01時40分

知りがたし(知ることが難しい)のはわかります。往生要集の引用で(中略)とされたところに説明を試みておられます。
しかし、それでは阿弥陀仏の救いを求めている人はどうすればよいかわからなくなってしまいます。
質問者に救われてもらいたいというお考えがないのであれば、これで失礼いたします。

投稿: 生田英明 | 2021年9月 9日 (木) 23時05分

どうすれば良いかとの質問に対して親鸞聖人は、18願の念仏を称えなさいと教えられています。最初から18願の念仏かと思われたかもしれませんが、そうです。
念仏称えて信前は結果的に自力の念仏になるのであって、最初から他力の念仏を目指すのです。高森会長が以前、「他力になるまで他力を聞きなさい」と言っていましたが、あれは正しいです。念仏も同じで「他力の念仏になるまで他力の念仏を称えようとしなさい」です。聴聞と言っても、他力の念仏のことを聞くのです。
19願や諸善に心が掛かっているのは話になりません。念仏一行の上での自力と他力です。

投稿: 飛雲 | 2021年9月10日 (金) 04時06分

19願や諸善に心が掛かっているのは話になりませんとおっしゃいますが、悪果を恐れて阿弥陀仏の救いを求めているのです。
19願や諸善に心が掛からなければ仏教をきく動機がなくなってしまいます。念仏を称えて助かろうという気持ちも起きません。

投稿: 生田英明 | 2021年9月11日 (土) 06時26分

根本的に間違っています。
念仏称えた者を救うと誓われた18願を覆えす考え方をしていて18願で救われるはずもありません。
悪果を恐れているのなら、18願をそのまま受け入れてください。

投稿: 飛雲 | 2021年9月11日 (土) 06時36分

生田英明さま

生田さまが親鸞会で聴聞するようになった動機が「因果の道理」の話であったと記憶しています。
因果の道理を高森親鸞会で繰り返し聞いてこられると、三願転入の入口19願は非常にすんなり頭に入ってきますが、親鸞学徒を自認されるのであれば、三願転入は忘れてください。親鸞聖人に三願転入をすすめる教えはありません。
そんなはずはないと思われるかもしれませんが、過去に行われた法論で、親鸞会は飛雲氏に完敗しています。これは事実です。
このブログの過去ログに法論の骨子と証跡はありますので、一通り目を通されてはいかがでしょうか。

投稿: 昭和の時代の会員 | 2021年9月11日 (土) 10時13分

根本的に間違っていますといわれましても、まことのこころのない私には18願をそのまま受け入れることができません。できないことをすすめられてもできないことはできません。悪をおそれ善がほしい私ではありますが、聖道門をの修行ができないことくらいはうぬぼれ強い私でもそう思いますので、聖道門を断念した人と同じく19願の権化方便に従って善を試みようと考えております。
「至心発願欲生と十方衆生を方便し、衆善の仮門ひらきてぞ現其人前と願じける」なぜ遠回りするのだと反論されるかもしれませんが、通ることができない道を通ることはできませんので、遠回りでも親鸞聖人と同じ道を進ませていただこうと思っております。

投稿: 生田英明 | 2021年9月11日 (土) 16時55分

19願を実践したい人はすれば良いです。
ただし、親鸞聖人はじめ、覚如上人も蓮如上人も、19願を実践しましょうとか通りましょうとは、全く仰っていません。その反対で、19願は善人のための方便だから善のできない人には関係ない願だと教えられています。
善知識方の教えに背いて最終的に18願で救われると妄想しているなら、やめた方が良いです。

投稿: 飛雲 | 2021年9月11日 (土) 17時12分

諸善万行ことごとく至心発願せるゆえに、往生浄土の方便の善とならぬはなかりけり(浄土和讃)

投稿: 生田英明 | 2021年9月11日 (土) 18時52分

親鸞会の出す根拠は全て間違いです。
この和讃については、何十回も解説していますが、一言で言えば、
雑行(19願の善)の定義の説明をされただけで、せよだけでもないことは、真宗史上では常識というよりそれ以外の解釈は、親鸞会オンリーです。

投稿: 飛雲 | 2021年9月11日 (土) 18時56分

親鸞聖人がご説法された相手は私達と同じまことの善ができない凡夫です。教行信証化土巻に三願転入のお言葉があるにもかかわらず、解釈の違いによる議論の勝敗では真実である根拠になりえないと考えます。親鸞会に反論することが目的かのようなことを書いておられましたが、よほど深い理由をお持ちであるように感じました。親鸞会の出す根拠には間違っているものもある、というのであればわかりますが、全て間違いと断定されているということはそのような先入観をお持ちなのだと感じました。早く救われる人と遅く救われる人の差は知りがたしとか、悪果を恐れて阿弥陀仏の救いを求めていることを根本的に間違っていますとか、最初に間違いと断定的される書き方から、客観的な判断をされていないように感じております。お念仏は何十年と称えておりますし、これからも称え続けますが、いまだ阿弥陀仏の救いにあずかっておりません。どこが誤っているのかを指南いただけないと救いの道がありません。これで失礼いたします。

投稿: 生田英明 | 2021年9月11日 (土) 21時03分

話を逸らしているということは、先の和讃については反論なしということですね。

さて先入観を捨てて、このブログを読まれれば、私の言っている意味がわかるでしょう。
高森会長は、自分の主張に合うように根拠を解釈しているから、全て間違いだと言っているのです。三願転入は、化土巻にのみ書かれていて、正信偈にもない、お手紙にもない、教行信証をまとめられた浄土文類聚鈔にもない、御文章にもない、知っていても知らなくてもどうでも良い内容です。

どこが間違っているかは一貫して言っている通り、19願、諸善に心を掛けるところです。
念仏称えていると言われますが、諸善に心がかかっていてどんな念仏なのですか?
救われた後のお礼を先に言っているつもりですか?
挨拶代わりに称えているだけですか?
お勤めの中で儀礼的に称えているだけですか?

阿弥陀仏は、念仏を称えた者を浄土に往生させると誓われていますので、それを信じて称えていない念仏では信心が獲られることはありません。

親鸞聖人は、
念仏称えた者を救うと誓われた阿弥陀仏の18願を信じて念仏称えた者が、報土往生できるのだと教えられています。

親鸞聖人の教えを信じるか背くかはあなた次第です。

投稿: 飛雲 | 2021年9月11日 (土) 21時19分

親鸞聖人ご自身は三願転入したとおっしゃっておりますが、これは正しいとの認識でしょうか。

浄土和讃に善をすすめておられますが、これはどのように解釈しておられるのでしょうか。
・至心発願欲生と十方衆生を方便し、衆善の仮門をひらきてぞ現其人前と願じける
・臨終現前の願により釈迦は諸善をことごとく、観経一部にあらわして定散諸機をすすめけり
・諸善万行ことごとく至心発願せるゆえに、往生浄土の方便の善とならぬはなかりけり

→雑行(19願の善)の定義の説明をされただけといわれても、例えば、18願は阿弥陀仏の本意を説明されただけ、という説明と同じと思われます。
 すすめておられないことをすでに説明されているかと思いますので、ブログのどこかお示しいただけないでしょうか。
 それは受け売りではない、飛雲の教学と体験から説明されているものでしょうか。

御文章に宿善の沙汰をすすめておられますが、これはどのように解釈しておられるのでしょうか。
・当流の他力信心の一通を勧めんと思わんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし
・いずれの経釈に依るとも、既に宿善に限れりと見えたり
・無宿善の機に至りては力及ばず
・宿善まかせとはいいながら述懐のこころやむことなし

→宿善は過去の阿弥陀仏との縁と理解しておりますが、無宿善の私はどうすればいいのでしょうか。

生まれがたき人身を受けた以上、間違っていますといわれてああそうですかと
簡単に受け入れられる話でないことはご理解いただけると思っております。
「親鸞会だから間違っている」というのは理由になりませんので、
親鸞会の誤りを見つけるという観点だけで説明されても、
反論したいのですねと思うだけで終わってしまいます。

投稿: 生田英明 | 2021年9月12日 (日) 00時24分

このブログで書いたことをまとめたブログがいくつもありますので、それを読まれると判ると思います。
親鸞会だから間違いは法論の結論であって、仮定ではありません。

とりあえず以下の2つの関連箇所を読んでみてください。
http://blog.livedoor.jp/sutybi/
https://sinrankaix.exblog.jp/

長くても良ければ
http://shinrankaishukuzen.seesaa.net/

上記を読まれた上で疑問反論をどんどん出してください。

投稿: 飛雲 | 2021年9月12日 (日) 05時02分

三願転入が親鸞聖人の体験であるかどうか、古来から議論されてきたことですが、三願転入自体はそういう道もある程度です。
親鸞聖人が強調された体験は、龍樹菩薩と曇鸞大師の体験です。正信偈にも高僧和讃にも書かれています。曇鸞大師のことは蓮如上人も詳しく書かれています。
仙人の教えから18願に帰依された体験です。
皆さん仙人の教えを学びましょう、という意図で親鸞聖人蓮如上人が仰ったのですか?
違います。三願転入も同じことで、そんな道を通ることもあるっていう程度です。しかもそれは聖道門にいる人限定で。

投稿: 飛雲 | 2021年9月12日 (日) 05時11分

親鸞聖人の教えは二重廃立(聖浄廃立と真仮廃立は同義)、二願転入(19願は特定の衆生に限る)ということでしょうか。
親鸞聖人はどうして最初からそのように教えられなかったのでしょうか。

投稿: 生田英明 | 2021年9月13日 (月) 18時37分

> 聖浄廃立と真仮廃立は同義

これは違いますが、真仮廃立で二願転入を同行に最初から教えられているのは確かです。

投稿: 飛雲 | 2021年9月13日 (月) 18時43分

二願転入だと20願から18願に導かれることになりますが、
20願の念仏行から入れということでしょうか。

投稿: 生田英明 | 2021年9月13日 (月) 22時53分

18願の念仏を自力であっても「ただで救ってくださる」「信じるこころも与えてくださるのだから信じる必要はない」「信じる必要はないと信じる必要もない」「信じる必要はないと信じる必要もないと信じる必要もない」「何も信じない」という思いで、毎日毎日四六時中称えることが、阿弥陀仏の救いにあずかる道なのでしょうか。

