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2020年7月26日 (日)

三願転入に対する親鸞会の妄想1

10年前にmixi上での三願転入の法論が行われました。結果は、高森顕徹会長の大惨敗で、逃亡の後、トピックスを管理人に削除させるという、親鸞会史上最悪の結末でした。
これを見た親鸞会会員は、親鸞会を辞めて、高森会長の評価は地に堕ちました。この屈辱を晴らすべく書いたのが『なぜ生きる2』でした。その内容は、mixiでの法論そのままで、成長も進歩もなく、当然ながら、退会者から集中砲火を浴びた上、それまで親鸞会のことを知らなかった真宗10派の関係者に、高森会長と親鸞会の無知と出鱈目創作教義が広く知らされる結果となりました。現在、『なぜ生きる2』は、親鸞会内部でも話題にされることがなくなっています。

昨日、三願転入についてコメントしてきた会員らしき人がありましたので、少し解説しておきます。

『なぜ生きる2』10章に

 弥陀は十九願を建てて善を勧め、釈迦が一代、廃悪修善を説かれたのは、知った分かったの観念の遊戯ではなく、実地にやらせるためであったと、聖人は仰せになっている。

以下は、その文証である。

然るに濁世の群萌・穢悪の含識、乃し九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入ると雖も、真なる者は甚だ以て難く、実なる者は甚だ以て希なり、偽なる者は甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋し。
ここを以て、釈迦牟尼仏、福徳蔵(十九願)を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本、誓願を発して普く諸有海を化したまう。既にして悲願有す、「修諸功徳の願」と名づく
                              (『教行信証』化身土巻・本)

mixiでも最初に出してきた高森会長の完全な妄想です。

まず学問的な知識として。

半満」とは、半字教と満字教のことです。『涅槃経』に、子供に文字を教える時に、最初は半字を教えて、後で満字を教えるということから、釈尊もお弟子に半字教から満字教を教えていかれた、とあります。ここで、半字教は小乗教、満字教は大乗教という意味になります。
権実」とは、権教と実教のことです。満字教(大乗教)の中で、権仮方便の教えと真実の教えとがあるということです。
半満・権実」は、二双四重の教判でいえば、竪出・竪超のことです。
『教行信証』化土巻に

おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。

(現代語訳)

総じて釈尊が説かれた教えの中で、この世界で聖者となってさとりを得るのを聖道門といい、難行道という。この聖道門の中に、大乗と小乗、漸教と頓教、一乗と二乗と三乗、権教と実教、顕教と密教、竪出と竪超がある。これらはすべて自力の教えであり、衆生を真実に導くための、仮の手だてとして説かれた教えである。

あり、この「半満・権実」が「大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超」です。

『愚禿鈔』では

一には大乗の教、二には小乗の教なり。
大乗教について、二教あり。
 一には頓教、        二には漸教なり。

難行聖道の実教なり。いはゆる仏心・真言・法華・華厳等の教なり。

難行道 聖道権教、法相等、歴劫修行の教なり。

小乗教について、二教あり。
 一には縁覚教    一に麟喩独覚、二に部行独覚。
 二には声聞教なり。 初果・預流向、第二果・一来向、第三果・不還向、
           第四果・阿羅漢向、八輩なり。

にあたります。

権実」というと18願が実と思われるかもしれませんが、「難行聖道の実教」を指しています。従って、「半満・権実」で、聖道門のことを総称して仰っているのです。

聖道門の人が親鸞聖人のこの御文を読めば、聖道門の修行をしている人のことを指すというのが、常識としてあります。

その上で、親鸞聖人は、「真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。」と仰っているので、聖道門の中でこうだという話です。
この親鸞聖人の思想の根本にあるのが、

法然上人の『西方指南抄』(親鸞聖人御真筆)に

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也。

とあることです。法然上人が仰ったことは、「諸行之人」です。「無行之人」ではないです。

また親鸞聖人が間違いない人と尊敬されていた隆寛律師は

先師律師つねにのたまはく、隆寛こそ十九願の機よ。其故は、本と円宗の菩提心を発して、聖道の出離を期せしほどに、末法に生をうけたる身、涯分をしる故に、聖道の出離の叶ふまじきいはれを心得て、浄土門に入れるなり。

と言われていたと弟子の記した『広疑瑞決集』にあります。隆寛律師御自身の体験から、聖道門から浄土門に入ることができたのは、19願の権仮方便によるものと味わわれたのです。

更には、大経の異訳経に

『大無量寿経』19願の「十方衆生
=『平等覚経』18願の「諸佛國人民有作菩薩道者
=『大阿弥陀経』7願の「八方上下無央數佛國諸天人民若善男子善女人有作菩薩道
諸々の仏国土の菩薩の行を行う者

とあることから、こう仰ったわけです。

もちろん、「半満・権実の法門」に浄土門の人が含まれるというのは、妄想以外の何物でもないということです。

結局のところ、聖道門で出離して成仏を目指しながら、それができないことで聖道門を断念した人のために、19願が建てられ、定散二善が説かれたという内容にしかなりません。

学問的素養もなく、文法も無視したヘンテコ解釈が通用する訳もなく、mixiでは全く反論もできずに最初から高森会長は窮地に立たされたのです。

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コメント

念仏を称えるときの心構えを教えてもらえないでしょうか。
弥陀の浄土に行きたいという心で称えればいいのでしょうか?

