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2020年8月

2020年8月30日 (日)

三願転入に対する親鸞会の妄想6

最近の親鸞会は、困ったときの因果の道理だのみで、善の勧めの根拠を出せと迫られると、

仏教の根幹は因果の道理だ

ときます。バカも休み休み言え、と言いたいですが、そもそも親鸞会では因果の道理を本気で信じているのかといえば、ノーです。
理由は簡単で、浄土門で教える最善最高最上の善因は、念仏であるのに、念仏よりも親鸞会の活動が絶対と考えているからです。

一応根拠を紹介しておきます。『教行信証』化土巻に

元照律師の『弥陀経の義疏』にいはく、「如来、持名の功勝れたることを明かさんと欲す。まづ余善を貶して少善根とす。いはゆる布施・持戒・立寺・造像・礼誦・座禅・懺念・苦行、一切福業、もし正信なければ、回向願求するにみな少善とす。往生の因にあらず。もしこの経によりて名号を執持せば、決定して往生せん。すなはち知んぬ、称名はこれ多善根・多福徳なりと。むかしこの解をなしし、人なほ遅疑しき。近く襄陽の石碑の経の本文を得て、理冥符せり。はじめて深信を懐く。かれにいはく、〈善男子・善女人、阿弥陀仏を説くを聞きて、一心にして乱れず、名号を専称せよ。称名をもつてのゆゑに、諸罪消滅す。すなはちこれ多功徳・多善根・多福徳因縁なり〉」と。

(現代語訳)

元照律師の『阿弥陀経義疏』にいっている。
「釈尊は、念仏の功徳がすぐれていることを明らかにしようとされ、まず念仏以外の善を劣ったものとしてわずかな功徳しかないといわれる。布施をし、戒律をたもち、あるいは寺を建て、仏像をつくり、仏を礼拝し、経を読み、または座禅をし、懺悔し、苦行するなどのすべての善は、もし正しい信がなかったなら、そのような善によって浄土に往生しようと願っても、みなわずかな功徳しかなく、往生の因ではないのである。もし、『阿弥陀経』の教えにしたがって念仏するなら、間違いなく往生するであろう。だから念仏は多くの功徳があると知ることができる。
かつて、わたしはこのような解釈をしたが、世間の人はなお疑って信じなかった。しかし最近、襄陽の石碑に刻まれた『阿弥陀経』の文を見たところ、わたしの解釈と見事に一致しており、そこではじめて深く信じるようになったのである。その文には次のように説かれている。<善良なものよ、阿弥陀仏について説かれるのを聞いて、心を乱すことなくただひとすじに名号を称えるがよい。名号を称えることにより、あらゆる罪が除かれる。すなわち念仏は多くの功徳をそなえて行である>」

とあります。難しい内容ではないので、読まれた通りですが、念仏は「多功徳・多善根・多福徳因縁」ですが、諸善はその反対で「少功徳・少善根・少福徳因縁」です。
ここで言う念仏は自力の念仏です。

鈍い会員のために譬えで解説します。

1日働いて100円の炎天下での重労働
1日働いて100万円の誰でもできるエアコンの利いた部屋での軽作業

どちらを選択するのか、という話です。
こんな極端なことは世の中にない、と思っている人がいたら、井の中の蛙でしょう。こんなことは世界中で実際によくあります。実例は自分で調べてみてください。

より良い果を求めるなら、より良い因を求めるのが、因果の道理を信じている人の行動でしょう。そして、自力の念仏は諸善とは桁違いの功徳があるのですから、親鸞会の非効率で無意味な活動をしている暇があるのなら、念仏を称えた方が、余程、良い結果を得られるでしょう。それなのに、発展途上国最貧困層の労働環境並みの親鸞会の活動をしている会員は、因果の道理を信じていないか、あるいは今の労働環境が世界最高だと騙されているののどちらかでしょう。

