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2020年10月

2020年10月22日 (木)

三願転入に対する親鸞会の妄想9

高森顕徹会長は、今後会員の前に、元気な姿を見せることはないでしょう。
そのことに関連してではありませんが、高森会長が寵愛していた幹部が自殺しました。
「彼はノーベル賞を取れないのか?」
と高森会長が言うほどでしたが、高森会長に近すぎたが故に、残念なことになってしまいました。
公私共に、高森会長に親近し、高森会長に服従してきた結果がこれです。

会員からは高森会長との距離が近いと思われている講師部員ですが、実際は、圧倒的多数の講師は、高森会長と話をしたことすらないし、随行以外で高森会長と少人数で会うこともない、言葉だけの直弟子ばかりですから、適度に服従し、適度に求道の真似事して、年月を積み重ねているだけです。そんな講師部員はいつでも高森会長から逃れられるので、離脱の準備をすべきでしょう。一般会員は尚更です。

さて普通の頭があれば判ると思いますが、親鸞聖人の教えに、善の勧めがある筈がないのです。自力念仏の勧めがあるかどうかの議論なら判りますが、善の勧めがあるかどうかなど、浄土真宗において議論の余地など全くありません。

その証拠が、源信僧都の『往生要集』にある、

『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

を親鸞聖人は『教行信証』行巻に引かれ、『正信偈』には、

極重の悪人はただ仏を称すべし。

と簡潔に仰り、『高僧和讃』にも

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

と仰っているくらい、親鸞聖人お気に入りのお言葉です。

一言で説明するなら、

善は不要、念仏一つで浄土往生できる

です。
先ほど言いましたように、この念仏が自力念仏かどうかは議論の余地があるかもしれませんが、少なくとも、念仏を称えて往生する、ということ以外に解釈の仕様がありません。

念仏ではない、信心1つで助かるんだ!

という反論をする人もあるでしょうが、親鸞聖人がこのように仰っていることを否定するのか肯定するのかを、まず考えた方が良いです。
否定するなら、これ以上議論をするだけ無駄です。
肯定するなら、念仏と信心との関係を考えましょうという話です。

信心とは、『正信偈』でいうなら、「極重の悪人はただ仏を称すべし」と信じた心ですし、『高僧和讃』なら「ひとへに弥陀を称してぞ 浄土にうまる」と信じた心です。

この説明で判る人は真実の信心を獲ている人でしょう。

これに反発するなら、信心とは何を信じる心なのかの説明を聖教を基にしてもらいたいものですが、お気楽講師部員、会員では、そこまで考えたこともないでしょう。
三願転入すれば自ずから判ると妄想しているようですが、善に心が掛かっているうちは、永遠に判りません。

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2020年10月11日 (日)

三願転入に対する親鸞会の妄想8

親鸞会の会員の考える三願転入とは

善をすれば善のできないことが知らされて、機の深信が立ち、同時に法の深信が立って18願の信心が頂ける

というようなものです。
しかし、善をして善のできないことが知らされるという理屈が最初から破綻しています。善をしたのであれば、善ができたと知らされるのです。その善がどの程度のかは人それぞれでしょうが、善をしたのに1つの善もできなかったということは、言葉からしておかしいです。
理屈が通るように言いたいのであれば、

1.善をしようと試みたが善ができなかった
2.善をしたが僅かな善しかできなかった

のどちらかになります。
高森顕徹会長の詭弁として出す例が、親孝行ですが、

親孝行をすればするほど親孝行ができないと知らされる

と説明しますが、これを正確にいうならば、

親孝行をすればするほど親が喜ぶような孝行ができないと知らされる

です。つまり、親孝行はしているけれども、大した親孝行ができていないと知らされるということで、上記の2と同じことになります。

高森会長も認めている通り、雑毒の善はできるのですから、善はできるのです。ただし、その程度の雑毒の善では往生できない、というのが正解です。

では、往生できるだけの善(=真実の善)ができると思っている会員が一人でもいるのかについては、誰一人そんなことは思っていないでしょう。もしそんなことを思っているならば、親鸞聖人の教えで救われよう、18願で救われようとは考えないでしょう。聖道門を目指すか、少なくとも19願で往生することを目指すでしょう。

少し具体的なことを言うと、大無量寿経を含む浄土三部経の聴衆は、菩薩、阿羅漢、お弟子など聖道門ばりばりの行者です。18願のことを釈尊から聞きながら、聖道門から浄土門に転向して18願に転入したとはどこにも説かれていませんし、親鸞聖人もその認識です。

『教行信証』信巻の

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

ここから、弥勒菩薩は聖道門を続け、念仏の衆生にはなっていないと親鸞聖人は解釈されています。

つまり、浄土三部経の聴衆であった聖道門の行者は、我々とは桁違いの善をしてきましたが、善ができないと知らされることもなく、この程度の善では往生もしくは成仏できないと知らされることもなかったのです。では我々がわずかな善をしたところで、何の意味があるのかです。まさか、弥勒菩薩以上の善をしなければ三願転入できないというのなら、その人は出離は楽々できるでしょう。

同じく信巻に

また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。

と仰っているように、19願、定散二善は、「迂回の善」、つまり遠回りの善でしかないのです。

三願転入という妄想に憑りつかれている会員は、18願を知っている菩薩方や聖道門の行者のことを思い出すとよいでしょう。あれだけの善をしても18願に転入できていない現実を。

金集めが年々酷くなる中で、それに耐えたところで得られるものは、貧と恥のみです。

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