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2021年3月 5日 (金)

親鸞会の根本聖典『歎異抄をひらく』の邪義3

『歎異抄』第一条

弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。

この「ただ信心」については、「ただ念仏して」と同じことであり、弥陀の本願まことをそのまま受け入れていくことである、と前々回のエントリーで説明しました。

ところが高森顕徹会長は、この「信心」を何か特別な能力が備わったことかのように言っています。
『歎異抄をひらく』には、

一般には、金が儲かる、病気が治る、息災延命、家内安全などのゴリヤクを、仏や神に祈念することを「信心」と言われている。
また、神仏を深く信じて「疑わないこと」と考えている人がほとんどだ。
しかし、よく考えると、疑う余地のまったくないことなら信ずることは不要になる。「夫は男だと信じている」と言う妻はないだろう。疑いようがないからである。
ひどい火傷をした人は、「火は熱いものだと信じている」とは言わない。熱かった体験をしたからだ。
疑いようのない明らかなことは「知っている」とは言うが、「信じている」とは言わない。「信じる」のは「疑いの心」があるときである。
難関の受験生は、試験は水もの、発表までハッキリしないから、「合格を信じている」という。「合格を知っている」とは言わない。”ひょっとしたら失敗するかも”の、疑心があるからであろう。
世間でいう信心も同様だ。ハッキリしない疑いの心を抑えつけ、信じ込もうとする信心である。だが親鸞聖人が肝要と言われる「信心」は、根本的に異質のものだ。どこが、どう違うのか。喩えなどで詳述しよう。
乱気流に突っ込んで激しく機体が振動し、しばしば機長のアナウンスが流れる。「大丈夫です。ご安心下さい」。それでも起きる不安や疑心は、無事着陸したときに消滅する。
「助ける」という約束に対する疑いは、「助かった時」に破れる。「与える」という約束の疑いは、「受け取った時」に無くなるように、”摂取不捨の利益(絶対の幸福)を与える”という弥陀の約束(本願)に対する疑いは、「摂取不捨の利益」を私が受け取ったときに晴れるのである。
この「弥陀の本願(誓願)に露チリほどの疑いもなくなった心」を、「信心」とか、「信楽」と聖人はおっしゃるのだ。

まず、この『歎異抄』の御文は法然上人の常々の仰せの言い換えであることを高森会長は知りません。
たとえば『和語灯録』に

心の善悪をもかへり見づ、つみの軽重をも沙汰せず、ただ口に南無阿弥陀仏と申せば、仏のちかひによりて、かならず往生するぞと、决定の心ををこすべき也。その決定の心によりて、往生の業はさだまる也。

とあります。

『歎異抄』の「ただ信心を要とす」が「ただ口に南無阿弥陀仏と申せば、仏のちかひによりて、かならず往生するぞと、决定の心ををこすべき也。その決定の心によりて、往生の業はさだまる也。」にあたります。

もちろん、「信心」「摂取不捨の利益」は「かならず往生するぞと、决定の心」のことです。
往生を誓われた本願に対して、いまだ往生する前に決定の心が起るのが信心です。高森会長のたとえはその点においてもおかしいといえます。

機長のアナウンスに対する不安や疑心が消滅するのは着陸するときですから、弥陀の本願に対する疑心が消滅するのは往生するときでなければなりません。着陸する前に、機長のアナウンスをそのまま受け入れたのが、信心にあたるのです。着陸する前の時点で着陸できるかどうかは、乗客には判りません。まして往生が凡夫に判ることなどあり得ないと『執持鈔』を出して説明した通りです。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

もちろんこれは覚如上人の独創ではありません。親鸞聖人も『御消息』で

如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。(中略)このこころのほかには往生に要るべきこと候はずとこころえて、まかりすぎ候へば、人の仰せごとにはいらぬものにて候ふなり。

と仰っています。

ところが高森会長は「かならず往生するぞと、决定の心」の信心を中心にしてすべてを理解しようとするからおかしな話になるのです。中心は往生であり、往生が定まったことを信心と言われているのです。往生を基にせず、信心でのみ話をするから、信心を超能力でも備わったかのような説明になるわけです。

高森会長は、念仏と信心との関係が理解できていないので、善導大師の『観無量寿経疏』の

一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。

で説明します。
この「一心にもつぱら念じて」が信心であり、これを親鸞聖人は『一念多念証文』で

「一心専念」 といふは、 「一心」 は金剛の信心なり。 「専念」 は一向専修。 一向は、 余の善にうつらず、余の仏を念ぜず。専修は、本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。 修は、 こころの定まらぬをつくろひなほし、 おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり。もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。

と教えられています。「余善・他仏」に心をうすさず、「ただ念仏」となったのが、「ただ信心」なのです。
したがって「余善・他仏」に心をうつす念仏は、「ただ念仏」でもなく「ただ信心」でもありません。
弥陀の本願をはからわず、往生をまかせて称える念仏がそのまま信心になるのです。

