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2020年8月 6日 (木)

三願転入に対する親鸞会の妄想3

10年前のmixiでの法論で、退会者が最初から最後まで一貫して高森顕徹会長に問い続けたことは、

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉

でした。そして最初から最後まで高森会長は根拠を出しませんでした。いや、出せませんでした。無いからです。
法論で負けた悔しさから書いた『なぜ生きる2』でも、

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉

は当然出していません。書いていることは、高森流創作譬喩ばかりです。
一応言っておきますが、三願転入は全人類共通の道で必ず19願を通らなければならないのならば、親鸞聖人が19願を勧められているはずです。19願を通らずして20願そして18願に入ることができないのですから、まずは19願を実践しましょう、と親鸞聖人がどこかに仰っていなければ、高森流三願転入論は破綻するのです。

ですから、

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉

この問い一つで、高森会長の嘘が見抜けるのです。
ただし、一度だけこの問いに答えたことがありました。その答えは、

『教行信証』全体

でした。これは、親鸞聖人のお言葉はありません、と白状した返答です。『教行信証』のお言葉を1つも出していないので、子供の悔し紛れの返答レベルでしかないのです。

さて、親鸞会の諸君は、この事実をどう判断するのでしょうか。会員に尋ねてみたことがありますが、ある幹部は「19願を勧められたお言葉などあるわけない」と開き直って、それで三願転入論を語るのです。こんな破綻思考の幹部よりも高森会長の方が余程賢いでしょう、少なくとも高森会長はこちらの意図を理解できているのですから。

なお、『教行信証』全体に書かれてあることは、18願で救われるのに、三願転入する必要はない、ということです。
簡単な例で言えば、行巻にある釈尊が浄飯王に念仏三昧を勧められたところや、信巻にある阿闍世の物語です。この2つのエピソードは、親鸞聖人が『教行信証』の中で、かなり力を入れて書かれている箇所でもあります。釈尊が実在の人物に対してどのように導かれたかですので、七高僧の解釈や理論、親鸞聖人独自の解釈や理論ではない、仏の説法として親鸞聖人が紹介された阿弥陀仏の救いの真髄なのです。

この2つのエピソードに共通することは、釈尊が浄飯王と阿闍世に、善を勧められていないことです。浄飯王は、善をする気満々であったのに、釈尊は「できないから、念仏三昧を勧めるのだ」とあっさりした説明をされただけです。自惚れている人には一度、やらせてみてできないことを知らせてから、という回りくどい話は全くありません。

原文は以下

父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまふ。父の王、仏にまうさく、「仏地の果徳、真如実相、第一義空、なにによりてか弟子をしてこれを行ぜしめざる」と。仏、父の王に告げたまはく、「諸仏の果徳、無量深妙の境界、神通解脱まします。これ凡夫の所行の境界にあらざるがゆゑに、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる」と。

(現代語訳)

世尊は、父である浄飯王に念仏三昧を修めるようにお勧めになった。父の王は世尊に、「仏のさとりの徳は真如実相第一義空とのことでありますが、それを観ずる行を、どうして弟子であるわたしに教えてくださらないのですか」とお尋ねした。 世尊は父の王に、「仏がたのさとりの徳は、はかりがたい深い境地であり、仏は神通力や智慧をそなえておいでになります。これはとうてい凡夫が修めることのできる境地ではありません。そこで、父の王に念仏三昧を修めることをお勧めしたのです」と仰せになった。

如来つねに三昧海のなかにして、網綿の手を挙げたまひて、父の王にいうてのたまはく、「王いま座禅してただまさに念仏すべし。あに離念に同じて無念を求めんや。生を離れて無生を求めんや。相好を離れて法身を求めんや。文を離れて解脱を求めんや」と。

(現代語訳)

釈尊は父である浄飯王に、「王よ、今静かに座して念仏すべきであります。念を離れて無念を求め、生を離れて無生を求め、姿かたちを離れて法身を求め、言葉を離れて言葉の及ばない解脱を求めるというような難しいことが、凡夫にどうしてできましょうか」と仰せになる。

