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2021年3月

2021年3月24日 (水)

親鸞会の根本聖典『歎異抄をひらく』の邪義6

『歎異抄』第二条の

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。
念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。 

 ここは、他力信心の境地を理解していれば、判るところです。

 しかし、高森顕徹会長には、他力信心が理解できていないので、的外れなことを平気で書いています。『歎異抄をひらく』には

「念仏は浄土に生まれる因やら、地獄に堕つる業やら、親鸞も、まるで分かっていなかったのだ」「命がけで来た者に、答えないのは無責任ではないか」と、外道の者はムチを打つ。
それはだが、まったく逆である。
(中略)
余りにも分かりきったことを聞かれると、もどかしい言葉を止めて世間でも、「知らんわい」と答えることがある。私たちにもあるだろう。言うに及ばぬことなのに、それをしつこく聞かれると、「そんなこと知らん」と突き放すことがあるではないか。
「念仏は極楽ゆきの因やら、地獄に堕つる因やら、親鸞さまさえ”知らん”とおっしゃる。我々に分かるはずがない。分からんまんまでよいのだ」
と嘯いているのとは、知らんは知らんでも、”知らん”の意味が、まるっきり反対なのだ。
「念仏のみぞまことにておわします」
有名な『歎異抄』の言葉もある。
「念仏は極楽の因か、地獄の業か」の詮索に、まったく用事のなくなった聖人の、鮮明不動の信念の最も簡明な表明だったと言えよう。

 と書いていますが、親鸞聖人の御言葉を、世俗的な思考でしか片付けられない如何にも自力の計らいの解釈です。

 『歎異抄』第二条にある親鸞聖人の御言葉は、『執持鈔』第二条にもあります。『執持鈔』第二条は、親鸞聖人が他力信心とはいかなるものかを顕わされたものとして、覚如上人が記されたものです。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。しかるにいま聖人の御化導にあづかりて、弥陀の本願をきき摂取不捨のことわりをむねにをさめ、生死のはなれがたきをはなれ、浄土の生れがたきを一定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず。たとひ弥陀の仏智に帰して念仏するが地獄の業たるを、いつはりて往生浄土の業因ぞと聖人授けたまふにすかされまゐらせて、われ地獄におつといふとも、さらにくやしむおもひあるべからず。

そのゆゑは、明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑにとなり。しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

現代語訳(石田瑞磨著『親鸞全集 別巻』より)

 浄土に生れるという、これほどの一大事について、愚かなものがさかしらな才覚をめぐらしてはならない、ただ一すじに如来におかませしなければならない。総じて愚かなひとに限らず、次の世に仏となってあらわれることが約束された弥勒菩薩をはじめとして、仏の智慧の不思議になまじいの才覚をしてはならない。まして愚かなひとの浅はかな智慧には、当然許されない。ねんごろに如来の智慧のお誓いにおまかせをしなければならない。これを、仏にすべてを託した、真実の信心をえたひとというのである。

 だから自分から、浄土に行くことができそうだとも、また地獄に堕ちるかもしれないとも、決めてはならない。なくなられた上人<黒谷の源空、法然上人のことばである>の仰せられた言葉として、「源空の生れるところへ行こうとお考えになってください」ということをたしかにうけたまわったうえは、たとえ地獄であっても、なくなられた上人のおいでになるところへ行かなければならない、と思うのである。このたび、もし正しい教えの師にお会いしないならば、わたしたち愚かなものはかならず地獄に堕ちるはずである。ところがいま、上人のお導きにあずかって、阿弥陀仏の本願を聞き、救いとってお捨てにならない道理を胸に収め、離れにくい生死の迷いを離れて、生れにくい浄土にかならず生れようと、心に深くたのむのは、けっしてわたしの力によるものではない。たとい、阿弥陀仏の智慧にすべてを託して念仏することが地獄に堕ちる行為でしかないのに、それをいつわって、「浄土に生れるための行為なのだ」、と上人がお教えになることにだまされて、わたしが地獄に堕ちるとしても、けっしてくやしく思うはずはない。

