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2020年12月

2020年12月29日 (火)

『なぜ生きる2』の出版から7年ー5

三願転入の理屈が覆されると次に出てくるのが、宿善です。宿善については、定義が善知識方によって異なってくるので、説明がややこしいのですが、『なぜ生きる2』18章では『御一代記聞書』の

陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。
弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。
とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。
已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。

を出して以下のような意訳を付けています。

陽の当たるところの花は速く咲き、日蔭の花は遅いだろう。
陽の当たるところの花が速く咲くように、弥陀の本願を真剣に聞き速く救われる人もある。聞法を怠れば日蔭の花のように救われるのも遅くなる。
同じく弥陀の光明(聞法)に遇っても、救われるのが速い人と遅い人があるのは、人それぞれの宿善(過去の善根)に遅速(厚薄)があるからだ。
救われている人も、救われていない人も、ともかくも、大事なことは真剣な聴聞である。

としています。ここで最も問題なのが

かように宿善も遅速あり

ですが、この意味は高森顕徹会長は、「人それぞれの宿善(過去の善根)に遅速(厚薄)があるからだ 」としていますが、正しくは

同じく弥陀の光明(聞法)に遇っても、信心を獲るのが速い人と遅い人がある

です。この『御一代記聞書』の基になっているのが蓮如上人が「金を掘り出すような聖教」とまで絶賛されました『安心決定鈔』にあるお言葉です。事実、『御一代記聞書』には、『安心決定鈔』からの引用が多数あります。
ここの関連部分は

かるがゆゑに仏の正覚のほかは凡夫の往生はなきなり。十方衆生の往生の成就せしとき、仏も正覚を成るゆゑに、仏の正覚成りしとわれらが往生の成就せしとは同時なり。仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。機によりて三世は不同なれども、弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり。
(中略)
かくこころうれば、われらは今日今時往生すとも、わがこころのかしこくて念仏をも申し、他力をも信ずるこころの功にあらず。勇猛専精にはげみたまひし仏の功徳、十劫正覚の刹那にわれらにおいて成じたまひたりけるが、あらはれもてゆくなり。覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり。已・今・当の三世の往生は不同なれども、弘願正因のあらはれもてゆくゆゑに、仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり。

です。
ここに書かれてあることは、
阿弥陀仏が十劫の昔に、本願を成就されているのに、人によって往生の時期に前後ができるのはなぜかということについてです。
『御一代記聞書』と比較するとよく判ります。

已今当の往生あり(『御一代記聞書』)

すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり(『安心決定鈔』)

已・今・当の三世の往生は不同なれども(『安心決定鈔』)

このことより、

宿善も遅速あり(『御一代記聞書』)

仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば(『安心決定鈔』)

覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり(『安心決定鈔』)

となります。

に当ります。「ことわりをしる」「あらわす」とありますし、『御一代記聞書』の最後に

昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もあり

とありますので、『御一代記聞書』の「宿善」とは、信心のことを指していることがお判り頂けると思います。

つまり『御一代記聞書』では、信心をうることに遅速があるから、已今当の往生がある、と教えられたお言葉と理解できます。

『安心決定鈔』の「ことわりをしる」「あらわす」ことは、自分のやった善とは全く関係ないのです。『安心決定鈔』の、

弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり

仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり

に、そのことが明確に解説されています。
要するに、『御一代記聞書』の「宿善」には、自力的な意味の善は含まれていないのです。

人それぞれの宿善(過去の善根)に遅速(厚薄)があるからだ。

こんな意味になることは、100%あり得ません。

宿善とは、「善」の文字があるから善と関係があるに違いない

という高森顕徹会長の妄想が生み出した珍釈です。

mixiでの法論の際には、

いづれの経釈によるともすでに宿善に限れり

とだけ述べて、伝家の宝刀を抜いた気持ちだったのでしょうが、あっけなく破邪されています。ここでの宿善は、この前後を見れば

親鸞聖人の教えを聞く気がある

という意味にしかなりません。『御文章』3帖目12通

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本 不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。 このおもむきをくはしく存知して、ひとをば勧化すべし。 