投稿: 生田英明 | 2021年9月14日 (火) 20時17分

念仏を称えることは前提です。
念仏称えた者を浄土に往生させるというのが18願ですから、18願で救われたいと思っている人が念仏称えないのは18願で救われる気がないことになります。
信前の心としては、この称えた念仏がそのまま他力の信心となることを願うしかないとも言えます。この念仏が他力になるまで称える、こういう言い方しかできませんが、方向性は間違っていません。唯念仏と心が定まった自力から、それが唯念仏と心が定まった他力になる時がありますので、今は兎にも角にも唯念仏です。

投稿: 飛雲 | 2021年9月14日 (火) 20時28分

この称えた念仏がそのまま他力の信心となることを願うのも自力ではないでしょうか。
少し疑問に思ったのが、20願から18願に入るのか、20願は関係ないのか、どちらでしょうか。

20願の念仏は救いの助けになり、19願の善は救いの助けにならないということでしょうか。
20願は19願から入る道なので、やはり後者(20願は関係ない)でしょうか。

投稿: 生田英明 | 2021年9月14日 (火) 23時14分

素朴な疑問ですが、阿弥陀仏の救いを求めるこころは、罪悪深重であり無常迅速である
我が身の姿が知らされないとおきてこないと思います。

悪を悪とも知らない衆生は阿弥陀仏の本願力にてらされなければ我が身の姿もわからず、
生まれ難い人間界に生まれながら、仏とも法とも知らずに死んでいきます。

信前の姿:
宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。
宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。

信後の姿:
ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、
かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

信後のさるまねをいくら重ねて洗脳しても救いにあずかることはできないのはないでしょうか。
阿弥陀仏の兆載永劫のご苦労を無にすることにならないでしょうか。

投稿: 生田英明 | 2021年9月15日 (水) 00時30分

これまでお尋ねに対してお答え下さっていることが、
土蔵秘事に類する者に似ているように感じております。

投稿: 生田英明 | 2021年9月15日 (水) 00時34分

あなたの考え全て自力の妄念です。

法然上人のお言葉を読んでおきましょう。『十二箇条問答』

問いていわく、往生を願わぬにはあらず、願うというともその心勇猛ならず。また念仏を卑しと思うにはあらず、行じながら疎かにして明かし暮らしそうらえば、かかる身なればいかにもこの三心具したりと申すべきもなく。さればこの度の往生をば思い絶えそうろうべきにや。

答えていわく、浄土を欣えどもはげしからず、念仏すれども心のゆるなることを嘆くは往生のこころざしのなきにはあらず。こころざしのなき者はゆるなるを嘆かずはげしからぬをも悲しまず。急ぐ道には足の遅きを嘆く、急がざる道にはこれを嘆かざるがごとし。また好めばおのずから発心すと申す事もあれば、漸漸に増進して必ず往生すべし。
日ごろ十悪五逆を造れる者も臨終に初めて善智識に遇いて往生する事あり。いわんや往生を願い念仏を申して我が心はげしからぬことを嘆かん人をば仏も哀れみ菩薩も護りて、障を除き知識に遇いて往生を得べきなり。

投稿: 飛雲 | 2021年9月15日 (水) 03時16分

『和語灯録』

阿弥陀ほとけの法蔵菩薩のむかし、五劫のあひだよるひる心をくだきて案じたてて成就せさせ給ひたる本願の三心なれば、あだあだしくいふべき事にあらず。いかに無智ならん物もこれを具し、三心の名をしらぬ物までも、かならずそらに具せんずる様につくらせ給ひたる三心なれば、阿弥陀をたのみたてまつりて、すこしもうたがふ心なくして、この名号をとなふれば、あみだほとけかならずわれをむかへて、極楽にゆかせ給ふときゝて、これをふかく信じて、すこしもうたがふ心なく、むかへさせ給へとおもひて念仏すれば、この心がすなはち三心具足の心にてあれば、たゞひらに信じてだにも念仏すれば、すずろに三心はあるなり。

投稿: 飛雲 | 2021年9月15日 (水) 03時34分

『勅修御伝』

上人の給はく、「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすゝめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすゝめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」

投稿: 飛雲 | 2021年9月15日 (水) 03時37分

『浄土和讃』

定散自力の称名は
 果遂のちかひに帰してこそ
 をしへざれども自然に
 真如の門に転入する

投稿: 飛雲 | 2021年9月15日 (水) 03時41分

『教行信証』

『観仏三昧経』にいはく、〈父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまふ。父の王、仏にまうさく、《仏地の果徳、真如実相、第一義空、なにによりてか弟子をしてこれを行ぜしめざる》と。仏、父の王に告げたまはく、《諸仏の果徳、無量深妙の境界、神通解脱まします。これ凡夫の所行の境界にあらざるがゆゑに、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる》と。

投稿: 飛雲 | 2021年9月15日 (水) 03時48分

『正信偈大意』

三蔵、地につばきを吐きていはく、「この方にはいづくのところにか長生不死の法あらん、たとひ長年を得てしばらく死せずといふとも、つひに三有に輪廻すべし」といひて、すなはち浄土の『観無量寿経』を授けていはく、「これこそまことの長生不死の法なり、これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし」とのたまへば、曇鸞これをうけとりて、仙経十巻をたちまちに焼きすてて、一向に浄土に帰したまひけり。

投稿: 飛雲 | 2021年9月15日 (水) 03時48分

生田様

横から失礼します。

>土蔵秘事に類する者に似ているように感じております。

どの部分がそのように感じられるのでしょうか。
親鸞会でいわれるところの「土蔵秘事に類する」というのと飛雲氏の説示は似通っていないと思います。

親鸞会会員と時々議論をしますが、親鸞会の論理をはずれた瞬間、異安心、土蔵秘事、謗法の輩とかレッテルを貼り対話を拒絶されます。

しかし親鸞会のすすめる善を数十年続けていても絶対の幸福にちっともなれない、今一念で救われる教えがいつのまにか多生の目的にすり替わってしまっている、というのが実態だとおもいます。少しは相手の主張に真摯に耳を傾けられてはいかがでしょうか。
(大枠の方向は一緒のようでも、進む方向が間違っているということに早く気づいていただきたいです)

講師部の幹部や高森家の子息たちが、最近ことあるごとに「信心決定は来世だ」を口にするようです。いろいろな人から悲鳴のような声を聞きます。
本当に末期的な感じがします。親鸞会は中枢に近づけば近づくほど教えの存在しない、病んでいるお粗末な実態が色濃く見えます。

本願寺が健全がというと組織や体制に関する親鸞会の指摘の多くはあたっているようにおもいますが、親鸞会が完全に世襲体制となり、教義も聖典に基づかず知識の言説を正とし、最早本願寺批判に説得力も正当性も存在しなくなっているということを多くの講師部は気づいています。

しかし、いまだに残っている一般会員の多くはそんなはずはない、高森会長の残された組織に間違いはない、批判するものは地獄だ、と純粋に頑なに信じ込んでいるようです。時折愕然といたします。

投稿: a | 2021年9月16日 (木) 13時04分

生田英明さま

生田さまはコメント当初から「親鸞会会員としてではなく親鸞学徒として」と立場を明確に述べられていましたが、生田さまの主張は親鸞会教学と同じです。
飛雲氏が9月12日に貼られたリンク先には非常に重要なことが書かれていますので、まずは一通り真剣にお読みください。すべて真剣に読まれましたら親鸞会教学(=生田さまの理解)と、親鸞聖人の教えられたことが異なることがわかります。

親鸞聖人の教えられた通りにされるのが親鸞学徒であり、自分の理解(=親鸞会教学)通りにすることが親鸞学徒ではないことを言うまでもありません。
「親鸞聖人の教えられたこと」と「自分がこれまでに理解してきた教え」が同じかどうかを確認する最後の機会になるかもしれません。繰り返しになりますが、飛雲氏が貼られたリンク先をもう一度よく目を通してください。

私は20年間親鸞会の教えに従い、今生の救いはないという絶望の中で本当の親鸞聖人の教えを知りました。当時の私と今の生田さまが同じかどうかわかりませんが、三願転入に迷う姿は当時の私と同じです。

自分の理解は一旦捨ててください。
そうしなければ親鸞聖人の教えは理解できません。お願いします。

南無阿弥陀仏

投稿: 昭和の時代の会員 | 2021年9月16日 (木) 18時45分

昨日のコメントを一部補足。

>>私は20年間親鸞会の教えに従い、今生の救いはないという絶望の中で本当の親鸞聖人の教えを知りました。当時の私と今の生田さまが同じかどうかわかりませんが、三願転入に迷う姿は当時の私と同じです。

本当の親鸞聖人の教えを知ったのは脱会後しばらくしてからです。ある方のお導きによるものですが、議論発散防止のためここではお名前は出しません。
お導きいただいた内容は、飛雲氏のブログやリンク先に記載の通りと考えていただいて結構です。

真宗の論説は説く人によって解釈に相違があるものですが、こと仏願の生起本末に解釈の相違は許されません。

真宗の御同朋、御同行に三願転入なるものをすすめるなどは根本的な誤りであり、あってはならないのです。

投稿: 昭和の時代の会員 | 2021年9月17日 (金) 15時11分

>問いていわく、往生を願わぬにはあらず、願うというともその心勇猛ならず。また念仏を卑しと思うにはあらず、
>行じながら疎かにして明かし暮らしそうらえば、かかる身なればいかにもこの三心具したりと申すべきもなく。
>さればこの度の往生をば思い絶えそうろうべきにや。

阿弥陀仏に救われて(報土)往生したいというこころが強くありません。念仏行は尊いと思っていますがおろそかにしています。
これでは今生で往生することはあきらめた方がいいでしょうか。

>答えていわく、浄土を欣えどもはげしからず、念仏すれども心のゆるなることを嘆くは往生のこころざしのなきにはあらず。
>こころざしのなき者はゆるなるを嘆かずはげしからぬをも悲しまず。急ぐ道には足の遅きを嘆く、急がざる道にはこれを嘆かざるがごとし。

