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2020年7月29日 (水)

三願転入に対する親鸞会の妄想2

とくよしみねさんからのコメントがありましたように、8月29日に愛知県刈谷市で勉強会を開催予定です。
詳細は
とくよしみねの「なぜ生きる」
で確認して、参加を希望される方は、とくよしみねさんにメールで連絡をしてください。

こういう時期で人数制限があり、当日突然参加ということは難しいと思われますので、事前に連絡をお願いします。

さて、高森顕徹会長は18願の「唯除五逆誹謗正法」を「十方衆生」の実機を顕わされた箇所として説明していますが、出鱈目です。結論を先に言いますと、親鸞聖人の教えを真面目に聞いている皆さんは、五逆でも謗法の者でもありません。
唯除五逆誹謗正法」の直接の解釈は『尊号真像銘文』にしかありません。

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

です。
つまり、18願には「唯除五逆誹謗正法」というお言葉があるから、18願の「十方衆生」から洩れたものはないと仰っているのです。逆にいえば、「唯除五逆誹謗正法」のない19願・20願の「十方衆生」には、洩れているものがいるということです。
要するに、「十方衆生」の中に五逆誹謗正法の者がいるという意味にしかなりません。
前回も述べましたが、19願の「十方衆生」は聖道門の行ができる人であり、聖道門の行のできない我々は19願の「十方衆生」には含まれていないのです。

では、「唯除五逆誹謗正法」が「十方衆生」の実機、機の深信だというのは、高森会長の創作かといえば違います。そんな高度な創作ができるほどの知恵は高森会長にはないでしょう。
もうお判りかと思いますが、大沼法竜師からのパクリです。
『本派本願寺の危機 どちらが異安心か』にはこのようにあります。

 本願寺の総長を始め勧学のお歴歴から頭の切り替えをやらなければ真宗の復興は望めない。君達は第十八願や成就の文を有難がって見て居るのであって十八願の身になる事を忘れて居るのだ、至心信楽の文に陶酔し、至心に廻向せしめ給えりに酩酊して麻痺状態となり、阿片やヒロポンに中毒されて萎靡沈滞して活動能力を失うて居るのだ、第十八願の文を見て自分は至心信楽己を忘れて乃至十念の称名を称えて居るから死にさえすれば往生に間違いはない、仏様が若し生れささずんば正覚を取らずと仰せられたのが、既に十劫の昔に正覚を成就して居らるるから十劫の昔に助かって居るのだと安心して居るが、君達は文面を見て裏面を読んで居ないのだ。唯除五逆誹謗正法とは誰の事かい、勧学だと威張って居る君達の事だぞ、除かれて居るとも知らずにのさばりかえって居るが、それだから開発の一念を知らないのだ、若不生者不取正覚とは生れさすとは死後の事しか知らないのだろう、心命終を忘れたか、君の逆謗の屍を今心命終ささなければ正覚を投げ出すぞと言うことだよ。成就の文にしても至心に廻向して貰ったか、不可称不可説不可思議の功徳は行者の身に満てりと有るが、三千世界の果報者は自分一人と言う満足が有るか、観念の遊戯だけして居るのだからそんなはっきりした事は有るまい、何を廻向されたか、上に向えば法体の大行、下に向えば当果決定、誰が頂くのだ、諸有衆生、その腹底は、唯除逆謗、おいおい君達、素直に聞いて居ればよいと言うような対岸の火事のような話ではないぞ、君が邪見驕慢の逆謗の屍ではないか、その機に久遠劫から付き纏い、至心に廻向し給いいて聞即信の一念に法体の大行を全領し同時に住不退転の当果を決定さして頂くのだが、文面を読んで眺めて通って居るのだから何とも有るまい、これが実地に諦得出来たのなら信前信後の水際鮮かに今こそ明らかに知られたりと大慶喜せずには居られないのだ、その初起の一念を信一念と名前を付けるのだ、時尅に何の関係が有るのだ、味に用事が有るのだ、本当に大満足の出来た人なら実時は判らないが仮時ならあの時であったと言えるのだ、君達にはあの時もこの時もないのだ、御経やお聖教を読んで通って見て感じただけだから自分の実機とは無関係だから観念の遊戯に過ぎないのだ、勧学で有りながら実地の体験がないのだから、晴れたのやら暮れたのやら、水際もなければ角目もない、……

当時の本願寺派勧学を批判した内容です。当然ながら、大沼師の味わいであり、聖教上に根拠のあることではありません。

高森会長は、大沼師の独特の味わいと聖教の内容との区別が全くついていません。なぜなら、聖教を読んだことがないからです。

「十方衆生」=全人類

というちょっとおっちょこちょいな解釈をしているのも、すべて、聖教を読んでいないことが原因です。

なお、私は聖教に書かれてあることをそのまま述べているに過ぎませんので、私の言っていることが間違いだと反論するのであれば、それは聖教が間違っているか、もしくは聖教の解釈が間違っていることを証明してください。