 その理由は、智慧の勝れた師にお逢いしないで終ってしまうならば、かならず悪道に行くはずの身だから、というのである。ところが、正しい教えの師にだまされて悪道に行くならば、そのときはひとりで行くはずがない。かならず師と一緒に堕ちて行くだろう。だから、ただ地獄に堕ちるほかない、といっても、なくなった上人のおいでになるところへ参ろうと決心したのであるから、生れるさきの善し悪しはわたしのきめるところではない、というのである。これが自力を捨てて他力にすべてをまかせる姿である。

『執持鈔』第二条には、「存知せざるなり」に相当する御言葉は記されていませんが、他力信心を獲ても凡夫の智慧では何も判らない、と親鸞聖人が仰っていることから、「存知せざるなり」はそのまま、"知らない"、の意味にしかならないのです。

もう少し具体的にいえば、親鸞聖人は、

  • 往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし
  • われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
  • 善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず

と仰っています。

往生とはいかなることか解からない、死んだ後に浄土に往くのか地獄に行くのかも解からない。
つまり、
念仏が浄土に生れる因なのか地獄に行く因なのか、それを知る智慧を持っていない、と親鸞聖人が仰っていることに相違ない。
補処の弥勒菩薩でも解からないことを、凡夫に解かるはずが無い、というのが他力信心の行者の智慧だというのである。


誠に明快な御了解です。

そうなると、「念仏のみぞまことにておわします」は嘘か、と思われがちですが、その真偽はすべて阿弥陀仏にまかせているし、法然上人が「念仏のみぞまことにておわします」と教えて下されたことをそのまま受け止めているに過ぎないということになるのです。

要するに、高森会長が非難する、「念仏は極楽ゆきの因やら、地獄に堕つる因やら、親鸞さまさえ”知らん”とおっしゃる。我々に分かるはずがない。分からんまんまでよいのだ」は正しいことになります。

高森会長は、他力信心、真実信心を獲ることを超能力を得ることと錯覚しているのでしょう。

再度、他力信心について書かれた『執持鈔』第二条について見ていきます。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

これは、親鸞聖人の『御消息』にもあります。

また他力と申すことは、義なきを義とすと申すなり。義と申すことは、行者のおのおののはからふことを義とは申すなり。如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。しかれば、如来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人の仰せに候ひき。このこころのほかには往生に要るべきこと候はずとこころえて、まかりすぎ候へば、人の仰せごとにはいらぬものにて候ふなり。

補処の弥勒菩薩でさえ解からない仏智の不思議を、凡夫がはからってはならない、解からないまま往生をさせると誓われた阿弥陀仏の本願にまかせる。これが他力信心だと仰っています。

阿弥陀仏の救いは、仏智の不思議が解からない自己の愚かさに気づくことであるとも言えます。

このことを親鸞聖人は『御消息』で法然上人の仰せを紹介されて

故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、たしかにうけたまはり候ひしうへに、ものもおぼえぬあさましきひとびとのまゐりたるを御覧じては、「往生必定すべし」とて、笑ませたまひしをみまゐらせ候ひき。文沙汰して、さかさかしきひとのまゐりたるをば、「往生はいかがあらんずらん」と、たしかにうけたまはりき。

と仰っています。

法然上人は無知な人が参った時、「往生必定すべし」と微笑まれる一方で、理屈っぽく、賢こい振る舞いをする人が参った時には、「往生はいかがあらんずらん」と仰ったと、親鸞聖人は書き残されています。文章の裏を読んだり、教えられたことを、ああでもない、こうでもない、とはからう人は、往生は難しいが、教えをそのまま仰いでいく、言葉通りに受け止めていく人は、往生は必定なのです。

また、親鸞聖人は善導大師の解釈である深信をもって、他力信心と仰せられています。

『観無量寿経疏』に七深信を顕わされ、その第六深信には

仏はこれ満足大悲の人なるがゆゑに、実語なるがゆゑに。仏を除きて以還は、智行いまだ満たず。それ学地にありて、正習の二障ありていまだ除こらざるによつて、果願いまだ円かならず。これらの凡聖は、たとひ諸仏の教意を測量すれども、いまだ決了することあたはず。