これが高森会長をはじめ、親鸞会の面々では全く理解できないところです。

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コメント

過去の話を(信心の話を)あと二回解説されるようです。

どこまですっきりするか今から楽しみです。

でもここでのお話のようになるのか、ここでの解説ははっきりしてますから、心に落ちます(自分には)。

分かり易いです。なんまんだぶ なんまんだぶ

投稿: 信心はなかなか難しいと思っている者 | 2021年3月 6日 (土) 09時24分

申し訳ありませんが、あえて気分の悪くなるような話をします。
「機長のアナウンスに対する不安や疑心が消滅するのは着陸するときですから、弥陀の本願に対する疑心が消滅するのは往生するときでなければなりません。」についてです。例えるのはよくありませんが、分かり易く言えば仏様は、未来を知ることのできる超能力者ともいえます。機内に未来などを知ることのできる本物の超能力者が同席していて無知な乗客に「必ず着陸できる」という知恵を与えれば、着陸する前から安心できるように、阿弥陀仏が本願に対する智慧を浄土を願う衆生に与えれば、まだ往生していなくとも往生したときと同じような認識が出来て喜べるように思います。(阿弥陀仏は、真実の信心を獲た衆生が往生したことをすでに確認しておられる。)「阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなり」

投稿: ショウ | 2021年3月 6日 (土) 15時00分

信心はなかなか難しいと思っている者 様

ご期待に応えられるように、頑張ります。

投稿: 飛雲 | 2021年3月 6日 (土) 17時49分

ショウ 様

>阿弥陀仏が本願に対する智慧を浄土を願う衆生に与えれば

残念ながら智慧は凡智のままです。

投稿: 飛雲 | 2021年3月 6日 (土) 17時51分

説明不足で、申し訳ありません。
凡夫は凡智ですが、阿弥陀仏の智慧により「必ず往生できる」ことが、信知させられるということです。信知したあとも、凡智のままです。ただし、弥勒菩薩が得ていない往生に対する智慧だけはあります。十八願成就文には、「即ち往生を得」と教えられています。

投稿: ショウ | 2021年3月 8日 (月) 01時50分

> 弥勒菩薩が得ていない往生に対する智慧だけはあります。

ありません。『執持鈔』が理解できていないのだと思います。高森会長の珍説を基に聖教を読むから、文字が読めないのでしょう。

一度以下を読んでみてください。
https://www.google.com/amp/s/sinrankaix.exblog.jp/amp/21146082/

なお、本願成就文の「即ち往生を得」は往生が定まったことであり、智慧をいただいて判ることとは全く関係ありません。往生が定まっても判りませんと説明されているのが『執持鈔』です。

もう一つ信知についてですが、『教行信証』には信知と書かれてある箇所はいつくもあります。
例えば

大利といふは小利に対せるの言なり。無上といふは有上に対せるの言なり。信に知んぬ、大利無上は一乗真実の益なり。小利有上はすなはちこれ八万四千の仮門なり。

ですが、これは学問的に理解したという意味です。
他には

信に知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。

も学問的な話です。庄松が学問的な内容が判るようになったとでも思われるのですか?

高森会長の珍説を基にするのではなく、まずは文字を読んでください。

投稿: 飛雲 | 2021年3月 8日 (月) 06時20分

お答えいただき有難うございます。
教行信証行巻に
「深心はすなはちこれ真実の信心なり。『自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でず』と信知す。」
このように教えられています。ここでも「信知す」といわれていますが、『自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でず』は、機の深心ですが、これは学問的に理解したという意味ではないと思います。「仏智により信知した」ということです。庄松は、二種深心を獲ていたと考えます。庄松は、学問的な表現はできないが、知っていたということです。『自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でず』の機の深心は、凡智では理解できません。阿弥陀仏の智慧で知らされることです。弥勒菩薩は、この二種深心が信知できなかったので、今も修行しておられるということです。凡夫が一つの真実(一つの智慧)が獲られるので、親鸞聖人は「信心(しんじん)をうれば 暁(あかつき)になるがごとし」と云われた。

投稿: ショウ | 2021年3月 8日 (月) 21時42分

多分そうくるだろうとうと思っていました。
順番にいきますと『執持鈔』についてはショウさんには都合が悪いお言葉だということがはっきりしました。
親鸞聖人のお言葉として覚如上人が書かれたものですから、親鸞聖人、覚如上人の信心の告白は信用できないというのがショウさんの見解だということです。

次に二種深信の信知ですが、これも基本学問的な内容です。三界や六道そして浄土のことは信後でも皆目判りません。その証拠に、『教行信証』をはじめ著書には親鸞聖人ご自身の体験的告白として三界六道については書かれていません。浄土についても同様です。共に判らないから、経典や菩薩方の論等を通して書かれているだけです。
これは高森会長にしてもそうです。浄土がどういうところか、地獄がどんなところか具体的に自身の言葉で語ったことは一度もないです。庄松でも、浄土の絵や地獄の絵を見てそれを自身の知らされたこととして語ってはいません。
理由は簡単で、浄土も地獄も譬え話で聞いた以上のことは、凡夫には信後でも何一つ判らないからです。
二種深信で信知させられるのは、
善では助からない、念仏だけで助かる
という方法論です。二河白道の譬えを読んだら判るでしょうが、先に言っておきますと高森会長の創作話を基に反論するは止めましょう。

最後に暁についてですが、
夜明けを曙
夜明け前を東雲
夜明け前の更に前が暁です。
漆黒の闇から微かに明るくなったのが暁です。その程度の明るさです。

高森会長の珍説を基にするのではなく、聖教の文字通りの話をしましょう。

投稿: 飛雲 | 2021年3月 9日 (火) 05時15分

To ショウさん

>>弥勒菩薩は、この二種深心が信知できなかったので、今も修行しておられるということです。

 マジですか。

投稿: YGM | 2021年3月 9日 (火) 08時15分

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