とある通り、善の意味はありません。ちなみに「善本」は親鸞会でも教えているように、念仏のことです。それが判っていたから、mixiでの法論の際には、高森会長は宿善についてこれ以上言いませんでしたし、『なぜ生きる2』でも宿善論を展開しませんでした。

40年前の本願寺との宿善論争が嘘のようです。ハッキリ言えば、嘘だったという結論です。

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2020年12月24日 (木)

『なぜ生きる2』の出版から7年ー4

mixiでの三願転入の法論で、高森顕徹会長が19願の必要性を訴える根拠として出したのが、『一念多念証文』の

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。いま一乗と申すは本願なり。

でした。この御文は、実は某除名元講師部員が三願転入の根拠として主張していたのを、別の除名元講師部員がそれを否定するためにブログで紹介して、それを親鸞会がパクったという経緯です。mixiでの法論が始まる数ヶ月前のことです。

そこで自信満々にこの御文を出して三願転入を声高に叫んだのですが、特に拘ったのが「浄土の方便の善」です。浄土に往生するために必要な善と解釈していたのですが、それを退会者は覆しました。

19願の善、定散二善のことを親鸞聖人が他所でどう仰っているかを出したのです。

『教行信証』信巻には、

また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。

とあり、化土巻には

釈家の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。

とあります。
浄土の方便の善」を「迂回の善」「欣慕浄土の善根」と仰っています。「迂回の善」は文字通り遠回りの善ということで、三願転入が近道という高森会長の主張を完全否定するものです。もう一つの「欣慕浄土の善根」とは、浄土を願い慕う善ということですが、これはどういうことかと言えば、浄土を願っていない人に浄土を願わせるための善という意味です。具体的に言いますと、浄土を願っていない人とは聖道門の人です。聖道門は

この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく

と親鸞聖人が定義されているように、この世で聖者の位に入り出離の果、最終的には成仏の果を得ることを目指すものです。浄土を目指していないのです。浄土を目指していない聖道門の人を浄土門に導くためには方便が必要です。それを「浄土の方便の善」と親鸞聖人が仰ったということなのです。

前々回、前回のエントリーの内容と完全に一致する内容になります。聖道門で修行をしながら、聖者となれない凡夫は、聖道門を断念せざるを得ません。そこに、聖道門と同じ行で、浄土を目指すならば浄土に往生させるという19願を知れば、聖道門を目指しながら途中で断念した人は19願を求めることになるのです。もちろん、阿弥陀仏の本意はあくまで18願の他力念仏ですが、いきなり他力念仏では聖道門とはかけ離れているので、聖道門に近い19願が「方便の善」となると親鸞聖人が仰ったのです。

この「欣慕浄土の善根」は、高森会長にとっても親鸞会の講師部員にとっても、完全に未知の領域であったために、mixiでは呆然とするしかありませんでした。

『なぜ生きる2』においても、「欣慕浄土の善根」については説明も反論もできなかったことから、高森会長の衝撃の大きさが判ります。mixiでの法論では衝撃の連続であったとはいえ、「欣慕浄土の善根」が最も大きな衝撃だったと思われます。

これまでの3回をまとめれば、19願の善は「欣慕浄土の善根」に収まると言っても良いでしょうが、会員には全く理解できない真宗の教義です。

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2020年12月18日 (金)

『なぜ生きる2』の出版から7年ー3

親鸞聖人は、『大無量寿経』の異訳経である『平等覚経』『大阿弥陀経』を引かれて『大無量寿経』をより掘り下げて解釈をされていますが、前回紹介した『大無量寿経』の19願に相当する部分については、異訳経との比較をされていません。そのことを親鸞会は知って、

19願の「十方衆生」は全人類ということだ

とぬか喜びをしたこともありますが、それは親鸞聖人が19願をどう位置付けられているかを知らなかったからです。
mixiでの三願転入の法論の際にも問題になっていたのが、『教行信証』化土巻の

