三願転入に対する親鸞会の妄想10
このブログを始めるより少し前の今から12年前は、高森顕徹会長のことを、人間性、教義とも正しいと信じている人が、退会者でも結構ありました。高森会長を追及するなど無謀だという空気が退会者にも漂っていました。ところが、高森会長の人間性が暴かれ、絶対に間違いないと信じられてきた教義までも出鱈目と判明すると、流れは変わりました。そしてmixi上での三願転入の法論で、高森会長の善知識像は、あっけなく崩壊し、退会者が続出することとなりました。
雲の上のアンタッチャブル的存在であった高森会長は、地に落ちましたが、高森会長が人を近づけさせないために、よく判らない人物のまま消えてゆくことになるでしょう。
高森会長が元気なうちに、親鸞会を名実ともに崩壊させたかったのですが、それが実現できなかったことは残念ですが、遠からず親鸞会は縮小分裂することになるでしょう。
さて、高森会長は三願転入の妄想を垂れ流して、組織維持に努めてきたわけですが、本来、三願転入とは何かを今回述べておきます。
歴史上名を残す獲信者で、三願転入を語った、もしくは三願転入したであろう証拠のあるのは、親鸞聖人だけです。
七高僧方は、聖道門から18願に入られたという方ばかりです。曇鸞大師だけが途中で道教を信じられたという経緯がありますが、19願、20願を通られたとは仰っていませんし、言及さえ無いに等しいです。
覚如上人、蓮如上人は、親鸞聖人の三願転入の文を引用されたり、説明された箇所がありませんし、御自身が19願、20願を通ったとも仰っていません。19願文、20願文さえ紹介されていません。
この状況で、三願転入が万人共通の道程だなどと言える理屈が通るわけもないでしょう。
mixiでの三願転入の法論の際に、苦し紛れに、
三願転入は心の道程だ
と高森会長は言っていましたが、それなら善をする必要はないのかと質問すると、
善をしなければ信仰は進まない
と心の道程ではなく、身の道程である本音が出てしまったのです。
結局のところ、三願転入と言いながら、19願の善、正確には、財施という金集め、法施という人集めをさせる口実だったと暴露したようなものでした。
では、親鸞聖人はなぜ三願転入、19願と20願の詳説をなされたのかということですが、それには時代的な背景があったのです。
法然上人が聖道門から猛烈な非難を受けられた中に、19願をなぜ無視するのか、というものがありました。
承元の法難の直接の切っ掛けとなった『興福寺奏状』には、
ここに専修、此のごときの難を蒙らんの時、万事を顧みず、ただ一言に答へん、「是れ弥陀の本願に四十八あり、念仏往生は第十八の願なり」と。何ぞ爾許の大願を隠して、ただ一種を以て本願と号せんや。
とあり、阿弥陀仏の本願は48あるのに、18願だけというのはおかしいと言っています。
また法然上人が亡くなられた後、明恵上人高弁が『摧邪輪』を著して、
解して曰く、発菩提心は、是れ仏道の正因、是れ体声なり。専念弥陀は、是れ往生の別行、是れ業声なり。汝が体を捨てて業を取るは、火を離れて煙を求むるがごとし。咲ふべし、咲ふべし。まさに知るべし。これらの解釈の文は、皆菩提心においては、置いてこれを論ぜず、ただ所起の諸行についてこれを判ず。しかるに本願の中にさらに菩提心等の余行なしと言うは、何が故ぞ。第十九の願に云く、「発菩提心、修諸功徳」等と云々。是れ本願にあらずや。
と具体的に19願を出しています。
要するに、聖道門は19願を最も重要な願と位置付けていて、法然上人が18願だけで良いと仰ったことに対して痛烈に非難したのです。
それに対する親鸞聖人の反論が三願転入なのです。聖道門が最重要な願と看做した19願は、聖道門の人を浄土門へ導き入れるための願であるから、聖道門と浄土門を分岐する要の門とされた上で、最終的には18願まで導くための仮の門だと仰ったのです。その証拠がこの親鸞だ、ということで三願転入の文になったのです。
もう一度言いますと、聖道門が19願を最重要視したので、親鸞聖人が19願は聖道門から浄土門へ最終18願へ導くための願とされて、それを親鸞聖人ご自身の体験で証明されたということです。
これで、三願転入の意味がすっきりすると思いますが、未だにマインドコントロール真っただ中の会員は、理解したくないと必死に否定する理屈を考えるでしょう。ご苦労なことです。
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