『なぜ生きる2』の出版から7年ー4
mixiでの三願転入の法論で、高森顕徹会長が19願の必要性を訴える根拠として出したのが、『一念多念証文』の
おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。いま一乗と申すは本願なり。
でした。この御文は、実は某除名元講師部員が三願転入の根拠として主張していたのを、別の除名元講師部員がそれを否定するためにブログで紹介して、それを親鸞会がパクったという経緯です。mixiでの法論が始まる数ヶ月前のことです。
そこで自信満々にこの御文を出して三願転入を声高に叫んだのですが、特に拘ったのが「浄土の方便の善」です。浄土に往生するために必要な善と解釈していたのですが、それを退会者は覆しました。
19願の善、定散二善のことを親鸞聖人が他所でどう仰っているかを出したのです。
『教行信証』信巻には、
また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。
とあり、化土巻には
釈家の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。
とあります。
「浄土の方便の善」を「迂回の善」「欣慕浄土の善根」と仰っています。「迂回の善」は文字通り遠回りの善ということで、三願転入が近道という高森会長の主張を完全否定するものです。もう一つの「欣慕浄土の善根」とは、浄土を願い慕う善ということですが、これはどういうことかと言えば、浄土を願っていない人に浄土を願わせるための善という意味です。具体的に言いますと、浄土を願っていない人とは聖道門の人です。聖道門は
この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく
と親鸞聖人が定義されているように、この世で聖者の位に入り出離の果、最終的には成仏の果を得ることを目指すものです。浄土を目指していないのです。浄土を目指していない聖道門の人を浄土門に導くためには方便が必要です。それを「浄土の方便の善」と親鸞聖人が仰ったということなのです。
前々回、前回のエントリーの内容と完全に一致する内容になります。聖道門で修行をしながら、聖者となれない凡夫は、聖道門を断念せざるを得ません。そこに、聖道門と同じ行で、浄土を目指すならば浄土に往生させるという19願を知れば、聖道門を目指しながら途中で断念した人は19願を求めることになるのです。もちろん、阿弥陀仏の本意はあくまで18願の他力念仏ですが、いきなり他力念仏では聖道門とはかけ離れているので、聖道門に近い19願が「方便の善」となると親鸞聖人が仰ったのです。
この「欣慕浄土の善根」は、高森会長にとっても親鸞会の講師部員にとっても、完全に未知の領域であったために、mixiでは呆然とするしかありませんでした。
『なぜ生きる2』においても、「欣慕浄土の善根」については説明も反論もできなかったことから、高森会長の衝撃の大きさが判ります。mixiでの法論では衝撃の連続であったとはいえ、「欣慕浄土の善根」が最も大きな衝撃だったと思われます。
これまでの3回をまとめれば、19願の善は「欣慕浄土の善根」に収まると言っても良いでしょうが、会員には全く理解できない真宗の教義です。
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コメント
K森氏が三願転入を肯定し、K藤氏が否定したわけですな。除名になった講師でも高森亜流になるって、どれだけ闇が深いのかと思います。未だに亜流のままだし…
投稿: KKK | 2020年12月25日 (金) 07時38分
某元講師は最近は唯識に夢中なようで、高森さんの巧者ぶりが際立ちますね。
投稿: | 2020年12月26日 (土) 12時05分
ユーチューブにブラジル布教しておられる久保光雲という女性の方の最新の動画の話で、求道と言ったり、体験談、知識帰命、一念覚知のようで、
また伊藤康善氏を取り上げるどうも華光会の流れの人らしく、非常に親鸞会に似ており、なるほどこれからあの高森親鸞会が生まれたのかと推測出来ます
そのことを指摘するとコメントを消されてしまいました
そんな無茶苦茶なことを言っているわけではないので、誤解があるんなら説明でもするのが布教使の立場だと思いますが
消すというのは疚しい事でもあるからなんじゃないでしょうか?