とあります。仏は完全なる智慧を得られた方であるが、菩薩より下は、仏の智慧が解からない、とされています。これを深信することが他力信心になるのです。

善導大師の元を辿れば、『大無量寿経』往観偈に

如来の智慧海は、深広にして涯底なし。
二乗の測るところにあらず。ただ仏のみ独りあきらかに了りたまへり。

と釈尊は説かれています。
いずれの聖教によっても、阿弥陀仏の浄土、そして浄土に往生すること、更には浄土往生の因については、仏のみ独りあきらかなのであって、菩薩、ましてや凡夫に解かろうはずがないのです。

つまり、
善導大師、法然上人、親鸞聖人、覚如上人は一貫して、無知・愚者の往生を教えて下されたのです。ところが高森会長は、他力信心を獲ると多くの智慧が授かり、判らなかったことが判るようになると主張していますが、まさに「さかさかしきひと」と言わざるを得ないのです。

このように見てくれば、高森会長の主張する信心と、法然上人、親鸞聖人、覚如上人が説明なされた他力信心とは、明らかに異なっているのです。

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2021年3月18日 (木)

親鸞会の根本聖典『歎異抄をひらく』の邪義5

『歎異抄』で最も有名な第三条の

善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。

ですが、高森顕徹会長の誤解がこれまたまた酷いです。

そもそも善人と悪人の定義が間違っています。『歎異抄をひらく』では

私たちは常に、常識や法律、倫理・道徳を頭に据えて、「善人」「悪人」を判断する。だが、聖人の「悪人」は、犯罪者や世にいう悪人だけではない。極めて深く重い意味を持ち、人間観を一変させる。

いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし (歎異抄)

どんな善行もできぬ親鸞であるから、所詮、地獄の外に行き場がないのだ。

この告白は、ひとり聖人のみならず、古今東西万人の、偽らざる実相であることを、『教行信証』や『歎異抄』には多く強く繰り返される。

一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し
(教行信証)

すべての人間は、果てしなき昔から今日・今時にいたるまで、邪悪に汚染されて清浄の心はなく、そらごと、たわごとのみで、真実の心は、まったくない。
悠久の先祖より無窮の子孫まで、すべての人は、邪悪に満ちて、そらごとたわごとばかりで、まことの心は微塵もない。しかも、それを他人にも自己にも恥じる心のない無慚無愧の鉄面皮。永久に助かる縁なき者である。

『歎異抄』三章後半も、念を押す。

煩悩具足の我らはいずれの行にても生死を離るることあるべからざるを憐れみたまいて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば…… (歎異抄)

煩悩にまみれ、どのような修行を励んでも、到底、迷い苦しみから離れ切れない我らを不憫に思い、建てられた本願だから、弥陀の本意は悪人を救うて成仏させるためだったのである。
人間はみな煩悩の塊、永遠に助かる縁なき「悪人」と阿弥陀仏は、知り抜かれたからこそ”必ず救う”と誓われたのだ。これぞ、弥陀の本願の真骨頂なのである。
聖人の言われる「悪人」は、このごまかしの利かない阿弥陀仏に、悪人と見抜かれた全人類のことであり、いわば「人間の代名詞」にほかならない。

では阿弥陀仏は、十方衆生(すべての人間)をどう見て取られているのでしょうか。
五劫に思惟され、我々を骨の髄まで徹底調査された弥陀は、すべての人間を”金輪際助かる縁なき極悪人”と見抜かれています。
ですから親鸞聖人は、弥陀の仰せのまま、「十方衆生」を「悪人」と仰っているのです。 聖人の言われる「悪人」とは、全人類のことであり、「人間」の代名詞にほかなりません。
聖人が常識を完全否定され、すべての人間を「悪人」と断定されたのは、弥陀の本願に根拠があったのです。

このように高森会長は
すべての人間を「悪人」と断定
と断定していますが、仏教における善人・悪人が何を指しているのか学んでいないことがここからも判明します。

まず、『歎異抄』第三条と同内容を伝える『口伝鈔』第二十条を見ておきます。

しかれば御釈にも、「一切善悪凡夫得生者」と等のたまへり。これも悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しかれば善人なほもつて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし

善凡夫とは善人のことであり、悪凡夫とは悪人のことです。

善凡夫(善人)が傍機で悪凡夫(悪人)が正機であるが故に、「善人なほもつて往生す、いかにいはんや悪人をや」と明快な説明をなされています。当然、善人が存在し、別に悪人が存在するということです。