次に阿闍世ですが、阿闍世は信を獲た後にこう告白しています。

世尊、われ世間を見るに、伊蘭子より伊蘭樹を生ず。伊蘭より栴檀樹を生ずるをば見ず。われいまはじめて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る。伊蘭子はわが身これなり。栴檀樹はすなはちこれわが心、無根の信なり。無根とは、われはじめて如来を恭敬せんことを知らず、法僧を信ぜず、これを無根と名づく。

(現代語訳)

世尊、世間では、伊蘭の種からは悪臭を放つ伊蘭の樹が生えます。伊蘭の種から芳香を放つ栴檀の樹が生えるのを見たことはありません。わたしは今はじめて伊蘭の種から栴檀の樹が生えるのを見ました。伊蘭の種とはわたしのことであり、栴檀の樹とはわたしの心におこった無根の信であります。無根とは、わたしは今まで如来をあつく敬うこともなく、法宝や僧宝を信じたこともなかったので、これを無根というのであります。

善の勧めはありませんから、もちろん19願の勧めもありません。

『教行信証』全体を読んだことが無いどころか、『教行信証』の一部も読んだことが無いから、寝とぼけた三願転入論を口にできるのでしょう。

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コメント

念仏を称えるときは、他力の念仏で唱えるぞという気持ちが大切だと聞きましたが、
自力の念仏が「念仏唱えてるから極楽連れてってください」という気持ちで、他力の念仏が「もう死後は全て阿弥陀様にお任せします」という気持ちで称える念仏ということは、極楽に行きたいという気持ちで念仏称えるよりも、「死後の問題は私ではどうにもできないから、全部、阿弥陀様に任せます」という気持ちで称えた方がいいのでしょうか?

投稿: | 2020年8月 7日 (金) 23時42分

お気持ちは良くわかりますが、方法論というものはありません。心構えとして、他力念仏を目指す、ということであり、それまではどんな気持ちでというものではありません。
聴聞もそうですが、この法話で信心決定するという決意で聞く心構えが大事ですが、結果的にその法話で信心決定できなかったら、次はどんな気持ちでと思うものです。しかし次も、この法話で信心決定すると決意して臨む。
同じことで、この念仏で他力念仏になると思って称えるのです。結果的に自力念仏であっても次の念仏で、ということです。
自力で他力になるのではありません。阿弥陀仏が他力にしてくだされるのですから、どうすればと力を込めていること自体が自力です。全ておまかせしますが他力です。
親鸞会でいう無力と他力とは表面的には同じです。今の自力の心が無くなったら他力です。
くどいようですが、方法論はありません。方法論が自力です。

投稿: 飛雲 | 2020年8月 8日 (土) 07時28分

>心構えとして、他力念仏を目指す、ということであり、それまではどんな気持ちでというものではありません。

ということは、「他力念仏はこういうものだから、こういう気持ちで称えよう」ではなく、
「他力の念仏はこういうもの」とかも考えずにとにかく、念仏一つごとに「他力念仏を称える」ということを考えてひたすら称えるということでしょうか?

投稿: | 2020年8月 8日 (土) 09時45分

この質問が方法論です。計らいであり自力です。ですからこのような質問を捨て去ることです。
とは言うものの自分で捨て去ることはできませんので、ではどうすれば良いのか?となりますが、それも自力ですから捨てましょう。

非常に困られると思いますが、少なくとも名無さんの方向性は間違っていないので、意地悪く聞こえるかもしれませんが、このまま進んでください。

投稿: 飛雲 | 2020年8月 8日 (土) 10時25分

回答ありがとうございます。

とにかく他力の念仏をしようと思います。
南無阿弥陀仏。

投稿: | 2020年8月 8日 (土) 10時44分

観無量寿経の下品下生のものは念仏を臨時に10回称えると死んでから一念で極楽に生まれて、その後、金蓮華の中で12大劫かかってから蓮華が開いて菩薩方の教えを聞いて菩提を起こさん....ということが書かれてます。
これを見て、弥陀に救われたものでも、極楽世界の衆生として生まれるには時間がかかるのか?と疑問に思ったのですが、これは念仏称えた下品下生のものが自力の念仏で化土往生だったからなのでしょうか?
それとも例え18願通りに他力の念仏で救われても、時間がかかってしまうのでしょうか?

