親鸞会の根本聖典『歎異抄をひらく』の邪義6
『歎異抄』第二条の
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。
念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。
ここは、他力信心の境地を理解していれば、判るところです。
しかし、高森顕徹会長には、他力信心が理解できていないので、的外れなことを平気で書いています。『歎異抄をひらく』には
「念仏は浄土に生まれる因やら、地獄に堕つる業やら、親鸞も、まるで分かっていなかったのだ」「命がけで来た者に、答えないのは無責任ではないか」と、外道の者はムチを打つ。
それはだが、まったく逆である。
(中略)
余りにも分かりきったことを聞かれると、もどかしい言葉を止めて世間でも、「知らんわい」と答えることがある。私たちにもあるだろう。言うに及ばぬことなのに、それをしつこく聞かれると、「そんなこと知らん」と突き放すことがあるではないか。
「念仏は極楽ゆきの因やら、地獄に堕つる因やら、親鸞さまさえ”知らん”とおっしゃる。我々に分かるはずがない。分からんまんまでよいのだ」
と嘯いているのとは、知らんは知らんでも、”知らん”の意味が、まるっきり反対なのだ。
「念仏のみぞまことにておわします」
有名な『歎異抄』の言葉もある。
「念仏は極楽の因か、地獄の業か」の詮索に、まったく用事のなくなった聖人の、鮮明不動の信念の最も簡明な表明だったと言えよう。
と書いていますが、親鸞聖人の御言葉を、世俗的な思考でしか片付けられない如何にも自力の計らいの解釈です。
『歎異抄』第二条にある親鸞聖人の御言葉は、『執持鈔』第二条にもあります。『執持鈔』第二条は、親鸞聖人が他力信心とはいかなるものかを顕わされたものとして、覚如上人が記されたものです。
往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。しかるにいま聖人の御化導にあづかりて、弥陀の本願をきき摂取不捨のことわりをむねにをさめ、生死のはなれがたきをはなれ、浄土の生れがたきを一定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず。たとひ弥陀の仏智に帰して念仏するが地獄の業たるを、いつはりて往生浄土の業因ぞと聖人授けたまふにすかされまゐらせて、われ地獄におつといふとも、さらにくやしむおもひあるべからず。
そのゆゑは、明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑにとなり。しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。現代語訳(石田瑞磨著『親鸞全集 別巻』より)
浄土に生れるという、これほどの一大事について、愚かなものがさかしらな才覚をめぐらしてはならない、ただ一すじに如来におかませしなければならない。総じて愚かなひとに限らず、次の世に仏となってあらわれることが約束された弥勒菩薩をはじめとして、仏の智慧の不思議になまじいの才覚をしてはならない。まして愚かなひとの浅はかな智慧には、当然許されない。ねんごろに如来の智慧のお誓いにおまかせをしなければならない。これを、仏にすべてを託した、真実の信心をえたひとというのである。
だから自分から、浄土に行くことができそうだとも、また地獄に堕ちるかもしれないとも、決めてはならない。なくなられた上人<黒谷の源空、法然上人のことばである>の仰せられた言葉として、「源空の生れるところへ行こうとお考えになってください」ということをたしかにうけたまわったうえは、たとえ地獄であっても、なくなられた上人のおいでになるところへ行かなければならない、と思うのである。このたび、もし正しい教えの師にお会いしないならば、わたしたち愚かなものはかならず地獄に堕ちるはずである。ところがいま、上人のお導きにあずかって、阿弥陀仏の本願を聞き、救いとってお捨てにならない道理を胸に収め、離れにくい生死の迷いを離れて、生れにくい浄土にかならず生れようと、心に深くたのむのは、けっしてわたしの力によるものではない。たとい、阿弥陀仏の智慧にすべてを託して念仏することが地獄に堕ちる行為でしかないのに、それをいつわって、「浄土に生れるための行為なのだ」、と上人がお教えになることにだまされて、わたしが地獄に堕ちるとしても、けっしてくやしく思うはずはない。
その理由は、智慧の勝れた師にお逢いしないで終ってしまうならば、かならず悪道に行くはずの身だから、というのである。ところが、正しい教えの師にだまされて悪道に行くならば、そのときはひとりで行くはずがない。かならず師と一緒に堕ちて行くだろう。だから、ただ地獄に堕ちるほかない、といっても、なくなった上人のおいでになるところへ参ろうと決心したのであるから、生れるさきの善し悪しはわたしのきめるところではない、というのである。これが自力を捨てて他力にすべてをまかせる姿である。
『執持鈔』第二条には、「存知せざるなり」に相当する御言葉は記されていませんが、他力信心を獲ても凡夫の智慧では何も判らない、と親鸞聖人が仰っていることから、「存知せざるなり」はそのまま、"知らない"、の意味にしかならないのです。
