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2021年4月

2021年4月12日 (月)

親鸞会の根本聖典『歎異抄をひらく』の邪義8

高森顕徹会長は、二種深信が如何なるものか全く判っていないと思えます。

親鸞会。NET≫ ≫ 『歎異抄』解説書の比較対照【8】『歎異抄』と「二種深信」第8回

には

親鸞聖人の説かれる信心は、我々が「疑うまい」と努める「信心」とは全く違い、”機と法に疑い晴れた心”を弥陀より賜る、超世希有の「二種深信」です。地獄一定と極楽一定が同時にハッキリする、不可称不可説不可思議の「二種深信」一つ解説されたのが、聖人畢生の大著『教行信証』です。

とあり、二種深信を「超世希有」「不可称不可説不可思議」と形容していること自体、完全にずれているでしょう。</p≻「超世希有」「不可称不可説不可思議」は、本願に対して言われるものであって、二種深信に対して言われるものではありません。これは、『教行信証』を一度でも読んだことがあれば判るでしょう。高森会長は『教行信証』を読んだことがないから仕方のないことです。
前回二種深信について以前に少し述べましたが、補足しておきます。
善導大師の仰った機の深信を、詳しく解説されているのが『散善義』の中にある。

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。

と仰っていますが、これは、出離して聖者となった人もある一方で、出離できずにいるのが凡夫であるということを善導大師が御自身の告白として記されたものです。
たとえば、龍樹菩薩は菩薩の道を行じられ、聖を証された方です。曇鸞大師が龍樹菩薩のことを『讃阿弥陀仏偈』において

伏して承るに尊(龍樹)、歓喜地を悟りて、阿弥陀に帰して安楽に生ぜり。

と称賛されている通りで、それを親鸞聖人も『正信偈』で

歓喜地を証して安楽に生ぜん

では曇鸞大師は聖を証された方かと言えば、そうではありません。
道綽禅師は『安楽集』にて曇鸞大師の御言葉を伝えています。

われすでに凡夫にして、智慧浅短なり。いまだ地位に入らざれば、念力すべからく均しくすべけんや。

とあります。これを親鸞聖人は『高僧和讃』曇鸞讃にて

鸞師こたへてのたまはく
 わが身は智慧あさくして
 いまだ地位にいらざれば
 念力ひとしくおよばれず

曇鸞大師も出離を目指されながら、出離できない凡夫であったことを意味しています。曇鸞大師御自身の告白では、『讃阿弥陀仏碍』に、

われ無始より三界に循りて、虚妄輪のために回転せらる。一念一時に造るところの業、足六道に繋がれ三塗に滞まる。

煩悩によって、迷いの世界から抜け出せないでいるということです。これは曇鸞大師の機の深信に相当する御言葉ですが、「三界」「六道」「三塗」は、地獄一定とは明白に異なります。
つまり、菩薩の道を行じられて出離された龍樹菩薩に対して、菩薩の道を行じられたものの出離できなかったのが曇鸞大師、善導大師であったということです。

以上より、凡夫においては、自力では出離できないことを深く信じたのが機の深信となります。
もちろん、出離された龍樹菩薩のような方には、自力では仏に成れないと深く信じたことを、機の深信とすべきでしょう。

そして、機の深信と法の深信とは同じことを仰ったに過ぎません。
出離できない我が身であるから、それを救って出離させてくださるのは阿弥陀仏の本願以外にはない
これが二種深信です。高森会長が言うような「超世希有」でも「不可称不可説不可思議」でもありません。
ただ、出離できない凡夫にも、曇鸞大師、善導大師のように菩薩の道を行じた上で、聖を証ずることができないと嘆かれた方もいれば、我等のように菩薩の道を行じることすらできない人もいるのです。それどころか、五逆謗法を平気で犯す人もある訳で、凡夫といっても様々であすから、凡夫を一括りにして「地獄一定だ」と決めつけるのは論外であるし、それが機の深信であるというのは、的外れです。事実、『教行信証』には、「地獄一定」を示す記述は見当たりません。

親鸞会の会員が自分で『教行信証』を一度でも読んでみれば機の深信が「地獄一定」とイコールでないことくらい気が付くでしょうが、聖教を読んではいけない、と高森会長から禁止されているので、いつまでも騙され続けるのです。

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2021年4月 1日 (木)