味わいと聖教上の根拠とは違いますので、その程度の分別はもってもらいたいものです。

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コメント

急にすみません。以前、41願の他方国土の菩薩について質問したものです

大無量寿経の41願に、「他方国土の諸菩薩が、名号を聞くと障害がなくなる」という願があります。その願について、信心決定したもの(必定の菩薩)は身体に障害がなくなると解説してある本があり、だったら身体障碍者の方が救われないではないか、自分も体の不調などが治るのが信心決定の証拠ではないか、と不審が出てきました。

 そこで、様々な善智識の方に、「必定の菩薩というのは名前だけで、凡夫は凡夫」とか「42願以降を見ると超人的な菩薩への願だということが分かる」とおさとしいただいて、頭では納得したのですが、胸が承知してくれません。この41願への(誤った)解釈が、頭から離れません。
 
 最近は、もう、「信心決定したものは諸根が具足する」という思いは薄くなってきて、頭の中に「41」という数字が浮かぶようになってきました。それを自分の「助かっていない証拠」だと思い、薄気味悪い気持ちになっていました。

 他の善智識様は、「それは学問上の疑問だから、晴れることはない。その気持ちを持ったままで、救う南無阿弥陀仏だと聞き入れてください」「お助けは広大だからそのような不審は邪魔にならない」とおっしゃってくださって、だいぶ心配はなくなりましたが、教義的にも問題ないのでしょうか。これは「本願疑惑心」「計らい」「自力心」ではないのでしょうか

 南無阿弥陀仏(そのまま救う)に疑いがなければ、このような変な不審は持っていてもいいのでしょうか。他の善智識様は持っていてもいいと仰っていたのですが、仏法に油断は禁物と聞いているので、教義に詳しい飛雲さんに、教義的この不審(生起本末に疑いが晴れてるのに、身体はよくなってないのはおかしいじゃないかという)は持っていてもいいものなのか、ご教授頂きたいです。この不審が間違っているのは重々承知です。ただ、胸から離れてくれません。

南無阿弥陀仏や仏願の生起本末に疑いはありませんが、この不審だけが、念仏するたびに頭に浮かびます。

 長文失礼しました。お答えいただけると幸いです。お忙しかったら大丈夫です。

投稿: 名無し | 2020年7月30日 (木) 21時50分

浄土三部経にしろ、阿弥陀仏の本願にしろ、記述に前後があっても内容は前後が無いと味わえるようになりました。
五劫思惟されたのだから、と言われもしょうが、限界はあるのでは、と味わえるようになりました。なんまんだぶ

投稿: お経の味わい方をこうしている者 | 2020年7月31日 (金) 07時08分

名無し様

以前にも言いましたように、41願は菩薩に対しての願、つまり聖道門で修行している初地以上の菩薩に対しての誓いだと解釈すべきだと思います。親鸞聖人は41願について言及がないので、それ以上のことは言えません。

「本願疑惑心」「計らい」「自力心」は18願に対するものですから、41願について不審があっても全く問題がないですし、名無しさんの場合は解釈の問題による不審ですから、18願の救いとは無関係です。

投稿: 飛雲 | 2020年7月31日 (金) 07時22分

飛雲様。いくつか質問がございます。

1.仏も方もないと仏教を根幹から否定するような人が謗法ということですが、間違えた教えを伝えることは謗法になるのでしょうか?

2.自力の念仏だと、化土往生ということですが、ということは親鸞会の皆さんは講師の方含めて、化土往生なのでしょうか?

3.自力の念仏を称える人は化土ということですが、これはかつて謗法罪、五逆罪を作ったことがあったけど、今は自力の念仏を称えている人も当てはまるのでしょうか?

