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2021年3月10日 (水)

親鸞会の根本聖典『歎異抄をひらく』の邪義4

『歎異抄』第一条

しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと

ここは、親鸞会が最も誤解をしているところと言えます。

『歎異抄をひらく』で

「弥陀の本願に救われるには、念仏以上の善はないのだから、念仏さえ称えていれば、
他の善はしなくてもよい。本願で助からぬ悪はないのだから、どんな悪も恐れることはないのだ」
と得手に聞き、平気で悪を犯す輩が、聖人ご在世からあったとみえて、「放逸無慚なるまじき」と、しばしば忠告されている。

と高森顕徹会長が書いていますが、高森会長が非難している解釈そのものが、阿弥陀仏の本願そのものなのです。
もちろん造悪無碍を主張することは間違いですが、高森会長の非難こそが大きな間違いでなのです。

高森会長の間違いがよく表われているのが以下である。

「他の善も要にあらず」(他の善は必要ない)とは、弥陀の本願を信じ救われた者は、弥陀より賜った念仏で往生決定の大満足を獲ているから、「往生のために善をしようという心」は微塵もない、ということである。
難病が特効薬で完治した人は、他に薬を求めようという心がないのと同じだ。他の薬に用事があるのは、全快していないからであろう。
既に救い摂られた人に、救われるに必要な善などあろうはずがない。
善が欲しいのは、救われていない証である。

ここには書かれていませんが、高森会長の言いたいことを簡潔に言えば、
救われた後には、救われるのに善は必要ないが、救われるまでは善が必要だ。

親鸞会のサイトやブログを読めば、そのことは判ります。
たとえば
親鸞会.NET≫ ≫ 『歎異抄』解説書の比較対照【6】「他の善も要にあらず」の誤解で真宗凋落
には、

「”本願に救われるには、善は一切いらない”と『歎異抄』に書いてあるじゃないか」と、
浄土真宗の者は積極的に善に向かおうとしません。
消極的、退嬰的な者ばかりで、ポジティブな人がいないのです。
善い種をまかなかったら、やってくるのは悪果ばかり。
「親鸞聖人の教えに善の勧めはない」と、とんでもない聞き誤りをしているから、真宗の凋落は目に余る惨状です。

とある通りです。

では『歎異抄』第一条の内容を他の聖教と比較してみると、ここと同様の内容を伝えているのが『口伝鈔』第四条です。

しかるに世の人みなおもへらく、善根を具足せずんば、たとひ念仏すといふとも往生すべからずと。またたとひ念仏すといふとも、悪業深重ならば往生すべからずと。このおもひ、ともにはなはだしかるべからず。

更には、

しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや。
である。

です。高森会長の誤りを正された親鸞聖人の御言葉として、覚如上人が伝えたものです。

本願に救われて往生するのに、念仏だけでなく善根が必要だとか、善根がなく罪悪深重の者は往生できない、という考えは間違いであると断言され、更には、過去世に於いてやってきた善悪は、本願に救われて往生するのに、得にもならなければ損失にもならないのは勿論である、とまで書かれてあるのです。

親鸞聖人の御著書で言えば、『教行信証』行巻に『往生要集』を引用されて

『観経』には「極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得」

とあり、『高僧和讃』にも

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

とあります。「他の方便なし」とは、極重の悪人にとっては、往生するのに善が不要だ、という意味以外に解釈はできません。

では善が説かれたのはなぜか、との疑問が出てくるでしょうからその答えは、極重の悪人でない善人のために説かれた。ただそれだけです。

なお、親鸞聖人が造悪無碍を誡められた御言葉はいくつかありますが、それと往生のための善とを高森会長は混同しているのです。

われ往生すべければとて、為まじきことをもし、思うまじきことをもおもい、言うまじきことをも言いなどすることは、あるべくも候わず (末灯鈔)

「これで自分は、極楽へ往けるようになったのだから」と広言し、勝手気ままに、してはならないことをしたり、思うてはならぬことを思ったり、言ってはならぬことを言ったりするなど、決してあってはならないことだ。

煩悩具足の身なればとて、心にまかせて、身にも為まじきことをも許し、口にも言うまじきことをも許し、意にも思うまじきことをも許して、いかにも心の儘にてあるべしと申しおうて候らんこそ、返す返す不便におぼえ候え。

酔もさめぬ先になお酒を勧め、毒も消えやらぬにいよいよ毒を勧めんがごとし。「薬あり、毒を好め」と候らんことは、あるべくも候わずとこそ覚え候
(末灯鈔)

どうせ煩悩の塊だからと開き直って、思うにまかせて、やってはならぬ振る舞いをし、言ってはならぬことを言い、思ってはならぬことを思っても、これは仕方のないこと、慎む必要はないのだ、と話し合っているようだが、はなはだ情けない限りである。
泥酔者に、なお酒を勧め、毒で苦しんでいる者に「薬がある、どんどん毒を飲め」と言う愚者が、どこにあろうか。

真意の理解される困難さと、聖人の悲憤の涙が伝わってくる。

親鸞聖人が本願の救いとの関係では仰っていないことを、高森会長が本願の救いとの関係で語っているところが完全な誤りです。
本願の救いに善悪は無関係でも、生活上は悪を慎むべきと仰ったことを全く理解できないのです。

蓮如上人もこのことを『御文章』で絶妙な表現で教えておられます。『御文章』三帖目十三通

それ、当流門徒中において、すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こころうべき次第は、まづほかには王法を本とし、(中略)そのほか仁義をもつて本とし、また後生のためには内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして、一念も疑心なく信じまゐらせば、かならず真実の極楽浄土に往生すべし。

ここで仰っていることを簡単に言えば以下になります。

 ・後生のためには、自余の雑行・雑善を捨てよ
 ・信心の有る無しを問わず心得るべきは、法律や倫理を本とすることである

蓮如上人の御言葉、これだけでも十分です。

つまり、結論は高森会長が馬鹿にした解釈そのままということになります。

「弥陀の本願に救われるには、念仏以上の善はないのだから、念仏さえ称えていれば、
他の善はしなくてもよい。本願で助からぬ悪はないのだから、どんな悪も恐れることはないのだ」

 ”本願に救われるには、善は一切いらない”と『歎異抄』に明確に書かれています。

高森会長の適当教義に付き合わされて、金集め人集めをさせられている会員は、哀れ哀れです。

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