もう少し具体的にいえば、親鸞聖人は、
- 往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし
- われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
- 善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず
と仰っています。
往生とはいかなることか解からない、死んだ後に浄土に往くのか地獄に行くのかも解からない。
つまり、
念仏が浄土に生れる因なのか地獄に行く因なのか、それを知る智慧を持っていない、と親鸞聖人が仰っていることに相違ない。
補処の弥勒菩薩でも解からないことを、凡夫に解かるはずが無い、というのが他力信心の行者の智慧だというのである。
誠に明快な御了解です。
そうなると、「念仏のみぞまことにておわします」は嘘か、と思われがちですが、その真偽はすべて阿弥陀仏にまかせているし、法然上人が「念仏のみぞまことにておわします」と教えて下されたことをそのまま受け止めているに過ぎないということになるのです。
要するに、高森会長が非難する、「念仏は極楽ゆきの因やら、地獄に堕つる因やら、親鸞さまさえ”知らん”とおっしゃる。我々に分かるはずがない。分からんまんまでよいのだ」は正しいことになります。
高森会長は、他力信心、真実信心を獲ることを超能力を得ることと錯覚しているのでしょう。
再度、他力信心について書かれた『執持鈔』第二条について見ていきます。
往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
これは、親鸞聖人の『御消息』にもあります。
また他力と申すことは、義なきを義とすと申すなり。義と申すことは、行者のおのおののはからふことを義とは申すなり。如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。しかれば、如来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人の仰せに候ひき。このこころのほかには往生に要るべきこと候はずとこころえて、まかりすぎ候へば、人の仰せごとにはいらぬものにて候ふなり。
補処の弥勒菩薩でさえ解からない仏智の不思議を、凡夫がはからってはならない、解からないまま往生をさせると誓われた阿弥陀仏の本願にまかせる。これが他力信心だと仰っています。
阿弥陀仏の救いは、仏智の不思議が解からない自己の愚かさに気づくことであるとも言えます。
このことを親鸞聖人は『御消息』で法然上人の仰せを紹介されて
故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、たしかにうけたまはり候ひしうへに、ものもおぼえぬあさましきひとびとのまゐりたるを御覧じては、「往生必定すべし」とて、笑ませたまひしをみまゐらせ候ひき。文沙汰して、さかさかしきひとのまゐりたるをば、「往生はいかがあらんずらん」と、たしかにうけたまはりき。
と仰っています。
法然上人は無知な人が参った時、「往生必定すべし」と微笑まれる一方で、理屈っぽく、賢こい振る舞いをする人が参った時には、「往生はいかがあらんずらん」と仰ったと、親鸞聖人は書き残されています。文章の裏を読んだり、教えられたことを、ああでもない、こうでもない、とはからう人は、往生は難しいが、教えをそのまま仰いでいく、言葉通りに受け止めていく人は、往生は必定なのです。
また、親鸞聖人は善導大師の解釈である深信をもって、他力信心と仰せられています。
『観無量寿経疏』に七深信を顕わされ、その第六深信には
仏はこれ満足大悲の人なるがゆゑに、実語なるがゆゑに。仏を除きて以還は、智行いまだ満たず。それ学地にありて、正習の二障ありていまだ除こらざるによつて、果願いまだ円かならず。これらの凡聖は、たとひ諸仏の教意を測量すれども、いまだ決了することあたはず。
とあります。仏は完全なる智慧を得られた方であるが、菩薩より下は、仏の智慧が解からない、とされています。これを深信することが他力信心になるのです。
善導大師の元を辿れば、『大無量寿経』往観偈に
如来の智慧海は、深広にして涯底なし。
二乗の測るところにあらず。ただ仏のみ独りあきらかに了りたまへり。
と釈尊は説かれています。
いずれの聖教によっても、阿弥陀仏の浄土、そして浄土に往生すること、更には浄土往生の因については、仏のみ独りあきらかなのであって、菩薩、ましてや凡夫に解かろうはずがないのです。
つまり、
善導大師、法然上人、親鸞聖人、覚如上人は一貫して、無知・愚者の往生を教えて下されたのです。ところが高森会長は、他力信心を獲ると多くの智慧が授かり、判らなかったことが判るようになると主張していますが、まさに「さかさかしきひと」と言わざるを得ないのです。
このように見てくれば、高森会長の主張する信心と、法然上人、親鸞聖人、覚如上人が説明なされた他力信心とは、明らかに異なっているのです。
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