親鸞会の根本聖典『歎異抄をひらく』の邪義1
最近、親鸞会は書籍の新聞広告をやたらと出していることに気が付かれた方も多いと思います。その理由は単純なことで、コロナの不況で、新聞広告費が激安になっているからです。週刊誌の新聞広告を見ればよく判りますが、以前の二倍の面積で、しかも回数も複数回だったりします。親鸞会の集金システムから言えば、おいしい話で、新聞広告の回数を増やせば、会員に広告費名目で金集めが頻繁にできるからです。
その新聞広告で力を入れているのが高森顕徹著『歎異抄をひらく』です。平成の『教行信証』と会員に宣伝していた『なぜ生きる2』は、全く宣伝されていません。『なぜ生きる2』は、高森邪義の最たるものであるから、厚顔無恥の親鸞会でも宣伝するのに憚られるのでしょう。
ということで、親鸞会の自信作『歎異抄をひらく』についての邪義を暫く説明していきたいと思います。
今回は第二条の「ただ念仏して」についてです。
親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。
高森会長は「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」の「ただ」を以下の『歎異抄をひらく』にあるように常々言ってきました。
聖人の教えは一貫して、信心一つの救いだから、「唯信独達の法門」といわれることは、既に詳述した(150ページ)。
『歎異抄』では「ただ信心を要とす」(第一章)と明示し、蓮如上人の証文も多数にのぼる。
ほんの数例、『御文章』から挙げてみよう。|往生浄土の為にはただ他力の信心一つばかりなり(二帖目五通)
|浄土へ往くには、他力の信心一つで、ほかは無用である。|信心一つにて、極楽に往生すべし(二帖目七通)
|信心一つで、極楽に往生するのだ。|他力の信心一つを取るによりて、極楽にやすく往生すべきことの、更に何の疑いもなし(二帖目十四通)
|他力の信心一つ獲得すれば、極楽に往生することに何の疑いもないのである。最も人口に膾炙されるのは、次の『御文章』だろう。
|聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候(五帖目十通)
|親鸞聖人の教えは《信心一つで助かる》という教示である。蓮如上人は断言されている。
では「ただ念仏して」とは、どんなことなのであろうか。
(中略)
これではならぬと真剣に聞こうとすれば、キョロン、トロン、ボーとした心が腹底にドタ牛のように寝そべっていて、ウンともスンとも聞く気がない。「屍の心」と聖人がいわれたのはこのことか。
金輪際、仏法聞くような奴ではありませんと愚痴れば、そんなお前であることは、とうの昔から万々承知だ、だから〝そのまま任せよ〟の弥陀の仰せに、ただただ、びっくり仰天。
どうせ地獄より行き場のない私だ、どうにでもして下さいと、弥陀に一大事の後生を、ぶちまけた〝ただ〟なのだ。
どんな難聴の者にも届く、不可称不可説不可思議の声なき〝ただ〟であり、弥陀と私が同時に生きた「他力信心」をあらわす〝ただ〟である。
これは、念仏と信心との関係がよく判っていないことを物語る解釈です。
「ただ念仏して」の「ただ」は、法然上人の教えられた通り、念仏一行が往生の行だということです。これと他力信心とを混同しているだけのお粗末さです。
法然上人は『選択本願念仏集』の「三選の文」において、
それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、し ばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。正定 の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。
と示されています。親鸞聖人が『教行信証』において唯一法然上人の御言葉を引用された御文であり、『教行信証』はこの「三選の文」の解説書と言われます。
法然上人は、浄土門を選び、正行を選び、正定の業を選びとることで、生死を離れることができる、と仰せられている。念仏一行が往生の行であり、他はそうではないことになります。つまり、法然上人の「名を称すれば、かならず生ずることを得」を、親鸞聖人が「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と言い換えられたに過ぎないのです。
このことから、「ただ念仏を称えて救われる」という阿弥陀仏の本願を高森会長は全く理解していないのでしょう。
なお、これは法然上人が勝手に仰ったことではなく、善導大師の『観無量寿経疏』にある
一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。
に基づいていることは言うまでもありません。
親鸞聖人も『正信偈』において、
極重の悪人はただ仏を称すべし。
と仰っていますが、これは源信僧都の『往生要集』にある
『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。
を言い換えられたものです。その基はもちろん『観無量寿経』下品下生にあります。要約すると
一生涯悪を造り通しの極重の悪人が、臨終になって善知識に遇い、念仏を称えることを勧められて、臨終の苦しさの中で十回の念仏を称えて往生を遂げる
ということです。
これらの御文を高森会長は知らず、念仏とは別に信心があるかのように誤解しているのです。基礎知識として「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」を専修念仏といい、それが他力の念仏です。
源信僧都の御言葉を用いるなら、「他の方便なし」(念仏以外の方便はない)となり「ただ念仏して」の念仏一行に定まったこと、すなわち専修念仏がそのまま信心ということです。
結論は、高森会長の言うような、「びっくり仰天」することが「ただ」なのではなく、念仏一行の「ただ」(唯)なのです。
この程度のことも理解していない高森会長を無二の善知識と未だに崇めて『歎異抄をひらく』を根本聖典にしていること自体が教団として終わっています。
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コメント
17日の先生と学徒との話で仏教・浄土真宗の「信心」が出ましたが、信心は何かの明確な話は無く、
「信心だけでは答えようがない」から名号を上げ、これは薬だから病人がいるわけで、その病気は「無明業障の恐ろしき病」で、それをなをすには南無阿弥陀仏の名号が必要、その名号を飲んで病気のなをった状態が信心だ、と説明された。
自分の正直な気持ちは、「これでは何回聞かせてもらってもすっきりしないなあと思った。
先生もそれを分かっておられるから「何回も話をしなければならない」と言ってくださるが、後続話を知らない。
こんな中途半端では、信心いただくところにはなかなか行けないと思った。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
投稿: 信心は難しいと思っている者 | 2021年2月19日 (金) 08時32分
信心の定義を高森会長はしていないです。言っていることは、阿弥陀仏から頂く、不可称不可説不可思議の信心だという説明になっていない説明です。
曖昧な説明にしかならないのは、信心が根本から判っていないからです。
投稿: 飛雲 | 2021年2月19日 (金) 21時34分