浄土を願う心が弱い、念仏しても心がけが弱いことを「嘆いている」のは志がないということではありません。
本当に志がない人は「念仏してこころがけが弱い」ことを嘆くこともないのです。
「浄土往生を願うこころがはげしくない」ことを悲しむこともないのです。

急いでいるときに足が遅いのを嘆く(急いでいないときは足が遅いのを嘆かない)のと同じです。

>また好めばおのずから発心すと申す事もあれば、漸漸に増進して必ず往生すべし。
>日ごろ十悪五逆を造れる者も臨終に初めて善智識に遇いて往生する事あり。
>いわんや往生を願い念仏を申して我が心はげしからぬことを嘆かん人をば仏も哀れみ菩薩も護りて、障を除き知識に遇いて往生を得べきなり。

みずから心をおこして少しずつ進んでいって必ず往生するこということがあるでしょう。
十悪五逆を造る悪人が、臨終に初めて善知識にあって救われるということもあるのです。
ましてや(あなたのように)往生を願って、念仏行にはげみ、心がけが弱いことを嘆いている人には、善知識にあって往生することがあるでしょう。

法然上人の深いみこころが私にわかるわけではありませんが、「往生したいこころが弱い、念仏行をおろそかにしている」と
嘆いているあなたは、(急ぐ道で足が遅いのを嘆くように)善知識にあって救われるでしょう。
嘆いていない人よりも、嘆いているあなたこそ、急ぐ道と知らされて救われる人だと励ましておられるお言葉と思います。

この念仏行は果遂の誓いである20願の念仏を仰っているのではないでしょうか。
また、善知識にあいてと念押ししておられます。

浄土を願う心が弱いと嘆くところまではどのように導いておられるのでしょうか。
仏とも法とも知らない人に十悪五逆の悪人だ、気の遠くなるような永いあいだ迷いの世界にいるのだとどのように知らせるのでしょうか。
阿弥陀仏の本願力に照らされるより他にすべはないと思います。

>親鸞会でいわれるところの「土蔵秘事に類する」というのと飛雲氏の説示は似通っていないと思います。
18願の他力の信心は阿弥陀仏から賜る信心ですが、20願の果遂の誓いによって18願の世界に出させていただけると教えられています。
それを果遂の誓いによらずに人工的につくって他力信心と思い込んだのを救われたというところが、土蔵秘事に類すると考えております。

十悪五逆の悪人と知らされずに念仏で救われようというこころはおきません。
十悪五逆の悪人と照らして導いて下される阿弥陀仏のみこころが抜けているように感じております。
火の中かきわけて仏法をきけと教えられる善知識方の教えも抜けているように思います。
もちろん十悪五逆の悪人と照らしだされて念仏せずにおれない機が熟してからのことであればいいですが。

往生一定とはっきり知らされていないのであれば、臨終にならないとわからない往生不定で歓喜のこころがないのではないですか。
それとも往生一定と知らされていなくても阿弥陀仏に救われたとはっきり知らされているというのであれば、人工の他力信心ではないのですか。
現生に得られる十種の利益をえておられるのでしょうか。善知識方は驚くべき長寿の方々です。

投稿: 生田英明 | 2021年9月20日 (月) 03時01分

>浄土を願う心が弱いと嘆くところまではどのように導いておられるのでしょうか。

すでに嘆いている生田さんがその疑問をもったところで関係ない話です。

>十悪五逆の悪人と知らされずに念仏で救われようというこころはおきません。

十悪五逆の悪人と知らされる必要はありません。

親鸞会で聴いてきた適当な教えと生田さんの想像を交えていないで、善知識方が仰ったことをそのまま信じ、そのまま順えば良いのです。
人工の信心の前に、人工の教えを心配すべきです。

投稿: 飛雲 | 2021年9月20日 (月) 06時58分

親鸞聖人と高森会長との相違点

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
--------------------------
高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
----------------------------------ー
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
-----------------------
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
---------------------
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
-------------
高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
-------------
高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
-------------
高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
--------------------------------------
高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
-----------------
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.法の深信について

親鸞聖人 往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず
-----------------------------
高森会長 浄土往生が火に触ったよりも明らかに知らされる

11.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
------------------------
高森会長 善知識に無条件服従せよ

12.因果の道理について

親鸞聖人 罪福の因果を信じることは自力・仏智不思議を疑う心
-----------------------------
高森会長 因果の道理を深信しなければならない

13.三願転入について

親鸞聖人 聖道門の人を浄土門に導く方便が19願であり、19願の勧めはない
------------------------------------
高森会長 全人類は19願から始めなければならない

14.「一向専念無量寿仏」について

親鸞聖人 諸善を廃して念仏1つになること
--------------------
高森会長 阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む


『歎異抄』について

第1章

1.「ただ信心を要とす」の「信心」とは

親鸞聖人 「ただ念仏で往生できる」と信じた心
----------------------------------
高森会長 「助かった」とハッキリした心

2.「本願を信ぜんには他の善も要にあらず」とは

親鸞聖人 本願に救われるには善は不要
----------------------------------
高森会長 救われたなら善は不要だが、救われる前には善が勧められている

3.「悪をもおそるべからず」とは

親鸞聖人 本願に救われるのに、悪が妨げになることはない
----------------------------------
高森会長 悪を恐れ不安になるのは、地獄一定の悪人と知らされていないからだ

第2章

4.「ただ念仏して」の「ただ」とは

親鸞聖人 念仏一行
-----------
高森会長 びっくり仰天

5.「総じてもつて存知せざるなり」とは

親鸞聖人 念仏が浄土に生れる因なのか地獄に行く因なのかを知る智慧を持っていない
----------------------------------
高森会長 知り過ぎた知らん

6.「弥陀の本願まことにおわしまさば」は仮定か断定か

親鸞聖人 仮定
--------
高森会長 断定

第3章

7.「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」とは

親鸞聖人 善人ではなく悪人のために18願を建てられた
----------------------------------
高森会長 「悪人」とは、全人類のことであり、「人間」の代名詞にほかならない

投稿: 飛雲 | 2021年9月20日 (月) 07時31分

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
--------------------------
高森会長 必堕無間

⇒地獄に堕ちる者は十方世界の土の如し(涅槃経)
 この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして無間地獄に堕在すべきものなり(御文章)

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
----------------------------------ー
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

⇒意業を最も重くみるのが仏法です。(師を謗り、善知識をおろかに思う者は謗法罪)


3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
-----------------------
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

⇒末法に悟りを開く善人はいない。

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
---------------------
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

⇒阿弥陀仏の光明に照らされて、罪悪の姿を知らされる。(19願)

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
-------------
高森会長 自力

⇒善知識の教えに従って進むのは自力。阿弥陀仏の呼び声をきいて他力になる。

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
-------------
高森会長 定散二善をせよ

⇒観無量寿経にすすめておられる。

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
-------------
高森会長 19願を実践せよ

⇒阿弥陀仏の光明に照らされて、罪悪の姿を知らされる。(19願)

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
--------------------------------------
高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

⇒無宿善の機に至りては力及ばず。(御文章)

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
-----------------
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

⇒阿弥陀仏の光明に照らされて、真実の自己が照らし出される(地獄は一定すみかぞかし)
 親鸞聖人は信心同異の浄論で阿弥陀仏のからたまわる信心は同じと明らかにされた。

10.法の深信について

親鸞聖人 往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず
-----------------------------
高森会長 浄土往生が火に触ったよりも明らかに知らされる

⇒往生一定、おんたすけ治定と存じ(御文章)

11.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
------------------------
高森会長 善知識に無条件服従せよ

⇒善知識の仰せなりとも、「成るまじき」なんど思うは、大なる浅間しき事なり。(御一代記聞書)

12.因果の道理について

親鸞聖人 罪福の因果を信じることは自力・仏智不思議を疑う心
-----------------------------
高森会長 因果の道理を深信しなければならない

⇒因縁果の通り。弘誓の強縁によって救われる。罪福の因果を信じる(悪もおそれず善もほしからず)は信後。

13.三願転入について

親鸞聖人 聖道門の人を浄土門に導く方便が19願であり、19願の勧めはない
------------------------------------
高森会長 全人類は19願から始めなければならない

⇒阿弥陀仏が真実の自己を照らし出してくだされる。観無量寿経。

14.「一向専念無量寿仏」について

親鸞聖人 諸善を廃して念仏1つになること
--------------------
高森会長 阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む

⇒阿弥陀仏のみこころをきかせていただくことは聞法善。

『歎異抄』について

第1章

1.「ただ信心を要とす」の「信心」とは

親鸞聖人 「ただ念仏で往生できる」と信じた心
----------------------------------
高森会長 「助かった」とハッキリした心

⇒名号をいただいたこと。煩悩具足の凡夫が救われたこと。他力の信心。

2.「本願を信ぜんには他の善も要にあらず」とは

親鸞聖人 本願に救われるには善は不要
----------------------------------
高森会長 救われたなら善は不要だが、救われる前には善が勧められている

⇒本願を信ぜんにはとは、他力の信心を獲得したこと。(信心獲得した人は、他の善をする必要がない)

3.「悪をもおそるべからず」とは

親鸞聖人 本願に救われるのに、悪が妨げになることはない
----------------------------------
高森会長 悪を恐れ不安になるのは、地獄一定の悪人と知らされていないからだ

⇒本願に救われた信後は、転悪成善で悪が妨げになることはない。

第2章

4.「ただ念仏して」の「ただ」とは

親鸞聖人 念仏一行
-----------
高森会長 びっくり仰天

⇒阿弥陀仏に救われたならば(他力信心を獲得したあとの他力の念仏)

5.「総じてもつて存知せざるなり」とは

親鸞聖人 念仏が浄土に生れる因なのか地獄に行く因なのかを知る智慧を持っていない
----------------------------------
高森会長 知り過ぎた知らん

⇒聖道門の僧にきけと言われている。いままで教えてきたのに今更何を疑っているのだという憤慨。

6.「弥陀の本願まことにおわしまさば」は仮定か断定か

親鸞聖人 仮定
--------
高森会長 断定

⇒ただ念仏のみぞまことにておわします。それ以外はまことはないから根拠にならない。
 弥陀の本願まことだから。

第3章

7.「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」とは

親鸞聖人 善人ではなく悪人のために18願を建てられた
----------------------------------
高森会長 「悪人」とは、全人類のことであり、「人間」の代名詞にほかならない

