親鸞会の根本聖典『歎異抄をひらく』の邪義8
高森顕徹会長は、二種深信が如何なるものか全く判っていないと思えます。
親鸞会。NET≫ ≫ 『歎異抄』解説書の比較対照【8】『歎異抄』と「二種深信」第8回
には
親鸞聖人の説かれる信心は、我々が「疑うまい」と努める「信心」とは全く違い、”機と法に疑い晴れた心”を弥陀より賜る、超世希有の「二種深信」です。地獄一定と極楽一定が同時にハッキリする、不可称不可説不可思議の「二種深信」一つ解説されたのが、聖人畢生の大著『教行信証』です。
とあり、二種深信を「超世希有」「不可称不可説不可思議」と形容していること自体、完全にずれているでしょう。</p≻「超世希有」「不可称不可説不可思議」は、本願に対して言われるものであって、二種深信に対して言われるものではありません。これは、『教行信証』を一度でも読んだことがあれば判るでしょう。高森会長は『教行信証』を読んだことがないから仕方のないことです。
前回二種深信について以前に少し述べましたが、補足しておきます。
善導大師の仰った機の深信を、詳しく解説されているのが『散善義』の中にある。
わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。
と仰っていますが、これは、出離して聖者となった人もある一方で、出離できずにいるのが凡夫であるということを善導大師が御自身の告白として記されたものです。
たとえば、龍樹菩薩は菩薩の道を行じられ、聖を証された方です。曇鸞大師が龍樹菩薩のことを『讃阿弥陀仏偈』において
伏して承るに尊(龍樹)、歓喜地を悟りて、阿弥陀に帰して安楽に生ぜり。
と称賛されている通りで、それを親鸞聖人も『正信偈』で
歓喜地を証して安楽に生ぜん
では曇鸞大師は聖を証された方かと言えば、そうではありません。
道綽禅師は『安楽集』にて曇鸞大師の御言葉を伝えています。
われすでに凡夫にして、智慧浅短なり。いまだ地位に入らざれば、念力すべからく均しくすべけんや。
とあります。これを親鸞聖人は『高僧和讃』曇鸞讃にて
鸞師こたへてのたまはく
わが身は智慧あさくして
いまだ地位にいらざれば
念力ひとしくおよばれず
曇鸞大師も出離を目指されながら、出離できない凡夫であったことを意味しています。曇鸞大師御自身の告白では、『讃阿弥陀仏碍』に、
われ無始より三界に循りて、虚妄輪のために回転せらる。一念一時に造るところの業、足六道に繋がれ三塗に滞まる。
煩悩によって、迷いの世界から抜け出せないでいるということです。これは曇鸞大師の機の深信に相当する御言葉ですが、「三界」「六道」「三塗」は、地獄一定とは明白に異なります。
つまり、菩薩の道を行じられて出離された龍樹菩薩に対して、菩薩の道を行じられたものの出離できなかったのが曇鸞大師、善導大師であったということです。
以上より、凡夫においては、自力では出離できないことを深く信じたのが機の深信となります。
もちろん、出離された龍樹菩薩のような方には、自力では仏に成れないと深く信じたことを、機の深信とすべきでしょう。
そして、機の深信と法の深信とは同じことを仰ったに過ぎません。
出離できない我が身であるから、それを救って出離させてくださるのは阿弥陀仏の本願以外にはない
これが二種深信です。高森会長が言うような「超世希有」でも「不可称不可説不可思議」でもありません。
ただ、出離できない凡夫にも、曇鸞大師、善導大師のように菩薩の道を行じた上で、聖を証ずることができないと嘆かれた方もいれば、我等のように菩薩の道を行じることすらできない人もいるのです。それどころか、五逆謗法を平気で犯す人もある訳で、凡夫といっても様々であすから、凡夫を一括りにして「地獄一定だ」と決めつけるのは論外であるし、それが機の深信であるというのは、的外れです。事実、『教行信証』には、「地獄一定」を示す記述は見当たりません。
親鸞会の会員が自分で『教行信証』を一度でも読んでみれば機の深信が「地獄一定」とイコールでないことくらい気が付くでしょうが、聖教を読んではいけない、と高森会長から禁止されているので、いつまでも騙され続けるのです。
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