また、18願の至心信楽欲生我国 乃至十念 とありますが、これはつまり他力の念仏を、極楽に生まれたいという気持ちで10回称えればという意味ですよね?

投稿: fag | 2020年8月 9日 (日) 17時16分

fag様

親鸞聖人は、観無量寿経には隠顕があると解釈されました。顕とは顕説のことで19願意です。隠とは隠彰のことで18願意です。
これで考えれば判りやすいですが、下品下生の往生とは
顕説の19願意では自力念仏の化土往生
隠彰の18願意では他力念仏の報土往生
です。報土往生は臨終の一念です。

18願文の「乃至十念」については、数を問わないと親鸞聖人は解釈されていますので、10回というのはそれぐらい少なくてもという象徴であり、もっと少なくて1回でもよいというのが親鸞聖人の解釈です。親鸞聖人は直接は仰っていませんが、念仏で往生できると深く信じる信心で往生できる、と仰っていますので、何かの都合で念仏を称えることが仮にできなかったとしても往生できることになりますので、称えることができなかったとしても信心があれば良いことになります。
ただし、念仏で往生できると深く信じた信心を獲た人が念仏を信前も信後も称えないことは普通はありませんので、0回というのは理論上ではそれもあり得る程度に理解されるのが良いと思います。

投稿: 飛雲 | 2020年8月 9日 (日) 17時36分

飛雲先生。回答ありがとうございます。

まだ少し私の理解が足りないので、再度確認をさせていただきますが、つまり、他力念仏者は臨時の一念で極楽に行って仏になれるが、自力念仏者は極楽自体には行けるが化土往生なので、蓮華の中で12大劫という時間がかかるという解釈でよろしいでしょうか?

投稿: fag | 2020年8月 9日 (日) 18時03分

親鸞聖人は、下品下生の往生で、化土往生の説明をされていませんので、そこは判りません。
化土往生してから12大劫後に報土往生するというように親鸞聖人は解釈されていたのではないかとも思いますが、そこは定かではありません。
私の基本姿勢は、親鸞聖人、もしくは他の善知識方がどう仰っているかをそのまま述べるだけですので、言及がないところについては、こうだという断言はしません。

投稿: 飛雲 | 2020年8月 9日 (日) 18時15分

飛雲様。

弥陀の本願は、こちらから何をするというわけでは無く、ただ弥陀の本願をそのまま受け止めなさいとのことですが、これは弥陀の本願を既に聞いてる人は「もう、聞くとかはいいからとにかく18願とおりに念仏を称えることに集中しなさい」ということでよろしいのでしょうか?

私は現在、親鸞会の会員ですが、飛雲様の記事を見て、飛雲様の進める本願寺のサイトから聴聞しようという気持ちが起きました。

しかし聞くというのは、弥陀の本願を理解できるまで聞いて、必要以上に聞く必要がないとも聞きました。

私は一応このサイトを通して、飛雲様から、念仏称えるだけで救うことに疑いがなくなる他力の念仏を唱えることが、大事ということを学ばさせていただきましたが、これ以上はもう「聞く」とかなどの行はせずに念仏だけに集中した方がいいのかな?と思い質問をさせていただきました。

投稿: 知りたい人 | 2020年8月 9日 (日) 20時54分

知りたい人様

聞く必要が無いとか念仏に集中するとかそういうことではありません。
聞くとは、「念仏を称えた者を往生させると誓われたのが阿弥陀仏」という話を聞くのです。「念仏を称えて往生できると深く信じる」信心を獲られることができれば良いので、「念仏を称えた者を往生させると誓われたのが阿弥陀仏」という話を聞くことは真宗では推奨されます。同じ理由で、自力ではあってでも念仏一行になっている人は、「念仏を称えて往生できると深く信じる」信心を獲られることがいつかあると法然上人も親鸞聖人も教えられていますので、念仏を推奨されるのです。
問題は、聴聞であれ念仏であれ、自力の行に拘ることは誡められます。他力の信心を獲るその過程に自力の聴聞、自力の念仏があるということであって、自力の聴聞、自力の念仏でいいや、と考えるのは間違いです。
そこはよく弁えないといけません。