4.念仏を称えるときの場所はどこでもいいのでしょうか。

投稿: ハセー | 2020年8月 1日 (土) 18時36分

ハセー様

1.間違いと言っても根本的に間違っていなければ謗法罪ではありません。阿弥陀仏はアラーの神と同じだとか言ったりするのは謗法罪と言えるでしょう。

2.自力の念仏とは、浄土往生を目指しての念仏のことです。親鸞会は、絶対の幸福を目指していますが、浄土往生を目指しているかどうか疑問です。

3.過去の罪は関係ないですから、上記の自力の念仏なら化土往生です。

4.念仏に場所は問いません。

投稿: 飛雲 | 2020年8月 1日 (土) 19時10分

飛雲様。

現在、私は親鸞会の一員ですが、飛雲様の記事を見て心が飛雲様の方に寄ってきました。
ただ、いくつか質問があります。

1.根本的に間違えた教えでなければ、謗法にならないとのことですが、私は過去に親鸞会員の方の通信講座で教わった教えをもとにして二次小説を書いたことがあります。
主な内容としては、廃悪修善をすることで真実の自己が見えてきて本当の自分がハッキリした時に絶対の幸福になれること、人は心体口で常に悪を作り、本当の善を一つもしたことが無いこと、苦悩の根源は無明の闇で死んだらどうなるか分からないこと、を書きました。
その時の私はまだ、弥陀の本願については通信講座では教えられておらず、「真実の自己が分かる=絶対の幸福」という教えられた範囲まで書いて後は「何故、真実の自己が分かる=絶対の幸福なのかはまだ通信コースでは明らかにされておらず、分かったら続きを書きます」という形で二次小説を終了しました。これはやはり謗法に当たるのでしょうか?
謗法の者も救われると教えていただきましたが、無間地獄が頭にチラつく時が多く、質問させていただきました。

2.極楽で楽がしたいという気持ちで念仏を称えるのはダメと聞いたことがあります。しかし極楽浄土は素晴らしい世界で「あらゆる楽を受けられる」と聞いて是非そんな世界に行きたいと思う方が多いと思いますが、その気持ちのままでは駄目なのでしょうか?

3.私は親鸞会に入った時に、親鸞学徒用の、数珠、後文章、正信偈を渡され、真宗聖典も購入しましたが、他に購入した方が良い書物などはあるでしょうか?

4.御文章や正信偈を念仏称える前に読むのはやった方が良いとのことですが、五正行の内の弥陀の浄土を観ずるというのはやった方が良いのでしょうか?
現在私は朝晩のお勤めの時に、正信偈を読む→弥陀の浄土を観ずる→念仏という流れで行っております(その他の五正行はお仏壇が無いなどの理由からやって無いです)。
ただ弥陀の浄土を観ずるというのは何だか定善をやってるみたいで、気になったので質問しました。

投稿: ハセー | 2020年8月 2日 (日) 17時12分

ハセ―様

真面目に質問される方には、こちらも真面目に答えます。

1.ハセ―さんの程度のことで謗法罪にはなりません。親鸞聖人は、念仏の教えを曲げて教えている者は地獄だと仰っていますが、それを信じた人は地獄ではないと仰っています。親鸞会の教えを信じただけのハセ―さんが謗法罪になることはありません。

2.韋提希は『観無量寿経』の中で、「清らかな世界に往きたい」と願いました。「あらゆる楽を受けられる」とはニュアンスが違うと思います。穢れた世界から清らかな世界、苦しみの世界から苦しみを離れた世界、ということであって、煩悩を満たす「楽」ではありませんので、もし煩悩を満たしたいということであれば、ずれていると言えます。

3.本願寺出版社から出ている『浄土真宗聖典(註釈版)』をまずはお勧めします。理由は、聖教が載っているのは当然ですが、註釈が付いていますので、自分で聖教を読んで概ね理解できるからです。高森会長というフィルターを通して聖教を読むのではなく、原典に当たることで、聖教の意味が自分で判ります。しかし、それでも判らない点は多々ありますので、同じく本願寺出版社から出ているそれぞれの聖教の現代語訳版を読まれるのも良いです。中には、ちょっとおかしいと思われる現代語訳もありますが、仏語も文法も踏まえての訳ですから、高森訳とは比較にならないくらい忠実な訳と言えます。

4.弥陀の浄土を観ずる、と簡単に仰いますが、これがなかなか難しいことですし、それに囚われると本質を見失ってしまいますので、ほどほどに、と思います。五正行の中で念仏が正定業で、他の4つは助業です。つまり、念仏が中心で、助業は名前の通り、念仏を称えることを助ける業ですので、そのようにお考え下さい。聖教を読むことは助業ではないかと思われるかもしれませんが、これは念仏の心を知るための業であり、念仏の心を受け取ることがそのまま信心ですので、聖教を読むという業に拘るのではなく、念仏の心を知ることに拘るということです。

投稿: 飛雲 | 2020年8月 2日 (日) 17時45分

飛雲様。

ご丁寧な対応をありがとうございます。
教えられたことを元にこれからも頑張りたいと思います。

投稿: ハセー | 2020年8月 2日 (日) 18時06分

>「真実の自己が分かる=絶対の幸福」という教えられた範囲

ハセーさんの受けた通信講座というのは、中村リョウ(講師部員 長南)のインチキ講座でしょうか。
あれは、こんな嘘を教え、しかもここで区切っているのですね。
(解決方法を知りければ追加料金を払えとでもいうのでしょうか)
ずいぶん売り上げをあげていると聞きました。このようなエセ仏教がたくさんでてくることでしょうね。

ちなみに、この部分は真宗とは無関係、でたらめもいいとこです。
当然、長南は自分自身このような体験はしていません(本人に聞いてみてはどうでしょうか。)。
また、このような幸福になった人もいません。親鸞聖人お救いは当然こんなものではありません。

投稿: a | 2020年8月 3日 (月) 18時02分

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