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

でした。高森顕徹会長は前段部分を無視して、後段だけを切り取り、

釈尊は定散二善を顕わされて「群生海」つまり全人類を導き、阿弥陀仏は19願を立てられて「あまねく諸有海」つまり全人類を導かれたのだ

としていました。しかし、ここには前段があるのです。しかも「ここをもつて」で前段と後段が繋がっていますので、前段を無視することはできません。前段は
外道を出て聖道門に入ったといいながら、「」「」なるものは極めて少なく、逆に「」「」なるものは極めて多い
ということですので、聖道門で「」「」なるもののために、釈尊は定散二善を説かれ、阿弥陀仏は19願を立てられた、となります。
もっと簡単に言うならば、

19願は、聖道門を断念したもののための願

ということになります。
これが前回の『平等覚経』『大阿弥陀経』の内容と一致しているのですから、断言まではできませんが、親鸞聖人が『平等覚経』『大阿弥陀経』を基にされてこのように解釈なされたと言えるでしょう。
mixiでの法論の際には、化土巻のお言葉の後に『平等覚経』『大阿弥陀経』を出したのですが、この化土巻のお言葉を巡っても高森会長は何ら反論できませんでした。そして『なぜ生きる2』では10章に

 弥陀は十九願を建てて善を勧め、釈迦が一代、廃悪修善を説かれたのは、知った分かったの観念の遊戯ではなく、実地にやらせるためであったと、聖人は仰せになっている。

以下は、その文証である。

然るに濁世の群萌・穢悪の含識、乃し九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入ると雖も、真なる者は甚だ以て難く、実なる者は甚だ以て希なり、偽なる者は甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋し。
ここを以て、釈迦牟尼仏、福徳蔵(十九願)を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願を発して普く諸有海を化したまう。既にして悲願有す、「修諸功徳の願」と名づく
                              (『教行信証』化身土巻・本)

と書いていますが、もはや口語訳さえも断章取義で誤魔化しているのですから、高森会長の悔しさが感じられる典型的な箇所でもあります。
これで19願が全人類のための願であるという根拠を高森会長は失ったのですが、mixiでの法論の際には駄目押しの根拠がこの後出されて、高森会長は絶句することとなりました。それは次回で。

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2020年12月 9日 (水)

『なぜ生きる2』の出版から7年ー2

高森顕徹会長が信頼していた人が、平均寿命に遠い年齢で、次々と亡くなっています。若くして亡くなった主治医についてはご存知の方も多いでしょうが、今年に入ってからでも、親戚でもないのにプライベートでも特別にかわいがっていた人、そして身内の中でも特別に信頼していた人です。
現生十種の益を得ているはずの高森会長には、現生の災いが降り注いでいます。

このことを取ってみても、高森会長の説明する現生十種の益や絶対の幸福が嘘であったと判るでしょう。高森会長の酷い人格が暴かれ、その上盤石と思われていた教義までもが豆腐のように軟弱であったと周知されたのですから、高森会長は怒りと悔しさに満ち溢れていることでしょう。ただし、思考ができる状態ならばです。

さて、mixiでの三願転入の法論で、19願が万人共通で必要不可欠であるとする最大の根拠が19願文にある「十方衆生」でした。実は、この法論までは、この「十方衆生」の理屈を退会者が直接論破してきませんでした。
ところがmixiでの法論ではこれを覆す根拠が出されたのです。
それが『大無量寿経』の異訳経である『平等覚経』と『大阿弥陀経』でした。親鸞聖人は、『教行信証』において、『大無量寿経』の異訳経を通して、『大無量寿経』を解釈された箇所があります。有名なところでは18願成就文の「乃至一念」を信心と解釈された根拠を『大無量寿経』ではなく『無量寿如来会』とされたところです。
『平等覚経』と『大阿弥陀経』も度々引かれていますので、親鸞聖人が異訳経を重要視されていたことは間違いありません。

そこで退会者は『大無量寿経』の19願文を『平等覚経』と『大阿弥陀経』で出したわけです。すると「十方衆生」の意味が明確になるのです。
その時の説明が

『大無量寿経』18願の「十方衆生
=『平等覚経』17願の「諸天人民蠕動之類者
=『大阿弥陀経』4願の「諸天人民蜎飛蠕動之類
諸々の神々や人々や虫の類

『大無量寿経』19願の「十方衆生
=『平等覚経』18願の「諸佛國人民有作菩薩道者
=『大阿弥陀経』7願の「八方上下無央數佛國諸天人民若善男子善女人有作菩薩道
諸々の仏国土の菩薩の行を行う者