⇒偽善者でさえ救われる、いはんや本当の姿を知らされている悪人が助からないわけがない。

以下が異なっているから、解釈が異なるのだと思います。
・信前のことを仰っているのか、信後のことを仰っているのかで解釈が変わってしまう。
・阿弥陀仏の光明に照らされないと本当の自分の姿は知らされない。
(宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。)

投稿: 生田英明 | 2021年9月20日 (月) 18時39分

あなた程度の反論は、親鸞会がしているので、完璧に論破済みです。
以前に示したブログを読んでいないか読む能力がないのかのどちらかでしょう。

難しいことを理解するのは無理でしょうから、

https://sinrankaix.exblog.jp/

ここだけでも読んでから反論してみましょう。
ちなみに、高森会長は全く反論できませんでした。
あなたが高森会長はじめ、渡部さんや兒玉さん以上に優秀なら反論できるかもしれませんが。

投稿: 飛雲 | 2021年9月20日 (月) 18時44分

涅槃経のことは取り上げていないので、ここで特別に教えてあげます。


涅槃経巻第三十三・迦葉菩薩品第十二の一)

爾の時に世尊、地の少土を取りて之を爪上に置き、迦葉に告げて言はく、
「是の土多きや、十方世界の地の土多きや。」
迦葉菩薩、佛に白して言さく、
「世尊、爪上の土は十方の所有の土に比せざるなり。」
「善男子、人の身を捨てて還て人身を得、三悪の身を捨てて人身を受くるを得、
諸根完具して中國に生れ、正信を具足して能く道を修習し、道を修習し已りて能く解脱を得、
解脱を得已りて能く涅槃に入る有るは、爪上の土の如く、
人身を捨て已りて三悪の身を得、三悪の身を捨てて三悪の身を得、
諸根具せず、辺地に生じ、邪倒の見を信じ、邪道を修習し、解脱、常・楽・涅槃を得ざるは、
十方界の所有の地土の如し。
善男子、禁戒を護持して精勤して惰らず、四重を犯さず、五逆を作さず、僧祇物を用ひず、
一闡提と作らず、善根を断ぜずして、是の如き等の涅槃の経典を信ずるは、爪上の土の如し。
毀戒懈怠、四重禁を犯し、五逆罪作り、僧祇物を用ひ、一闡提と作り、諸の善根を断じ、
是の経を信ぜざるは、十方界の所有の地土の如し。
善男子、如来は善く衆生の是の如き上・中・下根を知りたまふ。
是の故に佛は知根力を具すと称す。」

(口語訳)

その時に釈尊が大地の少しの砂を取って、これを爪の上に置いて、迦葉菩薩に告げて、
「この土が多いか、十方世界の地の土が多いか」と言った。
迦葉菩薩は釈尊に「世尊よ、爪の上の土の少なさは十方にある土の多さに比べられません」と申し上げた。
「善男子よ、人が死んだ後、再び人身を得、あるいは三悪道の身で死んだ後、人身を受けることを得て、
もろもろの感覚器官が完全に具わって、仏法の中心地に生まれ、正しい信心を具足して、
道を習得し、道を習得しおわって、なかでも正しい道を修行し、正しい道を修行しおわって解脱を得て、
解脱を得おわって涅槃に入ることは爪上の土のように少ないのである。
人が死んで後、三悪道の身を得、あるいは三悪道の身で死んだ後、再び三悪道の身を得て、
もろもろの感覚器官が具わらず、仏法の中心地から遠い辺地に生まれ、邪(よこしま)で傾倒した思想を信じ、
邪な道を修得し、解脱を得ず常楽の涅槃を得ないことは十方世界にある地上の土のように多いのである。
善男子よ、戒律を護り、精進し、四重の罪を犯さず、五逆罪を犯さず、教団に属する財物・物資を勝手に使わず、
闡提とならず、善根を断たずに、経典を信じる者は、爪の上の土のようなものである。
懈怠であり、四重の罪を犯し、五逆罪を犯し、教団の財物を用い、闡提となり、善根を断じて、
経典を信じない者は、十方世界の土のようなものである。
善男子よ、如来はよく衆生にこのように上・中・下があることを知っている。
だからこそ仏は知根力を具えていると言うのだ」

投稿: 飛雲 | 2021年9月20日 (月) 18時49分

リンク先を読まないでしょうから、一番目だけここに転載しておきます。
反論があれば、聖教上の根拠に基づいてどうぞ。


「飛雲」から親鸞会への教義非難
1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 必堕無間


これに反論した親鸞会の回答
顕真平成24年5月号

問い

弥陀に救われずに死ぬ人は、六道輪廻するか、または十九願・二十願の行者は化土へ往生すると親鸞聖人は教えられているのに、地獄に堕ちるというのは間違いだと言う人がありますが、如何でしょうか。

答え

 蓮如上人は「信心決定せずは、報土往生すべからず」(『御文章』三帖目八通)と、報土に対する化土ですから、十九・二十願の行者の化土往生も排除されてはいません。 また、六道の中には無間地獄もありますから「この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして無間地獄に堕在すべきものなり」とも『御文章』(二帖目二通)にあります。


これに反論した回答
「飛雲」からの反論

問い

蓮如上人は「この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして無間地獄に堕在すべきものなり」(『御文章』二帖目二通)と仰っていますから、弥陀に救われずに死ぬ人は必ず無間地獄に堕ちるということではないでしょうか。

答え

蓮如上人が、死後に無間地獄に堕ちると仰ったのは、他に一箇所しかありません。「それ、越前の国にひろまるところの秘事法門といへることは、さらに仏法にてはなし、あさましき外道の法なり。これを信ずるものはながく無間地獄に沈むべき業にて、いたづらごとなり。」(『御文章』二帖目十四通)です。この2つは同じ意味です。極楽に往生できると教えていながら異なる信心に対して、「この信心」(正しい信心)です。つまり「この信心を獲得せずば」=「これを信ずるものは」です。


問い

たとえ一箇所だろうと蓮如上人が不信心は無間地獄行きと仰っているのは否定できないではないですか。

答え

たとえ一箇所だろうと蓮如上人が異安心は無間地獄行きと仰っているのは否定できないではないですか。二帖目二通には主語がありませんが、なぜ全人類の不信心のことと断定するのですか。「死出の山路のすえ、三途の大河」(一帖目十一通)、「三途八難にしずまん事」(二帖目一通)、「五道六道といえる悪趣」(二帖目四通)との整合性もとれませんね。


問い

蓮如上人は「後生といふ事は、ながき世まで地獄にをつる事なれば」(帖外御文)と仰って、死後には地獄に堕ちると教えられていますよ。

答え

断章取義です。この前に「世間は一且の浮生、後生は永生の楽果なれば、今生はひさしくあるべき事にもあらず候」とあります。蓮如上人がここで仰っていることは、「短い人生のことよりも、永い死後の方が大事ですよ。極楽と地獄では大変な違いがあるでしょ。」ということです。


問い

親鸞聖人も「地獄は一定すみかぞかし」(歎異抄)と仰っていますから、死んだら地獄に堕ちることは間違いないのではないですか。

答え

この御心は『執持鈔』に詳しく書かれています。「われら凡夫かならず地獄におつべし」の後に、「決定悪道へゆくべかりつる身」「三悪・四趣の生をひくよりほか」「六趣・四生よりほかはすみかもなく」「三途・八難にこそしづむべけれ」と言い換えられた親鸞聖人のお言葉が紹介されています。親鸞聖人の御著書にも六道か悪道としか書かれていません。


問い

親鸞聖人は、本当は皆地獄に堕ちる、と言われたいところを、敢えて三悪道とか六道と表現を和らげられたのではないですか。皆が地獄に堕ちるのではない、と仰ったお言葉があるなら出してみてください。

答え

かなり捻くれた考え方です。親鸞聖人は関東の同行に宛てられたお手紙の中で、次のように仰っています。「ただし念仏のひと、ひがことを申し候はば、その身ひとりこそ地獄にもおち、天魔ともなり候はめ。よろづの念仏者のとがになるべしとはおぼえず候ふ。」(末灯鈔) 念仏称えているだけでは地獄に堕ちるぞ、などと嘘を教えているその人だけが地獄に堕ちるのであって、多くの念仏者の罪にはなりません、ということです。


問い

嘘を教えた者が地獄に堕ちる、とは仰っていますが、未信の同行が死後にどこどこに行く、と仰っていないではないですか。親鸞聖人が具体的なことを仰ったお言葉があるのですか。

答え

「名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし」(末灯鈔)、
「安楽浄土をねがひつつ 他力の信をえぬひとは 仏智不思議をうたがひて 辺地・懈慢にとまるなり」(浄土和讃)等、たくさんありますよ。
蓮如上人も「雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり」(正信偈大意)と断言されています。化土往生は、真宗の常識です。


問い

理屈の上では化土往生はできることになっていますが、現実的には誰も化土往生できないのではないですか。

答え

善知識方が、「化土往生できる」と仰っているのに、根拠もなく自己の計らいを入れているのであれば、最早真宗ではありません。
親鸞聖人は「報の浄土の往生は おほからずとぞあらはせる 化土にうまるる衆生をば すくなからずとをしへたり」(高僧和讃)とまで仰っています。ただし親鸞聖人は、化土往生を願うことを厳しく誡められていますので、自分は化土往生でいいや、と思うのも真宗ではありません。

投稿: 飛雲 | 2021年9月20日 (月) 19時00分

飛雲さんの言われていることを高森会長や渡部講師、兒玉講師は理解できたので、反論できなかった。
生田さんは理解できないので、訳の分からない適当な反論を自信満々にしている。かなり恥ずかしいですよ。

投稿: 元会員 | 2021年9月20日 (月) 21時57分

涅槃経にある土の例えは

一つ目が
十方世界の土ー涅槃を得ない者
爪の上の土ー涅槃を得る者

二つ目が
十方世界の土ー仏教を信じない者
爪の上の土ー仏教を信じる者

ですね。
親鸞会では

教学聖典(2)

問(1)地獄へ堕つる者は多く、人間に生まれる者は極めて少ないことを教えられた経文と根拠を示せ。

答(1)