次に

いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし

は「どんな善行もできぬ親鸞であるから、所詮、地獄の外に行き場がないのだ」ではなく、「どんな善行も(出離するには)及ばない親鸞であるから…」です。
言葉の定義として「できない」と「及ばない」は異なります。

これに近いことを善導大師は『散善義』で仰っています。

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。

仲間と共に悪を断ち、善を修めて菩薩道を歩んできた。仲間で、命を惜しまずに精進して、出離して聖者となるものは、大地を砕いた砂よりも多くあるのに、われら凡夫は未だ出離することなく流転をしている。」ということです。

善ができない」ではなく、「善をしてきたがそれで出離できるところまでは及ばない」です。出離してきた聖者が数多くある一方で、出離できない凡夫がいて、善人も悪人も共に存在するということです。

一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し

これは、また少し意味が異なっています。「穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」とは煩悩具足のことを言われたものです。

親鸞会でもおなじみの『教行信証』信巻の

一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。

ですが、これは煩悩具足では善を修しても「雑毒の善」にしかならず、「真実の善」はできないという意味です。
真実の善」ができるのは煩悩を滅した仏であり、煩悩を具足したままする「雑毒の善」しかできない人が善人です。「雑毒の善」さえもできない人が悪人となります。

善導大師は悪人の定義を『玄義分』で

仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。

とされたのです。

要するに、弥陀の本願は、出離した聖者や善人を目当てにして本願を建てられたのではなく、煩悩具足で悪しかできない悪人を救わんがために本願を建てられた、ということになります。それを言われたのが以下です。

煩悩具足の我らはいずれの行にても生死を離るることあるべからざるを憐れみたまいて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば…

親鸞会では、高森会長の見解に沿って、すべての教義が成立していますので、高森会長の間違った見解がそのまま会内で修正されることなく語られているという構造です。
悪人は人間の代名詞」というのも同様です。

親鸞会のサイト
親鸞会.NET≫ ≫ 『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点《「悪人」は人間の代名詞》 第21回
にはこのようなことが書かれています。

まず親鸞聖人の「善人」「悪人」の認識を正しく知らねば、三章はもちろん、『歎異抄』をどれだけ熟読しても、論語読みの論語知らずに終わることでしょう。 常識的な見方では、人類は「善人」と「悪人」に二分され、悪人より善人が救われて当然と考えます。ですがそれは、「本願他力の意趣」(本願を建てられた弥陀の御心)に反していると、三章では明言されています。
親鸞聖人が説かれるのは、常に弥陀の御心であって、世人の常識でもなければ、独断でも新説でもありません。
では阿弥陀仏は、十方衆生(すべての人間)をどう見て取られているのでしょうか。
五劫に思惟され、我々を骨の髄まで徹底調査された弥陀は、すべての人間を”金輪際助かる縁なき極悪人”と見抜かれています。
ですから親鸞聖人は、弥陀の仰せのまま、「十方衆生」を「悪人」と仰っているのです。
聖人の言われる「悪人」とは、全人類のことであり、「人間」の代名詞にほかなりません。
聖人が常識を完全否定され、すべての人間を「悪人」と断定されたのは、弥陀の本願に根拠があったのです。

恥ずかしい適当教義です。
親鸞聖人が、すべての人間を「悪人」と断定された箇所はただの1箇所もないし、阿弥陀仏が「すべての人間を”金輪際助かる縁なき極悪人”」と見抜かれてもいません。
それは『教行信証』を読めば明白な事実です。
『正信偈』に

一切善悪の凡夫人

定散と逆悪とを矜哀して

善悪の凡夫人を憐愍せしむ

とあります。善凡夫と悪凡夫、定散の機と逆悪の機、いずれも善人と悪人のことです。

信巻には、

禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。

とあります。高玉・智覚は、共に上品の往生を遂げた、とあり、二人は紛れもない善人と親鸞聖人は認められたのです。

また『往生礼讃』にある

自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。

と機の深信を行巻と信巻に引かれています。善根が薄く少ないのであって、善根が無いのではありません。
悪人の定義は前回述べたように、「仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。」(玄義分)ですので、機の深信を以って悪人ということはできません。阿弥陀仏の本願は、悪人を救うことを目当てとしているのであって、「すべての人間を”金輪際助かる縁なき極悪人”」と見抜かれてはいないのです。

