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2020年8月22日 (土)

三願転入に対する親鸞会の妄想5

10年前のmixiでの最大の論点は、

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉があるなら出して

でした。
答えは、無い、ですので、最初から決着していましたが、ごちゃごちゃ誤魔化し続けていただけで、それは『なぜ生きる2』でも変わりませんでした。
6章にこうあります。

 もし三願転入の弥陀の救いが、親鸞聖人や一部の人に限定されることならば、十九願の人々に、折れず曲がらず速やかに二十願に進めよの、聖人の励ましは『教行信証』になかったであろう。
 それが幾たびも見かけるのだ。

 総ての人々よ。十九の願から二十願に進んでおくれ。必ず十八願・選択の願海へ転入させて頂けるのだから。

 以下は、その文証である。

  それ濁世の道俗(すべての人)、速に円修至徳の真門(二十願)に入りて、難思往生を願うべし」(『教行信証』化身土巻・末)

 特定の人を「濁世の道俗」とは言われない。三願転入は、すべての人の道程だから「濁世の道俗」と言われているのである。

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉はありませんので、参考までに親鸞聖人が20願を勧められたお言葉をmixiで教えてあげたのですが、それを『なぜ生きる2』では19願を勧められたお言葉であるかのように偽装したのです。

偽装しようが詭弁を使おうがまとめるとこうなります。

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉はない。
親鸞聖人が20願を勧められたお言葉はある。

この事実を普通に判断するなら、親鸞聖人が三願転入の道程を全人類に当て嵌められていないことと、20願から18願への転入という親鸞会的言い方をするなら二願転入を積極的か消極的かは別として認められていたことが判ります。

言葉を代えてまとめると、

親鸞聖人は三願転入を否定的に看做されていた。
親鸞聖人は二願転入を肯定的に看做されていた。

こうとしか言えないのです。
一応言っておきますが、親鸞聖人は上記のように20願を一応は勧められていますが、三願転入の直前に仰った20願の結論として

悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。

(現代語訳)

悲しいことに、煩悩にまみれた愚かな凡夫は、はかり知れない昔から、迷いの世界を離れることがない。果てしなく迷いの世界を生れ変り死に変りし続けていることを考えると、限りなく長い時を経ても、本願力に身をまかせ、信心の大海にはいることはできないのである。まことに悲しむべきことであり、深く嘆くべきことである。大乗や小乗の聖者たちも、またすべての善人も、本願の名号を自分の功徳として称えるから、他力の信心を得ることができず、仏の智慧のはたらきを知ることがない。すなわち阿弥陀仏が浄土に往生する因を設けられたことを知ることができないので、真実報土に往生することがないのである。

と仰っているので、親鸞聖人が積極的に20願を勧められているとは言えません。

つまりは20願の勧めは微妙でありますが、19願の勧めは明確に否定されているのです。

この単純な理屈をmixiで知らされた高森顕徹会長が、mixiで絶句した悔しさを『なせ生きる2』でぶつけたという訳です。

益々評価を下げた高森会長でした。

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コメント

飛雲様、いつもご教授ありがとうございます。
今回のエントリーも「なるほど、なるほど!」と読ませていただきました。

私が20年以上の親鸞会会員であった当時、とにかく高森会長の教えに従い親鸞会的19願であるアニメ頒布、財施、勧誘などを真剣に実行していけば、それができない私であったと知らされ20願に転入でき、その後18願に回入できると信じ込んでいました。
それは高森会長が真の善知識であり、その仰せに従うのが信心獲得の唯一の道であるとマインドコントロールされていたための思い込みでした。

それが不思議な縁で飛雲さんのブログに出会い、親鸞会教義がデタラメ教義であると苦しいながらも理解し、親鸞会との決別を決心。
飛雲さんのブログから読み取った「往生の行は念仏一行」を心に据え、ただ念仏を称えて行こうと日々過ごしていました。