○地獄に堕ちる者は十方世界の土の如く、
 人間に生れる者は爪の上の土の如し
 (涅槃経)

生田さんは、高森会長の嘘を信じていただけですよ。
学習能力があるなら、高森会長の嘘を真実と思ってコメントするのは、いい加減辞めましょうよ。

投稿: OS | 2021年9月21日 (火) 06時48分

生田英明さま

ブログのコメント欄は体系的な議論に不向きであり、そこで真宗の法義を問答するのは難しいのではないかと思います。従いまして、まずは論点を絞って議論されてはいかがでしょうか。

生田さまはコメント冒頭で三願転入に関する問いかけをされ、飛雲氏からは生田さまの理解を正すために、ある程度体系的に整理されたブログのリンクを示されました。

その後のコメントのやり取りを見る限り、失礼ながら生田さまはリンク先の内容に目を通されていないか、或いは全く理解されていないように思われます。

リンク先を一通りお読みになられたうえで問いかけられてはいかがでしょうか。そうすれば疑義も晴れますでしょう。

投稿: 昭和の時代の会員 | 2021年9月21日 (火) 22時05分

親鸞会に長くいる人は、議論が続かなくなると、同じ回答を繰り返し、相手を土蔵秘類とみなし、中には逆切れする人もいます。
過去の自分を見ているようですが、なんだか痛い感じがしますね。

薄々おかしいことに気づいているのでしょうから、勇気を出していろいろな場所で真宗の法話を聞いてみたらよいとおもいます。
いまではオンラインで公開されている法話もたくさんあります。

学生時代に高森会長が唯一の善知識と思い込み、たくさんの人にもすすめてきたので後ろめたいのかもしれませんが、恥ずかしいことなんてありません。間違ったまま人生を終えるほうがもったいないですよ。後生の一大事ですよね。


確かに、一般論で寺の坊さんには、自分が間違っても頭を絶対に下げない人とか、信心あるといってマウントしてくる人とか、なかには犯罪レベルのことをやるような人もいると聞きます。その点では親鸞会の指摘はあながち間違っていないです。
そもそも親鸞会で培われた人権とか関係にあ宗教に対する従順な態度というのは、よいカモになりやすいのかもしれません。

かといってすべての僧侶の方が間違っているとか、みな悪意があると、断定するのも間違いでしょう。

生田さんが、よきご縁にあわれることを念じております。

投稿: a | 2021年9月21日 (火) 23時49分

生田 様

 「自分の罪悪を痛感しないと弥陀の救いにあうことはできない」

  と思っているからこれまでのような質問になっているように思います。
  そう思われる根拠は生田さん的には何があるのでしょうか?

  もしそれが三願転入の個所であって、親鸞聖人と同じ過程をたどる必要がある
  と思ってみえるのであれば、聖道門の過程からたどる必要があることになりませんか?

投稿: YGM | 2021年9月24日 (金) 09時24分


https://sinrankaix.exblog.jp/

を読みはじめております。お答えが丁寧でないように感じております。
ところどころ憶測で補ってつなげている箇所があるように思います。例示いたします。


問い:信心決定したならば、浄土往生が火に触ったよりも明らかに知らされるのです。
答え:覚如上人が親鸞聖人の御言葉を以下のように伝えて下されています。
「往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。」(執持鈔)
往生ということは、補処の弥勒菩薩でも判らないことで、ましてや凡夫に判る筈がないと仰っています。信心決定は成仏とは違いますよ。

「補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず」
 ⇒「補処の弥勒菩薩でも判らないことで、ましてや凡夫に判る筈がない」

「はからうべきにあらず」が「わからない」という意味であるという推測を入れて結論を導いているように思います。
 はからうべきにあらずが、わからないという意味であることの根拠がありません。

 はからうべきにあらずは、仏智の不思議を凡夫の知恵で推しはかるべきではないという意味であり、
「推しはかるべきではない」=「わからない」ではありません。

 阿弥陀仏に救われた親鸞聖人は、「我が歳きわまりて安養浄土に還帰すというとも」
 と極楽浄土にかえっても、(すぐにもどってくるぞ)と仰っています。

 阿弥陀仏の救いにあずかっていない凡夫の知恵でわからないことでも、はっきり知らされておられます。

投稿: 生田英明 | 2021年9月25日 (土) 19時54分

必ず地獄に堕ちるというのは間違いと判ったのですね。

ではそれについては決着済みとします。

次に「推しはかる」と書かれていますが、「推しはかる」の意味をご存知ですか?

類似の事実を当てはめてみて、見当をつける。推測する。推量する。

推測すべきでない、推量すべきでない

断言もできずハッキリもしないから見当をつけて推測推量するのですが、ここまでは理解できますか?
判っているなら見当をつけることも推測推量する必要もありません。要するに言い換えると「判らない」です。

投稿: 飛雲 | 2021年9月25日 (土) 20時02分

以下が理解できるなら、はっきり知らされていなくても教義として断言されていることの関係がわかります。

問い

親鸞聖人は、「まことに知んぬ、(中略)念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」(教行信証信巻)と仰っていますから、浄土に往生することがハッキリと知らされることは、間違いないです。

答え

親鸞聖人が仰っていることは、信心獲得した人は臨終と同時に仏のさとりを開くと知らされた、ということです。
ところがこれは七高僧方は仰っていないことです。たとえば曇鸞大師は、「仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。」(浄土論註)とあるように、浄土に往生してから、正定聚に入り、そして仏になるということです。他の方も同じです。
また聖覚法印も、「順次生に浄土に生れて、浄土にして菩薩の行を具足して仏に成らんと願ずるなり。この門は末代の機にかなへり。」(唯信鈔)と言われています。
もし信心獲得したら親鸞聖人が仰ったことをハッキリと知らされるとするなら、七高僧方や聖覚法印は、異安心になりますよ。


問い

親鸞聖人が、「まことに知んぬ」と仰っているのを否定するのですか。

答え

親鸞聖人は『教行信証真仏土巻』で、経典と天親菩薩・曇鸞大師・善導大師等の御文にある浄土の記述を紹介された後、初めて御自身のお言葉を述べられています。
「しかれば如来の真説、宗師の釈義、あきらかに知んぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕す。惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに。」
親鸞聖人は、経典と天親菩薩・曇鸞大師・善導大師等の御文を通して浄土を「あきらかに知んぬ」なのです。体験を通してではありません。その証拠が後の文で、煩悩にまみれた衆生が仏性の浄土を見ることはできない、と仰っています。同じことで、「まことに知んぬ」は聖教を通して解釈するとこのように知らされたということであって、体験上知らされたのではないから、七高僧方と知らされた内容が違っていても、信心として異なることにはなりません。


問い

仏性は見えないかもしれませんが、阿弥陀仏の喚び声を聞くのですから、阿弥陀仏が判らない筈がないです。

答え

朝晩のお勤めはしていますか。
『正信偈』に、「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」とありますが、この元は源信僧都の『往生要集』にある御言葉です。
この意味について蓮如上人が解説されています。「真実信心をえたるひとは、身は娑婆にあれどもかの摂取の光明のなかにあり。しかれども、煩悩まなこをさへてをがみたてまつらずといへども、弥陀如来はものうきことなくして、つねにわが身を照らしましますといへるこころなり。」(正信偈大意)。獲信しても、煩悩が邪魔をして阿弥陀仏を見えなくしていると仰っていますよ。


問い

法の深信は「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と深信す」ですから、救われたら往生が判ると仰っているではないですか。

答え

善導大師は法の深信について別の言い方をされています。
「二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。(中略)いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して」(往生礼讃)
念仏称えて往生できると信知(深信)すると仰っています。念仏称えて助かるは間違いだ、と言いきっている高森会長は異安心確定ですね。
「さだめて往生を得」と仰っているのは、未だ遂げていない往生について、その道は「かの願力に乗じて」「名号を称する」ことだけだとハッキリしたことと仰っています。浄土往生が認識できたのではなく、浄土往生への道を信知(深信)するのです。


問い

法の深信に「さだめて往生を得と深信す」とあるのですから、往生がハッキリ判ることになるでしょう。

答え

善導大師は二河白道の譬喩の前に、「この心、深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。ただこれ決定して、一心に捉つて正直に進んで、かの人の語を聞くことを得ざれ。すなはち進退の心ありて怯弱を生じて回顧すれば、道に落ちてすなはち往生の大益を失するなり。」(観無量寿経疏)と仰っています。
周りからの非難攻撃に全く動揺することなく、この道に間違いないと金剛の如き疑いの無い心が、真実の信心だということです。往生への道を深信するとしか仰っていません。


問い

往生がハッキリしてこその、往生への道ではないですか。往生への道がハッキリしたということは、往生がハッキリしたことになるのではないですか。

答え

往生を願うのは、浄土門では大前提です。
二河白道の譬喩で言えば、西の岸に行きたいと願った上で、白道に乗って進むのか乗らないのかの選択です。西の岸から喚ぶ声を聞いて「この人すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづから身心を正当にして、決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず。」(観無量寿経疏)と心が定まります。何に心が定まったのかと言えば、白道を進むことについて「疑怯退心を生ぜず」で、これが無疑の真実信心です。
一方で、西の岸に対する認識は、白道に乗る前も乗った後も何も変わっていません。
つまり、往生を願っている人が、どのようにして往生するのかと心が定まっていないのが信前、18願の念仏1つで往生できる、阿弥陀仏の仰せに信順する、と心が定まったのが信後です。


問い

往生も含めての往生への道ではないですか。往生自体が判らない信心など考えられません。

答え

『歎異抄』で言うなら、「念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらん」が自力の信心、「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。」が他力の信心です。
自力の信心と他力の信心との違いは、「往生のみち」が、「念仏よりほかに」あると思っているか、「ただ念仏して」と心が定まるかの違いです。
往生が判らない判るで、自力と他力の違いを説明された根拠があるなら出してください。