このことを法然上人は『選択本願念仏集』で

下品下生はこれ五逆重罪の人なり。しかるによく逆罪を除滅すること、余行の堪へざるところなり。 ただ念仏の力のみありて、よく重罪を滅するに堪へたり。ゆゑに極悪最下の人のために極善最上の法を説くところなり。

と解説なされ、更には、

念仏三昧は重罪なほ滅す。いかにいはんや軽罪をや。

とも仰っています。
極悪最下の人のために阿弥陀仏は念仏の力で五逆罪を除滅なされるのです。重罪でも除滅できるのであるから、軽罪はなおさら除滅できると教えられています。

これは『歎異抄』の

善人なおもって往生をとぐ、いはんや悪人をや。

と言葉の上では反対ですが、見方を変えただけのことです。

阿弥陀仏の本願念仏は重罪を除滅して悪人を往生させるため、という見方と、そのお力は重罪の悪人に効力があるなら軽罪の悪人や善人にも当然効力がある、という見方です。結局は同じことになります。

いずれにしても、阿弥陀仏の御心からも、親鸞聖人の御著書の中からも、そして善導大師・法然上人の思想からも、

「悪人」とは、全人類のことであり、「人間」の代名詞にほかなりません。

は有り得ないことで、それを未だに言っている恥ずかしい団体が親鸞会です。

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2021年3月10日 (水)

親鸞会の根本聖典『歎異抄をひらく』の邪義4

『歎異抄』第一条

しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと

ここは、親鸞会が最も誤解をしているところと言えます。

『歎異抄をひらく』で

「弥陀の本願に救われるには、念仏以上の善はないのだから、念仏さえ称えていれば、
他の善はしなくてもよい。本願で助からぬ悪はないのだから、どんな悪も恐れることはないのだ」
と得手に聞き、平気で悪を犯す輩が、聖人ご在世からあったとみえて、「放逸無慚なるまじき」と、しばしば忠告されている。

と高森顕徹会長が書いていますが、高森会長が非難している解釈そのものが、阿弥陀仏の本願そのものなのです。
もちろん造悪無碍を主張することは間違いですが、高森会長の非難こそが大きな間違いでなのです。

高森会長の間違いがよく表われているのが以下である。

「他の善も要にあらず」(他の善は必要ない)とは、弥陀の本願を信じ救われた者は、弥陀より賜った念仏で往生決定の大満足を獲ているから、「往生のために善をしようという心」は微塵もない、ということである。
難病が特効薬で完治した人は、他に薬を求めようという心がないのと同じだ。他の薬に用事があるのは、全快していないからであろう。
既に救い摂られた人に、救われるに必要な善などあろうはずがない。
善が欲しいのは、救われていない証である。

ここには書かれていませんが、高森会長の言いたいことを簡潔に言えば、
救われた後には、救われるのに善は必要ないが、救われるまでは善が必要だ。

親鸞会のサイトやブログを読めば、そのことは判ります。
たとえば
親鸞会.NET≫ ≫ 『歎異抄』解説書の比較対照【6】「他の善も要にあらず」の誤解で真宗凋落
には、

「”本願に救われるには、善は一切いらない”と『歎異抄』に書いてあるじゃないか」と、
浄土真宗の者は積極的に善に向かおうとしません。
消極的、退嬰的な者ばかりで、ポジティブな人がいないのです。
善い種をまかなかったら、やってくるのは悪果ばかり。
「親鸞聖人の教えに善の勧めはない」と、とんでもない聞き誤りをしているから、真宗の凋落は目に余る惨状です。

とある通りです。

では『歎異抄』第一条の内容を他の聖教と比較してみると、ここと同様の内容を伝えているのが『口伝鈔』第四条です。

しかるに世の人みなおもへらく、善根を具足せずんば、たとひ念仏すといふとも往生すべからずと。またたとひ念仏すといふとも、悪業深重ならば往生すべからずと。このおもひ、ともにはなはだしかるべからず。

更には、

しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや。
である。

です。高森会長の誤りを正された親鸞聖人の御言葉として、覚如上人が伝えたものです。

本願に救われて往生するのに、念仏だけでなく善根が必要だとか、善根がなく罪悪深重の者は往生できない、という考えは間違いであると断言され、更には、過去世に於いてやってきた善悪は、本願に救われて往生するのに、得にもならなければ損失にもならないのは勿論である、とまで書かれてあるのです。