みなさんはどう考えられますか?私は紛い物だと思うんですが
投稿: | 2020年12月26日 (土) 16時03分
久保光雲師は、紛い物だとはおもいません。
投稿: a | 2020年12月26日 (土) 17時17分
久保光雲師のご信心は本物だと思います。
説きぶりは直観的・感覚的ですね。(つまり、あまり論理的ではない)
直接お会いしたら思いやりもあり、相手の話にも耳を傾けられる方です。
親鸞会がらみのことは対応しきれないと判断されたのかも知れません。
投稿: アン・ディ・フロイデ | 2020年12月26日 (土) 20時57分
そうですか、どうも獲信不思議体験を語っておられていて異色に感じたので、また善智識や宿善などのワードが親鸞会アレルギーを起こしてしまいました
法を説く場合、『めづらしき法をもひろめず』でなくてはいけない、創作をつけてはいけない、そういうことをすると
後でどんどん誤解を生じさせると考えていたものですから
聴き直すとそんなこともあるのかもしれないと思えるようになりました
投稿: | 2020年12月26日 (土) 22時58分
獲信の体験は人それぞれなのでスルーでいいと思います。
また、久保光雲師にしても独特の言葉遣いもあり、聞法者にとって向き不向きが大きく分かれるように感じます。
浄土真宗のお坊さんは在家の凡夫ですし、これまでお坊さん各々が工夫して築き上げてこられたスタイルは変えようがありません。
我々としては最後は親鸞聖人のお言葉に帰るということでよいのではないかと思います。
投稿: アン・ディ・フロイデ | 2020年12月27日 (日) 13時46分
いやそういうのを放って置くのはいかがかと思います
ああいう奇妙な体験談や独特の教え方は華光会の伊藤康善師譲りのようですが
光雲さんのHPhttp://koun18.com/ronbun-gyakushin5-1-4/
を見ると、伊藤康善師は、善智識頼みはダメと言いつつやたらに善智識に偏重していたり、信心を得るとはっきりすると言いつつそれは言ってはいけないや、信心の印可を与えるのは危険と言っておきながらそのようなことをしていたようで、(言葉が出ること自体その気がある)
口で否定しつつ行うという危うい教え方をしていたのが窺われます 信者獲得のためからかもしれません
何人獲信させたというレース紛いのことがあったようです
高森なんかは印可を一度与えられたから勘違いしたんでしょう 伊藤師は、大体これはよいと判断しても本当かどうかわからないので一年ぐらいは放っておく、だそうです えー?
そういう曖昧な無責任な態度で勘違いする者が多く出たため、高森会のような土蔵秘事が生まれさせたんだと思います
公開されている祖父江省念師の説法を聴きましたが、時代が下るにつれて僧侶が泥べたこの手で仏法を触って劣化させていくというようなことを仰ってました
こういうことではないかと案じさせられます
昭和の勧学が仰っていたように現に今教えは滅びつつあるんじゃないでしょうか?
投稿: | 2020年12月27日 (日) 17時50分
横からですが、観ていて、
自分が異安心かもって思ったことがありました。
私は信心はっきりしてませんので。
たまに信心って何?っていう感じです。
教えによると
南無阿弥陀仏を与えられ、
阿弥陀さまの働きで称えているんだなぐらいですね。
南無阿弥陀仏が届いていることしかわかりません。
人によって信心のあらわれ方に違いがあるのでしょうか?
疑問に感じたので、
どなたか教えて頂けたら幸いです。
投稿: | 2020年12月28日 (月) 22時14分
信心が何か分かりませんが、私には阿弥陀様が真実で、私には一切真実が無いとしか言いようがありません。
全ていただきものです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
投稿: とくよしみね | 2020年12月28日 (月) 23時45分
信心を頂いたらハッキリすると親鸞会では言います。ハッキリしないのは信心が無い証拠とまで言います。これは半分正しく半分間違いです。というのは、ハッキリが雷が落ちたようなものとするなら、そのようなことはありません。ではわからないのかと言えば、信心を頂いたことはわかります。なぜなら有った自力の心が無くなったら、わかりますので、それをハッキリすると言うならハッキリしますが、自力が無くなった一念が雷が落ちたようにハッキリすることではありません。
投稿: 飛雲 | 2020年12月29日 (火) 07時03分
とくよしみね様
>私には阿弥陀様が真実で、私には一切真実が無いとしか言いようがありません。
これは事実であると認識したということでしょうか?
