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2020年12月18日 (金)

『なぜ生きる2』の出版から7年ー3

親鸞聖人は、『大無量寿経』の異訳経である『平等覚経』『大阿弥陀経』を引かれて『大無量寿経』をより掘り下げて解釈をされていますが、前回紹介した『大無量寿経』の19願に相当する部分については、異訳経との比較をされていません。そのことを親鸞会は知って、

19願の「十方衆生」は全人類ということだ

とぬか喜びをしたこともありますが、それは親鸞聖人が19願をどう位置付けられているかを知らなかったからです。
mixiでの三願転入の法論の際にも問題になっていたのが、『教行信証』化土巻の

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

でした。高森顕徹会長は前段部分を無視して、後段だけを切り取り、

釈尊は定散二善を顕わされて「群生海」つまり全人類を導き、阿弥陀仏は19願を立てられて「あまねく諸有海」つまり全人類を導かれたのだ

としていました。しかし、ここには前段があるのです。しかも「ここをもつて」で前段と後段が繋がっていますので、前段を無視することはできません。前段は
外道を出て聖道門に入ったといいながら、「」「」なるものは極めて少なく、逆に「」「」なるものは極めて多い
ということですので、聖道門で「」「」なるもののために、釈尊は定散二善を説かれ、阿弥陀仏は19願を立てられた、となります。
もっと簡単に言うならば、

19願は、聖道門を断念したもののための願

ということになります。
これが前回の『平等覚経』『大阿弥陀経』の内容と一致しているのですから、断言まではできませんが、親鸞聖人が『平等覚経』『大阿弥陀経』を基にされてこのように解釈なされたと言えるでしょう。
mixiでの法論の際には、化土巻のお言葉の後に『平等覚経』『大阿弥陀経』を出したのですが、この化土巻のお言葉を巡っても高森会長は何ら反論できませんでした。そして『なぜ生きる2』では10章に

 弥陀は十九願を建てて善を勧め、釈迦が一代、廃悪修善を説かれたのは、知った分かったの観念の遊戯ではなく、実地にやらせるためであったと、聖人は仰せになっている。

以下は、その文証である。

然るに濁世の群萌・穢悪の含識、乃し九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入ると雖も、真なる者は甚だ以て難く、実なる者は甚だ以て希なり、偽なる者は甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋し。
ここを以て、釈迦牟尼仏、福徳蔵(十九願)を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願を発して普く諸有海を化したまう。既にして悲願有す、「修諸功徳の願」と名づく
                              (『教行信証』化身土巻・本)

と書いていますが、もはや口語訳さえも断章取義で誤魔化しているのですから、高森会長の悔しさが感じられる典型的な箇所でもあります。
これで19願が全人類のための願であるという根拠を高森会長は失ったのですが、mixiでの法論の際には駄目押しの根拠がこの後出されて、高森会長は絶句することとなりました。それは次回で。

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コメント

教行信証化身土巻要門釈の御文『ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。すでにして悲願います。』の『福徳蔵』『本誓願』『悲願』は、全て19願のことと思われますが、『本誓願』だけを18願とみる解釈は成り立つのでしょうか?

投稿: 猿松 | 2020年12月22日 (火) 17時04分

猿松様

話の流れからすると19願としか解釈はできないと思います。

投稿: 飛雲 | 2020年12月22日 (火) 19時58分

飛雲先生

ご解答ありがとうございます。やはり文脈からすれば、この『本誓願』を18願と解釈するのは無理がありますよね。

投稿: 猿松 | 2020年12月22日 (火) 22時21分

仮土巻をそこにある文字をクドクド言い立てるのは良くないんじゃないでしょうか?
これから実践する意味のあることと誤解を生みます
振り返ってみて雑業は欣慕のためだったと思い至るのみで本願に遇えば捨てものです
聖人は仮土を願うべきでないと教えられているはずです

投稿: みみ | 2020年12月23日 (水) 15時24分

みみ様

御忠告ありがとうございます。
なぜ私がこのような質問を飛雲先生にしたのかといえば、とあるブログでこの化身土巻要文釈の御文の『本誓願』『悲願』を、ある方(大変経釈に通じた方です)が、18願と解釈されていたからです。

「えっ、そんな解釈があるの?」と私は思い、ちょうど同じ御文を飛雲先生も解説なされていたのでお伺いを立てたわけです。

私見ですが、この『本誓願』『悲願』は要文釈の文言の流れからすると、やはり19願のこととするのが自然だと思われます。今度そのある方に質問してみようとは思っています。

もちろん私も『かなしきかなや、さいわいに念仏しながら直に報土に生れずして辺地に宿をとらんこと。』を胸に、19願20願といった迂回の小路など遠回りはしない気でおります。(と言っても私もかつては親鸞会会員だったので遠回りどころか迷路におりましたが…)

みみ様のおっしゃる通り私も「そこにある文字をクドクド言い立てるのは良くない」とは思います。しかしこの要文釈の『群生海』『諸有海』を全人類として、「やっぱり19願は全人類が必ず通らなければ道なのだ」とクドクド言い立てる方がおられるのです。
ですから一応はその対処法を用意しておこうとは思っております。

かつて私は飛雲先生から「親鸞聖人の教えられ方というのは、最初から「18願他力の念仏になりなさい」というものです。」と教えていただきました。
私はいつでもその教えを忘れないようにしておる気でおります。

投稿: 猿松 | 2020年12月24日 (木) 16時42分

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