親鸞聖人の御著書で言えば、『教行信証』行巻に『往生要集』を引用されて

『観経』には「極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得」

とあり、『高僧和讃』にも

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

とあります。「他の方便なし」とは、極重の悪人にとっては、往生するのに善が不要だ、という意味以外に解釈はできません。

では善が説かれたのはなぜか、との疑問が出てくるでしょうからその答えは、極重の悪人でない善人のために説かれた。ただそれだけです。

なお、親鸞聖人が造悪無碍を誡められた御言葉はいくつかありますが、それと往生のための善とを高森会長は混同しているのです。

われ往生すべければとて、為まじきことをもし、思うまじきことをもおもい、言うまじきことをも言いなどすることは、あるべくも候わず (末灯鈔)

「これで自分は、極楽へ往けるようになったのだから」と広言し、勝手気ままに、してはならないことをしたり、思うてはならぬことを思ったり、言ってはならぬことを言ったりするなど、決してあってはならないことだ。

煩悩具足の身なればとて、心にまかせて、身にも為まじきことをも許し、口にも言うまじきことをも許し、意にも思うまじきことをも許して、いかにも心の儘にてあるべしと申しおうて候らんこそ、返す返す不便におぼえ候え。

酔もさめぬ先になお酒を勧め、毒も消えやらぬにいよいよ毒を勧めんがごとし。「薬あり、毒を好め」と候らんことは、あるべくも候わずとこそ覚え候
(末灯鈔)

どうせ煩悩の塊だからと開き直って、思うにまかせて、やってはならぬ振る舞いをし、言ってはならぬことを言い、思ってはならぬことを思っても、これは仕方のないこと、慎む必要はないのだ、と話し合っているようだが、はなはだ情けない限りである。
泥酔者に、なお酒を勧め、毒で苦しんでいる者に「薬がある、どんどん毒を飲め」と言う愚者が、どこにあろうか。

真意の理解される困難さと、聖人の悲憤の涙が伝わってくる。

親鸞聖人が本願の救いとの関係では仰っていないことを、高森会長が本願の救いとの関係で語っているところが完全な誤りです。
本願の救いに善悪は無関係でも、生活上は悪を慎むべきと仰ったことを全く理解できないのです。

蓮如上人もこのことを『御文章』で絶妙な表現で教えておられます。『御文章』三帖目十三通

それ、当流門徒中において、すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こころうべき次第は、まづほかには王法を本とし、(中略)そのほか仁義をもつて本とし、また後生のためには内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして、一念も疑心なく信じまゐらせば、かならず真実の極楽浄土に往生すべし。

ここで仰っていることを簡単に言えば以下になります。

 ・後生のためには、自余の雑行・雑善を捨てよ
 ・信心の有る無しを問わず心得るべきは、法律や倫理を本とすることである

蓮如上人の御言葉、これだけでも十分です。

つまり、結論は高森会長が馬鹿にした解釈そのままということになります。

「弥陀の本願に救われるには、念仏以上の善はないのだから、念仏さえ称えていれば、
他の善はしなくてもよい。本願で助からぬ悪はないのだから、どんな悪も恐れることはないのだ」

 ”本願に救われるには、善は一切いらない”と『歎異抄』に明確に書かれています。

高森会長の適当教義に付き合わされて、金集め人集めをさせられている会員は、哀れ哀れです。

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2021年3月 5日 (金)