問い

親鸞聖人は、御自身の往生について断言されている御文はいくつもあります。これこそ往生がハッキリする証拠ではありませんか。

答え

親鸞聖人は、他人の往生も断言されています。七高僧を初め、聖覚法印、隆寛律師、明法房などです。以前にあなたが出した『教行信証信巻』の略した箇所「まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。」は、弥勒菩薩が仏に成るのがいつなのかを断言されています。仏智でなければ判らないことで、『菩薩処胎経』に説かれてあることを親鸞聖人はそのまま断言されただけです。
参考までに、『教行信証』で「まことに知んぬ」と断言された箇所は、ほとんどが聖教の解釈上での話で、理解できたの意味です。もちろん獲信したことで難しい聖教が理解できるようになることはありません。

「これすなはち真実の行を顕す明証なり。まことに知んぬ、選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行なり、知るべしと。」(行巻)
「まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。」(信巻)
「しかれば大聖の真言、宗師の釈義、まことに知んぬ、この心すなはちこれ不可思議不可称不可説一乗大智願海、回向利益他の真実心なり。これを至心と名づく。」(信巻)
「まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。」(信巻)
「まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。」(信巻)
「しかれば大聖の真言、まことに知んぬ、大涅槃を証することは願力の回向によりてなり。」(証巻)
「まことに知んぬ、これいましこの『経』に顕彰隠密の義あることを。」(化土巻)

投稿: 飛雲 | 2021年9月25日 (土) 20時10分

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
--------------------------
高森会長 必堕無間

⇒地獄に堕ちる者は十方世界の土の如し(涅槃経)
 この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして無間地獄に堕在すべきものなり(御文章)

↑ ↑ ↑

これについては勘違いと分かって良かったね。この調子だよ。

投稿: 元会員 | 2021年9月25日 (土) 20時26分


>推測すべきでない、推量すべきでない

と仰った親鸞聖人(覚如上人の引用)ご自身は、他力信心によって、はっきり知らされて
「(自力のこころで)凡夫の知恵で推測すべきでない」と仰ったのではないでしょうか。
「ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし」と仰って、他力になりなさいと言われています。

 自力の信心ではわかりませんよ、と仰っているお言葉ではないでしょうか。
 他力信心によって、親鸞聖人は安養浄土に還帰すると仰っています。

 自力の世界のことを仰っているお言葉を、他力の世界のことと説明するのは、
 説明になっていないと思います。

 親鸞聖人の「安養浄土に還帰す」は都合が悪いからコメントなしですか?

 それとも、わからない信前の人が、わからない信前の人に「わからないのだよ」と言われているのでしょうか。
 それでは阿弥陀仏に救われてもわからない根拠にはなりません。

 丁寧に順に説明いただかないと納得できませんし、話が進みません。

投稿: | 2021年9月25日 (土) 23時18分

あなたの推測推量などどうでも良いです。

> 親鸞聖人の「安養浄土に還帰す」は都合が悪いからコメントなしですか?

その前の涅槃経の土の喩えは、都合が悪いからコメントなしで決着ですね。

安養浄土に還帰の話を問答のところで理解できると思いましたが、あなたには無理だったようですね。
親鸞聖人は経典や七高僧方等の書かれた著書によって明言されていることを多くの例で示して、それと同じだと言っているのです。
弥勒菩薩が五十六億七千万年後に成仏されることを親鸞聖人は明言されていますが、そんなことを知らされることは絶対にありませんが、明言されています。なぜか?経典にそう書かれてあるからです。浄土に還帰することも同じで、経典及び高僧方の著書に書かれてあるからです。
それを問答で示したのですが、その程度のことは理解してもらわないと議論になりませんよ。あなたと同様のことを渡部さんも言ってきましたが、その際に上記の説明をして渡部さんは理解したのでそれ以上は何も言わなくなりました。渡部さんは、私の説明を理解したが、あなたは理解できなかった。
そういうことです。

投稿: 飛雲 | 2021年9月26日 (日) 00時01分

>ところがこれは七高僧方は仰っていないことです。
>たとえば曇鸞大師は、「仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。」(浄土論註)
>とあるように、浄土に往生してから、正定聚に入り、そして仏になるということです。他の方も同じです。
>また聖覚法印も、「順次生に浄土に生れて、浄土にして菩薩の行を具足して仏に成らんと願ずるなり。この門は末代の機にかなへり。」(唯信鈔)
>と言われています。

 「仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。」
  阿弥陀仏のお力で極楽浄土に生まれるのだ。阿弥陀仏のお力で正定聚に入るのだ。と仰っていますよ。

 「順次生に浄土に生れて、浄土にして菩薩の行を具足して仏に成らんと願ずるなり。この門は末代の機にかなへり。」
  後生に極楽浄土に生まれるのだ。菩薩行を具足した(他力信心をえて)仏になるのだ。と仰っていますよ。

  かの清浄の土に往生を得、順次生に浄土に生まれて、というのは都合が悪いから読まないのですか。

投稿: 生田英明 | 2021年9月26日 (日) 00時13分

渡部さんとの法論の内容は以下です。

http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-13f6.html

渡部さんよりも理解が悪いなら国語の講義を続けましょうか?

投稿: 飛雲 | 2021年9月26日 (日) 00時13分

涅槃経の土の喩えは都合が悪いのですね。
嘘を信じて、誤魔化すのに必死なのはわかりますが、あなたは私が言っていることを半分も理解できないようですので、渡部さんと相談してからコメントください。

投稿: 飛雲 | 2021年9月26日 (日) 00時17分

生田さんは、渡部さんよりも優秀だと思っていますか?
そう思われているなら、大変な錯覚ですし、そう思われていないのであれば渡部さんレベルに達してからコメントするか渡部さんレベルの人を連れてきてください。

投稿: 飛雲 | 2021年9月26日 (日) 00時22分


>経典にそう書かれてあるからです。浄土に還帰することも同じで、経典及び高僧方の著書に書かれてあるからです。

 では経典に書かれてあることを言われているだけで、はっきり知らされる根拠にはならないということですね。
 それでは極楽浄土に往生するかどうか、はっきり知らされるわけではないと経典に書かれていなければ、
 「はっきり知らされるかどうかわからない」ということになりませんか。

 阿弥陀仏に救われて得られる三忍のうち、悟忍がありますが、これは仏の知恵を体得できると書かれています。
 阿弥陀仏に救われるのは死んでからではありませんから、平生に救われてはっきりするということです。
 明信仏智と大経にかかれています。この仏智によってあきらかに極楽浄土に往生するとはっきり知らされます。

>その前の涅槃経の土の喩えは、都合が悪いからコメントなしで決着ですね。

 人身を受け、涅槃を得る者は爪の上の土の如しということですね。
 涅槃を得るが抜けているということになりますね。

 五逆罪を犯す者、闡提となる者は十方衆生の土の如しということですね。
 五逆罪を犯し、闡提となる者は地獄ですから、あながち間違いとは言えないのではないでしょうか。

投稿: | 2021年9月26日 (日) 00時40分

>生田さんは、渡部さんよりも優秀だと思っていますか?

 思っていませんが、後生は一人一人のしのぎですから、ひとごとではすませられません。
 他人が納得したか、議論する時間に意義を感じられなかったかはわかりませんが、
 他人が納得したからいいという問題でもないと思います。

 優秀でない人の方が簡単に決着がつくから、都合がいいのではないですか。

投稿: 生田英明 | 2021年9月26日 (日) 00時44分

言っていることが無茶苦茶ですが、それを平気で言える程度の能力だと公言しているのですね。

> 優秀でない人の方が簡単に決着がつくから、都合がいいのではないですか。

だったらあなたよりも優秀な人と代われとは言いません。少し考えれば判る理屈も判らない能力なのですね。

涅槃経の土の喩えもどんな解釈でもokという態度と判りました。

私はあなたの国語の教師ではありませんので、細かなことまで教えてあげるつもりはありません。以上で終わりです。

投稿: 飛雲 | 2021年9月26日 (日) 05時00分

三忍は現生十種の益と同じと言っても良いでしょう。
最後の

十には正定聚に入る益なり。

は飛雲さんが言われる通り七高僧が仰っていない親鸞聖人独自の味わいです。悟忍は仏智を現生に得るのではないと高森会長でさえ認めているのに、生田さんは信心を獲たら仏智を獲る(=仏に成る)と壮大な勘違いをしているようです。
明信仏智とは不了仏智の対義語で、他力信心と自力信心(罪福の因果を信じる心)の違いです。
明信仏智とは罪福の因果と全く違うのが阿弥陀仏の本願と信じることです。因果の道理云々と言っている時点で、生田さんは不了仏智を勧める輩と分かります。

生田さんは高森会長の嘘を正当化することに必死ですが、恥を晒すだけですので、やめておきましょうよ。
信心決定しなかったら必ず無間地獄だなんて、どこに書かれてあるのですか?五逆謗法闡提は無間地獄でも、それ以外の人は無間地獄に堕ちないので、生田さんの理屈は完全に破綻しています。
これだけでなく生田さんの言っていることは全て破綻してます。
親鸞会に入ると思考がここまで破壊される例です。親鸞会に入らなくてもこの程度だったのかもしれませんけど。

親鸞会と共に沈んでいくのですね、哀れ哀れ

投稿: SS | 2021年9月26日 (日) 06時15分

生田さんは、渡部さんよりも優秀ではんしと思っているとのことですが、それは誰も疑わないでしょう。少し劣るという差でもありません。圧倒的な差があるのが事実でしょう。

渡部さんでさえも飛雲さんに反論できなかったのに、渡部さんより圧倒的に劣る生田さんが反論しているのはどういう状況か皆さんお分かりですよ。
生田さんは飛雲さんと議論できるレベルにないのです。
生田さんと同レベルのルパンさんとおままごとで遊ぶのが相応しいかと思います。

投稿: 元会員 | 2021年9月26日 (日) 08時35分

生田さんレベルの人が、未だに高森会長を信じられるのでしょう。
渡部・兒玉さんら賢い面々は、保身のために嘘を突き通して、飛雲さんに追及されると後ろめたさから逃亡を図るのかな?
生田さんは、親鸞会で痛い目にあっても気が付かないタイプでしょう。

投稿: KO | 2021年9月26日 (日) 12時00分

生田さんの推測推量にはワロタ
某所を荒らしまわっているルパンさんとは気が合うと思いますよ。似たもの同士

投稿: うけち | 2021年9月26日 (日) 18時35分

生田さま以外の皆様

飛雲氏の言説が生田さまに中々伝わらないことについて、皆様より厳しいお言葉が発せられていますが、穏やかにお願いしたいところ。
渡部、児玉両氏は、まちがいだとわかっていながら、職業として法論していますが、生田さまは真摯に自らの(親鸞会で言う)後生を心配しての問答と理解しております。
生田さまのお悩み、昔の私と重なりますので共感しているところです。