投稿: 飛雲 | 2020年8月 9日 (日) 21時12分

飛雲様。回答ありがとうございます。

自分で何かをしなければ...という風にこだわるのが既に自力なのですね。
私は念仏する時にはやはり正座で念珠を持って念仏しなければと考えています。
漫画を読みながらとか、寝そべりながら念仏はなんか良くない気がする...と思っていますがこれもやはり自力になってしまうのでしょうか?

投稿: 知りたい人 | 2020年8月10日 (月) 09時22分

もちろん自力です。
自力を無くすのはあなたでもなければ私でもないし、善知識でもありません。
阿弥陀仏がなされることですので、おまかせするだけです。
こちらとしては
念仏を称えたものを往生させる
の誓いを信じて背かなければ、いつかの時点で信心が獲られます。それが今なのか今日中なのか明日なのか一ヶ月後か一年後かだけです。

投稿: 飛雲 | 2020年8月10日 (月) 11時25分

再度質問すみません。質問が追加で3つございます。

一つ目の質問です。
大無量寿経下巻の4・疑惑訓誡に「若し衆生有りて明らかに仏智乃至勝智を信じ、諸くの功徳を作り、信心廻向せん。此の諸の衆生、7賽華の中に於て自然に化生し...」というのがあり気になりました。これは普通に読むと仏のことを信じて諸々の善をすれば化生と書いてあるように見えます。
ただ、この文章の前に胎生の者についての説明があったので、これは胎生のものが化生する条件なのでしょうか?

二つ目の質問です。
大無量寿経下巻の二・諸行往生にて、往生するものに三輩有りとあり、ここも気になりました。
上輩は家を捨て、欲を捨て、沙門となり、菩提心を起こして、一向に無量寿仏を念じ、諸の功徳を収めて極楽に生まれたいと思い、化生する。
中輩の者も、上輩のものほどではないけど、善を納めて、一向に無量寿仏を念ずることで、往生する。
そして下輩のものは、善は出来ないけど一向に無量寿仏を念じて往生を得るとあります。
功徳や智恵は、上輩>中輩>下輩のものと書いてあり、まず上輩と中輩のものは、捨てなければならない善を納めてなぜ往生出来るのか?、また何故、下輩のものの方が劣るというような表現も気になり、ん?となったので質問させていただきました。

3つ目の質問です。
弥陀の18願は、至心信楽欲生我国乃至十念ですが、これは至心信楽の心(弥陀の本願に対する疑いが無い真の心)で弥陀の国に生まれたいと思い念仏する人が生まれられなかったら、仏になりません...という誓いでいいのですよね?
そして、至心信楽の心は、自分で起こすような心では無く、そういった心で念仏を称えようとしてる者に対して、弥陀が与えてくれるという解釈でいいでしょうか?

投稿: 知りたい人 | 2020年8月10日 (月) 20時51分

1つ目の質問については、
引用の文の前が、親鸞聖人が化土往生の根拠とされた箇所ですので、引用の箇所は報土往生の根拠と親鸞聖人は解釈されていたことになります。しかし、親鸞聖人はここを引かれてはいないので、それ以上のことは想像にしかなりませんので、私からは言いません。

2つ目の質問については、
親鸞聖人は、19願の成就文と解釈された箇所です。つまり、方便の箇所であり、しかも親鸞聖人はそれ以上の言及がないので、これも私からはこれ以上言いません。

3つ目の質問については、
それでよいと思います。

投稿: 飛雲 | 2020年8月10日 (月) 21時10分

もしよろしければ飛雲様のメールアドレスを教えていただけないでしょうか?

投稿: | 2020年8月14日 (金) 09時57分

hiunto1@gmail.com
です。

投稿: 飛雲 | 2020年8月14日 (金) 10時01分

>hiunto1@gmail.com
です。

飛雲様。
ありがとうございます。

投稿: | 2020年8月14日 (金) 11時44分

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