私には、無量寿経によると
私が自らの力でこの迷いの世界を抜け出せないため、
阿弥陀仏が私を助けだそうとしているという
あくまで知識的なものがあるだけです。
物語上そうなんだなというくらいです。
実感や事実であるという認識はありません。
投稿: | 2020年12月29日 (火) 09時24分
飛雲さま
仮に自分が救われたという思い込みをした場合、
表面上、自力がなくなるのではないかと思います。
ずっと思い込みに気づかずに死ぬ人も多くいるのではと。
他人にあなたは救われていますと言われても同様かもしれません。
私は、念仏する自分の姿で、阿弥陀仏の本願力が
力となって今、私に働いるという思いがあります。
ですが、ただの思い込みではないのか。
本当にいざ自分が死ぬときに同じ気持ちでいれるかという疑問が
あります。
真宗上では救われるのかもしれない。
でもあくまで「かもしれない」で、「可能性」の話だなと。
真宗以外にも宗教はたくさんあります。
他の宗教が正しくて、真宗が真実ではないということも考えられます。
それぞれの宗教には信者がおり、皆その教えが正しいと思っている。
どうして真宗が正しい教えだといえるのか。
色々と疑惑は尽きません。
誰かが創作した物語にすぎないのではとか。
教えが正しいものであると確かめるすべがないんだなという思いです。
世間でいう死んでみないとわからない。誰も死んだ世界から
蘇ってはいない。だから、わからない。
死ぬときの確たる心の拠り所がないです。
厳密には何一つわからないのですから。
ただ、他の宗教においては、○○したら救いますという条件付きの話がありますが、
真宗には○○がないので、そこは大きく違う点なのかなと思います。
投稿: | 2020年12月29日 (火) 10時01分
『歎異抄』の
念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。
弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。
この通りで、何も判らないということです。「弥陀の本願まことにおはしまさば」が断定か仮定かの議論はありますが、文法的には仮定になりますし、「総じてもつて存知せざるなり」と同義でしょうから、仮定とすべきでしょう。
『執持鈔』にも同様のことが書かれていますので、
信心とは、死後に行く世界が判るのでもなく、阿弥陀仏が判るのでもなく、確たるよりどころができるのでもありません。存在自体が判るのではない阿弥陀仏にすべてをおまかせしたことを信心と定義されています。
条件と言えば、おまかせするかしないかだけです。
投稿: 飛雲 | 2020年12月29日 (火) 10時19分
名無し様
南無阿弥陀仏が届いていることしかわかりません、とのことですが、
阿弥陀さまの救いを、ありがたく思えることはどのくらいありますか?
投稿: YGM | 2020年12月29日 (火) 10時22分
飛雲様
>「弥陀の本願まことにおはしまさば」が断定か仮定かの議論はありますが、文法的には仮定になりますし、
>「総じてもつて存知せざるなり」と同義でしょうから、仮定とすべきでしょう。
納得です。
一般人が浄土に生まれる教えですよと聞いたら、それは事実なのかと、疑う人が大半だと思います。
それは事実ですか?と聞かれることは、もしかしたら当時から多くあったのかもしれません。
仮に私が人から、それは事実ですか?と聞かれたら、
事実だと分かっているなら、事実ですというもっと断定的な言葉で返答したことでしょう。
言われてみれば、納得です。当時の人たちも「わからなかった」ということがわかりました。
最終的には、教えが正しいものであると信じて死んでいくというのが、実際なのかもしれませんね。
信心を得ると何かわかるものでもあるのかなという思いがずっとくすぶっていました。
投稿: | 2020年12月29日 (火) 11時33分
YGM様
>阿弥陀さまの救いを、ありがたく思えることはどのくらいありますか?