生田さま

生田さまは親鸞学徒を自認されるのであれば、親鸞聖人の言葉をそのまま受け入れることです。そのままとは、自分や親鸞会の解釈は一切交えないことです。親鸞聖人は正しい文法で経行証を説かれていますので、「そのまま」、「断章」せずに理解してください。

生田さまのされている主張はすべて議論済みです。渡部、児玉両氏も反論できずに議論としては終結したものです。なぜ終結したのかわからないのであれば、それは真宗の問答ではなく、国語の問題となります。
国語の問題を正しく理解するには、先入観(=生田さまが現時点で真宗の法義)は捨てることです。捨てないと国語の問題を繰り返すことになります。

投稿: 昭和の時代の会員 | 2021年9月26日 (日) 19時39分

生田さま

 「ハッキリしないのなら安心できないではないか」と悩んでみえるのでしょう。
 たしかに阿弥陀様の姿や浄土の様子がハッキリわかったならばどんなに素晴らしいことかと思いますが、
 そんなことが分かる筈がありません。智慧の無い凡夫が絶対に認識できません。

 弥陀の本願に疑いなくなるとは、それらがハッキリ認識できて疑いが晴れるのではありません。
 いままで本願を疑い、ハッキリしたいと悩み、わかりたいとアレコレ思っていたのが、
 聴聞を重ねるうちにいつのまにやら、すなおに本願が聞けて阿弥陀さまが身近に感じられ、疑えんようになります。


 × 善に励んで、できんのを知らされて、罪悪を痛感して、弥陀に心が向いて、本願を信じられる
 などという作ったような順序で信じた信心は、それこそ生田さまが注意された、人工の他力の信心?です。
 
 他力の信心は、生田さまが望まれる安心やハッキリではない「安心」かもしれませんが、
 念仏を聴聞する毎日のなかでいつか疑心がとれて「安心」となりますから、
 過去にとらわれず、本願寺のいろんな人の法話に触れていいご縁に遇われてください

投稿: YGM | 2021年9月27日 (月) 08時29分

生田さん

親鸞会で教えられた概念を自分の心に当てはめようとしても、他力信心はわかりません。
ほとんどの概念がでたらめです。百歩譲っても高森会長のかなり独自かつ特殊な味わいです。

必堕無間(これは高森会長の特殊な味わいでしょう)、
三願転入(19願が必要な門というのは一念義を否定した邪説です)
縦の線と横の線(横の線は一念義を否定した邪説です)
後生暗い心(華光の本にしか典拠が見つかりません)

これを繰り返し数十年にわたって聞かされ、正説を遮断されていたら、洗脳されてしまうのもやむをえないかとおもいます。

投稿: a | 2021年9月28日 (火) 09時08分

>悟忍は仏智を現生に得るのではない
与韋提等獲三忍(正信偈)と、三忍をえると仰っています。

>明信仏智とは罪福の因果と全く違うのが阿弥陀仏の本願と信じることです。
因果の道理は三世十方を貫く真理ですから仏といえども曲げることはできません。
因果は因縁果を略しておられるので、弘誓の業縁という無量光によって善もほしからず悪もおそれず
の転悪成善のご利益が得られるのです。

投稿: | 2021年9月28日 (火) 23時23分

> 親鸞聖人の「安養浄土に還帰す」は都合が悪いからコメントなしですか?
親鸞聖人ご自身がご自身のことを浄土往生するとはっきり仰っていますので、往生一定とはっきりしています。経典にかかれているから凡夫の智慧で信じて仰っているというのは屁理屈ですね。
渡部講師の刀(反論)を盗んで反論しているのは盗作ですね。

>たとえば曇鸞大師は、「仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。」(浄土論註)
曇鸞大師も仰っていますね。

>聖覚法印も、「順次生に浄土に生れて、浄土にして菩薩の行を具足して仏に成らんと願ずるなり。この門は末代の機にかなへり。」(唯信鈔)
聖覚法印も仰っていますね。

投稿: | 2021年9月28日 (火) 23時32分

以上全て、既に述べた事ばかりですが、全く理解できていないようで、呆れています。

あなたの理屈では私に都合が悪い、あなたよりも遥かに優秀な人物をここに連れてきてください。
私の言っていることが理解できない人と話をするだけ無駄です。

投稿: 飛雲 | 2021年9月29日 (水) 03時22分

因果の道理について
https://sinrankaix.exblog.jp/19806284/

投稿: 飛雲 | 2021年9月29日 (水) 03時47分

>たとえば曇鸞大師は、「仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。」(浄土論註)
曇鸞大師も仰っていますね。
>聖覚法印も、「順次生に浄土に生れて、浄土にして菩薩の行を具足して仏に成らんと願ずるなり。この門は末代の機にかなへり。」(唯信鈔)
聖覚法印も仰っていますね。

ここから分かることは
七高僧ー正定聚は死後に浄土に往ってから入る
親鸞聖人ー正定聚は現生で信心を獲た時に入る

明確に違うんだよ。
もし生田さんの説「信心を獲たら仏智を獲られる」ならば、七高僧と親鸞聖人はどちらかが仏智を獲ておらず信心が違うことになるんだよね。七高僧と親鸞聖人の信心が同じなら、信心を獲ても仏智は獲られないことになる。生田さんの頭では理解できないでしょうが、並みの学力が有れば理解できるよ。

投稿: 元会員 | 2021年9月29日 (水) 07時04分

悟忍は仏智を獲るのでは無いという高森会長の説も否定して、生田さんは超優秀なのでしょうね。きっと親鸞会でも疎まれていると思いますよ。
信心決定しても凡智のままだという親鸞聖人の教えなどクソ喰らえの生田さんは、何教の信者ですか?

投稿: OS | 2021年9月29日 (水) 08時52分

大経の

もし衆生あつて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修し、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じて善本を修習して、その国に生れんと願ぜん。

これが不了仏智
仏智を了ぜずとは結局「しかるになお罪福を信じて」となります。
因果の道理えお信じることが不了仏智つまり自力ってことなのです。
これが親鸞聖人の教えです。
信心を獲る因も縁も阿弥陀仏の因と縁。
衆生の因も縁も全く不要というのが親鸞聖人の教え。
そう親鸞聖人が仰っているのだから、それを否定するなら、創価学会のブログにでも行けば良いのですよ。
ここは親鸞聖人の教えを信奉する者の集まり。
生田さんの推し量る妄想を書く場所ではありません。

投稿: 幾多 | 2021年9月29日 (水) 18時21分

>ここから分かることは
>七高僧ー正定聚は死後に浄土に往ってから入る
>親鸞聖人ー正定聚は現生で信心を獲た時に入る
浄土往生することがはっきり知らされることについては同じではないでしょうか。
経典を凡夫の智慧で理解して仰っているだけというのは詭弁です。

>信心を獲る因も縁も阿弥陀仏の因と縁。
>衆生の因も縁も全く不要というのが親鸞聖人の教え。
では、阿弥陀仏に早く救われる人と遅く救われる人の違いは何でしょうか。

投稿: | 2021年9月29日 (水) 18時49分

根拠もなく詭弁だという優秀なあなたなら、救われる遅速の理由も判るでしょう。

投稿: 飛雲 | 2021年9月29日 (水) 18時53分

超世の悲願ききしより
われらは生死の凡夫かは
有漏の穢身はかわらねど
心は浄土にあそぶなり
(帖外和讃)

投稿: | 2021年9月29日 (水) 19時01分

みなさんは本願寺に利用されているだけではないでしょうか。
さすがに十劫安心ではこころもとないので、
阿弥陀仏の本願が信じられたのを信後というようになりました。
それを弘めて親鸞会を邪義だと言ってくれる人がいて本願寺も有り難いでしょう。

投稿: | 2021年9月29日 (水) 19時13分

負け惜しみとしてもレベルが低いですね。
親鸞会でもまともに相手にしてもらえないから、憂さ晴らしをしているのでしょう。
高森会長、上位の講師部員らと法論しましたが、あなたとでは能力は比較もできないほどの差がありました。
あなたには判らないことです。

投稿: 飛雲 | 2021年9月29日 (水) 19時19分

>みなさんは本願寺に利用されているだけではないでしょうか。
>さすがに十劫安心ではこころもとないので、
>阿弥陀仏の本願が信じられたのを信後というようになりました。
>それを弘めて親鸞会を邪義だと言ってくれる人がいて本願寺も有り難いでしょう>

あなたは南無阿弥陀仏を聞いていませんね。それだけはよくわかります。むなしいですね
カルト組織防衛のための書き込みご苦労様です。

投稿: a | 2021年9月29日 (水) 21時35分

最後まで醜態を晒していました。これが親鸞会のレベル

投稿: OS | 2021年9月29日 (水) 22時21分

三願転入からはじまり、必堕無間、浄土往生がハッキリするなど、論点を変えながら荒らしをしたものの、生田さんの能力が相当に低いことを披露して終わっただけでした。
自分で「推しはかるな」と書きながら「推しはかる」自体にハッキリしない意味があることさえ気が付かないお粗末な頭です。
もう少し国語の能力をつけないと社会に出ても通用しないです。実際に親鸞会の中でも疎外されているみたいですし。

投稿: 元会員 | 2021年9月30日 (木) 06時47分

生田さんは、過去の学生時代のノスタルジーから抜けられないのでしょう。当時も間違いがたくさんありましたが、現在の親鸞会はさらに真宗とは教義内容はかけ離れて行っています。多くの講師部は気づいていますが、自分の生活と保身のためもはや公然と口に出す人はいません。
こんな組織にすがって救いがあると思っているのでしょうか。

多くの親鸞会会員は組織(知識)に依存しています。それは間違いです。名号以外にまかせるべき対象はありません。
それと知識をイコールにし、さらに組織をイコールにさせるのは完全な謗法です。

親鸞会は入り口はそれなりに悪くないのですが、結果生田さんのような長期に渡る依存者を造りだします。
そのように仕向けるのは、自称善知識高森、彼の歴史に自分の名前を残したいという強烈な自己愛と復讐心です。

生田さんは、人生の目的を聞いているのではなく、高森の目的を聞き高森の目的に同意し高森の目的に奉仕しているのです。
幸せになるはずがありません。自分の心を解放してあげてください。

生田さんは自分が被害者であり、加害者でもあることを認めない限り救いはないとおもいます。
しかし、阿弥陀仏は絶対に捨てられることはありません。「そのまま来い、いま助ける」のみ教えですから。

真実と反対のことを言って組織に隷従させ長期に渡り奉仕させ、高森一人のための親鸞会築き、維持させようとするむなしい組織を離れ、一人でサイのように求めることを強くおすすめします。必ず信を頂けるときが至ります。

投稿: a | 2021年9月30日 (木) 12時47分

罪障功徳の体となる 氷と水の如くにて
氷多きに水多し 障り多きに徳多し

煩悩具足が至徳具足になることがわからないようですよ。至徳は名号

都合が悪くなると投稿をブロックして、反論できないようにみせる作戦ですか。
IPアドレス変えてみました。

投稿: | 2021年10月 5日 (火) 02時50分

あなたが言う私にとって都合が悪いのは、
あなたよりも優秀な人と議論することですよね。
そして私はあなたよりも遥かに優秀な人と代われと言いました。

あなたの下らない負け惜しみ、適当に知っている根拠を出すレベルの低さにうんざりしているのです。

上記は何が言いたいの?

