三願転入に対する親鸞会の妄想8
親鸞会の会員の考える三願転入とは
善をすれば善のできないことが知らされて、機の深信が立ち、同時に法の深信が立って18願の信心が頂ける
というようなものです。
しかし、善をして善のできないことが知らされるという理屈が最初から破綻しています。善をしたのであれば、善ができたと知らされるのです。その善がどの程度のかは人それぞれでしょうが、善をしたのに1つの善もできなかったということは、言葉からしておかしいです。
理屈が通るように言いたいのであれば、
1.善をしようと試みたが善ができなかった
2.善をしたが僅かな善しかできなかった
のどちらかになります。
高森顕徹会長の詭弁として出す例が、親孝行ですが、
親孝行をすればするほど親孝行ができないと知らされる
と説明しますが、これを正確にいうならば、
親孝行をすればするほど親が喜ぶような孝行ができないと知らされる
です。つまり、親孝行はしているけれども、大した親孝行ができていないと知らされるということで、上記の2と同じことになります。
高森会長も認めている通り、雑毒の善はできるのですから、善はできるのです。ただし、その程度の雑毒の善では往生できない、というのが正解です。
では、往生できるだけの善(=真実の善)ができると思っている会員が一人でもいるのかについては、誰一人そんなことは思っていないでしょう。もしそんなことを思っているならば、親鸞聖人の教えで救われよう、18願で救われようとは考えないでしょう。聖道門を目指すか、少なくとも19願で往生することを目指すでしょう。
少し具体的なことを言うと、大無量寿経を含む浄土三部経の聴衆は、菩薩、阿羅漢、お弟子など聖道門ばりばりの行者です。18願のことを釈尊から聞きながら、聖道門から浄土門に転向して18願に転入したとはどこにも説かれていませんし、親鸞聖人もその認識です。
『教行信証』信巻の
まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。
ここから、弥勒菩薩は聖道門を続け、念仏の衆生にはなっていないと親鸞聖人は解釈されています。
つまり、浄土三部経の聴衆であった聖道門の行者は、我々とは桁違いの善をしてきましたが、善ができないと知らされることもなく、この程度の善では往生もしくは成仏できないと知らされることもなかったのです。では我々がわずかな善をしたところで、何の意味があるのかです。まさか、弥勒菩薩以上の善をしなければ三願転入できないというのなら、その人は出離は楽々できるでしょう。
同じく信巻に
また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。
と仰っているように、19願、定散二善は、「迂回の善」、つまり遠回りの善でしかないのです。
三願転入という妄想に憑りつかれている会員は、18願を知っている菩薩方や聖道門の行者のことを思い出すとよいでしょう。あれだけの善をしても18願に転入できていない現実を。
金集めが年々酷くなる中で、それに耐えたところで得られるものは、貧と恥のみです。
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