三願転入に対する親鸞会の妄想4
前回、『教行信証』行巻に二か所も取り上げられている釈尊の浄飯王に対する御説法について述べました。
ここだけ見ても、親鸞聖人が三願転入という道程を否定されていることが普通の知能を持っていれば理解できることです。
釈尊は、レベルの高い善ができると自惚れていた浄飯王に対して、その善はもちろんですが、もっとレベルを下げた善さえも勧められずに、いきなり念仏を勧められています。そのことを親鸞聖人は『安楽集』と『五会法事讃』の2つの根拠を出されているのですから、往生のためにいきなり念仏を勧めることが、親鸞聖人の教えであり、『教行信証』の内容だと言えます。
このように言うと、
親鸞聖人は信心1つで往生できることを教えられた
親鸞聖人は聞く1つで助かることを教えられた
このように反論する人が、親鸞会も含めて他にもあると思います。
これまで何度も言っていますが、ここで親鸞聖人が仰っていることは、すべて同じ意味なのです。信心、聞くことを勧めるのは正しいが、念仏を勧めるのは間違いだ、という発想が根拠のない考えなのです。
高森顕徹会長の『なぜ生きる2』11章にある
無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。
がその典型でしょう。釈尊の浄飯王に対する御説法、そしてそれを二度も紹介された親鸞聖人のことを「平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である」と痛烈に非難しているのです。
一応説明しておきますが、行巻にある念仏とは他力の念仏のことです。
つまりは、最初から他力の念仏を勧めるのが親鸞聖人の教え、言い換えると18願だけを勧めるのが親鸞聖人の教えだと言うことになるのです。
ただし、皆さんが懸念されるように最初から他力念仏を称えることは、極めて稀ですので、結果的には他力念仏を勧められながら自力念仏になってしまうだけです。ここで捻くれた考え方をすると、他力念仏になるまで自力念仏は称えなくてよい、となるのですが、それは他力念仏を称えるつもりでも自力念仏になっていることはありますが、他力念仏になったことを確認するまで念仏を称えなければ、いつまで経っても他力念仏を称えることはありません。
昔、高森会長が言っていた聴聞に近いことで、この一座で信心を獲ると思って法話を聞くと、信心を獲た、ということがあるのですが、信心を獲るまでは自力の聴聞だから聞かない、と言っていたら法話を聞いて信心を獲ることがないのと同じです。
親鸞聖人は他力念仏を最初から勧められています、だから自力念仏の勧めのお言葉は探さないと見つからないほどしかありません。
それは、自力念仏に留まることを誡められたのであって、自力念仏自体を否定されたのではありません。
『浄土和讃』には
定散自力の称名は
果遂のちかひに帰してこそ
をしへざれども自然に
真如の門に転入する
とありますように、自力念仏から他力念仏への転入を教えられています。言い換えると20願から18願への転入ですが、19願に関しては無視されているのです。
これをこれまで何度も言ってきたのですが、これに対する高森会長の会員向け反論が、
それでは三願転入ではなく二願転入ではないか
でした。その通りで、基本、親鸞聖人は二願転入を教えられていて、御自身も含めて三願転入という人も稀にある、くらいの話なのです。
したがいまして、三願転入という言葉を、親鸞聖人も覚如上人、蓮如上人も仰ったことがなく、後の学者が創作した言葉であり、三願転入という概念もそこから発生したことです。そんなことも知らずに三願転入を声高に叫ぶことが愚かです。
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コメント
念仏を称えるときの心構えが他力念仏を目指して称えるということですが、他力念仏に対する解釈は以下の通りで宜しいでしょうか?
○弥陀の本願をそのまま受け取って称える念仏。
阿弥陀仏が「疑いなく往生できると思って念仏唱えたら、生まれさせる」というのをそのまま受けとり「是非とも往生したいので、念仏唱えます。念仏を唱えたので後のことは全て阿弥陀様に任せます。」
というような感じで称える念仏。
また2つ目の質問ですが、極楽に行きたいという気持ちで称えるのが、自力、他力の念仏ということですが、この極楽に行きたいという気持ちは表面上だけでいいのでしょうか?
当然のことですが、私自身、極楽がどんなところか想像がつかず「煩悩を離れた楽しみ」と言われても全く分からず、ただ聞いてみたところだと良いところそうだから「まあ、本当にあるなら行ってみたい」程度の気持ちしか起きません。これは私自身が後生や無常に関して鈍感なのが原因だと思いますが...。
投稿: 知りたい人 | 2020年8月15日 (土) 14時41分
1つ目の質問は、
それで良いかと聞かれたら、それは自力だから良くないと言わざるをえませんが、信前は結果的にこうなってしまうので、そのまま進んでください、という言い方しかできません。
2つ目の質問も、
我々のような底下の凡夫には、極楽を知る智慧はありませんので、表面上も心底も、煩悩を離れた清らかな世界に往きたいという漠然とした想い以上にはなりませんので、良いも悪いもそれ以外にはありません。これは信心を獲ても変わりません。
投稿: 飛雲 | 2020年8月15日 (土) 15時05分
皆様へ
近年夏に勉強会を行っていましたが、今年も行うことといたしました。
今回はブログ「飛雲」の管理人さん、飛雲さんを呼んで行います。
それ以外に退会者1名と不肖私が感話を行います。
日程は以下の予定で行います。
10時から12時 感話および質疑等
13時から17時 感話および質疑等
お勤めを行います。
日時は8月29日の土曜日です。
場所は、刈谷市総合文化会館(アイリス中央生涯学習センター/502講座室)です。
刈谷駅東すぐです。
どなたでも参加可能ですが、人数制限がありますので事前に連絡をいただけると有り難いです。
新型コロナ対策として、消毒、会場の換気、フェイスマスク等により対応します。
よろしくお願いします。
投稿: とくよしみね | 2020年8月21日 (金) 00時57分