その後全く思ってもいませんでしたが、阿弥陀様の加威力により間もなく回心させていただきました。

親鸞会会員の方々知ってもらいたい。
親鸞会的19願をやり抜いた後に20願に入るのではありません。親鸞会教義のデタラメを理解し、親鸞会的19願は不要、阿弥陀様が成就なされた名号を称えるだけが往生の行と理解すれば20願の行者となれるのです。

南無阿弥陀仏

投稿: どら焼き | 2020年8月22日 (土) 23時50分

信心を得て救われた人は、ただ念仏して助かるのが弥陀の本願だったと深信すると聞きましたが、この心はもう絶対に変化しないのでしょうか?
例えば、他の人の口車に乗せられ「あれ、やはり違うのだろうか...?」というようなことには、信心を得た人は絶対に起きないのでしょうか?

投稿: | 2020年8月23日 (日) 20時04分

どら焼き様

19願が必要だなんて、聖教を読んだことがあるなら、出てこない発想です。
高森会長は聖教序全く読んでいないのですが、大沼師のパクリで善知識になったつもりだったというオチです。


名無し様

信心は阿弥陀仏から頂くので、信心は変わりません。
しかし、私たちの心は煩悩具足で、凡智に支配されていますので、私たちの心が変わることはあります。極端な例を言えば、認知症になれば全て判らなくなることもあります。仏教も阿弥陀仏も念仏も忘れてしまうかもしれません。
しかし、信心は変わりません。
つまり、私たちの心が真実の信心に変わるのではありません。真実の信心を頂いたことが認識されて私たちの心に影響を与えるという関係です。
認知症は極端ですが、煩悩具足の私たちは信心を頂いた後も、浄土真宗では聞法を勧められるのはこのような理由からです。

投稿: 飛雲 | 2020年8月23日 (日) 20時25分

>私たちの心が真実の信心に変わるのではありません。真実の信心を頂いたことが認識されて私たちの心に影響を与えるという関係です。


回答ありがとうございます。
頂いた信心の影響で、自分の心に影響が与えられるのであって、自分の心が信心になるのではないということは他力になった人が以下のようになることはあり得るのでしょうか?

1.時間が経った後で、「やっぱり、ダメかも」的な思考が働き再び自分の心が自力になる。具体的にはまた、救われたいと思い念仏を唱え始める。

2.信心は取ったけど、実感がなく、全然喜べもしなければ、感謝の心も出てこない。

親鸞会の教えにて、煩悩即菩提などの、生きているときに得られるの利益について聞いて信心を取った人は物凄く幸せな状態になるものだと思っていたのですが違うのでしょうか?

投稿: | 2020年8月26日 (水) 22時47分

基本を話ます。
信心を頂いたらどうなるのかについて詳しく教えられたのが二河白道の譬喩です。菩提を求めていた行者が菩提は白道を歩んで西の岸に行く以外に無いと阿弥陀仏釈尊のお勧めに従って心が定まったのが信心です。
この行者は心が退転しません。なぜなら信心は他力だからです。自分の心ではないからです。
しかし信心を獲ても煩悩は全く変わりません。煩悩で白道を潤し焼くのも変わりません。

以上の基本を押さえれば、1の質問のような心は出ません。
が、絶対に出ないのかと前回訊かれましたので、認知症になればそういうこともあり得ますので絶対に出ないとは言えないと答えました。認知症だけでなく記憶喪失になってもそれはあり得ますので、例外はあります、ということです。

2については最初の説明に述べた通りで、煩悩が何も変わらないのに菩提を獲られる白道を歩んでいることが煩悩即菩提です。
煩悩が変わらない私達が喜ぶのは煩悩を満たすことです。そんなレベルの喜びと菩提とは天地ほどの違いがありますので創価学会をパクった親鸞会のような境地はありません。

投稿: 飛雲 | 2020年8月27日 (木) 05時56分

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