『なぜ生きる2』の出版から7年ー5
三願転入の理屈が覆されると次に出てくるのが、宿善です。宿善については、定義が善知識方によって異なってくるので、説明がややこしいのですが、『なぜ生きる2』18章では『御一代記聞書』の
陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。
弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。
とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。
已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。
を出して以下のような意訳を付けています。
陽の当たるところの花は速く咲き、日蔭の花は遅いだろう。
陽の当たるところの花が速く咲くように、弥陀の本願を真剣に聞き速く救われる人もある。聞法を怠れば日蔭の花のように救われるのも遅くなる。
同じく弥陀の光明(聞法)に遇っても、救われるのが速い人と遅い人があるのは、人それぞれの宿善(過去の善根)に遅速(厚薄)があるからだ。
救われている人も、救われていない人も、ともかくも、大事なことは真剣な聴聞である。
としています。ここで最も問題なのが
かように宿善も遅速あり
ですが、この意味は高森顕徹会長は、「人それぞれの宿善(過去の善根)に遅速(厚薄)があるからだ 」としていますが、正しくは
同じく弥陀の光明(聞法)に遇っても、信心を獲るのが速い人と遅い人がある
です。この『御一代記聞書』の基になっているのが蓮如上人が「金を掘り出すような聖教」とまで絶賛されました『安心決定鈔』にあるお言葉です。事実、『御一代記聞書』には、『安心決定鈔』からの引用が多数あります。
ここの関連部分は
かるがゆゑに仏の正覚のほかは凡夫の往生はなきなり。十方衆生の往生の成就せしとき、仏も正覚を成るゆゑに、仏の正覚成りしとわれらが往生の成就せしとは同時なり。仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。機によりて三世は不同なれども、弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり。
(中略)
かくこころうれば、われらは今日今時往生すとも、わがこころのかしこくて念仏をも申し、他力をも信ずるこころの功にあらず。勇猛専精にはげみたまひし仏の功徳、十劫正覚の刹那にわれらにおいて成じたまひたりけるが、あらはれもてゆくなり。覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり。已・今・当の三世の往生は不同なれども、弘願正因のあらはれもてゆくゆゑに、仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり。
です。
ここに書かれてあることは、
阿弥陀仏が十劫の昔に、本願を成就されているのに、人によって往生の時期に前後ができるのはなぜかということについてです。
『御一代記聞書』と比較するとよく判ります。
已今当の往生あり(『御一代記聞書』)
=すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり(『安心決定鈔』)
=已・今・当の三世の往生は不同なれども(『安心決定鈔』)
このことより、
宿善も遅速あり(『御一代記聞書』)
=仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば(『安心決定鈔』)
=覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり(『安心決定鈔』)
となります。
に当ります。「ことわりをしる」「あらわす」とありますし、『御一代記聞書』の最後に
昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もあり
とありますので、『御一代記聞書』の「宿善」とは、信心のことを指していることがお判り頂けると思います。
つまり『御一代記聞書』では、信心をうることに遅速があるから、已今当の往生がある、と教えられたお言葉と理解できます。
『安心決定鈔』の「ことわりをしる」「あらわす」ことは、自分のやった善とは全く関係ないのです。『安心決定鈔』の、
弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり
仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり
に、そのことが明確に解説されています。
要するに、『御一代記聞書』の「宿善」には、自力的な意味の善は含まれていないのです。
人それぞれの宿善(過去の善根)に遅速(厚薄)があるからだ。
こんな意味になることは、100%あり得ません。
宿善とは、「善」の文字があるから善と関係があるに違いない
という高森顕徹会長の妄想が生み出した珍釈です。
mixiでの法論の際には、
いづれの経釈によるともすでに宿善に限れり
とだけ述べて、伝家の宝刀を抜いた気持ちだったのでしょうが、あっけなく破邪されています。ここでの宿善は、この前後を見れば
親鸞聖人の教えを聞く気がある
という意味にしかなりません。『御文章』3帖目12通
それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本 不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。 このおもむきをくはしく存知して、ひとをば勧化すべし。
とある通り、善の意味はありません。ちなみに「善本」は親鸞会でも教えているように、念仏のことです。それが判っていたから、mixiでの法論の際には、高森会長は宿善についてこれ以上言いませんでしたし、『なぜ生きる2』でも宿善論を展開しませんでした。
40年前の本願寺との宿善論争が嘘のようです。ハッキリ言えば、嘘だったという結論です。
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