無条件の救いであるという点と、
救いの対象に私が含まれている点ではありがたいと思います。
自分を見捨てない存在がいるという話で、ほっこりしているくらいです。
何かがわかるようになったわけではないので、思い込みではという心境があります。
投稿: | 2020年12月29日 (火) 11時47分
書いた以上も以下もありません。
そのままです。
私と阿弥陀様の関係ですから他の人には私の言葉から考えていただくしかありません。
もっと私の信心の詳細がお知りになりたければ私のブログを読んでいただければわかります。
あとは飛雲さんが書かれているとおりです。
本願をそのままその通りと受け止めているだけです。
私がお目当てのご本願てす。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
投稿: とくよしみね | 2020年12月29日 (火) 12時29分
名無し様
一言だけ。
私の心の有り様に拘っていては駄目です。
私には何もありません。
有るのは煩悩だけです。
私を一番騙すのがこの煩悩です。
月指す指でなく月を仰ぐだけです。
どこまで行っても煩悩具足の私です。
味わいはいくらでも言えますが意味がありません。
とりあえず今言えることはそのくらいです。
また、何かありましたらご質問ください。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
投稿: とくよしみね | 2020年12月29日 (火) 13時38分
とくよしみね様
以前からたまにブログを見にいってます。
貴重なブログのひとつだなって思っています。
信後の人たちの心の落ち着きようが
すごいなって思っています。
信後による変化なのか、人生経験によるものなのか、人によっては、別次元の人みたいな遠い存在に感じることがあります。
投稿: | 2020年12月29日 (火) 13時46分
名無し様
しょうもないブログですが読んでくださってありがとうございます。
別に誰かにお金を貰っているわけでもないし、義理など一切無いので思ったことを書きます。
私も最初のうちは自信が持てずに人の信心ばかり気にしていました。
特に嶋田さんが強烈すぎて同じ味わいが出来ないから私の信心は駄目だと思っていました。
指先ばかり気にしていました。
しかし、ある人から見ている方向が違う(指先ばかり見ているのでなく月を見よ)と言われてから私を相手にしなくなりました。
気にはなりますがそういう奴だと客観視出きるようになりました。
そして、親鸞聖人のお言葉が私の心に響きます。
その通りだと読めるのです。
どうせ落ちる身なのです。
どうしようもありません。
泣くしか出来ないのです。
そんな私がお目当てと阿弥陀様がおっしゃっていらっしゃるのです。
有り難いだけです。
あとは地獄に落ちようが極楽に連れて行かれようが死んでみなければ分かりません。
それで良いかと言われてもどうしようもありません。
開き直っているのかと言われればそうかもしれません。
それでも南無阿弥陀仏は私に響いてきます。
そして、必ず救うと南無阿弥陀仏になって届いている事実は名無し様も私も同じなのです。
これは厳粛な事実なのです。
それしかありません。
そんな状態なので参考にはならないと思いますが、とりあえず書こうと思いました。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
投稿: とくよしみね | 2020年12月29日 (火) 19時02分
とくよしみね様
ありがとうございます。
人と違う自分で、違う信心なのではと悩んでました。
また揺れ動く心に、こんな心で信心を得ていると言えるのだろうかと思ってました。
話を聞き、少し安心しました。
ありがとうございます。
投稿: | 2020年12月29日 (火) 21時18分
名無し様
法縁にあえば、頻度は違えど何回かに1回は、とてもありがたく安心できることが
真実信であるなら必ずあると思いますので、それを楽しみに書物を読んだり、法話を聞いたり
してみてください。
投稿: YGM | 2020年12月30日 (水) 15時11分
飛雲さま、YGMさま
返答ありがとうございます。
以前のどうしたら、どうすれば救われるのだろうかという思いは今はありませんが、
思いがなくなった後も、信心について、真宗自体の信憑性についてあれこれ悩むことになるとは思いませんでした。
投稿: | 2020年12月30日 (水) 20時47分
名無し 様
その悩み、苦しいですか?
投稿: YGM | 2021年1月 4日 (月) 16時22分
YGM様
苦しいというよりは、虚しさがあります。
確かに、あなたは救われますよと言われれば、褒められているのと同様な気持ちにはなります。
ですが、実質的に何かがわかったわけではありませんので、言葉遊びのようにも感じられます。
投稿: | 2021年1月 5日 (火) 20時02分
阿弥陀さまのことを認識できる筈はないのですが、
なんとなく阿弥陀さまから助けるぞと直接言われているような感じがしませんか?
あくまで言葉や文面などからそれを受け取るのですが、
ほとけ様がわたしを助けるということを、ほとけ様から直接受け取らないと
本当の安心は得られません。
真宗自体の信憑性に悩んで解決をつけるのは、その時代の考え方、学問の流行などで信憑性は異なってくるので、
解決は図れないと思います。
いろんな法縁に逢うにつれ、次第にモヤモヤしたものがなくなって、
阿弥陀さまの救いを直接ありがたく思えられるようになると思います。
梯実円さんのCD法話など聞いてみてください。きっと言葉遊びになりませんから。
投稿: YGM | 2021年1月 6日 (水) 08時25分