親鸞会の根本聖典『歎異抄をひらく』の邪義3

『歎異抄』第一条

弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。

この「ただ信心」については、「ただ念仏して」と同じことであり、弥陀の本願まことをそのまま受け入れていくことである、と前々回のエントリーで説明しました。

ところが高森顕徹会長は、この「信心」を何か特別な能力が備わったことかのように言っています。
『歎異抄をひらく』には、

一般には、金が儲かる、病気が治る、息災延命、家内安全などのゴリヤクを、仏や神に祈念することを「信心」と言われている。
また、神仏を深く信じて「疑わないこと」と考えている人がほとんどだ。
しかし、よく考えると、疑う余地のまったくないことなら信ずることは不要になる。「夫は男だと信じている」と言う妻はないだろう。疑いようがないからである。
ひどい火傷をした人は、「火は熱いものだと信じている」とは言わない。熱かった体験をしたからだ。
疑いようのない明らかなことは「知っている」とは言うが、「信じている」とは言わない。「信じる」のは「疑いの心」があるときである。
難関の受験生は、試験は水もの、発表までハッキリしないから、「合格を信じている」という。「合格を知っている」とは言わない。”ひょっとしたら失敗するかも”の、疑心があるからであろう。
世間でいう信心も同様だ。ハッキリしない疑いの心を抑えつけ、信じ込もうとする信心である。だが親鸞聖人が肝要と言われる「信心」は、根本的に異質のものだ。どこが、どう違うのか。喩えなどで詳述しよう。
乱気流に突っ込んで激しく機体が振動し、しばしば機長のアナウンスが流れる。「大丈夫です。ご安心下さい」。それでも起きる不安や疑心は、無事着陸したときに消滅する。
「助ける」という約束に対する疑いは、「助かった時」に破れる。「与える」という約束の疑いは、「受け取った時」に無くなるように、”摂取不捨の利益(絶対の幸福)を与える”という弥陀の約束(本願)に対する疑いは、「摂取不捨の利益」を私が受け取ったときに晴れるのである。
この「弥陀の本願(誓願)に露チリほどの疑いもなくなった心」を、「信心」とか、「信楽」と聖人はおっしゃるのだ。

まず、この『歎異抄』の御文は法然上人の常々の仰せの言い換えであることを高森会長は知りません。
たとえば『和語灯録』に

心の善悪をもかへり見づ、つみの軽重をも沙汰せず、ただ口に南無阿弥陀仏と申せば、仏のちかひによりて、かならず往生するぞと、决定の心ををこすべき也。その決定の心によりて、往生の業はさだまる也。

とあります。

『歎異抄』の「ただ信心を要とす」が「ただ口に南無阿弥陀仏と申せば、仏のちかひによりて、かならず往生するぞと、决定の心ををこすべき也。その決定の心によりて、往生の業はさだまる也。」にあたります。

もちろん、「信心」「摂取不捨の利益」は「かならず往生するぞと、决定の心」のことです。
往生を誓われた本願に対して、いまだ往生する前に決定の心が起るのが信心です。高森会長のたとえはその点においてもおかしいといえます。

機長のアナウンスに対する不安や疑心が消滅するのは着陸するときですから、弥陀の本願に対する疑心が消滅するのは往生するときでなければなりません。着陸する前に、機長のアナウンスをそのまま受け入れたのが、信心にあたるのです。着陸する前の時点で着陸できるかどうかは、乗客には判りません。まして往生が凡夫に判ることなどあり得ないと『執持鈔』を出して説明した通りです。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

もちろんこれは覚如上人の独創ではありません。親鸞聖人も『御消息』で

如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。(中略)このこころのほかには往生に要るべきこと候はずとこころえて、まかりすぎ候へば、人の仰せごとにはいらぬものにて候ふなり。

と仰っています。

ところが高森会長は「かならず往生するぞと、决定の心」の信心を中心にしてすべてを理解しようとするからおかしな話になるのです。中心は往生であり、往生が定まったことを信心と言われているのです。往生を基にせず、信心でのみ話をするから、信心を超能力でも備わったかのような説明になるわけです。

高森会長は、念仏と信心との関係が理解できていないので、善導大師の『観無量寿経疏』の

一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。

で説明します。
この「一心にもつぱら念じて」が信心であり、これを親鸞聖人は『一念多念証文』で

「一心専念」 といふは、 「一心」 は金剛の信心なり。 「専念」 は一向専修。 一向は、 余の善にうつらず、余の仏を念ぜず。専修は、本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。 修は、 こころの定まらぬをつくろひなほし、 おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり。もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。

と教えられています。「余善・他仏」に心をうすさず、「ただ念仏」となったのが、「ただ信心」なのです。
したがって「余善・他仏」に心をうつす念仏は、「ただ念仏」でもなく「ただ信心」でもありません。
弥陀の本願をはからわず、往生をまかせて称える念仏がそのまま信心になるのです。

これが高森会長をはじめ、親鸞会の面々では全く理解できないところです。

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