『なぜ生きる2』の出版から7年ー7
12年前のmixiでの三願転入の法論で高森顕徹会長が最後に言ったのが、
未信の人が、18願だけで導かれるということですか?
19願力も、20願力も不要と言われるのでしょうか?
もしそうでしたら、19願力や20願力以外の、
18願力に方便(信前)もある、ということになりますが、
そのようなことを、親鸞聖人はどこにおっしゃっているのでしょう?
でした。方便からしか真実に入れない、という詭弁です。
『なぜ生きる2』5章にもこうあります。
聖人の方便とは、市中で使われる「ウソも方便」などとは全く異なり、真実まで導くに必要不可欠の教えをいう。
親鸞会でしか通用しないであろう詭弁です。仏教各宗では通常他宗を非難する時に、あの経は方便だから真実のこの経を信ずればよい、と言って、自分の宗の正統性を主張し、方便≒不要という意味で使われます。
大沼法竜師が同様の言葉をよく使われていたので、その言葉だけをパクって意図を変えたのが高森会長です。
これに対しての退会者の反論として出したのが『教行信証』行巻にある『往生要集』の
極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得
と『高僧和讃』の
極悪深重の衆生は
他の方便さらになし
ひとへに弥陀を称してぞ
浄土にうまるとのべたまふ
でした。「極重の悪人」には「他の方便なし」と否定のしようのない根拠を突き付けられて、高森会長は絶句し、惨敗が確定しました。
少し解説しておくと、善人には「他の方便」があります。『玄義分』に九品の説明がありますが、上品上生から中品下生までを
上品上生……まさしくこれ仏世を去りたまひて後の大乗極善の上品の凡夫、日数少なしといへども、業をなす時は猛し
上品中生……またこれ仏世を去りたまひて後の大乗の凡夫、行業やや弱くして
上品下生……ただこれ仏世を去りたまひて後の一切の大乗心を発せる衆生、行業強からずして
中品上生……またこれ仏世を去りたまひて後の小乗戒を持てる凡夫なり。
中品中生……ただこれ仏世を去りたまひて後の無善の凡夫、命延ぶること日夜、小縁のその小戒を授くるに逢遇ひて、回して往生を願ず。
中品下生……ただこれ仏法に遇はざる人、孝養を行ずといへども、またいまだ心に出離を希求することあらず。ただこれ臨終に善の勧めて往生せしむるに遇ふ。この人勧めによりて回心してすなはち往生を得。またこの人世にありて自然に孝を行ず、また出離のためのゆゑに孝道を行ぜず。
と解説されています。
簡単にまとめると
上品上生・上品中生・上品下生が、行福のできる凡夫です。
中品上生・中品中生が、戒福のできる凡夫です。
中品下生が、世福のできる凡夫です。
善人に行福・戒福・世福という方便があるのですが、下品上生・下品中生・下品下生という悪人には善という方便がないのです。善という方便なしで、「ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得」が18願だと親鸞聖人は教えられているのです。
通仏教でも、真宗でも通用しない詭弁を使っても、親鸞聖人のお言葉で反論すれば、それで終わりです。
数百年に一人という無二の善知識の正体が、mixiの法論と『なぜ生きる2』を通して白日の下に晒されました。
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コメント
<聖人の方便とは、市中で使われる「ウソも方便」などとは全く異なり、真実まで導くに必要不可欠の教えをいう。>
『なぜ生きる2』にあるそうですが(私は現在は親鸞会の書籍を全く手にしません)、ここにものすごい作為的な言葉の操作を感じます。方便の意味に本来入っていない「必要不可欠」の言葉が入っていることです。親鸞会以外の仏教辞典などで方便に対して「必要不可欠」の言葉で説明しているものはありません。言葉の定義や概念を親鸞会の都合のよいように脚色するのは親鸞会の常套手段ですが、ここでは付け足しの言葉を入れることで本来の言葉の意味を親鸞会に都合の良い意味に変えています。
親鸞会のホームページを見ると方便を解説したところは
<方便という言葉の原語は「ウパーヤ」といい、目的に「近づく」という意味です。また目的を果たすための手段をいわれます。>
と始まっています。この文章はまったく正しいと思いますし、方便の説明はこれで十分だと思います。しかし、色々な説明を書いた最後の結論の部分では
<私たちを真実に導き入れるには、絶対に必要不可欠なのが、仏教の方便といわれるものです。>
と、いつの間にか「絶対に必要不可欠」という言葉が入り込んでいます。説明を通して知らず知らずに思わせる巧妙な操作です。
高い棚の上の物を取るときに背の低い人は踏み台を必要とします。しかし、一部のスポーツ選手のように背の高い人であれば踏み台を必要としません。(バレーボールの2メートルを超えた選手が「自分は自動販売機のてっぺんが見える」と言っているのを聞いてびっくりしたことがあります(笑)。)
上の譬えでいえば方便は踏み台に相当すると思います。踏み台は手を高い棚の上に近づけます。しかし踏み台はある人には必要ですが、ある人には必要ではない。つまりは「必要不可欠」とは決して言えないものです。
親鸞会で教えを受けている人は「方便」と見れば条件反射のように「必要不可欠」の意味を入れ込んでしまいます。すでに溝が掘られていますので方便に関連付けて「三願転入」「廃悪修善」といったことがすっと流し込まれて行きます。長年親鸞会の教義に染まった人と話してもお互いに理解を得られない原因は脚色された基本的な概念の違いにあると思います。
「ウソも方便」といいますが、「親鸞会の方便はウソ」です。
投稿: 園児 | 2021年1月19日 (火) 15時58分
お聖教も簡単に手に入らない、解説も説法もそうそう聴けないネットの無かった昔なら、高森会への反証も難しかったですが、今はお聖教も解説も手軽に読めるのに、まだ善だの三願転入など僻事を言っているのですか
お聖教を読めば理解できることです
古文を読む教育上のハードルがあるかもしれませんが現代文訳を探して読んでください
投稿: | 2021年1月20日 (水) 04時22分
去年からコロナのお陰でネットで多くの説法も聴けるようになりました 是非利用して理解を深めましょう
投稿: | 2021年1月20日 (水) 04時25分
方便は仏様が使うものです。
凡夫が使えば、ただの嘘、あるいは詐欺です。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
投稿: とくよしみね | 2021年1月23日 (土) 12時19分
善導大師が、観無量寿経疏を表されたことを考えると、龍樹菩薩、善導大師のような方であれば
何らかの形で仏、菩薩の智慧をえて方便を使うことは可能だと思います。
まず、「余はすでにこれ生死の凡夫なり。 智慧浅短なり。」と仏の智慧のないことを示されています。その後に
「すなはち〔この観経の〕義門を条録す。 これより以後、毎夜の夢のうちにつねに一の僧ありて、来りて玄義の科文を指授す。 すでに了りて、さらにまた見えず。」、「写さんと欲するものは、もつぱら経法のごとくすべし、知るべし。」と云われています。
投稿: ショウ | 2021年1月29日 (金) 00時20分
ショウ様
仏教用語としての権化方便は阿弥陀様が、善巧方便は仏様または菩薩様が使われるものと理解しています。
それから言えばショウさんがおっしゃるとおりです。
コメントでは現代的な使い方は、仏教上使わないことを強調しました。
よろしくお願いします。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
投稿: とくよしみね | 2021年1月30日 (土) 00時52分