因果の道理を信じている、より良い結果を求めている、更には無常迅速と思っているのであれば、親鸞会の最悪最低最下の活動をすることはあり得ません。

もう一度言います。

自力の念仏は、多功徳・多善根・多福徳因縁
諸善は、少功徳・少善根・少福徳因縁

高森流宿善論が正しいとして、何が最も宿善を厚くすることになるか考えてみましょう。

再度、高森顕徹会長の『なぜ生きる2』11章にある

 無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。

を読んでみてください。
これが、真宗の教えであるかどうか、20願を通ったことのある人物の言葉であるのかどうか、僅かに思考が残っていれば、答えは明々白々です。

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2020年8月22日 (土)

三願転入に対する親鸞会の妄想5

10年前のmixiでの最大の論点は、

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉があるなら出して

でした。
答えは、無い、ですので、最初から決着していましたが、ごちゃごちゃ誤魔化し続けていただけで、それは『なぜ生きる2』でも変わりませんでした。
6章にこうあります。

 もし三願転入の弥陀の救いが、親鸞聖人や一部の人に限定されることならば、十九願の人々に、折れず曲がらず速やかに二十願に進めよの、聖人の励ましは『教行信証』になかったであろう。
 それが幾たびも見かけるのだ。

 総ての人々よ。十九の願から二十願に進んでおくれ。必ず十八願・選択の願海へ転入させて頂けるのだから。

 以下は、その文証である。

  それ濁世の道俗(すべての人)、速に円修至徳の真門(二十願)に入りて、難思往生を願うべし」(『教行信証』化身土巻・末)

 特定の人を「濁世の道俗」とは言われない。三願転入は、すべての人の道程だから「濁世の道俗」と言われているのである。

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉はありませんので、参考までに親鸞聖人が20願を勧められたお言葉をmixiで教えてあげたのですが、それを『なぜ生きる2』では19願を勧められたお言葉であるかのように偽装したのです。

偽装しようが詭弁を使おうがまとめるとこうなります。

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉はない。
親鸞聖人が20願を勧められたお言葉はある。

この事実を普通に判断するなら、親鸞聖人が三願転入の道程を全人類に当て嵌められていないことと、20願から18願への転入という親鸞会的言い方をするなら二願転入を積極的か消極的かは別として認められていたことが判ります。

言葉を代えてまとめると、

親鸞聖人は三願転入を否定的に看做されていた。
親鸞聖人は二願転入を肯定的に看做されていた。

こうとしか言えないのです。
一応言っておきますが、親鸞聖人は上記のように20願を一応は勧められていますが、三願転入の直前に仰った20願の結論として

悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。

(現代語訳)

悲しいことに、煩悩にまみれた愚かな凡夫は、はかり知れない昔から、迷いの世界を離れることがない。果てしなく迷いの世界を生れ変り死に変りし続けていることを考えると、限りなく長い時を経ても、本願力に身をまかせ、信心の大海にはいることはできないのである。まことに悲しむべきことであり、深く嘆くべきことである。大乗や小乗の聖者たちも、またすべての善人も、本願の名号を自分の功徳として称えるから、他力の信心を得ることができず、仏の智慧のはたらきを知ることがない。すなわち阿弥陀仏が浄土に往生する因を設けられたことを知ることができないので、真実報土に往生することがないのである。

と仰っているので、親鸞聖人が積極的に20願を勧められているとは言えません。

つまりは20願の勧めは微妙でありますが、19願の勧めは明確に否定されているのです。

この単純な理屈をmixiで知らされた高森顕徹会長が、mixiで絶句した悔しさを『なせ生きる2』でぶつけたという訳です。

益々評価を下げた高森会長でした。

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2020年8月15日 (土)

三願転入に対する親鸞会の妄想4

前回、『教行信証』行巻に二か所も取り上げられている釈尊の浄飯王に対する御説法について述べました。
ここだけ見ても、親鸞聖人が三願転入という道程を否定されていることが普通の知能を持っていれば理解できることです。
釈尊は、レベルの高い善ができると自惚れていた浄飯王に対して、その善はもちろんですが、もっとレベルを下げた善さえも勧められずに、いきなり念仏を勧められています。そのことを親鸞聖人は『安楽集』と『五会法事讃』の2つの根拠を出されているのですから、往生のためにいきなり念仏を勧めることが、親鸞聖人の教えであり、『教行信証』の内容だと言えます。