親鸞会の根本聖典『歎異抄をひらく』の邪義7

高森顕徹会長の『歎異抄』の解釈は、間違いばかりなのですが、その中でも特に酷いのが第一条の

しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと

です。この前半については、すでに述べましたが、後半についても、高森会長は大いに誤解しています。『歎異抄をひらく』には以下のようにあります。

弥陀の本願を信じ救われれば、疑いなく助からぬ地獄一定の自己と、疑いなく救われる極楽一定の自己が同時に知らされる、不可思議な、いわゆる二種深信の世界に生かされるから、「悪をもおそるべからず」の告白は当然である。悪を恐れ不安になるのは、地獄一定の悪人と知らされていないからだ。

二種深信を不思議な体験と印象付けたいのでしょうが、根本から間違っています。

『歎異抄』のこの部分は、『口伝鈔』第四条に覚如上人が詳しく記されています。

上人[親鸞]仰せにのたまはく、「某はまつたく善もほしからず、また悪もおそれなし。善のほしからざるゆゑは、弥陀の本願を信受するにまされる善なきがゆゑに。悪のおそれなきといふは、弥陀の本願をさまたぐる悪なきがゆゑに。

(中略)

しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや。さればこそ、悪もおそろしからずともいひ善もほしからずとはいへ」。
現代語訳(梯實圓著『聖典セミナー 口伝鈔』より)
親鸞聖人はこのように仰せられました。 「私は往生のために、善を欲しいとも、また悪を恐ろしいとも全く思わない。善を欲しいと思わないのは、阿弥陀仏の本願を疑いなく受け入れる信心に勝る善はないからである。悪を恐れないのは、阿弥陀仏の本願の救いを妨げるような悪は存在しないからである。

(中略)

それゆえ生れつきの能力でなした善も悪も、報土に往生するための役にも立たず、邪魔にもならないことはいうまでもない。だからこの善人・悪人の上に与えられている阿弥陀仏の智慧の現れである本願の名号をたよりとしなかったならば、どうして凡夫に浄土に生れるに足る徳があろうか。だからこそ[善もほしくない]悪も恐ろしくないといったのである」と仰せられました。

地獄一定と知らされるとか知らされないとか、そんな話ではありません。阿弥陀仏の本願での救いには、善が役立たないのと同様、悪が妨げになることもありません。

それを親鸞聖人が説明なされている訳ですが、高森会長にはそれが理解できないのです。
ついでに言っておくと、二種深信とは

疑いなく助からぬ地獄一定の自己と、疑いなく救われる極楽一定の自己が同時に知らされる、不可思議な、いわゆる二種深信の世界に生かされる

ことではありません。

高森会長のいう二種深信の機の深信に相当する「地獄一定」については、『執持鈔』第二条で覚如上人が記しておられ、その内容もすでに述べている通りです。

『執持鈔』における親鸞聖人の仰せをピックアップしてみる。

 最初に

このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。

とありますが、その後に

明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑに

と「地獄」から「悪道」へと言い換えられています。

更には第三条で

おのれが悪業のちから、三悪・四趣の生をひくよりほか
六趣・四生よりほかはすみかもなくうかむべき期なきがために
すみやかにかの十悪・五逆・四重・謗法の悪因にひかれて三途・八難にこそしづむべけれ

と言い換えられています。

我らが死んだ後どうなるかについて親鸞聖人の御言葉を再度列記すると

 

  1. かならず地獄におつべし
  2. 決定悪道へゆく
  3. 三悪・四趣の生をひく
  4. 六趣・四生よりほかはすみかもなく
  5. 三途・八難にこそしづむべけれ

となっています。

高森会長のいう機の深信「疑いなく助からぬ地獄一定の自己」に当てはまるのは、1だけです。
2~5は「疑いなく助からぬ地獄一定の自己」から外れることになります。
つまり、親鸞聖人の機の深信は、「疑いなく助からぬ地獄一定の自己」とならず、罪悪観です。

二種深信は元は善導大師が仰ったものです。『観無量寿経疏』の機の深信は、

一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。

ですが、『往生礼讃』にも機の深信を記されています。

自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し

善導大師の御言葉の中に「疑いなく助からぬ地獄一定の自己」に相当する語句は見当たりません。

ということは、高森会長のいう不思議な二種深信は、高森会長個人の体験談なのか、伊藤康善師・大沼法竜師のパクリかのどちらかになります。

いずれにしても確実なのは、善導大師、親鸞聖人、覚如上人は、高森会長の言う不思議な体験をなされていないと言うことです。  

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