としか思いません。
ちなみに、同様の仏語に煩悩即菩提、生死即涅槃がありますが、これについては正信偈にも「不断煩悩得涅槃」「証知生死即涅槃」とあります。この解説を蓮如上人がされています。


「不断煩悩得涅槃」といふは、願力の不思議なるがゆゑに、わが身には煩悩を断ぜざれども、仏のかたよりはつひに涅槃にいたるべき分に定まるものなり。

「惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃」といふは、一念の信おこりぬれば、いかなる惑染の機なりといふとも、不可思議の法なるがゆゑに、生死すなはち涅槃なりといへるこころなり。


罪障=煩悩=生死
功徳=涅槃

それであなたのヘンテコ理論の何の根拠だと言いたいのですか?

更に言えば曇鸞大師の『浄土論註』

一道とは一無礙道なり。無礙とは謂く生死即ち是れ涅槃なりと知るなり。是の如き等の入不二の法門は無礙の相なり

にとあり、それを親鸞聖人は行巻に引かれています。意味は、念仏は涅槃に至るただ一つの道で、罪障、煩悩、生死という迷いの世界が涅槃だという空の思想です。

氷と水の喩えで『浄土論註』に

また氷の上に火を燃くに、火猛ければすなはち氷解く。氷解くればすなはち火滅するがごとし。かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり。

とあります。結論は、念仏を称えることで罪障を滅して往生できるということです。

和讃の氷と水の喩えの直接的な元は『往生要集』の、

三には、念ずべし、「いま、わが惑心に具足せる八万四千の塵労門と、かの弥陀仏の具足したまへる八万四千の波羅蜜門とは、本来空寂にして、一体無礙なり。 貪欲はすなはちこれ道なり。 恚・痴またかくのごとし。 水と氷との、性の異なる処にあらざるがごとし。 ゆゑに経にのたまはく、〈煩悩・菩提は体無二なり。 生死・涅槃は異処にあらず〉と。
われいま、いまだ智火の分あらざるがゆゑに、煩悩の氷を解きて功徳の水となすことあたはず。

です。

あなた程度の国語力では絶対に理解できない内容です。

兎に角、あなたの低レベルで適当なコメントに付き合うつもりはないので、あなたよりも遥かに優秀な人を連れてきたら教えてください。

投稿: 飛雲 | 2021年10月 5日 (火) 04時08分

往生要集の現代語訳

第三には、 次のように念うがよい。 今、 自分の惑いの心に具えている八万四千の煩悩と、 かの阿弥陀仏が具えたもう八万四千のさとりの智慧とは、 本来空寂であり一体で、 何の礙もない。 貪欲はそのまま道であり、 瞋恚・愚痴もまた同様である。 氷と水とは、 その本性が異なったものではないようなものである。 それゆえ経に、
煩悩と菩提とはその本質に二つはなく 生死と涅槃とは異なったものではない 略
と説かれている。 わたしは、 今、 まだ智慧の火を持っていないから、 煩悩の氷を解かして功徳の水と成すことができない。


煩悩(罪障)と涅槃(功徳)とは、本来空であり一体ということです。
生田さんの妄想だと、煩悩(罪障)が涅槃(功徳)に変わったとハッキリすることなのでしょうけど、全く違うのですよ。
これ以上恥をかきたくないなら、コメントやめたら?その前に親鸞会やめたら?

投稿: 元会員 | 2021年10月 5日 (火) 06時59分

俺、コメントしたから凄いでしょ、っていうのが生田さん。
コメントしても完全に外れていては、それは恥にしかならないですが、そういうこと分からないようですね。

投稿: OS | 2021年10月 5日 (火) 09時35分

>煩悩(罪障)と涅槃(功徳)とは、本来空であり一体ということです。

それは承知しております。

「「不断煩悩得涅槃」といふは、願力の不思議なるがゆゑに、わが身には煩悩を断ぜざれども、仏のかたよりはつひに涅槃にいたるべき分に定まるものなり。」

往生一定の身になると仰っています。

功徳(名号)と一体になって、大歓喜とは仰っていても、往生一定がはっきりしないとは仰っていません。

本願に救われたとはっきりするが、「救われた内容(往生一定)は、はっきりしない」とはどういう詭弁でしょうか。

他の人には答えられるが、私には答えられないというのでしょうか。

投稿: | 2021年10月 5日 (火) 13時48分

すでに何度も説明した通りです。
渡部さんはすぐに理解した。
あなたは理解できない。
だから、あなたよりも遥かに優秀な人と代わりなさいとこれも何度も言いました。

これさえ理解できないようなら、今後は全部削除します。

投稿: 飛雲 | 2021年10月 5日 (火) 13時51分

問い

法の深信は「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と深信す」ですから、救われたら往生が判ると仰っているではないですか。

答え

善導大師は法の深信について別の言い方をされています。
「二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。(中略)いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して」(往生礼讃)
念仏称えて往生できると信知(深信)すると仰っています。念仏称えて助かるは間違いだ、と言いきっている高森会長は異安心確定ですね。
「さだめて往生を得」と仰っているのは、未だ遂げていない往生について、その道は「かの願力に乗じて」「名号を称する」ことだけだとハッキリしたことと仰っています。浄土往生が認識できたのではなく、浄土往生への道を信知(深信)するのです。


問い

法の深信に「さだめて往生を得と深信す」とあるのですから、往生がハッキリ判ることになるでしょう。

答え

善導大師は二河白道の譬喩の前に、「この心、深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。ただこれ決定して、一心に捉つて正直に進んで、かの人の語を聞くことを得ざれ。すなはち進退の心ありて怯弱を生じて回顧すれば、道に落ちてすなはち往生の大益を失するなり。」(観無量寿経疏)と仰っています。
周りからの非難攻撃に全く動揺することなく、この道に間違いないと金剛の如き疑いの無い心が、真実の信心だということです。往生への道を深信するとしか仰っていません。


問い

往生がハッキリしてこその、往生への道ではないですか。往生への道がハッキリしたということは、往生がハッキリしたことになるのではないですか。

答え

往生を願うのは、浄土門では大前提です。
二河白道の譬喩で言えば、西の岸に行きたいと願った上で、白道に乗って進むのか乗らないのかの選択です。西の岸から喚ぶ声を聞いて「この人すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづから身心を正当にして、決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず。」(観無量寿経疏)と心が定まります。何に心が定まったのかと言えば、白道を進むことについて「疑怯退心を生ぜず」で、これが無疑の真実信心です。
一方で、西の岸に対する認識は、白道に乗る前も乗った後も何も変わっていません。
つまり、往生を願っている人が、どのようにして往生するのかと心が定まっていないのが信前、18願の念仏1つで往生できる、阿弥陀仏の仰せに信順する、と心が定まったのが信後です。


問い

往生も含めての往生への道ではないですか。往生自体が判らない信心など考えられません。

答え

『歎異抄』で言うなら、「念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらん」が自力の信心、「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。」が他力の信心です。
自力の信心と他力の信心との違いは、「往生のみち」が、「念仏よりほかに」あると思っているか、「ただ念仏して」と心が定まるかの違いです。
往生が判らない判るで、自力と他力の違いを説明された根拠があるなら出してください。

投稿: 飛雲 | 2021年10月 5日 (火) 15時08分

> 本願に救われたとはっきりするが、「救われた内容(往生一定)は、はっきりしない」とはどういう詭弁でしょうか。

本願に救われた=阿弥陀仏に死後のことをおまかせした
救われた内容=浄土が分かる

この日本語の違いがわからないのでしょうね。
どこに往くかはハッキリしないが、どこに往くかも含めて阿弥陀仏に丸投げしたのが他力の信心。
言い方を変えるならば、往生自体はわからないが、往生するには念仏しかない(阿弥陀仏に丸投げするしかない)とハッキリした。

詭弁とか意味知ってますか?

投稿: OS | 2021年10月 5日 (火) 20時53分

負け犬の遠吠えを言う暇があるなら、渡部さん本人でも、渡部さんに準ずる人でも連れてきなさい。
それもできないなら指咥えて黙っていましょうね。

投稿: 飛雲 | 2021年10月 6日 (水) 02時11分

生田さんは、親鸞会でも疎んじられているから、生田さんだけがコメントしているのですよね。ベテラン講師とかに相談すれば良いのに、相談もできないし、たとえ相談しても、飛雲さんとは関わるなと言われるだけだよね。
あれだけ飛雲さんに痛い目に遭っているのだから、飛雲さんを野放しにせざるを得ない。
それが生田さんには理解できないってことね。
渡部さんは、飛雲さんと法論すると言って実際は逃げ回っているだけだし。

泡沫会員の妄想コメントはやめましょう。

投稿: 元会員 | 2021年10月 6日 (水) 07時27分

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