でした。18願の「十方衆生」は、文字通りすべての衆生ですが、19願の「十方衆生」は、菩薩道を歩む者、つまりは聖道門で修行している人もしくは聖道門で修行をしてきた人の意味になるのです。18願と19願では同じ「十方衆生」でも意味が明確に違うのです。
高森会長には想定外の「十方衆生」の反論に、茫然自失状態でした。

mixiでの法論に反論したことになっている『なぜ生きる2』でも、このことについては全く触れていませんし、未だにこれに対する反論がないので、高森会長にとっては、この一発が如何に効いたかが判ると思います。高森会長でも、さすがに経典を否定することはできなかったのです。

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2020年12月 7日 (月)

『なぜ生きる2』の出版から7年―1

親鸞会は、高森顕徹の高森顕徹による高森顕徹のための会ですので、高森顕徹会長が出てくることがなくなった今、親鸞会は実質的に終わっています。
当ブログは、高森会長の教えを糾弾することが目的でしたので、更新が滞っているのはそういう事情です。高森会長を擁護する講師や会員も当然ながらいますが、影響力もないので、本腰を入れて糾弾しようとまでは思っておりません。ただし、当ブログを非難するようなことがあれば、その限りではありません。

ということで特に新しい話題はないのですが、7年前のこの時期に出版された『なぜ生きる2』について復習しておきます。

『なぜ生きる2』は、出版の3年以上前にmixi上で行われた三願転入の法論がベースとなっています。mixi上での法論では、高森会長が出してくる根拠の解釈が悉く間違いであることを明らかにし、高森会長の全く知らない根拠を豊富に出したために、高森会長は防戦一方で、一矢報いることすらできませんでした。
一番の論点は、

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉

についてでした。
今でこそ、そんなお言葉が存在しないことは明白ですが、当時としては思いもしない問いかけに、高森会長は狼狽えて醜態を晒すこととなりました。
その醜態を隠すために、mixiでのやりとりを全削除させるという暴挙にまででたことが、高森会長のショックの大きさを物語っています。

そこで当ブログでは、その内容を事あるごとに取り上げて、高森会長をこき下ろし、退会者も続出したことで、高森会長がその反論本として『なぜ生きる2』を出版したという経緯です。

とは言っても、mixiでの内容と何ら変わったところはなく、完全に論破された高森会長のこれまでの主張を例えで補強しただけです。新しい根拠が出てきたのではありません。

私としては煽りに煽って反論本を促してきたので、すぐに徹底的に糾弾し、結果、傷口を更に広げて、『なぜ生きる2』は親鸞会の中でも取り上げられることさえなくなってしまいました。その証拠に、『なぜ生きる2』は新聞広告で宣伝されることもなくなっています。

『なぜ生きる2』は、当ブログを巡って出版され実質的に消されていったのですから、私が責任をもって、『なぜ生きる2』の出鱈目を再度、取り上げていくこととします。

さしあたって

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉

に対する『なぜ生きる2』での直接的な反論は、6章の以下の部分です。

 もし三願転入の弥陀の救いが、親鸞聖人や一部の人に限定されることならば、十九願の人々に、折れず曲がらず速やかに二十願に進めよの、聖人の励ましは『教行信証』になかったであろう。
 それが幾たびも見かけるのだ。

 総ての人々よ。十九の願から二十願に進んでおくれ。必ず十八願・選択の願海へ転入させて頂けるのだから。

 以下は、その文証である。

  「それ濁世の道俗(すべての人)、速に円修至徳の真門(二十願)に入りて、難思往生を願うべし」(『教行信証』化身土巻・末)

 特定の人を「濁世の道俗」とは言われない。三願転入は、すべての人の道程だから「濁世の道俗」と言われているのである。

これが反論として成立していると思う人は、マインドコントロールの良く効いている会員だけでしょう。20願を勧められたお言葉ではあっても、19願を勧められたお言葉ではないので、高森会長の苦し紛れの詭弁しか思いつかなかったということです。

普通の思考なら、負けを認めるための本を出さないでしょうが、そこが高森会長の思慮の浅さだということです。

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