このように言うと、

親鸞聖人は信心1つで往生できることを教えられた
親鸞聖人は聞く1つで助かることを教えられた

このように反論する人が、親鸞会も含めて他にもあると思います。
これまで何度も言っていますが、ここで親鸞聖人が仰っていることは、すべて同じ意味なのです。信心、聞くことを勧めるのは正しいが、念仏を勧めるのは間違いだ、という発想が根拠のない考えなのです。

高森顕徹会長の『なぜ生きる2』11章にある

 無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。

がその典型でしょう。釈尊の浄飯王に対する御説法、そしてそれを二度も紹介された親鸞聖人のことを「平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である」と痛烈に非難しているのです。

一応説明しておきますが、行巻にある念仏とは他力の念仏のことです。

つまりは、最初から他力の念仏を勧めるのが親鸞聖人の教え、言い換えると18願だけを勧めるのが親鸞聖人の教えだと言うことになるのです。

ただし、皆さんが懸念されるように最初から他力念仏を称えることは、極めて稀ですので、結果的には他力念仏を勧められながら自力念仏になってしまうだけです。ここで捻くれた考え方をすると、他力念仏になるまで自力念仏は称えなくてよい、となるのですが、それは他力念仏を称えるつもりでも自力念仏になっていることはありますが、他力念仏になったことを確認するまで念仏を称えなければ、いつまで経っても他力念仏を称えることはありません。
昔、高森会長が言っていた聴聞に近いことで、この一座で信心を獲ると思って法話を聞くと、信心を獲た、ということがあるのですが、信心を獲るまでは自力の聴聞だから聞かない、と言っていたら法話を聞いて信心を獲ることがないのと同じです。

親鸞聖人は他力念仏を最初から勧められています、だから自力念仏の勧めのお言葉は探さないと見つからないほどしかありません。
それは、自力念仏に留まることを誡められたのであって、自力念仏自体を否定されたのではありません。

『浄土和讃』には

定散自力の称名は
 果遂のちかひに帰してこそ
 をしへざれども自然に
 真如の門に転入する

とありますように、自力念仏から他力念仏への転入を教えられています。言い換えると20願から18願への転入ですが、19願に関しては無視されているのです。

これをこれまで何度も言ってきたのですが、これに対する高森会長の会員向け反論が、

それでは三願転入ではなく二願転入ではないか

でした。その通りで、基本、親鸞聖人は二願転入を教えられていて、御自身も含めて三願転入という人も稀にある、くらいの話なのです。
したがいまして、三願転入という言葉を、親鸞聖人も覚如上人、蓮如上人も仰ったことがなく、後の学者が創作した言葉であり、三願転入という概念もそこから発生したことです。そんなことも知らずに三願転入を声高に叫ぶことが愚かです。

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2020年8月 6日 (木)

三願転入に対する親鸞会の妄想3

10年前のmixiでの法論で、退会者が最初から最後まで一貫して高森顕徹会長に問い続けたことは、

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉

でした。そして最初から最後まで高森会長は根拠を出しませんでした。いや、出せませんでした。無いからです。
法論で負けた悔しさから書いた『なぜ生きる2』でも、

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉

は当然出していません。書いていることは、高森流創作譬喩ばかりです。
一応言っておきますが、三願転入は全人類共通の道で必ず19願を通らなければならないのならば、親鸞聖人が19願を勧められているはずです。19願を通らずして20願そして18願に入ることができないのですから、まずは19願を実践しましょう、と親鸞聖人がどこかに仰っていなければ、高森流三願転入論は破綻するのです。

ですから、

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉

この問い一つで、高森会長の嘘が見抜けるのです。
ただし、一度だけこの問いに答えたことがありました。その答えは、

『教行信証』全体

でした。これは、親鸞聖人のお言葉はありません、と白状した返答です。『教行信証』のお言葉を1つも出していないので、子供の悔し紛れの返答レベルでしかないのです。

さて、親鸞会の諸君は、この事実をどう判断するのでしょうか。会員に尋ねてみたことがありますが、ある幹部は「19願を勧められたお言葉などあるわけない」と開き直って、それで三願転入論を語るのです。こんな破綻思考の幹部よりも高森会長の方が余程賢いでしょう、少なくとも高森会長はこちらの意図を理解できているのですから。