投稿: | 2020年7月26日 (日) 15時44分

『観無量寿経』で韋提希は浄土に往きたいと願いました。
それでよいです。

投稿: 飛雲 | 2020年7月26日 (日) 15時50分

質問を再度失礼いたします。

1.他力の念仏は弥陀にそのまま任せの心ということですが、これは20願を聞いて称える念仏は自力の念仏だが、20願の果遂の誓いにより、18願に転入して他力の念仏を称えるようになるということでしょうか?

2.他力の念仏の身になるのは、弥陀によって起こされる心なのでしょうか?自分で何とか疑う心無くして念仏を称えるという事ではないのでしょうか?

3.私は念仏を極楽に行きたいという心で称え続けていれば、そのうち自然に往生がハッキリしたという身になれると考えていますが正しいですか?

投稿: | 2020年7月26日 (日) 16時30分

1.そういうことです。

2.阿弥陀仏によって起こされる心です。

3.これも言葉上はその通りですが、自力のままでも良いという気持ちは厳しく誡められます。あくまで他力の念仏を目指されているのなら良いです。

投稿: 飛雲 | 2020年7月26日 (日) 17時21分

質問をもう一度失礼します。

1.親鸞会で進めているでは、朝晩に五正行という、正信偈や御文章を拝読してから念仏を称えるというような行いを進められていますがこれはやったほうがいいのでしょうか?
念仏はおそらくした方がいいと思いますが、その他の正信偈や御文章を拝読するというのは必要になるのか、飛雲様の教えを見て気になったので質問させていただきました。

2.親鸞会で言われる「絶対の幸福」は死後が極楽行きだと生きている間にハッキリすることだとと私は認識してますが、他力の念仏になったかどうか分かるのなら「絶対の幸福」は存在するのでしょうか?

3.アジャセは念仏を10回ほど称えただけで救われたと、聞きましたが、やはり称えた回数や年数ではなく「何としても念仏で救われたい」という気持ちが大切だということでしょうか?

4.念仏を称えていても、表面上は念仏で極楽行きたいと思っていても心のどこかでは「極楽って本当にあるのだろうか?」,「気がつくと他のことを考えてしまう」,「本当にこれで救われるのだろうか?」という気持ちが湧いてくる時、どうしても疑が拭えない時はどうすればいいのでしょうか?
これでは駄目だと、続けて念仏を称えるべきなのでしょうか?

同じような質問を何度もすみません。どうしても、死後の極楽行きを確定させたくて...

投稿: | 2020年7月26日 (日) 18時11分

1.親鸞会でも有名な香樹院師は、
   聖教を熟覧せよ
   よく聞くべし(骨折って聞け、衣食忘れて聞け、間断なく聞け、聞けない時は思い出せ)
   念仏称えよ
  と教えられています。朝晩の勤行は聖教を熟覧することになりますので、大いに推奨されるべきことです。聖教を読むことは聞くことと同義ということです。

2.絶対の幸福というのは、創価学会が言っていることで、真宗ではそのようなものはありませんし、そうならないと教えられます。
  『執持鈔』には親鸞聖人のお言葉として、

  往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。

とあります。死後のことがハッキリするのではなく、阿弥陀仏に死後のことをすべておまかせしたことがハッキリするということです。

3.阿闍世は念仏を称えてはいません。阿闍世の場合は、念仏も阿弥陀仏の本願も説かれることなく、釈尊の善巧方便によって救われています。これは念仏も阿弥陀仏の本願も、真実そのものではなく、真実を我々に判る形で示された善巧方便ですので、生きた仏である釈尊は阿闍世に合わせた対機説法をされて導かれたものです。生きた仏から直接説法を聞くことのできない我々には、念仏、阿弥陀仏の本願という善巧方便で釈尊は伝えてくだされました。したがいまして、「念仏を称えて必ず往生できる」と教えられている通り、そのまま受け取ることで「念仏を称えて必ず往生できる」という他力の信心を頂くことができるのです。

4.2と関連しますが、凡夫には信心を獲ても死後のことは判りませんので、信心を獲る前は尚更です。「死後のことが判りたい」が自力で、「死後のことをすべて阿弥陀仏におまかせします」が他力です。疑念が湧いてきたら、聖教を読む、法話を聞く、念仏を称えましょう。疑念がいつの時点でか突如消えます。それが信心を獲たことです。

投稿: 飛雲 | 2020年7月26日 (日) 20時29分

三願転入も高森顕徹会のオハコですね。

ところで近年、毎年行っている勉強会を8月29日に刈谷駅の近くで行いたいと思っているのですか、このような状況ですので迷っています。

(8月29日 刈谷 アイリス中央生涯学習センター 502)

今回は飛雲さんと私の感話を考えています。

飛雲さんのお話を直接お聞きになりたい方はぜひ勉強会にお越しください。

参加ご希望の方は、「とくよしみねのなぜ生きる」のメールアドレスか飛雲さんのアドレスにご連絡ください。

飛雲さんと相談の上、勉強会の開催はブログ上にて連絡します。


よろしくお願いします。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

とくよしみね

投稿: とくよしみね | 2020年7月29日 (水) 00時18分

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