なお、『教行信証』全体に書かれてあることは、18願で救われるのに、三願転入する必要はない、ということです。
簡単な例で言えば、行巻にある釈尊が浄飯王に念仏三昧を勧められたところや、信巻にある阿闍世の物語です。この2つのエピソードは、親鸞聖人が『教行信証』の中で、かなり力を入れて書かれている箇所でもあります。釈尊が実在の人物に対してどのように導かれたかですので、七高僧の解釈や理論、親鸞聖人独自の解釈や理論ではない、仏の説法として親鸞聖人が紹介された阿弥陀仏の救いの真髄なのです。

この2つのエピソードに共通することは、釈尊が浄飯王と阿闍世に、善を勧められていないことです。浄飯王は、善をする気満々であったのに、釈尊は「できないから、念仏三昧を勧めるのだ」とあっさりした説明をされただけです。自惚れている人には一度、やらせてみてできないことを知らせてから、という回りくどい話は全くありません。

原文は以下

父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまふ。父の王、仏にまうさく、「仏地の果徳、真如実相、第一義空、なにによりてか弟子をしてこれを行ぜしめざる」と。仏、父の王に告げたまはく、「諸仏の果徳、無量深妙の境界、神通解脱まします。これ凡夫の所行の境界にあらざるがゆゑに、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる」と。

(現代語訳)

世尊は、父である浄飯王に念仏三昧を修めるようにお勧めになった。父の王は世尊に、「仏のさとりの徳は真如実相第一義空とのことでありますが、それを観ずる行を、どうして弟子であるわたしに教えてくださらないのですか」とお尋ねした。 世尊は父の王に、「仏がたのさとりの徳は、はかりがたい深い境地であり、仏は神通力や智慧をそなえておいでになります。これはとうてい凡夫が修めることのできる境地ではありません。そこで、父の王に念仏三昧を修めることをお勧めしたのです」と仰せになった。

如来つねに三昧海のなかにして、網綿の手を挙げたまひて、父の王にいうてのたまはく、「王いま座禅してただまさに念仏すべし。あに離念に同じて無念を求めんや。生を離れて無生を求めんや。相好を離れて法身を求めんや。文を離れて解脱を求めんや」と。

(現代語訳)

釈尊は父である浄飯王に、「王よ、今静かに座して念仏すべきであります。念を離れて無念を求め、生を離れて無生を求め、姿かたちを離れて法身を求め、言葉を離れて言葉の及ばない解脱を求めるというような難しいことが、凡夫にどうしてできましょうか」と仰せになる。

次に阿闍世ですが、阿闍世は信を獲た後にこう告白しています。

世尊、われ世間を見るに、伊蘭子より伊蘭樹を生ず。伊蘭より栴檀樹を生ずるをば見ず。われいまはじめて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る。伊蘭子はわが身これなり。栴檀樹はすなはちこれわが心、無根の信なり。無根とは、われはじめて如来を恭敬せんことを知らず、法僧を信ぜず、これを無根と名づく。

(現代語訳)

世尊、世間では、伊蘭の種からは悪臭を放つ伊蘭の樹が生えます。伊蘭の種から芳香を放つ栴檀の樹が生えるのを見たことはありません。わたしは今はじめて伊蘭の種から栴檀の樹が生えるのを見ました。伊蘭の種とはわたしのことであり、栴檀の樹とはわたしの心におこった無根の信であります。無根とは、わたしは今まで如来をあつく敬うこともなく、法宝や僧宝を信じたこともなかったので、これを無根というのであります。

善の勧めはありませんから、もちろん19願の勧めもありません。

『教行信証』全体を読んだことが無いどころか、『教行信証』の一部も読んだことが無いから、寝とぼけた三願転入論を口にできるのでしょう。

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